袋町国民学校西校舎

袋町国民学校
現在袋町小学校西校舎
爆心地からの距離:460メートル
所在地:中区袋町6番36(袋町)
竣工時期:1937(昭和12)年1月
構造/階数:鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
設計者/施工者:広島市役所営繕課/森田工業

本川国民学校校舎

本川国民学校校舎
現在:本川小学校平和資料館
爆心地からの距離:410メートル
所在地:中区本川町1丁目5-39(鍛治屋町)
竣工時期:1928(昭和3)年7月
構造/階数:鉄筋コンクリート造/3階建・一部地下1階
設計者/施工者:増田清/清水組

楠忠之オーラル・ヒストリー 目次

『楠忠之オーラル・ヒストリー 広島大学文書館オーラル・ヒストリー事業研究成果報告書』(楠忠之著、石田雅春、布川弘編 、20171031)目次

はじめに(広島大学75年編さん室 石田雅春) 聞き取り日
第1回  生い立ち・幟町小学校の思い出
修道中学校時代の思い出
広島高等師範学校(臨教)への進学
海軍予備学生への志願…12
佐世保海兵団、旅順海軍特別根拠地隊への配属
20160204
第2回  予備学生・生徒の状況(前回の補足)
敗戦前後の状況
ソ連軍の進駐
シベリア抑留(1)
帰国、ヒロシマの惨状
日本国憲法との出会い
広陵高校への就職、広島文理科大学を受験
シベリア抑留(2)
広島文理科大学での勉強
20160310
第3回  広島文理科大学時代の思い出
学生運動について
卒業、宇品中学校への勤務
結婚について
映画「ひろしま」への協力
庚午中学校への転任
20160425
第4回  前回の補足(日鋼争議、広島反戦学生同盟、レッドパージ)
教職員組合の政党支持
学校施設・生徒指導の状況
受験指導の状況
PTAとの関係について
進路指導・家庭訪問について
一〇・ニーストライキ(昭和四一年)について(1)
原水爆禁止日本協議会、平和教育について
勤評闘争について
20160519
第5回  庚午中学校への中傷
生徒指導について
小学校教員と中学校教員の気質の違い
勤務評定について
翠町中学校への転任
20160701
第6回  学力テスト反対闘争について
高校入試制度の改革について
原水爆禁止運動の分裂について(1)
署名運動の力
原水爆禁止運動の分裂について(2)
20160802
第7回  所蔵の写真について
一〇・ニーストライキ(昭和四一年)について(2)
一〇・二六ストライキ(昭和四二年)について
平和教育(原爆副教材の作成)について
学校の運営方法(校長の権限)について
20160916
第8回  部落解放同盟広島県連合会と広島県教職員組合の関係について
(1)
大学紛争の影響について
部落解放同盟広島県連合会と広島県教職員組合の関係について
(2)
県議会議員選挙への出馬
県議会議員としての仕事(イノシシ対策、井口高校新設、不正経理問題、解放同盟問題など)
住民運動とのかかわり
20161130
第9回  自民党による解放同盟批判
総合選抜制への批判
八者合意について
原爆遺跡保存運動懇談会について
20161222
第10回  広島県原水爆禁止日本協議会について
原爆遺跡保存運動懇談会について
「中島地区ゆかりの人たちの集い」について
「建物疎開動員学徒の原爆被災の実相を記録する会」について
原爆ドームの景観を守る運動について
町内(庚午南)のマンション建設問題について
「原爆の子」を受け継ぐ会について
九条の会について
最近の取り組みについて(被爆建物、かき船問題)
広島教育研究所について
20170111

帝国銀行広島支店

帝国銀行広島支店

現在* アンデルセン
竣工時 帝国銀行広島支店
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.36キロメートル
所在地 中区本通7-1(革屋町)
竣工時期 1925(大正14)年2月
構造/階数 RC造/2階建
設計者/施工者 大倉土木

 

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2009年8月19日撮影

 

 

 

日本銀行広島支店

日本銀行広島支店

現在* 旧日本通運出汐倉庫等
竣工時 広島陸軍被服支廠
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.38キロメートル
所在地 中区袋町5-1
竣工時期 1936(昭和11)年8月
構造/階数 鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
設計者/施工者 日本銀行臨時建築部・長野宇平治/清水組

 

 

 

原爆遺跡保存運動懇談会(略年表)

被爆建造物保存のための懇談会(原爆遺跡保存運動懇談会)  結成日1990年12月4日

略年表(宇吹所蔵資料に基づく)

年月日 事項 備考
1990
0327 広島市議会「原爆遺跡の保存を求める決議」(全会一致) u
1204 「被爆建造物保存のための懇談会」、広島市で開催(約30人出席)。「原爆遺跡保存運動懇談会」を結成し活動することを申し合わせる。
1991
0123  原爆遺跡保存運動懇談会世話人名簿 1991年1月23日現在 u
0513 第5回世話人会(ご案内)[はがき] u
0520  原爆遺跡保存運動懇談会個人賛同者名簿 1991年1月23日現在 u
0617  原爆遺跡保存運動懇談会ニュースNO.2 u
0630 消すな!被爆の証人 原爆遺跡フィールドワーク [資料・新聞報道]。参加者60人?70人? u
 0706  第6回世話人会(ご案内)[はがき] u
0803 原水禁世界大会国際会議で発言(大中真一)
0804 原水禁世界大会国際会議「広島宣言」に原爆遺跡保存問題が位置づけられる。(長崎大会でも同趣旨で「宣言」に位置づく)
 0913   原爆遺跡保存運動懇談会第7回世話人会議[会議資料 B4 7枚] u
 広島赤十字病院被爆建造物保存運動の報告[会議資料 B4 4枚]
1024  原爆遺跡保存のためのシンポジウム--あのときそこでなにがあったのか‥‥ 遺跡は何が語りたいのか[ビラ 1枚] u
 1121  旧・理学部1号館(旧・文理大本館)保存についてのアンケート(実施期間 11月21日~12月9日)集約結果[部外秘] u
1992
0124 記者発表レジメ
0207  原爆遺跡保存運動懇談会第2回総会[案内]  u
 0212   原爆遺跡保存事業促進の要請(後藤陽一⇒広島市長平岡敬) u
0301 原爆遺跡フィールドワーク(Aコース30名、Bコース30名)
0317 核兵器廃絶・被爆者援護法の実現をめざす広島総決起大会「原爆遺跡保存についての特別決議」(案) u
0703 葉書[広島日赤原爆病院保存に関する依頼 *林*子⇒被爆建物等継承委員会委員宇吹] u
 1993
 0217  原爆遺跡保存運動懇談会第3回総会
 0924  元大正屋呉服店を保存する会発足。
1994
 0129  原爆遺跡保存運動懇談会第4回総会
 1995
0107  元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保存を考える会。ところ:広島市婦人教育会館。
0215  原爆遺跡保存運動懇談会第5回総会[会議資料] u
 1996
0117 シンポジウム「あらためて原爆遺跡保存を考える-レストハウス、元文理大などをめぐって」 u
 0117  原爆遺跡保存運動懇談会第6回総会[会議資料]  u
 0209   原爆遺跡保存運動ニュースNo.2
 0213   原爆遺跡保存運動ニュースNo.3
 0219   原爆遺跡保存運動ニュースNo.4
 0222   原爆遺跡保存運動ニュースNo.5
 0227   原爆遺跡保存運動ニュースNo.6
 0301   原爆遺跡保存運動ニュースNo.7
 0305   原爆遺跡保存運動ニュースNo.8
 0319   原爆遺跡保存運動ニュースNo.9
 0402   原爆遺跡保存運動ニュースNo.10
 0419   原爆遺跡保存運動ニュースNo.11
  原爆遺跡保存運動ニュースNo.12
  原爆遺跡保存運動ニュースNo.13
 0610   原爆遺跡保存運動ニュースNo.14
 0628   原爆遺跡保存運動ニュースNo.15
 0731   原爆遺跡保存運動ニュースNo.16
0806 『ガイドブックヒロシマ-被爆の跡を歩く』(原爆遺跡保存運動懇談会著、新日本出版社、19960806)
 0820   原爆遺跡保存運動ニュースNo.17
 0909   原爆遺跡保存運動ニュースNo.18
 0930   原爆遺跡保存運動ニュースNo.19
1009 山瀬明(元大正屋呉服店を保存する会代表世話人)「ふる里の証、爆心の被害を告発し続ける元大正屋呉服店をそのまま保存してほしいと願う 弁護士会平和委員会への報告」 u
1116 レストハウス(元大正屋呉服店)の保存・活用についてみんなの思いを語るトーク集会。[配布資料] u
 1120   原爆遺跡保存運動ニュースNo.20
 1212   原爆遺跡保存運動ニュースNo.21
1997
0123 保存する会・保存懇合同世話人会。[配布資料] u
 0213  原爆遺跡保存運動懇談会第7回総会
 0303   原爆遺跡保存運動ニュースNo.24
0320  「パネルディスカッション・合唱コンサート 原爆遺跡 過去から未来へ 旧広島大学理学部一号館(元広島文理科大学本館)から何が見えるか」。[配布資料] u
 0401   原爆遺跡保存運動ニュースNo.25
 0417   原爆遺跡保存運動ニュースNo.26
 0430   原爆遺跡保存運動ニュースNo.27
 0527   原爆遺跡保存運動ニュースNo.28
 0610   原爆遺跡保存運動ニュースNo.29
 0630   原爆遺跡保存運動ニュースNo.30
 0707   原爆遺跡保存運動ニュースNo.31
 0715   原爆遺跡保存運動ニュースNo.32
0725   原爆遺跡保存運動ニュースNo.33
0818   原爆遺跡保存運動ニュースNo.34
0912   原爆遺跡保存運動ニュースNo.35
1013   原爆遺跡保存運動ニュースNo.36
  原爆遺跡保存運動ニュースNo.37
1206 元大正屋呉服店(レストハウス)の保存・活用をみんなで話し合う集い。[配布資料] u
1215   原爆遺跡保存運動ニュースNo.38
1998
0127 原爆遺跡保存運動ニュースNo.39
0218  原爆遺跡保存運動懇談会第8回総会
0323  原爆遺跡保存運動ニュースNo.40
0524 原爆遺跡フィールドワーク(第8回)[配布資料] u
0625  原爆遺跡保存運動ニュースNo.41
0925  原爆遺跡保存運動ニュースNo.42
1222  原爆遺跡保存運動ニュースNo.43
 1999
 0219  原爆遺跡保存運動懇談会第9回総会[配布資料] u
0420  原爆遺跡保存運動ニュースNo.44
0708 原爆遺跡保存運動ニュースNo.45
0921 原爆遺跡保存運動ニュースNo.46
1110 原爆遺跡保存運動ニュースNo.47
2000
 0121  原爆遺跡保存運動懇談会第10回総会[会議資料]  u
0225 原爆遺跡保存運動ニュースNo.48
0330 原爆遺跡保存運動ニュースNo.49
0701 建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会結成総会・フィールドワーク。
原爆遺跡保存運動ニュースNo.50
0718 原爆遺跡保存運動ニュース号外
0722 袋町小西校舎「伝言」を見学する会[配布資料] u
0809 原爆遺跡保存運動ニュースNo.51
1120 原爆遺跡保存運動懇談会10周年記念懇親会。[配布資料] u
1208 原爆遺跡保存運動ニュースNo.52
2001
0108 原爆遺跡保存運動ニュースNo.53
0109 原爆遺跡保存運動ニュース速報
0126 原爆遺跡保存運動懇談会第11回総会
0330 原爆遺跡保存運動ニュースNo.54
0828 原爆遺跡保存運動ニュースNo.55
1121 元広島文理科大学(旧広島大学理学部1号館)の保全と見学についての要望(⇒広島大学長牟田泰三)
1129 原爆遺跡保存運動ニュースNo.56
2002
0227 原爆遺跡保存運動ニュースNo.57
0328 原爆遺跡保存運動ニュースNo.58
0614  原爆遺跡保存運動ニュースNo.59
0806 『あの日ここで 原爆遺跡写真集』(原爆遺跡保存運動懇談会編・刊、池上利秋撮影)
0927   原爆遺跡保存運動ニュースNo.60
1227   原爆遺跡保存運動ニュースNo.61
2003
0430  原爆遺跡保存運動ニュースNo.62
 0620  原爆遺跡保存運動ニュースNo.63
1003  原爆遺跡保存運動ニュースNo.64
10 元広島文理科大学本館(旧広島大学理学部1号館)の保全運動の経過(保全を考える会)
2004
0323  原爆遺跡保存運動ニュースNo.65
0610   原爆遺跡保存運動ニュースNo.66
0906  原爆遺跡保存運動ニュースNo.68
2005
0414  原爆遺跡保存運動ニュースNo.70
0701 『爆心地中島 あの日、あのとき』(元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会編刊、20050701)
2006
0806 『広島 爆心地中島』(原爆遺跡保存運動懇談会編、 新日本出版社 、2006/08/06)
1207 原爆遺跡保存運動ニュースNo.75
 2011
0126 『あの日ここでは 保存懇20年の歩み』(原爆遺跡保存運動懇談会編・刊)

広島陸軍被服支廠

広島陸軍被服支廠

現在* 旧日本通運出汐倉庫等
竣工時 広島陸軍被服支廠
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 2.67キロメートル
所在地 南区出汐2丁目4-60
(出汐町)
竣工時期 1913(大正2)年8月
構造/階数 鉄筋コンクリート造・ レンガ造/2階建
設計者/施工者 不詳

 

 

 

平和記念施設あり方懇談会(レジメ)

平和記念施設あり方懇談会

平和記念施設保存・整備方針の策定

1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。

2 保存・整備方針策定の対象

ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。

1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。
2 保存・整備方針策定の対象
方針策定の対象は、ヒロシマのシンボルである平和記念公園を中心とした空間(おおむねバッファーゾーンと同じ。)及びそこに所在する原爆ドーム、平和記念資料館、平和記念公園及び平和記念公園に接する平和大通りの一部を対象とする。
(1)原爆ドームは、核兵器が人類に何をもたらすのかを、最も象徴的に体現し、人間の理性と良心に訴えることのできる遺産であり、これを将来にわたって保存していくことの意義を改めて整理するとともに、将来の世代に理想的な姿で引き継いでいくための保存のあり方を整理する。
(2)平和記念公園及びそれに接する平和大通りの一部については、「平和大通り新世紀リニューアル事業」の基本方針を踏まえ、平和記念公園とその周辺エリアの利活用や平和の発信機能の強化を図るため、その空間のあり方や活用のあり方を整理する。
(3)平和記念資料館は、施設の老朽化への対応や将来を見据えた展示更新ための計画を策定することとしており、保存・整備方針においては、それに併せて平和記念資料館が今後その役割を果たしていくために必要な取組みについて整理を行う。

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太線:緩衝地帯(バッファーゾーン)の区域

 

3 策定スケジュール

【平成15年度】
有識者等からの意見聴取、市民等からの意見募集

【平成16年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
平和記念施設保存・整備に係る資料の所在調査・整理

【平成17年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
「保存・整備方針」の素案に対する市民意見募集
「保存・整備方針」の策定・公表

関連情報

東京会議委員

飯田喜四郎   博物館明治村館長、名古屋大学名誉教授
猪口 邦子   上智大学教授
岩垂 弘    平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員
大石 芳野   フォト・ジャーナリスト
加藤 尚武   前鳥取環境大学学長
平山 郁夫   東京芸術大学長
山折 哲雄   前国際日本文化研究センター所長
山崎 朋子   ノンフィクション作家
横山 禎徳   一橋大学大学院客員教授

第1回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

≪平山委員≫
これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。

≪平山委員≫
今から見ると核の破壊力は飛躍的なものになっているが、古典的な広島型原爆がどれくらいの破壊力があったのか。半径2キロ四方が全滅した訳だが、通常B29が登載する爆弾の量は約5トンだったと言われている。TNT火薬1万トンあるいは1万2~3千トン、B29で一度に爆撃させたとすると、1万トンで2000機くらいになる。戦争中、兵器廠にいて1トン爆弾を近くに落とされて吹き飛ばされたことがあるが、砂地で直径約10メートル近い、深さが6~7メートルくらいのクレーターが開いた。それを考えるとものすごい破壊力があったことになる。今はそれの何十倍になっている。私の友達も即死を免れたが、放射能障害により1学年で50人位がガンで死んでいる。二世がいて、生まれてきた子どもも幼児ガンとかで死んでいる。二十歳前にも死んでいる。亡くなられた方が、14万人、15万人と言うが、これらをどうカウントするかである。もし被爆しなければ、そういう胃ガンとかは無かった。核の影響と言うのは観念的には70年、プルトニウムは200年、チェルノブイリでは草を食べたヤギや牛の乳からも影響があると言われている。それだけ怖いものである。それをよく知っているのはアメリカ、ロシアの核保有国である。私もウズベキスタンやあの辺りで講演などをしており、原爆や核実験は相当影響があると相談に来た人たちがいるが、政府は認めていなかった。恐らくアメリカもそうだったと思う。でも、怖さは一番知っている。だから、核拡散を恐れたり、大量破壊兵器を持たせないということは当事者として分かっていると思う。そういう怖さをヒロシマということではなく、これは猪口先生の軍縮でもそうだが、敵も味方もなく皆に知らせないといけない。落とせば両方が死に絶える。日本の世界文化遺産、例えば法隆寺にしても、塀の何メートルという近いところに土産物屋が並んでいるが、これは何とかならないかと思う。バッファーゾーンというのはやはり雰囲気というものがあるから、自粛するなりして、文化遺産の精神性のある根幹、哲学を知らせないといけない。広島の原爆ドームも柵をして緑で囲み公園にしているが、ぜんぜんイメージが違ってくる。これを限定された範囲でも芝生をどけて、時間は60年が経っているが、一瞬にしてこうなったということが再現されることは、大切なことである。昭和19年に大東亜戦争美術展があって、勧業博覧会があった。そういう建物だった。猪口先生が言われたように、戦争経験のない世代は、怖いんだと言っても見ただけでは分からないと思うから、どうやって戦争の怖さを知らせるか。そのためには、物として破壊をリアルに伝え、肉声で体験を教え、文書で記録し、流布していく。両面で行かないと確かにダメだと思う。是非そうしていただきたい。
どうドーム周辺を残していくか。建物は、がっちり耐震強化し、少々鉄を入れて補強しても、外観は変わらない。それよりも建物周辺の整備を行って、爆発した瞬間の凄まじさを再現する方が説得力がある。

≪平山委員≫
私も兵器廠で被爆し、市内の惨状をたくさん見た。目の前は燃えており、子どもが死んでいるのを親は知らないでいたり、ガラスがいっぱい刺さって血だらけになっているのに痛いと言わない。ヤカンだけ持ったり、枕だけ持ったり、8時15分だから寝巻きのままの状態、何がなんだか訳が分からない。静かになったと思うと、虚脱状態とパニックになって、身内がどうなっているかも分からない状態である。「痛い」とか泣き声を上げるのは相当経ってからである。ほとんど記憶がないと思う。いきなり、寝ていて、家が全壊して、潰されて、「助けてくれ」と言われても助けられない。そこに火が入ってくる。遊んでいたのが飛ばされたり、電車で丸焼けになったり、そういう状況の中で生き残っているから分からない。怖いということだけが記憶に残って、説明できない。肉親がいなくなった、どこに行ったか分からない。私は実家を離れて一人でいて自分さえ助かれば大丈夫だったので、どんなになっているかを半分は見ながら歩いていたが、そういう時に垣間見たことは、麻痺して感じなくなっていた。そういう状況だから説明がつかないことが多いと思う。言わないのではなくて言えない、分からない状態であったためである。

≪飯田委員≫
何を保存するかということについては、資料4の保存工事説明板、世界遺産説明板の文面があるが、これをまとめれば十分である。こういう理由で保存するということでいいと思う。
技術上の問題ついては、色々難しい問題がある。ギリシャ、ローマの遺跡であれば、まさに遺跡そのものであるが、原爆ドームは土を盛って芝をはってしまった。私が一番最初に行った時に「これはおかしいな」と思った。それで聞いたところが、公園として整備するために芝をはって盛り土をしているとのことだった。そのために壁が土の中に埋まっており、雨が降ったら全部これが上にあがってきて、大変まずいことになっている。ユネスコのセンターが東南アジアの研修生を呼んだとき、研修生は皆な同じ指摘をした。あそこに少なくとも60センチくらい盛り土があり、それを取ると先程(資料(パワーポイント)の周辺の瓦礫の画面)のような遺跡が出てくる。遺跡として見せるべきだ。あの様に綺麗にすべきではない。

≪猪口委員≫
まず、「なぜ残すのか。何のために残すのか」ということだが、教育の現場でいつも感じるのは、人の能力は非常に乏しく、自分の経験的な世界を越えて想像する力がとても弱いということ。教育は自分の経験的世界を越えて、人が物を考えられるように手助けする、そういうことを努力している。物事を抽象的に捉えるということもそうだし、経験をしたことがないことに対して思いを馳せるように教育は努力する。しかし、人間の能力は実際にそういう面で乏しいので、自分が経験していない悲劇について想像することを助けることが必要である。
まず、最も重要な存在は、被害の経験者である。だから被爆体験者はそのことを訴え続けていただかなければならない。国際社会では色々な軍縮の分野があるが、例えば、対人地雷の分野では、”raise the voice”という運動がある。「声を上げる」ということだが、実際に武器による被害の犠牲者となってしまう場合には、”raise the voice”をするような立場に立たない。対人地雷の被害に遭った子どもや親は、それを世界に訴えなければならないのだけれど、そういう余裕がないし、生きることだけがあまりにも大変で、訴える力がない。例えば欧米のNGOが、アフリカの内戦の被害者の被害・悲劇を代弁することをやるが、まったく不十分である。被害者そのものが訴えて、”raise the voice”をしてもらわなければならないのであって、それに代わるインパクトはあり得ない。人の乏しい能力は、実際に被害者が乏しい言葉であっても”raise the voice”することによって、思わぬほど深く発達するし、想像できるようになる。突然その問題に対してオーナーシップを自分として抱けるようになる。遺跡もそのようなものだと思う。乏しい人の能力を助けてくれるようになる。「二度とこの悲劇が起こらないように」というのが私達の願いだから、誰もその悲劇を経験することはないけれども、それを確実にするためには、全員がその悲劇をイマジンできなければダメである。ところが能力が弱いので、それを助けるものとして、永遠に原爆ドームは保存されなければならない。被害者は残念ながら亡くなってしまう。”モータル”になる。存在として”モータル”だけれども、無機物である建物は、人間の英知によって永久に保存する必要がある。被害者を超えて、永久に乏しい人間の想像する力、つまり核兵器の被害・悲劇はどういうものかという、もはや誰も経験しないことについて全員が想像できることを助ける最後のものとして原爆ドームは残る必要がある。これが理論的に「なぜ原爆ドームは永遠に残さなければならないか」ということの説明である。つまりヒロシマからの”raise the voice”という運動の一環であり、まず被爆者にやっていただかなくてはならないけれども、原爆ドームが全ての被爆者と私達と命を超えて、続く世代の更に乏しい能力を助けてくれると思う。例えばアテネに神殿があり骨格だけ残っているが、非常に深く古代の文明について訴えるものがある。いくつか永遠に骨格だけでも残るというものの保存の仕方を参考にすると良いのではないか。先ほど飯田委員が言われたように、外観はそういう意味で重要である。
産業奨励館として”イマジンハウス”というものを造る運動は、場合によってはとても興味深く重要な、新たな考え方に繋がるかもしれない。近距離に、元々あったものと破壊されたものとが、二つ残るという遺跡の保存の仕方は、今までなかったかもしれない。また、”イマジンハウス”を造る時に世界中の人が、乏しい能力だけれど、自分がたとえ1セントでも寄附するということでオーナーシップのプロセスに参加し、関係者となっていくプロセスとして、それを造ることができるのであれば、新しいメッセージの発信の仕方になる。
これは一般的なことだが、広島は見事に復活した。美しい公園と街も復活して、広島を訪れる私の軍縮仲間なども広島が復活していることに感激する。私はこのことについて二つのメッセージが必要だと思う。一つは「人間はどんな悲劇をも超える力がある」ということ、広島はその証人である。これを訴える記念施設のあり方を考えて欲しい。究極の破壊を受けてもここまで復活しメジャーな都市として再生しているということ。二つ目のメッセージは、必ず私が軍縮仲間の友人に言うことだが、「今あなたが見ている広島は決して同じものではない」ということ。失われたものは永遠に失われていて、同じものを復活することは人間には絶対にできないことである。この二つのメッセージが重要である。

≪横山委員≫
先程、猪口委員が言われたような問題があると思う。私は当時2歳11か月で62歳になるが、ということは10年後20年後になると実際のビジュアルのイメージや直接平山委員からお聞きしたような話がなくなってしまうような時代がすぐ来る。私は思い入れを持って原爆ドームを見るが、私が外国人だったらどのように見えるのだろうかと思う。例えばドレスデンの絨毯爆撃があったが、そこにいた私と同じくらいの年のドイツ人と話をしていて、どうしていたか聞いたら、「疎開はせずにドレスデンにいて、一家はみんな頭を真ん中にして放射状に寝ていた。死ぬ時は一緒だということで、そうやって寝ていた。」と言っていた。結局、原爆であろうとなかろうと、戦争の被害というものは悲惨であることは変わらない。それが、原爆だからというのを我々が思うように彼らはドームを見て感じるのかということだ。ドームのような破壊された建物は、当然ドレスデンにもあったはずである。その思い入れがどこまで広がって通じるだろうかという気がする。10年後、20年後には、もっと思い入れをもって見る人が少なくなってしまう。イマジネーションが少ないですから。我々と違う人たち、特に外国人が見た時、どんなインパクトがあるのかということには多少疑問がある。ドームだけではなくて資料館も含めて一体で分かってもらうように誘導すべきだし、そういうふうに見てもらうよう組み立てるべきだ。今は建築的には、ハードウエアとしては出来ている。シンボリックに軸も決まり、そうなっているからいかにも一体的に見えるが、歩き回る時に、人はそのように一体として捉えているかどうか。それがないとドームだけでは、少なくとも我々と違う人たちにはインパクトがない。
日本人の若者達でも同じことだ。ここで一番のテーマは、戦争の悲惨さだが、特に今問題なのは、戦争が攻撃側にリアリティがなくなっていることである。非常に極端な話が、オースト・スコット・ガードという作家の『エンターズ・デイ』というSF小説に書かれている。異星人が攻めてくるので地球防衛軍を作るが、その防衛軍は6歳以下の子どもである。テレビゲームのように毎日演習を行う。6歳の隊長が飽きてきて、「やめたい、本当の戦争はいつなんだ。」というと、「1週間前に終わったよ。」いう話である。要するにそれくらいリアリティがないということである。それで彼はショックを受けて、異星人と言えども、テレビゲームのようなリアリティのない世界で勝ったということを非常に悩む。そういう傾向が戦争にはあって、攻撃側が感情移入できない。日本は特に原爆とか核兵器に対しては、あまり積極的になれないところがあるけれど、今、別の形で起こっているピンポイント攻撃、85%の命中精度しかないが、日本だったらもっと命中精度の高いものを作れる技術とコンポーネントを全部持っている。実際に潜在的技術力から言うと、今のような極めてリアリティの低い戦争を仕掛けることができる能力を持っているし、持ちつつある。
そういうものと我々が語っているリアリティとの乖離が埋められるか。若者や外国人やイマジネーションのない人たちとの乖離が埋められるようなパッケージとして、提示すべきであって、ドームがどうだという議論をやっていると、ちょっとそこがずれてしまうという気がする。ハードウエアだけではなくて、目に見えない組み立ても含めて、リアリティをつなぐというところをやっていくべきだ。私は建築家なのだが、皆さんの言われるドームの機能に関しては、やはり建築の専門家を入れて議論すべきである。覆いをかけるとまったく変わってしまうというと、そんなことはなく、建築的にはどのようにでも組み立てることができる。単純に予算だけの問題である。
例えば、これはどれだけ周知の事実か知らないが、東京駅の復元計画がある。今は2階建てだが、本当は3階建てである。元のオリジナルの東京駅に復元するという計画があって、お金を出すのはたぶんJR東日本だと思うが、予算は500億円くらいである。私の建築の師匠の前川國男さんは「東京駅なんて残す価値のない建物だ」といつも言っていたが、それに対して500億円かけて、原形復旧する。それくらいのお金があれば、原爆ドームに、綺麗なほとんど目立たないようなデザインで完全なガラスの覆いをかけることは、建築家ならできる。しかもそれがあれば、パラドックスだけれど、そういうふうな覆いをかけてしまえば、あの芝生なんか外してしまえば良い。それで、実際のどうだったかということを見せることができる。構造的に計算できないと言われたが、どれだけ鉄骨・鉄の部分が劣化しているかということは、分かりようがない。いろんな形で固めていくと、沖ノ鳥島のようになってしまう。その方がみすぼらしいではないか。それだったら、綺麗な覆いをガラスでかけてしまえば、中は、地震の問題では別の補強をしなければならないが、酸性雨とかでもろくなっていく部分は完全に改善する。だから、どれだけの予算が出せるかということが、一種の踏絵であって、東京駅の復元に500億円出して、ここは予算がありませんというのは、やはり日本の建築の問題である。核兵器廃絶と言っているけれど、それはリップサービスであって本気ではない。これに100億か200億位の予算があれば、極めて皆さんが納得される立派な覆いをかけることができると思う。

≪平山委員≫
形あるのものは滅する。物理的に耐用期間というものがあり、限界がある。さらに保存せよという場合は、こういう方法もあるということを、広島に限らず根本的な条件として、出して認められれば、助かるところがあるかもしれない。

≪横山委員≫
アブ・シンベル神殿はユネスコの世界遺産だと思うが、コンクリートで固めてある。細分化して全部上げて、コンクリートのボックスの中で吊るしている。裏も見せるようになっている。そこまでやっている。ガラスで囲うこととそんなに差はない。

≪平山委員≫
アブ・シンベル神殿は水没するということがある。水没するのならば、切り取って移転するという方法を選んだ。崩れる年限になるならこうして保存するという精神が認められれば世界遺産でも認められる可能性がある。

≪飯田委員≫
あれは強引に切り取ったものである。他の案も出ていたが、排水しきれないということでああいう強引な形になった。今見ても鋭いカットした跡がある。ひどいやり方である。

第2回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

1 日時 平成16年(2004年)10月18日(月)13:30~16:00

≪山折委員≫
やはり広島の究極の面は鎮魂の場である。日本の歴史1500年を考えた場合、一番新しい鎮魂の場である。日本の歴史1500年の中で鎮魂の場はどういうものであったかという観点からすると、現在の広島のあり方は私には曖昧な空間に見えて仕方ない。本当に鎮魂の場として設定されているだろうか。具体的に言うと、原爆ドームと、平和記念資料館、追悼平和祈念館の関係がフラットにしか見えない。鎮魂の場であれば、どこかに奥の院がある。そうすると原爆ドームが奥の院で、資料館、祈念館がそこに至るまでの参道的な役割を持つということになる。そういう聖地空間としての機能が、必ずしも一体となっていない。奥の深さ、広がりを訪れる者に対比させるような形になっていない。むしろアプローチ、参道的な役割を果たしている所が中心的な空間であるという意識が非常に強い。それはそれで今日の時代的な要請で良いが、鎮魂の場としては、普遍的な存在をもう少し強調した整理の仕方にした方が良いのではないかと思う。
具体的にどのようにしたら良いかということだが、最初に思い浮かぶのは高野山の奥の院に至るアプローチは実に変化に富んでいる。宿泊の施設があり、盛り場があり、観光も出来る、山登りも出来る。もう一つは、伊勢神宮である。五十鈴川を渡り、次第次第に奥の内宮に近づいていく。その緊張感が、参内する時の普遍的な感覚を実にうまく演出している。もう一つは浅草タイプである。これこそ盛り場を中心として、先ほど屋台の話があったが、とにかく猥雑で様々な娯楽的な施設が集中している。しかし、やはり最後に観音様にお参りして、ホッとする。伝統的な文脈で言うと、浅草タイプ、伊勢神宮タイプ、高野山タイプの三つくらいあるが、その三者に共通しているのは、奥の院がしっかりしているということである。
そういう点では原爆ドームしか奥の院的役割を果たせるものはない。そういう工夫をもしもする とすれば、困難な面が出てくると思う。鎮魂の場というのは宗教的な祈りの場であるわけだから、奥の院は、当然、宗教的な象徴の意味がある。それが今日の広島市において出来るのかどうか、実際、我々がそういうことを指導的にやっていくことが出来るかどうか。多くの人々を今後集めるためには、どうしても宗教的な機能ということを考え直さなければいけないのではないか。鎮魂は非宗教的な行為であるという人が増えているが、その線を守っている限りにおいては広島は必ずしも普遍化・大衆化しない。これは言うは易しで乗り越えるのは困難な仕事であろうと思う。

≪山折委員≫
原爆ドームと厳島神社は一緒に世界遺産になっている。そういう所を巡礼するコース、連携・協力関係を作って、人の流れを作るということもある。
関連して、イスラエルのエルサレムにユダヤ教の聖地である”嘆きの壁”がある。あれは風化に任せており、特別の補修をしているようには見えないが、信仰の壁として生き続けている。その目と鼻の先に黄金のドームがある。イスラム教の聖地である。本当の聖地は中に囲われている岩であり、黄金のドームは鞘堂であるが、鞘堂をイスラムの聖地としている。時間が経てば変化していく可能性はあるが、問題は、ユダヤ教徒は”嘆きの壁”に行って帰ってくる。決して黄金のドームに行かない。イスラム教徒はドームにだけ行って岩にだけお参りする。お互いには巡礼しない。それは相互に不幸なことである。お互いの聖地を巡礼し始めると良いが、絶望的である。巡礼行動は往復運動であるが、多神教の世界では円運動になる。その特徴を生かしていけば、もう少し何か出来るかもしれない。
アウシュビッツは誰でも知っているが、次世代ではそれでも必ず忘れられていく。それに対する歯止めの教育的な措置として、石畳の街路に50m・100m置きくらいに一つの石を地上に盛り上がらせるように造っている。通る人は必ずそれに蹴躓き、蹴躓かせて思い出させる。その石を見ると犠牲者の名前が書いてあり、凄いな、ここまでやらないといけないのかと思った。良い悪いは別にしてアウシュビッツでさえも人の意識から忘れられていくということがある。
先ほど横山委員が言われたが、日本は平和愛好文化国家だったという歴史を教えることは一番根本的な問題である。日本の教育現場ではそれを教えていない。日本の歴史の中で長期に渡って平和を築いていた時期が二度もある。平安時代の350年と江戸時代250年である。なぜ実現可能だったかということに対し、正面きって研究はされていないが、これは驚くべきことだった。平安時代は貴族政権、江戸時代は封建武士政権、それでずっときている。なぜ、これだけの周期の平和が続いたか。それは、恐らく思想心、宗教心が作用している。こんな事例はヨーロッパの歴史にも中国の歴史にも無い。奇跡のような事実である。なぜそういうことが可能だったかという理由は、政治・経済・軍事などたくさんある。平和を担保する一番重要な要因は、宗教と国家の関係、調和のとれた関係である。神仏共存のシステムは平安時代に出来たが、今の社会の安定つながっていると思う。これも戦後の日本の経済は完全にネグレクトしている。この辺を根本的に反省しないと日本の歴史のポジティブな意味を受け継ぐことは出来ない。

≪横山委員≫
巡礼というのは宗教だけなのかというと、サンチアゴ・デ・コンスポテラというキリスト教の巡礼地がスペインにあり、昔からヨーロッパ中から巡礼に行く。何がある訳でもなく、建築的にも大した教会でもない。ソフトウェアとしてそこに行くような求心的なもの、日本であれば江戸時代の伊勢参りのようなものに出来ないのかということである。何か凄いものや宗教がなくては出来ないかと言うと、巡礼先が一つのテーマなのである。”嘆きの壁”の話があったが、スペインでは建築的にユダヤ教とキリスト教とイスラム教が層状に融合した建物もある。別にお互いに嫌いあった訳でもない時期があり、建築に残っている。神仏集合というのは、日本だけではなくイベリア半島にもあったのかも知れない。
今、科学の進歩からは、ステムセル(幹細胞)の問題、遺伝子、核や環境の話もそうだが、宗教を超えた人間観が要求されている。人間論というのはギリシャ哲学の頃からあるが、キリスト教が歪めてしまって、進化論を認めたのは1952年である。その時は、認めたという訳ではなく、宗教と科学を別にするという約束であった。その後、産業革命と機械論的人間論、進化論があって、ソフトウェア、ニューロン、通信システムのような人間観、遺伝子の人間観、要するに利己的な遺伝子のキャリアに過ぎないというような人間観など、それを超えたものが求められていて、日本から出てきて全くおかしくない時期にある。そういう人間観が日本から出てきて、リーダーにならなくてはいけないのにぐずぐずしている。それを広島から発信できれば、そこに物理的に何があるということではなく、サンチアゴ・デ・コンスポテラのように何がある訳ではなくても、巡礼地になり得る。広島あたりでやってみてはどうか。

第3回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

1 日時 平成17年(2005年)1月27日(木)13:30~16:00

≪飯田委員≫
私は少しニュアンスが違う。確かにあの時撤回されたが、現在のままの状況でも数世代もつからというだけの理由であった。私としては第1回の時に覆いを掛けている事例についてお話があったので、その事例を見に行ったが話にならない。たくさん鉄骨を入れてなるべく大きなガラスをかけるというやり方であった。数世代経ってそういうものが必要になった時も、そういうやり方には賛成できない。例えばアテネのパルテノンも大気汚染でやられており、ブロンズもやられるのでチタン合金で保存の手を入れ、一般の人を立ち寄らせず手も触れさせないという状況である。あの辺の一番の汚染は大気汚染、自動車の排気ガスである。これから守ろうと思えばまさに覆いを掛けなければならない。でも大気汚染を防ぐ物を付けるという声は実際出ていない。やはり今のままで何とかしたいということである。だから今回の場合も覆いは絶対にやるべきではなくて、もし覆いをするのであれば横山委員が言われた銀行の例ような覆いでは駄目である。直径が1km位のドーム型の覆いを建てれば環境を保つことはできるが、まだそれに行く段階ではないと思う。球場なんかは全部空気のドームで覆っており、もちろん技術的には可能だが、まだその前にやるべきことがある。

≪飯田委員≫
理念が決まらないと、何年というのは出てこない。私は昔昭和の宮殿を造るときに関係したが、二重橋の鉄橋を造りかえるときに強く言われたのが、東京中の鉄橋が落ちてもこれは落とすなというような設計条件が出された。私どもは当然無視する。人が全部いなくなって、そこだけ残っても意味がない。広島についても同じであろう思う。広島市に震度7の地震が来たら残るところは非常に少ない。そういう状況でドームが耐えることは意味がない。理念をはっきりさせることによって決まってくるから、それによって何年ということを言ってもらえると良い。技術委員会は広島の地盤の状況から言って、どの程度の頻度でどれだけの震度の地震が起こることも分かる。それから一般の人が入らない建物であるから、安全率を下げることが出来る。そうであれば余り過度なことはしなくても良いということが出てくる。
現在、ドームの下の所に60センチ位盛土をして芝生が貼ってある。それをどうするかという問題である。ヨーロッパの遺跡に行ってみて庭園的なことをやっているのはイギリスが非常に多い。ローマの遺跡になると庭園的に造られたものは非常に少ない。ローマの中なら一部にはある。しかしローマの遺跡で一番残っているのは北アフリカの沿岸だが、そこは遺跡そのものである。瓦礫を出すか出さないかということをここで決めて頂ければありがたい。
また、あのように土が盛ってあると、煉瓦造りの建物なので下から湿気が登ってくる。普通の建物と違って水が上がって来ないように防水床をやっている。あの時代の建物は皆ていねいな仕事をしている。これで水が切れていたがそこに土を盛ってしまった。雨が降ると水が行く所がないので、壁体に上がって来る。上がって来るだけならいいが上がってきて蒸発すると、非常に濃い酸になり煉瓦を傷めてしまう。そういうことからも盛土の撤去を決めて頂くことはありがたい。

≪飯田委員≫
まず、役割については整理されているとおりだと思う。福井座長は観光について控えめに言われたが、観光であっても良いと思う。
平和公園とその周辺についてだが、記念碑とか慰霊碑はたくさんあるが、説明板の所が混んでいて面白くない、うんざりするということがある。解り易く、楽しいと言えば語弊があるが、そういうものにして欲しい。
中島地区の街並みの復元の話が出ていたが、あそこだけが無くなった訳ではなく、あそこだけ復元することは問題である。街並みとして復元するには相当広いスペースが要るので、大型の模型で示してそれをどこかに設置してはどうか。
それから「平和記念公園らしいサウンドスケープの整備」というのがある。遊歩道を歩くと鳥の声が聞こえてくるという装置があるが、あれは非常にいやらしい。平生は拡声器を兼ね、バック・グランド・ミュージックを流していて、限られた範囲だけならいいが音量の調整が難しく遠くまで聞こえてうるさいということになるのでサウンドスケープは難しい。特にヨーロッパのお客さんからはそういうことを強く言われる。音楽を流すのは良いがよほど気を付けてやる必要がある。

「民有地を含む空間のあり方」については、広告の規制など非常に良くやっておられる。日本の文化財行政の一番の欠陥は、周辺を保護しないことである。パリにはたくさんの文化財があるが、一つの文化財の周囲500メートル以内は、新築・改築全部が許可制である。それではじめて景観が保たれている。建物に対して500メートルといっても、建物に対して一緒に見える場合には規制を受けるという形になっている。日本の場合は周辺の環境を保護するということが全くない。平和記念公園の場合は市の方が苦労して広告を取って頂いていて良いが、平和記念公園で一つに気になるのは、慰霊碑のところから原爆ドームを見ると、やはり商工会議所の醜い建物が耐えられないということである。例えばパリなら都市計画の中で建物に高さの制限があるので、ユネスコの本部を造る時には、地下4階建てにして高さを制限している。原爆ドームのシルエットは非常に大切だから、ドームの後だけは樹を植えるとか建物に蔦をはわせるとかではなく、高さの制限をして頂きたい。広島だけではなく日本全体に文化財の周辺環境に対する配慮が全くない。商工会議所は築後40年ほど経過しており、100年200年持つものではないので必ず建て替えの時期が来る。難しいとは思うが、都市計画の中でドームの後ろにあのような建物がないようにしていただきたい。どの位の高さ、どの程度の距離まで規制するかを検討して頂き、何とか平和記念公園のビスタを守って頂きたい。
ドーム周辺の緑の中で1本だけ非常にドームに近いものがある。大きく育っているので、根が建物の下に入ったら建物を壊してしまうので、あれだけは伐採して頂きたい。

原爆ドーム保存運動

原爆ドーム保存運動

1964(昭和39)年12月22日、広島の3つの原水禁団体(原水協・原水禁・核禁会議)を含む11の平和団体代表は、浜井信三広島市長に原爆ドームの永久保存を要請した。この要請は、原水禁運動が分裂して以来はじめての3団体の共同行動であった。

原爆ドームの存廃については、48年ごろから市民の間で繰り返し論議が起こっていた。1949年10月、広島市調査課が実施した「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」によると428人の回答者のうち、「保存を望む」が62%、「取り払いたい」は35%であった。また、浜井市長自身、1951年8月、座談会で「私は保存のしようがないのではないかと思う。石の人影、ガスタンクとも消えつつあるし、いま問題になっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っています」と保存にたいし消極的な発言していた。

しかし、市長は、11団体の要請に対し、「来年度予算案に調査研究費を計上して、専門家に保存方法を研究させる」と、初めて保存の意志を明らかにした(『中国新聞』1964年12月23日)。さらに、1966年7月11日には、広島市議会が原爆ドーム保存を全会一致で決議、同年8月6日には、浜井市長が改めてドーム保存の意志表示をおこなうとともに、工事費4000万円を国内外の募金によって賄う方針を示した。

1966年11月1日から開始された広島市の募金活動の呼びかけには、原水禁国民会議・社会党・総評・原水協・世界アピール7人委員会などが支持を表明した。しかし、当初募金活動ははかばかしい成果をみせなかった。募金が進展したのは、マスコミが全国的なキャンペーンに乗り出した翌67年2月以降のことである。3月13日には、目標の4000万円の突破が明らかになった。募金は、翌14日の市長の打ち切り声明にもかかわらず、以後も続いた。

原爆ドームの存廃については、48年ごろから市民の間で繰り返し論議が起こっていた。1949年10月、広島市調査課が実施した「広島原爆体験者についての産業奨励館保存の是非と平和祭への批判と希望に関する世論調査」によると428人の回答者のうち、「保存を望む」が62%、「取り払いたい」は35%であった。また、浜井市長自身、1951年8月、座談会で「私は保存のしようがないのではないかと思う。石の人影、ガスタンクとも消えつつあるし、いま問題になっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っています」と保存にたいし消極的な発言していた。

しかし、市長は、11団体の要請に対し、「来年度予算案に調査研究費を計上して、専門家に保存方法を研究させる」と、初めて保存の意志を明らかにした(『中国新聞』1964年12月23日)。さらに、1966年7月11日には、広島市議会が原爆ドーム保存を全会一致で決議、同年8月6日には、浜井市長が改めてドーム保存の意志表示をおこなうとともに、工事費4000万円を国内外の募金によって賄う方針を示した。

1966年11月1日から開始された広島市の募金活動の呼びかけには、原水禁国民会議・社会党・総評・原水協・世界アピール7人委員会などが支持を表明した。しかし、当初募金活動ははかばかしい成果をみせなかった。募金が進展したのは、マスコミが全国的なキャンペーンに乗り出した翌67年2月以降のことである。3月13日には、目標の4000万円の突破が明らかになった。募金は、翌14日の市長の打ち切り声明にもかかわらず、以後も続いた。

表1.原爆ドーム保存募金月別寄金状況

区 分 件数 金額(円)
1966年11月 238 3374473
12月 334 2031332
1967年1月 258 1857547
2月 1546 8143103
3月 6386 34115718
4月 2214 9578308
5月 105 4725862
6月 66 1925639
7月 12 405639
11159 66197816

出典:『ドームは呼びかける-原爆ドーム保存記念誌』

 募金総件数11,159件約6620万円のうち、8,728件(78.2%)約3664万円(55.4%)は、広島県内を除く日本全国各地からの寄金であり、募金運動へののべ参加人数は130万人を超えている。

 

浜井広島市長の談話
被爆者の中にも、原爆ドームには両論ありましてねえ。早く忘れたい、あれがあると町に出るのが苦痛だという人もあったんです。まあ、最近、あの建物を解いて組み直す必要があるという専門家の意見もあるんですが、私らはそんなことは必要ない、あのままでいいという気持ちなんですが、置いておいても十年ぐらいはなくなるものでなし、終局的には次の世代の人が決めればいいんですねえ(注=保存調査のために今年度、市は百万円の予算を計上)。私の原則論は、当時のものはとり去り、資料的なものは資料館の中にいれたい、そして政府が”白書運動”を取りあげれば、それは結構なことで、ぜひ手をつけてもらいたいということです。
出典:『週刊新潮』1965年6月5日号

広島市戦災復興事業誌(目次)

戦災復興事業誌(広島市都市整備局都市整備部区画整理課、19950104)目次

章節項 事項 備考
口絵
あいさつ(平岡敬広島市長)
あいさつ(藤田雄山広島県知事)
発刊に当たって(広島市都市整備局長)
1 戦前の都市づくり
1-1 城下町時代の都市づくり
1-4 被爆そして復興
2-2 応急対策
2-2-1 原爆死没者の改葬事業
2-2-4 危険建造物処理事業-除却の対象となっていた原爆ドーム
2-2-7 広島平和記念都市建設法の制定
2-2-8 広島平和記念都市建設計画
2-2-9 広島平和記念都市建設法の効果
5 戦災復興土地区画整理事業の実施状況
5-3 建物移転
5-3-1 不法建築物による事業の遅延
5-4 街路事業
5-4-3 百メートル道路(平和大通り)
5-10 平和記念施設
5-10-1 平和記念資料館(陳列館)
5-10-2 平和記念館(本館)
5-10-3 広島市公会堂
5-10-4 原爆死没者慰霊碑
5-10-5 原爆ドーム

燃料会館(平和記念公園レストハウス)

燃料会館(平和記念公園レストハウス)

燃料会館(現在*平和記念公園レストハウス)  竣工時:大正屋呉服店
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』発行当時(1996年3月31日)
爆心地からの距離 0.17キロメートル
所在地(旧町名) 中区中島町1-1(中島本町)
竣工時期  192903
構造/階数 鉄筋コンクリート造/3階建・地下1階
設計者/施工者 増田清/清水組

略年表

年月日 事項 備考
19920619 市長にレストハウスの保存要請
19920916? 旧燃料会館(レストハウス )の保存を考える「語り部の会」(代表世話人:栗栖洋)「趣意書」発送・賛同協力依頼。
19921206 「旧燃料会館」の保存を考える集い
19930630 「旧燃料会館の保存を考える」集い
19930715 「元大正屋呉服店を保存する会準備会」、市長室次長に申し入れ。
19930924 「元大正屋呉服店を保存する会」発足(代表3名)
19931127 第3回「旧燃料会館の保存を考える」集い、署名開始。
出典:『原爆遺跡保存運動懇談会10年の歩み(1990~2000)』(原爆遺跡保存運動懇談会)
<以下未入力>
19980517 地下室調査(原爆遺跡保存運動懇談会フィールドワーク)

 

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地下室調査(原爆遺跡保存運動懇談会フィールドワーク、1998年5月17日)

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資料

資料名 備考

 

 

広島平和記念都市建設法と平和への歩み(宇吹)

特集 広島平和記念都市建設法制定60周年(『平和文化』No_172、201006)

宇吹暁「広島平和記念都市建設法と平和への歩み」

平和都市法
広島平和記念都市建設法(以下、平和都市法と略称)は、その目的を、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」(第1条)としている。
法制定に尽力した広島市出身の寺光忠参議院議事部長によれば、その趣旨は、次のとおりである(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』、中国新聞社刊、1949年)。
日本は、新憲法において、あきらかに、戦争の放棄を宣言している。この恒久平和の人間理想を象徴し、同時にまた、わが戦争の放棄をも象徴するものとして、1つの都市を、この地上につくりあげるということは、日本の歴史においてはもとよりのこと、世界史的にみても大きな意義をもつものであろう。
平和都市法は、その後、国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などの形で、広島市の復興に大きく寄与した。また同時に、広島市の都市建設に、政府が今日に至るまで関心を寄せ続ける契機となった。1952年・53年に当時の内閣総理大臣であった吉田茂の広島市平和式典に寄せた式辞が残っているが、いずれにおいても、「世界の平和を目指して、民主々義に基く、文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり」、「新しい広島市の建設」は、「平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するもの」と平和都市建設の国家的意義を明らかにしている。その後も、総理大臣の挨拶のほとんどで、広島市の「平和都市」(1979年からは国際平和文化都市)建設への努力に敬意が表明されている。
戦災復興としての政府の事業は、1960年代後半に一応の収束を見る。しかし、この法律の精神は生き続けており、2000(平成12)年5月にも、この法律を適用することにより、爆心地近くの貴重な被爆建物である旧日本銀行広島支店が、国の重要文化財に指定されることを条件に、広島市へ無償譲与されることが決定された。
「被爆国」という言葉が、国内で広く使用されるようになるのは、1954年3月のビキニ水爆被災事件以降のことであるが、平和都市法の成立と展開の背景には、議会や政府の「被爆国」としての自覚を確認することができる。また、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法と略称。1957年4月施行)や閣僚・総理大臣の平和式典への参列(1960年代半ば以降)、広島・長崎両市への国立原爆死没者追悼平和祈念館開設(2002年、03年)など、政府による原爆被害への新たな関与を通して、「被爆国」という認識の内実が形成されていると考えることができよう。
平和都市法が公布・施行(1949年8月6日)された当日に広島市長が読み上げた平和宣言には、次の文言がうたわれていた。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
これと同じ文言は、1947(昭和22)年の第1回平和祭(広島市平和記念式典の始まり)での平和宣言および翌年の宣言にも確認することができる。このことを考えれば、平和都市法は、広島市の意思が「法律の形式においてあらわされた、国民の意思の表明」(寺光前掲書)に高めたものといえよう。
寺光の構想がそのまま法律になったわけではない。彼は、法律名にある「広島」、「記念」、「建設」について、それぞれ、「一地域を限る特別法という感じを与える」、「原子爆弾を追想させたり又は戦災復興を連想させたりするだけ」、「物的な建設事業だけを目的としているかのよう」と違和感を述べ、ただの「平和都市法」が良いとしている。
広島の復興と原爆遺跡
戦前の広島市には、「大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等」があり、全国から観光客を引き付けていた。しかし、これらは「昭和20年8月6日の戦災により潰滅」した(『広島市勢要覧 1947年版』)。そのかわりに「新しい観光資源」と考えられたのが、「爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンク」といった「原爆記念保存物」である(『同要覧 48年版』)。
広島市の企図は当たり、「日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れ」たため、「外客専用の観光ホテルの設置が強く要望」された(『同要覧 49年版』)。
このような『市勢要覧』の記述は、広島市の都市復興の過程で、原爆遺跡が観光資源という大きな役割を担っていたことを示している。ところが、広島市の原爆遺跡に対する関心は、平和都市法の施行後、次第に薄れて行く。その代わり、新たな観光資源として「広島平和記念都市そのもの」や「原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室」(1955年に広島平和記念資料館として開館。通称「原爆資料館」)などが登場する(『同要覧 49年版』)。その後の『市勢要覧』を見ると、「平和記念館」・「原爆資料館」・「平和大橋」「慰霊碑」など、平和都市法に基づいて建設された施設が新たに加わってゆく。1950年の市勢要覧の表紙は、原爆投下の目標となった相生橋と思われる橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄であり、本来存在するはずの「旧産業奨励館」(原爆ドーム)の姿はない。

50年度版には原爆ドームが消えている!!!

1948年版
48
1949年版
49
1950年版
50

広島市が原爆ドームの保存に乗り出すのは、1966年のことである。それまで保存に消極的だった浜井信三市長が保存募金活動では先頭に立った。しかし、浜井の場合、原爆ドームを「唯一」の「原爆の跡」と考えており(浜井の原爆ドームの保存に向けた「訴え」)、他の遺跡に目が向くことはなかった。
被爆資料は、一般に、「原爆の痕跡をもつ資料」と考えられてきた。ところが、1979年には、必ずしも被爆の痕跡を残していない「被爆樹木」が、さらに1985年には解体された広島市庁舎の礎石である「被爆石」も被爆資料と考えられるようになった。これは、被爆資料の基準が、「被爆の痕跡」から「被爆当時に存在していたもの」に変化したことを示している。

平和都市の現状と役割
平和都市広島の政府とのつながりは、復興のための都市計画でいえば建設省(現在の国土交通省)から始まり、1970年代後半からの国際的な反核運動の高まりの中で、外務省と密接な関係を持つようになる。被爆40周年に当たる1985年に、広島市は長崎市とともに、初の「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、政府レベルとは別に、都市同士の連帯による平和構築の努力を積み重ねている。さらに近年では、文化庁(文部科学省)との関わりを深めている。平和都市施設の中核をなす原爆ドーム・広島平和記念資料館・広島平和記念公園は、同省によりそれぞれ史跡(1995年6月)、重要文化財(2006年7月)、名勝(07年2月)に指定された。このうち、原爆ドームの史跡指定は、世界遺産リストへの登録へ向け、それまでの史跡の基準を変更しての指定であり、残る2件の指定も、戦後の建築物として、また、戦後建設された公園として初の指定であった。
文化財としての評価は、とりもなおさず平和都市が歴史的な扱いを受けていることである。歴史化する平和都市には、新たな歩みが求められるであろう。原爆遺跡は原爆ドームだけでない。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎の遺跡をも巻き込む世界遺産の拡大登録が考えられないだろうか。広島の景観は、城下町の軍事都市化、原爆と復興により大きな変貌をとげ、さらには現在の都市再開発で新たな変化の波に直面している。平和都市の景観はどうあるべきか、近代のみならず近世の文化を貫いて見直す視点の出現も期待される。

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」  検索年月日:2020年1月7日http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database

分類 件数
被爆資料 403件
写真 60件
原爆の絵 86件
美術品 17件
本【単行本】 551件
本【雑誌】 125件
音楽・音声 1件
動画 17件
被爆者証言ビデオ 4件

記された「兵器補給廠と原爆被災」

記された「兵器補給廠と原爆被災」

『広島原爆戦災誌』の記述

第1巻

記述
45 広島陸軍兵器補給廠(長)田上吉治大佐
65 「8月10日、広島兵器補給廠において陸海軍が研究会を開催」
208 兵器補給廠において4,000人分・・・・ の炊出しを実施
211 昭和21年9月には、似ノ島の元陸軍兵器補給廠似島倉庫および旧陸軍運輸部似島倉庫を改築して、「広島県戦災児教育所似島学園」が開設され・・・・
237 8月9日・・・・電話工事の為9米電柱約300本を兵器補給廠より補給を受けた。
295 (陸軍軍需輸送)統制部の機構は、庶務班(班長・小林吾一大尉)・暗号班(班長・長谷川通雄見習士官)・統制班(班長・田村治郎大尉)からなり、広島市内では、兵器補給廠・糧秣支廠・被服支廠をはじめ、この三廠の出先機関(倉庫)である安芸郡海田市町の、兵器・被服・糧秣・需品・衛生材料・航空(燃料)・獣医材料各廠を管轄下において活動していた。
298 被服廠も兵器廠も、流れこんだ避難者をかかえこんだまま、門をとざして、周囲の状況を見守っている所へ、田村大尉が到着した。田村大尉は、ただちに門をあけさせ、大本営命令として、被害状況を報告させると共に、救援態勢に入るよう告げた。このとき、午前9時ごろであった。
535 (53か所の仮救護所に被服廠はあるが、兵器廠はなし)

 

第2巻

記述
403 路傍でたくさんの人々が倒れたので、(比治山東裏一帯の)町内の者は協力し、負傷者もろとも霞町の兵器支廠(臨時救護所)にどんどん運んだ。
458 出汐町の被服支廠と霞町の兵器支廠には、1階2階ともに負傷者がいっぱいに収容せられ、つぎつぎと死亡したが、氏名の判明したのは荷札をつけておいて、付近の広場で火葬した。
486 軍の被服支廠・兵器支廠も自由に、その門扉を開放し、続々と増加する負傷者の収容と治療に応急処置を構じた。
487 溝口悦子「兵器支廠にて」(県立第一高女3年生、学徒動員で兵器廠事務室にて作業中被爆)「患者の大部分が女学校の1,2年生で・・・」、「その晩は「全作業員は廠内に詰めきり勤務を命ず」という命令が出て、待避壕の上で一夜を明かしました」
495 昭和21年6月22日、陸軍兵器支廠に広島県庁が移って来た。

 

第4巻

記述
口絵 深田敏夫撮影原子雲4葉(兵器補給廠の2号館2階西側の窓から撮影)
216 (比治山国民学校)北校舎の階下7教室は、兵器支廠の兵器貯蔵庫として使用していた。
437 (修道中学校)兵器補給廠に教員5人、3年生実務科生306人動員。(弾薬製造・兵器整備)
1.弾薬製造部は、佐伯郡宮島町包ケ浦にあり、教諭2人と生徒30人がこの地に配属1.弾薬製造部は、佐伯郡宮島町包ケ浦にあり、教諭2人と生徒30人がこの地に配属された。
2.被爆による死亡生徒3人。
3.教諭1人は中国5県報国隊長特別軍事講習のため10日まで安芸郡船越国民学校に出張中。
456 (崇徳中学校)兵器支廠に教員1人、生徒60人動員。

 

第5巻

記述
608 1.兵器補給廠(経済保安課)・・・・霞町  ガソリン、油、軍刀、双眼鏡(通信機械)

「昭和20.8.22午前10時 日本製鋼所広島製作所における軍需物資転用に関する打合会記録」の一部

825 8月6日広島空襲ニ対スル研究会議事概要
1.日時・場所 8月10日 於広島陸軍補給廠
992 深田 敏夫=崇徳中学在学中学徒動員令で陸軍兵器廠に出動。繰り上げ卒業後もそのまま、同廠で勤労。兵器廠2号館西口で被爆。兵器庫2階の北側の窓からきのこ雲を撮影。「午前10時ごろであったか、動員学徒に対して、家に帰れる者は帰れとの指示が出た」
997 空 博行=兵器廠3号兵器庫2階で朝食中被爆。「兵器廠では、車両庫3棟を開放して、これらの人々を収容した。廠内には小さな診療所があったが、軍医も看護婦もおらず、衛生曹長が所長格で、作業員の小さな傷や風邪の手当をほどこすのが精いっぱいという貧弱な施設であった。そこで、兵器廠の無傷の作業員が総動員で救護にあたった。タネ油は兵器の手入れに使用していたので多量にあり、火傷の手当に使った。」

 

『広島県史原爆資料編』の記述

記述
106 広島県「戦災記録」(8月8日総軍連絡会議における補給廠代表の発言)
(4.小運送)油ガ無ケレバ補給廠ニテ出ス
補給廠ハ6日4,000食、7日4,000食、8日2,000食同廠付近ニテ配給
251 修道学園「原爆被災記録参考書類」(8月8日の項)
兵器補給廠ハナルベク13日ニトノ希望アリタルヲ以テ13日午前8時集合但シ罹災負傷ノタメ止ムヲ得ヌ者ハ15日ニ集ルトイフコトニシ、罹災生徒ハ勿論家族モ収容シ一時作業ヲ手伝フ形ニシテ見テヤストノ廠長ノ意志ヲ伝ヘラレタリ。詳細ニツイテハ打合セノ予定ナリ(以上景山報告)
526 「清水栄日記」(8月10日の項)
会議終了後、補給廠よりトラックにて船舶司令部の少佐が案内役にて市内を巡察したり。・・・・その日、補給廠で一泊する予定なりしも・・・・(8月13日の項)その夜、補給廠で夕食、・・・・
598 「篠原健一メモ」(8月10日の項)
補給廠(中央等ヨリノ調査団ニ会フ中ニ仁科博士、荒勝教授アリ、阪大浅田教授ニモ会フ)晩補給所ニ泊ル

 

原爆手記の記述

著者 記述概要

<掲載書・誌>

温品道義 陸軍兵器補給廠警防手。明治橋西詰路上(水主町)で被爆
「原爆に生きて」(原爆被害者の手記編纂委員会、三一書房、53062501)
大畠文衛 霞町兵器廠で被爆
「原爆十年」(広島県社会保険診療報酬支払基金、55083301)
福井静子 霞町兵器廠で被爆。挺身隊
「あの日あの時」(兵庫県原爆被害者の会、62052701)
温品道義 前出
「原爆許すまじ」(広島県被爆者の手記編集委員会編、新日本出版社、65070501)
中尾己次 勤務先の兵器廠で被爆
「原爆広島消防史」(広島市消防局原爆広島消防史編集委員会編、広島市消防協力会、75070101)
田室藤登 兵器廠敷地内で被爆。女学生。動員学徒
「悪魔の銀のサイコロ」(国際平和教育研究会(広島大学教育学部付属小学校内)編、教育出版センター、75080607)
増田照代 比治山町民家の兵器廠女子挺身隊として勤務
「木の葉のように焼かれて第11集」(木の葉のように焼かれて編集委員会、新日本婦人の会広島県本部、77080101)
景岡正幸 兵器廠内で被爆。「兵器廠は比治山の影になり大勢の怪我人は出たけれど死亡者は一人もなかった」
「暗い青春」(廿日市中学校平和教育推進委員会、78023301)
朝枝憲雄 広島兵器廠学徒寮舎監助手。市内で被爆。「廠内では死亡者を重油で焼いてお骨にしているとの情報が入った」
山本貫一 勤務先の兵器補給廠で被爆。夜間校4年。「負傷者は兵隊さんや我々工員の手で7号館に収容されることになった」「8月9日、呉海軍病院から調査のためえらいさんが見えられた。爆弾の影響調査のため5名の工員が選出され私もその一員となった」「10日以降は構内の死体を集め、構外の疎開跡地で火葬にふした」「それ[8月15日]から4,5日後、私達工員は全員職を解かれた」
「原子雲の下に生きつづけて第6集」(全電通被爆者連絡協議会、78080501)
森永晃二郎 陸軍兵器廠勤務中隊に在籍。可部線布の弾薬の衛兵。8日交替し同日入市。「本廠は爆心地からわずか比治山の蔭になるため煉瓦造の二階建兵舎は棟が折れたように残っていたが危険で使用はできず我々は天幕で就寝するようになった。また、電気水道は全然駄目となり飲料水は廠内の防火用水が唯一のものとなり、」
「原爆被爆体験記」(芝山宏編、京都府原爆被災者の会、79113301)
沖正夫 市立工業学校1年。動員先の兵器廠で被爆。火傷。
「人類の明日のために-広島原爆記録集」(天理教広島教務支庁編、天理教道友社、80070101)
八百村イシ子 勤務先の兵器補給廠で被爆。
「渇き第2号-被爆体験文集」(徳山被爆者の会、80073303)
平山郁夫 修道中学3年。兵器補給廠に学徒動員。
「悠久の流れの中に」(平山郁夫、佼成、80091502)
和田タカ 勤務先の兵器廠炊事場で被爆。「翌日から、勤務先の兵器廠で被災者への炊き出しをいたしました。・・・・約1週間、夜は比治山下の防空壕へ帰って眠りました。」「私の勤務先の兵器廠倉庫4棟は臨時病院となって、被災者がぞくぞく運び込まれてきました」「兵器廠の裏庭のあちこちに兵隊さんが大きい穴を掘って、遺体を何人も重ねては油をかけて火葬されていました」「兵器廠は解散になり、9月20日付で退職しました」
「紙碑」(広島原爆被爆者援護事業団編、81072002)
空博行 前出
「広島壊滅のとき」(広島原爆被災撮影者の会編、81080101)
深田敏夫 前出
「広島壊滅のとき」広島原爆被災撮影者の会編81080101
川本充 兵器廠包ケ浦工場の動員学徒。入市。自宅は市内。
「広島市医師会だより8月号」81081503
池崎五十登 日通の材木係長。兵器補給廠日通派出所で被爆。
「ピカに灼かれて-被爆体験記第5集」(広島医療生活協同組合原爆被害者の会など、81083301)
森本昌利 技術少尉。兵器補給廠で被爆。数百人を治療。
「生と死-ヒロシマ・ナガサキから」(徳島県原爆被害者の会、82080101)
岡野健 修道中学3年。動員先の兵器補給廠正面玄関右50米位の所で被爆。火傷。
「原子雲」(大阪府原爆被害者団体協議会、82113301)
遠藤金義 広島兵器補給庫第一勤務中隊所属。東雲町・広島兵器補給庫で被爆。
「原爆と地獄-被爆体験文集」(鳥取県原爆被害者協議会、83020101)
三井宗光 陸軍兵器廠運転手。廠内で被爆。
「はらおぐさ-原小草開園10周年記念特集」(特別養護老人ホーム清鈴園編、 西中国キリスト教社会事業団、83070101)
大永頼男 陸軍兵器補給廠隊長室前に整列している時、被爆。「間もなく隊長命令で、担架を持ち、比治山の横穴に逃げ込まれた人々を、兵器廠の庭に収容し、昼になったのでムスビと漬物を、くばって歩いて回った」
「原爆」(府中市原爆被害者の会、84063001)
河野千寿 兵器廠医務科の事務見習い。比治山の洞窟内医務科で被爆。「翌日になると、怪我人の数はさらにふえた。兵器廠の中にあるたくさんの倉庫の中はもちろんの事、屋根のある所にはこれ以上人の入る余地はなくなってしまった。」「この兵器廠の庭すみには、むしろを被せた死体が日一日と増え、肉親の安否を気づかう人達が、一枚一枚むしろをめくって歩いている。」「人間の姿とも思えない怪我人に配って歩くと、まるで餓鬼のように奪いあう」
「子供たちに残す戦争体験」(新潮45+編集部編、新潮社、84071502)
後藤初人 兵器補給廠所属軍人。廠内の食堂で朝食をすませ、自動車部品倉庫に行く途中被爆。
「炎の墓標」(三和町被爆者友の会、84080603)
日出山能市 陸軍兵器廠海田分所の工員。分所で100人位は収容・救護。6日入市。
「被爆体験記3」(船越原爆被害者の会.広島市船越公民館共編、84100101)
戸津川雅人 兵器廠自動車輸送部勤務。動員学徒3名をトラックに乗せて出廠し、稲荷橋付近で被爆。
「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85052501)
川畑ユキヨ 勤務先の兵器廠の炊事場で被爆。
「紙碑 被爆老人のあかし 第2集」(広島原爆被爆者援護事業団[編]、85060901 )
田口正秋 兵器補給廠食堂で朝食中被爆。「補給廠の医務課長は肺結核で入院中であり課の責任は代理の私にあった」。23才の救護班長。「兵器庫2棟を直ちに患者収容に準備する」。10数名の救護班員で1300名を扱う。「3日間の仮収容中に死亡した人が今私の手元にある当時の手帳に64名を数える」
「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85052501)
井藤清晴 兵器補給廠で被爆
「被爆体験記」(福岡市原爆被害者の会(編)、85060901)
沖本謙次郎 兵器廠事務所軒下で被爆。兵器廠の木造建物(長さ100メートル位)が倒壊。
「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101)
井上俊郎 陸軍兵器補給廠自動車隊の軍属。6日は発熱のため休暇をとっていた。7日入市。
「子孫におくる劫火の跡」(甲田町被爆者の会、85070101)
平田重一 兵器補給廠徴用工員。陸軍共済病院に入院中被爆。
「核兵器全面禁止をめざして」(原水爆禁止香川県協議会、85072004)
宮原正司 勤務先の陸軍兵器廠で被爆。
「きのこ雲 第3集-山梨県被爆者の体験文集」(山梨県原水爆被害者の会(甲友会)(編)、85072101)
原田積 兵器補給廠中部139部隊から兵器補給廠へ配属。集会所2階で朝食中被爆。床の一部が吹き飛び、4メートル下のコンクリート上に落下。「兵器廠構内に避難された数百人の罹災社の大半は、火傷を受け重傷者が多く、毎日数人ずつの死者が出ており、全くこの世の地獄そのものでした。」
「平和」(摂津市市長公室企画課、85080105)
平田喜八郎 霞・兵器補給廠勤務。 動員学徒東南門近くの倉庫入口で被爆
「原爆」(千代田町原爆被害者の会、85080602)
亀本勇 兵器補給廠で歯科軍医待遇。包ケ浦分廠に派遣。「包ケ浦分廠には当時五百人余りの工員と一個分隊の兵士がおり、」「軍医とともにモーターボートで広島に急ぎ直行」。「最初は兵士達に患者の住所氏名を聞かせ、尋ねて来る親、兄弟、知人の判り易いように紙に書き、掲示板に貼っていた。私も百人近くの住所氏名を書きとめたが、今は記憶にない。死体はトラックで大河の方面で火葬にしたとの事だ。6日間治療にあたったが、・・・」「3日目頃で薬も底をついた。大混乱の中でも、兵士を先に治療して、地方人はあとまわしにするよう上司より司令が来たが、・・・」
「閃光の証言」(広島県歯科医師会、85120101)
原田みどり 兵器補給廠付の陸軍看護婦。
「あのとき閃光を見た 広島の空に」(広島市教育委員会、86033304)
沖田春好 陸軍兵器補給廠勤務中隊八田隊所属。朝食中被爆。「補給廠には兵器倉庫が10兵庫あったので、地方の人を収容することができた。ほとんど倉庫一ぱい収容して援護に当たる」「夜は電気がこないのでローソク一本で不寝番に立つ」。
「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608)
吉川広二 霞町・兵器廠「爆風により大きな窓硝子は全部吹き飛び、二間幅の大戸の鉄の扉も吹き飛んで、将校さんがその下敷きになりうめき声をあげていられるので、大急ぎで一五人くらいの人で扉を持ち上げ、」「突然の混乱状態で廠内の作業もできなくなり、元気な者は建物の中に仮病室を作る作業になり、また自由に廠内の中に出入りできる指令が出されました。」「一時間あまりの間に何千人かと思う人が避難して来て、建物の中は足の入れ場のない状態となりました。
「原爆の追憶」(広島県芸北町原爆被爆者の会編、86080608)
尾形隆憲 補給廠建物内で被爆。
「被爆体験手記集」(松戸市原爆被爆者の会編、86091501)
今永有美 2才の母は兵器補給廠に勤める祖母とともに被爆.祖母の話
「赤いトマトの思い出」(三和中学校、広島市立三和中学校平和教育部会、87030101)
古谷光則 「8時からの朝礼と廠長の訓示が終り、事務室に帰り窓際の机に着いた途端に」被爆。「幸い物資のたくさんあった部隊なので、素早くサラシ布を2,3巻腰に巻いてあげ、肩にもタオルのように掛けてあげ、あとは山と積んだ食用油入りの1斗缶を切って、焼けただれた身体に流すように塗ってあげる程度のこと」
「被爆体験記-炎の叫び」(世羅西町原爆被害者協議会、87060101)
宇根利枝 陸軍兵器廠兵器廠の保母,預かっていた30人の乳幼児を必死で捜す。
「ヒロシマ・ナガサキの群像」(広島・長崎の証言の会、汐文社(発売)、87072001)
(匿名)女子挺身隊で兵器補給廠勤務。
「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101)
浜田のぶ 女学校卒業後挺身隊員として広島兵器廠輸送課勤務。8時からの朝礼後、被爆。
「はまゆう第2集-結成15周年記念」(横浜市被爆者の会(浜友会)、87080101)
空博行 前出
「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603
深田敏夫 前出
「原爆を撮った男たち」(「反核・写真運動」編、草の根出版会、87080603
境寿一 比治山広島兵器廠本部付。比治山に大規模の地下防空壕構築中。「運輸廠、被服廠、兵器廠と隣接して、大奥は互いに連結され、大会議室も出来ておりトラックも出入り出来るよう、壕の構築には昼夜交替の突貫工事中でした。
「広島・長崎原爆被爆体験記」(長門・大津原爆被爆者友の会編、長門時事新聞社、87080611
奥西妙子 勤務先の兵器補給廠で被爆
「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101)
田丸昭三 勤務先の兵器補給廠で被爆
「原爆被爆者の叫び」(久井原爆被害者の会、88010101)
浅井一美 陸軍兵器廠勤務。ホーム(宇品線の引っ込み線)で掃除をしているとき被爆。
「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301)
下瀬睦夫 陸軍兵器補給廠で被爆。 S62.1.27、死亡。
「21世紀への伝言-ヒロシマ・ナガサキからの証言」(宇部市・小野田市原爆被爆者協議会、88070301)
山本貫一 前出
「原子雲の下に生きつづけてLiving Under the Atomic Cloud」(渡辺礼一、全電通原爆被爆者協議会、89070104)
小林清二郎 広島陸軍兵器補給廠岡山分廠の救援隊。5-60名とともに8日入市。
「原爆へ平和の鐘を(第二巻)-奈良県原爆被害者の手記」(奈良県原爆被害者の会(わかくさの会)、90011001)
守屋勇 広島陸軍兵器廠配属。
「福山市原爆死没者慰霊碑建立記念誌・原爆被爆体験記」(福山市原爆死没者慰霊碑建立委員会・福山市原爆被害者の会、90040101
和田タカ 前出
「句集被爆馬」(和田タカ、90042501)
下江カツ子 兵器支廠軍属として勤務。仕事前の掃除中被爆。「1号館から12号館まで、赤レンガで造られた倉庫は平気で建っていた」「8号館が救護所になっていた」
「木の葉のように焼かれて第24集」(新日本婦人の会広島県本部、90072001)
(聞書1)兵器廠営庭で被爆
「閃光は消えず-被爆者聞き書き」(松岡克昌編、勁草出版センタ-、90072004)
内藤博己 広島陸軍兵器補給廠所属の兵士。2階が兵舎で下が倉庫。2階で朝食準備中被爆。「前の倉庫の屋根のスレート瓦が吹き飛び、窓ガラスや整頓棚の帽子軍服履物等が二階の兵舎から屋外に吹き飛んだ。」「怪我人を兵舎の下の倉庫に収容する。その数約百人。3日後にはほとんど死亡した」)
「ピカドン第2集-終りなき闘い・被爆45周年記念誌」(神石郡原爆被害者協議会、90080601
木村紀彦 広島陸軍兵器補給廠技術将校。7日入市。ホノルル市在住。
「平和への願いをこめて-原爆ドームに寄せられた手紙」(広島平和文化センタ-、90100101)
岡野健 修道中学3年生。動員先の兵器補給廠で被爆。
「被爆の証言-広島・長崎」(大阪府原爆被害者団体協議会編、91030101)
縫部貞彦 修道中学4年生。動員先兵器補給廠内で被爆。
「被爆者の声」(坂町教育委員会、91080601)
相原員恵 兵器補給廠の軍属。当日は公休日。
「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603)
TA 兵器補給廠への志願兵。海田市の支廠配属
「原爆-体験記録第3集」(府中市原爆被害者の会、91080603)
平山郁夫 「兵器廠での私立修道中学3年生の仕事は、弾薬箱用の材木を整理し、搬入することだった。午前8時に点呼を受け、本廠から少し離れた材木置き場に駆け足で移動した。そこに着いたのが8時12,3分だったろう。5、6人いた同級生たちは小屋に入って、着替えや準備を始めた。」
「道遥か-自伝画文集」(日本経済新聞社、91112501)

 

 

 

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

1999年3月
10日 樹木が取り払われた南側
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10日 鉄骨が組み立てられた北側
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16日 覆いが施された西側
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23日 甍が取り払われた東側
hj990323ys
27日11:30 消えた屋根の中央部(北側より撮影)
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27日11:30 消えた屋根の中央部(南側より撮影)
 ks990327cs
27日11:30 南側より撮影
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27日11:30 原医研南側の広場
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27日11:30 原医研南側の広場
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27日16:30 消える屋根の東側(北側より撮影)
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27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
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27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
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29日13:00 消えた屋根の東側(北側より撮影)
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29日13:00 東側(南側より撮影)
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30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)
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30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)

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1999年4月
01日08:30 消えた屋根の西側(北側より撮影)
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01日08:30 西側(南側より撮影)
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01日08:30 西側(南側より撮影)
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01日08:30 原医研南側の広場
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02日13:00 わずかに残る東壁面の下部(南側より撮影)
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02日13:00 わずかに残る東壁面の下部
(北側より撮影)
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02日13:00 ガレキの山と化した11号館(南側より撮影)
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広島県産業奨励館(原爆ドーム)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

現在*  原爆ドーム
竣工時 広島県物産陳列館
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.16キロメートル
所在地 中区大手町11丁目10(猿楽町)
竣工時期 1915(大正4)年4月
構造/階数  レンガ造/3階建
設計者/施工者 ヤン・レツル/椋田組

 

 

広島大学霞キャンパス開発史

広島大学霞キャンパス開発
(=広島陸軍兵器補給廠の建造物消滅)の歴史

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1940年頃

原爆による建物被害(出典:経済安定本部の1948年1月調査資料)

区分 被害程度 棟数 床面積
(坪)
平均取得年次
木造 60 6,551 昭和14年
木造 92 12,720 昭和13年
耐火構造 26 10,242 明治42年

 

1957年頃(広島大学医学部・同付属病院の移転当時

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レンガ造りの建物は残り、補修工事を施した上で使用された。

1960年新病棟完成

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出典:『広島大学25年史・部局史』。

資料:新病棟建設の経緯

 ABCCは、数年間にわたり、広島および長崎の学術指導者として協力して、広島・長崎両大学に原爆被爆者に対する診療施設を設置するために米国より助成金を求める計画に努力した。この計画の達成は、予想以上に手間どり多くの困難があったが、1960年1月米国大使と日本国外務大臣との間で、各大学に300,000ドル(108,000,000円)を寄付することを確認する覚書が交換された。
『原爆傷害調査委員会年報60-61』より
昭和35年[1960年]度政府予算案に本学付属病院の増築計画が組み入れられた。この計画予算は、1億1000万円で米国政府から贈与される予定の「余剰農産物売上げ積立金」を財源にしたものである。昭和35年9月に始められた新病棟建設工事は翌36年6月に完成した。本学初めての鉄筋5階建て新病棟(約3300平方メートル)の落成式は、同年10月19日に駐日アメリカ大使ライシャワー氏夫妻の出席を得て、盛大に行われた。
『広島大学医学部30年史』より

新しい建物が望まれた

原爆放射能医学研究所が入った3号館(1963年3月)
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広島大学原爆放射能医学研究所玄関(1962年3月)『広島大学原爆放射能医学研究所年報第3号』より。

霞キャンパスの諸施設の改修・建設経緯

着工-完工 施設名 旧兵器補給廠の建物
1960.9-61.6 病棟(5階、現西病棟)の新築 16号館取り壊し?
1961.10-62.4 3号館、10号館の改修
1962?-63 11号館の改修
1963-65.3 付属病院中央診療棟(3階)の新築
-67.12 医学部解剖実習室の新築
-68.2 医学部付属病院病棟(8階)の新築
1969.11-70.6 実験室、講義室の新築 4号館の全部、1・2号館の一部が取り壊し
-71.3 医学部基礎研究棟(9階)の新築
1971.12-73.2 臨床研究棟、臨床講義棟の改築 7号館の全部、5号館の一部が取り壊し
1973-76? 外来棟、中央診療棟の改築 10号館の全部と8号館の一部が取り壊し
1974.3-74.3 薬学科校舎の新築
『広島大学医学部30年史』より。

 

1975年?
(まだ、1・3・5・6・8・10・11号館が残っていた。)

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『広島大学医学部30年史』より

1998年5月
(現在、唯一残っている11号館東側)

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