関連市町村の状況(広島原爆戦災誌)

関連市町村の状況
出典:『広島原爆戦災誌 第4巻 第5章』、

市町村 備考
01 呉市
02 大竹市
03 三次市
04 庄原市
05 因島市
06 佐伯郡五日市町
07 佐伯郡廿日市町
08 佐伯郡沖美町
09 佐伯郡宮島町
10 佐伯郡大野町
11 佐伯郡湯来町
12 佐伯郡能美町
13 佐伯郡大柿町
14 安佐郡祇園町
15 安佐郡安古市町
16 安佐郡佐東町
17 安佐郡安佐町
18 安佐郡沼田町
19 安佐郡可部町
20 安佐郡高陽町
21 安芸郡府中町
22 安芸郡船越町
23 安芸郡安芸町
24 安芸郡海田町
25 安芸郡坂町
26 安芸郡瀬野川町
27 安芸郡矢野町
28 安芸郡熊野町
29 安芸郡熊野跡村
30 安芸郡江田島町
31 安芸郡音戸町
32 安芸郡倉橋町
33 高田郡白木町
34 高田郡向原町
35 高田郡吉田町
36 高田郡甲田町
37 賀茂郡志和町
38 賀茂郡黒瀬町
39 賀茂郡八本松町
40 賀茂郡西条町
41 山県郡戸河内
42 山県郡加計町
43 甲奴郡上下町

2-5-2-33 第三三項
2-5-2-42 第四二項
2-5-2-43 第四三項

広島市勢要覧 昭和21年版 復興第1年号

『広島市勢要覧 昭和21年版 復興第1年号』(広島市役所、194612)

目次

項目 備考
(口絵)
例言(広島市役所調査課)
01 総説
05 風土
07 行政
12 財政
21 教育
22 水道
26 保健衛生施設
26 社会援護施設
27 経済
36 都市計画
45 原子爆弾の犠牲と復興
81 付録

 

 

 

向原町原爆被爆者慰霊碑

向原町原爆被爆者慰霊碑

1976年10月建立、1995年8月1日、丸山公園に移設。

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被爆者慰霊誌

昭和二十年八月六日広島市に原子爆弾が投下され本町がいち早くこれらの戦災者の救護活動を展開したが真夏日と医薬品皆無の状態の下悶死された犠牲者は百数十柱に及んだ
本年は原爆投下五十周年に当りこれら無縁物の心からの鎮魂と二度と戦争のない世界平和を誓い静閑なこの地にこの地に慰霊碑を移設するものである
平成七年八月一日
向原町

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裏面 「昭和56(1981)年10月 建之」

 

広島県内市郡別人口推移(1944・45・46)

広島県内市郡別人口推移(1944・45・46年)

市郡 1944年 1945年 1946年
広島県 1962950 1885471 1901430
広島市 343034 137197 171902
呉市 339278 152184  170285
三原市 42052 42743  45122
尾道市 48864 53590  56624
福山市 57490 49060  53233
安芸郡 148649 161727  159033
佐伯郡 120706 149860  155118
安佐郡 63677  89882  82779
山県郡 49425 67650  60796
高田郡 53337 78394  73334
賀茂郡 96213  132800  124198
豊田郡 110116 145030  140265
御調郡 92485 108146  108425
世羅郡 34675  46097  44588
沼隈郡 83174 107177  106215
深安郡 46157 61370  60096
芦品郡 82093  78929  78253
神石郡 26267 32715  31622
甲奴郡 17371 33024  21778
双三郡 59687 80139 76270
比婆郡 67683 87757 81494

 

出典:「戦時期市町村別人口の推移」(『広島県戦災史』所収)
メモ
1944(昭和19)=昭和19年2月22日現在人口調査
1945(昭和20)=昭和20年11月1日現在人口調査
1946(昭和21)=昭和21年4月26日現在人口調査

 

書誌2020

書誌2020

書名 著者 発行所 発行年月日
日本文化の通になる-スペイン語を話す人々のための日本事典Ⅰ 遠西啓太 朝日出版社 20200229
「井上ひさし:『父と暮せば』」pp.143-147
<松重美人撮影・被爆当日の御幸橋p149.>
昭和天皇物語6 能條純一<原作:半藤一利> 小学館 20200502
昭和天皇物語7 能條純一<原作:半藤一利> 小学館 20201205
現地資料が語る基層社会像―20世紀中葉 東アジアの戦争と民衆 笹川裕史編 汲古書院 20201215
丸田孝志「第2章 人民に奉仕する身体-中華人民共和国成立前夜の華東栄誉軍人学校における兵士の生活」pp.31-62
人新世の「資本論」 斎藤幸平 集英社新書 20200922
ヒロシマを生きてー被爆記者の回想ー 山野上純夫 私家版 1031
昭和天皇物語7 能條純一<原作:半藤一利> 小学館 20201205
広島平和記念資料館総合図録 ヒロシマをつなぐ 広島平和記念資料館編、広島平和文化センター刊 20201221
 生まれた時から被爆者-胎内被爆者の想い、次世代に託すもの  原爆胎内被爆者全国連絡会  20201225

雑誌論文

著者 タイトル 掲載誌(編集、発行所) 発行年月
 堀川恵子  忘れられた遺骨-証言 75年が経ったということ  『御堂さん 2020年8月号』(本願寺津村別院 大阪教区教務所) 20200801

 

平和を―被爆から75年を行きぬいて

『平和を―被爆から75年を行きぬいて』(長崎原爆被災者協議会、20200809)

内容

著者 タイトルなど
[口絵] 写真でみる被災協のあゆみ
001 浜谷正晴 [特別寄稿]被爆七十五年被爆者運動に思う
1 忘れえぬあの夏の日
長崎7人
2 戦中・戦後を生きる
長崎12人
濱谷正晴 原爆と人間アーカイブに残る深堀悟迫真の証言
3 被爆者運動
長崎6人
4 戦争放棄・核兵器なくせ
長崎7人
5 被爆者・家族の思いをつなぐ
長崎11人
6 戦争、被爆体験・記憶を語りつなごう
長崎7人
資料編 長崎被災協のあゆみなど

 

 

広島部落問題研究会

広島部落問題研究会結成大会 1968年4月7日

会場:広島大学文学部

祝辞
門田秀夫 社団法人部落問題研究所嘱託研究員
藤川春雄 部落解放同盟広島県連合会委員長
奥田武夫 広島県教職員組合委員長
記念講演
小森竜邦 同盟県連副委員長
部落解放運動の今日的課題
天野卓郎 広島教育研究所
「明治百年」と部落問題
発会総会
経過報告、活動方針の決定、役員・幹事(14名)、会計(監査2名)、事務局長の決定
後藤陽一 代表監事挨拶
出典:『研究紀要「部落問題」』第1輯(広島部落問題研究会編集・発行)

原爆と未解放部落-いのちあるかぎり

『いのちあるかぎり 原爆と未解放部落』(福島地区被爆者の会編、兵庫県部落問題研究所刊、19850520 )

内容

著者
藤川春雄 はじめに
戦争・差別・貧困
高橋信雄 軍都広島
戦争のあゆみと一本の線路 軍都広島への道  軍港宇品から戦場へ 戦争とはなんだったのか  食料の補給もない戦場で すべての物を奪いつくす  すべての物を焼きつくす そして殺しつくす-「三光」作戦
手記〔その1〕
田中ハル ピカに夫を奪われて
和佐田政一(仮名) 米騒動と原爆で差別がわかった
堀川俊市 三重苦のわたしらの現状
高田春子 娘を奪ったあの日
滝川ヨネ子 若い人たちに伝えたい
炎と瓦礫の中で
金崎是 原爆と未解放部落
三滝山の無縁仏 炎と瓦礫の中で-わたしの体験 原爆による福島地区の被害状況戦前の部落の生活とわたしの生いたち部落差別を解消し、平和で豊かな日本を
手記〔その2〕
山中幸雄 悲しき被爆二世
前畑チヨノ 日本が戦争さえしなければ
大崎ヨシ子 一ケ月もたって掘り出されたわが子
宝神実人 まちがいなくわが娘だった
森本範雄 太陽の光もなんにもない
川口ユミ子(仮名) そりゃ生き地獄です
藤井イマコ 助かるとは思いませんでした
いのちあるかぎり
田阪正利 未解放部落の健康と医療
福島診療所創設のこと 部落と健康  健康へのあゆみ これからの課題
佐藤秀之 非核の日本を-若者たちは今
平和と核兵器廃絶は全人類の願い  深まる核戦争の危機 広がる反核運動の輪  若者たちは今
手記〔その3〕
丸岡ユキ 二人の息子をかえして!
川田芳夫(仮名) みんなの力で!
滝本静 いのちあるかぎり
中島カヨ 子どもや孫には平和な世界を
広田美千代 戦争を二度とおこさないために
平田路雄 原爆と森永ヒ素ミルク中毒のなかで
古賀昭子 被爆二世にも手帳を!
中西はるゑ あとがき
金崎是 あとがき(福島地区被爆者の会会長)

 

壁―未解放部落原爆被害者の手記

壁―未解放部落原爆被害者の手記(発行:福島地区被爆者の会)

第集 発行年 備考
1 19680806 差別と貧困の中から
壁―差別と貧困の中から―によせて 2
原爆被爆者の手記に寄せて 4
「未解放部落の被爆者として」 6
「日雇いぐらしの中から」 7
「差別と闘う我が子たち」 9
「私しゃ戦争にゃぜったい反対ですよ」 11
「ピカに夫を奪われて」 13
「朝鮮人被爆者として」 15
「原爆ブラブラ病に苦しむ」 16
「私の体験」 19
「二人のむすごをかえして!」 20
「一日も早く差別と戦争のない世の中を」 23
「私のあゆんだ道」 25
むすびのことば 28
2 19690806 三重苦の斗かい
○推せんのことば 広島県被爆者団体協議会理事長 田辺勝 1
○推せんのことば 部落解放同盟広島県連委員長 藤川春雄 2
はんせんのうた (一被爆者) 5
被爆者の保障はない *** 6
三重苦の斗い *** 7
食べるものも食べられぬ生活 *** 10
戦争と差別をなくするため!! *** 12
二十五年たったいまでも *** 14
三重苦のわたしらの現状 *** 17
原水禁運動を強めなくては *** 27
むすびのことば 金崎是 29
3 19700806
「壁」第三集発行によせて 福島病院院長 田坂正利 1
被爆者健診から 福島病院被爆診療科 鏑木富衛 3
被爆老人に生きる喜こびを 部落解放同盟広島県連合会 委員長 藤川春雄 13
〔特別寄稿〕
原子爆弾傷害調査委員会を告発する 深川宗俊 33
手記
米騒動と原爆で差別がわかった *** 15
カンボジアでもベトナムでもけっしてこんなことを切り返さないで *** 18
私の感想 *** 19
悲しき被爆二世 *** 21
みんなの力で! *** 24
生命のあるかぎり *** 28
子係や孫には平和な世界を *** 30
戦争を二度とおこさないために *** 31
あとがき 41
4 19710806
すいせんのことば 福島生協病院々長・田坂正利 1
人間らしい生活を 失対・***(62才) 2
嫁に行けない子 (認定被爆者)無職・***(63才) 3
わたしたちが死ぬのをまっている 失対・***(60才) 5
一五、六〇〇円で暮らしている ***(69才) 7
天皇や佐藤さんが来てもうれしくない ***(47才) 9
夫婦の記録 (認定被爆者)***(63才)・***(59才) 11
あの時の悲惨さは口にはいえない ***(67才) 13
このままでは死にきれない ***(63才) 14
被爆者活動から *** 17
ここに生きる(赤旗より) 故 鏑本富衛 19
むすび 事務局 25
5 19720806 被爆二世特集号
6 19730806 広島県水平社50周年記念
「壁」第六集発行によせて 部落解放同盟正常化広島県連委員長 藤川春雄 1
〔主張〕
原水禁運動と被爆者運動の真の統一と発展を願って 福島地区被爆者の会 3
〔特別寄稿〕
吉島被爆者の会「老いと怒りと」と野口久子さんの死 田丸歌子 5
〔手記〕
三重苦のわたしらの現状 堀川俊市 6
終戦の年のこと *** 14
差別の中に生きて靴職人の生活と原爆被爆 *** 16
娘をうばったあの日 八月六日
ひたむきに生きつづけてきた老婆の怒り *** 20
老いて訪づれた不幸 *** 23
どうしても語りつがなければ
少年の日、原爆と生活を背負って *** 25
被爆二世にも「手帳」を! *** 28
原爆被爆下の福島町 *** 30
「壁」を読んで読者からの便り 34
あとがき 38
7 19740806 原水禁運動20年
はしがき 1
福島地区の原水禁運動 第一回大会より第二〇回大会へ 2
原水禁運動・被爆者救援運動のなかで学んできたもの 8
被爆者の会を結成したころ 14
廃品回収運動の想い出 15
分裂への怒り(九回大会) 18
被爆者訪問の中から 20
被爆診療科のあゆみ 26
原水禁運動の日常化をめざして 30
被爆二世としてのとりくみ 32
原爆犠牲者慰霊碑建立趣意書 35
あとがき 36
8 19750806 原爆被爆30周年
はしがき 1
福島地区の原水禁運動 第一回大会より第二〇回大会へ 2
原水禁運動・被爆者救援運動のなかで学んできたもの 8
被爆者の会を結成したころ 14
廃品回収運動の想い出 15
分裂への怒り(九回大会) 18
被爆者訪問の中から 20
被爆診療科のあゆみ 26
原水禁運動の日常化をめざして 30
被爆二世としてのとりくみ 32
原爆犠牲者慰霊碑建立趣意書 35
あとがき 36
9 19760806 福島地区原爆犠牲者慰霊の碑建設記念
10 19780806 「壁」第十集発刊によせて 田阪正利 1
被爆者を囲んで 2
太陽の光もなんにもない。まっ暗ななかから狂うた牛が飛びかかってきた  *** 17
何べん死のう思うたかわからん *** 23
福島生協病院に入院中の被爆者のかたの話 27
戦争さえなければ、こんな目におうてないのに *** 34
「わしゃあ、あんたをかばっとるヒマはないんじゃけぇ」と妻に言って *** 39
あとがき 46
11 19790806
「壁」第十一集発刊によせて 中本康雄 1
われわれが訴えなければ、われわれの体験を現在の方々に伝えなければ 林田みや子 2
命をみつめて 林田みや子 8
いつでも子どもといっしょに いっしょに死ぬりゃあええ思うっとたんです 佐藤テル子(仮名)14
原爆に遭うた者には平等に手当をだしてもらいたい 鈴木ミネ子(仮名) 23
貧血のせいで、この暑いのにコタツがはなせんのですよ 藤川貞雄・藤川房江(仮名) 27
朝鮮の人に助けてもろうての、うれしかったよ 山田スミ子(仮名) 31
生き証人として大きい声でいゝたいよ *** 37
街が燃える最中に広島にはいってきました 杉山ヨシ子(仮名) 46
あとがき 53
12 19950806 終刊号
巻頭言・『壁』に寄せる 齋藤紀 1
主張 被爆者援護法の課題 3
平和・民主主義・生活擁護のたたかい五十年-金崎是の被爆・戦後五十年- 小西正則 5
助産婦として六十年-益田小蝝さんとの対談- 西岡ミツ子 12
岩井コマノさんの被爆体験 秋本美佐子 18
学童疎開から五十年-水本文子さんの孫への話し- 藤井みな子 22
藤川美代子さんの被爆とその後 佐竹陽子 27
米三升で焼いてもらったひろこちゃん・姉 木原清子さんの回想 柿本一征 30
金崎さんのお話を聞いて 山口竜司 36
金崎さんの話をうかがって 小西結介 38

 

広島中央保健生活協同組合

広島中央保健生活協同組合

機関誌『けんこう』WEB版http://www.hch.coop/magazine/index.html

No. 発行年 記事
466 201108 伝言板 8月16日創立記念日 1955(昭和30)年8月16日、住民自らの手で福島診療所がつくられました。
466 第26回「網の目平和行進」
467 201109 子どもたちに明るい未来を核のない21世紀を願い訴えます
 555  201909  8・6朝のセレモニー
 555  2019ピースアクショinヒロシマ虹のひろば
566  202009  8・6朝のセレモニー
 566  平和を考える~三人女誕生会
< 新川場町で被爆>

 

 

核に灼かれて 安芸地区被爆の記録

『核に灼かれて 安芸地区被爆の記録』(安芸地区被爆実相委員会)

第1集
第2集
第3集
目次
1 はじめに(1996.7.30)
2 各町の実相
B 矢野町
高山俊郎 原爆を目のあたりにして
広島高等師範学校附属中学校1年生
C 海田町
尾木正己 白島付近を通って
D 船越町
上田盈 私の原爆体験記
F 熊野町
田原詩郎 熊野町では
平和のために
中節二 槇尾さんを偲んで
奥村邦一 中節二さんに捧げる
金子一士 タヒチ集会に参加して
4 三村博保さん追悼集

 

 

占領下被爆者医療活動(都築正男資料から)

広島市公文書館開館30年講演会(2007年9月29日)
占領下における被爆者医療活動-医学博士・都築正男資料から
宇吹 暁(広島女学院大学)

はじめに
1972年2月3日、日赤に重藤文男院長を訪問。
都築著『医学の立場から見た原子爆弾の災害』借用。
1978年6月11日、80年11月17日~18日、都築家資料調査。
1994~96年度 科学研究費補助金
1995年12月23日、広島大学公開講座「原爆医療法制定前の被爆者問題」。

Ⅰ 占領下における被爆者医療活動
『広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響』
(広島大学1995.10.01)<資料1

Ⅱ 都築資料の概要
広島市寄贈(1981年7月6日)点数
書簡・葉書53点、論文247点、講演要旨27点、写真19点、雑誌17点、調査票9点、地図9点、その他264点 計645点 <『広島市公文書館紀要 第5号』(広島市、1981.03.31)>
『広島新史 資料編1(都築資料)』(広島市、1981.03.31)
目次<略>

Ⅲ 都築正男をめぐる現在

1.文献

1.文献

No. 発行年月日 書名 著者・編者 発行所
  1959.07.21 原水爆時代-現代史の証言(上) 今堀誠二 三一書房
  1972.03.31 広島県史・原爆資料編 広島県(編) 広島県
  1979.07.25 広島・長崎の原爆災害 広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会(編) 岩波書店
  1980.08.06 桜隊全滅-ある劇団の原爆殉難記 江津萩枝 未来社
  1981.03.31 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 広島市(編) 広島市
  1981.03.31 広島市公文書館紀要 第5号 広島市(編) 広島市
  1981.04.05 都築正男研究業績目録-都築正男大人命20年祭 広島市史編纂室(編) 都築正和
  1982.11.10 長崎原爆体験-医師の証言 調来助・吉沢康雄 東京大学出版会
  1986.08.11 DDT革命-占領期の医療福祉政策を回想する サムス,クロフォード、F.、竹前栄治(訳) 岩波書店
  1990.10.18 核と共に50年 木村一治 築地書館
  1995.03.30 漱石の脳 斎藤磐根 弘文堂
  1995.10.01 広島大学公開講座・被爆50年
-放射線が人体に与えた影響
広島大学 広島大学
  1997.02. 原爆被爆者対策史の基礎的研究―原爆被爆者対策前史 1945年(昭和20)~1953年(昭和28)資料集― 宇吹 暁 宇吹 暁

 2.今堀誠二の評価

占領軍と日本人科学者:サムス、アレン、ケリー、  ジュノー

『原水爆時代-現代史の証言(上)』、『広島県史・原爆資料編』、(『広島・長崎の原爆災害』)、『広島新史・資料編Ⅰ-都築資料』

3.検閲
「所謂『原子爆弾傷』に就いて-特に医学の立場からの対策」(『総合医学』、1945年10月1日)
<ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」>

4.調査データのプライオリティ
大橋成一(元陸軍軍医学校教官・少佐、宇品陸軍救護病院副院長)、井深健次(元陸軍軍医学校校長・中將)宛の書簡(1953年5月3日付)の中で原子爆弾災害調査報告集の中に軍関係者の名前が掲載されていないことを指摘。(「広島県史原爆資料編」)。
大橋書簡=「当時の軍関係者の研究分担者の名前が掲載されて居らず、大学の先生方等のみの名があり、之のレポートが大学の先生方によって主になされた如く誤解される恐れがあると愚考致します。」

5.政府機関
予防衛生研究所、文部省、厚生省研究班、

6.広島・長崎の医療関係者
*都築正男報告(新聞発表)『中国新聞』
1945.9.4  9.5  11.25    1946.5.22  12.21
『広島県史・原爆資料編』(広島県、1972.03.31)
*公開治療
*松坂義正(広島)、調来助(長崎)
*学研調査団資料 調査票

7.被爆者
1945年8月13日、仲みどり(移動演劇団桜隊の女優)、広島で被爆後、東大都築外科に入院。24日、仲みどり、東大病院で死亡。30日、東大医学部教授都築正男ら調査団、来広。

1956年4月15日、東京の原爆被災者の会(事務局長松尾明人)、東京で、原爆被災者の集いを開催(東京・群馬・神奈川などから約100人参加)。都築博士による講演。被災者対策の充実・促進などを申し合わせ。

「畑とし子」=<東京の日赤で都築博士の治療を受ける>『あの日から生きて生きて』(1986年2月20日)
宗藤尚三=<被爆場所:1.3キロ自宅。大学生。日赤・似島・庄原日赤で治療。庄原では都築の診断を受ける。>『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』(1992年6月10日)

放射線影響研究の10年(文部省科研研究班)

『放射線影響研究の10年』(文部省科学研究費(総合)「放射線の影響」研究班、196503)

目次

事項 執筆者 備考
はしがき 桧山義夫(東大農教授)
前篇(時代別)
ビキニ以前 田島英三(立大理教授)
原爆症 渡辺漸(広大原医研所長)
ビキニ事件 桧山義夫(東大農教授)
国連科学委員会 田島英三(立大理教授)
後篇(分野別)
物理関係 山崎文夫(理研主任研究員)
化学関係 三宅泰雄(東教育大教授)
生物と遺伝 田島弥太郎(遺伝研部長)
環境放射能汚染 桧山義夫(東大農教授)
医学関係 宮川正(東大医教授)

 

合衆国戦略爆撃調査団報告書(森祐二訳)一覧

合衆国戦略爆撃調査団報告書(森祐二訳、広島平和文化センター刊)一覧

No. 書名 著者 出版年
3 広島、長崎に対する原子爆弾の効果 総務部 1987/02/15
9 民間防衛報告No.1 広島現地報告 1983/03/24
13 広島および長崎の保健・医療部門に対する原子爆弾の効果 医学調査部 1987/02/15
14 日本人の戦意に与えた戦略爆撃の効果 戦意調査部 1988/11/20
60 広島市に対する空襲の効果 都市地域部 1984/03/31
92 広島に対する原子爆弾の効果 物的損害調査部 1983/03/24

米国戦略爆撃調査団

米国戦略爆撃調査団

アメリカ合衆国戦略爆撃調査団は、1944年11月3日にルーズベルト大統領の命令により設置された。もともとドイツにたいする戦略爆撃の効果の調査を目的として設置されたものであるが、対日戦の終了した8月15日に、トルーマン大統領の要請を受けて、対日戦における空襲の効果を調査する部隊が編成された。定員は、文官・士官兵合わせて1150名という大規模なもので、9月初め東京に本部を設け、大阪・名古屋・長崎には支部が、また日本各地、太平洋諸島、アジア大陸には移動支部が置かれた。
調査は、民事・経済・軍事の3分野の柱からなっていた。民事では、民間防衛・医療・戦意の3部門が設けられ、日本の防空に関する計画・組織・機関・設備・訓練、疎開、医療に関する人員・組織・施設および食料・栄養事情・環境衛生、空襲により発生した死傷・疾病および一般市民の戦意が調査された。
経済研究では、石炭・石油などの基礎資料、航空機・船舶をはじめとする軍需生産、電力・化学・機械・建築・運輸などの産業基盤、労働力の利用とその能力の崩壊過程が調査されるとともに、東京など九都市に関しては、都市経済が分析対象とされた。
軍事研究では、将官26名・佐官67名の陸海軍人にたいする詳細な尋問がなされ、対日戦の各戦闘における航空機の役割を中心に、各作戦あるいは各兵器の成果が調査された。また、日本の軍事的技術も細部にわたり検討された。

調査は、12月初めまで続けられ、108巻の報告書がまとめられた。報告書によれば、1944年6月から1945年8月15日の期間に日本の500以上の攻撃目標が爆撃を受けた。これらの大半は特定の工場や施設であったが、66の都市は、特定の目標ではなく全市域が爆撃の対象となった。また、爆撃の結果、一般市民の3分の2以上が警戒警報を含めた空襲を経験し、5分の1が家屋に損害を受けたとしている。人的被害については、原爆攻撃を含む空襲による死傷者の数を約81万名、そのうち約33万名が死亡したと推定している。
民事の戦意部門では、日本全国60地点から4075人の一般市民を抽出して面接調査を実施した(実際に面接できたのは3135人)。これは、日本人を対象に実施された初めての科学的な世論調査であった。
面接調査により、空襲が日本人に、勝利への疑いや敗北は確実との感情をもたらし、戦争継続意志を喪失させたことが明らかになった。戦意部門による面接調査の目的は、空襲が日本人の戦意に及ぼした影響にあったが、あわせて8月の降伏から面接時までの日本人の意識や生活状態についても聞き取っている。それによると、日本の降伏についての反応は(複数回答)、「残念、悲嘆、失望」(30%)、「驚き、衝撃、当惑」(23%)、「救済感、幸福感」(22%)などであった。また、調査時における生活状態への不満の理由として(複数回答)、「食糧不足」(85%)、「他の物資不足」(38%)、「インフレと闇市」(29%)、「実業、賃金不足、劣悪な仕事」(17%)などがあがっている。
日本政府や科学者は、原爆被害の一部を除いては何ら被害の体系的な調査・研究を行なっていなかった。医学調査部門の報告書は、「空襲死傷者に関する情報のきわ立った不足はほとんど信じられないほどであった」と述べている。敗戦日本の混乱の中でなされたアメリカの大規模で科学的な調査の結果は貴重なものである。とはいえ、この調査は、結局のところ軍事目的からなされたものであり、ここから調査団が引き出そうとしたものは、戦略爆撃の効果と今後の教訓であった。報告書の結論は、戦略爆撃により、原爆攻撃・ソ連の対日参戦・日本本土上陸作戦がなくても1945年末までに日本の降伏がもたらされていただろうというものであった。

 

マンハッタン:陸軍と原爆

『マンハッタン:陸軍と原爆―第2次世界大戦中の合衆国陸軍:特別研究』(Vincent C. Jones著、合衆国陸軍軍事史センター、1985年刊)

目次

部章 見出し 備考
序言:1939年までの原子力の歴史
原爆開発任務の始まり
核分裂物質の生産
支援活動
原爆
原爆開発任務の完了
原爆
24 ロスアラモスの兵器プログラム
25 兵器開発と実験
26 日本への原爆投下
原爆投下部隊の準備
原爆使用の決定
原爆投下
日本の降伏
原爆の効果の調査

 

1992091401
広島大学原医研・疫学部門の抄読会(19920914)
宇吹報告(「マンハッタン:陸軍と原爆」)用レジメ。
  マンハッタンは、陸軍航空軍の7月26日の命令[ハンディ発スパーツ原爆投下命令]の実行にあたり、重要な協力的役割を担った.トップレベルでは、グローブズ将軍が、ワシントンのアーノルド将軍のスタッフとの接触、テニアンの彼の代理(カークパトリック大佐、7月31日からはファーレル将軍)、キング提督から太平洋戦域の海軍司令官たちと原爆投下業務を調整することを任されたパ-ネル提督を通して、投下部隊全体に影響力を保持していた. ファーレル将軍は、進行中の日本への原爆投下の準備を調整するようグローブズから特命を受け、中部太平洋に到着した.ファーレルは.まずグァムに降り、ルメイ将軍(この直後に合衆国陸軍戦略航空軍参謀長に就任)とニミッツ提督と協議を行った.テニアンに移動してからは、ファーレルは、パ-ネル提督とパースンズ大尉を訪問した.
ファーレルは、かなりの時間をパ-ネル提督と過ごした.パーネルは、第1技術支隊が7月の間にテニアンで行った集中的な活動について詳細に語った.同支隊は、第509部隊の他の部門と海軍の協力で、爆弾、特にリトルボーイの部品の組立とテストのための技術的能力を蓄え、緊惷時における硫黄島での再装填の能力のチェックを慎重に実施していた.更に、パースンズは、彼が新たに組織したプロジェクト技術委員会の役割についてもファーレルに語った.その役割とは、ガン型および内破型両タイプの複雑な最終テストと組立に関して、彼が計画し、陸軍航空軍の部門と協力することを援助することであった.
両タイプの爆弾の部品とアクティブ原料[ウラン]は、原爆投下部隊が実際に使用する直前に、テニアンの支隊に届いた.まず、リトルボーイのものが届いた.部品とU-235の大部分は、7月中旬にロスアラモスを出発した.それまでは、ロバート・R・ファーマン少佐(グローブスのワシントンの司令部から派遣された特別プロジェクト将校)、ジェームズ・F・ノーラン大尉(ニューメキシコ実験場の主任軍医将校)の厳重な管理下にあった。<以下未入力>

 

 

 

原爆被害調査概要(直後)

原爆被害調査概要(直後)

出典:宇吹暁「原爆医療法制定前の被爆者問題」( 『広島大学公開講座・被爆50年-放射線が人体に与えた影響』(広島大学、19951001)

原爆被害調査
 広島に駐屯していた軍の機関は直後から原爆の被害状況の調査をおこなった。8月8日以降、技術院調査団・大本営調査団・陸軍省広島災害調査班など、中央あるいは他地域の軍機関が、つぎつぎに広島に調査団を送った。これらの調査団の中には、原爆かどうかの確認をえるため、日本の原爆開発に関与していた理化学研究所の仁科芳雄、京都帝国大学の荒勝文策、大阪帝国大学の浅田常三郎らが参加していた。大本営調査団は、10日在広の陸海軍および来広中の各調査団を兵器補給廠(現在の広島大学医学部)に参集させ、陸海軍合同の研究会を開催した。研究会は、レントゲンフィルムを感光させる放射線の存在などを理由として新型爆弾を原子爆弾と判定した。8月15日までの調査の第一義的目的は、弾種の決定と対策樹立にあったが、同行した原子物理学者による放射能の測定や陸軍軍医学校・臨時東京第一陸軍病院関係者による人体への新型爆弾の影響調査は、のちの原爆被害研究の端緒となった。
 8月末からは東京帝国大学医学部の都築正男を加えた陸軍軍医学校の広島戦災再調査班が広島で調査を開始した。9月1日、広島第一陸軍病院宇品分院で開かれた調査班の研究打合会では、それまでの患者の発生状況、傷害の経過観察にもとづく所見が発表され、安静休養・栄養補給などを内容とする当面の治療方針が決定された。また、地元の中国軍管区司令部の要請により、京都帝国大学に調査団が組織され、9月5日から大野陸軍病院を拠点として調査を開始した。さらに、9月14日には、文部省学術研究会議が、原子爆弾災害調査研究特別委員会を設置した。これにより、それまでの日本側の各学術機関による調査が、統一的に実施されることになった。この委員会は、物理学・化学・地学、生物学、機械金属学、電力通信、土木・建築、医学、農学・水産学、林学、獣医学・畜産学の九科会で構成され、研究員約150人、助手約1000人が配置された大規模なものであった。
アメリカ軍の調査
 アメリカの原爆開発組織マンハッタン・プロジェクトの指揮官グローブスは、1945年8月11日、ファーレル(太平洋地域における原爆投下業務の責任者)に原爆調査隊を日本へ送るよう指示した。ファーレルは、この指示にもとづき、広島班・長崎班、「日本の原爆開発に関する総合的な情報収集」を任務とする東京班の3班を組織した。
 いっぽう、GHQ内部でも、原爆被害調査の動きが見られた。マッカーサーの軍医顧問オーターソン大佐は、8月28日付で、「原子爆弾が傷害を引き起こす効果に関する調査について」と題するメモランダムを起草した。オーターソンは、軍医総監デニット准将のメモランダムへの承認を得ると、日本政府(9月3日)やマンハッタン・プロジェクトのファーレル(同月4日)との接触を持ち、調査に取りかかった。
 9月8日、マンハッタン・プロジェクトのファーレル、GHQのオーターソン、国際赤十字社のジュノー、東京帝国大学の都築正男らが、空路岩国に来着、翌9日から都築の案内で広島市内での調査を開始した。物理学的分野では、爆心地付近の放射能調査を行い、医学的分野では、第一国民学校・日赤病院・宇品陸軍病院の収容患者を視察した。
 アメリカ側の原爆被害調査は、このほかに、海軍・戦略爆撃調査団によってもなされた。とくに医学分野では、GHQのオーターソンを責任者とし、マンハッタン・プロジェクト、海軍、日本側科学者などからなる合同調査団が組織された。この調査団は、9月下旬から12月まで調査を実施し、1946年9月に、「日本における原子爆弾の効果研究のための合同調査団医学報告」をまとめた。
原爆検閲とABCC
 アメリカは、原爆開発を超秘密裡におこなった。原爆投下により、その秘密の一部は解除されるが、研究・開発の内部情報の多くは、戦後も極秘扱いとされた。1945(昭和20)年9月19日、GHQ(連合軍最高司令部)が「新聞準則」(プレス・コード)を指令するが、これは、日本における原爆被害情報の公表を阻止するために大きな役割を演じた。原爆被害に関する報道や文学などが、GHQの検閲や日本のマスコミの自主規制により姿を消した。
 アメリカのこうした政策は調査・研究面にも見られた。11月30日の学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会の第1回報告会の席上、GHQ経済科学局の担当官は、日本人による原爆被害研究はGHQの許可を必要とすること、またその結果の公表を禁止する旨を通達した。こうした制約は、日本における原爆症調査・研究・治療の進展を妨げる結果をもたらした。学術研究会議による調査研究は、約3年間で終息し、以後日本の科学者による組織的研究は途絶えた。
 いっぽう、アメリカは、医学的立場から長期にわたる調査研究を計画し、1946年11月26日のトルーマン大統領指令にもとづいてABCC(Atomic Bomb Casuality Commission)を組織した。日本におけるABCCの本格的調査活動は、1948年2月に遺伝学的調査から着手され、広島・長崎両市の全妊産婦の登録が試みられた。当時、妊婦には政府による食糧の特別配給が認められていたので、その増配申請がおこなわれる機会に、職員による面接調査を実施し、1953年12月までに77,000名(全妊婦の93%)の登録を完了している。また、1949-50年には、48年の広島市米穀配給台帳に被爆者として記入されている全員の家庭訪問を実施し、181,000名の被爆歴を入手した。さらに、1950年10月1日に実施された国勢調査に際し、ABCCは、その付帯調査として、被爆者の所在調査を全国的規模でおこない、284,000名の被爆者を把握した。