ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会

ヒロシマ・フィールドワークの歩み

1994年以来、広島平和記念公園およびその周辺を巡るヒロシマ・フィールドワークを年に1回実施してきた。

2003年以降は、平和公園周辺に住んでおられた方をお招きし、かつての町の様子を証言していただいて、その後一緒にその町の跡を巡ることとした。

出典:『証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町』(編集:ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗)(発行:2017年8月5日=ピカから26297日)

関連文献(広島平和記念資料館「平和データベース」を「キーワード:ヒロシマ・フィールドワーク」で検索した結果

書名 著者 出版者 出版年
’93修学旅行 日本福祉大学付属高等学校第2学年 日本福祉大学付属高等学校 1993/9/1
広島・大久野島への旅-被害と加害の挟間 ’93広島修学旅行研究集録 名古屋大学教育学部附属中学校3年生編 名古屋大学教育学部附属中学校 1994/2/21
平和と交流1999年版(平成10年度事業) 広島平和文化センター 広島平和文化センター 2000/2/10
証言原爆で消えた町から ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2007/1/26
証言町と人の記憶 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2010/5/5
消えた町 記憶をたどり 絵と証言 森冨茂雄 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2011/8/5
2014年度 第21回ヒロシマ・フィールドワーク(チラシ) ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2014/7/27
証言記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2015/5/3
証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2016/5/3
証言 江波に生きる 大岡貴美枝さんの語る暮らし・戦争・原爆 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2016/9/17
証言 町と暮らしの記憶 中島本町・材木町・水主町 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会編 ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 2017/8/5

 

原爆障害者救援事業広島委員会

財団法人広島原爆障害者対策協議会原爆障害者救援事業広島委員会

1.名称  原爆障害者救援事業広島委員会

2.目的  ノーマン・カズンズ氏等国外有志の好意による原爆障害者救援事業の推進を図る

3.委員

   原爆障害者救援事業広島委員会委員名簿(順序不同)
 顧問  東京日赤中央病院長  都築正男
 日米協会長  小松隆
 日本タイムス社長  東ケ埼潔
 委員  広島市長原医協会長  渡辺忠雄
 日本医師会代議員原対協副会長  松坂義正
 広島県医師会長原対協副会長  正岡旭
 広島大学長  森戸辰男
 広島県副知事  河野義信
 広島商工会議所会頭  白井市郎
 広島市医師会長  今川卓治
 広島市社会福祉協議会  鈴川貫一
 広島市議会議長  柴田重*
 広島市助役  沖野悟
 広島原爆犠牲者遺族援護促進会委員長  任都栗一興
 広島県医師会理事  原田東岷
 広島県医師会理事 大内五良
財団法人広島ピースセンター 谷本清
広島市厚生局長 向井一貫

灰墟の光甦るヒロシマ

『灰墟の光 甦るヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋、1961年2月10日刊)

目次

 目次
Ⅰ 空虚と混乱(一九四五年)
書物
原子砂漠
大洪水のあと
孤児とやくざ
位牌
Ⅱ 新たな開始(一九四六-一九四八年)
夢見る人
たけのこ生活
〈アトム・ボーイ〉
〈杖さん〉
Ⅲ 平和の町(一九四八-一九五二年)
わが道を行く人びと
こわし屋
殺人
八月六日
草履
Ⅳ 生き残った人びと(一九五二-一九五七年)
かまぼこ御殿
救援の人たち
冷たい人たち
破滅にさからう二人
エピローグ
訳者あとがきに代えて
 <メモ >「1957年5月の末、・・日本を去ろうとしたとき、私は小倉薫という若い民間の学者と打ち合わせをした」

187

 

献花(6月)

献花(2019年6月)

DSC01961
アジサイ(紫陽花) 撮影場所:自宅 撮影年月日:20190612
撮影日:日、場所:自宅

献花(2018年6月)

DSC08452
撮影日:4日、場所:自宅
 DSC08456
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08462
撮影日:4日、場所:実家
DSC08463
 トウモロコシ 撮影日:4日、場所:実家
DSC08464
 トウモロコシ 撮影日:4日、場所:実家
 DSC08465
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08466
キュウリ(胡瓜) 撮影日:4日、場所:実家
DSC08467
ナス(茄子) 撮影日:4日、場所:実家
DSC08468
ドクダミ() 撮影日:4日、場所:実家
DSC08469
ポピー 撮影日:4日、場所:実家
DSC08474
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08477
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08480
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08482
 撮影日:4日、場所:実家
DSC08484
ツツジ(躑躅) 撮影日:4日、場所:自宅
2018-06-06-17-23-43
ヒメジョオン(姫女苑)の群生 撮影日:6日、場所:自宅と実家の道端
 DSC08494
バラ(薔薇)  撮影日:12日、場所:実家
 DSC08505
モモ (桃)  撮影日:13日、場所:実家
 DSC08515
 バラ 撮影日:15日、場所:実家
 DSC08518
 柿の実 撮影日:15日、場所:実家
 DSC08528
 撮影日:16日、場所:倉庫
 DSC08530
アガパンサス  撮影日:16日、場所:倉庫
 DSC08531
 ニンニク(大蒜) 撮影日:16日、場所:実家
 DSC08533
 ノウゼンカズラ  撮影日:17日、場所:自宅から実家の散歩道
 DSC08538
  ヘチマ(糸瓜) 撮影日:17日、場所:倉庫
 DSC08545
 DSC08546
ホタルブクロ(蛍袋)  撮影日:17日、場所:実家
 DSC08547
 ハマユウ(浜木綿) 撮影日:17日、場所:実家
 DSC08551
あじさい(紫陽花)  撮影日:20日、場所:自宅
 DSC08552
  コリウス 撮影日:20日、場所:自宅
 DSC08554
 撮影日:20日、場所:自宅
 DSC08555
ファレノプシス( 胡蝶蘭)   撮影日:20日、場所:自宅
 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

原爆傷害調査委員会年表:1945-68

CHRONOLOGY OF EVENTS. 1945-68

年月日 事項
194508-10 広島および長崎で、原爆投下直後の影響を調べる日本側医学調査班とDr.A.W.OughtersonおよびDr.Shields Wrrenを長とする米国からの科学者が合流して、日本政府より、日米合同調査団の編成が認められた。東京大学の都築正男博士の尽力により、同調査団の偉大な事業を援助するすぐれた日本人科学者90人が集まった。その調査結果は、日本および外国の学術文献に発表されている。
<未入力>
196806

出典:『1968-69年度ABCC年報』

広島・ナガサキ原爆資料公開展

広島・ナガサキ原爆資料公開展

 会場  日本赤十字社本社講堂(東京)
期間 1954年11月25日~12月3日
 主催 日本赤十字社、広島市、長崎市。
後援 厚生省、文部省、農林省、東京都、広島県、長崎県。
協賛 日本新聞協会、日本放送協会、民間放送連盟、全国社会福祉協議会連合会、中央共同募金会、原水爆禁止署名運動全国協議会
役員 相談役 池田勇人(衆議員議員広島)<以下未入力>
委員  葛西嘉資(本社副社長)<以下未入力>
幹事 丹羽諦順(広島市厚生局長)<以下未入力>
展示物 <以下未入力>
開場式  「名誉副総裁秩父宮妃殿下がテープを切られ、内外人の観覧者がつめかけ、連日満員の盛況であった」
 「会期中には、日赤中央病院長都築博士の講演や健康相談なども行われ好評を博した」

出典:『日本赤十字社社史稿 第6巻』

赤十字国際委員会主催国際専門家会議

赤十字国際委員会主催国際専門家会議 1954年4月6日~13日 会場:赤十字国際委員会本部会議室(スイス・ジュネーブ)

年月日 事項
19530929 同日付書簡(赤十字国際委員会副会長ー>日本赤十字社島津社長)[専門家会議への代表者の派遣要請]。「同様の書信をベルギー、フランス、インド、寝るウェー、ポーランド、イギリス、アメリカ、ソ連の赤十字社へも発信」「会議予定事項 1.無防備の人民の保護を強化するために空襲に関する規定を明確にし、また決定するための調査の必要についての一般的予備討議、2.人道上の要求と戦争の現実とを考慮した上で空襲(無人操縦機による爆撃も含む」)に関して適用されている、またさるべき既定の調査」
日本赤十字社、都築正男(原爆症)と榎本重治(国際法)を推薦。
 195402 この月の開催予定が4月に延期
 19540331  都築・榎本、羽田空港を出発、ジュネーブに直行。
 19540406  赤十字国際委員会本部会議室で開催。参会者:12か国16人。すべて個人の資格で意見を表明。東ドイツ、ポーランド、ソ連からの出席者なし。「日本代表都築博士からは、原子爆弾の使用や水素爆弾の事件が人体におよぼす被害についての報告がおこなわれ、唯一の被害者である日本の訴えは参会者の胸を強く打った」
 19540413  専門家会議としてコミュニケ(「世界の人民を原子戦争から守るためには兵器の破壊力を制限することが第一条件である」など}を発表し、赤十字国際委員会に報告。
 1954  第23回赤十字社連盟理事会で日本赤十字社から原水爆実験禁止の提案。
 <以下未入力>

出典:『日本赤十字社社史稿 第6巻』

文部省原子爆弾災害調査研究報告(1952年~)

文部省原子爆弾災害調査研究報告(1952年~)

 タイトル  収録報告集  発行者、発行年月
 原子爆弾災害調査研究  昭和27年度文部文部省科学研究費による総合研究報告収録(昭和27年12月現在)―医学および薬学編―  日本学術振興会(昭和28年2月)
 原子爆弾災害調査研究  昭和28年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原子爆弾災害調査研究   昭和29年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
  原子爆弾災害調査研究    昭和30年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原子爆弾災害調査研究   昭和31年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
  原子爆弾災害調査研究   昭和32年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原水爆被害に関する総括的研究 原水爆被害に関する総括研究 [33年度報告]
  原水爆被害に関する総括的研究  原水爆被害に関する総括研究 [34年度報告]
 原水爆被害に関する総括的研究   原水爆被害に関する総括研究 [35年度報告]
放射線の影響に関する研究

 

広島県動員学徒犠牲者の会(略年表)

広島県動員学徒犠牲者の会 1957年2月17日

略年表

Y M D NEWS1
57 02 04 広島県動員学徒犠牲者の会結成準備委員会、広島県庁で開催。
57 02 17 「広島県動員学徒犠牲者の会」結成大会、広島県庁で開催(約100人参加)。動員学徒も軍人・軍属なみの国家補償を要求すると宣言。
57 05 31 広島県動員学徒犠牲者の会、「友の会だより」を創刊。
57 10 20 広島県動員学徒犠牲者の会、第1回動員学徒慰霊法要を光道会館で挙行。終了後、平和公園供養塔に参拝。
58 07 06 広島県動員学徒犠牲者の会、第2回動員学徒慰霊法要を広島市寺町・本願寺別院で挙行。終了後、原爆病院の患者を見舞う。
59 04 12 広島県動員学徒犠牲者の会、第3回定期総会を広島女学院講堂で開催。
60 08 06 中山マサ厚生大臣、広島市内の旅館で県動員学徒犠牲者の会・県身体障害者団体連合会など県内23団体の陳情を受ける。広島市、原爆総合医療研究所の設置を要望。
66 06 20 準軍属広島遺族の会(1958年5月、援護法改正期成同盟会を改称)、解散総会をあげ、広島県動員学徒犠牲者の会に合流。([動員学徒誌])
69 04 09 広島県・長崎県動員学徒犠牲者の会交歓会、長崎市国際文化会館で開催。
73 08 20 広島県動員学徒犠牲者の会の代表3人、首相官邸で二階堂官房長官に、遺族・傷害者の恩給などの改善を陳情。
78 11 07 広島・長崎の動員学徒犠牲者の会、島原市で交流大会。
80 01 10 「広島県動員学徒犠牲者の会」理事長沖本喜夫、死去。
91 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、広島市平和公園の慰霊碑前で第35回原爆追悼式と供養会(約500人参列)。
94 04 17 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒の50回忌法要を進徳学園で挙行。約400人が参列。
95 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、追悼式を平和公園の動員学徒慰霊碑前で挙行。約300人が参列。
97 08 06 広島県動員学徒犠牲者の会、動員学徒追悼式を挙行。約500人が参列。

 

ひろしまの碑をめぐる思想性

ひろしまの碑をめぐる思想性1975年9月の宇吹報告

『平和教育研究』(広島平和教育研究所・年報1976年)所収

(1)

今日、平和公園をはじめとして広島市内で私が確認した限り、いわゆる「慰霊」を目的とした碑は90余りあります。歌碑とか詩碑で、慰霊の意味を含まない平和慰霊碑を会わせると120の碑があるという報告もありますが、慰霊の内容が確認できるものとしては、90余りだと思います。

これらの碑を訪れてみた感想としては、どの碑の場合も掃除がきちんとゆきとどき、今日もなお、市民や遺族の哀悼の念が戦後30年生き続けていることが非常によくわかりました。そして、慰霊碑そのものが、犠牲者なり遺族なりの戦後30年の歴史をさまざまな形で示しているようにも思ったわけです。それらが、今日生きている私たちにさまざまな事柄を強く訴えており、その内容をどう位置づけるかと言うことで、一つの史論的なものとして、「ひろしまの碑をめぐる思想性」を考えてみたいわけです。

そこで一つの例として、広島市立高等女学校の慰霊碑の経緯をみてみたいと思います。といいますのは、この経緯は他の慰霊碑と似かよったものがあり、他の慰霊碑もこれとよく似た歴史をもっているので、まずその流れを述べてみたいと思います。

終戦直後の昭和20年10月30日、この10月30日というのは戦前の教育勅語発布の記念日だそうですが、この日に、「殉職諸先生及び生徒の慰霊祭」が市立高女(現在の舟入高校)の破損した講堂で行われています。翌21年8月6日、多くの生徒と教職員が家屋疎開作業に出ていて原爆の犠牲となった現場で、一周忌法要という仏式の慰霊祭を行い、「殉職諸先生並生徒供養塔」と書き込んだ木碑をそこに建立しています。

2年後の昭和23年5月に新制高校が発足し、市女は二葉高校として出発しましたが、その年の8月6日に、母校市女の御真影奉安庫跡に石の祈念碑を建立し、慰霊碑とは呼ばずに「平和塔」と呼びました。正面は、少女が3人刻みこまれ、まん中にE=MC2(原子エネルギーの公式)という箱をもった少女がいます。裏側は「友垣にまもられながらやすらかに眠れみたまよこのくさ山に」という詩が刻んであります。

昭和25年、都市計画で最初に建てた木碑の「供養塔」地が百メートル道路の一部になるので、その年の8月6日に持明院というお寺の境内に木碑を移しています。同時に、広島市女原爆遺族会を結成し、以後は遺族会が中心となって追弔行事を行ってきました。さらに翌26年8月6日、持明院境内にもう一つの石碑「市女原爆追悼碑」を建立し、除幕しています。これは学校に建立した平和塔と同じものですが、正面のE=MC2がなくなったかわりに、「市女原爆追悼碑」と刻み込まれています。そして昭和32年8月6日、学校に建立した「平和塔」を現在地の元安川畔へ移し、今日にいたっているというのが大まかな経緯です。

(2)

この市女の例にみられるように、広島市内にある慰霊碑の多くは、慰霊祭とか慰霊法要という宗教的行事に結びついて建立されているようです。この点について、原爆投下後から翌21年8月までの一か年間に、当日の中国新聞に慰霊祭・慰霊法要を営むという宣伝広告がたくさん載りました。総計すると114種の慰霊祭・法要の通知が載っています。1年間でこれだけたくさんの慰霊祭・法要が営まれたわけですが、その際に、遭難地・火葬地・学校や職場・法要を営んだ寺などに木碑が多く建てられたと思われます。このようにして建てられた木の墓標とか、簡単な供養塔が広島における今日の慰霊碑の始まりのようです。

今日、これら初期の木碑は、そのままの形で残っているものはありませんが、当時のもので碑銘の明らかなものを調べてみると、戦死者31名之墓・船舶練習隊処理之墓・広島郵便局殉職者供養塔・神崎学区戦災死没者追善供養塔など、「原爆」という文字の出てこないのが注目されます。占領下では、こうした銘名が一般的であったようで、終戦直後のプレスコード(9月19日)などによって原爆に対する批判が封じられていた影響によると思われます。

占領下の当時は、原爆という文字が使えないだけでなく、学校などに慰霊碑を建てることにも制約が加えられています。昭和20年と22年に広島市から各国民学校長宛に出した公文書の中で、慰霊碑建立に対する制約のあることが確認できます。また当時、広島市立学校長に、学校に現存する忠魂碑とか戦没者記念碑などを撤去したかどうか報告せよという文書も出されています。そのほかに、学校を宗教行事に使用してはならないだけでなく、学外でも学校がこうしたことを主催するのを禁止しています。

昭和20年から22年に出されたこれら一連の通達は、それまでの軍国主義的な教育と一線を画すために行われた政策の一つであったと思われますが、逆に原爆犠牲者の遺族達の慰霊に対する心情をゆがめる結果にもなったと思います。

こうした当時の状況を反映して、一例として最初に述べた市女学内に建立された碑は、慰霊碑と呼ばずに「平和塔」と呼びました。この点について市女原爆遺族会長は、「当時わが国は米国占領下にあり、慰霊碑などの建立は許されない諸情勢であったが、市女原爆関係者は率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」と追憶記の中で書いています。また、この平和塔の浮彫は、「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となった」と級友が犠牲者を慰めている姿を表しているといわれており、ここでは原子力と原爆が同一視されています。占領政策が解かれた年の昭和26年に持明院境内に建てられた同型の碑では、表面の浮彫は消え、かわりに「市女原爆追悼碑」という碑銘がはいったことなどからみて、いかに原爆がタブー視されていたかの一端がうかがえます。

このように、「原爆」という二文字さえ自由に使えなかった占領下においては、ほとんどの慰霊碑の性格は、慰霊という宗教目的を出ることはありませんでした。しかし、占領が解けると、慰霊碑はさまざまな性格をもつようになってきます。その一つは、「原爆」という二文字が一般的に用いられるようになったことです。つまり、原爆犠牲が「戦死者」「戦災死者」など戦争一般の犠牲者と区別できない表現から、「原爆犠牲者」「原爆死没者」というように、その死因として「原爆」を指摘する表現になったことに大きな意味があると思います。

二つには、原爆という言葉と同時に、「平和の礎」「殉国」「散華」「英魂」「英霊」と言った死者に対する一種の意義づけが行われるようになったことです。「平和の礎」という表現は占領下から使われていましたが、これは、原爆投下が戦争を早く終わらせ平和をもたらしたのだという占領政策の思想からきたのだと思われます。昭和30年ごろまでよく使われていましたが、それ以後の碑にはなくなっています。「殉国」「散華」などは、戦前から使われている普通の表現ですが、占領下では消えており、占領解除後は学校関係の碑を中心に多く用いられています。これは、いたいけない子ども達を失った父母たちが、何らかのかたちでその死を位置づけたいという気もちによるものだと思われますが、今日の靖国神社法案と関連して深刻な問題を示しているともいえます。

「平和の礎」や「殉国」などといういい方は、過去の反省にたった表現となっていますが、昭和30年前後からは、原爆犠牲を過去のこととしてではなく、現在や未来に結びつけたものが建てられるようになりました。つまり、原爆犠牲者への哀悼の念をとおして平和への祈念、原爆への怒り、核兵器廃絶の決意などが語られるようになったわけです。その表現方法も、具体的なことばだけでなく、象徴的な彫刻などによるようになりました。

たとえば、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから=原爆慰霊碑」「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための=原爆の子の像」「なぜあの日はあった なぜいまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを=全損保労組被爆20周年記念碑」「天を撃つな 戦霊を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来を=国労慰霊碑」などがその一例です。

これら慰霊碑の碑文や彫刻などに脈うつ原爆観、平和観はけっして同一ではなく、戦後30年広島・日本・世界中にうずまいた平和運動の影響を多かれ少なかれ受けていると思います。その意味では、今日までの平和観・原爆観の縮図のような気もしますが、一つだけ同じ訴えをしているように思います。それは、広島の悲劇を再び地上にくり返してはいけないということです。

 (3)

以上が、碑をめぐる問題について私なりの大まかな史論的な考えです。それと関連して、これら広島の慰霊碑と国などが行っている慰霊祭は、本質的に違うと思うのです。国などの場合は、戦前のことが常に考えられているようだし、靖国神社ともつながって計作されていると思います。これに対し、広島の慰霊碑の性格としては、市民の要求や市民のやむにやまれぬ感情が結集してつくられていると思います。

ところで、体験記の中にも慰霊碑でみてきたのと同じような流れがあります。[中略]

慰霊碑の碑文が簡潔で、どのようにでも解釈できるような場合もたくさんあるわけですが、慰霊碑の建立を機に出されている体験記集とかみあわせることによって、その碑のもつ意味が一つ一つ正確に位置づけられると思います。

原爆モニュメント関係参考文献・資料

原爆モニュメント関係参考文献・資料

文献・資料名 著者・作成者 発行・作成
年月日
備考
原爆モニュメント遍歴 中国新聞(連載) 1952.7-8.
慰霊碑巡拝 産経(連載) 1957.7-8.
碑よ 安らかに 中国新聞(連載) 1965.7-8.
碑は見つめている 中国新聞社 1965.7.15 中国新聞文化事業社
碑は語る-ヒロシマ22年の歩み 毎日新聞(連載) 1967.7.-8.
原爆慰霊碑巡礼案内 後藤純 1967.8.1 原爆慰霊碑研究所
広島碑林 三田嘉一 1968.8.6 三田蝋染堂(刊)
原爆被災資料総目録第1集 原爆被災資料広島研究会 1969.
写真記録 ヒロシマ25年 佐々木雄一郎 1970 朝日新聞社(刊)
原爆の碑をたずねて 原水爆禁止広島県協議会 1974.7
広島市・平和のモニュメントの分布図 高辻尚文 1975
慰霊碑の思想 宇吹曉 1975.6
慰霊碑めぐり 民主青年同盟[広島]県委員会 1975.8.3
原爆の碑-広島のこころ 黒川万千代 1976.8.6
慰霊碑・広島 原爆資料保存会 1977.2
鎮魂の碑-被爆33回忌によせて 産経新聞(連載) 1977.7.-8.
原爆モニュメント碑文集 原爆モニュメント研究グループ 1978.3.25
ヒロシマ読本 小堺吉光 1978.7.20 広島平和文化センター(刊)
原爆の碑-広島のこころ 黒川万千代 1982.7.15 新日本出版社(刊)
広島のいしぶみはみつめる・第1集 西尾隆昌 1982.9.15
ヒロシマの旅-碑めぐりガイドブック 広島県歴史教育者協議会ほか 1983.6.23 平和文化
原爆モニュメント物語 広島県歴史教育者協議会 1984.7.27 平和文化
原爆モニュメント碑文集(続) 原爆モニュメント研究グループ 1985.8.6
平和公園・
碑めぐりガイドブック
生協ひろしま 1986.4
原点-フィールドワーク・イン・ヒロシマ 広島県原水禁 1986.8.1
なぜいまもつづく広島記念碑 池上利秋・武田寛ほか編 1987.8.6 広島県原爆被害者団体協議会(刊)
ヒロシマ・平和公園・碑めぐり ソリッドマップ広島 [1989.5.] [航空写真を使用]
資料・韓国人原爆犠牲者慰霊碑 「碑の会」(全朝教有志・ピカ研) 1989.8.5
ヒロシマの声を聞こう
-原爆の碑と遺跡が語るもの
「原爆碑・遺跡案内」編集委員会 1990.8.1
写真集・平和のモニュメント 藤田観龍 1995.3.10 新日本出版社(刊)

 

年表:原爆爆心地復元運動

年表:原爆爆心地復元運動 1966~69年

記 事
66 07 33 広島市平和公園の旧中島本町・材木町の住民20人余、NHKの企画で浄宝寺に集まり、慰霊碑周辺の復元を試みる。
66 08 広島大学原医研、中山町の被爆調査を開始。[復元]
66 08 03 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心半径500メートル」を放映。広島原爆爆心地の平和公園慰霊碑周辺の復元地図を作成し、初めて公表。
67 06 24 広島大学原医研、広島市の原爆爆心地付近の正確な被害調査をすることを決める。この日、旧中島本町・材木町の元住民3人から当時の状況を詳しく聞き、約40戸の消息をつかむ。[復元]
67 08 03 [掲載紙不明]「ほとんどは被爆死?-広島市中島町-戸籍に残る百歳代」[復元]
67 08 04 NHKテレビ、現代の映像「軒先の閃光~ヒロシマ・爆心地」を放映.[復元]
67 12 18 中国新聞「被災全体像の重量において-ありえない核との妥協」(栗原貞子)[復元]
68 03 18 広島大学原爆放射能医学研究所、爆心地の総合的調査に本格的に着手.[復元]
68 03 19 NHK広島放送局、「よみがえる爆心」を総合テレビ「時の動き」の時間帯の県内ローカルで放映。[復元]
68 04 03 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地予備調査終わる~中島地区」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 06 12 NHKテレビ、「県民の話題:進む爆心地調査」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 07 28 毎日新聞「幻の映画-復元上映の使命を痛感」(?画家・新協美術会委員)[原爆映画]
68 08 04 NHK、報道特集「被爆原点の空白~ヒロシマ・1968年夏」を放映。隅谷三喜男・森滝市郎・志水清・山田節男が出演。[復元]
68 08 04 広島大学原医研、爆心地住民のつどいを広島平和記念館で開催.約130人参加.参加した21人の住民,爆心地復元中島地区委員会を結成.会長:土肥常三郎。
68 08 07 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(1)完成間近い爆心地図」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 08 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(2)動き出した住民たち~材木町保存会」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 09 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(3)ひろがる爆心運動」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 08 10 NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(4)被爆から23年」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 09 02 土肥常三郎・被爆地図復元中島地区委員会委員長ら、山田広島市長に、全市復元地図の作製を要望。
68 09 02 被爆地図復元中島地区委員会の代表、山田広島市長に全市的被爆地図を作るよう申し入れる.
68 09 05 NHKテレビ、「県民の話題:原爆地図~もり上る被爆地図の復元」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)
68 10 07 NHKテレビ、「カメラリポート:爆心を刻みたい~平和公園旧住民の願い」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 10 14 志水清広島大学原爆放射能医学研究所長、広島市全域の被爆地図復元運動を提唱。原爆被災総合調査委員会の設置を求めた試案を発表.
68 10 16? 小川岩吉(70歳)、入院中の広島原爆病院で、被爆地図の復元作業を行う。
68 12 04? 広島市旧石見屋町の町民、町内72世帯の被爆地図を復元.
68 12 10 NHKテレビ、「県民の話題:被爆地復元をめざして」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元]
68 12 11 広島被爆者援護強化対策協議会、開催.広島市の坂田助役,次年度から被爆地図復元に取り組む町内会に調査費用の援助することを明らかにする.広島大学原医研の調べでは、被爆当時の町内会は208。旧防空法により防空業務に従事中原爆の犠牲になった警防団員・医師・看護婦などへの援護措置を国に要望することを決める。
68 12 24 中国新聞「68ニュースその後(12)原爆映画初めて公開-完全復元へ猛運動-登場する半数からも同意得る」
69 01 21 NHKテレビ、「県民の話題:はじまった復元調査」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 02 21 広島市、新年度から被爆地図の復元に取り組むことを計画。
69 03 27 中国新聞、社説「原爆被災「全体像」の調査」[復元]
69 03 29 原爆被災全体像調査のための市民集会、広島平和記念館講堂で開催.日本学術会議永積小委員長が基調講演「原爆被災資料の諸問題」。田原伯原爆被災資料広島研究会事務局長や志水清広島大学原医研所長らが問題提起。約150人参加.広島市が四十四年度から被爆戸別地図の復元作業をする方針を決め、市民の協力を呼びかけ。
69 03 30 原爆被災復元委員会、会議.
69 04 04? 原爆被災復元委員会、発足.会長は志水清広島大学原医研所長。
69 04 27 中国放送(RCC)ラジオ、「市民とともに:「被爆地図復元」」を放送。
69 05 11 広島市旧材木町の元住民、原爆25回忌法要を浄円寺で挙行。同町民の法要は、12年ぶり5回目。約100人が参列。広島大学原医研の湯崎稔ら、復元地図を持参。
69 05 16 中国新聞(夕刊)、連載「”空白”を埋める-原爆被災地図の復元調査」(~20日,4回).
69 05 19 原爆被災地図復元の貴重な資料となる旧広島市千田町2丁目の町内会住民の家族構成・本籍地を記録した町籍簿が見つかる。
69 05 20 NHKテレビ、「県民の話題:町籍簿から被爆地図作り」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 06 18 NHKテレビ、「県民の話題:拡がる爆心地図復元運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」]
69 07 13 朝日新聞「被爆地図、独力で復元-広島・旧広瀬北町の老人[伊藤庫敏]-生き残った者の義務-犠牲者358人わかる」
69 07 18 広島大原医研、NHK広島中央放送局が共同で進めた爆心地復元調査の結果をまとめる。爆心地から半径500メートル以内の中島地区718人は全員死亡、追跡調査で70%の消息つかむ。NHKは調査記録を「原爆爆心地」として出版.
69 07 19 NHKテレビ、「102:爆心地復元(志水清)」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 19 朝日新聞「科学者の静かな執念実る-被爆地図復元の志水広島大原医研所長-完成へさらに情熱-市民の共感で早く進む」
69 07 24 中国新聞「風紋:爆心地の元市街図」[復元]
69 07 25 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(1)よみがえる旧中島地区」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 07 26 NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(2)もりあがる市民運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元]
69 08 01 NHKテレビ、「現代の映像:爆心の橋」を放映。[復元]
69 08 04 中国新聞「この人・この本:「原爆爆心地」の志水清氏-被害の全体像つかむ-拡がった住民運動の輪」[復元]
69 08 05 朝日新聞「閃光に消えた町-広島の爆心地を再現-生命と暮らしへの影響さぐる-ある母子家庭の24年-苦心の地図作り・広島大原医研」[復元]
69 08 10 NHKテレビ、「報道特集:鎮魂への条件~ヒロシマ1969」を放映。志水清・湯崎稔・丹下健三などが出演。[復元]
69 09 09 土肥常三郎・元中島本町原爆復元地図作成委員会会長ら、広島市に平和公園内に爆心地復元銅版の設置を要望.
69 09 22 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら10人、山田市長と朝尾市議会議長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 09 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら3人、山田市長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。
69 12 10 原爆被災復元委員会志水清会長、広島市平和文化推進審議会[平和文化センター]で調査の中間報告.

 

広島市平和式典(1991年)

平成3年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 4787人(名簿数3冊)
名簿登録者総数 172024人
名簿総数 57冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万5000人
海部俊樹 内閣総理大臣
 桜内義雄 衆議院議長
土屋義彦 参議院議長

 

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1992年)

平成4年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 4944人
名簿登録者総数 176964人
名簿総数 59冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
 海部俊樹 内閣総理大臣(代理:山下徳夫厚生大臣)
 桜内義雄 衆議院議長
遺族代表 都道府県

 

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1993年)

平成5年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
宮沢喜一 内閣総理大臣(代理:文田久雄総理府次長)
[この年閣僚の出席なし]**8月9日細川内閣発足。
 ストヤン・ガーネフ 国連総会議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1994年)

平成6年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
村山富市 内閣総理大臣
土井たか子 衆議院議長
原文兵衛 参議院議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1995年)

平成7年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
村山富市 内閣総理大臣
土井たか子 衆議院議長
斉藤十朗 参議院議長
草場良八 最高裁判所長官
三権の長全員が参列(初)
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1996年)

平成8年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
橋本龍太郎 内閣総理大臣
 斉藤十朗  参議院議長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1997年)

平成9年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
橋本龍太郎 内閣総理大臣
遺族代表 都道府県
第4回世界平和連帯都市市長会議

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

広島市平和式典(1998年)

平成10年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
小渕恵三 内閣総理大臣
 国連事務次長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表 か国と欧州連合(EU)。核兵器国のを含む。

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典