文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

    9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名 科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。

1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。

1946年2月28日、於東京帝国大学。

「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

        (日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者

都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、3.病理解剖的調査

4.残存放射能の影響調査、5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

    ***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)・木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)

平和のための広島県文化会議

平和のための広島県文化会議  結成日:1962年8月5日

広島県文化会議・第二回定期総会議案書 1963年10月20日
一年間のあゆみとまとめ

1、一年間のあゆみ
一九六二年八月五日、私たちは広島県内在住の芸術創造にたずさわる人びとによって、「平和のための広島県文化会議」を結成しました。文化会議の性格を「平和のための」と意味づけたのは、文化そのものは本来平和そのものの成果であるにもかかわらず、なお「平和のための」といわざるをえなかったなど、世界の平和の状況が必ずしも平和でなかったからです。
そのかんの事情についての詳細は、結成総会アピールにあきらかにされているとおりですが、私たちはあらゆる人びとの平和への願いをもとにし、人類社会から戦争をなくすることを、芸術創造活動をとおしておし進めたいと考えました。
私たちは幹事会に提出された六項目の議案、すなわち、一、機関紙、誌の発行。二、秋の文化祭。三、峠三吉詩碑の建設。四、広島平和文化賞の設定。五、県内巡回講演などの計画。六、広島県戦後文化史の編さん。以上について、文学、美術、演劇の各専門部会で話あわれた内容を基にして、第三回幹事会は、八月六日へ向けて綜合文化祭を企画する。峠三吉詩碑の建設。広島県戦後文化史の編さん。の三つの主な創造のための作業を決議しました。この幹事会決定は、十一月十一日の臨時総会に提案され、年間の活動方針として決定されました。私たちはこの三つの作業を、たんなる行事というふうには考えませんでした。綜合文化祭、峠三吉詩碑、県戦後文化史の編さんの作業は、私たちの芸術創造の仕事と深くかかわりをもつと同時に、平和の問題と離れがたく結びついていると考えたのです。
一九六三年二月七日、私たちは文化会議会員によって「峠三吉詩碑建設委員会」を設置し、この日から具体的な活動に入りました。
この活動のこまかを点については、別誌「人間の世のあるかぎりくずれぬ平和を」において報告しておりますから略します
八月六日へ向けての綜合文化祭は、文化会議内に実行委員会を設置し、いろいろと話しあいの結果、県文化会議、広島職場演劇サークル協議会、広島勤労者演劇協議会の三団体共催にすることとし、後援および協賛団体として、原水爆禁止広島県協議会、広島県原爆被害者団体協議会、広島県労働組合会議、広島県青年連合会、日本民主青年同盟広島県委員会、日本社会主主義青年同盟広島地区本部、広島県教職員組合広島支部、広島県平和委員会、広島民主商工会、第三回西日本うたごえ実行委員会の協力を得ました。公演は八月三日昼夜二回行われ観客一千八一二人の入りで、一応実質的に成功させることができました。
そのほか、無名戦士の碑文の決定。原潜寄港反対のアピール、二回にわたるソ連作家を囲む懇談会をひらきました。
2、まとめ
その成果と問題点
これらの運動の中で、文学部会は峠三吉詩碑に刻む作品の選こうについて、美術部会は詩碑のデザイン、設計、あるいは第九回平和美術展について、音楽部会は「西日本のうだごえ」の成功のために、演劇部会はシナリオ「河」の作成から公演に向けて、その大きい流れの中にあって、それぞれのジャンルで創造活動が熱っぽく話しあわれ、実を結んでゆきました。
この実践の中で、私たちは八月三日「河」の合同公演、八月二日より七日間広島平和美術展、八月四日西日本のうたごえ、八月六日詩碑除幕式、第九回原水禁世界大会へ代表派遣という具体的な成果をあげると同時に、対外的には一定の基礎をつくることができました。これら諸運動に参加した人びとは二万人以上をがぞえ、九月末現在、詩碑建設と、「河」公演によせられたカンパ額は五三五、八二○円に達しました。このことは私たちの方針の正しさを実証するものといえましょう。
しかし、これら成果の反面、文化会議内部における日常活動の不足、事務局体制の弱体からくる財政の不備、内面的な活動の遅退は、会員個々の活動があったにもかがわらず、いちぢるしく後退するという現しょうを見たことは、特に重要な問題として残されております。
このことは文化会議の動脈ともいうぺき機関紙が速報をあわせて二回発行にとどまった事実にもうかがえます。会員はそれぞれの創造活動をとおして、多くの出版物を刊行し、あるいは執筆し、おうやけにしました。たとえぱ三原の「地方」、広島の「青史」「われらのうた」、土屋清のシナリオ「河」(テアトロ)、南雅子共著童話「つるのとぶ日」(東都書房)、加川次男歌集「標的」(白樺社)、原爆症患者の手記「かえらぬつる」再版、絵画グループ展の開催、職場演劇、職場美術展等を他にも多くあげるこどができます。
だがこのように見るべきものががず多くあつたにもかかわらず、内部において集約されず、したがって独自の評価もあたえられず放置されたのであります。もっとも大切にしなくてはならない会員個々の創造活動が会の中で充分生かされなかつたことの事実の解明は、今後の大きな課題として私たちの前にあります。書くことがあとまわしになったという問い、行動に参加し、ひとりびとりがどう高まり、どうひろげたか、芸術創造と政治的実践のむすびつきを考えるぺきだという問い、それら困難でしかも重要な課題を私たち一年のあゆみは提出しました。
これは私たちの実践の中からひきだされた具体的な課題であるだけに、一年のあゆみは必ずしも一方的に否定されるべきでなく、このあゆみの中から、新しい方針が創造されてゆくべきでありましょう。その萌芽が私たちのひとつの成果としてここに提出されているのであります。
[以下略]

概観広島市史(浜井信三市長 序)

概観広島市史
広島市史編修委員会、広島市役所、1955年1月25日


何ごとによらず、その歴史を明らかにすることは、極めて重要なことであります。
わが広島市には、大正年代に発行された広島市史四巻がありますが、それは、本市の市史編纂事業としてははじめてのことでありましたので、先人の多大な労作にも拘らず、今日から見れば、その内容、形式ともに再検討を要するものが多々残されておりました。それに、この市史はさきにも申しましたように大正年代までの広島の歴史を記録したものでありまして、それ以後のことは早晩追録されなければならない破目になっていたのであります。
しかるに、顧みますと、この市史ができて昭和年代に入り、本市が飛躍的な発展を遂げ、続いて太平洋戦争を経て、昭和二○年八月六日、人類史上未曾有の原子爆弾によって、市街の大半が潰滅し、戦後再び廃墟の中に、新たな都市建設が始められるまでの約四○年間市の歴史は、まことに変転極まりないものでありまして、この間の史実を整理記録して、これを後世に遺すことは、いまこそ、その絶好の機会であり、それはまた今日の市民である吾々の責務でもありますので昭和二六年、私の市長再選を機会に、新しい市史の編纂事業に着手した次第であります。
もっとも過去において、第一七代市長藤田若水氏(昭和一四年~一八年)は、その在任中に新しい市史の編纂を企図せられ、少数の職員の手で、その準備を進められましたが、完成を見るに至らず、その資料などもいまは散逸して残っておりませんので、今回の市史編纂については、その組織、方法等、全然新たな出発点に立ってこれを行うことといたしました。
すなわち、組織としては、広島大学教授を中心とする、市内学識経験者をもって、広島市史編修委員会を設け、これに事務局を併置し、委員会自身の責任において、新たな市史を編修することとし、内容も既存の市史に拘泥することなく、往古より昭和二五年末に至る間の史実を収録することとして、昭和二六年秋から本格的に事業を開始して今日に至っております。しかるに、戦災により史的資料の多くは焼亡或いは散逸して、事業は意想外の困難を来し、これが完成までには、なお若干の日時を要しますので、とりあえす今日までに整理された資料に基づいて、広島市の歴史の概要を単冊にまとめて発行することにいたました。それがこの「概観広島市史」であります。
今日これを世に出すことができましたのも、ひとえに広島市史編集委員各位の並々ならぬ御努力と広島市民各位ならびに各方面の熱心な御援助の賜でありまして、衷心感謝に堪えません。
私は、本書が広島市紹介の良い手引となり、またより良い市史完成への礎石となりますよう心から祈る次第であります。

一九五五年一月  広島市長 浜井信三

 

新修広島市史(全7巻)

新修広島市史(全7巻)

広島市史編修委員会(編)広島市(刊)、1955年1月25日~1962年3月31日発行

年月日 書名
1955012501  概観広島市史
1955031002 広島市史年表

 

発行
年月日
書名
19610228 第1巻-総説編
19580301 第2巻-政治史編
 19590831 第3巻-社会経済史編
19581227  第4巻-文化風俗史編
19620331 第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革
19590331 第6巻-資料編その1
19600331 第7巻-資料編その2

概観広島市史
広島市史編修委員会、広島市役所、1955年1月25日
内容
序(広島市長 浜井信三)
1.古代・中世、 2.城下町の建設、 3.城下町としての発展、 4.城下町の変容
5.近代都市としての発足
自由民権運動と広島/広島市制の実施/宇品の築港と山陽鉄道の開通/人口の増加/戦争と広島
6.近代都市の形成
市域拡張と都市計画/宇品港と広島港/近代工業の胎動/新しい文化
7.平和記念都市の建設
太平洋戦争と広島/原子爆弾の惨禍/戦災復興の難業/平和記念都市

概観広島市史略年表
________________________________________
新修広島市史第1巻-総説編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1961年2月28日
第1編 広島市の地理
第2編 先史時代の広島地方
第3編 通史編
19.幕末の動乱と広島藩、 20.文明開化と新教育、 21.広島市制の施行、 22.戦争と広島、 23.都市計画事業と市域拡張、 24.河川の改修と港湾の整備、 25.近代工業の胎動発展、 26.市街の変化と近代文化の成立、 27.社会問題・労働問題・農地問題、
28.戦時体制下の広島
軍都から学都へ/満州事変/上海事変/満州建国/国際連盟脱退/日独防共協定/軍国主義化の歩み/時局博覧会/国防研究会/宇品港域軍事取締法の制定/広島国防婦人連合会/大日本婦人会広島県支部/昭和九年/護国神社/愛国子女団/昭和十一年/陸軍幼年学校再開校/広島の発展/広島・呉間国道/広島鉄道局/日華事変/第五師団動員/凱旋館/日赤病院拡張/兵站司令部/鉄道司令部/市民生活/広島市義勇団/警防団/経済統制/軍需産業/思想・文化/国民精神総動員運動/思想統制/第二次世界大戦/価格停止令/配給制/七・七禁令/新体制運動/町内会/大政翼賛会/翼賛壮年団/アジアの情勢/国内の反米運動/女学院の受難
29.太平洋戦争と原子爆弾投下
対米英開戦の決意/開戦/戦局/広島の軍事施設の新設・拡充/船舶司令部/広島兵器補給廠/防空態勢/中国行政協議会/中国地方軍需管理部/人口増大/翼賛選挙/経済統制の強化/重工業の拡張/勤労報国隊/国民皆勤労/窮乏生活/思想・言論統制/本土決戦体制と広島/戦局悪化/強制疎開/学童疎開/二十年の戦局/特設警備隊/第二総軍設置/五九軍/中国地方総監府/国民義勇隊/新しい師団の編成/本土空襲/広島の防空体制/八月六日/八時十五分/原爆による死者/救護作業/
30.新生の広島
長崎に原爆投下/ポ宣言受諾/九月十七日の出水/十月八日の豪雨/木原市長の就任/復興の歩み/市長選挙/天皇の行幸/復興の構想/復興の財源/警察・教育制度の改革/学校教育/広島女学院大学/広島大学/広島女子短期大学/戦後の新設校/広島商科大学/エリザベート音楽短期大学/安田女子短期大学/農地改革/復興局/財源調査委員会/広島平和記念都市建設法/第一次第二次事業計画/平和記念施設/平和記念都市建設事業/文化施設/スポーツ施設/医療施設/ABCC/原爆病院/戦災孤児育成所/ハワイからの寄付/平和への努力/復興の第三段階/三村編入/戦後の市長/人口の増加/市政機構/市の財政/広島復興大博覧会/総合企画本部/大広島計画区域/市の将来人口/都市計画/上水道/産業界の復興/工業生産物/農業/水産業/商業/貿易/交通/放送/労働運動/文化運動/雑誌/歌壇/演劇/スポーツ/
第4編 原爆と広島[執筆:中野清一]
1.原爆被害の実態
原爆投下の状況
序説/投下前後の気象/投下敵機の状況/原爆第一号の威力/投下された原爆の爆発状況/黒色の驟雨/
物的災害
概況/建物の被害/特殊施設の被害/放射能による汚染状況/
人的被害(その1):一般市民の場合
序説/一般市民の死傷者数/死傷者数の推移/
人的殺害(その2):一般市民の傷害
原子爆弾傷又は原子爆弾症/後遺病と晩発障碍症/初発障碍の実態/慢性障害者
人的被害(その3):特殊集団の場合
概観/生徒・学生・動員学徒の災害/国民義勇隊特に地域国民義勇隊の災害/軍隊集団の災害/その他の特殊集団/
原爆がもたらした諸影響
概観/経済的影響/人口動態に見られる影響/家族関係への影響/社会生活上の悪条件
2.被害対策の消長
応急措置
応急措置の背景/罹災対策協議会/食糧対策/遺骸収容/負傷者救護/応急措置の限界/
長期対策の胎動
「原子爆弾傷の療養方針」の発表/兆期対策の萌芽とその挫折/アメリカ連合委員会/「原子爆弾災害調査特別委員会」(日本)/調査中心への傾斜/ABCC/治療活動への転換
「原爆医療法」前後
組織的な治療活動の開始/原爆障害者更生会/市勢調査員組織による障害者の把握/広島市外科医会の活動/広島市原爆障害者治療対策協議会/治療費国庫負担への要望台頭/「原爆医療法」の発布/原爆被害対策課の発足/被曝者健康手帳をめぐる諸状況/加療上の問題点と「援護法」への前進要請/
救済活動と被害者団体の組織活動
内外の救援活動/「広島の家」と「憩いの家」/「友の家」/広島被爆者福祉センター/広島平和会館/被害者組織の動き/「原爆の子友の会」/「原爆乙女の会」/「原爆被爆者の会」/「八・六友の会」/広島子供を守る会/あゆみグループ/原爆被爆者救援委員会と広島県原爆被害者団体連絡協議会/広島市原爆被害者連合会/広島県動員学徒犠牲者の会/「こけしの会」、「平和をきずく児童・生徒の会」/折鶴会/遺族会など/
3.原水爆禁止運動
ノー・モーア・ヒロシマズ運動
発端/源流/展開/世界平和デー/平和記念都市建設への世界的関心/ワールド・ピース・センター/世界連邦運動/世界連邦アジア会議/
原爆禁止世界大会前後
概観/地域青年の動き/民主団体の動き/少年少女の動き/学者・専門家たちの動き/広島の婦人たちの動き/原水爆禁止世界大会開催への動き/第一回原水爆禁止世界大会/第一回世界大会以後/第二回原水爆禁止世界大会/八・六学生平和会議/第二回世界大会以後/第三回・第四回原水爆禁止世界大会/
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新修広島市史第2巻-政治史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1958年3月1日
目次
第一編 原始・古代、 第二編 中世、 第三編 近世、
第四編 近代
第一章 明治維新と広島
第一節 版籍奉還・廃藩置県
戊辰戦争/版籍奉還・藩政改革/廃藩置県/県治条例
第二節 大小区制・広島区制
大小区制/広島区制
第三節 地租改正と租税制度
税制改革/地租改正/秩禄処分
第四節 自由民権運動
自由民権論/政党の結成
第五節 徴兵令と陸海軍
広島鎮台・第五師団/軍事施設
第六節 皇室と広島
行幸/行啓
第二章 市制の施行と近代都市への発足
第一節 市制の施行
市制・町村制/執行機関/議政機関
第二節 宇品港と山陽鉄道
江波築港計画の挫折と宇品築港/山陽鉄道の開通
第三節 諸戦争と広島
明治初年の諸事変/日清戦争の勃発と広島/北清事変の前後/日露戦争と広島
第四節 財政の膨張
歳入歳出予算決算/市債/市税制度の変遷
第五節 上・下水道の敷設
上水道敷設前の状況/上水道の敷設/上水道の拡張/下水道敷設前の状況/下水道の敷設・拡張
第六節 県三部制と市政機構
県三部制/県三部制廃止運動と三部制廃止/市政機構
第七節 治安・衛生施設の拡充
警察制度の整備/消防制度/病院/結核療養所問題/防疫
第三章 市勢の発展
第一節 第一次世界大戦と産業の発達
青島戦争とシベリア出兵/近代産業の発達/近海航路の進展
第二節 都市計画事業の推進と市庁舎の新築
城濠・西塔川埋立/都市計画法の施行/街路の整備/公園・緑地・墓園/市庁舎の新築
第三節 普通選挙の実施
選挙法の推移/第一回の普通選挙/市政の状況
第四節 隣接七か町村の合併
合併にいたる経過/合併反対論の動向/合併条件
第五節 広島工業港の建設
宇品港修築計画/広島商業港の建設/広島工業港の建設/漁業補償問題
第六節 太田川改修計画
太田川改修計画実現に至る経過/廃川敷地処分問題/計画と着工/終戦後の工事再開
第四章 戦時体制下の広島
第一節 満州事変と日華事変
軍都広島と宇品港域軍事取締法/工業の発達/日華事変の勃発と国民精神総動員運動/物資の統制
第二節 新体制運動
大政翼賛会の成立/翼賛運動の展開/翼賛選挙(衆議院議員選挙/翼賛市会
第三節 太平洋戦争
防空防衛体制の強化/第二軍総軍司令部の設置/中国地方総監府の設置/転業と勤労動員
第四節 原子爆弾の被害とその対策
原子爆弾の投下/原子爆弾の被害/救護作業
第五章 新生の広島
第一節 終戦
軍の解体と復旧作業/占領軍の進駐と軍政
第二節 新自治体の機構
地方自治法/市政機構
第三節 復興と建設
戦災復興事業/平和記念都市建設事業
第四節 救済活動と平和運動
内外の救済活動/平和運動
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新修広島市史第3巻-社会経済史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1959年8月31日
第1編 原始・古代、 第2編 中世、 第3編 近世
第4編 近代
第1章 近代社会の出発
第一節 封建的諸制限の撤廃
四民平等と諸制限の撤廃/壬申戸籍
第二節 社会の変動と世相の混乱
武一騒動/地租改正/秩禄処分
第三節 貨幣制度の変遷
太政官札と民部省札/藩札の整理と贋金事件/国立銀行と全融機開/
第四節 庚午新開の築成
明治初年の飢饉と新開築成計画/庚午新開の築成/庚午新開の土地配分と経営
第五節 士族授産と同進社
士族の困窮とその救済計画/同進社による士族授産
第六節 殖産興業と特殊産業の助成発達
殖産興業/各種の催し/特殊産業の盛衰
第2章 交通・運輸・通信機関の近代化
第一節 道路および橋梁の整備
区制時代の道路/運河・城濠埋立、新道と市勢の東漸/道路の近代化/渡し船と橋梁の整備
第二節 運輸・通信機関の変遷
概況/軽車両の盛衰/鉄道・電気軌道の発達/自動車交通/通信機関の整備
第三節 水上交通の変遷
河用交通の衰退/港湾の近代化
第3章 金融機権の整備
第一節 金融市場の発展
広島市における金融市場の育成/金融融市場の整理と発展
第二節 銀行と信託会社
銀行創成期と乱立期/全融恐慌と銀行の近代化/信託業の発展
第三節 庶民金融機関
信用組合・国民全融公庫等/郵便貯金
第四節 保険業
生命保険/火災保険・海上保険
第4章 産業界の躍進
第一節 農業(疏菜栽培)の発展
明治前期の農業/明治中期から大正初期まで/大正後半期から終戦まで
第二節 畜産業
第三節 水産業
網漁業の衰退/養殖業の発展/
第四節 工業の発達
明治前期の工業/近代工業の胎動/近代工業の生成/近代工業の発展
第5章 商業圏の拡大と流通組織
第一節 商業の発展と配給組織および経営
商店街の発展/卸売商業/小売商業
第二節 取引所と倉庫業
取引所/倉庫業
第三節 外国貿易
広島市貿易の特殊事情と外国航路/相手国と貿易品目
第四節 商業助成機関
商工会議所/陳列所/共進会・博覧会
第6章 社会問題と社会施設
第一節 労働問題・小作問題
労働者の構成と労働条件/労働組合運動/労働争議/小作争議(宇品小作争議)
第二節 同和問題
水平社運動以前の動き/水平社運動の動き/解放運動の前進
第三節 騒擾事件
憲政擁護運動/米騒動
第四節 出かせぎと移民
概観/市内各地域別状況
第五節 社会施設の拡充
救恤施設と救護施設/経済保護施設/医療保護施設/児童保護施設(付母子寮・養老院)/司法保護施設
第7章 市民生活の近代化
第一節 都市様相の変化
第二節 人口の推移
市制施行後の推移-人口変動の概観/国勢調査に現われた人口構成の推移
第三節 市民組織
町内会・社会福祉協議会/青少年組織/婦人組織
第四節 市民の生活-生活水準の動き
太平洋戦争前の動向/太平洋戦争後の動向(I)-終戦から朝鮮事変の終結まで/太平洋戦争後の動向(Ⅱ)-朝鮮事変終結以後
第8章 原爆後の社会経済問題[執筆:石井金一郎・中野清一]
第一節 戦後の人口推移
人口変動の概観/昼間人口の生態/生存被爆者人口-昭和二十五年調査
第二節 農地改革および広島市の農水産業
地主・小作制の概観/農地改革の進展とその成果/農業経営の現況/水産業
第三節 産業の再建とその方向
戦後インフレ時代/ドッジ・ライン時代/朝鮮動乱前後/工業の現況/流通・金融第/交通・通信機関の発達
第四節 労働問題・厚生問題
労働運動/住宅問題/医療・厚生施設
第五節 原爆被害者の問題と対策
孤児収容施設と国際精神養子運動/国内精神養子運動/原爆障害者治療対策

新修広島市史第4巻-文化風俗史編
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1958年12月27日
内容
第1編 古代・中世、 第2編 近世
第3編 近代
第1章 明治維新と文明開化
第一節 廃仏毀釈
神仏分離/神社・復興
第二節 文明開化
洋風の移入/生活の変化
第2章 教育制度の整備
第一節 学制の推移
学制の頒布とその推移i/監督機関
第二節 小学校の変遷
小学校の変遷/修業年限・教科目の変遷/就学率・二部教授・夜学校
第三節 中学校・高等女学校の設立
市制施行以前/市制施行以後日露戦争まで/日露戦争より第一次世界大戦まで/第一次世界大戦以後隣接町村合併ごろまで昭和時代(終戦まで)
第四節 師範学校・教員養成機関の整備
師範学校/その他の教員養成機関
第五節 実業学校・各種学校の変遷
農学校/商業学校/工業学校
第六節 高等専門学校・文理科大学の設立
高等師範学校・文理科大学/高等工業学校/高等学校/女子専門学校
第七節 特殊教育
盲唖学校/精神薄弱児教育/その他の特殊教育
第八節 社会教育の発達
社会教育方策の発展/青少年団・婦へ会の結成
第3章 学問・芸術の発達
第一節 学問の変遷
伝統の教学/近代科学の普及
第二節 市民の文芸
和歌/新短歌/俳句/詩
第三節 美術・工芸
書道/絵画/工芸
第四節 能・狂言・謡曲・茶華道
能楽諸流派り消長/囃方と狂言、能舞台・/茶道華道
第五節 演劇・映画
演劇/映画
第六節 歌謡・音曲・舞踊
俚謡・流行歌/音曲・舞踊
第4章 文化施設と宗教団体
第一節 文化施設
公会堂・各種陣列館/図書館
第二節 宗教団体
仏教団体/キリスト教諸団体
第三節 その他の諸団体
文化的諸団体/社交的諸団体
第5章 新聞・雑誌・ラジオ
第一節 新聞
明治時代/大正時代/他地方の新聞の進出/昭和時代
第二節 雑誌
広島発行のもの/他の地方発行のもの
第三節 ラジオ
第6章 体育・スポーツの発達
第一節 陸上競技・水泳
陸上競技/水泳
第二節 球技
野球/蹴球・排球・籠球/庭球・卓球・ホッケー・ゴルフ
第三節 武道・相撲・その他
柔道・相撲/剣道・薙刀・弓道/自転車競争・漕艇/馬術(付競馬)
第四節 運動場、その他諸施設
運動場/野球場・その他の球技場/プール
第五節 原爆以後のスポーツの復興
第7章 市民生活の進展[執筆:中野清一]
第一節 生活様式の近代化
洋風服装の発展/建築様式・食慣習の変遷と習俗の動き
第二節 盛り場の変遷
勧工場時代/千日前と新天地/本通り商店街と百貨店出現
第三節 戦時体制下の市民生活
ミッション・スクールの非常時風景/勤労奉仕と勤労動員/一般市民の日常生活
第8章 新教育制度[執筆:中野清一]
第一節 義務教育の整備と拡充
「国民学校」から「小学校」ヘの復帰/六・三制の発足と進展
第二節 新制高等学校と新制大学
新制高校の発足と再編成/新制大学誕生/
第三節 私学の革新、特殊教育と幼稚園
私立新制中学と新制高校/私立新制大学/特殊教育の前進と新幼稚園
第四節 社会教育
社会教育・新体制/終戦後の青年団運動/地域婦人会と同志婦人会/P‐T‐A‐活動/その他の社会散育活動
第9章 原爆と新しい文化[執筆:中野清一]
第一節 風俗文化の動きと新しい文化施設
戦後風俗文化の生態/文化施設の復旧と新設
第二節 各種文化活動の潮流
新聞文化と雑誌文化/児童文化活動と演劇運動/宗教団体の動静/西洋舞踊・音楽・絵画/ペンクラブ活動
第三節 原爆を記録する人々
短詩型文学の動静/文芸雑誌活動/原爆体験記録の出版/一般市民の体験記録

新修広島市史第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1962年3月31日

第1部 年表[~昭和35年]
第2部 索引
第3部 編纂沿革
(注)地図は別冊「新修広島市史」(第五巻の地図)1冊、22cm.毛利時代のものから現在までのものまで11種を10枚におさめた.⑩広島平和記念都市建設計画図・昭和37年(1962年)、他.

新修広島市史 第7巻-資料編その2
広島市史編修委員会(編)・広島市(刊)、1962年3月31日
第一部 安芸国遺跡・遺物地名表
第二部 編年史料
第三部 広島市要職一覧
毛利・福島・浅野氏系図/広島県略図(明治三十年)
第四部 統計資料
附録 広島市における文化財/広島市の主要官公衙および事業所
________________________________________
原爆被爆関連資料
第二部 編年史料
608 広島市空爆直後に於ける措置大要
609 第1回中国文化短歌会詠草
610 恐怖は果しなく[蜂谷道彦「ヒロシマ日記」]
611 ヒロシマの思い[「土曜文芸評論」]
612 Norman Cousins; Hiroshima Four Years Later
613 平和宣言[昭和24年]
614 広島平和記念都市建設法
615 広島平和記念都市建設法成立後のおもな措置と広島平和奇縁俊建設事業施行経過
616 平和都市ヒロシマに寄せる諸外国人の書簡
617 原爆都市青年交歓会の「誓ひ」
618 原爆孤児国内精神養子制要領
619 広島市昼間人口調査要領
________________________________________
第四部 統計資料
第30表 原子爆弾による広島市民の人的被害報告統計表
第31表 原子爆弾による在広島市諸部隊被害状況
第32表 原爆炸裂時に市内に在、不在別人口
第33表 被爆後の人口復帰状況
第34表 原子爆弾による建物被害並びに復興状況
第35表 被爆地別・性別・現住地別原爆生存者数
第36表 昭和25年10月現在日本国内に在住せる広島原爆(昭和20年)生存者数
第37表 被爆地別・性別・現住地別広島県内原爆生存者数
第38表 性別・年齢別・被爆有無別広島市人口
第39表 昭和30年12月末現在の孤児収容施設の措置原因別収容児状況
________________________________________

広島平和記念都市建設法の成立経緯
新修広島市史第二巻』第5章第3節第2項
「平和記念都市建設事業」(執筆:中野清一)より抜粋

さきに述べたように、戦災復興事業の当面した最大の難問は財源をどこに求めるか、ということであった。その場合、もっとも大きな期待をかけようとしたのは旧軍用地の無償払下げであった。そのための市理事者・市会・民間一体になっての熱心な運動も、一応頓挫したあと、昭和二十三年(一九四八)に入って再燃したことは、これも既述した通である。その場合でも、難関は依然として横たわっていたが、大蔵省との数次の折衝のうちに、同省側からのヒントの故もあって、市当局、特に浜井市長の念頭に浮びあがってきた新たな構想があった。なんらかの特別法を制定して財政的な裏付を確保する、という構想にほかならない。しかし、この構想が市側から市会に提示されるに至るまでには、これも既述の、補助金申請も多くを望めぬといういわば進退窮した事情のほかに、なお有力な二つの要因が働いたことを見逃せない。その一つは、国会への特別法制定請願が受容れられそうにもない場合には、G・H・Qを通して推進をうながす道があると、浜井市長が相当確実な根拠をもって見通しをつけた、という事情である。
今一つは、特に昭和二十二年八月の第一回平和祭以来、海外諸国の広島市に対する関心が、恐怖・同情こもごもの消極的な姿のものから、援助・推進を根幹とする積極的なそれへと展開・発展をみせはじめ、二十三年(一九四八)に入ってからは、いよいよこの方向への高まりが著しくなってきた、という情勢である。その間の事情は、第四節で詳述するが、海外の広島によせる関心の、好ましい方向への高まりのあるところ、広島復興をなによりもまず日本国家の名において手がけるべきであると主張できる道義的背景が与えられるに至ったとみてよい。
かような諸要因に促されつつ、二十三年十一月までに、市当局の手許でつくられたのが、「広島原爆災害総合復興対策に関する請願書」であった。その中には、広島を平和のメッカとして建設することは、世界の与論であること、平和国家を標榜して新生した日本にとっても、平和都市として広島を建設するために支援をおしまぬことこそ、対外信用を高めるゆえんであること、他都市に比して甚だしい打撃をうけ、一瞬にして瓦礫の焦土と化したここ広島こそモデル的な近代都市を建設する天与の機会であることなどの請願理由が開陳されている。そのころ、市議会議長は伊藤忠男から任都粟司に異動したが、任都粟議長と浜井市長との第一回事務打合せのおり、市長から請願の構想が打明けられた。市議会議長もまた異論はなく、十一月末、市議会の全員協議会にはかったところ、ここでも異論はなく、請願提出という決議を打出すに至った。
この請願運動は二十四年二月、浜井市長・任那粟市議会議長相携えて上京するとともに、本格的な動きをみせはじめた。当時、衆議院は解散後の選挙で新発足したところでもあり、体制が整っていない事情があり、さしあたって参議院と政府関係に向かつて運動を展開した。ところで二月十三日、県選出の山田節男・山下義信・佐々木鹿(以上参議院)・山本久雄(衆議院)の各議員に、参議院の寺光議事部長、同法制局の牧田課長と協議議したとき、請願よりは議員立法による特別法制定の方針で臨む方が確実・有利という示唆をうけ、ここに請願運動は特別法制定運動に大きく転換することになり、山下議員の発案で、広島県出身の前記寺光議事部長に法案起草を依頼することになった。
二月二十五日には、都市計画協会の飯沼理事長の主唱で、日本赤十字本社講堂に広島原爆災害綜合復興対策協議会が開催され、建設・厚生・大蔵・運輸・文部各省、経済安定本部・地方財政委員会・都市計画協会および広島県・市の関係要路者が参集して協議した。その結果、各省から委員を選出して広島原爆災害綜合対策小委員会を結成することになった。この間日本国際連合協会にも協力を求めたところ、同協会理事会も広島を国際平和の記念都市として建設することに協力する決意を表明した。また特別法法案が寺光議事部長の手で脱稿をみるに至った後、これをさらに東京大学法学郡の田中二郎教授に協力を求めて手を加えてもらった。三月十一日には、都市計画協会主催で、広島原爆災害綜合復興対策不委員会が開かれ、広島市建設工事一五か年計画について検討した。同十五日前後には、G・H・Qに対して、公衆衛生福祉局長サムス准将・マッカーサー元帥高級副官バンカー大佐等を通して協力方を懇請した。これと前後して、法案は「広島平和記念都市建設法案」として脱稿をみるに至ったので、衆・参両院の法制局に依頼して成案化を急ぐことになった。
三月下旬から四月下旬にかけて、特に議会の各党各派への運動はしだいに熱烈の度を加え、ために衆・参両院とも形勢は甚だ有利に展開するに至つたが、四月下旬になって思いがけぬ難関に遭遇した。長崎市が、同市をもこの法案に加え、「広島、長崎平和記念都市建設法」と銘打って提出すべきであると、四月二十六日に申し入れてきたからである。しかしこの難題も、五月七日、民自党役員会で、広島・長崎それぞれ別個に法案を提出することに決定をみて解決した。五月九日広島・長崎両市の法案が衆議院で完成され、G・H・Qに提出したところ、即日二時間の後にその承認を得るに至った。なおこれと前後して、四月二十九日おりから広島市議会議事堂で開催中の、中国五県市議会議長会議では、この法案の至急提出方と議会通過要望を、本会議の決議をもって関係各方面に打電するという緊急動議が、岡山市議会三宅議長の発案で提案され、満場一致で可決された。また五月四・五の両日、高松市で開かれた全国市議会議長会議でも、中国地区議長会議の緊急提案として、同様の決議案が提出され、ここでもまた異議なく可決されたのであった。
かくして「広島平和記念都市建設法」は、「長崎国際文化都市建設法」とともに、昭和二十四年(一九四九)五月十日、衆議院を、翌十一日には参議院を、それぞれ満場一致で通過するに至った。その後をうけて、政府は、憲法第九五条の規定に従い、この法律は住民投票に付すべきであると決定、その趣旨を五月十六日総理大臣名をもって広島市長に通達した。かくして日本の立法史の上でははじめての、「一の地方公共団体のみに適用される特別法」についての住民投票が行われることになった。これにそなえて市当局は五月三十日、賛否投票を七月七日に実施する旨を告示するとともに、市選挙管理委員会による啓蒙家宣伝のほか、平和都市法普及対策本部を市役所内に設けて、市民に周知徹底せしめる諸方法をとらしめた。
七月三日には、市民大会が基町児童文化会館前広場で開かれ、約三○○○人の市民が参集、また六月二十八日から七月六日にかけて、市内の三五地区において、地区市民大会が開かれたが、平均四七五人、総計約一万七○○○人の市民が出席した。七月七日の住民投票は、市内三三投票所で実施され、東部・中部・西部の三開票区ごとに七月八日開票された。その結果は、投票当日確定有権者数一二万一四三七のうち、投票総数は七万八九六二(投票率六五%)・賛成投票七万一八五二・反対投票六三四○・無効投票七七○であった。かくして憲法の規定による、有効投票総数過半数の賛成投票があったので、「広島平和記念都市建設法」は公布さるべきものと決定をみるに至り、戦災第四周年記念日である昭和二十四年八月六日に公布せられた。

広島市史編修委員会

広島市史編修委員会   1951年2月15日正式発足

略年表

月日 事項
1950 1213 第1回広島市史編修委員会
1951 0215 広島市史編修委員会。委員長を魚澄惣五郎に決定。委員会規則を可決し、正式に発足。
1953 0721 原爆戦災時の市役所関係者の会合。
0728 原爆戦災時の市議会関係者の会合。
0730 原爆戦災時の陸軍諸部隊関係者の会合。
1955 0125 「概観広島市史」刊行。
0310 「広島市史年表」刊行。
1956 0125 広島市史編修委員会、一応解散。
0401 渡辺忠雄広島市長と魚澄惣五郎との間で、市史編修の委託契約を締結。
1958 0301 「第2巻-政治史編」刊行。
1227 「第4巻-文化風俗史編」刊行。
1959 0331 「第6巻-資料編その1」刊行。
0831 「第3巻-社会経済史編」刊行。
1960 0202 広島市史編修委員会。「広島原爆戦災誌」の編纂には、できるだけ早い機会に着手すべきで、資料の収集・体験記や感想文なども広範囲にわたって集めるべきで、その体験者は年とともに減少しているから早急に着手を要するとの意向が強く打ち出された。
0331 「第7巻-資料編その2」刊行。
1961 0228 「第1巻-総説編」刊行。
1962 0331 「第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革」刊行。

出典:「第5巻-年表・索引・地図・編纂沿革」

 

広島県総務部県史編さん室(略年表)

広島県総務部県史編さん室(略年表)

年月日 事項
19680401 広島県史編さん室・県史編さん審議会を設置
19680604 県史編さん審議会。
19690331 『広島県の歴史』発行。
普及版・県民版。刊行部数1万6000部。「16 現代の広島県」(執筆者:井上洋一郎)pp.291-304
19720331 『原爆資料編』発行(4000部)。
19760331 『原爆三十年 広島県の戦後史』発行(9500部)。
19840630 県史編さん事業完了(全27巻)。県史編さん室廃止。
県史編さん室、中国文化賞を受賞。
19860331 『広島県史研究 創刊号』。
<198604> <『広島県戦災史』編集委員会設置。国連が定めた国際平和年(1981年)の記念事業。1988年3月25日刊。>
198810 広島県立文書館開館。県史編さん事業で収集した資料を引き継ぐ。

出典:『戦後五十年広島県政のあゆみ』(広島県、199503)

宇吹所蔵資料(広島県史編さん室関係)

宇吹所蔵資料

タイトル 形態
1970 広島県史 1970年~ 1括
1971 広島県史編さん室「原爆資料調査について」(回答)1971年 ファイル1冊
1975 県史[庶務一件]1975年7月5日~1982年 ファイル1冊
1975 原爆三十年―広島県の戦後史―[庶務一件] ファイル1冊

 

メーデー(広島)年表

ヒロシマのメーデー年表

事項
22 05 01 総同盟因島労働組合により広島県内初のメーデー。(出典『日本共産党広島県党史略年表 第1次 1988~72』<以下「共産年表」と略記>)
46 05 01 戦後第1回メーデー。広島・呉・三原・尾道・福山・因島・府中・竹原で挙行。<「共産年表」>
49 05 01 第20回メーデー。「共産党のスローガン」の中に「原子兵器」への言及なし。
50 04 24 第21回統一メーデー前夜祭、東京芝のスポーツセンターで開催。「原子兵器の無条件禁止」を含む平和決議を採択。
50 05 01 第21回統一メーデー。ニューヨーク統一メーデー委員会のメッセージが紹介される。同メーデーのスローガンには「ヒロシマはご免」が含まれる。広島では「戦争反対,平和擁護」を声明。
51 05 01 第22回メーデーは分裂。平和広場に、広船、建設、通産、自労など8組合、共産党、日農、朝鮮人団体参加1000名。再軍備反対、全面講和と全占領軍の即時撤退など8スローガンで集会。「共産年表」
52 05 01 講和後初のメーデー.県下で4万人参加.広島では松川裁判の公正を求める緊急動議可決.会場に原爆の惨状を描いた絵や写真 100枚近くを展示.
55 08 05 長崎地区労、原爆犠牲者追悼映画会を稲佐淵郷公園で開催(~9日)。映画「原爆の子」・「無限の瞳」・「1955年福岡メーデー」を上映。
57 04 17 広島中央メーデー実行委員会,「原爆被害者を救済し,第3回原水爆禁止世界大会を成功させよう」などの地方スローガンを決定(朝日新聞).
57 05 01 広島県中央メーデー,広島市平和記念公園で開催.原爆犠牲者救援などのサブスローガンを採択.
60 05 01 広島県中央統一メーデー、広島市平和公園で開催。戦後最大の150単産、2万5000人参加。アイク訪日反対を全国にさきがけて決議。アイク訪日反対運動のキッカケをつくる。呉地区メーデー、黄幡基地撤去のスローガンを決議。その後呉市議会、県議会も決議。<「共産年表」>
62 05 01 「第三十三回中央メーデーで核実験禁止を決議。広島市では慰霊碑に黙とう。米へ抗議文。
77 05 01 第48回メーデー。
78 04 22 広島市、メーデー主催団体に平和公園の芝生を傷めないよう協力呼びかけ。
78 05 01 第49回メーデー。広島市平和記念公園で、中央統一メーデー開催。「核廃絶」など盛りこんだ大会宣言採択。
80 05 01 第51回メーデー開催。広島市では核兵器完全禁止など決議。
81 05 01 広島市などでメーデー。憲法改悪阻止・被爆者援護法制定など訴え。
82 05 01 第53回メーデー、開催。「核兵器完全禁止・全面軍縮の実現」などメーン、スーガンに。
83 05 01 「第54回メーデー」広島市の平和記念公園などで開催。核兵器完全禁止、被爆者援護法制定などの決議を採択。
84 05 01 広島市の平和記念公園でメーデーの集会開催。原爆慰霊碑の默とうをささげて開会。「被爆者援護法早期制定」など盛り込んだ宣言を採択。(県内29会場で約7万人参加。)
85 04 30 メーデー記念スポーツ大会(於東京)で「恒久平和のシンボルとして点火する灯を広島市平和記念公園の「平和の灯」より採火。
85 05 01 長崎地区労・地区同盟、それぞれメーデー集会開催(分裂メーデー、各、約1万人参加)。いずれも、核兵器の禁止、被爆者援護法制定などのスローガン。
85 05 01 広島県中央統一メーデー、広島市の平和記念公園で開催(25000人参加)「核兵器廃絶」などを盛り込んだメーデー宣言を採択。
86 05 01 第57回メーデー、開催。広島市の平和記念公園の中央集会では、原爆犠牲者の霊に黙とう、核兵器完全禁止を盛り込んだメーデー宣言を採択(約 26000人参加)。
87 05 01 第58回メーデー集会、広島市の中央公園で開催(約26,000人参加)。冒頭、原爆犠牲者のめい福を祈り黙とう。核実験禁止など訴える宣言を採択。
88 05 01 広島県中央統一メーデー、広島平和記念公園で開催(約28000人参加)。原爆慰霊碑   に献花、黙とう。
88 05 01 長崎県労評、長崎市でメーデー集会開催(約2万人参加)。核軍縮などを訴え。
89 05 01 広島県中央統一メーデー集会、広島市中央公園で開催(約1万5千人参加)。開会時に原爆犠牲者に黙とう。
90 05 01 連合広島の県中央メーデー、広島市で開催(約2万3000人参加)。被爆者援護法の早期制定を決議。
90 05 01 広島県労連の県中央メーデー、広島市で開催(約2000人参加)。被爆者援護法の年内制定を決議。
91 05 01 広島県で、連合広島・県労連・県共闘の分裂メーデー開催。連合広島の集会では、原爆犠牲者らに黙とうし、被爆者援護法の早期制定などを求める決議を採択。県労連、原爆犠牲者に黙とうし、掃海艇派遣について被爆地として容認できないとコメント。
95 05 01 第66回メーデー。連合広島、原爆ドームの世界遺産化を独自スローガンに掲げる。
 2018  0428  第89回広島県中央メーデー。主催:連合広島など。場所:広島市内。参加者7100人。<『朝日新聞』>
 0501  広島県中央メーデー。主催:広島県労連など。場所:広島市内。参加者約800人。
 2019
 2020
 2021
2022 0429 連合広島、広島県中央メーデーをワークピア広島で開催。
0501 広島県中央メーデー実行委員会(県労連など55団体)、メーデー。参加者約400人。会場:ハノーバー庭園(広島市)。

 

核兵器禁止条約(前文抄)

核兵器禁止条約 Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons  New York, 7 July 2017

Not yet in force in accordance with article 15(1) this Treaty shall enter into force 90 days after the fiftieth instrument of ratification, acceptance, approval or accession has been deposited.
Status Signatories : 58. Parties : 8
Text Certified true copy
CN.475.2017.TREATIES-XXVI-9 of 9 August 2017 (Opening for signature) and CN.476.2017.TREATIES-XXVI-9 of 9 August 2017 (Issuance of Certified True Copies).
Note The Treaty was adopted on 7 July 2017 by the United Nations conference to negotiate a legally  binding instrument to prohibit nuclear weapons, leading towards their total elimination, held in New York from 27 to 31 March and 15 June to 7 July 2017. In accordance with its article 13, the Treaty shall be open for signature to all States at United Nations Headquarters in New York as from 20 September 2017.
出典:https://treaties.un.org/pages/ViewDetails.aspx?src=TREATY&mtdsg_no=XXVI-9&chapter=26&clang=_en

 

(前文の抄録<hibakusha>)
Mindful of the unacceptable suffering of and harm caused to the victims of the use of nuclear weapons (hibakusha), as well as of those affected by the testing of nuclear weapons,

Stressing the role of public conscience in the furthering of the principles of humanity as evidenced by the call for the total elimination of nuclear weapons, and recognizing the efforts to that end undertaken by the United Nations, the International Red Cross and Red Crescent Movement, other international and regional organizations, non-governmental organizations, religious leaders, parliamentarians, academics and the hibakusha,

核兵器禁止条約の採択についての日本政府の見解
【記者】今月7日に,国連で核兵器禁止条約が採択されました。政府としての受け止めをお願いします。
【岸田外務大臣】採択されたこと,承知をしております。この条約の背景には,核軍縮の進展の遅さに対する非核兵器国による不満,あるいは早急に実質的な前進を得たいという願いがあると受け止めています。こうした思いについては,我が国も強く共有をしております。我が国の基本的な考え方は従来から申し上げているように,二つの大切な認識に基づいて,核兵器国と非核兵器国の協力の下に,現実的・実践的な取組を積み重ねていくというものであります。
今回採択された条約は,こうした我が国の「核兵器のない世界」を目指す我が国の考え方とアプローチを異にしている,このように考えています。我が国としましては,核兵器国と非核兵器国の対立が深刻化する中にあって,是非,両者の信頼関係の再構築が最大の課題であると考えています。そういった考えに基づいて現実的・実践的な取組をリードしていきたい,このように考えています。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/kaiken/kaiken4_000533.html

広島県原爆被害者団体協議会

広島県原爆被害者団体協議会
1956年5月27日設立

1555年8月、広島で開催された原水爆禁止世界大会直後、広島市内には,原爆乙女の会(シオン会)・原爆被害者の会・原爆の子友の会の先駆的3組織のほかに,広島子供を守る会,未亡人会(原爆被害者グループ),大会直前に原爆被害者の会から別れた八・六友の会と原爆被害者の会本部,および大会の期間中に組織された電気通信関係原爆犠牲者遺族会の8組織が存在した。世界大会直後から,これらの被害者組織の一本化が試みられたが,性格の異なる諸組織の統合には,多くの困難が存在した。10数回の会合ののち,1956年1月22日に広島市原爆被害者連絡協議会世話人会の発足にこぎつけた。

広島県原爆被害者大会(1956年3月18日)・国会請願(3月20日)の開催が,広島における既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。

県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。

原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。

総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。

原爆被害者の会会則

原爆被害者の会会則
1952.8.10
<会則>
一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
二、会員には被害者で趣旨に賛成の人なら誰でも入ることが出来ます。
三、会の事務所は広島市細工町原爆ドーム裏吉川記念品店におきます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あはせて再びこの様な惨事のくりかへされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
①原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
②原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③各種の方法により平和のための事業を計画する。
④その他の目的実現のため、会の決定したこと。
六、会は、総会、幹事会、協力会を持ち運営していきます。
七、会の趣旨に賛成し、協力する意志のある団体並びに個人によって協力会をつくります。
八、会の役員は会員の中から会長1名、副会長1名、幹事若干名を選びます。幹事会は事務局を設けます。
九、会の財政は会費、寄付、事業収入でまかないます。
<組織>
1.会員組織
一、会員の会費は月20円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、会員はそれぞれの地区で支部をつくることが出来ます。
三、現在の幹事会のメンバーは次の通りです。
吉川清(会代表者)、佐伯晴代、内山正一、上松時枝、峠三吉
当分の間、会長、副会長を決定せず、幹事の合議により運営していきます。
四、事務局は活動に応じて各部を設け、幹事会の決定を実行します。
2.協力会員組織
一、原爆被害者でなく、会の趣旨に賛成、協力する人は協力会員になっていただきます。会費は半年150円、かわりに機関紙を無料配布します。
二、協力会員の協力方法として次の様なことが望まれます。
①一定金額の定期的な資金援助、或は一時的な資金援助
②被害者の就職、内職あっせんの協力
③被害者のその他の生活要求に対する協力
④被害者の平和運動を発展させるための協力
⑤その他、会の決定した計画に対する人的物的な援助、協力
三、協力会員は各地、或は各職種別の協力会をつくることが出来ます。
四、現在の東京協力会の世話人は次の通りです。(イロハ順)
石田一松、大田洋子、神近市子、武谷三男、倉田本、布施辰治、赤松俊子
3.原爆の手記編纂委員会
一、この委員会は独立した組織ですが、会とは密接な関係にあり、相互協力の関係にあります。
二、この委員会は原爆の手記その他を通じて被害者の実態、その要求、或いは原爆の実態、本質を明らかにしていく仕事を行います。
<事業>
1.医療
原爆の惨禍は尚あとをたたず、現在でも原爆症により病床にふし、或は死亡していく人達がいます。又、生活に追われて傷害を治療することも出来ず、苦しんでいる人も数多くあります。これらの医療問題を解決するために、私達は国家予算による無料での診察治療の実施を要求しています。このため実態調査を行い、これを基礎にして陳情書を作り政府並びに国会に陳情する考えでいます。当面の対策としては次の諸活動を行ひます。
一、原爆傷害者の実態調査を行う。
二、市民病院での無料診断実施を要求する。
三、緊急に治療の必要ある患者のカルテをつくり、県並びに市にその治療費の全額負担を要求する。
2.生活
原爆被害者は一般にいって殆どが生活困窮者です。一日わづか7,80円の内職で毎日の生活費にもことかく人達がいます。適当な職がなくて困っている傷害者もいます。生活を転換しようにもその間の生活費がないため、弱い体を無理な労働に使っている婦人もいます。又周囲の冷たい態度に泣きながら、誰か親身になっていろいろな相談の出来る人はないかと求めている人もいます。私達はこれらの生活問題を解決するために、軍事費支出をやめて、その予算で社会保障制度を確立する必要があると考えます。これはただ被害者だけでなくすべての貧困者の問題ですから、そういう人達と共に運動していきたいと思っています。当面の対策としては次の諸活動を行います。
一、出来る限りの就職、内職のあっせんを行う。
二、資金を集め、生活転換その他の理由で必要とする生活資金の貸出しを行う。
三、法律的な保護が受けられるにもかかわらず、それが出来ない時は会が交渉する。
四、衣類その他の生活用品に困窮している人達には寄付を仰いで分配する。
五、その他の問題について相談しあい、相互に助けあう。
3.平和運動
原爆の惨禍は体験した私達が一番よく知っています。二度とこの様な悲劇がくりかへされない様、私達は平和のために出来る限りの努力をしなければなりません。
多くのまじめに平和を求める人々と手をとりあって地道な平和運動を進めようと考えています。
一、原爆写真展の貸出
二、手記編纂委員会に協力し、手記、記録、訴えなどをひろめる。(以下略)
三、その他
4.その他
一、クラブや文化サークルなどをつくり、互いに話合ったり勉強出来る機会をつくる。
二、図書室をつくる。
三、機関紙を発行する。

原爆被害者の会

原爆被害者の会 (1952年8月10日設立)

原爆被害者の会設立の経緯

峠三吉が中心となって活動していた原爆の詩編纂委員会(1952年9月,詩集 原子雲の下より』を発行)が原稿募集を終えた1952(昭和27)年6月末,同委員会は吉川清の訪問をうけた。これを契機に委員会のメンバー,とくに峠三吉・山代巴・川手健・野村英一の4人は,原爆乙女・原爆孤児といった限定された原爆被害者のみでなく,一般被害者の組織化の必要を感じ,吉川とともに被害者の会の準備をはじめた。
7月10日,ロケのために末広中であった新藤兼人・乙羽信子など映画「原爆の子」のスタッフを呼んで開いた懇談会の席上,会結成の提案を行い,組織づくりの第一歩をふみだした。また,8月6日には平和公園の原爆慰霊碑前で会員募集と資金カンパを訴えた。
結成式は,1952年8月10日,広島市の知恩会館でおこない,会則・事業計画を決定,幹事として吉川清・佐伯晴代・内山正一・上松時枝・峠三吉の5人を選出した。結成時の会員は数十人にすぎなかったが,同年12月14日の第1回総会において組織強化の方針を決定し,大衆団体としての体裁を整えた。結成から半年後の1953(昭和28)年3月頃には,300人の会員を擁するまでlこなっている(川手健「半年の足跡」,『原爆に生ぎて原爆被害者の手記』所収)。
関連資料

原爆被害者の会会則 1952.8.10
中野懇談会の被爆者招請(1952年11月22日)
原爆被害者の会 「米国に対する損害賠償請求提訴の件について」 1953.4.5
原爆被害者の手記編纂委員会編『原爆に生きて-原爆被害者の手記-』(三一書房、1953年6月25日発行)
 原爆被害者の会の原爆裁判への対応
『芽生え』NO.2(原爆被害者の会事務局、1954年1月18日)

 

献花(5月)

献花(5月)

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しゅろ(棕梠) 撮影日時 2018.5.4 撮影場所:実家
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シラン(紫蘭) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ツルギキョウ 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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ポピー(芥子 けし) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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いちご(苺) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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キソケイ? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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?? 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アジサイ(紫陽花) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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アイリス 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:実家
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やぐるまそう(矢車草) 撮影日時 2018.5.6 撮影場所:倉庫
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アイリス 撮影日時 2018.5.9 撮影場所:自宅
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サルビアとガザニア 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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しゅんぎく(春菊) 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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アガバンサス 撮影日時 2018.5.10 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.14 撮影場所:実家と自宅の道路
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撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:実家
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:倉庫
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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 撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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  撮影日時 2018.5.16 撮影場所:自宅
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 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
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松   撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
 撮影日時 2018.5.19 撮影場所:実家
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ホオヅキ  撮影日時 2018.5.20 撮影場所:倉庫
 撮影場所:自宅(標高:190m)・実家(標高:172m)・倉庫(標高:172m)(いづれも広島県呉市)

 

 

旅:「阪神・淡路大震災」関連

野島断層保存・北淡町震災記念公園 (1999年2月13日)

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神戸市内(2001年12月21日)

 神戸港震災メモリアルパーク
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神戸ルミナリエ
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阪神・淡路大震災復興支援館(フェニックスプラザ)

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支援館のあゆみ http://www.sinsaikikin.jp/phoenix/

「平成8年7月20日開館」「平成14年3月31日閉館」「  阪神・淡路大震災復興支援館―フェニックスプラザ―は、阪神・淡路大震災からの本格的な復興に向けて、震災復興情報の発信、被災者自立支援情報の提供、また、交流や学習の場を提供することを目的に、兵庫県が平成8年7月から平成14年3月までの5年8ヶ月に渡り設置いたしました。」「当館機能の一部(情報発信等)を引き継ぎ、神戸東部新都心にオープンした、阪神・淡路大震災記念「人と防災未来センター」も引き続きご利用いただきますようお願い申し上げます。」

「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」(2018年4月8日)

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震災・地震(宇吹日誌より 1992~2016)

キーワード「震災」・「地震」(宇吹日誌より)1992~2016

年月日 事項[敬称略]
19921130 *から聞いた蔵本[原医研所長]の話=文部省の担当官と話してきた。原医研が強い社会的要請で出来たものであること、原爆の研究を続けるものと理解していた。名前の変更には拘っていない。地震研がピナツボ火山を研究対象にして改組、これは原医研でも応用出来る。資料センタ-に良い。
19930527 江戸東京博物館(墨田区横網)見学。*参与の説明を受ける。3月28日開館。多い時で2万人の入館者。参与は、都を退職するまで都の部長で、同館建設の実質的責任者。非常に親切。福山の誠之館出身とのこと。10時30分から館内見学。

感想=雑踏で落ちついて鑑賞できず。「おいらん」・関東大震災時の朝鮮人問題に、人権問題の配慮が感じられる。「収蔵庫からのメッセージ」に関心をもったが、浮世絵が入力されているだけ。図書は、「クウシュウ」で17件できたが、「ゲンバク」はゼロ。

感想=電算機はIBM。電算機の購入・運用に当たっては館の立場で考えてくれるコンサルタントを頼む。電算機・収蔵庫ともに贅をつくしている。知事部局の主導だからか。いずれにせよバブルがはじけた現在では、こうはいかないのではないか。

*にトータルメディアからの二人を含めて質疑応答。-3時半。演出は、トータルメディアによるもの。複製の製作費は莫大。

感想=博物館の担い手といえば、学芸員しか思い浮かばなかったが、同館では、研究者・学芸員・トータルメディアの3者。トータルメディアの存在は、私には胡散臭く感じられるが、これに主導されるのではなく、使いこなせるようにならなくてはいけないのだろう。

19930316 *来室。ロスアンゼルスに地震の影響の調査に行くとのこと。
19950117 *へ兵庫県の地震について見舞いの電話。*子の家は無事とのこと。
19950119 母の話=*が車で*子らを広島に連れて帰った由。本人は現場に泊まり込む予定。
19950120 フェリス来所予定が地震のため中止。
19950122 パソコン通信(ニフティ)で兵庫県南部地震の情報を見る。
19950125 ニュースステーションの関西大地震の救護所に*[原医研助教授]が出演していた。
19950128 桜ケ丘の父母の家に:姉・*子母子・*が来る。水道が使用できるようになったので、今日、神戸に帰るとのことで、母がご馳走をする。私も相伴。*子の話=地震の場合、倒れただけでは火災保険が下りないが、焼ければ下りる。それで、火災の中には放火もあるのでは。
19950212 藤居より自宅に電話。年末より、エソで、情勢が充分掴めていない。「被爆者援護法」問題についての動きについて資料が欲しい。神戸震災と原爆との関係を考えてみたい。89%が家の下敷き。原爆の場合は、警戒警報の解除後だった問題。
19950215 *の話=原田学長の昨日の話では、神戸の震災のため、本部事務局の西条への移転が2・3年遅れるとのこと。
19950218 *の話=朝尾の[退官]記念会は、本人が関西大震災で親戚などの不幸があり、辞退しているので、中止になる可能性が大きい。
19950315 午前中、旧図書室の雑誌・新聞類の箱詰めを手伝う。午後1時からセンター全員で、移動作業。-4時。山田(会計)の話=24日までに工事は完了予定だが、阪神大震災の影響で入手できない資材がある。
19950521 沼田[鈴子]の話=昭和26?年ごろ、東京で被爆のことを話したら、関東大震災の被害を引き合いに出された。戦後、自分史の年表をつけている。宮崎安男との出会いで、妹の病気の認定を申請することになった。総合科学部の小林の講義で話しているが、学生はまじめに聞いている。
19950605 *((朝日新聞社電子電波メディア局データベースセクション))の話=メディア局は、調査部門とデータベース部門が一緒になって設置された。東京本社の戦前の資料は、関東大震災と空襲で無くなっているので、戦後を中心に整備する。大阪本社の資料は、戦前のものも含め、膨大な量にのぼる。
19950729 *(オランダ人、ENGLISH・SCHOOL・OF・OSAKA)、来所。13年日本にいる、芦屋在住、震災を経験、大変だった由。オランダ第2の新聞で「日本社会は原爆をどうとらえているか」を取り上げる。
19960928 墨田区両国・東京都慰霊堂参拝。関東大震災時の朝鮮人虐殺に対する反省は見られない。東京空襲の写真と原爆の写真に違いは無い。
19980411 *先生を囲む会。於クレイトンベイホテル。参加者38名。*、*の話=工場を経営。ともに神戸製鋼の下請けとして成功。阪神大震災以来、親会社の締め付けが厳しい。
19990213 明石海峡大橋-淡路ハイウェイオアシス-道の駅「あわじ」-14時北淡町震災記念公園(野島断層保存館)
19990506 *(*新聞広島総局)来所。-5時半。2年間、県庁で取材。その前は神戸支局。阪神大震災を体験。広島の取材すべき人物の蓄積がないので、人を中心に取材を進めたいとのこと。
20001006 総合情報処理センター講演会。講師:たつみ北海道立札幌医科大学教授。於歯学部2階小会議室。-3時。途中、大きな地震。
20010324 *・*とレガシイで大阪へ出発-8:30西条IC-9:30吉備SA(給油=サービスエリア3570円)10:00-この間、*が運転-11:30三木SA12:00-吹田IC-松原IC-近畿自動車道-1:30杉本町着。ハイウェイカード=3万円。*、腰痛と頭痛を訴える。*の携帯に入った友人からのメール「大丈夫?」がきっかけになって、広島での地震を知る。-17:40西宮名塩SA(給油2730円)-龍野西SA-20:00吉備SA-22:30帰宅。山陽自動車道の岡山以西が不通だったので、心配したが、タイミングよく通行可能となり、順調な帰路。
20010324 西宮名塩SA。テレビのニュースで、広島の地震の情報を得る。*の携帯は、友人とのメールがしばらく出来ていたが、つながらなくなる。Iモードの*の携帯には、初めからつながらず。公衆電話の列に並び、母、*、兄と連絡を取る。皆、無事なことを知り、一安心。龍野西S0324Aで、山陽自動車道の岡山-広島間開通を知る。
20010324 22時半、桜ヶ丘[の母]を見舞う。壁に掛けていた額が落ち、食器棚の食器がずれて、開かなくなったが、兄と一緒に直した、借家のモルタルが落ち、大変なことになった、庭の植木にも被害が出たが、手をつけていない、とのこと。自宅でも、花瓶・玩具・皿・本・CDなどが散乱。
20010325 研究室の地震被害を見るため出勤。3階の病理標本の被害を心配したが、水漏れなし。移動式書架の開いていた部分の雑誌が少し落ちていただけ。引越しの準備。持ち出せばよいだけの状態にする。-2時半。
20010325 桜ヶ丘の借家の落ちたモルタルの一部を、小雨の中片付ける。*・*宅の被害を、電話とメールで確認。
20010327 *医学資料館事務長と地震で動いた展示資料を直す。壁に展示していた資料などが、落ちたりしたが、割れたものは無かったとのこと。娘が女学院の卒業生とのこと。昔は、広島大学の定年退職した事務系職員が、女学院に行っており、女学院の卒業生が、広島大学に沢山採用されていた由。
20010327 **より電話。地震被害の見舞い。大会報告は、私の事情を汲んで、中止になった。来年度のことは保証できないが、雰囲気としては、来年送り。
20011221 メリメリケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。ケンパーク-神戸港震災メモリアルパーク-15:00阪神・淡路大震災支援館(フェニックスプラザ)。
20060612 強い地震。目が覚める。呉地方は震度5とのニュース。
20080520 *の話=*[中国人留学生]が四川省の地震被害などについて話す。
20110311 東北地方太平洋沖震災。東日本大地震。15:58*にメールを送る。16:40付の返信メール「大丈夫」が夜10時過ぎ?届く。
20110315 「東日本大震災 被災を覚える祈りの集い」。大学チャペル
20110316 *大学謝恩会。宇吹:乾杯の音頭。東北地震・福島原発事故は長期の影響。社会的な転換が必要。我々は目前のことしか関われないが、皆さんは長期の変革で活躍できる。
20110324 前日から始めた東北・関東大震災の新聞の整理終了。
20120817 NHKスペシャル「最後の笑顔~納棺師が描いた東日本大震災」。
20130311 東北大震災2周年。新聞5紙を購入。
20140314 震度5弱の地震。自宅・桜ヶ丘ともに異常なし。夕方、道路の枯葉を取り、温室北の畑に入れる。焼却炉が崩れていることに気付く。
20160414 熊本地震。益城町で震度7の地震。翌日、*から*、*ともに被害なしとのメール連絡。
20180408 「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター 1995.1.17」見学。

 

日本の原水爆禁止運動と被爆者の証言活動について(宇吹報告)

日本の原水爆禁止運動と被爆者の証言活動について
1989年2月28日  宇吹暁
・・・・・・・・・・・・・・・・
・Ⅰ 原爆被害の思想化 ・
・Ⅱ 原水爆禁止運動と原爆被害・
・Ⅲ 証言活動の歩み ・
・Ⅳ 被爆者証言の意義 ・
・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ 原爆被害の思想化

資料1)「終戦詔書」 1945.8.14

敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ

資料2)アメリカ人記者の質問への東久迩宮首相返書(「朝日新聞」1945.9.16)

米国民よ、どうか真珠湾を忘れて下さらないか。われわれ日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして全く新しい、平和的国家として出発しよう。米国は勝ち日本は敗けた。戦争は終った。互いににくしみを去ろう。これは私の組閣当初からの主張である。

資料3)広島原爆体験者の反応(アメリカ戦略爆撃調査団のインタビューに対する回答 1945.12)

(主婦・29歳)原爆でやられてから、私は今こそ軍需工場へ働きに行くべきだと思った。原爆はひどかった。だれもが怪我をしているのを見ているので何の悪い影響を蒙らなかったのは百人に一人にすぎないように思える。息子はたとえ大きくなっても原爆のことは忘れないだろうと言っている。
(主婦・34歳)私は、アメリカらしいやり方だと思った。私はいつもアメリカは鬼畜だと思っていたので、彼らがあのような野蛮な行為をしたことを責めはしない。彼らは、焼夷弾や通常爆弾と同じように落とすことができた。原爆のようなものを落とすことができるのは鬼畜だけだ。
(女学生・16歳)四か月も経つのに、まだ火傷が治っていない人たちがいる。子供はみな回復したが、大人たちの多くはまだ回復していない。彼らはアメリカ人を心底軽蔑しているので、もし幽霊がいるとしたら、なぜアメリカ人に取り付かないのか、と言っている。

資料4)広島市の陳情団とGHQ情報・企画担当マンソン大佐との合意内容(「中国新聞」1945.12.6)

終戦を速めたのは実に原子爆弾の威力であってこの洗礼を受けたのが不幸広島市で従って広島市が今回の戦災を被ったことは世界平和をもたらす第一歩であると同時にこれに寄与するところ誠に大なるものがあると思考されるので、復興については絶対にその特異性を認め他の戦災都市よりも優先的に復興をはかりたい。

資料5)広島市議会議長のマッカーサーに対するメッセージ要請書    The NEW YORK TIMES 1947.8.6

平和祭は、8月6日が平和に到達した日であるとともに、広島市民が世界平和に貢献する決意を新たにする日として記憶される日付であるという考えにもとづき開催されるものです。

資料6)平和祭に対するマッカーサーのメッセージ(「広島市勢要覧 昭和22年版」)

あの運命の日の諸々は、凡ての民族の凡ての人々に対する警告として役立つ。それは戦争の破壊性を助長する為に、自然力を使用することは益々進歩して、遂には人類を絶滅し、現代世界の物質的構造物を破壊する様な手段が手近に得られる迄発達するだろうと云う警告である。これが広島の教訓である。

資料7)広島市原爆犠牲者遺族援護に関する陳情書
(広島市長・広島市議会議長 1951.11.24)

当時広島市は全市要塞化し市民及県下より動員されたものはすべて老幼男女の区別なく軍命令により義勇隊員として軍都広島市の守備に任じて戦場にあった旧軍人と同じ立場に置かれていた。(中略)
一、原爆により死没した義勇隊員の遺族に対して旧軍人軍属と同様の国家補償を与えられたいこと
二、学徒動員により死没した学徒の遺族に対して前項同様国家補償を与えられたいこと
三、前二項の犠牲者の霊を靖国神社に合祀すること

資料8)広島平和都市記念碑碑文(1952.7.22文案完成、8.6碑除幕)

安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
(英文)Let all the souls here rest in peace
For we shall not repeat the evils

資料9)雑賀忠義(碑文作成者)の考え(「中国新聞」1952.11.11)

広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰返さないと霊前に誓う-これは全人類の過去・現在・未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。「広島市民が過ちを繰返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰返さぬではなく繰返させぬであり、広島市民の過ちではない」とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。

資料10)原爆被害者の会会則(1957.8.10)

一、この会は原爆被害者の会といい、原爆の被害者によってつくられます。
四、会は被害者が団結して多くの人々との協力のもとに、治療生活その他の問題を解決し、あわせて再びこの様な惨事のくりかえされないよう平和のために努力することを目的とします。
五、この会は目的実現のために次の事業を行います。
① 原爆傷害者の治療援助を当局に要求し、その他種々の便宜をつくり出す。
② 原爆による生活困窮者の就職、生活援助を会員相互の協力によって行う。
③ 各種の方法により平和のための事業を計画する。
④ その他目的実現のため、会の決定したこと。

資料11)原爆被害者数をめぐって

1945.11.30現在 広島県警察部調査 306,545 (戦災者)
1950.10.1現在 ABCC調査 158,597 (広島市に「現在」したもの)(283,508)(広島・長崎両市合計)
1951.5 広島市調査  57,902 (死没者、1952.8慰霊碑奉納)
1972.9.30現在 広島市内被爆二世 66,627 (住民基本台帳より)
 1978.3.31現在  外国人被爆者手帳所持者 4,353 (推定) 広島被爆 3,989 長崎被爆 364 広島市内居住 1,860

広島市原爆被爆者動態調査事業報告1988.8

内死亡 内生存
被爆当時広島市内居住被爆者 284,758 123,010 154,292
被爆当時広島市外居住被爆者  149,231 48,522 97,056
不詳 28,935 17,949 3,169
合計 462,924 189,481  254,517
1945末までに死亡  77,576
原爆医療法施行前に死亡 94,894
1957.4.1~調査時死亡 88,601
死亡時期不詳  5,986

 

パルの自己紹介

パルの自己紹介

年月日 できごと
19980502 やっと自分の住処を得ることができました。 前の飼い主は、私のことをパルと呼んでいました。「キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル」という種に属しています。 年齢は3歳、人間では20歳代後半に相当するそうです。 標準体重は7キログラムだそうです。前の住処では何でも要求するものを食べることができました。家の中に閉じこもって歩くことがなかったので、肥えてしまいました。宇吹家にやってきたときは9キロとちょっと。
PAL9804
 宇吹家に来た直後
19980530 室内犬なのに良く外を歩かされる。ダイエットの成果もあり、体重は現在8.6キログラム
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19990104 宇吹家の住民の性格をやっと掴むことができた。粘り強く要求すれば、誰かが折れる。「餌くれー!」(注:目線の先に餌あり)
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家族のみなさまは、帰ってきたらまずわたしをなでてくる。でも、今小学5年生のわたしのしもべは抱きついてくるので暑苦しい。
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19990826 ペットショップでシャンプーをしてもらいご帰宅
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 20010213  パルの突然の死
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戦争と平和の旅1993年1月

戦争と平和の旅1993年1月25日~30日[敬称略]

時間 事項
25 10:30 京都大学文学部博物館。事務長が常設展示(中国関係)を案内してくれる。広島大学の事務長(文学部**事務長?)が見学したとのこと。文学部の校費で運営しているので大変とのこと。学内を歩く。建物が新たに建築されており、構内が学生時代に比べ、狭苦しく感じられた。
25 13:00 コープイン京都で報告。1.戦後初期の原爆体験記、原爆被害報告活動、2.記録に残っている「京大原爆展」、の2点について話す。-15時20分。**・*(機関紙共同出版)・*・*(工学部出身、元毎日新聞編集委員)・山辺昌彦(立命館大学)。
25 13:01 *の話=蔵本淳は2級後輩。自分は岡山出身で近かったので良く知っている。真面目に研究に打ち込むタイプだった。蔵本が米軍基地でインターンをやったのは、当時はそこが最も適切な場所だったから。*は、いいかげんな教師だった。
25 13:02 蔵本が〔NHKの番組で〕被爆の証言をしたことと、現在原医研所長として活躍していることを、私が*に話すと驚いていた。謝礼として2万円貰う。
25 16:03 16:03京都発-18:39東京着。地下鉄東西線大手町-竹橋。出口を間違い、KKR竹橋まで雨の中を歩く。19時半到着。部屋は広く、バス付きで快適。レストラン芙蓉で夕食。最も安いメニューが2000円。少量で食べた気持ちがせず。
26 09:30 国立国会図書館。一般研究室の申込。
26 09:40 憲政資料室。*と会う。あちらが覚えていた。*がしばしば来て私の話をしているとのこと。慶応の学生が百数十枚GHQ資料のフィルム・シートをコピーして一応作業を終了した由。放影研からしばしば連絡がある由。
26 11:00 国会議事録。第85回臨時国会(~1978年10月21日)まで原医研資料センタ-で目録済み。第101回国会(1983年12月)以降、「発言者索引」と「事項索引」を電算化。第110回(1987年11月)以降テキストの電算化。
26 11:30 JAPAN-MARK(国会図書館書誌情報)の検索。1969年以降電算化。遡及版(1969~1983年)、最新版(1984~1991年)・(1992年1~9月)。キ-ワード「原爆」、「平和」で検索。
26 12:00 新聞閲覧室。地方紙の1992年の8・6社説調査。
26 15:00 長崎日日新聞。1957年5月以降の調査。
26 17:00 雑誌論文目録で笹本征男「原爆初動調査における日本軍の役割」を調べる。しかし、雑誌論文のデ-タベースは利用できず、目録では掲載日・掲載書誌を捜し出すことが出来なかった。
26 20:00 「永田町-(半蔵門線)-九段下<夕食>-(東西線)-竹橋」のルートで宿に帰る。
27 08:00 竹橋-東京-川崎-(南武線)-武蔵小杉-(東横線)-元住吉-川崎市平和館(中原区木月住吉町・平和公園内)。
27 10:00 川崎市平和館。見学者なし。しばらくして、身体障害者のグループが入る。図書室では簡単なパソコンによる文献検索が出来るようになっていた。映画が2か所で見ることができる。空襲の体験談が空襲による焼け野原の写真をバックに語られる構成は良かった。
27 11:50 日本被団協。1992年の出版物調査。伊藤直子など3名の女性。12点の図書類(2700円)を入手。
27 13:00 国立国会図書館。地方紙社説調査。
27 20:30 大井町の地下街で夕食。一人での食事は見あたらず、帰りのサラリーマン同士のグループでごった返していた。しかし、九段下より食事のためには良い。
28 08:15 KKR竹橋に宅配便を依頼。5.5キロ。約1400円。宅配便のランクは5、10、15キロ。明日には届くとのこと。
28 10:30 法政大学大原社会問題研究所。JR中央線西八王子駅より法政大学行きバス。最初に原爆写真を紹介した「婦人民主新聞」は、1948年8月「15日」では無く「12日」だった。孫引きの恐ろしさを改めて感じる。
28 10:31 受付の年輩の女性が、麻布分館時代(現地へは1986年移転)に私が通ったことを覚えており、書庫を案内してくれる。原水協関係の資料は1.5段で大したことは無かった。労働団体だけで精いっぱいで、大衆団体にまで手が回りかねるとのこと。資料2400円を購入。
28 13:00 新宿でバッグ(1800円)を購入。
28 14:00 国立国会図書館。長崎新聞1957年10月~58年3月調査。
29 07:30 KKR竹橋を早く出発したので-千鳥ケ淵戦没者墓苑-靖国神社-神田の古書街(朝食)と散歩。
29 09:00 千鳥ケ淵戦没者墓苑(1959年竣工)。参拝者は皆無。靖国の国営版の感じ。
29 09:10 靖国神社。遊就館(1986年改修復元)を見学。1945年9月に死亡した中国軍管区勤務で山県郡出身の30才前後の女性の資料が展示されていたが、原爆についての言及は無し。
29 10:30 第103回平和科学研究センタ-運営委員会。出張中につき欠席。
29 10:30 神田古書街。永井隆全集(1971年8月28日刊)を文華堂で入手。1万円。南海堂に「原水爆時代上下」が3500円で出ていたが買わず。
29 12:00 大手町の「ていぱーく(逓信博物館)」を見学。パソコン通信についての展示を期待したが的外れだった。多くの小学生が見学。すぐに出る。
29 13:30 国立国会図書館。長崎日日新聞1958年4月-8月調査。
29 19:00 東京駅八重洲口地下街でみやげ物の買物。*=ヘアバンド。*=ドラえもんのゲームウォッチ。職場用と桜丘用のサブレ。
30 05:50 KKR竹橋チェックアウト。一泊7000円で計39964円。DCカードで支払う。
30 06:16 東京発-08:58京都着。9:22市バス(50系統)-10:00立命館大学国際平和ミュージアム着。
30 10:00 立命館大学国際平和ミュージアム。現代史と平和学の最新の成果を取り入れており、新鮮な感動。全国の自治体名が入力され、非核自治体宣言を行っているかどうか検索できるシステムがあり、笑った。原水禁運動は、原水禁の資料はなく、原水協のみ。
30 10:30 一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市・平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
30 11:44 京都駅発-12:00新大阪着-(地下鉄)-梅田-(環状線)-森ノ宮。
30 12:00 「ピースおおさか(大阪国際平和センタ-)」(大阪城公園)。販売図書を全部購入したら、7000円を超えた。
30 14:04 新大阪発-15:37広島着。原医研へのバスの中で、空と会う。師範学校の同窓会に出席し帰るところ。被爆50周年に向けて体験記の出版の話が出たとのこと。原医研に宅配便は届いておらず。

 

 

秦野裕子

秦野裕子

没年月日 読み 享年 備考
19920417 はたの・ひろこ 1952年生。1975年広島大学教育学部心理学科卒業後、原医研資料センターに勤務。広島大学事務官。職場の同僚。

『新研ニュース No.11』(中国新聞労組新研部、1984年3月21日刊)図1

はたの02

はたの02b

遺稿

広島大学原爆原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-の新聞切り抜きの現状と課題

広大原医研 秦野裕子

広島大学原医研原爆被災学術資料センタ-(以下、センター)の新聞切り抜きは、1967年頃から始められた。当初は、地元の中国新聞を中心に、被爆者問題についての主要記事をピックアップしておく程度の収集だった。1975年からは、中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の5紙を対象に、被爆者・被爆問題についての記事を網羅的に収集している。

原爆被爆以後、被爆者・被爆問題は、社会問題として、継続して報道されてきた。被爆者の個人情報から、国・地方自治体による被爆者対策、8月6日を中心にした慰霊行事、原爆ドームに代表される被爆遺跡問題、原爆をテーマにした映画・演劇などの文化活動、平和教育等々、様々な角度から取り上げられ、記事にされている。このような多岐にわたる

報道は、その「間口」の広さから、被爆問題を考えていく上での「入門書」としての役割を担うことができる。反面、新聞報道の性格上、その内容の詳細さなどの点では、いわゆる「第一次資料」には劣る。例えば、被爆者行政の当事者である国・県・市が作成する行政資料、あるいは原水禁団体が発行する原水禁大会資料などとは比較にならない。このようなことから、従来、新聞切り抜きの資料としての価値を低く評価する傾向があった。しかし、新聞記事は、それらの「第一次資料」の「索引」として有効に機能するものである。また、被爆問題は現在も進行中の社会問題であり、今なお日々新たに展開している。これらの新しい情報を得るには、新聞はまさに最適の情報源である。さらに、新聞は、報道記事にとどまらず、連載・企画記事として、「原爆・戦争・平和」について、夏場を中心に積極的に紙面に盛り込み、被爆問題についての世論喚起に大きな役割を果たしてきている。このように、新聞は、被爆問題を考えていく上で必要不可欠な資料である。

さて、広島市では資料センタ-以外にも、原爆問題に関心を持つ機関や図書館などで切り抜きを実施している機関がある。広島市平和文化センター・資料保存会・広島市中央図書館広島資料室・中国新聞社・放射線影響研究所・広島原爆障害対策協議会(原対協)などである。このうち、広島資料室は、1976年3月で収集を中止している。分類・保存については、資料保存会・広島資料室・放影研では内容別の分類はされておらず、切り抜き記事は日付順にスクラップブックに貼付されている。平和文化センター・中国新聞社・原対協では独自の分類表によって分類・整理している。対象にしている新聞は、資料保存会では中国・朝日の2紙、原対協では、各記事毎に、中国・朝日・毎日・読売のうちから適当な1紙を選び、採録するという方法をとっている。他機関では中・朝・毎・読と日経などを対象にしている。資料保存会・広島資料室では、個人が収集した新聞スクラップの寄贈を受け、それをもとに収集を開始している。しかし、これらの個人の資料は掲載紙名・日付などが不明のものが多く、資料としての有効性に欠ける。また、広島資料室以外の機関では、主として内部資料として収集・保存さ れており、一般利用者向けのレファレンスの態勢は整っていない。センターでも、切り抜き開始当時は内部資料として用いられていたが、1975年から系統的な収集が開始され、以来15年にも及ぶ収集によって、切り抜き資料の有用性は次第に高められており、外部からの利用も増加している。さらに、センターでは、切り抜き記事をもとに作成した「年表」を冊子にまとめ、広島市内外に配布するという情報サービスの態勢を整えている。また、後に紹介するように、被爆問題記事は地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。新聞というマスメディアであっても、地方版となると、配布は県内・市内に限られており、他地域には届きにくい。各新聞社が発行している縮刷版でも、地方版は入手も困難である。このような観点から、センターでは、地元紙のほか朝日・毎日・読売から記事を収集している。加えて、同じ被爆地である長崎市の新聞も取り寄せ、長崎側の情報も収集し、より有用性の高い「資料」となることを目指している。広島市にある国立の機関として、被爆地であるという利点を最大限に生かして情報を細大漏らさず収集し、集まった情報を被爆地だけに閉じこめることのないよう に、他地域にも広く提供していきたい考えている。

以下に、センターの新聞切り抜き業務を紹介し、併せて、今後取り組むべき課題について整理してみようと思う。

-新聞切り抜き資料の紹介-

1.切り抜き資料の形態と分類

該当記事は、半年毎の切り抜き作業実施時にまとめて切り抜かれ、A4またはA3判の台紙に貼付される。台紙には切り抜き記事の掲載年月日・掲載紙名・分類番号が記入される。それらの切り抜きは、テーマによって分類され、バインダーにファイルされる。分類項目及び各項目の切り抜き枚数は、表1の通りである。
分類表は、切り抜き開始当初から便宜的に用いていた分類をもとに、中国新聞社などの分類表を参考に作成したものである。利用者にとって、捜したいテーマに沿って分類されていれば都合が良いが、そういう場合ばかりではない。例えば、昨年1990年韓国大統領の訪日とともに話題になった韓国人原爆犠牲者慰霊碑の記事は、分類表のⅡ-25「朝鮮人被爆者」ではなく、Ⅱ-73慰霊祭・碑に分類されている。また、同年8月に、広島市在住の朱碩氏が「被爆朝鮮人教師の戦後史-歳月よ!アリランよ!」を出版したが、それもⅡ-25ではなくⅡ-83「出版」に分類されている。このように切り抜き記事の多くのものは、複数の分類項目に関連しており、そのうちの1つに分類するのは、無理な面もある。担当者としては、分類に優先順位を付け、それに従っているのだが、利用者には不便で、利用しにくい場合も多いと思う。被爆問題の大きな流れを把握するのに役立つ分類を念頭に、作業を進めたいと考えている。また、6.「利用・検索について」の項で紹介するように、パソコンによる複数の分類番号の入力・検索で、これらの分類の欠点を克服するよう努力している。

2.バインダーを開いてみると・・・
センターの切り抜きに対して、具体的イメージを持っていただくため、バインダーを開いて紹介してみる。例として、Ⅱ-13「遺骨」のバインダーを開き、ファイルされた切り抜き記事の日付・紙名・記事見出しを列挙してみる。
・1990. 8.23 被爆者の遺骨千体眠る?旧陸中国 軍馬焼却炉跡見つかる 似島
・1990. 8.23 似島の元陸軍馬匹検疫所 被爆者1000人の遺骨なお?・・  朝日 広島版
・1990. 8.23 似島の原爆犠牲者遺骨 45年ぶり発掘調査へ 広島市 読売
・1990. 8.23 旧陸軍の焼却炉跡発 被爆者の遺骨1000人分眠る? 長崎
・1990. 8.24 被爆者遺骨調査へ 似島の旧陸軍検疫所跡 毎日 広島版
・1990. 9. 1 原爆犠牲者を発掘 似島で7日から 読売 広島版
・1990. 9. 3 1000人の遺骨埋まる? 7日から発掘調査 似島の陸軍検疫所跡 中国 広島版
・1990. 9. 4 似島の検疫所跡地で遺骨発掘へ準備作業 朝日 広島版
・1990. 9. 7 被爆者1000人の遺骨に「光」 広島市似島で発掘調査   朝日
・1990. 9. 8 骨片など40点発掘 被爆者遺骨調査始まる 中国

このように、見出しを追っていくだけで、被爆から45年を経た1990年の時点でも、被爆問題は決して過去の出来事、解決済みの事ではないことが判る。いわゆる「戦争を知らない世代」の人々でも、被爆問題に取り組もうとすれば、これらの切り抜きの集積から「現在の問題」としてのテーマを見いだすことができる。また、上記の切抜き10件のうち5件は広島版に掲載されたものである。先にも述べたように、原爆問題は、地元のニュースとして、広島版に掲載されることが多い。

3.「被爆問題年表」の作成
センタ-では、新聞記事をもとに、1977年より「被爆問題年表」を作成している。1986年9月からはパソコンによるデータ・ベース化を行なっている。年表は図1のような形式で、M=月、D=日、NEWS=事項、CODE=分類番号、PAPER=掲載紙名・掲載月日がそれぞれ入力される。「年表」は、1月毎にまとめられ、センター発行の冊子「資料調査通信」に収録される。

4.「被爆問題年表」紹介
以下に、「資料調査通信」91号に掲載した今年1月の「被爆問題年表」の一部を紹介する。

1991年
1. 4 中国新聞社、広島都市圏住民意識調査結果を発表。それによると、被爆都市の行動として、46%が「核兵器廃絶の訴え」、37%が「被爆者の援護と被爆者援護法の制定」を指摘。
1. 4 米ネバダ州ラスベガスで、核実験禁止国際集会開催(20カ国の海外代表を含め約1500人参加)。7日からの国連本部での部分的核実験禁止条約改定会議に向けて開催。
1. 5 「広島文学資料 新収資料展」、広島市中央図書館で開催(20日まで)。丸木俊の鉛筆画「峠三吉像」・峠三吉の詩「8月6日」などを展示。
1. 6 「中曽根句碑はいらない!広島連絡協議会」代表者会議、広島市で開催。句碑の撤去を求める署名が1万人に達したことなどを報告。
1. 7 朝日新聞社など、チェルノブイリ原発事故の被災者救援のため「朝日チェルノブイリ救援募金」を開始。被災者の受け入れには、広島県・市、広大原医研などが協力。
1. 8 韓国原爆被害者協会の辛泳洙会長、海部首相の訪韓に関連して声明を発表。日本政府が在韓被爆者援護のための拠出金40億円を一括無条件で支払うよう要求。
1. 9 北海道の江川善次教諭ら、来広し、平和教材作成のため取材を開始。「ヒロシマを語る会」の被爆者原広司の案内で原爆資料館などを見学。
1. 9 広島・長崎両市長、国連の部分的核実験禁止条約改定会議で、世界平和連帯都市市長会議の代表として発言。広島市長、自らの被爆体験を紹介し、核実験の全面禁止を訴え。
1.10 原爆被害者相談所、被爆者手帳交付申請のための被爆証人捜しの1人を公表。
1.10 長崎市長、米ワシントン市のホワイトハウスを訪れ、大統領の長崎訪問を文書で要請。
1.10 日本被団協、米とイラクの外相会談が不調に終ったのを受け、「武力行使はヒロシマ・ナガサキの悲劇につながり絶対反対」との電報を米・イラクなどに打つよう、全都道府県の被団協に要請。
1.10 原水禁国民会議、米・イラク外相会談が不調に終ったのを受け、「広島・長崎に原爆を投下した時と同じ論理が見える」と米を批判する緊急アピールを発表。
1.- 長崎市、北米在住被爆者を対象に実施している渡日治療を、南米在住被爆者にも実施する方針を決定。3月に1人を招請の予定。

以上、少し長くなったが、1991年1月10日までの事項の一部を紹介した。数の多さに驚かれたのではないだろうか。原水禁・平和運動、原爆文学、韓国人被爆者問題、平和教育、被爆証人捜し、平和都市、在米被爆者問題など、多岐にわたる事象が今なお生起している。また、記憶に新しい「湾岸戦争」を懸念する被爆地からの動きや、チェルノブイリ原発のヒバクシャに対するヒロシマからの救済活動など、従来の「被爆問題」の枠を越えた新たな展開も見られる。月別の事項の件数は表2に示した通りである。それによると、1986-1990年の5年間で、年間2000件前後の事項を採録している。このうち、慰霊行事・原水禁大会などが開催される7・8月の合計が、年間の約三分の一を占めている。

5.社説・投書等

社説・投書、コラム、連載記事についても「年表」と同様に、データ・ベース化を実施している。社説・投書・連載については一年分をまとめて「資料調査通信」で紹介している。社説・連載については中国・朝日・毎日・読売・長崎新聞の他、政党紙(自由新報・社会新報・週間民社・公明新聞・赤旗)についても調査し、公明・赤旗については必要記事を切り抜き・保存し、それ以外のものは原紙で保存している。さらに、広島・長崎以外の地域での「原爆報道」について探るため、1986年より国会図書館所蔵の全国主要地方紙50紙を対象に、7.8月掲載の社説・連載の調査を実施している。1986-1990年に掲載された連載記事の件数は表3に示す通りである。

6.利用・検索について

以上、紹介してきたように、資料センタ-の新聞切り抜きは、切り抜きファイルとパソコン入力データの二本立てで整理されている。ある特定のテーマについて調べる場合はファイルの利用が適しており、「年表」では時系列を追って被爆問題全般について概観できる。また、入力データでは、パソコン機能を利用した検索ができる。「年表」の事項には、3つの分類番号が与えられており、実際の切り抜きファイルへの分類は第1番目の分類番号によって分類されているが、パソコンでは第2番目、3番目の分類番号の事項も検索できる。また、事項の中に含まれる単語=キイワードでの検索もできる。複数のキイワードの組合せ、あるいは分類番号とキイワードとの組合せも可能である。例えば、Ⅱ-102「映画・演劇」とキイワード「黒い雨」を組み合わせると、映画「黒い雨」に関する事項を検索できる。このようにパソコン機能を利用すれば、従来のテーマ別分類の欠陥を補うことができる。但し、それらの事項を掲載した切り抜き記事を見ようとすれば、第1番目の分類番号と、年月日によって、切り抜きファイルから捜し出さねばならない。第2・3分類で検索した場合、あるいは分類番号と キイワードの組合せなどで検索した場合には、必ずしも同一分類番号のファイルに分類されていないこともあるので、現状では実際の記事を捜し出す作業が煩雑になるという欠点がある。

7.「資料調査通信」について

「資料調査通信」は1981年8月に創刊され、センターで受け入れた文献・図書資料と、「被爆問題年表」を中心に紹介している。新聞関係では、先に紹介した社説・投書、連載記事の他に、新聞記事ならではの今日的な話題を取り上げて、「トピック」として紹介している。例えば、「国連軍縮週間」(1981年10月号掲載)・「『老人保健法』と原爆医療法」(1981年12月号)・「反核・軍縮の決議・意見書・宣言を採択した途方議会一覧」(1882年3月号)・「ビキニ被災30周年-新聞記事によるビキニデーの変遷」(1984年3月号-5月号)・「厚生省の被爆者実態調査結果の報道」(1987年5月号)・「新聞記事による被爆韓国人・朝鮮人問題年表」(1990年2・3・4月号-7月号)などである。「通信」は、原則として毎月発行され、広島市内・外の120余の関係機関・個人に送付している。
-今後の課題-

1.資料整理に関して
「被爆問題年表」のパソコン入力は、1982年まで完了している。さらに、1977-1981年(「年表」は作成済み)については逐次入力していく予定である。1976年以前については、「年表」の作成から取り組まねばならない。センター所蔵の1967-1976年分の切り抜き枚数は約1万枚に上り、これらを年表化していく作業はかなりの人手と時間を要することから、現在まだ未着手の状態である。しかし、現在の資料を生かすためにも、今後はさらに過去にさかのぼって資料を整理していくことが大きな課題である。
次にそれらの資料の検索システムについても改善の余地がある。6.「利用・検索について」の項で言及したように、現在のシステムでは、入力デ-タと切り抜きファイルが必ずしもスムーズに対応しない場合がある。これに関しては、現在開発の進んでいる光ディスクの利用で、かなりの改善が期待できる。光ディスクに限らず、飛躍的に進歩している情報管理システムに対して、迅速に対応していく態勢を整えることも大きな課題として挙げられる。
また、切り抜きファイルは新聞記事を切り抜き、台紙に貼付したもので、台紙で補強しているため強度の面では現在にところ、十分使用に耐え得る。しかし、新聞紙は劣悪な紙質の再生紙であることから、長期にわたる保存は難しい。従って、将来的には切り抜きのマイクロ・フィルム化などの対策が必要となってくる。

2.利用面での改善
資料センタ-では、これまでのところ、一般の図書館のようなレファレンスやコピーサービスといったサービスシステムが確立されていないという状態であった。しかし、センターの設立の当たっては、被爆者・市民らの「広島に原爆被災の資料センタ-を」との世論が大きな役割を果たしたという経緯があり、センターとしては、これらの被爆者・市民の声に積極的に応えて行かねばならない立場にある。また、被爆問題の社会性という側面から、センター所蔵の資料は、大学内だけでなく、広く一般に活用されるものである。現在でも、6月から8月にかけて、マスコミ関係者、一般の研究者・学生など多数に利用されているが、今後はさらに、被爆地からの情報発信の場として、資料閲覧スペースの整備、コピーサービス・システムの確立などが望まれる。また、入力データについて、パソコンネットワークを利用すれば、より広範囲に手軽に情報の提供が行えることになる。このような機器の導入も併せて検討している。

[中略]

原爆遺跡年表
(原爆ドーム)
58 06 - 広島市が総理府などに依頼した観光診断の報告書がまとまる。それによると、原爆ドームは永久保存すべきと言明。
60 12 01 日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、広島県・市原水協が原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議を提出し、満場一致で採択。
60 12 02 日本原水協代表、原爆ドーム保存を広島市に要請。
61 08 - 建築学の京大名誉教授近藤泰夫、原爆ドームについて緊急に調査・補強工事をすべきであると警告。
63 10 - 広島商工会議所、同会議所新築工事に伴う原爆ドームへの影響調査を広大工学部に依頼。
64 04 11 広島市、原爆ドームが風化現象によって自然崩壊の危険が強いと、ドーム西側の民家1戸に立ち退きを指示。
64 06 - 丹下健三東大工学部教授、来広し、原爆ドームの保存策を考えて欲しいとコメント。
64 07 13 映画監督市川昆ら、東京オリンピックの記録映画撮影のため来広。国内でのトップシーンに原爆ドームを使うことを計画。
64 07 21 原爆ドームの存廃をテーマにしたラジオドラマ「ドームの歌」(NHK広島放送局製作)、放送。
64 12 22 社会・共産党系など11の平和団体代表、浜井広島市長に原爆ドームの永久保存を要請(分裂以来初の共同行動)。市長、保存の意向を表明。
64 44 26 広島市原水協、原爆ドームを永久保存すべきとの方針を決定。
65 01 01 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金運動を開始(15日まで)。
65 01 06 広島折鶴の会、原爆ドーム保存募金と署名簿を広島市長に提出。
65 02 11 広島市、原爆ドーム保存調査費100万円を計上。
65 03 29 京大名誉教授近藤泰夫、広島市長に、原爆ドーム保存を要請する要望書を提出。要望書は湯川秀樹ら8人の連名。
65 07 02 広島市、広大工学部に依頼して原爆ドームの基礎調査を実施。
65 08 06 テレビ番組「現代の映像“ドームの20年”」(NHK)、放送。
65 09 - ソ連の子供たちから、原爆ドーム保存を訴える手紙が広島市長に届く。
65 11 15 広大工学部佐藤重夫教授、原爆ドームは補強すれば保存できるとの中間報告を発表。
66 07 11 広島市議会、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議。
66 07 20 「原爆資料保存会」、広島市に、原爆ドーム保存募金約7万円を寄贈。
66 07 24 広島市被団協(田辺勝理事長)、広島市での被爆者集会で、原爆ドームは市費で永久保存の方策をとるよう要求する方針を決定。
66 07 - 広島市、原爆ドームを一般からの募金で保存することを検討中。
66 08 01 広島市、原爆ドームを保存し、工事費4000万円を募金でまかなうことを決定。6 08 02 高梁市の老人グループ、中国新聞社に原爆ドーム保存募金を寄託。
66 08 06 広島市、「原爆ドーム保存の訴え」を発表し、募金活動を開始。原爆ドーム保存募金事務局を設置。
66 08 16 広島市議会の共産党議員団、原爆ドームを市費で保存するよう広島市に申し入れ。
66 08 17 広島市長、市議会各派代表者会議で、原爆ドームの保存募金を決めた経緯について説明。
66 08 17 広島市議会で、市が決めた原爆ドーム保存募金について、議会側に説明がなかったなどの批判が続出。このため募金要領なども未定のまま。
66 08 22 女優吉永小百合ら、広島市に原爆ドーム保存募金を寄贈。
66 08 - 「広島折鶴の会」、東京で開催中の総評定期大会に、原爆ドーム保存募金に協力を要請するメッセージを送付。
66 08 - 広島市の原爆ドーム保存事務局の体制が整わず、募金体制が足踏み。
66 09 - 9月広島市議会で、原爆ドーム保存募金問題について論議されず、募金活動進まず。
66 10 06 広島市議会の各派代表者会議で、原爆ドーム保存募金に対する結論持ち越し。
66 10 17 インドの国際法学者パール博士からの原爆ドーム保存募金が、広島市に届く。
66 10 21 広島市長、11月1日から原爆ドーム保存募金を実施すると発表。
66 10 28 広島市議会、原爆ドームを文化財保護法による国の史跡指定を受け、永久に保存する運動を進めることを決議。
66 10 - 広島市、原爆ドーム保存募金への協力を呼びかける英文の趣意書を、国内に先立ち、26カ国に発送。
66 10 - 原爆ドーム保存募金として103件・86万円余が寄せられる。
66 11 01 広島市の原爆ドーム保存募金、開始。67年2月末まで、目標額4000万円。
66 11 05 総評、原爆ドーム保存募金について、広島市長らと協議。1000万円の募金を約束。
66 11 07 実践倫理宏正会、原爆ドーム保存募金に100万円を寄付。
66 11 11 原爆ドーム保存の街頭募金スタンド、市役所など4ヵ所に設置。
66 11 13 原水禁国民会議の代表、インドでの「戦争の危険に反対する国際会議」で原爆ドーム保存募金への協力を呼びかけ。
66 11 14 自民党県連、原爆ドーム保存募金に10万円を寄付。自民党県議団48人も一人1000円ずつ募金。
66 11 21 米のヒロシマ・ピースセンター協力会から、原爆ドーム保存募金18万円が届く。海外からの募金第一号。
66 11 22 世界平和アピール七人委員会、建設相に原爆ドーム保存募金への政府の協力を要請。
66 11 25 広島市で開催中の世界連邦西日本大会で、原爆ドーム保存募金への協力を付帯決議。
66 11 25 呉市の呉港高校生徒会、原爆ドーム保存募金に協力。この他、油木町の中学生、呉商業高校生徒、賀茂郡入野中学校生徒・島根県大和中学校生徒、船越小学校生徒、安佐郡原小学校生徒、尾道工業高校、三原東高校生徒らも協力。
66 11 28 広島市、自民・社会・民社・公明等150団体を招いて、原爆ドーム保存募金の趣旨説明をし、協力を要請。
66 12 03 日本原水協、原爆ドーム保存募金運動に積極的に参加することを決定。
66 12 06 日本原水協代表、広島市長に、原爆ドーム保存募金運動への協力を申し入れ。
66 12 09 社会党、党大会で、原爆ドーム保存決議を満場一致で採択。
66 12 19 中国新聞社、原爆ドーム保存募金に金一封を寄付。
66 12 - 原爆ドーム保存募金に、497件500万円余が寄せられる。
66 12 - 広島市、国からの公園整備補助を断念し、原爆ドーム保存の補修費を、全額募金で集めることを決定。
67 01 27 中国国税職員組合、原爆ドーム保存募金に寄金(約9万円)。
67 01 30 広島市長ら、原爆ドーム保存の街頭募金を実施(1時間で約3万円)。
67 01 - 元NHK会長、英紙タイムズに、原爆ドーム保存募金への協力を要請。
67 02 13 広島市長、上京し、平和アピール7人委員会に、ドーム保存募金への協力を再要請。
67 02 19 広島市のボーイスカウト・被爆者団体など(130人)、ドーム保存の街頭募金を実施(23万円余)。広島市長も参加。
67 02 25 島根大学平和委員会など、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 02 25 広島市長、上京し、都内で、ドーム保存の街頭募金を実施(27日まで)。43万円余が集まる。
67 02 26 ドーム保存募金、2000件、1300万円。
67 02 27 広島市、2月末で終了する予定だったドーム保存募金を、目標額の4000万円が集まるまで延期することを決定。
67 02 28 広島市、ドーム保存募金を集計。2680件、1666万円余。
67 02 - 東京都の会社員、ドーム保存のための社内募金を実施 。
67 02 - 社会奉仕グループ「広島国際青少年協会」、ドーム保存の街頭募金を毎日実施(3月2日までで、募金額90万円を越える)。
67 02 - ドーム保存募金、低調。2月末までの目標額4000万円に対して、現在高は1000件、800万円。
67 02 - 原爆ドーム保存募金に、連日100万円以上の寄付が届く。
67 03 02 広島県婦協、ドーム募金65万円を広島市に寄付。この他、国泰寺高校・高田郡の老人クラブ・安佐郡の児玉病院などからも寄付。
67 03 03 広島市、市議会に、原爆ドーム保存第一期分補強工事費3000万円を追加提案。
67 03 03 広島市、原爆ドーム保存のための第一期補強工事費3000万円を広島市議会に提案。
67 03 05 尾道ロータリークラブ会長、ドーム保存募金に10万円を寄付。
67 03 05 府中市の青年ら、同市内で、ドーム保存の街頭募金を実施。
67 03 06 原爆ドーム保存募金、3000万円を突破。
67 03 08 広島県知事、県議会で、ドーム保存募金に対して、募金運動の成功を念願するとの態度を表明。積極的関与の考えは無し。
67 03 08 岩国市東小学校生徒ら、ドーム保存募金に寄付。この他、賀茂郡の酒造会社・御調中学校生徒・三次市十日市小学校生徒・竹原市竹原中学校生徒・山県郡の殿賀小学校生徒・世羅郡の西大田中学校生徒・賀茂郡の高屋中学校生徒らも。
67 03 09 広島市、ドーム保存の補強工事を前に、接着剤の注入テストを実施。建設省建築研究所部長ら、視察。
67 03 11 テレビタレント永井智雄ら、東京で、ドーム保存の街頭募金を実施(4万6千円余)。
67 03 12 広島県原水協・県被団協など、平和記念公園で、ドーム保存の街頭募金を実施(1万7千円)。
67 03 13 原爆ドーム募金、目標の4000万円を達成。14日、募金を終了。
67 03 14 浜井広島市長、原爆ドーム募金が目標の4000万円に達したので募金を終了すると発表(7364件、4025万円)。
67 03 - 松江市、原爆ドーム保存募金に協力し、市民に一人一円募金を呼びかけ。
67 03 - 国会議員の一部、原爆ドーム保存募金に協力することを決定。
67 08 05 原爆ドーム保存工事、完成し、完工式開催(山田広島市長ら約500人参加)。
67 08 05 広島市の原爆ドーム補強工事の完成式、開催(山田広島市長ら、約500人参列)。全国からの募金額は668万円(目標額4000万円)。
68 12 02 広島市、原爆ドーム保存募金運動の母体となった「原爆ドーム保存協力会」(会長、山本広島商工会議所会頭)を解散することを決定。
70 04 05 原爆ドームの設計者である故ヤン・レツルの血縁者から、ドームの写真を送ってほしいとの手紙が広島折鶴の会に届く。
72 08 - 広島市の藤本為吉、原爆ドームの噴水口の人面像を保管。
75 08 05 原爆ドーム(旧産業奨励館)、建設以来60年を迎える。85 07 - 岡山大学近藤義郎教授、原爆ドームを国の史跡として保存するよう呼びかけ。
86 02 - 日本考古学協会、原爆ドームを国の特別史跡に指定するよう求める運動を開始。100団体に賛同署名を求める文書を送付。
86 03 08 広島折り鶴の会、日本考古学協会の原爆ドームの特別史跡指定運動に呼応して、広島市で署名運動を開始。
87 01 22 広島市、原爆ドームを20年ぶりに補修することを決定。
87 07 11 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドームの保存調査を開始。
87 11 04 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、一部補修の必要があるとの調査結果を発表。
88 01 20 「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」、原爆ドーム補修工事の工法などを決定。
88 03 - 外務省、日本が批准の準備をしている「世界の文化遺産・自然遺産保護条約保護条約」の指定遺産として原爆ドームを検討中。
88 08 - 「広島折鶴の会」、原爆ドームの設計者ヤン・レツルのめいに被爆写真集などを寄贈。
88 10 06 広島市、1989年秋に原爆ドーム補修工事を実施することを決定。補修費用を全国募金で調達することを検討中。

(原爆遺跡)
69 01 17 広島市の堀川町の久保田本店の煙突、取り壊し工事、開始。煙突上部は広島平和記念資料館に保存。
69 03 - 広島市の「縮景園」に薬草園、開園。被爆したエノキも同園で保存。
70 06 - 広島市教委、基町地区の再開発で破壊される恐れのある旧陸軍輜重隊倉庫・陸軍病院門柱などを、保存するよう広島市に要請。
71 01 25 広島市の住友銀行広島支店、老朽化で取り壊し工事を開始。同支店の「死の人影」は、切り取られて広島平和記念資料館に移設。
71 12 - 広島市基町で、旧護国神社の鳥居の礎石の1つを発見。
72 02 - 広島郵政局局舎(昭和8年建設、広島市東白島町)、建て替えの検討を開始。
72 09 - 旧被服支廠(出汐町)の赤レンガべい、原爆資料館に移設。
73 03 13 御幸橋(昭和5年建設)、取り壊し工事開始。
73 03 - 常盤橋(昭和2年建設)、取り壊し工事開始。
73 04 - 中国郵政局の建て替えで、同局の被爆アオギリ、広島平和記念公園に移植。
73 05 11 相生橋(昭和7年建設)の架け替え、決定。
73 07 30 元安橋、欄干の親柱・石灯ろうなどが欠落したまま放置される。
74 02 - 山陽記念館(昭和9年建設)、荒れ放題のまま放置され、改築の見通しも立たず。
74 07 - 旧燃料会館(大正年間に建設、中島町平和記念公園内)、老朽化のため取り壊しが決定。
76 01 - 旧陸軍被服倉庫、周辺住宅の除去で全容を現し、存廃についての論議が始まる。
76 04 30 基町住民による「基町明治会」、旧陸軍被服倉庫と柳の木の保存を、広島市に要請。
76 06 23 広島市、旧陸軍被服倉庫の保存問題について検討を開始。
76 06 - 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存運動に乗り出すことを決定。
76 07 - 映画監督楠木徳男ら、旧陸軍被服倉庫を記録する映画の撮影を開始。
76 09 - 広島市、市営アパート建設の計画を練り直し、基町大クスの木の保存を決定。
76 09 - 広島逓信病院の旧病棟(昭和10年建設、東白島町)の取り壊し、開始。
77 01 13 広島市、旧陸軍被服倉庫の撤去を決定。「被爆当時と外形が異なり被爆の惨状を残す建物としての保存は適当でない」との見解。
77 04 - 広島城公園のユーカリ(樹齢80年)、異常寒波で葉枯れ。
77 08 06 舟入公園の老松3本(樹齢60ー70年)、護岸工事のため切り倒し。
77 10 12 相生橋の架け買え工事、開始。
77 11 - 広島市、相生橋の親柱を保存することを決定。
78 07 - 広島地方貯金局、移転に伴い、取り壊しが確定。
78 04 - 広島市役所本庁舎外壁のケロイドの塗り替え工事、開始。
79 04 - 広島市、原爆遺跡選定会議を設置。
78 06 01 旧陸軍被服倉庫の取り壊し、開始。
79 01 - 広島市基町太田川沿いの大エノキ(樹齢約100年)、河川改修工事のため切り倒し。一部は原爆資料館で保存。
79 06 - 広島市立基町小学校児童ら、基町本川沿いのエノキの保存運動を開始。
79 09 17 広島市の「原爆遺跡選定会議」、初会合(原田東岷・庄野直美ら市民代表14人出席)。
79 10 16 広島市の原爆遺跡選定会議、原爆遺跡説明板設置予定地7ヵ所を選定(島病院・広島駅・万代橋・御幸橋など)。
80 01 - 旧被服廠(出汐町)の保存検討中。
80 01 28 原爆遺跡選定会議、「原爆遺跡」として説明板を設する10ヵ所を最終決定(島病院・旧革屋町・広島駅・元安橋・旧中国軍管区司令部・広島赤十字病院・広島大学本部・袋町小学校・原爆ドーム・市役所)。
80 06 10 広島市、架け替え工事中の相生橋のデザイン募集を開始(130点が応募、一席作品は該当無し)。
80 08 08 広島市が、似島に、レクリエーション施設を建設する計画を進めていることが判明。
80 08 20 広島県原水協、広島市に、似島の原爆遺跡保存を要望。
80 09 - 自治体問題研究所・広島研究会、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画について批判。
80 09 - 相生橋の記録映画「生まれ変わる相生橋」(中国地方建設局製作)、完成。
80 09 05 公明党広島県本部など、広島市の似島へのレクリエーション施設建設計画に対して、充分な事前調査を広島市に要望。
80 09 09 社会党広島市議団など、似島のレクリエーション施設建設予定地を視察。
80 09 15 平和を語る青年の集い、似島の原爆遺跡などを見学。
80 12 02 広島市、市役所本庁舎の建て替え計画で、新庁舎のデザインをコンペ方式で採用することを決定。
81 01 27 広島市、「原爆被災説明板」第1号を設置し、原爆ドーム前で除幕式(広島市長ら約50人参加)。
81 04 23 広島市、新庁舎の入選設計を決定。原爆遺跡として玄関石段などを保存することを決定。
81 06 25 新庄の宮神社のクスノキの枝、切り落とし。
81 07 25 旧相生橋の橋げたの一部、被爆資料として広島原爆資料館で展示。
81 11 20 広島市、原爆被災説明板を新たに10ヵ所設置することを決定(1980年に続く第2弾)。
81 11 21 元安橋の欄干の一部、元安川左岸で36年ぶりに発掘。
81 12 28 万代橋の架け替え工事、終了。旧橋の親柱を橋のたもとに保存。
81 12 19 相生橋の新橋のデザイン、決定。
82 01 - 袋町小学校の校舎(大正11年建設)の壁の塗り替え、実施。
82 02 - フコク生命ビル(昭和11年建設)の取り壊し、開始。
82 04 - 旧広島中電話局の庁舎(昭和3年建設)の取り壊し、開始。電通遺族会、被爆タイルの保存・慰霊碑建立などを要望。
82 05 - 広島市の矢野公民館、旧広島中電話局の被爆タイルを用いて平和教育活動を計画。中国電通局・電通遺族会も協力。
82 06 23 中国電通局、旧広島中電話局の跡地に、被爆タイルを用いて慰霊碑を建立することを決定。
82 07 08 旧広島中電話局の被爆タイル、広島原爆資料館に寄贈される。
82 08 04 相生橋の平和記念公園に通じる連絡橋の架け替え工事が終了し、開通。
82 09 - 広島市、旧陸軍糧秣支廠(明治44年建設、宇品)を郷土資料館として保存することを決定。
82 09 11 広島市教委、解体修理中の広島東照宮(1648年建立、二葉の里)について、市民向け説明会を開催。
82 09 18 「似島平和遺跡を保存する会」、似島の原爆遺跡の保存などを広島市に要望。
83 02 03 広島市の新庁舎建設に伴い、庁舎の取り壊し作業開始。
83 08 20 旧陸軍糧秣支廠の改修工事、開始。
83 09 - 牛田浄水場の予備ポンプ室(大正13年建設)が、「水道資料館」として保存されることが決定。
83 11 02 相生橋の架け替え工事、終了し、完成式開催(約400人参加)。
83 10 - 山陰合同銀行広島支店(昭和11年建設、立町)、老朽化のため取り壊し決定。
83 10 26 横川橋(大正12年架橋)の架け替え工事、開始。
84 03 - 旧相生橋の親柱、平和記念公園内に復元し、説明板を設置。
84 10 - 広島市役所の桜の木、新庁舎完成後も現在の場所に残されることが決定。。
84 05 17 御幸橋(昭和6年建設)の架け替え工事、開催。
84 04 - 工兵橋(明治22年建設)の改修、決定。
84 05 - 広島県、旧広島県港湾事務所の保存問題について検討中。
84 08 - 原爆資料館、被爆樹木の選定・保存方法の検討などを開始。
84 08 - 広島市中区役所、被爆樹木についての情報収集に協力を呼びかけ。
84 08 21 基町の被爆エノキ(旧第二陸軍病院跡地)、台風で倒壊。同エノキは、基町小学校生徒らが平和学習の一環として保存運動を推進。
84 08 24 広島市、台風で折れた基町のエノキの保存作業を開始 。折れた幹は平和教育教材・研究資料として提供。
84 09 03 安田女子高校生徒ら、広島城内の被爆ユーカリの保存策を求める要望書を広島市に提出。
84 09 - 鶴見橋のヤナギ(樹齢約120年)、台風で亀裂が入り南区役所が保護作業を実施。
84 09 - 広島県高校生平和ゼミナール、台風で倒れたエノキの枝などを全国の平和資料館などに送付。
84 09 - 大阪府の小学生から、台風で倒れたエノキを見舞う手紙が届く。同小学生らは、5月に修学旅行でエノキを囲んで平和学習。
84 12 20 中国電力本店2号館(昭和4年建設、小町)、老朽化ため取り壊し開始。
84 10 - 広島市中区役所へ、被爆樹木26本の情報が寄せられる。
84 10 - 被爆翌年に広島城跡にあった被爆ヒイラギが、大竹市で保存されていることが判明。
84 12 04 広島県被団協(佐久間澄理事長)など、被爆遺跡である現庁舎を保存するよう求める陳情書を提出。
85 01 25 広島市役所の本庁舎の取り壊し、決定。
85 01 26 広島県原水協など、広島市役所本庁舎の取り壊し決定に対して、広島市に抗議。
85 02 - 広島市平和文化センター、被爆建物の写真撮影作業を実施中。
85 03 - 広島市役所の被爆桜、新庁舎の建設に伴い移設され、残された1本が開花。
85 05 11 旧陸軍糧秣支廠を改造した広島市郷土資料館、完成し開館。
85 04 30 広島市議会、現本庁舎の部分的な保存方法を検討する協議会を発足させることを決定。
85 05 16 広島市役所の新庁舎、完成し、定礎式開催。
85 05 16 広島市、旧庁舎の一部を平和学習教材として全国の小・中学校に寄贈することを決定。
85 05 20 広島市原水協、新本庁舎の定礎箱に被爆資料を入れることや、現庁舎の保存などを要望。
85 05 - 広島市立基町小学校生徒ら、1984年に台風で倒れた被爆エノキの新芽を確認。
85 05 28 広島市、旧慈仙寺の墓石に、「原爆遺跡」であることを示す説明板を設置。
85 06 - 広島東照宮の石積みに、被爆経緯を記した「原爆誌」が設置される。
85 06 12 広島市議会の庁舎検討委員会、初会合。
85 07 - 広島市役所の桜、新庁舎建設のため、一時移転。
85 07 21 広島市役所本庁舎親子スケッチ大会、開催(「市庁舎を保存させる会」主催、約80人参加)。
85 08 15 広島市議会の旧庁舎検討協議会、旧庁舎を取り壊し、正面玄関の石段と地下室の一部のみを保存することを決定。
85 08 19 千葉県我孫子市被爆者の会代表、広島市役所旧庁舎の被爆敷石を展示するため、広島市に譲渡を申し入れ。(兵庫県美方郡なども申し入れ。)
85 08 - 広島電鉄、被爆電車156号を全面修理し、動態保存する方針を決定。
85 08 30 広島市、旧本庁舎の壁の一部を切取り保存・展示することを決定。
85 10 07 広島市役所旧本庁舎の解体工事、開始。
85 09 - 広島地方気象台の移転に伴い、気象台本館の保存を求める声が高まり、陳情・署名運動など開始。
85 11 09 横川橋の架け替え工事、終了し、開通式開催(広島市長ら450人出席)。
85 11 28 広島市役所旧庁舎の敷石、我孫子市の被爆者団体と兵庫県美方郡温泉町などに寄贈。(このほかにも、譲渡の申し出が相次ぐ。)
85 12 10 広島市、市役所新庁舎の玄関前広場の整備計画を決定 。旧庁舎の地下室を被爆資料展示室とすることなどを計画。
86 07 02 構内整備のため、倉掛小学校に一時移植していた広島市役所の被爆桜、同構内に植え戻し。同小学校には被爆桜の苗木を寄贈。
86 05 06 工兵橋の改修工事、終了し、開通。
86 09 11 御幸橋の取り壊し作業、開始。広島市、親柱と飾り柱の保存を決定。
86 10 - 「中区の文化を考える会」日本銀行広島支店を保存し、文学館などに利用するよう求める運動を開始。
86 11 - 「頼山陽先生遺蹟顕彰会」、頼山陽記念館を復元することを決定。
86 11 - 比治山のクロマツ(樹齢約300年)、枯死。
86 12 27 御幸橋の被爆石、東京都葛飾区に寄贈され、平和モニュメントにされることが決定。
87 01 - 広島市、広島気象台を「気象資料館」保存することを決定。
87 02 - 広島市、元安橋の架け替えを計画。
87 04 - 広島市役所の被爆桜、移植後初めて市役所構内で開花。
87 04 08 旧広島文理大の被爆タイル壁、説明板を付けて広大理学部正面玄関に設置。
87 04 25 旧中国逓信局のアオギリ(1973年に平和記念公園に植え替え)の枝が折られているのが発見される。
87 06 11 広島市立本川小学校の東側校舎(昭和3年建設)の解体工事、開始。校舎の一部を保存し、「平和資料室」として利用する計画。
87 06 - 広島市、旧燃料会館(現在の平和記念公園レストハウス)の建て替えを検討中。
87 06 27 旧逓信局のアオギリが、枯死寸前であることが判明。
87 08 - 広島逓信病院の庭で被爆したヒマラヤ杉、健在。
87 08 - 広島城跡発掘調査で、被爆の跡を残す礎石などを発見。
87 09 21 広島市、広島地方気象台の被爆庁舎の保存について検討する委員会を開催。
87 12 - 国前寺本堂・庫裏(1656年建立)、広島市の重要文化財に指定される。
87 12 - 広島地方気象台、新庁舎へ移転。現庁舎は気象資料館として利用することを計画。
88 03 - 旧中国逓信局で被爆したアオギリの二世作り、広島市植物公園で実施。
88 09 28 広島銀行銀山町支店(昭和12年建設)、建て替えのため解体作業を開始。
88 04 - 旧広島市庁舎の被爆石、1989年にオープンする市現代美術館の玄関前広場に敷設。
88 04 - 広島市平和記念公園の被爆アオギリ、広島県の「花と木の百選」に選定される。
88 05 - 広島駅構内のこ線橋(大正14年建設)が被爆遺跡であることが判明。
88 06 - 鶴見橋の被爆ヤナギ、同橋の架け替えのため一時移植される。
88 09 - 日本銀行広島支店の移転、決定。
88 05 - 基町の被爆エノキ、新芽が出ず枯死の心配される。福岡県の小学生ら、エノキを切らないよう広島市に手紙を送付。
88 09 - 旧広島地方気象台の建物を活用した「気象資料館」の基本構想、決定。
88 10 - 御幸橋の欄干のデザイン、決定。旧橋を模したデザインで飾り柱などを復元。
88 10 - 料亭「佐々木別荘」(明治の建築)、都市再開発のため建て替えが決定。
88 11 11 「中区の文化を考える会」、日銀広島支店の保存を求めて署名運動をすることを決定。
88 11 28 旧広島貯金支局(昭和12年建設)の解体作業、開始。被爆タイルなどは原爆資料館に寄贈。
原爆遺跡年表[解題]

秦野裕子(広大原医研)
新聞は、「原爆遺跡」について、様々な機会に多種多様の報道をしてきた。広島大学原医研資料センター所蔵の新聞資料によって作成したのが「原爆遺跡年表」(1958年ー1988年)である。この年表をもとに、「原爆遺跡」について概観し、取り組むべき課題などについて考えてみたい。
(ドーム保存について)
広島市で「原爆遺跡」について考える場合、まず第一に挙げられるのが「原爆ドーム」であろう。1989年のドーム保存募金の全国的な盛り上がりは記憶に新しい。しかし、このドームにしても、初めからこのような「遺跡」の代表として確固たる位置を占めていた訳ではない。以下に新聞報道によるドーム存廃の論議を紹介していく。
1958年に、ドーム存廃について、「市民の意見は半々 撤去論“悲劇を売物にするな” 保存論“忘れられない象徴”」(中国)という見出しで特集記事を掲載している。同記事では撤去論として「あのままドームを残して原爆の威力を伝えるにはあまりにも貧弱だ。外国人にもあの程度の被害かと誤認されたくない。」との当時の広島市議会議長任都栗司の意見を紹介している。また、広島財界の指導者の意見として、「ドームを観光の一助にするという考えは悲劇を売物にするのと同じことだ。」との意見を紹介している。さらに、60年には「存廃論議される“原爆ドーム”」(中国・夕)との見出しで特集されている。撤去論として上記の他に、「いつまでも不快な記憶を留めたくない。」「市の美観をそこなう。」などの理由を挙げ、被爆者の中にも撤去論者は多いようだと報じている。これに対する存置論として、「平和のシンボルとして置くべきだ。」「戦争の惨禍を忘れないためにも必要。」との意見を紹介している。さらに、田宮虎彦、大江健三郎、ロベルト・ユンクら著名人の存置論も紹介し、「存置論者 外部関係に多い」との見出しを付している。このような中で、浜井広島市長は、「積 極的に壊す気はないが、存廃はすべて世論にしたがって決める。」との見解を表明し、補強費1000万円のねん出も困難と財政面での苦労も訴えている。この時点では、広島市さえも、ドーム保存について確固たる方針を持っていなかった訳である。しかし、1960年12月1日には、広島市で行なわれた日本原水協主催の「原水爆禁止、被爆者激励大会」で、原爆ドーム取り壊し反対の緊急動議が満場一致で採択されている。これを受けて翌日、日本原水協代表は、広島市に保存を訴える要請書を提出したが、市側は、「検討中」とのみ回答している。
京大近藤泰夫名誉教授は、翌年1961年8月に来広し、原爆ドームが「非常に危険状態に陥っている。」と指摘している。「一日も早く専門的な調査をし補強工事をすべき」で、「これ以上放置できない限界にきている。」と警告を発したが、市は、危険防止のため周囲に金網をめぐらしてあることや、工事費に多額の費用を要するとの理由で、依然、調査にさえ着手しない。
1963年10月、電車通りをへだてた向いの広島商工会議所のビル新築に伴って、同会議所が、原爆ドームへの工事の振動の影響調査が実施される。この時にも浜井広島市長は、「ドームにはサクが張ってあるので大丈夫ではないか。」とのんきな意見を吐いている。さらに、「私としてはドームを補強してまで保存する価値はないと思う。」とコメントしている。ところで、同月6日のコラムはドームについて、「永久保存」・「即刻取り壊し」・「成行き任せ」の3つの意見があると紹介している。遺跡の存廃論議において、「成行き任せ」というのは、何とも奇妙な意見だが、同コラムは「複雑な両論にはさまれていずれにも決めかねている。」と広島市の「成行き任せ」論を説明し、振動の影響調査では、一応崩壊の心配はないとの結論を得ている。しかし、64年4月には、ドーム西側の民家に自然崩壊の危険が強いと立ち退きを指示た。
・保存への動き
1964年11月に広島市原水協(会長・浜井広島市長)は、原爆ドームは永久保存すべきとの方針を決定し、県原水協総会に、1965年の被爆20周年記念行事としてドーム保存運動を起こすことなどを提案する。翌月12月には分裂以来初めて、社会党・総評系、共産党系、保守・民社党系の3原水禁団体を含めた11の平和団体が大同団結し、広島市にドームの永久保存を要請した。これに対して、浜井広島市長は、「来年度予算案に調査研究費を計上して専門家に保存方法を研究させる。」と答えている。広島市は、被爆後19年にして初めてドーム保存の意志を表明した訳である。被爆20周年に当たる65年には、1月から広島折鶴の会がドーム保存を訴える署名と募金運動を開始する。また、広島市観光協会も、同月広島市に、ドーム保存の要望書を提出している。このような動きの中で、市はやっとドームの強度調査費100万円を計上する。この時点でのドームの保存状態は「昨年春には降り続いた春雨がしみ込んで正面4階部分のヒビが大きく割れ、近くでビル工事も始まったため、内部に30数本のワイヤーや補強サクを取り付けて自然崩壊を防いだ。」(65.2.12中国)という状態で、崩壊寸前だったことがうかが える。3月は、
1961年にもドーム保存について早期補修を進言した京大近藤泰夫名誉教授が、再び来広し、広島市長にドーム保存の要望書を提出する。要望書は湯川秀樹・丹下健三ら8名の連名であった。同教授は、「小っちゃな地震でもすぐこわれるほど危険な状態になっている。」と、ドーム補修が緊急を要することを強調た。さらに、同教授は中国新聞に「原爆ドームの保存を訴える 建築学上もむずかしくない」(4.30)との一文を寄せた。その中で、西ベルリンの戦災を受けた教会の修復の例を引き、ドーム保存の意義を訴え、また、建築学の専門家として、ドーム補修が技術的に可能であると発言している。新聞投書欄に、「原爆ドーム撤去せよ」(65.5.4)との投書が掲載されたのがきっかけで、7・10・12・13日とそれに対する反論が次々と掲載され、投書欄にも「5月1日以降、原爆ドーム保存を求める投書8通。撤去を求める投書は既掲以外にはありません。」(5.13)という状況で、保存を求める意見が主流となっていく。
こうして、65年7月に、市の依頼を受けた広大工学部が基礎調査を開始するが、市は、この調査結果によって、存廃についての結論を出す考えであった。広大佐藤重雄教授は、接着剤で固めれば半永久的に保存でき、費用は約4000万円と報告した。これを受けて、広島市長は、「保存することになろう。」と発言している。
・保存決定と募金運動
66年7月11日、広島市議会は、「原爆ドーム保存の要望」を満場一致で決議する。その内容は、「原爆ドームを完全に保存し後生に残すのは、原爆でなくなった20数万の犠牲者と世界の平和を願う人たちにたいして広島市議会が果たす義務の1つである。ドーム保存について万全の措置をとるようにすべきだ。」というものであった。市長は、同月「一般募金で、保存工事に着手する方法を検討する。」と発言している。さらに、8月1日には、市幹部会議で、ドーム保存と、工事費を募金でまかなうことを決定する。その理念として、「戦争のない世界にする反省の起点としてドームを保存し、これを平和な未来建設の出発点とする。」とし、「その意味で一般募金は意義がある。」としている。この時点では、浜井市長は、「原爆ドームは時点を高くし、視野を広げれば保存するのが当然ということになる。募金は私の責任でする。募金方法はもう少し検討するが、十円募金は協力団体がしてくれれば別だが市がする考えはない。」との見解を披露している。市は、当初8月6日からの募金開始を企図していたが、議会側から募金実施について事前に相談がなかったことや募金計画がずさんであるとの批判が相次 ぎ、趣意書の作成や発送などもできず、運動は凍結されたまま2カ月余が空費された。この間の市と議会との確執は、「宙に浮く原爆ドーム保存 一部に募金中止論 市長選とからませて」(9.30中国)、「感情的対立の様相」(10.5同)などの見出しで報道されている。このような対立の中で、市長は議会の意志決定を待たず、11月1日から募金開始を決定し、趣意書の発送なども開始する。開始時にはこのようなつまずきがあったが、総評・平和七人委員会・自民党県連・日本原水協・社会党など幅広い層からの支持を得て、期限の2月末を13日延長したものの、3月13日に目標の4000万円を達成した。浜井市長は、14日に募金終了を発表するが、以後も募金が相次ぎ、結局目標を大きく上回る6800万円余(68.2.22)が集まった。保存工事は4月10日に着工し、8月5日に完工式を挙行した。浜井前市長は、同式の中で、「募金が目標を達成できたのは、ヒロシマを繰り返すなという悲願が世界に燃え続けていることを証明した。このドームは戦争の悲惨な事実を刻みつけている。」と述べている。
・20年後の再補修
広島市は、1967年の補修から20年を経て、87年1月にドーム再補修を計画し、同年設置された「原爆ドーム保存調査技術検討委員会」の調査結果をもとに、89年秋にドーム補修工事を実施することを決定する。2億円の工事費について、市長は、募金で行なうことは「昭和42年当時、募金をした人の気持ちに反することでもあると思う。」と、消極的な姿勢を示していた。しかし、市民団体などの募金実施の要望を受けて、89年2月には2億円のうち1億を市費で、残り1億を募金でという折衷案を打ち出す。募金は5月1日にスタートし、初日には、当初募金に消極的だった荒木市長も街頭に出て募金を呼びかけた。12月25日の締め切りまでに募金総額は3億7000万円を超え、市長は「今後ともドームの永久保存に努める。」とのコメントを発表する。
・67年から87年
1967年にドーム保存を決定するまでは「原爆被害の過小評価になりかねない。」・「思い出したくない」など、様々な理由でドーム撤去を唱える人もいた。それらの意見も、一概に否定されるべきものではなく、それなりの根拠を持つものであった。しかし、87年の再補修の際には、ドームの永久保存は前提で、少なくとも撤去論を持ち出す人はいなかった。これは、20年の間に、ドームが撤去論を乗り越えるだけの働きをしてきたことを証明する。広島市民はもとより、平和学習の修学旅行生、内外の観光客・政治家・文化人らに、ドームは、その被爆体験を言葉を越えて語りかけ、戦争・平和について考えるよすがとしての役目を果たしてきたのである。そのようなドームを、今後も永久に保存していこうと、広島市民のみならず日本国内また海外の人々が決意を新にし、その熱意が89年の補修募金4億円となって結実した。しかし、我々は、67年当時には、ドームすら、撤去しようとしたことがあることを忘れてはなるまい。また、その論拠をも思い返してみる必要がある。美観・経費・原爆被害の過小評価・・・等。現在、我々は再び、そのような理由を挙げて、残り少ない「原爆遺跡」を取り壊そうとし ているのではないか。
もし、67年の時点でドーム撤去を決意していたとしたら・・・。その跡地に近代的ビルを建てていたとしたら・・・。平和都市ヒロシマの役割を我々はドームなしで果たせていただろうか。

次に、「原爆遺跡年表」を見ていく。この年表で、取り壊し・撤去が確認されたのは、「死の人影」のあった住友銀行・中国郵政局・御幸橋・常盤橋・相生橋・旧陸軍被服倉庫・舟入公園の老松・「生めましめんかな」の舞台になった旧広島貯金支局・広島市役所・万世橋・フコク生命ビル・旧広島中電話局・山陰合同銀行広島支店・横川橋・中国電力本店2号館・本川小学校東側校舎・広島銀行銀山町支店など17件にも及ぶ。銀行などの企業、官公庁の建物、橋などが次々に広島市街から消されていった。この時期は、ほぼドームの第1回の補修から第2回補修が実施されるまでの期間に当たる。次々に建て替えられていく多くの建物・橋などは、被爆後補修を重ねながら、使用されてきており、「原爆遺跡」であると同時に銀行・学校などの建物であるという二面性を待っているわけである。老朽化した建物は居住性・美観などの面で劣り、時には危険ですらある。「遺跡」という側面を無視して、建物・橋としての機能を優先させれば、「老朽化」-「建て替え」ということになってしまう。そのような例として、「市役所」の例を検討してみる。

(市役所の場合)
広島市は、1980年12月に、昭和3年に完成した市役所本庁舎を、手狭で老朽化が激しいとの理由で、取り壊し・建て替えることを決定する。この決定がなされた時にも、「また消える“被爆証人”」(80.12.3朝日)との記事の中で、「被爆の事実をかき消すかのような新しがり屋には怒りさえ覚える。」と、詩人栗原貞子の批判が取り上げられている。81年4月にはコンペ方式による新庁舎のデザインの入選作が決定され、原爆遺跡として正面玄関の石段・縁石などを保存することが計画されている。83年2月には、東側の三階建ての庁舎が取り壊され、新庁舎の建設が始まる。84年、新庁舎の建設が進むにつれて、老朽化の激しい本庁舎の存廃が話題にされる。新聞報道にも、「保存か撤去か 原爆“証人”ぜひ いや美観損なう」(84.4.21)との見出しで取り上げられている。その中で、撤去論として「全部取り壊した方がすっきりする。」との美観重視論、「原爆遺跡としては原爆ドームがあるので、金をかけてまで保存しなくても・・・」との意見などを紹介している。それに対して、「傷ついた市民も避難した場所。利便性や美観論だけで壊さないで欲しい。」との職員OBの意見、「古い本庁舎は、市 役所を訪れた外国人らの目にも奇異に映るはず。そこで荒木市長が残した意味を話せば、世界平和の訴えも説得力を増す。」との社会党議員の保存論を紹介している。この時点では、市も「保存にかかる費用や利便性、市民感情などを総合的に判断し、本年度中に存廃に着いて結論を出したい。」と態度を保留している。同年12月に広島県被団協(佐久間理事長)などの市民団体が、広島市に庁舎保存を陳情した際には、市は補修費が高額(13億円)であることなどを理由に、保存に消極的な態度を表明している。翌年1月25日に、広島市長は、本庁舎は取り壊し、玄関石段など被爆の傷跡を明確に残す部分だけを保存する方針を発表する。これに対して、市民団体は、翌日、「被爆地の市長自らが原爆遺跡の破壊を決めたことは、世界の反核・平和の世論に水をさし、市の基本方針である“被爆の実相の普及”に矛盾する」との抗議文を提出している。さらに、2月28日には、市議会で、自民党議員が市側に再考を求めている。このような声を受けて、市は、庁舎の正面玄関石段などの部分的保存を検討し、5月には庁舎の一部を被爆遺跡として全国の平和団体・学校などに寄贈することを発表する。この時には、 すでに庁舎の9月取り壊しが決定されている。県被団協などは5月20日に、3回目の庁舎保存の申し入れをする。
6月には、市議会の「旧庁舎検討協議会」が、①正面玄関の石段・敷石を残す(経費3800万円)、②石段と地下室の一部を残す(同1億1800万円)、③一階部分を縮小して保存する(9300万円)の3案を提示した。8月に、結局②案の採用を決定し、10月には、庁舎の解体工事が開始される。ところで、市が、5月に庁舎の一部譲渡を発表して以来、全国の小中学校・自治体などから申し入れがあり、平和学習教材や平和の碑建設に利用されることになった。翌年1986年2月までには、約30件の申し込みが寄せられ、被爆都市の庁舎への全国的な関心の高さを示している。
このように、市役所庁舎は、結局取り壊されてしまった訳である。これは、市側が、「原爆遺跡」としてより庁舎としての機能を優先させた結果であるが、この他にも市民団体などによる保存運動がドームの時ほど盛り上がらなかったことが指摘される。庁舎保存を申し入れたのは県被団協などの限られた団体で、ドームの場合のような禁・協・保守団体の大同団結は見られなかった。また、市が本庁舎の取り壊しを決定した1985年1月から取り壊し工事の開始される10月までに中国・朝日・毎日・読売各紙に寄せられた庁舎保存を求める投書は1件のみであったことは、市民の関心の低さをうかがわせる(「広島市本庁舎永久保存を望む」1.29中国)。
市庁舎取り壊しに関しては、逆に、市側の対応に目新しいものがあった。調査の石畳などの寄贈呼び掛けである。北海道から九州まで約30件の申し込みがあり、兵庫県美方郡で、「夢千代日記」の被爆二世夢千代像の台座、千葉県八千代・野田両市、東京都中野区の平和記念碑などの他、平和教育教材・展示資料として譲渡された。市の関係者は、「反核を願う動きが広がっているあかし」とコメントしている。
市庁舎は、謂わば市の「表玄関」である。広島市を訪れる内外の政治家・要人を迎えて、その表玄関に「原爆遺跡」を配することは、市が発する平和への提言を単なる美辞麗句で終わらさず、その影響力を高めた筈である。また、外来者だけでなく、被爆の記憶が年々薄らいでいく我々広島市民に対してもその存在は重い警鐘となり得たのではないだろうか。保存に多額の費用を要するとの理由で庁舎を撤去したのは正しい選択だったのだろうか。保存に要する費用13億円は、85年に開館した広島市郷土資料館改修費と同額である。政令指定都市広島にとってその額は無理な額であったのだろうか。被爆40周年だった1985年に、市民の間に庁舎保存についての論議がいま一つ盛り上がらなかったことが悔やまれる。

(「原爆遺跡」の転用-旧陸軍糧抹支廠・旧広島地方気象台・日銀広島支店)
次に、「原爆遺跡」を改修し、転用した例をみていく。
広島市は、82年9月に、旧陸軍糧抹支廠を改修し、郷土資料館として保存することを決定する。同支廠は明治44年の建物で、れんが造りの外壁をそのまま残し、市重要文化財にも指定されている。85年5月には、江戸以降の歴史・生活資料など約300点を展示して開館した。建設費は約13億円であった。
広島地方気象台は、1987年の移転が決定され、「江波地区社会福祉協議会」・「中区の文化を考える会」が、1985年に「平和学習ができる博物館施設として、市が跡地を取得して整備してほしい。」と、市に陳情した。市は、これを受けて、「広島市博物館資料調査収集検討委員会」で検討を開始する。同委員会の広島大工学部鈴木充教授は、「被爆の証人として極めて貴重だ」と発言している。87年1月には「気象資料館」として保存されることが決定され、1990年に、開館している。
これらは、被爆建物を補修し、「資料館」に転用した例であるが、いずれも「原爆遺跡」としての意義を特に強調している訳ではない。また、展示内容も、それぞれ郷土の歴史資料や気象に関する資料と、直接原爆をテーマにしたものではない。(但し、気象資料館の一室は、被爆の被害をそのまま残し、平和学習用として利用されている。)他都市には見られない貴重な被爆建物を再生したのだから、その意義を際立たせる工夫がなされてもよいのではないだろうか。例えば、日本銀行広島支店の場合である。前出の「中区文化を考える会」は、88年10月、同支店の保存を求めると同時に峠三吉などの原爆文学を中心にした文学館としての利用を提唱している。これに対して、日銀は、「跡地は売る方針」としながらも、「市民らの署名運動が起これば県や市と相談しなくてはならないだろう」との見解を表明している。もし、これが実現すれば、「原爆遺跡」を再生・利用した初の原爆文学を中心にした資料の展示館として、内外の注目を集めることになるだろう。これは、遺跡の保存という観点からだけでなく、原爆をテーマにした文学・演劇・映画・絵画などの芸術分野にとっても重要な課題である。 被爆以来、我々は、原爆をテーマにした創作活動から多くの成果を得ている。峠三吉・井伏鱒二・原民喜らによる文学作品、「原爆の子」・「はだしのゲン」・「黒い雨」などの映画、平山郁夫・増田勉・丸木位里・俊らの絵画、東松照明・福島菊次郎らの写真、細川俊夫・芥川也寸志らの音楽作品など、枚挙に暇がない。さらに、毎年8月6日を中心に放送される原爆番組も数多い。このように分野は様々だが、一貫して原爆をテーマにした作品群がある。「原爆遺跡」とともに、これらの芸術分野の作品の収集・整理・保存なども、我々の責務である。このような多くの作品が、一堂に集められ、展観できるとしたら、その迫力は個々の作品の持つ力を倍加するに違いない。また、それらの作品群の「容れ物」として、日銀広島支店のような「原爆遺跡」が使われるとしたら、それは被爆地ヒロシマが誇り得る「モニュメント」になるに違いない。

(被爆樹木と平和教育)
「原爆遺跡年表」に見られるように、広島市には被爆した樹木が残されている。広島市は、79年に河川改修工事のため、そのうちの1本である太田川左岸堤防の大エノキを切り倒す。しかし、皮肉なことに、それがきっかけとなって基町小学校の生徒らによる別のエノキの保存運動が開始されることになる。同校生徒が世話をしているエノキの前の立て札には、「原爆は罪のないエノキまで見苦しい姿にした きょうまでほんとによく生きてきた 生命の力強さと尊さを知ったかわいそうなエノキ 基町に住む私達はこの木を守っていく義務がある 基町小学校児童会」と記されている。84年には、台風でエノキが倒壊し、台風シーズンを前にせん定を怠っていた市の姿勢に批判の声が起き、市は、遅ればせながら、エノキの保存作業を開始する。折れたエノキの幹の部分は、平和教育教材や研究資料として提供され、寄贈を受けた県高校生ゼミナールはそれらを全国6カ所の平和施設に送付する。また、修学旅行で来広した大阪などの小学生らは、このエノキをめぐって基町小学校生徒と交流を続けている。
倉掛小学校では、同校庭に一時移植されていた市役所の被爆桜を植え戻す際には、同校生徒らの要望で、接き木した桜の“二世”を贈っている。同小学校でも、木の根元に被爆の由来を書いた立て札を立て、平和教育の教材として活用されている。88年には、同小学校で、初めて“二世”の桜の花が咲いたことが報道されている。
平和記念公園に移植されていた被爆アオギリは、被爆の語り部沼田鈴子らによって、修学旅行生らに感銘を与えてきたが、87年には木が弱り始め、市は、植物公園で“二世”作りを開始している。88年7月には、二世アオギリの誕生が確認され、市は修学旅行生らに苗木を贈ることを計画中である。
このように、被爆樹木は平和教育に活用され、広島は勿論、広島を訪れる全国の修学旅行生が平和に着いて考えるきっかけとなっている。しかし、先の基町のエノキも、89年2月には枯死が確認されるなど、その数はだんだんと減っていくことが予想される。また、被爆樹木であることが知られていなかったり、個人の所有の樹木もあるため、保護されていない場合もある。行政による被爆樹木の総点検と、樹木の保護・二世作りなどがなされる必要がある。

新聞記事デ-タベースと原爆情報

新聞記事デ-タベースと原爆情報(抄読会レジメの抄録)

     1992.1.13 宇吹 暁

Ⅰ)新聞記事デ-タベースの現状把握の必要性

.1991年5月29日、秦野裕子氏入院。新聞切抜き作業を代行してみて、かなり重労働であることを知る。切抜きを止めることができるなら、止めたいと考えるようになる。

経緯(敬称略)[1988年9月~91年11月]

Y M D T(年月日時間) 事項
88 09 02 14:30  中国地区デ-タベース推進協議会・標準化部会。中国電力本社。初会合
 09 16 13: 標準化部会第1回分科会。合同庁舎。
88 11 22 13:30  第2回標準化部会。中国経済クラブ。
88 12 22 15:   標準化部会分科会第2回会議。中国経済クラブ。
89 01 18 13:30 中国地区デ-タベース推進協議会主催「図書館情報デ-タベースに関する講演会」。講師:熊田淳美(国会図書館)。
89 01 27 13: 第3回標準化部会分科会。中国経済クラブ。
91 02 25 10:30  抄読会(宇吹)。「原爆文献・手記関連デ-タベースの紹介」。
91 07 08 10:00 池内よりパソコン通信の打ち出しを貰う。
91 07 15 09:30 池内からNEC-C&CVANの朝日新聞「被爆者」を打ち出したものを貰う。
91 07 20 11:15 池内よりNECデ-タベースの打ち出しを貰う。
91 08 17 09:50 有定久雄(原対協)来所。新聞切抜きについて話す。カナによる記事見出しの電算化は意味が無い。
91 08 28 08:20 池内から朝日新聞デ-タベースなどの打ち出しが届けられていた。
91 09 25 13:30 田坂(中国新聞デ-タベース部)来所。瀬戸内図書館連絡協議会委員の就任依頼。今年度中に3回ほど会議を開催の予定。パソコンネットワークについて3時過ぎまで話す。中国新聞のデ-タベースのモニターになることを勧められる。
 91 09 27 11:30 田坂(中国新聞)より中国新聞社記事デ-タベース・モニターの申込書など関係資料が速達で届く。
91 09 30 10:00 抄読会。池内。中国新聞社記事デ-タベースのモニターの件について相談する。内線は使わず専用回線を引いた方が良い。
91 09 30 16:30 中国新聞デ-タベース部。池内・松浦と中国新聞記事デ-タベースの見学。6時半まで。使い勝手は良い。モニターの件、予算措置が出来てから申し込みたい旨伝える。
91 11 18 13:20 池内とOAシステムプラザ広島店でオムロンのモデム(27800円)とマイトーク(19800円)を購入。5万弱。
91 11 18 17:00 中国新聞社へ記事デ-タベース・モニター申込書と瀬戸内圏郷土資料整備連絡協議会委員就任承諾書を発送。
91 11 18 24:00 自宅のPC,中国新聞社記事デ-タベースとつながる。
91 11 19 20:00 中国新聞社デ-タベースで「新空港」AND「イノシシ」を検索。
91 11 22 17:40 有定来所。中国新聞データベースの資料を届けてくれる。

Ⅰ)主な新聞記事デ-タベース

朝日新聞記事デ-タベース(1985年~)
読売新聞記事デ-タベース(1986年9月~)
毎日新聞記事デ-タベース
共同通信連動記事デ-タベース
中国新聞記事デ-タベース(1990年7月~)

Ⅱ)朝日新聞記事デ-タベース
1)概要
【朝日新聞記事情報】
朝日新聞東京本社発行の最終版記事と地方版の一部地域を含む記事[注]を提供致します。昭和60年1月からの蓄積量は年間約150,000件に達します。
政治・経済・情報通信・労働・文化・宗教・化学科学・社会・福士・世相風俗・事件・事故等、収録されている記事は広範囲です。検索は思いついた言葉で検索出来る自由語検索で記事中の名詞の殆どがキーワードとなります。更に、約1000語の分類語を用意しており、希望情報の分類コードを入力することによって不要な情報を排除し、検索時間の短縮が計れます。
< 朝日新聞記事情報サービス >
1.朝日新聞  87年分(85.01.01~87.12.31)
2.朝日新聞  88年分(88.01.01~88.12.31)
3.朝日地方版 88年分(88.06.01~88.12.31)
4.朝日新聞  89年分(89.01.01~89.12.31)
5.朝日地方版 89年分(89.01.01~89.12.31)
6.朝日新聞  90年分(90.01.01~90.12.31)
7.朝日地方版 90年分(90.01.01~90.12.31)
8.朝日新聞  91年版(91.01.01~91.12.31)
9.朝日地方版 91年版(91.01.01~91.12.31)
[注]地方版は、大阪・名古屋・西部各本社のニュース面のほか、関東1都6県、関西2府2県の地方版記事を採録。

2)朝日新聞の検索例1
【1】
記事コード T880816M04–02
見出し-- よみがえるか「死の島」ビキニ 米政府の浄化・再生調査開始
年月日-- 880816
本文---                   880816(火),朝刊
かつての米国による原水爆実験の地であり、現在も「死の島」となっているミクロネシア・マーシャル諸島のビキニ環礁がようやくよみがえろうとしている。「浄化・再生に関する調査」がこのほど始まった。計画通りいくと、7年後の1995年には残存放射能処理作業が完了する見通し。いまなお疎開生活を強いられている旧ビキニ島民たちにとって、約半世紀ぶりに悲願の帰島の夢が実現することになる。(土井全二郎編集委員)[以下略]

分類語-- 547,54,5,944,94,9,
国名--- C5117,C51,C5,C4101,C41,C4,
自由語漢字 島,ビキニ,米政府,浄化・再生調査開始,米国,原水爆実験,ミクロネシア・マーシャル諸島,ビキニ環礁,浄化・再生,関,調査,7年後,1995年,残存放射能処理作業,見通し,疎開生活,旧ビキニ島民,半世紀,悲願,帰島,夢,土井全二郎編集委員,ビキニ島,エニュー島,資材運搬船用,船着き場,電力施設づくり,米議会,委託,科学者グループ,ビキニ環礁再生委員会,
自由語カナ シマ,ビキニ,ベイ,ベイセイフ,セイフ,カイシ,ジョウカ,ジョウカサイセイ,ジョウカサイセイチョウサ,サイセイ,サイセイチョウサ,チョウサ,ベイ,ゲンスイバク,ゲンスイバクジッケン,ジッケン,ミクロネシア,ミクロネシアマーシャル,ミクロネシアマーシャルショトウ,マーシャル,マーシャルショトウ,ビキニ,ビキニカンショウ,カンショウ,ジョウカ,ジョウカサイセイ,サイセイ,カン,チョウサ,7ネン,1995ネン,ザンソンホウシャノウ,ザンソンホウシャノウショリ,ザンソンホウシャノウショリサギョウ,ホウシャノウ,ホウシャノウショリ,ホウシャノウショリサギョウ,ショリ,ショリサギョウ,サギョウ,ミトオシ,ソカイ,ソカイセイカツ,セイカツ,キュウビキニ,キュウビキニトウミン,ビキニ,ビキニトウミン,トウミン,ハンセイキ,ヒガン,キトウ,ユメ,ドイ,ドイゼンジロウ,ドイゼンジロウヘンシュウイイン,ゼンジロウ,ゼンジロウヘンシュウイイン,ヘンシュウイイン,ビキニ,ビキニトウ,エニュー,エニュートウ,シザイ,シザイウンパンセン,ウンパンセン,フナツキバ,デンリョク,デンリョクシセツ,デンリョクシセツヅクリ,シセツ,シセツヅクリ,ベイ,ベイギカイ,ギカイ,イタク,カガクシャ,カガクシャグループ,グループ,ビキニ,ビキニカンショウ,ビキニカンショウサイセイ,ビキニカンショウサイセイイインカイ,カンショウ,

3)朝日新聞の検索例2
<<< 朝日新聞記事情報サービス(88年地方版) >>>
コマンド? S CL=942
01 16件 CL=942
コマンド? D
項目名? DT
項目名? TI
項目名?
【1】年月日-- 881127
見出し-- 修学旅行で広島訪問、被爆者の体験談聞く 柏中央高の2年生[以下略]

4)朝日新聞の検索例3
朝日新聞の記事分類コード別記事件数
地方版
CODE 件名 85-87 88 89 90 91 88L 89L 90L 91L

54 原子力 1406 821 938 802 1018 104 133 105 199
540 原子力一般 420 226 140 105 98 16 27 12 17
541 原子力開発 136 72 139 51 64 4 7 2 2
542 核燃料 164 162 180 116 132 28 22 10 10
543 原子炉 220 255 391 258 436 33 60 38 46
544 原子力船 30 46 76 94 43 6 8 21 24
545 平和利用 138 80 13 13 10 0 3 0 0
546 原子力事故 781 274 296 264 548 21 39 35 101
547 放射線 365 124 131 180 101 22 31 11 23
925 核実験 228 73 73 42 86 0 1 0 4
926 核実験停止 240 31 33 11 32 0 0 0 0
927 核武装 1309 487 412 272 741 45 62 35 31
928 軍縮 2059 560 486 375 414 5 2 2 4
930 平和運動一般 222 163 211 169 475 101 80 69 430
931 反核軍縮運動 614 205 294 173 111 118 106 112 116
932 原水禁運動 94 46 50 56 43 8 6 3 14
940 被爆一般 19 7 10 10 7 2 0 1 3
941 広島長崎 216 121 287 261 236 33 42 87 72
942 被爆者 146 58 188 213 173 16 15 28 39
943 原水爆作品 43 26 34 27 75 20 17 15 37
944 核実験被害 19 11 9 19 21 1 2 0 2
9611 国連軍縮委 0 9 0 1 2 0 0 0 0
96616国際原子力機関 76 38 0 26 170 0 0 1 0

Ⅳ)読売新聞記事デ-タベース概要
【読売新聞記事情報】
読売新聞東京本社発行の昭和61年9月以降の最終版記事全てを提供致します。
1日の記事件数約250件、年間蓄積量は約70,000件に達します。
検索は、記事中の名詞をキーワードにする自由語検索、記事中にない言葉でも内容を
示す言葉であればキーワードに出来る中間概念検索、記事分類コードでのテーマ別検索
、掲載年月日検索、朝刊・夕刊等での紙誌名別検索、記事ページ検索、各数値データ検
索等多彩で豊富となっております。

Ⅴ)中国新聞記事デ-タベース
1991年の総記事数 12万7276件
1)中国新聞デ-タベースの検索例1
キ-ワード「原爆」の月別件数 「被爆者」の月別件数
1990年
7月 292件
8月 446
9月 141
10月 150
11月 132
12月 139
1991年 1878件  873件
1月 138 76
2月 127 63
3月 110 49
4月 135 54
5月 120 66
6月 143 80
7月 229 130
8月 369 159
9月 106 39
10月 118 55
11月 125 30
12月 158 72
2)中国新聞デ-タベースの検索例2
主要なキ-ワードの1991年中の件数
平和 5442件
国連 3172件
核 2148件
原発 659件
ヒロシマ 937件
核兵器   914件
被爆 850件
原子力 737件
広島大学 665件
平和記念公園 462件
放射線 367件
放射線 367件
放射能 360件
原子力機関 283件
核実験 247件
非核 234件
反核 225件
原爆資料館 212件
原爆慰霊 202件
原水禁 200件
原子力発電所 197件
原爆投下 190件
原爆慰霊碑   190件
核軍縮  172件
原子炉 171件
被爆地 170件
核戦争 164件
被爆体験 160件
平和大通り 152件
核兵器廃絶 150件
原爆病院 142件
原爆ドーム 141件
核拡散 138件
平和都市 135件
被曝 133件
平和文化センター 131件
被爆者援護法   128件
平和公園     124件
核拡散防止 121件
核開発 118件
原爆被害者    114件
原爆被爆者    113件
平和運動 112件
原爆犠牲者     105件
平和祈念式 103件
放射線影響 102件
平和教育 100件
放射線影響研究所 98件
平和記念館 98件
原爆死没者     96件
国連軍縮 94件
核戦争防止 89件
核廃絶 85件
原爆放射能 85件
放射能医学 84件
原爆放射能医学 83件
放射能汚染 82件
放射能医学研究所 79件
平和宣言 74件
反核市民 72件
原水爆 66件
原爆犠牲者慰霊 56件
原爆被害 55件
被曝者   53件
3)中国新聞デ-タベースの検索例3[以下略]

WELCOME TO C&C-VAN
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*** ご利用実績 ***
92/01/12 17:34:51
ID: (宇吹 暁 様)
下記料金には、消費税は含まれておりません。
従量制
番号  年/月 課金時間   料金(円)
2. 91/12 3:00:52 5,205
1. 92/01 3:17:55 8,912
*** 月間利用実績(明細) ***
月/日 LOG-IN 月/日 LOG-OUT 内  訳  時間/件数  料金(円)
12/10 23:04:08 12/10 23:08:56    -     00:02:06 14
23:12:27 23:18:52    -     00:04:50 32
12/11 21:06:02 12/11 21:16:13    -     00:06:14 41
(*)    00:01:28 9
110円/ 3分(スポーツ  ) 00:01:01 37
12/13 23:31:56 12/13 23:42:06    -     00:06:28 43
30円/ 3分(天気予報  ) 00:01:44 17
23:53:21 23:57:39    -     00:00:23 2
12/14 21:01:03 12/14 21:30:15    -     00:08:33 57
30円/ 3分(DB接続基本) 00:14:10 141
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:02:26 170
12/15 22:02:41 12/15 22:08:43    -     00:01:14 8
30円/ 3分(DB接続基本) 00:00:12 2
22:10:33 22:37:20    -     00:21:07 140
(*)    00:02:50 18
22:43:35 22:45:43    -     00:01:33 10
30円/ 3分(DB接続基本) 00:00:25 4
22:47:06 22:49:46    -     00:00:58 6
110円/ 3分(スポーツ  ) 00:01:27 53
12/17 22:37:59 12/17 22:58:29    -     00:02:24 16
12/17 30円/ 3分(DB接続基本) 00:02:54 29
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:09:13 645
23:10:36 23:25:09    -     00:01:15 8
30円/ 3分(DB接続基本) 00:02:54 29
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:10:15 717
12/22 14:39:48 12/22 15:13:38    -     00:06:46 45
30円/ 3分(DB接続基本) 00:04:31 45
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:18:29 1,293
17:11:05 17:25:40    -     00:01:08 7
30円/ 3分(DB接続基本) 00:02:50 28
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:10:30 735
12/23 8:06:33 12/23 8:08:53    -     00:00:10 1
12/29 23:44:56 12/30 0:00:18    -     00:12:38 84
30円/ 3分(DB接続基本) 00:00:13 2
12/31 9:14:35 12/31 9:30:17    -     00:04:49 32
12/31 30円/ 3分(DB接続基本) 00:01:05 10
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:09:39 675
1/01 0:27:02 1/01 0:37:38    -     00:06:14 41
30円/ 3分(DB接続基本) 00:00:12 2
0:39:02 0:50:02    -     00:09:58 66
1/03 12:11:52 1/03 12:20:37    -     00:06:05 40
30円/ 3分(DB接続基本) 00:01:17 12
1/03 210円/ 3分(読売新聞記事) 00:01:12 84
12:22:08 12:26:40    -     00:03:33 23
110円/ 3分(skier ) 00:00:49 29
1/05 16:55:36 1/05 17:21:01    -     00:13:20 88
30円/ 3分(DB接続基本) 00:01:29 14
210円/ 3分(読売新聞記事) 00:07:35 530
19:48:49 19:54:16    -     00:03:53 25
(*)    00:01:21 9
19:57:47 20:03:21    -     00:03:21 22
1/07 20:44:56 1/07 20:47:04    -     00:00:41 4
110円/ 3分(スポーツ  ) 00:01:07 40
20:48:40 20:53:56    -     00:05:03 33
1/08 23:35:40 1/08 23:45:35    -     00:00:34 3
30円/ 3分(DB接続基本) 00:02:18 23
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:06:35 460
1/08 23:48:24 1/08 23:52:03    -     00:01:59 13
1/09 21:21:38 1/09 21:51:02    -     00:03:03 20
30円/ 3分(DB接続基本) 00:05:07 51
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:14:48 1,036
210円/ 3分(読売新聞記事) 00:03:57 276
22:30:23 22:39:11    -     00:02:54 19
30円/ 3分(DB接続基本) 00:01:33 15
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:04:13 295
1/11 8:52:54 1/11 9:47:14    -     00:19:56 132
30円/ 3分(DB接続基本) 00:07:09 71
210円/ 3分(朝日新聞記事) 00:15:00 1,050
210円/ 3分(読売新聞記事) 00:10:25 729
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630円/ 3分(日外アシスト) 00:16:20 3,430
30円/ 3分(DB接続基本) 00:01:42 17
1/11 210円/ 3分(読売新聞記事) 00:01:56 135

1991年朝日・読売・中国各紙のキ-ワード別記事数比較[未整理]

朝日 読売 中国
原爆 958件 1879
ゲンバク 605件 250
被爆者 8519件 873
ヒバクシャ 269件 107
核兵器 914
カクヘイキ 870件 878
放射線 367
ホウシャセン  225件 144
核実験  247
カクジッケン 151件 49
原発  659
ゲンパツ 1026件
チェルノブイリ 258件  112376

 

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@   番号またはコマンド(E)=2
>検索式を入力して下さい。または、 E.終了
?ゲンバク
245件ありました (\1)
@   番号またはコマンド(E)=3
>検索式を入力して下さい。または、 E.終了
?ゲンバク
204件ありました (\1)
>それでは、表示(出力)形式を番号で指示して下さい。
(1.ヒヨウジユン 2.シヨウサイ )
?1
*NICHIGAI-ASSIST* BOOK 92.01.11
# 1
標 題    記者たちの日米戦争 木村栄文著
角川書店 ’91.12.8
197p 19cm(B6) ¥1,400(本体¥1,359)
備 考    ISBN4-04-883304-9 【B9133224】

[中略]

# 18
標題     戦争批判―日本人が映画で原爆に触れると(小野耕世の“文化”巷談 )
著者     小野 耕世
出典     公明 352 ’91.5 p100~101
抄録     海外からの記者たちの質問は、「長崎をけしからんというが、真珠湾はどうなんだ」という質問ばかりです。
情報提供者:日外アソシエーツ【M0908526】
# 19
標題     「8月の狂詩曲」の黒沢明さん―潔癖なヒューマニズムが戦争と原爆を描き出す(表紙の人・坂田栄一郎のオフカメラ)
出典     AERA 4(19) ’91.4.30・5.7 p91
情報提供者:日外アソシエーツ【M0908021】
# 20
標題     黒沢明監督までが集中砲火を浴びた日本人の「相互許し合い」感覚の欠如(世界の読み方〔467〕)
著者     竹村 健一
出典     週刊ポスト 23(16) ’91.4.19 p80~81
情報提供者:日外アソシエーツ【M0901515】
# 21
標題     映画『八月の狂詩曲(ラプソディ)』を公開するアカデミー特別名誉賞受賞監督・黒沢明―原爆による戦争はまだ終わっていないということを“じわっ”と表現したかった(人物四季報)(インタビュー)
著者     黒沢 明
出典     SAPIO 3(7) ’91.4.11 p42~43
情報提供者:日外アソシエーツ【M0900301】
# 22
標題     山木戸道郎―毒ガスは原爆をこえる(グラビア・現代インサイド)
出典     現代 25(4) ’91.4
情報提供者:日外アソシエーツ【M0896194】