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広島原爆被災資料の保存(今堀3)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
3
 バーバラ・レイノルズ  広島・長崎世界平和巡礼団
  アメリカのピッツバーグを訪れたとき、市民の中から原爆被災資料がアメリカに持ち帰られていることが話題にされ、二ユーヨークタイムスがこれをスクープとしてとりあげようとした。事実関係がもう一つはっきりしなかった為に不発に終ったが、アメリカにある資料の返還は、在米の被爆者調査とともに、将来の宿題だと言える。
 ウ・タント
巡礼団はニューヨークの国連本部でウ・タント事務総長に会い、
国連が被災白書を作るように要請。
1966年12月、国連総会はウ総長が「核兵器影響に関する
国連事務総長報告」をまとめるよう、満場一致で決議し、
翌年10月ウ報告は提出。
 この基礎データとなる広島・長崎の被災事実が明らかでなく、例えば死亡者の数なども終戦直後の県警報告78000が採用され、それが今後の災害を推定する基礎数字になっているという有様であるから、全体としてウ・タント報告の信頼度を弱める結果となったことは、まことに残念である。猶、広島・長崎の被爆者には、相当数の中国・朝鮮・東南アジア・ロシア・アメリカ人がいることを付言しておく。
 金井利博  中国新聞社論説委員。
1940年代から原爆関係文献の収集を行ない、その方面の開拓者の一人。 早い時期から被災白書の作成を中国新聞の紙上で提唱。
1964年8月、総評社会党系原水禁世界大会に出席、提案。
 談和会  広島・山口の大学人で組織する平和のための研究団体
   被災白書を具体的なプランにまとめて発表、とくに国勢調査で被災者総数を明らかにして研究上の「分母」となる数字をつかむべきことを、政府に要求するとともに、広く全国民の協力をよびかけた。
   <以下未入力、要作業>
 世界平和アピール七人委員会
 愛知揆一  文部大臣
 佐藤栄作  首相
 中山  文部大臣
 原爆被災学術資料標本センター
  予算も計上されたが、一部の保守系市議の積極的な妨害工作があって、結局、この予算案は、大蔵省査定を通ったあとで政治的につぶされ、資料館は実らなかった。
 原爆被災資料収集協力委員会  日本被団協。日高六郎・大江健三郎氏らの協力
 近藤泰夫
 原爆ドーム保存
 広島折鶴の会
 浜井広島市長
  市会内部の保守系議員の妨害にも拘らず、42年8月までに、200万人の寄付者が、計画予算を5割も上廻る6500万円の浄財が寄せ、工事も美事に完成した。
 原爆被災白書推進委員会
 原爆被災白書
をすすめる市民の会
 日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書
 茅誠司  原爆被災白書推進委員会委員長
  今堀が、文部省在外研究員となって訪米した機会にアメリカ国務省に働きかけたことも契機となって、67年5月、アメリカは返還をほのめかすに到った。
  原爆被災映画返還運動
 談和会
 学術会議
 中国新聞  新聞協会賞
 朝日新聞  「原爆500人の証言-被爆者追跡調査レポート」
 NHK広島
 原爆地図の復元運動
 平和文化センター
 山崎輿三郎
 原爆被災資料広島研究会
 田原伯
 佐々木雄一郎
  1968年の夏は、原爆被災資料ブームとよばれる程、多くの新資料が再発見された。広島東署がもっていた約二万人分の検視調書をはじめ、被災直後に臨時病院となっていた近郊の学校・公民館・役場などから、当時の日誌などが続々出て来た。広島県動員学徒犠牲者の会は各学校に紹介して、8月6日に各作業場で倒れた学生・生徒の記録をあつめ、「動員学徒誌」(68年5月刊)を出版したが、原爆資料館が小堺吉光氏を中心に、数年の歳月を費してまとめた「広島原爆戦災誌」も、完成を間近にひかえて最後のミガキをかけている。

 

 

広島原爆被災資料の保存(今堀2)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
1  別記
2
仁科芳雄
都築正男
学術研究会議 日本学術会議の前身
原子爆弾災害調査研究特別委員会
日映ニュース映画班 特別委員会の映画部を担当
原爆記録映画
GHQ命令
原子爆弾災害調査報告集
アメリカは原爆の秘密がソ連にもれることを恐れて、原爆被災資料
の独占に全力をあげた。
大橋成一 臨時野戦病院(宇品の大和紡績)院長
天野重安
玉川忠太
アメリカ原子力委員会
ABCC Atomic Bomb Casualty Comission(1948)
国勢調査(1950年) 母集団=10万人
レイノルズ
ABCCの調査は、科学的であり、系統的であって、すぐれた成果をあげたが、被災の実態そのものを明らかにして、被爆者の救援に役立てようとする姿勢をもたなかったので、被爆者からはモルモット扱いにするという悲難が絶えなかった。戦争準備のための研究ということもあって、原爆の残虐性をアメリカ市民の目からかくそうという気持が強く、レイノルズ博士の行なった小児への影響がいつまでもオクラになっていたり、胎内被爆による小頭症の調査を発表
しなかったり、その他原爆が恐ろしいものだという印象を与える調査結果は公表をさける傾向があったことは否定できない。
発表の上ではともかく、ABCCの蓄積した資料はまことにすばらしいもので、これを正しく活用することが、被災の研究にとって大切な条件である。ABCCの年間の研究費は10億円で、広島大学全体の研究費をはるかに上廻っている。
原爆乙女 独立の回復
広島市原爆障害者治療対策協議会 1956年4月改組、財団法人広島原爆対策協議会(原対協)
原子爆弾後障害研究会
福祉センター 「所感文集」
長岡省吾
原爆資料保存会
原爆参考資料陳列館 1949年9月、市公民館の一室に原爆参考資料陳列館が開設。
平和記念資料館 1955年にはと改称、現在の場所に。
専門調査員も居らず、予算は人件費まで、入場料で賄われる等、不備な点が多かった。原爆資料館というのは市民の愛称。
原子力平和利用展示館
1958年、原爆資料を迫放して、平和記念資料館を原子力平和利用展示館に変更させようという動きがおこり、マジックハンドが中心にすえられて、遺物や写真は片すみに追いやられたりした。陳列遺物の一半は原爆資料保存会の所有であったから、保存会が強く抵抗して、10年がかりで、旧に帰していった。
巡回展覧会計画 1950年に立てられているが、朝鮮戦争のため、神戸の貿易博に出陳しただけで中止。
要調査(宇吹)『日本貿易産業博覧会”神戸博”会誌』(日本貿易産業博覧会事務局、1950)
 広島長崎原爆資料公開展  1954年 東京・日赤本社
 全国巡回展  1967年 朝日新聞社
沖縄 展覧会  1967年
大阪 万国博出品  失敗
 国連本部(ニューヨーク)に展示室を設ける計画  失敗
  (失敗の)一つの原因は、広島市当局の消極的態度にあるが、資料内容が貧弱なことも原因の一つである。原爆資料館に専門委員会を置き、遺物の科学的・体系的な蒐集に着手することが必要であって、世界の博物館の水準に比較した場合、原爆資料館の内容の貧弱
さは、目を覆うばかりである。
 中野清一・久保良敏・山手茂  被爆者の社会科学的調査
日本原水協専門委員会  「原水爆被害白書」(1961年)
リフトン   R.J.Lifton ”Death in Life”(1967年)
 渡辺正治・湯崎稔  中山村調査
 今堀誠二  「原水爆時代」(上・下)
 中国新聞社  「広島の記録」(全三冊)
 広島市  新修広島市史」
長岡弘芳 「原爆文学史略説」(りいぶる13~15号)
広島平和文化センター 「平和の歩み」
3  別記
4 別記

 

 

広島原爆被災資料の保存(今堀)

今堀誠二「広島原爆被災資料の保存をめぐって」(『芸備地方史研究76』芸備地方史研究会、19690131)

内容

キーワード(人物・著書・団体など) 備考
1
ロベルト・ユンク ベルリン大学歴史学科出身、
千の太陽よりも明るく
   Robert Jungkには広島の災害と、戦後の被爆者の生活史をえがいた「灰墟の光- 甦えるヒロシマ」があるが、その作製のため来広した時、直接会って見聞したときの聴取による。
遠山茂樹 昭和史
西島有厚 原爆はなぜ投下されたか
広島の災害については、歴史学から見た場合、ほとんど何も解明さ
れていないと言っても過言ではない。被災者の数、死亡者の数、原爆孤児の数、原爆乙女や原爆孤老の数、どれ一つとして、概数さえつかめていない。まして家族の欠損がどんな意味をもったか、失われた富はどの位か、被爆者の精神はどんな点に特徴があるか等々、被災の基礎的事実を客観的にとらえようとする努力は、殆んどなされなかった。
原爆資料館
ジョン・ハーシー 「ヒロシマ」
ユンク 「灰墟の光」
2  別記リンク
 3   別記リンク
4
 被災資料の内容は、当時の記録や遺物だけでなく、その後の被爆者のあり方を、体系的に把握するため、聴取・写真・映画などにより、残していくことが大切なので、既存資料をあつめる作業のほかに、価値ある資料を作っていく作業が重要である。
その具体的方法は、原爆被災白書推進委員会が1966年に発表した
「日本政府による原爆被災白書の作製に関する要望書」が、
言わば第一次案と呼ぶべきものである。
学術会議が数回にわたってくりかえしたシンポジウムの報告書は、
いずれもまとめられているが、アンチテーゼに相当するレポート
である。学術会議が政府に申入れて、発足も間近い特別委員会(ワーキングーグループ)が、この作業を本格的に始めれば、原案の作製が期待できる。
ここに、私の個人的見解を記してみるつもりであったが、紙幅の都合上割愛する。
いずれにしても、被爆者を含めた市民の積極的な協力と、創造力に富んだ研究者の専門的能力と、政府・県・市・大学等の全面的な支援か必要であって、自主・民主・公開の原則を守り、被爆者の立場に立って構想することが、プラン作製の原則であろう。歴史家の任務はまことに重大である。

 

 

原水爆禁止世界大会に 関する覚書

「原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)

内容

 

タイトル
はじめに
1 世界大会の継続開催
表1 世界大会の開催地・参加者数(第1~9回)
表2 世界大会の日程
表3 新しい潮流による大会開催状況
表4 原水禁3団体による大会の開催地・参加者数(昭和39~51年)
表5 統一大会の開催地・参加者数
2 大会の課題
表6 第1回大会の分科会における代表の発言内容
表7 各大会の正式名(昭和30~38年)
表8 分科会一覧(第2~4回)
表9 大会本会議(総会)における意見発表者
表10 世界大会で採択された宣言・決議・勧告(第1~9回)
表11 原水協・原水禁の大会でとりあげられた主要議題(昭和39~51年)
3 大会の基盤(国民運動性・大衆性・国際性)
表12 平和行進の概要
表13 平和行進歓迎集会の概要
表14 原水協大会・統一大会の平和行進の概要
表15 原水協による大会内外での対外活動
表16 統一大会に参加したアメリカ代表の所属団体一覧
表17 各大会に厳守・議長などがメッセージを寄せた国一覧
おわりに
付記 大会関係資料の収集に当たっては、北西允・佐久間澄・竹内武・藤居平一・三宅登・宮崎安男の各氏、および平和会館。平和親善センター・日本原水協の各機関のご協力を得ました。末尾ながら、記して謝意を表します。

はじめに

昭和29年3月1日のビキ二水爆被災事件を直接の契機として生まれた日本の原水爆禁止運動は、今日まで絶えることなく展開されている。昭和30年以降毎年8月6日に前後して開催される原水爆禁止世界大会は、各年の運動の頂点に位置するものであった。各大会は、マスコミにより大きく取りあげられ、各方面からさまざまな論評が加えられている。また、これまでにも、この運動に関する著書がいくつか出版されてきた。今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社 昭和49年)は、第1回から第10回までの大会への参加記をまとめたものであるが、同時にこの間の大会の分析を通して日本における原水爆禁止運動の特質の解明を試みた書ということができる。熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター 昭和53年)は、原水爆禁止日本協議会の指導的立場からの、また伊藤茂(編著)『平和運動と統一戦線―原水禁運動の歴史と
展望-(増補版)』(ありえす書房 昭和50年)は、原水爆禁止国民会議の指導的立場からの運動の一つの総括である。また、岩垂弘『核兵器廃絶のうねり―ドキュメント原水禁運動-』(連合出版、昭和57年)は、昭和52年以降の統一大会に関する詳細な報告書である。しかし、これらの著書は、いずれも対象とする時期が限定されたり、分裂した運動の一方の立場に立った総括であり、日本で30年近くにわたって展開されてきた原水爆禁止運動の全体を対象としたものではない。一般的に、大会が分裂して開かれた昭和39年から51年までの期間の運動の意義は、分裂した大会の一方の当事者によっては無視され、第三者からは、両者ともに極めて不当に軽視されている。また、運動の総括は、しばしば、
分裂の責任あるいは運動の正統性に集中する傾向があり、そのことは運動の実態の把握を困難なものとしている。
本稿は、原水爆禁止世界大会の分析を対象とするものであるが、大会の論議に立ち入ることは意識的に避け、主としてその形式的側面からのアプローチを試みた。また、大会が分裂していることにではなく、大会が分裂してではあれ開催されつづけてきたことを重視する立場をとった。こうした方法によって明らかにできる日本の原水爆禁止運動の性格や意義は、おのずと限られたものであろう。本稿の意図は、すでに28回を数える大会を、大会の継続開催、大会の課題、大会の基盤という三点から整理し、今後の運動の本格的な分析に資そうとするものである。

「被爆体験」の展開

「被爆体験」の展開――原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として(『芸備地方史研究 140・141合併号』、芸備地方史研究、19830531)

内容

はじめに
原水爆禁止と被爆者救援
第1図 第1回大会宣言における原水爆禁徒と原爆被害の関連
運動分裂後の展開
2-1 原水爆被害者
第1表 宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
第2表 宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
2-2 原爆投下責任の追求
第2図 第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連
第3表 大会決議の標題にみえる救援と援護法
2-3 「被爆体験」の新展開
第4表 大会宣言・決議に現れた原水爆被害者(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く)
おわりに
第3図 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』原爆被災資料広島研究会、1972年 より作成)
第5表 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷

はじめに

「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば<1>、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。1954年3月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた<2>。また、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と組織化か急速に進んだ。たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、1955年5月頃には約300名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、56年2月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(12団体)約2万名」が組織されている。こうした55年5月から11月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった<3>。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(1956年5月27日)につながる広島県原爆被害者大会(56年3月18日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(56年8月10日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁
止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである<4>。なお、1977年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。

<1>拙稿「日本における原水爆禁止運動の前提-『被爆体験』の検討-」(『日本史研究』236 1982年)。
<2>拙稿「日本における原水爆禁止運動の出発一1954年の署名運動を中心に―」 (広島大学平和科学研究センター『広島平和科学5』1982年)。
<3>「原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所
年報』23号 1982年)。
<4> 被爆者問題については、田沼肇『原爆被爆者問題』(新日本出版社 1971年)、伊東壮『被爆の思想と運動』(新評論 1975年)の労作がある。また拙稿「原水爆禁止世界大会に
関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)は、日本の原水爆禁止運動を大会の形式的側面から検討したものであり、これを総論とすれば、本稿はその各論に当たる。

 

原水爆禁止署名運動の意義

「日本における原水爆禁止運動の出発~1954年の署名運動を中心に~」(『広島平和科学5』広島大学平和科学研究センター、1982)

目次
はじめに
1 原水爆禁止決議
2 原水爆禁止運動の開始
3 県(区・市)民運動の展開
4 原水爆禁止署名運動全国協議会
5 原水爆禁止署名運動の意義

 

5.原水爆禁止署名運動の意義

最後に,署名運動の意義について,いくつかの側面から検討しておきたい。

第1は,ストックホルム・アピール支持署名運動との関係についてである。周知のように,ストックホルム・アピールは,1950年3月15-19日にストックホルムで開かれた平和擁護世界大会委員会で採択されたものである。原子兵器の使用禁止を求めるこのアピールは,全世界で5億余,日本でも645方の支持著名を得るという成果をあげた(1)。この運動の「経験と蓄積」が,「大衆的原水禁運動の発展に大いに役立った」ことは(2)、本稿の署名運動の展開のところで見たように,平和団体の署名運動における先駆性などに現われている。しかし,1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動か,そのまま単純に拡大・展開したものではない。次表は,ストックホルム・アピール支持署名の各県別集計と,1955年8月の各県別署名数を比較したものであるが,この限りでは、両者に相関関係はみられない。

1950年署名数と1954年署名数の対人口比率の比較
(但し,いずれかの署名が20%6を超えるもの)

①1950年 ②1954年
秋田 5.5 21.2
東京 12.3 40.8
長野 8.4 39.5
富山 5.3 22.9
福井 1.0 28.6
京都 24.3 16.9
大阪 20.6 27.0
島根 3.2 38.8
広島 7.1 47.4
山口 3.2 44.3
高知 3.8 22.1
大分 4.1 24.0

注1.対人口比は,①は,1950年,②は,1955年の国勢調査より求めた。
注2.出典は.①は,岩波書店『日本資本主義講座』第9巻,97頁,②は,「1955年8月4日現在署名数全国集計」である。

一方,次表は,1955年県別に集計されたもので.県(市区町村)名を冠し,各行政区域の総人口の10%以上を集めた団体についてまとめたものである。

各種団体の署名数の対人口比率状況

(但し,10%以上のものに限る)

区分 10%台 20%台 30%台 40%以上
県レベル 原水禁団体
平和団体
婦人団体
その他
19
市区町村
レベル
原水禁団体 26 45
自治体・議会
平和団体
婦人団体
その他
13 10 35 66

出典:「1955年8月4日現在署名数全国集計」

このうち,県レベルで平和団体と分類しているのは,宮城県平和懇談会(10.5%),神奈川県平和評議会(13.3%),三重県平和懇談会(12.6%)、京都平和センター(12.9%),愛媛県平和連絡会議(10.2%),平和擁護大分県委員会(22.4%)の6団体である。これらは,京都を除き,いずれもストックホルム・アピール支持署名数を超えてはいるものの,大きな割合で署名を集めることには成功していない。また,市区町村レベルでみると,地域の署名運動の主要な担い手が,主に原水禁団体と自治体・議会であることがわかる。1954-55年の署名運動は,ストックホルム・アピール支持署名運動では見られなかった新しい担い手によっても進められたのである。

第2は,1954-55年の署名運動における平和団体・労働団体など既存の組織と新たに生まれた原水禁団体との関係についてである。前掲の表から.全国団体と各県の割合を比較すれば,次表のようになる。

全署名数に占める全国団体と各県の署名数の割合

全国団体 各県
1954年10月5日 59% 41%
1954年11月22日 49 51
1955年8月4日 45 55

 

これは、既存の諸団体と原水禁団体との割合をそのまま反映するものではない。たとえば,長野県において県民運動を展開した長野憲法擁護連合の署名数,および宮城・神奈川・三重・京都・愛媛・大分の各県のように,それぞれの県の署名数にほぼ等しい平和団体の署名数が,各県の集計に加えられているのである。これらの署名数を各県から全国団体に移せば.全署名数に占める全国団体の署名数の割合は.もっと大きなものとなろう。

しかし,こうした点を無視しても,全国団体の署名数は,1955年8月時点で,全署名数の約45%を占めている。このことは,憲法擁護国民連合・総評・平和擁護日本委員会といった全国団体が,1954-55年の署名運動で重要な役割を果したことを示すものである。

なお,前表からは,署名運動の展開の中で全国団体と各県集計の割合が変化していることがわかる。つまり,全国団体は,低下傾向にあるのに対し,各県は増加傾向を示している。日本の原水爆禁止運動は,これまで,「下から」ということに、その特徴なり意義が見出されてきた。つまり,それまでの戦後の民主運動や民主組織が,「上から」組織されてきたのに対し,原水爆禁止運動は,「下から」組織化されだというのである(3)。しかし,これまでの分析をもとに考えるならば,日本の原水爆禁止運動の特徴と意義は,「上から」のみでなく,「下から」の組織化の力も相伴って出発し,「下から」の組織化の力が,署名運動を通じて強化されていったことにこそ,求められるべきであろう(4)。

第3は,1955年8月の原水爆禁止世界大会と関連してである。安井郁は,世界大会の開会総会における経過報告の中で,署名運動の発展を総括し,つぎの3段階にわけている。

(1)1954年4月~7月 自然的な地方的運動
(2)~同年12月 全国的運動の段階
(3)1955年1月~ 世界的運動の段階

そして,彼は,世界大会を「過去一年全国民的な規模でおこなわれてきた原水爆禁止運動の総結集」であると表現した(5)。これは,1954年5月に発足した水爆禁止署名運動杉並協議会の議長,同年8月に発足した原水爆禁止署名運動全国協議会の事務局長を歴任し,また1955年1月19日の世界平和評議会理事会拡大会議に参加し,ウィーン・アピール採択に立ち会った安井郁としてみれば,ごく自然な総括である(6)。しかし,これを各地域で考えるならば,必ずしも普遍的ではなかった。たとえば,広島では,全国協議会が発足した時期に,ほぼ署名運動を終了していた。1954年8月6日の広島平和大会は,「全県下にわたって行われた原水爆禁止に関する各地の大会・署名運動の総括」の場として開催されたのであった(7)。そして,9月7日に新たに発足した原水爆禁止運動広島協議会は,すでに,国際分野の運動方針として,原爆10周年に世界大会を開催することを決定している(8)。

一方,広島とは逆に,世界大会までに,県民の10%の署名も得ていない県は24もあった。これらの県も原水爆禁止世界大会に代表を送っているが,これらの県にとっての原水爆禁止世界大会のもつ意味は,杉並や広島とは異なるものであった筈である。

1955年の原水爆禁止世界大会は,署名運動の展開からみて,以上のようにさまざまな段階にある地力組織の参加によって開催されたのである。これらの地方組織の大会前後の動向の分析は,日本の原水爆禁止運動の歩みを語るとき,重要な柱となるべきものであろう。

1)日本平和委員会編『平和運動20年運動史』395頁(大月書店、1969年)。
2)同前書99頁。
3)同前書101頁。
4)参考までに,世界大会のための準備資金の拠出割合を,大会の準備段階の状況として、また世界大会参加者の割合を,大会時の状況として考えるなら,県(地方)の占める割合は,署名段階55.5%→大会準備段階70.5%→大会時86.1%と変化して,全国団体(中央団体)に対する優位を確立している。原水爆禁止世界大会日本準備会「8・6世界大会準備ニュース」NO.4,1955年10月10日。
5)原水爆禁止世界大会日本準備会『原爆許すまじ-原水爆禁止世界大会の記録』6~7頁(1955年)。
6)安井郁の原水禁運動とのかかわりについては,前掲『民衆と平和』が詳しい。
7)原爆・水爆禁止広島県民運動連絡本部の1954年8月3日付案内状。
8)「原水爆禁止運動広島協議会経過報告-1954.9.7の新発足から1955.1.29の声明まで」。