広島女学院大学・若葉寮解体式 2003年10月2日

広島女学院大学・若葉寮解体式 2003年10月2日

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設計管理:ヴォーリス建築事務所 施工:藤田組。
米国合同メソジスト教会婦人部から贈られた資金により1952年5月に建築された。

解体式 2003年10月2日

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解体直前の若葉寮内部

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同時に伐採されるメタセコイア
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フェリス女学院2003年度ジャパンスタディーツアー

フェリス女学院「2003年度ジャパンスタディーツアー(広島)」との交流 2003年9月19日

 

参加者:一行(フィリピン、アメリカ、中国、韓国、台湾からの留学生17名、日本人学生12名=広島市立大学・広島工業大学など、教職員2名)31名+女学院学生3名、他大学学生7名、教職員5名、計46名。

時間 日程
09:20 広島アステールプラザで、丹土(たんど)美代子氏の証言を聞く。~9時50分。
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09:50 宇吹が講演。「原爆の被害とその後」、「広島女学院を世界遺産学の研究拠点に」。~11時40分。
13:30 広島城跡公園へ。高橋信雄先生のガイドで原爆遺跡めぐり。大本営跡-師団司令部地下壕(地下室見学)-被爆ユーカリ-重営倉跡。アンデルセン前を歩いて袋町小学校へ。袋町小学校平和資料館。レストハウス(地下室見学)。2陣に別れて入る。
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15:30 アステールプラザに帰る。
17:00 交流会。各国ごとに自分が受けてきた平和教育についての報告。~7時。中国、インドネシア、台湾、アメリカ、フィリピン、韓国。

 

 

 

広島女学院大学第37回原爆講座

広島女学院大学第37回原爆講座-8・6の意味するもの
朗読構成劇「夏雲」 2003年7月8日

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『中国新聞(夕刊)』(20030715)
広島女学院大で原爆朗読劇
先輩の手記題材 スライドも上映
「あの友もこの友もみんな死んだ みんな死んだ!」。あの日(八月六日)を風化させないよう広島女学院大学(広島市東区)で八日、朗読構成劇「夏雲は忘れない」が上演された。
<中略>
同校では三十六年前から毎年一回、原爆講座を開いている。ことしは職員の石谷忠之さん(48)らが学生参加型の講座を呼びかけ、朗読サークル「ブルースカイ」を結成。二月から練習に取り組んだ。構成と演出を担当した職員の土屋時子さん(55)は「平和を考えるきっかけになったのでは」と、満足そうだった。
(福井宏史)

比治山ツアー(広島女学院大学宗教委員会主催)

比治山ツアー(広島女学院大学宗教委員会主催)2003年5月17日

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午前10時集合 広島現代美術館前
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重信教授の解説に話がはずむ
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広島陸軍墓地  大東亜戦争 台湾出身戦没者供養碑
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広島陸軍墓地
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ひろしま文芸の碑
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ゲーンズ先生の墓前

 

 

広島原爆被災資料の保存(今堀3)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
3
 バーバラ・レイノルズ  広島・長崎世界平和巡礼団
  アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。
 ウ・タント
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、
国連が被災白書を作るように要請。
1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する
国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、
翌年10月ウ報告は提出。
 この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。
 金井利博  中国新聞社論説委員。
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。
1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。
 談和会  広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体
   被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。
   <以下未入力、要作業>
 世界平和アピール七人委員会
 愛知揆一  文部大臣
 佐藤栄作  首相
 中山  文部大臣
 原爆被災学術資料標本センター
  予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。
 原爆被災資料収集協力委員会  日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力
 近藤泰夫
 原爆ドーム保存
 広島折鶴の会
 浜井広島市長
  市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。
 原爆被災白書推進委員会
 原爆被災白書
をすすめる市民の会
 日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書
 茅誠司  原爆被災白書推進委員会委員長
  今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。
  原爆被災映画返還運動
 談和会
 学術会議
 中国新聞  新聞協会賞
 朝日新聞  「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」
 NHK広島
 原爆地図の復元運動
 平和文化センター
 山崎輿三郎
 原爆被災資料広島研究会
 田原伯
 佐々木雄一郎
  1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。

 

 

広島原爆被災資料の保存(今堀2)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
1  別記
2
仁科芳雄
都築正男
学術研究会議 日本学術会議の前身
原子爆弾災害調査研究特別委員会
日映ニュース映画班 特別委員会の映画部を担当
原爆記録映画
GHQ命令
原子爆弾災害調査報告集
アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料
の独占に全力をあげた。
大橋成一 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長
天野重安
玉川忠太
アメリカ原子力委員会
ABCC Atomic Bomb Casualty Comission(1948)
国勢調査(1950年) 母集団=10万人
レイノルズ
ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表
しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。
発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。
原爆乙女 独立の回復
広島市原爆障害者治療対策協議会 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協)
原子爆弾後障害研究会
福祉センター 「所感文集」
長岡省吾
原爆資料保存会
原爆参考資料陳列館 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。
平和記念資料館 1955年にはと改称、現在の場所に。
専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。
原子力平和利用展示館
1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。
巡回展覧会計画 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。
要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950)
 広島長崎原爆資料公開展  1954年 東京・日赤本社
 全国巡回展  1967年 朝日新聞社
沖縄 展覧会  1967年
大阪 万国博出品  失敗
 国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画  失敗
  (失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱
さは、目を覆うばかりである。
 中野清一・久保良敏・山手茂  被爆者の社会科学的調査
日本原水協専門委員会  「原水爆被害白書」(1961年)
リフトン   R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年)
 渡辺正治・湯崎稔  中山村調査
 今堀誠二  「原水爆時代」(上・下)
 中国新聞社  「広島の記録」(全三冊)
 広島市  新修広島市史」
長岡弘芳 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号)
広島平和文化センター 「平和の歩み」
3  別記
4 別記

 

 

広島原爆被災資料の保存(今堀)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
1
ロベルト・ユンク ベルリン大学歴史学科出身、
千の太陽よりも明るく
   Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。
遠山茂樹 昭和史
西島有厚 原爆はなぜ投下されたか
広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ
れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。
原爆資料館
ジョン・ハーシー 「ヒロシマ」
ユンク 「灰墟の光」
2  別記リンク
 3   別記リンク
4
 被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。
その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した
「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、
言わば第一次案と呼ぶべきものである。
学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、
いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート
である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。
ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。
いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。

 

 

原水爆禁止世界大会に 関する覚書

「原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)

内容

 

タイトル
はじめに
1 世界大会の継続開催
表1 世界大会の開催地・参加者数(第1~9回)
表2 世界大会の日程
表3 新しい潮流による大会開催状況
表4 原水禁3団体による大会の開催地・参加者数(昭和39~51年)
表5 統一大会の開催地・参加者数
2 大会の課題
表6 第1回大会の分科会における代表の発言内容
表7 各大会の正式名(昭和30~38年)
表8 分科会一覧(第2~4回)
表9 大会本会議(総会)における意見発表者
表10 世界大会で採択された宣言・決議・勧告(第1~9回)
表11 原水協・原水禁の大会でとりあげられた主要議題(昭和39~51年)
3 大会の基盤(国民運動性・大衆性・国際性)
表12 平和行進の概要
表13 平和行進歓迎集会の概要
表14 原水協大会・統一大会の平和行進の概要
表15 原水協による大会内外での対外活動
表16 統一大会に参加したアメリカ代表の所属団体一覧
表17 各大会に厳守・議長などがメッセージを寄せた国一覧
おわりに
付記 大会関係資料の収集に当たっては、北西允・佐久間澄・竹内武・藤居平一・三宅登・宮崎安男の各氏、および平和会館。平和親善センター・日本原水協の各機関のご協力を得ました。末尾ながら、記して謝意を表します。

はじめに

昭和29年3月1日のビキ二水爆被災事件を直接の契機として生まれた日本の原水爆禁止運動は、今日まで絶えることなく展開されている。昭和30年以降毎年8月6日に前後して開催される原水爆禁止世界大会は、各年の運動の頂点に位置するものであった。各大会は、マスコミにより大きく取りあげられ、各方面からさまざまな論評が加えられている。また、これまでにも、この運動に関する著書がいくつか出版されてきた。今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社 昭和49年)は、第1回から第10回までの大会への参加記をまとめたものであるが、同時にこの間の大会の分析を通して日本における原水爆禁止運動の特質の解明を試みた書ということができる。熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター 昭和53年)は、原水爆禁止日本協議会の指導的立場からの、また伊藤茂(編著)『平和運動と統一戦線―原水禁運動の歴史と
展望-(増補版)』(ありえす書房 昭和50年)は、原水爆禁止国民会議の指導的立場からの運動の一つの総括である。また、岩垂弘『核兵器廃絶のうねり―ドキュメント原水禁運動-』(連合出版、昭和57年)は、昭和52年以降の統一大会に関する詳細な報告書である。しかし、これらの著書は、いずれも対象とする時期が限定されたり、分裂した運動の一方の立場に立った総括であり、日本で30年近くにわたって展開されてきた原水爆禁止運動の全体を対象としたものではない。一般的に、大会が分裂して開かれた昭和39年から51年までの期間の運動の意義は、分裂した大会の一方の当事者によっては無視され、第三者からは、両者ともに極めて不当に軽視されている。また、運動の総括は、しばしば、
分裂の責任あるいは運動の正統性に集中する傾向があり、そのことは運動の実態の把握を困難なものとしている。
本稿は、原水爆禁止世界大会の分析を対象とするものであるが、大会の論議に立ち入ることは意識的に避け、主としてその形式的側面からのアプローチを試みた。また、大会が分裂していることにではなく、大会が分裂してではあれ開催されつづけてきたことを重視する立場をとった。こうした方法によって明らかにできる日本の原水爆禁止運動の性格や意義は、おのずと限られたものであろう。本稿の意図は、すでに28回を数える大会を、大会の継続開催、大会の課題、大会の基盤という三点から整理し、今後の運動の本格的な分析に資そうとするものである。

「被爆体験」の展開

「被爆体験」の展開――原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として(『芸備地方史研究 140・141合併号』、芸備地方史研究、19830531)

内容

はじめに
原水爆禁止と被爆者救援
第1図 第1回大会宣言における原水爆禁徒と原爆被害の関連
運動分裂後の展開
2-1 原水爆被害者
第1表 宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
第2表 宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
2-2 原爆投下責任の追求
第2図 第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連
第3表 大会決議の標題にみえる救援と援護法
2-3 「被爆体験」の新展開
第4表 大会宣言・決議に現れた原水爆被害者(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く)
おわりに
第3図 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』原爆被災資料広島研究会、1972年 より作成)
第5表 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷

はじめに

「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば<1>、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。1954年3月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた<2>。また、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と組織化か急速に進んだ。たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、1955年5月頃には約300名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、56年2月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(12団体)約2万名」が組織されている。こうした55年5月から11月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった<3>。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(1956年5月27日)につながる広島県原爆被害者大会(56年3月18日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(56年8月10日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁
止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである<4>。なお、1977年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。

<1>拙稿「日本における原水爆禁止運動の前提-『被爆体験』の検討-」(『日本史研究』236 1982年)。
<2>拙稿「日本における原水爆禁止運動の出発一1954年の署名運動を中心に―」 (広島大学平和科学研究センター『広島平和科学5』1982年)。
<3>「原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所
年報』23号 1982年)。
<4> 被爆者問題については、田沼肇『原爆被爆者問題』(新日本出版社 1971年)、伊東壮『被爆の思想と運動』(新評論 1975年)の労作がある。また拙稿「原水爆禁止世界大会に
関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)は、日本の原水爆禁止運動を大会の形式的側面から検討したものであり、これを総論とすれば、本稿はその各論に当たる。

 

原水爆禁止署名運動の意義

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

5.原水爆禁止署名運動の意義

最後に,署名運動の意義について,いくつかの側面から検討しておきたい。

第1は,ストックホルム・アピール支持署名運動との関係についてである。周知のように,ストックホルム・アピールは,1950年3月15-19日にストックホルムで開かれた平和擁護世界大会委員会で採択されたものである。原子兵器の使用禁止を求めるこのアピールは,全世界で5億余,日本でも645方の支持著名を得るという成果をあげた(1)。この運動の「経験と蓄積」が,「大衆的原水禁運動の発展に大いに役立った」ことは(2)、本稿の署名運動の展開のところで見たように,平和団体の署名運動における先駆性などに現われている。しかし,1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動か,そのまま単純に拡大・展開したものではない。次表は,ストックホルム・アピール支持署名の各県別集計と,1955年8月の各県別署名数を比較したものであるが,この限りでは、両者に相関関係はみられない。

1950年署名数と1954年署名数の対人口比率の比較
(但し,いずれかの署名が20%6を超えるもの)

①1950年 ②1954年
秋田 5.5 21.2
東京 12.3 40.8
長野 8.4 39.5
富山 5.3 22.9
福井 1.0 28.6
京都 24.3 16.9
大阪 20.6 27.0
島根 3.2 38.8
広島 7.1 47.4
山口 3.2 44.3
高知 3.8 22.1
大分 4.1 24.0

注1.対人口比は,①は,1950年,②は,1955年の国勢調査より求めた。
注2.出典は.①は,岩波書店『日本資本主義講座』第9巻,97頁,②は,「1955年8月4日現在署名数全国集計」である。

一方,次表は,1955年県別に集計されたもので.県(市区町村)名を冠し,各行政区域の総人口の10%以上を集めた団体についてまとめたものである。

各種団体の署名数の対人口比率状況

(但し,10%以上のものに限る)

区分 10%台 20%台 30%台 40%以上
県レベル 原水禁団体
平和団体
婦人団体
その他
19
市区町村
レベル
原水禁団体 26 45
自治体・議会
平和団体
婦人団体
その他
13 10 35 66

出典:「1955年8月4日現在署名数全国集計」

このうち,県レベルで平和団体と分類しているのは,宮城県平和懇談会(10.5%),神奈川県平和評議会(13.3%),三重県平和懇談会(12.6%)、京都平和センター(12.9%),愛媛県平和連絡会議(10.2%),平和擁護大分県委員会(22.4%)の6団体である。これらは,京都を除き,いずれもストックホルム・アピール支持署名数を超えてはいるものの,大きな割合で署名を集めることには成功していない。また,市区町村レベルでみると,地域の署名運動の主要な担い手が,主に原水禁団体と自治体・議会であることがわかる。1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動では見られなかった新しい担い手によっても進められたのである。

第2は,1954-55年の署名運動における平和団体・労働団体など既存の組織と新たに生まれた原水禁団体との関係についてである。前掲の表から.全国団体と各県の割合を比較すれば,次表のようになる。

全署名数に占める全国団体と各県の署名数の割合

全国団体 各県
1954年10月5日 59% 41%
1954年11月22日 49 51
1955年8月4日 45 55

 

これは、既存の諸団体と原水禁団体との割合をそのまま反映するものではない。たとえば,長野県において県民運動を展開した長野憲法擁護連合の署名数,および宮城・神奈川・三重・京都・愛媛・大分の各県のように,それぞれの県の署名数にほぼ等しい平和団体の署名数が,各県の集計に加えられているのである。これらの署名数を各県から全国団体に移せば.全署名数に占める全国団体の署名数の割合は.もっと大きなものとなろう。

しかし,こうした点を無視しても,全国団体の署名数は,1955年8月時点で,全署名数の約45%を占めている。このことは,憲法擁護国民連合・総評・平和擁護日本委員会といった全国団体が,1954-55年の署名運動で重要な役割を果したことを示すものである。

なお,前表からは,署名運動の展開の中で全国団体と各県集計の割合が変化していることがわかる。つまり,全国団体は,低下傾向にあるのに対し,各県は増加傾向を示している。日本の原水爆禁止運動は,これまで,「下から」ということに、その特徴なり意義が見出されてきた。つまり,それまでの戦後の民主運動や民主組織が,「上から」組織されてきたのに対し,原水爆禁止運動は,「下から」組織化されだというのである(3)。しかし,これまでの分析をもとに考えるならば,日本の原水爆禁止運動の特徴と意義は,「上から」のみでなく,「下から」の組織化の力も相伴って出発し,「下から」の組織化の力が,署名運動を通じて強化されていったことにこそ,求められるべきであろう(4)。

第3は,1955年8月の原水爆禁止世界大会と関連してである。安井郁は,世界大会の開会総会における経過報告の中で,署名運動の発展を総括し,つぎの3段階にわけている。

(1)1954年4月~7月 自然的な地方的運動
(2)~同年12月 全国的運動の段階
(3)1955年1月~ 世界的運動の段階

そして,彼は,世界大会を「過去一年全国民的な規模でおこなわれてきた原水爆禁止運動の総結集」であると表現した(5)。これは,1954年5月に発足した水爆禁止署名運動杉並協議会の議長,同年8月に発足した原水爆禁止署名運動全国協議会の事務局長を歴任し,また1955年1月19日の世界平和評議会理事会拡大会議に参加し,ウィーン・アピール採択に立ち会った安井郁としてみれば,ごく自然な総括である(6)。しかし,これを各地域で考えるならば,必ずしも普遍的ではなかった。たとえば,広島では,全国協議会が発足した時期に,ほぼ署名運動を終了していた。1954年8月6日の広島平和大会は,「全県下にわたって行われた原水爆禁止に関する各地の大会・署名運動の総括」の場として開催されたのであった(7)。そして,9月7日に新たに発足した原水爆禁止運動広島協議会は,すでに,国際分野の運動方針として,原爆10周年に世界大会を開催することを決定している(8)。

一方,広島とは逆に,世界大会までに,県民の10%の署名も得ていない県は24もあった。これらの県も原水爆禁止世界大会に代表を送っているが,これらの県にとっての原水爆禁止世界大会のもつ意味は,杉並や広島とは異なるものであった筈である。

1955年の原水爆禁止世界大会は,署名運動の展開からみて,以上のようにさまざまな段階にある地力組織の参加によって開催されたのである。これらの地方組織の大会前後の動向の分析は,日本の原水爆禁止運動の歩みを語るとき,重要な柱となるべきものであろう。

1)日本平和委員会編『平和運動20年運動史』395頁(大月書店、1969年)。
2)同前書99頁。
3)同前書101頁。
4)参考までに,世界大会のための準備資金の拠出割合を,大会の準備段階の状況として、また世界大会参加者の割合を,大会時の状況として考えるなら,県(地方)の占める割合は,署名段階55.5%→大会準備段階70.5%→大会時86.1%と変化して,全国団体(中央団体)に対する優位を確立している。原水爆禁止世界大会日本準備会「8・6世界大会準備ニュース」NO.4,1955年10月10日。
5)原水爆禁止世界大会日本準備会『原爆許すまじ-原水爆禁止世界大会の記録』6~7頁(1955年)。
6)安井郁の原水禁運動とのかかわりについては,前掲『民衆と平和』が詳しい。
7)原爆・水爆禁止広島県民運動連絡本部の1954年8月3日付案内状。
8)「原水爆禁止運動広島協議会経過報告-1954.9.7の新発足から1955.1.29の声明まで」。

 

 

 

県(区・市)民運動の展開

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

3.県(区・市)民運動の展開

 

5月9日に結成された水爆禁止署名運動杉並協議会は.署名を目的として結成された先駆であるとともに,「草の根運動」を展開した最初の団体であった(1)。杉並区では,すでに,ビキニ被災事件の報道後,「署名運動は自然発生的、かつ散発的に,民主団体,婦人団体,魚商組合というようなところからはじめられていた」(2)。4月17日の区議会の水爆禁止の決議は,これらの動きか結実したものである。

杉並協議会の結成意図は,区議会決議をうけて,「杉並区を中心に水爆禁止の署名運動をおこし、これをさらに全国民の署名運動にまで発展させ」よう(杉並アピールより)というものであった。区内の諸層から超党派的に選ばれた実行委員によって展開された署名運動は,「関係者さえ予想しなかったほどの成果をおさめ,6月29日現在で,暑名総数は,実に杉並区の総人口(39万)のおよそ7割にあたる26万8,956名の多きをかぞえるにいたった」(3)。

杉並協議会の運動は,これまで,運動の主体が婦人であったことおよび超党派的に進められ,区民の過半数の署名を獲得したことによって評価されている(4)。しかし,それらとともに,重要と思われるのは,区議会の決議という形で表わされた区民の意志を単にそれだげにとどめず,改めて区民の署名の結集として再び表現した点である。武蔵野市や世田谷区の場合,それぞれ3月27日と30日に市(区)議会が決議をおこなっている。ところが,署名運動を展開するのは,6月下旬以降のことであった(5)。世田谷原水爆禁止署名運動本部事務局長は,「原水爆被害の増大と杉並区の運動に刺激され」、区議会が署名運動を開始したと述べている(6)が,このことは,杉並区の運動が「議会の決議にもとづく原水爆禁止の署名運動」のモデルであったことを示すものである(7)。

杉並区の運動が,区議会決議をうけて,署名運動の超党派組織を結成するという経過をたどったのに対し,同じ時期に起った広島県の運動は.まず,超党派組織は,原水爆禁止大会のために結成され,大会の要請で,市および県に決議をさせ,その後,署名運動を開始するという経過をたどっている(8)。前述のように,4月21日の第6回婦人会議広島大会が契機となり,5月15日に,原水爆禁止広島大会が開催され,原水爆禁止の宣言とともに,原爆障害者救援のための特別保護法制定を求める決議が採択された。大会後の5月20日の常任世話人会は,運動の今後の発展のために,原水爆禁止県民連動連絡本部を設置することを決め,具体的な運動として県下全域にわたる署名運動の展開,広島県議会・市議会への決議の請願などを申し合せた。広島市・県議会は,この要請をうけ,それぞれ,5月25日,28日に原水爆禁止決議および原爆障害者治療費全額国庫負担に関する決議をおこなった。広島での署名運動は,6月4日から始まったが.8月6日までの2カ月間で89万8,000(全県民の42%)の署名が集められた。

東京・広島以外の地域での運動の詳細は詳らかではないが,原水爆禁止署名運動全国協議会の結成大会における各団体の代表の報告によれば,つぎのようなものであった(9)。

秋田県=7月上旬,秋田市議会が決議。その後,3日間全市にわたる署名運動で10万を集める。8月5日,全県協議会を結成,県議会議長が会長となる。
北海道=警察署長,CICの団体を除く全団体で協議会を結成。
大阪=幅広い形で連絡会を結成。100以上の団体が参加。7月26日現在で40万の署名。
島根=8月5日,世話人会が発足。6日県下より約1千名が集まって県民大会。県連合婦人会で署名をまとめる。
一応,対人口比で30%以上の署名を集めた県を「県民運動」の展開されたところと考えるならば(10)、広島県(47.4%)以外にも,東京都(40.8%),長野県(39.5%),島根県(38.8%),山口県(44.3%)で,県(都)民運動が展開されている。また.次表のように,全国各地で,市(区)民運動が展開された。

市(区)民運動一覧

県名 市区名 署名団体名 署名数
の対人口
比(%)
署名の
現在日
北海道 小樽市 小樽市 62.2 10. 2
美唄市 美唄市議会 49.9
秋田 横手市 原水爆禁止横手市民運動本部 51.4 8.31
秋田市 原水爆禁止運動秋田市協議会 40.5 8.15
大館市 大館市原水爆実験及び使用禁止同盟 34.3 8.31
宮城 石巻市 石巻原水爆禁止署名運動協議会 50.6
古川市 古川市原水爆禁止の会 33.0
福島 磐城市 磐城市原水爆禁止運動促進会 57.8 11.20
常磐市 常磐市原水爆禁止運動世話人会 53.7
郡山市 原水爆禁止運動郡山地方連絡会議 45.2
茨城 古河市 古河市原水爆禁止運動世話人会 62.5 12. 4
東京 中央区 中央区原水爆禁止運動特別委員会 115.5 10. 5
千代田区 千代田区議会,区役所,各種団体 108.4
杉並区 水爆禁止署名運動杉並協議会 69.2
世田谷区 水爆禁止署名運動世田谷本部 68.8 8.25
港区 原水爆禁止署名運動港区協議会 68.5
豊島区 原水爆禁止署名運動豊島区協議会 58.9 8.31
武蔵野市 原水爆禁止運動武蔵野協議会 58.6 10.8
目黒区 原水爆禁止署名運動日票区本部 55.1
中野区 原水爆禁止署名運動中野協議会 52.7 10. 2
渋谷区 原水爆禁止署名運動渋谷区協議会 50.9 10.20
立川市 立川平和協議会 49.3
新宿区 原水爆禁止署名運動新宿区協議会 47.8
台東区 原水爆禁止台東協議会 46.9
三鷹市 三鷹市婦人団体連絡協議会 39.7 9. 1
品川区 原水爆禁止運動品川区協議会 38.6
神奈川 逗子市 逗子市原水爆禁止促進協議会 58.7 10.23
茅ケ崎市 原水爆禁止運動茅ケ崎地区協議会 41.1
秦野市 秦野地方原水爆禁止の会上曽屋支部 30.3 10.23
山梨 都留市 山梨県都留仏教会 45.0
長野 上田市 上田市原水爆禁止運動協議会 60.2 10. 4
滋賀 彦根市 原水爆禁止署名運動彦根市連絡協議会 59.1
山口 下関市 下関市 40.6 9. 1
福岡 直形市 原水爆実験使用禁止運動直方市協議会 86.8

出典:「原水爆禁止署名数全国集計」1954年12月14日現在及び1955年8月4日現在

ところで,市(区)民運動34件のうち,27件は,ビキニ水爆被災事件を機に結成されたと思われる原水爆禁止団体である。これらの名称の付け方によれば,①原水爆禁止運動団体(15件),②原水爆禁止署名運動団体(10件),③原水爆(実験および)使用禁止団体(2件)の3種の団体が存在するが.この3種の団体名の差がそのまま各種団体間の運動の差とは考えられない。しかし,当時,原水爆禁止運動が一部では署名運動に限定されていた事実を示すものではある。

名称からみて,水爆実験の反対に限定した目的を持つ団体が極めて少ないことは,注目されるところである。原水爆禁止署名運動杉並協議会の結成時の名称は.前表のように水爆禁止署名運動杉並協議会であった。また,そのアピール(杉並アピール)には,広島・長崎への言及はみられるものの,訴えの根拠は,あくまで「死の灰」による原子病の恐ろしさと,「死の灰」まぐろ廃棄による日本国民の栄養源の不足である(11)。なお,つけ加えるならば,杉並アピールは,「原爆」が欠落している(12)のみでなく,「平和」も用いられていない。それは,「今,平和運動というと,とかく色がついているかのように誤解されやすい傾向をもつから」,「区民の誰もが安心して参加できるように」との配慮からであった(13)。このように,意図的に目的を限定して出発した杉並の運動でさえ,運動開始後,直ちに,「水爆禁止」団体から「原水爆禁止」団体に変化していることは,「水爆禁止」ではなく,「原水爆禁止」すなわち「核兵器全般の禁止」が当時の運動の普遍的な課題であったことを示すものである(14)。

1)安井郁は,すでに当時,「草の根」という表現を用いている。前掲『民衆と平和』76頁。
2)水爆禁止杉並協議会・安井郁「静かなる署名運動」(『改造』1954年8月号)。
3)水爆禁止杉並協議会・安井前掲論文。
4)『岩波講座日本歴史23』260頁(岩波書店、1977年)など。
5)「原水爆禁止署名運動東京都懇談会議事録(要旨)」1954年9月6日。
6)1954年9月6日に開催された懇談会での発言。
7)杉並の一婦人は,東京平和大集会世話人会において,「議会の決議にもとづく原水爆禁止の署名運動を,議会が先頭に立って行うようにさせる努力が必要である」と提案している。西尾昇「地方議会と平和」(『平和』1954年7月号)。
8)この経緯に関する資料は,広島市編『広島新史資料編』(1982年)にまとめてある。
9)「原水爆禁止署名運動全国協議会結成大会議事録」(1954年8月8日)より道府県の代表の報告のみ摘出。
10)人口は,総理府統計局『昭和30年国勢調査報告第1巻』(1956年)による。以下同じ。また,署名数は1955年8月4日現在である。
11)『ビキニ水爆被災資料集』536-537頁。
12)この点は,今堀前掲書10頁に指摘されている。
13)水爆禁止杉並協議会・安井郁、前掲論文。
14)団体名ではないが,広島の5月15日の大会は,水爆禁止広島市民大会として発起されていた(1954年4月22日付準備会案内状)が,実際には,原水爆禁止広島市民大会として開催された。

 

 

 

 

 

原水爆禁止運動の開始

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

 

2.原水爆禁止運動の開始

 

平和擁護日本委員会など平和団体は,1954年の年頭から,6月開催予定の世界平和大集会の準備を進めていた。その準備組織である世界平和大集会日本連絡会は,ビキニ被災事件の報道から1か月後の4月18-20日,東京で「ジュネーブ会議,世界平和大集会のための集り」を開催し,「原水爆禁止のため国民に対する訴え」とともに「原水爆禁止について世界の人々への訴え」を発表した。後者では,全世界に「今後の平和運動は原水爆禁止に向ってこそ,その努力が集中されてゆくものだと考える」と訴えている。

つづいて,この会議の中で設置された世界平和大集会日本準備会は,6月7-9日に,日本平和大集会を東京で開催した。会議は,「当面の平和運動の目標は国際緊張緩和のために,原水爆禁止,アジアの安全保障.経済文化の交流.再軍備,軍事基地化反対,憲法擁護等にあるが,この中で原水爆禁止の運動を圧倒的に押し進め,平和運動を全国民的なものに統一していく」との日本の平和運動の任務を明らかにし,そのために原水爆禁止の中央センターを設けること,8月15日を目標に原水爆禁止の運動を中心とする平和月間を計画するとの方針を決定した。

世界平和大集会には,日本から,自由・改進・日自等の保守党議員を含む41名の代表か参加した(1)。

憲法擁護国民連合は,1954年1月15日,「保守反動勢力の憲法改悪計画に対応し,党派・主義・主張を超越し,平和憲法を守ろうとする広汎な国民的世論を喚起結集」(同連合運動方針より)することを目約に,総評・社会党(両派)・労農党などが中心となって結成した団体である(2)。同連合は,ビキニ被災事件後の状勢に対応するため,原子力特別委員会を設け,4月19日の第1回会合で,l,000万獲得を目標に原水爆禁止署名運動を展開することを決めた(3)。また,この構成団体である総評は,同月24日の第18回幹事会で原水爆兵器禁止署名4,000万目標を決定している(4)。

 

宗教団体では,世界連邦運動を推進していた人類愛善会が,署名運動の口火を切った。同会は,4月5日.緊急会員大会を開き、原子力兵器の禁止を求める決議を発表するとともに,大会席上に於て,署名運動の実行を決定した。署名運動は,期間を4月25日から5月25日の1カ月に限って行われたが,その理由は.「好事魔多くこの人道上の運動に対しても思想上の運動に之を利用せんとするものも輩出するに至り,此のまま運動を継続せんか,或は人道上の理念を域脱したる思想運動の蚕食するところとなり大に純度がいがめらるるに至るやも計り難きに至った」からであった(5)。

婦人団体では,4月3日の婦人月間中央集会が,原水爆禁止運動の展開を決議した。16日には,決議にもとづき実行委員会の代表が,外務省を訪れ,原水爆禁止の要求をアメリカにするよう申し入れるとともに(6)、翌17日には,婦団連傘下やその他の婦人団体,労組の婦人が,都内各所で署名運動に立った(7)。

一方,主婦連・地婦連・生活協同組合婦人部・日本婦人平和協会・婦人有権者同盟の5団体も.4月6日,”原子マグロ対策打合会”を開いている。この場で,原水爆禁止の決議がなされ,それを国連や在日各国大使館および各国婦人団体に送付することか決定された(8)。

広島では,「4月21日の第6回婦人会議閉会直後,全参加者により,強い希望」が出され.広島県地域婦人団体連絡協議会会長,矯風会広島支部長,国鉄労組広島支部婦人部長など10人の婦人が発起人として「水爆禁止広島大会」の開催を呼びかけている(9)。

一方,学生団体は,5月25日,東京で.全日本学生平和会議を開催した。この会議には,全学連,学生YMCA,同YWCA・ユネスコ学連、仏教学生会,わだつみ会などの代表1,600人が参加したが、平和の問題での学生の統一行動は,はじめてのことであった(10)。 会議では,思想・信条の異なる各学生団体間で一致できる点として,「再軍備に反対する」,「原水爆の製造・実験・使用に反対する」の2点を確認した(11)。

また,東大五月祭が,5月22-23日に行われたか,五月祭を”原・水爆禁止のための五月祭に”と多くのサークル・自治会がとりくみ,当日の展示の中でも圧倒的に原水爆を扱ったものか多かった。また,この中で,署名運動が展開され,20,192の署名が集められている(12)。

このように,既存の諸団体が.ビキニ被災事件を契機に,原水爆禁止を中心としたさまざまな運動を展開するようになった。次表のように,署名運動を早期に手がけた団体の多くは既存の平和団体であった。また,ある意味では平和運動あるいは原水爆禁止運動の一つの運動形態にすぎない署名運動が,次第に運動の中心となり,6月以降には,署名運動の実行団体が広汎に結成されるようになってきた。

署名運動の開始状況

4月 5月 6月 7月
平和団体 14
労働組合 13
原水禁団体 17
学生組織 10
その他 12
12 21 25 66

出典:『ビキニ水爆被災資料集」520-521頁。

1)労働省編,前掲書,1312-1313頁。
2)法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑第28集」700頁(時事通信社、1955年)。
3)労働省編,前掲書,1311頁。
4)法政大学大原社会問題研究所編,前掲書,606頁。
5)藤原勇造「原水爆署名運動を終りて」(『世界国家』1954年9月号)。
6)「社会タイムス」1954年4月19日。
7)『航路二十年-婦人民主クラブの記録』155頁(婦人民主クラブ、1967年)。
8)「日本経済新聞」1954年4月7日。
9)4月22日付「水爆禁止広島市民大会準備会御案内」。
0)全学連書記局「全学連第七回全国大会・一般方針」(三一書房編集部編『資料戦後学生運動3』、1969年)。
11)「連盟通信」(全日本学生新聞連盟)1954年5月10日。
12)「都学連情報号外・原水爆禁止特集」1954年5月23日,(三一書房編,前掲書)。

 

原水爆禁止決議

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

 

1.原水爆禁止決議

1954年3月16日,ビキニ水爆実験による被害の第一報が,読売新聞で報じられて以降,国内のさまざまな階層から抗議の声があがった。

日本共産党中央指導部は,19日,「原水爆を禁止せよ」との声明を発表,平和擁護日本委員会は,20日,平和問題懇談会を開いて原水爆禁止運動を全国的に展開することを申し合せた。また,3月30日のアカハタ主張「原子兵器禁止の運動は民族の安全と平和独立を守る憂国の闘いである」では,「府県市町村議会,労働組合,農民団体,学生,青年,婦人,文化などすべての団体が原爆禁止,一切の被害の完全な補償と救援の運動を展開」するよう呼びかけている(1)。

一方,総評は,22日14回幹事会で,原水爆製造禁止とその国際管理を求めるアピールを決定した(2)。また,25日には,総評の提唱に,左右両派社会党,労農党,憲法擁護国民連合が応じ,この5団体の代表が,ビキニ被爆問題につき懇談,つぎのことを決定している(3)。

☆原子力の国際管理と原子兵器の使用禁止に関する決議案を両社・労農三党から共同提出する。
☆全世界に原子力の被害の恐怖とその使用禁止を訴えるため,4月26日から開かれるジュネーブ会議,4月日本で開かれる世界平和者会議で提唱する。
☆全国地方議会に原子兵器の禁止決議を促す。

国会では,事件が報じられた当日,藤原道子(左社)が,参院予算委員会で緊急質間をおこなったのを皮切りに,連日討議に付された。26日の5党衆院国会対策委員長会談の申し合せにもとづき(4)、4月1日の衆院本会議は,国連に「原子力の国際管理とその平和的利用ならびに原子兵器の使用禁止の実現を促進し,さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するための」有効適切な措置を直ちにとることを要請する決議案を採択した(5)。つづいて,5日の参院本会議も同様の決議をおこなった(6)。

「世界の文化人や平和主義団体の仲間から,この決議と同様な趣旨が,論議せられ,提案せられたことは,既に度々くり返されたことで,敢て異とするに足りないが,一国国民の意志を代表する国会の名に於て,このような決議かなされたことは,恐らくこれが世界最初の企てであった」(自由党・佐藤虎次郎)(7)。

一方.地方議会においても18日に焼津市議会が原子兵器使用禁止決議をおこなったのを皮切りに,全国各地で,同様の動きがられた。5月26日現在の地方議会の決議状況を,新聞はつぎのように報じている(8)。

東北・北海道地方=宮城県会,石巻・塩釜両市議会のほか5月20日盛岡で開かれた北海道,東北1道6県知事会議で「原爆実験の対策について」が決議され,被爆者の医療施設,生活補償,被爆船の補償を要求,また釜石での東北6県市長会議でも米国と国連への二つの要望決議をしている。
関東地方=東京都議会は3月30日の本会議で「原爆被害による不安除去にかんする意見書」を議,ほかに茨城,神奈川両県会,三崎町会と三崎町民大会。
中部地方=焼津,伊東両市会のほか,静岡、石川,岐阜,愛知の各県会。
近畿地方=3月29日の奈良市会をトップに京都.芦屋,田辺,新宮,彦根,舞鶴の各市会。
中・四国地方=4月初旬の岡山県会を皮切りに,高知など四国4県をはじめ.鳥取でも決議,25日には広島市議会が市民大会の要望に基づいて「原・水爆禁止」、「原爆障害者治療全額国庫負担」の決議を可決した。5月19日香川県庁で開かれた第2回四国地方行政連絡会議でも補償措置を中央に要望,また四国市議会,議長会は全国の自治機関に呼びかける「国民運動」の展開を申合せた。
九州地方=福岡県会と枕崎市会(鹿児島県)禁止決議している。

こうした動きは,議会のみでなく,次表のように,さまざまな分野の団体にもみられた。

決議(声明・宣言などを含む)を発表した団体・集会
(1954年3月~5月)
出典:『ビキニ水爆被災資料集』504-505頁,その他

月日 発表主体
3.19 自由人権協会
3.25 全日本海員組合
4. 2 買出人水爆対策市場大会
4. 3 婦人月間中央集会
4.15 日本私鉄労働組合総連合会
4.16 第1回全国教戒師大会
4.23 日本学術会議第17回総会
4.25 日本ユネスコ連盟第3回総会
4.25 新日本文学会中央委員会
4.27 全農林省労働組合第4回全国大会
4.28 日本赤十字社
4.30 日本社会学会・民主主義科学者協会法律政治部会
4.30 日本地質学会
5. 1 第29回中央統一メーデー
5. 1 生物進化研究会
5. 3 日本哲学学会第7回総会
5. 8 日本科学史学会1954年度総会
5.10 日本基督教団
5.12 国際民主法律家協会日本支部準備会
5.14 日本青年団協議会
5.15 日本政治学会
5.16 第2回PTA全国大会
5.20 日本気象学会
5.25 日本医師会代議員会
5.28 第7回全国図書館大会
5.29 日本弁護士連合会定期総会
5.30 日本民主主義科学者協会第9回全国大会
5. 日本文学協会第9回大会
5. 日本放射線学会

 

地域レベルでは,無数の決議が存在したであろう。広島では,広島市文化団体連絡協議会準備金(3月27日)(9)、広島県教組第11回定期大会(3月31日),世界平和者日本会議広島大会(4月12日),原爆水爆禁止広島市民大会(5月15日),全造船労組第15回定期大会(5月日)などを確認できる(10)。

決議の内容は,議会.諸団体を通じて,そのほとんどが,ビキニ被災のみでなく,広島・長崎の原爆被害に言及し,それを決議発表の動機もしくは根拠としている。国会の決議では,文面には現われていないか,衆参の提案の趣旨弁明,討論の中で,すべての発言者が取った立場であった(11)。たとえば,衆議院の決議案の趣旨弁明に立った須磨禰吉郎(改進党)は,つぎのように述べている(13)。

「わが日本は,人類多き中に,初めて原子兵器の犠牲となり,しかも二度ならず三度までも惨害を受けたのでございますから,ここに世界に対し,人類を代表して,かくのごとき惨禍の一日もすみやかに絶滅せられるよう,実効ある方法を立て,人類を破壊から救うことを提唱する上におきましても,最も崇高なる権利と,そしてまた最大の発言力とを有するものと信ずるのでございます。」
また,この決議案の賛成討論に立った自由党の佐藤虎次郎は,「日本の国会にこそ,この決議を提唱する権利と義務がある」とまで述べている(13)。

このようにビキニ水爆被災事件が広島・長崎の体験と当初から結びついていることは,広島・長崎の原爆被害が,この時期にすでに国民的な体験として,一定程度定着していたことを示すものといえよう。そして,この国民的な「被爆体験」こそは,ビキニ水爆被災事件以降の日本の原水禁運動が、単に水爆実験反対に止まらないい展開をとげ、また持続した根拠をなすものであったと思われる(14)。

なお,決議について.もう一つ注目されることは,4月23日の日本学術会23回総会や6月25日の江東区議会などのように,その声明・決議の中で,国会決議に言及しているものが存在することである(15)。

このことは,国会決議が,県・市町村議会,諸団体の決議を誘引する一つの要因であったことを示すものである。なお,日本哲学学会の決議(16)は,日本学術会議の声明に対する支持決議であるが,ビキニ水爆被災事件を契機とする原水爆禁止決議には,自然発生性のみでなくこうした「上から」の要因も存在していたのである。

1)労働省編『資料労働運動典昭和29年』1311頁(労務行政研究所、1955年)。なお世田谷区の共産党組織は.党の指示より前に,[日本人はモルモットではない」という怒りのピラの配布や原水爆禁止の署名運動などの行動に立ち上がっている(東京都西部地区委員会「原・水爆禁止運動の経験と教訓」,『前衛』1954年9月号所収)。
2)「社会タイムス」1954年3月23日。
3)「毎日新聞」1954年23日。
4)「朝日新聞」(夕刊)1954年3月26日。
5)「第19回国会衆議院会議録」第32号,1954年4月1日。
6)「第19回国会参議院会議録」第29号,1954年4月5日。
7)佐藤虎次郎「原子力の国際管理を主張する-原子力の国際管理に関する衆議院決議の意義-」(『政策』,1954年5月号,11-12頁)。
8)「中国新聞」1954年5月27日。なお,こうした地方議会における原水爆禁止決議は.10月22日の長崎県議会を最後に46都道府県議会全部が揃い,市町村においても10月26日現在で169市92町村に及んだ。労働省編,前掲書,1314頁。
9)「広島文学』1954年9月号,77頁。
10)「中国新聞」報道による。
11)5)・6)に同じ。
12)5)に同じ。
13)5)に同じ。
14)ここで筆者の言う「被爆体験」については,前掲拙稿を参照。
15)前掲『ピキ二水爆被災資料集』491頁,502頁。
16)『思想』1954年8月号。

 

 

日本における原水爆禁止運動の出発

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

はじめに

日本において,核兵器に反対する大衆運動が発生したのは,1954年3月以降のことである。それまでにも,核兵器禁止を求める動きはみられたが,大衆運動というには,その参加者は極めて限られており,また,散発的であった。

1954年3月1日のビキニ水爆被災事件を契機として全国各地で自然発生的に繰り広げられた原水爆禁止署名運動は,翌年8月6日~8日の広島における原水爆禁止世界大会の開催に結実した。以後,日本では,8月の世界大会を頂点とする原水爆禁止の大キャンペーンが,毎年欠かすことなく繰り広げられ、それは,今日まで引き継がれている。1955年の世界大会を第1回とするならば、今年(1982年)に,広島で開催された「原水爆禁止1982年世界大会」は,第28回に相当するものであった。

原水爆禁止運動のこうした展開のしかたは,他国に例を見ない極めて日本的な現象であろう。この運動の回顧は,現在の日本の反核運動のみでなく,世界の運動にとっても重要な意味をもつものと思われる。

日本の原水爆禁止運動が,「国民運動」もしくは「草の根運動」であったという指摘は,これまでしばしばなされてきた(1)。日本の運動の特質をそのように理解するとするならば,日本の原水爆禁止運動の流れは,つぎのように整理できるであろう。

1954年 ビキニ水爆被災事件を契機とする原水爆禁止運動の発生と国民運動としての展開。
1960年 安保問題を契機とする分裂。保守層を含んだ国民運動の崩壊。
1963年 「いかなる国」問題を契機とする分裂。「草の根」性の喪失。
1977年 国連軍縮特別総会(第1回)を契機とする国内の運動の統一。国民運動の復活。
1982年 欧米の反核運動の衝撃を契機とする国内における草の根運動の再生。

 

今日のマスコミ論調の多くは,原水爆禁止運動について,以上のような理解をしている。筆者には,現在,この「国民運動」性,「草の根」性を基準として日本の原水爆禁止運動を総括することの当否を論じる準備はないが,すでに別稿(2)で論じたように,日本の運動の特質は,運動の前提にある「国民的な被爆体験」にあると考えている。

小論の目的は,「国民運動」と「被爆体験」に注目しながら,1954年に日本全国で展開された署名運動の意義を明らかにしようとするものである。

1)この運動について,これまで,いくつかの紹介がなされている。主なものとして,運動の指導的立場からは,安井郁『民衆と平和-未来を創るもの-』(大月書店、1955年),熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター、1978年),伊藤茂『平和運動と統一戦線ー原水禁運動の歴史と展望(増補版)』(ありえす書房、1975年),参加者の立場からは,今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社、1974年),資料集としては,第五福龍丸平和協会編『ビキニ水爆被災資料集』(東京大学出版会、1976年)などがあげられる。
2)「日本における原水爆禁止運動の前提「被爆体験」の検討」(『日本史研究』№236、1982年)。

1.原水爆禁止決議

1954年3月16日,ビキニ水爆実験による被害の第一報が,読売新聞で報じられて以降,国内のさまざまな階層から抗議の声があがった。

日本共産党中央指導部は,19日,「原水爆を禁止せよ」との声明を発表,平和擁護日本委員会は,20日,平和問題懇談会を開いて原水爆禁止運動を全国的に展開することを申し合せた。また,3月30日のアカハタ主張「原子兵器禁止の運動は民族の安全と平和独立を守る憂国の闘いである」では,「府県市町村議会,労働組合,農民団体,学生,青年,婦人,文化などすべての団体が原爆禁止,一切の被害の完全な補償と救援の運動を展開」するよう呼びかけている(1)。

一方,総評は,22日14回幹事会で,原水爆製造禁止とその国際管理を求めるアピールを決定した(2)。また,25日には,総評の提唱に,左右両派社会党,労農党,憲法擁護国民連合が応じ,この5団体の代表が,ビキニ被爆問題につき懇談,つぎのことを決定している(3)。

☆原子力の国際管理と原子兵器の使用禁止に関する決議案を両社・労農三党から共同提出する。
☆全世界に原子力の被害の恐怖とその使用禁止を訴えるため,4月26日から開かれるジュネーブ会議,4月日本で開かれる世界平和者会議で提唱する。
☆全国地方議会に原子兵器の禁止決議を促す。

国会では,事件が報じられた当日,藤原道子(左社)が,参院予算委員会で緊急質間をおこなったのを皮切りに,連日討議に付された。26日の5党衆院国会対策委員長会談の申し合せにもとづき(4)、4月1日の衆院本会議は,国連に「原子力の国際管理とその平和的利用ならびに原子兵器の使用禁止の実現を促進し,さらに原子兵器の実験による被害防止を確保するための」有効適切な措置を直ちにとることを要請する決議案を採択した(5)。つづいて,5日の参院本会議も同様の決議をおこなった(6)。

「世界の文化人や平和主義団体の仲間から,この決議と同様な趣旨が,論議せられ,提案せられたことは,既に度々くり返されたことで,敢て異とするに足りないが,一国国民の意志を代表する国会の名に於て,このような決議かなされたことは,恐らくこれが世界最初の企てであった」(自由党・佐藤虎次郎)(7)。

一方.地方議会においても18日に焼津市議会が原子兵器使用禁止決議をおこなったのを皮切りに,全国各地で,同様の動きがられた。5月26日現在の地方議会の決議状況を,新聞はつぎのように報じている(8)。

東北・北海道地方=宮城県会,石巻・塩釜両市議会のほか5月20日盛岡で開かれた北海道,東北1道6県知事会議で「原爆実験の対策について」が決議され,被爆者の医療施設,生活補償,被爆船の補償を要求,また釜石での東北6県市長会議でも米国と国連への二つの要望決議をしている。
関東地方=東京都議会は3月30日の本会議で「原爆被害による不安除去にかんする意見書」を議,ほかに茨城,神奈川両県会,三崎町会と三崎町民大会。
中部地方=焼津,伊東両市会のほか,静岡、石川,岐阜,愛知の各県会。
近畿地方=3月29日の奈良市会をトップに京都.芦屋,田辺,新宮,彦根,舞鶴の各市会。
中・四国地方=4月初旬の岡山県会を皮切りに,高知など四国4県をはじめ.鳥取でも決議,25日には広島市議会が市民大会の要望に基づいて「原・水爆禁止」、「原爆障害者治療全額国庫負担」の決議を可決した。5月19日香川県庁で開かれた第2回四国地方行政連絡会議でも補償措置を中央に要望,また四国市議会,議長会は全国の自治機関に呼びかける「国民運動」の展開を申合せた。
九州地方=福岡県会と枕崎市会(鹿児島県)禁止決議している。

こうした動きは,議会のみでなく,次表のように,さまざまな分野の団体にもみられた。

決議(声明・宣言などを含む)を発表した団体・集会
(1954年3月~5月)
出典:『ビキニ水爆被災資料集』504-505頁,その他

月日 発表主体
3.19 自由人権協会
3.25 全日本海員組合
4. 2 買出人水爆対策市場大会
4. 3 婦人月間中央集会
4.15 日本私鉄労働組合総連合会
4.16 第1回全国教戒師大会
4.23 日本学術会議第17回総会
4.25 日本ユネスコ連盟第3回総会
4.25 新日本文学会中央委員会
4.27 全農林省労働組合第4回全国大会
4.28 日本赤十字社
4.30 日本社会学会・民主主義科学者協会法律政治部会
4.30 日本地質学会
5. 1 第29回中央統一メーデー
5. 1 生物進化研究会
5. 3 日本哲学学会第7回総会
5. 8 日本科学史学会1954年度総会
5.10 日本基督教団
5.12 国際民主法律家協会日本支部準備会
5.14 日本青年団協議会
5.15 日本政治学会
5.16 第2回PTA全国大会
5.20 日本気象学会
5.25 日本医師会代議員会
5.28 第7回全国図書館大会
5.29 日本弁護士連合会定期総会
5.30 日本民主主義科学者協会第9回全国大会
5. 日本文学協会第9回大会
5. 日本放射線学会

 

地域レベルでは,無数の決議が存在したであろう。広島では,広島市文化団体連絡協議会準備金(3月27日)(9)、広島県教組第11回定期大会(3月31日),世界平和者日本会議広島大会(4月12日),原爆水爆禁止広島市民大会(5月15日),全造船労組第15回定期大会(5月日)などを確認できる(10)。

決議の内容は,議会.諸団体を通じて,そのほとんどが,ビキニ被災のみでなく,広島・長崎の原爆被害に言及し,それを決議発表の動機もしくは根拠としている。国会の決議では,文面には現われていないか,衆参の提案の趣旨弁明,討論の中で,すべての発言者が取った立場であった(11)。たとえば,衆議院の決議案の趣旨弁明に立った須磨禰吉郎(改進党)は,つぎのように述べている(13)。

「わが日本は,人類多き中に,初めて原子兵器の犠牲となり,しかも二度ならず三度までも惨害を受けたのでございますから,ここに世界に対し,人類を代表して,かくのごとき惨禍の一日もすみやかに絶滅せられるよう,実効ある方法を立て,人類を破壊から救うことを提唱する上におきましても,最も崇高なる権利と,そしてまた最大の発言力とを有するものと信ずるのでございます。」
また,この決議案の賛成討論に立った自由党の佐藤虎次郎は,「日本の国会にこそ,この決議を提唱する権利と義務がある」とまで述べている(13)。

このようにビキニ水爆被災事件が広島・長崎の体験と当初から結びついていることは,広島・長崎の原爆被害が,この時期にすでに国民的な体験として,一定程度定着していたことを示すものといえよう。そして,この国民的な「被爆体験」こそは,ビキニ水爆被災事件以降の日本の原水禁運動が、単に水爆実験反対に止まらないい展開をとげ、また持続した根拠をなすものであったと思われる(14)。

なお,決議について.もう一つ注目されることは,4月23日の日本学術会23回総会や6月25日の江東区議会などのように,その声明・決議の中で,国会決議に言及しているものが存在することである(15)。

このことは,国会決議が,県・市町村議会,諸団体の決議を誘引する一つの要因であったことを示すものである。なお,日本哲学学会の決議(16)は,日本学術会議の声明に対する支持決議であるが,ビキニ水爆被災事件を契機とする原水爆禁止決議には,自然発生性のみでなくこうした「上から」の要因も存在していたのである。

1)労働省編『資料労働運動典昭和29年』1311頁(労務行政研究所、1955年)。なお世田谷区の共産党組織は.党の指示より前に,[日本人はモルモットではない」という怒りのピラの配布や原水爆禁止の署名運動などの行動に立ち上がっている(東京都西部地区委員会「原・水爆禁止運動の経験と教訓」,『前衛』1954年9月号所収)。
2)「社会タイムス」1954年3月23日。
3)「毎日新聞」1954年3月26日。
4)「朝日新聞」(夕刊)1954年3月26日。
5)「第19回国会衆議院会議録」第32号,1954年4月1日。
6)「第19回国会参議院会議録」第29号,1954年4月5日。
7)佐藤虎次郎「原子力の国際管理を主張する-原子力の国際管理に関する衆議院決議の意義-」(『政策』,1954年5月号,11-12頁)。
8)「中国新聞」1954年5月27日。なお,こうした地方議会における原水爆禁止決議は.10月22日の長崎県議会を最後に46都道府県議会全部が揃い,市町村においても10月26日現在で169市92町村に及んだ。労働省編,前掲書,1314頁。
9)「広島文学』1954年9月号,77頁。
10)「中国新聞」報道による。
11)5)・6)に同じ。
12)5)に同じ。
13)5)に同じ。
14)ここで筆者の言う「被爆体験」については,前掲拙稿を参照。
15)前掲『ピキ二水爆被災資料集』491頁,502頁。
16)『思想』1954年8月号。