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2013年夏・反核ヒロシマ(メモ)

2013年10月14日メモ(宇吹)

第8回平和市長会議総会(この総会で平和首長会議と名称変更)
テーマ 「核兵器のない世界」の実現を目指して-「ヒロシマ・ナガサキの心」を世界に-
8月3日~6日  参加者数 157都市 251人 各国政府11か国 13人 自治体組織・NGO等18団体 41人 合計 305人
広島戦災供養会原爆死没者慰霊行事
8月6日 06:15~
平成25年(2013年)平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)
8月6日 08:00~08:57  約5万人
70カ国と欧州連合(EU)の代表(核兵器保有5カ国では、中国を除く4カ国代表)
合唱団(約360名)吹奏楽団(約240名)
原爆死没者名簿=名簿には過去一年に亡くなった被爆者と新たに確認された死亡者5859人の名前を追加、総数は28万6818人。被爆者健康手帳所持者=3月末現在、20万1779人。
広島286,818+長崎162,083=計448,901人
原水爆禁止2013年世界大会
8月6日  原水爆禁止2013年世界大会・広島
広島県立総合体育館グリーンアリーナ 2,200人
8月9日10:30~13:00 原水爆禁止2013年世界大会・長崎の閉会総会
長崎市民会館体育館・文化ホール 7,000人
被爆68周年原水禁世界大会
7月28日 被爆68周年原水禁世界大会・福島大会 福島市 約1200人
8月4日  被爆68周年原水禁世界大会・広島大会 広島グリーンアリーナ 3,500人
8月6日  まとめ 中国新聞ホール 約700人
8月7日  被爆68周年原水禁世界大会・長崎大会開会総会 長崎ブリックホール 1600人
8月9日  被爆68周年原水禁世界大会・長崎大会閉会総会
長崎県立総合体育館メインアリーナ 2000人
核禁
8月5日  核禁広島全国集会  リーガロイヤルホテル広島
8月8日  2013核兵器禁止平和建設国民会議長崎集会
生協連
8月5日  2013虹のひろば 広島県立総合体育館1,100人(52生協、県外600人、県内500人)
広島県生協連では2003年より、ピースアクション(日生協提唱)のスタート集会の位置づけで「ピースフォーラム」を毎年開催しています。あわせて、ピースリレー結団式を同時開催していますhttp://hiroshima.kenren-coop.jp/activity/heiwa/heiwa20060710_01.html
8月6日  ピースナイター2013  広島市マツダスタジアム 28,400人
主催団体:生協ひろしま・広島東洋カープ・中国新聞社・広島平和文化センター・広島電鉄
連合
8月5日  連合2013平和広島集会  広島市中区の上野学園ホール 約2,000人
8月8日  連合2013平和長崎集会  長崎県立総合体育館メインアリーナ 約3,300名
連合主催、原水禁・核禁会議共催、後援8団体(長崎県、長崎市など)
2005年~2012年 核兵器廃絶20**平和ヒロシマ大会(連合・原水禁・核禁会議3団体主催)
日本会議広島
8月6日  第5回 8.6広島平和ミーティング「ヒロシマ反核平和の終焉」
リーガロイヤルホテル広島 1200名  講師:佐藤正久防衛政務官、森本敏前防衛相

スミソニアン特別展への広島市の対応

「米国スミソニアン協会・国立航空宇宙博物館における特別展の開催に伴う主要な経緯について」[広島市資料]

[広島市資料]

年 月 日 内容
1993.04.05 航空宇宙博物館のハーウィット館長とクローチ航空学部長が来広し、市長を表敬訪問するとともに資料館を見学し、引き続き、広島市側(平和記念資料館、平和記念館、(財)広島平和文化センター)との協議を行った。
その後、ハーウィット館長とクローチ部長は長崎市を訪問した。
05.31 同館のクローチ航空学部長と特別展担当学芸員等が来広し、広島市側と協議を行った。
07.17  展示計画書(英文)を受領した。
その後、翻訳を行い、その内容について検討を重ねるとともに、疑問点について博物館側に質問するなどの協議を行った。
その後、長崎市を訪問した。
10.22  特別展に貸出しを希望する資料リストを受領した。
11.30  特別展に広島市から資料を貸し出すことを決定した。
1994.09.23  米国上院議会が「原爆を投下したエノラ・ゲイは第2次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、目米両国民の命を救った。展示が、自由のために命を捧げた人々の記憶を非難し、攻撃すべきでない。」との決議を採択した。
10.20  上記の決議の採択に対し、米国上院議長あてに書簡を提出した。
11.18  展示台本を受領した。
12.21  「米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会」を開催した。
1995.01.20  米国在郷軍人協会が、博物館に展示の中止を申し入れた。
01.26  米国下院議員が、スミソニアン協会にハーウィット航空宇宙博物館長の辞任を要求した。上院では、公聴会の開催が要求された。
01.30  スミソニアン協会が評議員会を開催し、特別展の規模を縮小し、広島・長崎の被爆資料等の展示を行わないことを決定した。
01.31  市長あてスミソニアン協会ヘイマン事務局長及びハーウィット航空宇宙博物館長より、特別展の計画を中止する旨の書簡が届いた。
書簡の届いた旨の記者発表を行い、あわせて市長コメントを出した。

私の「スミソニアン原爆展示論争」(日記より抄録)

 スミソニアン原爆展示論争

Y M D J
92 10 21 国際交流基金(東京)より電話。内容:1995年スミソニアン博物館が、エノラ・ゲイを復元する。これを機に、原爆についての詳しい状況を調査したい。ついては、日本の研究者を紹介して欲しいとの依頼が8月に館長からあった。
92 10 27 広島原爆資料館の話=国際交流基金からの電話には、戸惑った。スミソニアン博物館に被爆資料の現物を送って、変な扱いをされたら、市民の間から抗議がでる。現在市には余裕が無いので、費用の点も心配だ。
92 11 05 広島原爆資料館より電話=資料館では、資料の貸出について検討している。スミソニアン博物館よりの問い合わせの経緯について詳しく知りたい。
93 02 02 ハーウィット・スミソニアン協会航空宇宙博物館長より手紙(1月18日付)が届く。
93 02 26 この週、スミソニアン博物館関係者来広の予定であったが、連絡が無いまま過ぎる。
93 03 17 A新聞社より電話。スミソニアン博物館館長の4月上旬の広島入りについて、どう対応するか問い合わせ。よく解らないと回答。
93 03 23 原爆資料および情報ネットワーク委員会懇談会。スミソニアン問題が話題になる。4月5日に放影研に関係者が来るので、一緒に会うことになる。
93 04 04 広島平和文化センターより電話。スミソニアンの件について。明朝、広島市で会議を開き、態度を決める、資料を提供する方向で検討している由。
93 04 05 放影研理事長室。ハーウィット(スミソニアン・航空宇宙博物館館長)とクロウチ(アメリカ歴史博物館社会文化史部門議長)と会う。
93 04 09 広島平和文化センターより電話。放影研でのスミソニアンとの話合いの様子について聞かれる。
93 05 06 スミソニアン博物館のニューフェルトより手紙が届く。資料の礼と5月下旬に来日の連絡。
93 05 07 スミソニアンのハーウィット館長より礼状が届く。
93 05 21 広島原爆資料館より電話。スミソニアン関係者との会合の日程についての問い合わせ。
93 05 31 Bテレビ局より電話。スミソニアンの件。広島市は資料貸出に前向きの姿勢を示しているが宇吹が働きかけているのではないかと言われる。
93 05 31 スミソニアン関係者(クラウチ・ニューフェルト・ジェイコブス)来所。広島市の対応が良かったらしく、こちらにあまり関心を示さなかった。前回のことがあるので儀礼的訪問だろう。
94 07 11 C・D(広島原爆資料館)来所。スミソニアンから展示のシナリオが届いたので目を通して欲しい、委員会を組織し検討する体制を作りたいとのこと。
94 07 21 広島原爆資料館の話=スミソニアンのシナリは、当初はひどかったが、資料を借りることが困難との雰囲気を察知してから、真剣に対応するようになった。
94 08 04 スミソニアン企画案を一通り読み終える。
94 10 03 宇吹の感想=スミソニアン展示問題は、重大な事件だと思うが、マスコミの取り上げ方にそうした認識が見られない。タブー視の可能性あり。被爆50周年後の見通しは暗いが、投げ出すわけには行かない。
94 10 04 B(テレビ局)から電話(ワシントンから)。スミソニアン博物館問題に関してアメリカで世論調査を行ってみたいので知恵を貸して欲しい、とのこと。
94 10 11 B(テレビ局)より電話。約1時間にわたりスミソニアン博物館の展示について話す。現在、スミソニアンと退役軍人の間で詰めの作業中。100万人の救った、いやせいぜい3100人ぐらいだろうなど。両者を取材するので、知恵をつけておきたい、とのこと。展示する時計を一つにする、戦後の核開発部分をカットするなどのスミソニアンの譲歩。どこまでの譲歩なら、貸し出すか。広島の資料によって伝えたいヒロシマのメッセージとは何か、などなど。
94 10 14 E(長崎市役所)の話。スミソニアン博物館への資料貸出について、広島市は色々躊躇しているが、長崎市は積極的に貸し出す方針。
94 10 21 F新聞社より電話。スミソニアン博物館の修正展示案に対する意見を聞かれる。積極的に応じるべき、と述べる。
94 11 02 広島原爆資料館より電話。スミソニアン博物館問題についてはマスコミの方が詳しい情報を提供。日本訳が届いたらまた読んで欲しい。
94 11 21 広島原爆資料館より電話。スミソニアンから資料が届いた。先ほど、記者発表。近々、コピーを届ける由。
94 11 22 C・D(広島原爆資料館)、スミソニアンの修正展示案を持参。市としては一応貸す方向、どういう条件を付けるかに議論がしぼられる可能性。貸出を求めているもののほとんどは、現在展示してあるもの。国会での展示点数より少し少ない。
94 12 08 スミソニアン原爆展示のシナリオを読了。
94 12 10 自宅にスミソニアン展示シナリオについての意見を書く用紙が届いている。
94 12 12 Gにスミソニアン原爆展示の話をすると関心を示す。同博物館を見学したいとのこと。宇吹がツアーを組んで見学に行くという夢を語る。
94 12 14 F新聞社との話。私のスミソニアン博物館見学ツアーの話は非常に面白いとのこと。自分が同行取材したいが、おそらく若い記者が行くことになるだろう。同館長が、H大使に相談。外務省は、広島原爆資料館長と会って、外務省として仲介の労をとっても良いと伝達した。とのこと。
94 12 14 I研究会でスミソニアン見学ツアーについて提案。関心は示されたが、通信発行の中で検討することになる。
94 12 15 広島原爆資料館へスミソニアン展示についての意見書をファックスで送る。
94 12 18 Jより電話。被団協の意向を聞く。両被団協とも、修正するというなら、スミソニアンへの貸出を断るべきとの見解。
94 12 20 F新聞社の取材。平岡市長が、スミソニアン博物館のエノラ・ゲイ展示に出席するというのは、すでに予算化されており周知の話。独自の原爆展を開催するというのは、市長の希望の段階。
94 12 21 米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会。於平和記念資料館東館地下1階会議室。報道陣多数の中で。 私の発言=スミソニアン関係者と会い、非常に立派な人たちとの印象を持った。その結果、台本を読んだ感想ではバイアスがかかっている。ヨーロッパにおけるドイツと他国間の、アジアにおける日本と他国間での共通の教科書作りの試みが日本とアメリカとの間で欲しいと思っていた。スミソニアン関係者は、私にとって、日米の共通理解のための貴重な人材と思える。シナリオの修正案を見て、彼らが、まだ自分達の主張を残そうと頑張っている様子が感じられた。この企画は、もともとB29からエノラ・ゲイに至る航空史である。それを企画担当者が、広島・長崎への深い同情と理解を持つものにしようとした。それに対する反発として退役軍人会からの反発があり、太平洋戦争史の側面が加えられた。展示としては妙なものになった。修正案で数が減ったとはいえ、アメリカで開催される原爆展としては、これまでにない大規模なものとなる筈。
94 12 22 Kより電話。新聞で昨日のスミソニアン関係の会合での宇吹発言を読んだ。一人、変わったことを発言していた。
95 01 13 スミソニアン展示シナリオ検討会議。原爆資料館東館地下1階会議室。3人で先日の会で出された意見の検討と集約。平岡市長が5月の展覧会開会式に出席しないと言っており、予算が削られたとのこと。
95 01 24 Fの話=市長がスミソニアンのエノラ・ゲイ展の開幕式に出席しないのは招待されていないから。
95 01 31 L新聞社より電話。スミソニアン博物館の原爆展示が中止になったことについてコメントを求められる。
95 01 31 広島原爆資料館より電話。スミソニアンのハーウィット館長より原爆資料展示の中止の連絡が入った由。
95 01 31 M放送局より電話。スミソニアン博物館の原爆展中止についてインタビュー場面を撮影させて欲しい。断る。
95 01 31 F新聞社より電話。スミソニアン博物館の原爆資料展示中止について意見を求められる。
95 02 03 I研究会。2月後期号から2回、スミソニアン博物館問題を取り上げることになる。
95 02 10 米国スミソニアン協会航空宇宙博物館の特別展について意見を伺う会。原爆資料館長の話=ヘイマン・スミソニアン協会事務局長がシンポジウムの開催に言及したので、問い合わせたが、現在のところ具体化はされていない。 Nとの会話=ダートマス大学のシャーウィンと会った。スミソニアンの展示の諮問委員会の委員9人の1人。スウェインは現在ノースキャロライナに帰っているが、地元でスミソニアンの展示中止に対し抗議文を出した。WHOやIPPNWとの連携。私の発言=平和データベースを始動させ、スミソニアン問題に関する海外の情報を集めてはどうか。 私の感想=マスコミは、市長の行動に期待しているが、アメリカ国内での原爆展やシンポジウムにどれだけに意味があるのか、という評価は難しい。
95 02 10 Aと平和公園で会う。スミソニアン問題でアメリカ取材をするつもりとのこと。
95 02 13 O新聞社より電話。14日OR15日にスミソニアン問題で広島を取材したい。
95 02 18 Pより自宅に電話。Q誌へのスミソニアン問題についての原稿依頼。
95 03 02 長崎県立図書館。2月1日のスミソニアン問題の長崎での報道をコピー。
95 03 06 I研究会。第5号の編集。次号は、スミソニアン年表で合併号を発行することになる。
95 03 17 Rより電話。総会での講演に手を入れて欲しい。スミソニアン原爆展について加えることとの依頼。
95 04 11 広島市役所。アメリカン大学での原爆展の話を聞く。うまく進んでいない様子。
95 06 14 広島原爆資料館より電話。アメリカン大学での原爆展開催を正式に決定し、昨日、現地で記者会見、日本では今日10時に記者会見を開くとのこと。
95 07 21 S新聞社京都支局より電話。1962年に学生がアメリカの約10の大学で原爆展を開催した。その歴史的意義について。
95 07 31 S新聞社京都支局より電話。学生の原爆展が全米20か所で開催されていた由。
95 08 08 ヒロシマ平和セミナー(アメリカン大学・立命館大学一行への講演)。討論の途中で中国人女性留学生が発言。スミソニアンにバランスの取れた展示を要望すると同様に、原爆資料館に加害の展示をするよう求めるとの流れに傾く。Tが、東京に加害展示をすべきとの持論。私は、原爆被害者が「被害者意識」を持つまでの大変な歴史を話す。
95 09 20 国立国会図書館新聞閲覧室。地方紙の8・6社説の調査。6時過ぎ終了。独自の連載が少なかった。社説に被爆者問題に言及するものなし。スミソニアン、加害、核廃絶、体験継承などが主なテーマ。
95 09 30 日本科学者会議広島支部創立30周年記念集会。シンポジウム「被爆50周年を考える」。私の発言=スミソニアン原爆展示問題で明らかになったことは、日米ともに戦争体験が過去のものになりつつあるということ。退役軍人会の攻撃は、50周年以後に戦争体験をどのように残していくのかについての戦略の一環ととらえるべき。
95 10 09 平和科学研究センター20周年記念シンポジウム「21世紀の平和学と広島の貢献」。於広島国際会議場。 鈴木=スミソニアン問題を見たとき、パール・ハーバーに日本が如何に取り組んだかを考えた。国際政治は国家間政治という時代は終わった。日本は、ウチとクニが一緒に考えられる珍しい国。大江健三郎と野坂昭如がこの点を考えてきた。関の話=スミソニアン問題では、アメリカの学者が日本の右翼の論理を採用し、退役軍人が左翼の論理を採用するというねじれ現象があった。 私の感想=パネラーがスミソニアン問題や歴史研究の重要さに触れた。彼らは、アメリカからの動きがなければ、原爆資料に対する関心は無かったであろう。一方、核実験反対運動や国際司法裁判所の動向には誰も触れず。平和運動と距離を置いた平和研究の限界が現れている。
95 10 20 「戦争と原爆展」。於カレント・コスモ。平和集会が開かれており、参観者多数。
95 12 08 F来所。フランスの反核運動の様子を聞く。日本の原爆展の押しつけに反発。パリのデモに参加。歌手の歌に合わせて歌いながら行進。ミホ・シボ氏が、フランスの実情を知らない日本からのさまざまな要請に困っている、とのこと。
95 12 27 Fの話=アメリカの学者のダブル・スタンダード(=日本人に戦争責任を理解させるためにアメリカの原爆投下責任を追求)。
96 01 30 Fへの話=スミソニアン原爆展に関連した資料を収集して、原爆資料館として展示会をやってはどうか。今年なら、まだ資料が集まるし、また、関心も呼ぶことができるのではないか。
96 02 17 シンポジウム「ピース・クリエイト・シンポジウム・21世紀の平和公園を考えよう」。於国際会議場。 金沢=スミソニアン問題で言われた「歴史観の差」は、実際には「歴史観の欠如」。 直野=「ヒロシマの心」は「核兵器廃絶と恒久平和」という平岡市長のメッセージは、アメリカでの原爆展を準備した人々には、反発を受けた。「ヒロシマ」の人間にしか解らないという姿勢に受け取られた。被爆者自身の生の声・姿が必要。
96 02 27 福岡市原爆被害者の会。T(長崎の被爆者)の話=スミソニアンの原爆展示に反対した米在郷軍人の気持ちは理解できた。
96 05 01 朝日新聞がインターネットで記事データベース(1985年-95年10月)を無料で公開しているとのこと。1日中かけて、「原爆展」・「スミソニアン」・「被爆者援護法」・「原爆」(1995年分のみ)の記事見出しをTXTファイルに吸い上げる。
96 09 24 アメリカンセンター資料室(東京都港区芝公園)。10時半-6時。ワシントンポスト紙の「スミソニアン博物館・エノラ・ゲイ展」関係記事38枚を自分でコピー。1枚20円。利用者にとっては便利な体制。
96 10 11 スミソニアン関係文献、英文文献の整理。
97 05 22 Uに電話。彼の話では、お茶の水大学の学生が、スミソニアン原爆展示問題をテーマに論文を書きたいと相談に来た由。
97 08 03 ノビーレを囲む会。於中国新聞ビル702会議室。参加者にはさまざまな顔ぶれ。ノビーレの話=スミソニアンのスクリプトの公開はスクープのはずなのに、ニューヨークタイムズなどマスコミは無視した。
97 08 27 ハーウィット「拒否された原爆展」読了。
97 10 02 一日、スミソニアン原爆展関係資料の整理。インターネット上のエノラ・ゲイ関係のデータをテキストファイルに取り込むことが簡単に出来た。
97 10 15 V(アメリカ・ブラウン大学の卒論にスミソニアン問題を取り上げ、今回、博物館と記憶、平和公園などをテーマとして取り上げるため来日)より電話。道に迷って広島市役所の前にいるとのこと。迎えに行く。エノラ・ゲイ展示をめぐる記憶についての卒業論文を預かる。広島原爆資料館の展示への要望資料を貸す。
98 01 14 W(コネチカット大学教師)来所。アメリカの様子を聞く。アメリカの知識人の間では、スミソニアンの原爆展示問題後、原爆問題に対する関心が高まっている。大江健三郎がプリンストンで講演したが、アメリカの友人とともに、聞きに行った。大江の英語は滅茶苦茶。HEとSHEの間違いなど。しかし、堂々と話した。
98 02 15 シンポジウム「<原爆資料館の外部委託>を考える」。於中国新聞社7階会議室。 宇吹=スミソニアン問題を卒論に取り上げたアメリカの青年が、今度はヒロシマを取り上げようとしている。しかし、ヒロシマにはハーウィット館長やクラウチ学芸員に相当する人物がいない。彼の意見では、原爆資料館の最初の印象は、強烈、しかし、それに続く自己主張が無い。
98 07 21 X(シンガポールの学校に通う女子高校生)来所。広島の高校へ通っていた由。8月半ばまで夏休み。学校の2年間の学習報告として原爆投下問題を取り上げている。スミソニアン原爆展示論争関係の英文の本などを貸す。

スミソニアン原爆展示論争

スミソニアン原爆展示論争

スミソニアン協会航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念して、「クロスロード-第2次世界大戦の終結、原子爆弾、そして冷戦の始まり」との名称で特別企画展を開催しようとした。この企画は、広島への原爆投下機エノラ・ゲイと併せて広島・長崎の被爆資料を展示し、アメリカ国民の間に根強く定着している「原爆投下の正当性」を問い直そうとする野心的な試みであった。
1994年3月、シナリオの概要が明らかになると、アメリカ国内では退役軍人協会を中心に、この企画に反対する動きが起こった。こうした動きは、同年9月には上院が全会一致で同博物館に企画の修正を求める決議をおこなうまでに発展した。結局今年1月にスミソニアン協会が、エノラ・ゲイを中心とした展示への変更を決め、被爆資料の展示は取りやめとなった。さらに、5月には航空宇宙博物館館長が、責任を取る形で辞任している。
日本側では、被爆資料を広島への原爆投下機「エノラ・ゲイ」と一緒に展示するという初めての試みに、大きな関心を寄せていた。マスコミは、この一連の経緯を大きく取り上げるとともに、展示内容についても詳細に報道した。
広島・長崎両市は、スミソニアン協会が両市に被爆資料の貸出を要請したことから、この問題への対応をせまられた。両市は、即座に貸出の結論を出すことは避け、スミソニアン側と展示シナリオの内容や貸出条件をめぐり協議する一方で、市民の意見の聴取をおこなった。広島市の場合、1994年12月と95年2月の2回、平和記念資料館(通称=原爆資料館)の被爆資料貸出をめぐり「市民の意見を伺う会」を開いている。市民の間には、当初、貸出に消極的な意見も見られた。その主な理由は、被爆資料が原爆投下の正当化ないし原爆の威力誇示のために利用される結果となることが心配されたからであった。
スミソニアンの企画展示をめぐる論議の中で強調されたことは、原爆投下をめぐる日米の歴史認識の溝の大きさであった。
しかし、このことが明らかになったのは、今回が始めてではない。1991年の真珠湾攻撃50周年に関連した動きは記憶に新しい。当時、日米のマスコミの多くが、原爆投下に関する世論調査を行った。その一つである共同通信社の日米同時世論調査の結果では、「戦争の早期終結のため、やむを得なかったと思う」は、日本=15%、アメリカ=64%、「あの段階では必要なかったと思う」は、日本=8%、アメリカ=10%、「いかなる状況においても、原爆の投下は許されないと思う」は、日本=76%、アメリカ=22%という結果であった(『中国新聞』1991年11月25日)。
ブッシュ米大統領が同年の12月1日に「原爆投下への謝罪の必要はない、真珠湾も過去のこと」と発言したことに対し、日本側から強い反発が起こった。 1995年にも、これと同じようなことが起こった。本島長崎市長の東京・外国人記者クラブでの講演の中での「原爆の使用はユダヤ人大虐殺(ホロコースト)と並ぶ、人類が犯した20世紀最大の罪」との発言(1995年3月15日)やクリントン米大統領の原爆投下は正当だったとの発言(4月7日、18日)が、日米両国のマスコミで大きく報じられ、大きな波紋を呼び起こした。
1994年から95年にかけてのこれら一連の動きは、一見1991年の繰り返しのように見える。しかし、今回には、1991年には見ることのできなかった新しい動きを確認することができる。アメリカ側では、歴史研究者の多くが、この問題についてつぎつぎと見解を表明した。このことは、原爆投下をめぐる歴史認識の溝が、日米間の問題にとどまらず、アメリカ国内の問題でもあることを明らかにするものであった。
一方の日本側では、原爆投下問題のみでなく被爆資料に対する関心の高まりも見られた。アメリカの退役軍人の中から弁当箱や衣服など被爆者の遺品の展示に対する強い拒否反応が示されたが、このことは、遺品が観覧者に与えるインパクトの大きさを改めて認識させるものであった。
広島市は、スミソニアン協会への資料貸出をめぐり展示シナリオの詳細な検討をおこなった。私は、これに参加しスミソニアン側から送られてきた展示シナリオに目を通す機会に恵まれたが、それは、いわば展示予定の一つ一つの資料について、日米の見解の相違を確認する作業であった。
結果的には、スミソニアン協会航空宇宙博物館における被爆資料展示は中止となった。しかし、アメリカ国内の歴史認識の溝が初めて広範に論議され、日米間の溝が事実に即して検討されたことは、原爆投下を歴史の文脈に位置づけるための貴重な第一歩となった。これを契機に、アメリカでは、原爆投下をテーマとしたシンポジウムが、また日本側では、アメリカ国内での独自の原爆資料展が開催されている。

 

母の自分史

私の想い出 やす

左:「自分史」を書くように勧めた際に渡した暁のメモ

右:上記のメモととも手書き原稿が入れられていた袋の表書き

無題
<自分史の冒頭>
大正10年1月19日生、安芸郡矢野町字**、**吾一郎の五女として生まれる。
父 吾一郎
母 キクヨ
長男 次郎   矢野町在住
長女 キヨノ  **筆雄と結婚 50歳にて死亡
次女 千代   **太郎と結婚
三女 ユキ   宇吹静男と結婚 21歳にて死亡
四女 シズ   幼児中死亡とのこと 記憶なし
五女 ヤス   三女ユキ死亡後の後妻として意志なきままを結婚させられ今日に至る
六女 キミ   **節郎と結婚 43歳にて死亡
次男 一士   焼山**家に養子縁組現在に至るいつわり多き 一生と思う 夏草の

茂る季 生れしと 亡母言いませり

私が五年生、妹きみちゃんが二年生の時、合同で学芸会をした写真が一枚残っている。「乞食と王子」。妹が「乞食」で私は陸軍大臣か何か大臣になって演じた。父は乞食の配役に文句を言っていた。妹は上手に演じた。ハワイ帰りの**さんが英語で歌をうたった。美しいベールをかぶりながら。今の学校の様に主役でもめる事はなく先生が適役を決められるので芸達者が主役で面白かった。
albm7s007

つづく

都築正男

都築正男(つづき・ まさお)略歴

1892(明治25)年10月20日 兵庫県姫路市に生まれる。
1913(大正2)年7月1日 第一高等学校卒業
1917(大正6)年12月6日 東京帝国大学医科大学医学科卒業
1917(大正6)年12月19日 海軍中軍医
1923(大正12)年4月1日 海軍軍医学校選科学生。東京帝国大学大学院入学
1925(大正14)年2月16日 東京帝国大学助教授、高等官5等に叙せらる。歯科口腔外科研究のため満2年間ドイツ・アメリカ合衆国に留学。
1929(昭和4)年2月6日 東京帝国大学教授(歯科学講座担当)
1934(昭和9)年3月31日 歯科学講座を免ぜられ、第2外科学講座を担任。
1936(昭和11)年9月10日 アメリカ合衆国へ出張。
1939(昭和14)年11月15日 海軍軍医少将に任ぜらる。12月21日、海軍予備役編入。
1940(昭和15)年6月14日 ドイツへ出張。

 

1946(昭和21)年8月3日 文部教官を免ぜらる(海軍将官のため公職・教職追放)。
1947(昭和22)年7月16日 都築正男を原子爆弾傷害調査委員会より解任。
1952(昭和27)年10月10日 東京大学名誉教授
1954(昭和29)年9月30日 日本赤十字社中央病院長。同社輸血研究所長。
1958(昭和33)年9月17日 姫路市初の名誉市民の称号を贈られる。
1958(昭和33)年月日 西独赤十字功労章。
1959(昭和34)年7月2日 日本放射線影響学会初代会長。
1960(昭和35)年6月日 発病。
1961(昭和36)年4月5日 死去。

出典:『都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭』(広島市史編纂室編、都築正和発行、19810405)

著書

書名コード 書名 編著者 発行所
54023301 医学の立場から見た原子爆弾の災害 都築正男 医学書院
81033104 広島新史・資料編Ⅰ-都築資料 広島市(編) 広島市
81040501 都築正男研究業績目録 1925-1960-都築正男大人命20年祭 広島市史編纂室 都築正和

 

論文

Y M D ZASSIMEI TITLE メモ
45 10 01 日本医事新報 原子爆弾による広島市の損害に就いて 5P以下欠
45 10 01 総合医学 所謂「原子爆弾傷」に就いて-特に医学の立場からの対策 ゲタバキ部分あり。「昭和20年9月8日米国原子爆弾損害調査団を案内して広島市へ向ふ時記す」
54 01 25 日本週報 赤十字精神で原爆を禁止せよ
54 06 広島医学 外科臨床の立場から考察した原子爆弾傷、特にその後遺症状に就て
54 08 思想 歐米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 08 改造 キューリー夫妻を訪ねて
54 08 外科 (座談会)放射能症の権威に聞く-ビキニの灰をめぐって 都築正男・中泉正徳・筧弘毅・清水健太郎・石川浩一・柳壮一
54 08 05 思想 欧米に於ける原子力と放射能障害との問題
54 10 15 日本医師会雑誌 慢性原子爆弾症の診断と治療について
54 11 中央公論 水爆傷害死問題の真相
54 11 01 日本医師会雑誌 放射能障害について
54 11 15 日本医師会雑誌 原爆熱傷後の瘢痕異状に対する皮膚移植成形術について
54 12 保健医学雑誌 放射能障害の予後について
55 01 自警 医学的に見た原水爆の災害 「原水爆禁止運動資料集第4巻」の情報。
55 02 東京医学雑誌 広島長崎の被爆とビキニの被灰
55 04 平和 原子力医学のために
55 08 01 婦人朝日 特集・原子力とはどういうものか-女性として知りたい疑問のかずかず 崎川範行・武谷三男・都築正男(解答者)
55 11 学術月報 生物学並びに医学領域の話題と感想
56 04 01 世界 原水爆と放射能禍
56 08 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会に出席して
57 01 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第2回会議に出席して
57 04 総合医学 核爆発に伴う人工放射性物質の影響-国際連合科学委員会を中心として
57 05 01 世界 核爆発と放射能
57 06 学術月報 原子放射線影響調査に関する国連科学委員会第3回会議に出席して
58 02 学術月報 わが国における放射能影響調査の研究体制について-問題点提起ならびに討 都築正男[座長]
58 02 学術月報 国連科学委員会について
58 05 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第四回会議に出席して
58 08 10 週刊朝日 (徳川夢声連載対談)問答有用 都築正男・徳川夢声
58 09 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第5回会議に出席して
58 10 国連評論37-10 国連科学委員会に関する報告
58 12 日本臨床外科医会雑誌 原子爆弾傷害の本態とその後遺症
59 03 学術月報 「原子力時代の人類への放射線影響に関するシンポジウム」について
59 07 学術月報 原子放射線影響調査に関する国際連合科学委員会第6回会議に出席して
59 07 学術月報 ICRP新勧告の意義
59 11 01 原子爆弾後障害研究会講演集[第1回] 原子爆弾による障害の研究経過について(総括講演)

 

日本ジャーナリスト会議広島支部

沿革

月日
1967 0218 広島支部結成
0304 機関紙「広島ジャーナリスト」NO.1発行
1969 0628 時事通信・田島さんの人権を守る呉市民の会結成
1130 広島県文化団体連絡会議結成。支部が加盟
1970 第1回 不戦の夕べ
1982~ 1988年 活動休眠 「不戦のつどい」中断
1989 0815 第13回 不戦のつどい
1990 0618 JCJ広島支部再建総会
1995 1103~04 JCJ創立40周年・被爆50年全国交流集会
2021 0718
ジャーナリスト会議広島支部総会&記念講演会
講師:宮崎園子さん
会場:広島市まちづくり市民交流プラザ

 

原爆資料および情報ネットワーク委員会経緯(宇吹メモ)

原爆資料および情報ネットワーク委員会経緯(宇吹メモ)

1991年

06 17 *(中国)より電話。慰霊施設について調べるため長崎に行く。7月に広島でこじんまりと話し合える場を持ちたい。考えておいて欲しい。
08 02 *広島市原対課長より電話。慰霊施設との関連で市内の諸機関所蔵の原爆資料が把握したい。援護課長を行かせる。
09 25 *(中国新聞デ-タベース部)来所。瀬戸内図書館連絡協議会委員の就任依頼。今年度中に3回ほど会議を開催の予定。パソコンネットワークについて3時過ぎまで話す。中国新聞のデ-タベースのモニターになることを勧められる。
10 04 厚生省の原爆慰霊施設検討にかかわる関係者、9人来所。手帳・病理標本・電算室・資料調査室を案内。電算室については、*が説明。放影研との違いを強調。
12 06 スウェインに慰霊施設や国際放射線被曝者医療推進協議会の動きを知らせる。岩波の原爆被災白書が今入手できないことを話すと驚いていた。
12 17 *より電話。慰霊施設検討委員会が動向の問い合わせ。放影研が原爆資料の一元化をめざしていることへの危ぐ。

1992年

01 13 *の情報=午後、放影研でHICAREと慰霊施設の合同会議。夕方、厚生省の医療保健局長が来所、*が応対予定。
01 16 *来室。藤居のこと(中国夕刊)、慰霊施設の委員会(17日長崎で会議)のことを話す。宇吹の感想=どういう態度をとればよいのか、頭が痛い。
01 24 *より電話。爆心地復元地図、NHKのものを使用してよいか。慰霊施設の動向にについて一度詳しく意見交換したい。
03 02 *来室。放影研の「原爆資料および情報ネットワーク委員会報告書(案)」を持参。1時間ほど話す。*=情報が一か所で見ることができるようになることは望ましい。宇吹=上下関係のあるネットワークシステムはうまくゆかない、対等のものにすべき。
03 03 *(不在)へ放射線影響研究所の「平成3年度原爆資料および情報ネットワーク委員会報告書」(案)への意見を渡す。新施設が「既設の機関の総合的機能を果たす」という意志表示は、貴重であるが、表に出すべきものではない。結果としてそうなるよう努力すべき。
04 21 原爆被災建物等継承方策検討委員会。-5時10分。*と隣合わせ。会議の進行のメチャクチャに対する文句を私にヒソヒソ言う。厚生省の慰霊施設の委員は股裂きになるので降りたとのこと。広島市としては、国がやろうとしていることに文句は付けられない。
05 24 *・*と酔心で昼食。*に慰霊施設が出来た場合、移れれば行く気持ちがあるかどうか聞く。
06 02 *(中国)より電話。「90反核」日本評論社より出版。1500冊(1冊2500円)を引き取ることが条件。慰霊施設の動向について聞かれる。彼の話では厚生省と広島市が全く意志疎通がうまくいってない模様。広島市衛生局長の評価が低い。
06 18 厚生省企画課長補佐来所。-3時。*応対。宇吹関わらず。慰霊施設関係で資料集めが目的とのこと。
06 24 *と話す。*より放影研の「ネットワーク小委員会」で民博などへ行くよう(7月10日?)に言われた由。
07 01 *に電話。慰霊施設に対する市のその後の動きを聞くが、何もない由。
07 02 *より電話。午後2時に来所。国際平和シンポジウムへのレクチュア依頼。慰霊施設関係の情報サービス小委員会の委員になったとのこと。また、原爆資料館に学芸員がいないことはおかしい。外部で指摘して欲しいとのこと。今後の講師候補に*の名前を挙げておく。
07 09 *(中国)来所。広島のあら捜しの取材。慰霊事業委員会で上坂冬子が全原爆死没者デ-タベースの作成を提案し、厚生省はそれを受けたとのこと。慰霊施設は、放影研とは別の建物を考えている模様。HICAREは一緒。秦野の作成した新聞記事デ-タベースの話をする。
07 14 *(中国)より電話。「ヒロシマはどう伝えられているか」の書評を宇都宮の軍縮問題資料に書いて欲しい。断わる。慰霊施設についての情報を交換。16日、炭谷企画課長が広島市に乗り込む由。
07 27 広島関係資料小委員会・長崎関係資料小委員会・情報サービス検討小委員会合同会議。-16時半。於広島厚生年金会館4階牡丹の間。座長小松隆二。個人的立場から、一元的ネットワークに反対の意見を述べる。情報サービスの中心はレファレンスであり電算化でカバーしきれない
07 31 慰霊施設「被爆者対策小委員会」。於放影研。-4時半。4時に中座。約2時間、「原爆被爆者対策史編集方針案」を説明。編集長・小委員会委員を引き受ける。
08 19 *(庶務)にネットワーク委員会のデ-タベースに関するアンケート調査を渡す。
08 28 宇吹が核被害情報が重要と発言したら、*(放影研)が、それは慰霊施設でやっているから、平和問題を中心にすべきと発言。平和文化センタ-は、平和記念資料館の資料のデ-タベース化は考えている。しかし、市公文書館の資料は、同館が独自に計画。
09 09 *に話す=コンピュ-タ-ネットワークは、技術者をいくら集めても答えは決まっている。問題は、何を入力するかだ。平和文化センタ-は、田原資料を中心にすればよい。
10 27 原爆資料および情報ネットワーク委員会・拡大委員会。於メルパルク5階。-5時半。5時過ぎより参加。11月8-14日、22-28日(*・*・*)アメリカ諸機関視察。炭谷厚生省企画課長は、被爆体験継承に熱意のあることは、伝わってきた。
10 27 ネットワーク委員会懇親会。長崎*の話=友の会は、長崎の諸悪の根元。*長崎市原対部長=平和記念式典の資料は、古くから残っている。伊藤達也長崎国際文化会館館長=資料の公開に尽力したい。原爆被爆地域の部落問題。
10 28 *日本医療情報センタ-常務理事(ネットワーク委員会)、*日本総合技術研究所取締役部長、*同主任研究員来所。新聞記事デ-タベースの紹介をするとともに、ネットワーク委員会をめぐる広島動向を話す。主に放影研批判。
12 03 *が広島の状況が知りたいというのでネットワーク委員会の話を中心に話す。-2時半。資料センタ-の仕事との関連を心配する。「諸君!」の中国新聞の内紛に興味を持っていた。被爆者数に関連して広島市の被爆者動態調査が取り上げられていたのを喜ぶ。
12 09 原爆資料および情報ネットワーク委員会デ-タバンク小委員会。於放射線影響研究所C211会議室。-4時30分。山中高女の死没者調査の様子を報告し、あいまいな情報から捜せるという機能が必要性を強調。データバンクに何が期待されているか。この2点について発言。

1993年

01 06 *より電話。*よりFAXが届いた。年賀状に予算がついたことの礼が書いてあったので、問い合わせたところ、中性子発生装置の3年度で、新たに予算がついた訳ではなかった。慰霊施設の中間報告が届いた。伊東壮は山梨大学の学長。
01 08 *=*資料について。公的資料を私物化している可能性。放影研が中心になって進めているネットワーク委員会の動向についての意見。宇吹=被爆者対策小委員会の委員として報告。
01 13 慰霊施設の中間報告が吉沢康雄名で委託事務局より届く。*がコピー。
01 30 立命館大学国際平和ミュージアム。一通り見終ったところで山辺昌彦と会う。館長室で話をする。途中、*課長が加わる。厚生省援護局・広島県・市平和記念資料館が見学に来たとのこと。援護局も慰霊施設の建設を計画していることを初めて知る。県は、被服廠の保存策について日本開発銀行に調査を依頼。
02 05 第4回デ-タバンク検討小委員会。於日本薬学会長井記念ホール1階会議室B。*の話=この事業は4年計画。平成6年度で一句切り。ソフトを形にして貰わないと、金を何に使ったのかということになる。事務局設置問題は、次の段階で考えるべきこと。慰霊施設は被爆50周年には間に合わない。早くて4年後。
02 05 宇吹=広島市の動態調査を貰うことを前提にしているがそれが大問題。原医研ABSも作成者としては出したくないだろう。靖国・川崎・立命館・大阪の資料館を見てきた。いずれも長い期間の資料収集の成果。今日のソフトだけが慰霊施設開館時の成果とすればオソマツ。
02 09 広島市平和に関するデ-タベース構築検討委員会(第3回)。於国際会議場3階研修室。宇吹の発言=1.それぞれ自機関が所有する資料の電子化の原則。2.死没者名簿を是非入力してほしい。3.ネットワーク使用を無料というのは非現実的。
02 11 藤居より自宅に電話。エソが出来たが、自宅で治療。中間報告(慰霊施設)を*と*に送った。*への連絡を頼む=*が今後どうのようにしたいのか。歴史をどうまとめてゆくか、日本被団協あるいは広島県被団協にもどるかどうか。今考えている。
02 28 藤居より自宅に電話。被団協の慰霊施設についてのシンポジウムが赤旗に掲載されていたかどうか。
03 03 藤居銘木より速達が届く。被団協の慰霊施設シンポジウムに関する資料。2時半、藤居より電話。自分は読んでいないが、よく読んでおくようにとのこと。
03 04 *=被爆者対策資料の補助者の謝金、12日の厚生記者会来所の件。被団協の慰霊施設シンポジウムへの意見書を貸す。
03 04 *の話=慰霊施設の中間報告は5~6月にずれそう。長崎は個別弔慰を要求するので断わったが、広島では、平和文化センタ-へという意見が出ている。慰霊施設と吉沢班の関係が良くわからない。川本原爆資料館館長は3月末で退官。
03 05 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於長崎厚生年金会館2階雲仙・松の間。宇吹説明。被爆者対策の定義が問題になる。*=1.行政施策、2.その裏付けになった実態調査、3.その行政はどう評価されたか。*=法律や通知に基づかない施策も多い。
03 05 *の話=加藤は3月で定年。慰霊施設を広島と長崎のどちらが先に造るか今綱引きをしている。
03 08 *に、「被団協」新聞の慰霊施設シンポの記事をファックスで藤居銘木に送るよう依頼。
03 23 第3回原爆資料および情報ネットワーク委員会・拡大委員会。於広島ガーデンパレス2階白鳥の間。-5時。*の原爆資料の量の調査が必要との発言を受けて、原医研原爆文献デ-タベースの件数が約5000件で4.5メガバイトであることを紹介。
03 23 原爆資料および情報ネットワーク委員会懇談会。*=スミソニアンには困っている。*=長崎市医師会は原爆問題(IPPNWも含めて)に積極的だが、県医師会はそっぽを向いている。
03 25 原爆後障害研究会抄録原稿完成。*に原対協へ持参して貰うよう依頼。ついでに、23日のネットワーク委員会の模様を報告。
04 05 藤居より資料がファックスで届く。日本被団協の慰霊施設についての見解。
04 12 学内科研報告書を*に2部(含ネットワーク委員会事務局用)渡す。
04 14 *より電話。原医研デ-タベースがネットワーク化されているかどうかの問い合わせ。これからの課題と回答。
04 21 内科より電話。28日のネットワーク委員会デ-タベース小委員会に蔵本の代理で出席して欲しい。
06 03 *事務長来室。資料の返却。ネットワーク委員会、広島市のデータベース構築検討委員会、慰霊施設の中間報告を新たに貸す。学内科研報告書を1部贈呈。
06 29 ネットワーク委員会データバンク検討小委員会システム設計準備ワーキンググループ(第1回)。於広島・放影研C-211。-5時。*に資料目録のフローッピーを渡す。*の話=*が慰霊施設の委員になった。運営は、平和文化センターになりそう。
08 17 *より電話。27日に国会図書館に行けなくなった。被爆者対策小委員会(9月22OR24日)・ネットワーク委員会(10月8日)の連絡。
08 24 ネットワーク委員会国会図書館調査。16時15分、館内呼び出し。総務課へ行き*(機械化室長)に会う。中国新聞の*より電話があった由。*の部屋から*に電話。コンピュ-タ-関係の講演を依頼される(9月16日、11月18日、1月20日、3月17日)
08 25 国会図書館。10時過ぎ、*と*が来る。*から協力を依頼されていた様子。4時半、3人で館内の喫茶店で話す。*がネットワーク委員会のアメリカ調査を誉める。イギリス調査の話が出る。第102回国会まで終了。
09 02 藤居より電話。吾妻鏡総索引の話。村上との生活保護論争の時、著者の及川儀衛門も同席した。及川は認定被爆者。総索引が20数冊あった。宇吹が1冊持っておいて欲しい。石井勲が紙碑と言っていた。慰霊施設が出来たら、森田省三の骨とともに納めたい。
09 10 *(平和文化センター)から、「平和の推進」最新版(校正中)の新しいデータを貰う。*の話=原医研の改組は、厚生省の慰霊施設を取り込むためのものか?
09 22 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於放射線影響研究所(広島)講堂。-4時半。*広島市衛生局長、気分が悪いとのことですぐに中座。宇吹=国会議事録索引の説明。吉沢=今年度中に報告書をまとめ、最終年度の来年は、一般から意見が聴取できるようにしたい。
10 07 広島国際会議場着。*の話=埼玉県平和館・川崎市平和館を見学してきた。来年の平和記念館開館時に、平和館の会合を開く予定。大久島は加えたくない様子。立命館はすでに大阪と連携。宇吹=原爆・戦災を基準にネットワーク化を進めてはどうか。
10 08 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)平成5年度第1回会議。於広島ガーデンパレス2階孔雀の間。-5時半。*=慰霊施設関係の会議は7月・9月に会合。あと2-3回会議を持って結論。場所が決まらないので予算要求が難しい。
10 08 ネットワーク委員会懇親会。*に国会会議録の詰めの作業への協力を依頼。*に長崎側の被団協資料の調査を依頼。12日に具体的な要望をファックスで入れること。*の話=どこかの施設に合設して終わりということを恐れる。
10 08 *の話=1月に*副委員長が団長で海外調査予定。あと2-3人が随行。*の話=慰霊施設が修学旅行を対象に考えるのはナンセンス。*は昨晩帰国。気分が悪いということでIPPNWの記者会見だけすませて、この会議は欠席。
12 09 *より電話。3月28日にネットワーク委員会を開催。
12 28 国会議事一覧のネットワーク委員会提出用原稿を資料センターのプリンターで打ち出す。

1994年

01 14 *(中国)より電話。今朝の共同配信の記事について。厚生省をプッシュする必要は無いか。あまり意味は無い、ネットワーク委員会の海外調査でやっている、と回答。
02 07 原爆資料および情報ネットワーク委員会被爆者対策資料小委員会。於放射線影響研究所講堂。-5時。5時半、ステーション・ホテルの料理屋で懇親会。*が元気が無いように見える。*と*の間もうまくいっていない様子。
03 01 *の話=慰霊施設がレストハウスでは、狭すぎはしないか。広島市の被爆50周年の行事の新聞報道を見て、お粗末さに驚いた。湯崎の子どもは、通産省に入り、3年間アメリカに行っていた。
03 28 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於広島ガーデンパレス。厚生省関係者は姿を見せず、盛り上がりに欠けた。休憩中、*に国会会議録の心残りメモを渡す。-5時半。6時-8時、懇親会。*(中国)が取材に来ていた。
05 12 HICAREパネル展担当スタッフ(日当:7900円)とネットワーク委員会被爆者対策小委員(日当:22000円)の就任依頼が届く。
06 16 HNP死亡.DBF作製。ネットワーク委員会の情報サービス小委員会の基礎資料として。
06 27 ネットワーク委員会「情報サービス検討小委員会」のメンバーが原田館長の案内で広島平和記念資料館(東館)見学。現在のところゆったりとしていて、良い。-14時30分。小委員会。-16時30分。於東館地下会議室。
06 28 放影研のネットワーク委員会事務局で宮川から話を聞く。宮川は昭和30年にABCCに就職、統計関係の仕事をしていた由。調査対象を図示したスライドのコピーを依頼。1950年調査の名簿が提供されたことを示す資料を宮川に渡す。
06 29 *来室。改組の案内発送先一覧を持参。その他の候補を聞かれる。長崎国際文化会館、慰霊施設懇談会関係者、広島大学の記者クラブを挙げる。藤居が日赤に入院したことを伝える。
07 04 *・*(大阪朝日・社会部)来所。-12時30分。特に原爆資料ネットワークについて取材。今日からしばらく広島で取材する予定とのこと。学内科研報告書2部、論文別冊「商用データベースと原爆・被爆情報」を進呈。
07 11 *(放影研)より電話。厚生省に昭和60年度調査の調査票をネットワーク委員会に提供するよう申し入れている。実現すれば整理について協力を依頼したい。
09 06 *(中国)より電話。ネットワーク委員会の各年度の報告書を見せて欲しい。中国新聞社から委員が出ているので、先にそれに当たるよう回答。
09 06 ネットワーク委員会情報サービス小委員会用の「原医研案内」(要覧0.JSW)を作成。
09 12 放影研へ。-11時20分。ネットワーク委員会原稿「広島大学原爆放射能医学研究所」を提出。センターの資料利用規定を欲しいとのこと。DC.DBFの1945-47年分を打ち出したものを渡す。
09 12 *の話=厚生省は、援護法問題で資料に関心は回らない。慰霊施設は早くて平成10年開館という状況。ネットワーク委員会を現状のままで、継続するのではもったいない。どういう方向が望ましいか、長崎の会議までにメモが欲しい。
09 28 ひかり172号広島駅発(*・*・*と)-新大阪11時47分着。旅費9570円。*の話=広島市の原対部調査課では*が慰霊施設担当、自分が援護史の担当とのこと。
09 29 10時、朝日新聞着。午後、*と少し話す。3時過ぎ、斉藤は広島へ。*の話=原爆関係の広島市の施策は来年の市長選挙待ち。慰霊施設は、平和文化センターが委託予定。
10 14 ネットワーク委員会被爆者対策小委員会。於ハーバーイン長崎。-4時20分。宇吹=佐久間澄・森滝市郎・長田新の資料について話し、資料の収集・保存について注意を促す。「被爆者対策資料」の定義について*の見解を質す。
10 31 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於ガーデンパレス2階孔雀の間。-5時50分。懇親会は欠席し、すぐ帰宅。
10 31 *=教育は広島市が行う。慰霊施設は研究に集中すべきではないか。(私へのつぶやき=広島市は、慰霊施設の合築を断った。慰霊施設の将来は暗いのではないか。)
10 31 *(長崎市)の話(休憩中)=厚生省が慰霊施設の運営を広島・長崎に委託を考えている。腰を引かれると、大きな事業が出来なくなるので困る。伊東壮は、慰霊施設は東京に作るべきとの意見であった。
12 14 *=慰霊施設は、初めは原対協への委託が有力であったが、現在は平和文化センター。*は、委託して欲しいのは山々だが、センターの人的能力に不安を感じており、積極的になれないのではないか。*から英文図書の収集を依頼された。月末に委員会がある。
12 21 宇吹=佐久間・森滝・吉川など被爆者の資料の散逸を恐れている。慰霊施設が、そういう資料の保存機能を持つのならそれで良いが、いまのところ読めない。現在の広島市にこういう機能がない。
12 21 *=慰霊施設を平和文化センターに押しつけようとしているが、私は絶対反対。(宇吹=それでは原対協か)。国自身にやらせなくてはダメだ。

 

1995年

01 12 *(*出版部)来所。宇吹=完成原稿は、2月末締切の原稿を書き上げるまで待って欲しい。「平和教育」と「原爆被害白書」について書き足したい。原爆遺跡保存や慰霊施設をめぐる動きを見ていると、発想が萎縮している。歴史的には「原爆白書」提起は大きな枠組みを持っていた。
02 24 *広島市原対部調査課長=慰霊施設は平和公園内に設置の方向。5-6月に市としての意志決定の予定。公園の建物の規制面積が広がったので、レストハウスを壊さなくても考えられるが、今後どうなるか。地上は制限があり地下2階となるので平成8年度には着工する。
03 08 松林より電話。*の後任の件の連絡。松林の話=慰霊施設は迷惑施設。担当にならないよう願っている。白書の問題は全く進んでいない。
03 27 原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於東京・松本楼。2月24日に欠席の連絡。
04 04 高橋昭博退職挨拶、木村泰三広島平和文化センター事業部長就任挨拶のため来所。高橋は、語り部活動はこれまでどおり続けるつもり、重松から厚生省ネットワーク委員会の小委員は継続してやって欲しいと頼まれたとのこと。
04 21 *(放影研)より電話。慰霊施設の開館時に稼働予定の主要事項解説作成のワーキンググループ(高橋昭博・*・*などを予定)に加わって欲しい。方針が違うという理由で断る。
06 06 *より電話。ネットワーク委員会でセンターの蔵書データベースを試験的にインターネットに乗せたいとの意見があるので、その節にはデータの提供をお願いしたいとのこと。原医研にサーバーを設置しようとの話もあるとのこと。了承。
06 25 NHKスペシャル『沖縄・23万人の碑・戦後50年目の祈り』を見る。「平和の礎(いしじ)」の名簿作成過程に復元調査と同様の方法論を見る。これへの反応を原爆犠牲者慰霊施設の犠牲者名簿作製の参考とする必要がある。
07 05 *よりセンター所蔵文献データベースについての問い合わせ。ネットワーク委員会での作業が進んでいる様子。
07 25 平和会館で図書を購入。*(元*新聞)と会う。ネットワーク委員会の下請けで、解説事項の原稿を書いていた。*から「森滝市郎追悼集」を貰う。
07 25 *の話=高橋昭博は、人の批判を随分したが、本の中では省いた。彼は、事実なのにと言って、不満そうだった。ネットワーク委員会の原稿では、新聞記事は、参考資料に止めざるをえなかった。基本資料に当たる必要性を痛感している。
09 08 *=15日の京大の慰霊祭に出る予定。ネットワーク委員会は、当初の計画は吹き飛び、インターネットのホームページをつくることに集中している。12日に原爆文献データベースのファイルが欲しい。
10 24 広島市公文書館で松林らと話す。中国新聞社と原爆・平和報道50年展の写真についてゴタゴタがあった、午後*が慰霊施設について取材に来た由。*が宮川の日記と体験記集のコピーを撮ってくれる。
11 15 *より電話。共同配信で掲載された陸軍の調査団の報告と笹本のコメントについて。慰霊施設について、「市の決算委員会で取り上げたい」との反響が昨日あった。20日からパリに行く。
11 17 *より電話。慰霊施設について=レストハウス取り壊し計画、建物以外の予算的な裏付けは無い。市長は建物が建つのならそれで良いとの考え。関係者が市長宛に意見を出す必要あり。誰に声をかければ良いか。シラード関係の資料を集めたい。内田恵美子について。
11 17 *より電話。27日の平和部会の案内。*の慰霊施設についての意見を伝える。
11 21 *の話=慰霊施設を平和公園に設置する必然性はない。しかし、それを主張する委員はいない。レストハウス撤去の流れに乗っている。近藤幸四郎は、市政記者の内々の場では、取り壊しに反対はしない、と語っている。
12 04 *の話=松谷訴訟で、厚生省は、まじめに取り組んでいるようには見えず、勝つつもりがない様子。伊東壮は、慰霊施設の委員として何のために出ているのがわからない。役に立っていない。
12 06 *から電話。*が慰霊施設の連載記事で書いていた原水爆白書運動についての問い合わせ。中国新聞のデータベースについての報告書の拙稿を読むように返答。
12 08 *=被団協(伊藤サカエ)は理事会でレストハウスの取り壊しを決議した。*が完全に丸め込まれている。*(文団連、文学資料保存の会)から、慰霊施設について相談、近々会う予定。シンポジウムを開けないか。
12 08 宇吹=慰霊施設への意見は、現状では、追悼の場不要論と修学旅行生受け入れ施設論。広島国際会議場は、貸座敷になっている。これを修学旅行生向けにすれば良い。
12 08 *=慰霊施設問題は、原爆資料館の平和推進の*が担当することに決まった。来年度、広島平和文化センターに担当者を配置するということで話が進んでいる。
12 16 *とセレナーデで話す。広島市の官僚の質の悪さについて=14日の慰霊施設についての意見聴取で、金子がレストハウス取り壊しについて質問、それに対し、原爆資料館長が取り壊しの方針を説明。厚生省は困惑し、議事録から削除。
12 16 *の話=中国新聞社は、完全に報道の方向を見失った。在韓被爆者のビデオ収録に朝日の記者は随行したが、中国はダメ。慰霊施設についての情報を流しても、ありきたりの記事にしか書いていない。
12 20 *の話=レストハウス取り壊しには反対。慰霊施設は不要。これ以上、平和公園に建物は不要。伊藤サカエ・近藤幸四郎はレストハウス不要論。川本一郎は、こまめに資料を残している。竹内武、阿部静子、池田精子、村戸由子。*は、*と元の主人を天秤にかけていた
12 27 *来所。ネットワーク委員会の情報提供小委員会での論議についての批判。*が、頑張っている。*が責任者。石踊と一緒に比治山へ。シンポジウム「21世紀の平和記念公園を考えよう」(案)を持参。-2時半。95年出版物一覧を提供。

1996年

02 06 *・*と話す。二人とも熱心にあれこれ質問。ネットワーク委員会での資料収集について意見を聞かれたが、意見は避ける。平和祈念館で原爆手記を収集したい様子。改めて相談したいとのこと。
02 11 ネットワーク委員会用のレジメ作成。「被爆者対策資料の収集方法について」、「原爆手記掲載文献一覧(1995年発行分)」、「原爆被爆者団体の出版状況」。12日朝、*(放影研)に届ける。
02 14 *より電話。昨日の会議は独演場だったそうだな、と皮肉られる。原爆資料の収集について相談したい由。厚生省とネットワーク委員会の模様を伝える。市長に話を取り次ぐから何かあったら相談するように言われる。
03 25 平成7年度第1回原爆資料および情報ネットワーク委員会(拡大委員会)。於放影研講堂。-5時。間違って終了後の懇親会場である広島ガーデンパレスに行き、25分ほど遅刻。-5時。懇親会は欠席。
04 15 *来室。ネットワーク委員会の「原爆死没者追悼平和祈念館」原爆資料情報案内データベース構築作業グループに加わって欲しいとのこと。断る。
04 19 今朝届いたネットワーク委員会被爆者対策小委員会の議事録(案)の訂正を*(放影研)に連絡。被爆者団体の資料収集の必要性については、良く発言出来ていた。
05 02 *の話=開館時に目玉になるものが無い。*は、体験記を集めると言っている。「祈念館=ごみ箱論」は参考にさせて貰う。平和文化センターは、無くなっても良い。*は、市立大学に換わってもらえば良い。ネットワーク委員会の年間予算は3000万円。
06 27 *(大阪朝日)より自宅に電話。最近平和問題担当になった由。慰霊施設について意見を聞かれる。
07 08 *とネットワーク委員会へのセンターの資料提供・刊本の整理方法について話す。
11 11 *、来室。ネットワーク委員会用に原爆文献データベースの説明が欲しいとのこと。すぐ書いて渡す。
12 04 *(中国新聞)より電話。「生きているヒロシマ」について問い合わせ。ネットワーク委員会について。
12 12 午前中、長崎の会議のためにネットワーク委員会などの資料に目を通す。午後は、インターネットで、原爆関係のホームページを検索。
12 13 原爆資料および情報ネットワーク委員会全体委員会会議。於セントヒル長崎(筑後町4-10、TEL0958-22-2251)。-5時半。冒頭、*が、祈念館の地中化に異議。*が、広島市としては、景観を壊さないとの配慮から、と回答。

1997年

03 17 原爆資料および情報ネットワーク委員会全体会議(最終回)。「孔雀の間」。-16時半。*厚生省課長補佐=手記の収集は広島市に委託(5000万円)。データベース構築は引き続き放影研に依頼する予定(1億3000万円)。
04 17 *の話=今のところ、厚生省との委託契約を結ぶ準備で手一杯。担当者としては、手記を基礎に形あるものにし、その上で手を広げてゆきたい。放影研のネットワーク委のような結果を招きたくない。
06 05 ネットワーク委員会と原爆死没者追悼平和祈念館関係資料の整理。
09 04 *の話=森座長は、追悼平和祈念館=本堂論。原資料の展示を考えておらず、資料の電子化だけ。資料は、原爆資料館にあれば良いとの考え。従って、名称にもミュージアムを採用せず、メモリアル・ホール。*の影響。ネットワーク委員会は、大風呂敷を広げただけ。

1998年

03 13 比治山に上る途中、*(厚生省ネットワーク委員会)と会う。*と会った由。午後2時過ぎ来所。
04 07 *、来所。放影研で*と会った帰り。ネットワーク委員会3億円の成果についての疑問、50周年の厚生省調査結果の分析遅延、広島市立大学の平和研究所などについて話す。厚生省は、昭和40年の調査票などを東京へ送り返せと言っている由。厚生省では、廃棄される虞れ。
04 10 *より電話。ネットワーク委員会の吉沢座長と電話連絡が取れた。2年で終えるつもりが、長引いてしまった、とのこと。
04 16 *より電話。原爆資料ネットワーク委員会の件で、23日に来所とのこと。
04 23 *・*、*放影研ネットワーク委員会)・*、来所。日本総合技術研究所(*)「原爆用語シソーラス作成実施報告書」を基に検討。いくらか参考になりそうな文献を紹介。
12 16 *(放影研ネットワーク委員会)、来室。-4時。シソーラスの途中経過を聞く。若干の打ち出しを貰う。*と一緒に*に地図の件で会ってきた由。厚生省は、ネットワーク委員会の成果を無視、一切話に乗ってこないが、明日、*と一緒に課長と会うとのこと。

 

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1)

 

平和記念資料館メルマガ第98号(2011/ 9/ 1

最近、研究過程で作成した過去の資料を整理中、「広島大学原医研新聞切抜きの分類別枚数(1975~81年分)」とのタイトルのデジタルデータを見つけた。そして二つのことを思い出した。

その一つは、私の提案が原因で、「原発」関係の記事の収集が1982年から取りやめとなったことである。1975~81年分の切り抜き枚数総計は、12507枚、うち「核軍事」(3221枚)と「核平和利用」(3083枚)に分類されている枚数の合計は6304枚で全体のほぼ半数を占めている。原爆放射能医学研究所では、原爆被害に関する資料を収集対象としていたので、私には、限りある予算・人員を考えれば、この二つの分類に属する記事収集を中止するのはやむを得ないと主張した。

もう一つは、広島の眼科医・杉本茂憲先生(故人)との出会いである。チェルノブイリ原発事故(1986年4月26日)から2ヶ月あまり後に先生が原医研に来所、この事故関連の新聞記事の閲覧を希望された。要望された資料は収集対象としていないことを伝えると、非常に残念がられた。そして、ヒロシマの蓄積をこの被災者に生かすことはヒロシマの医師の使命と力説されたのである。被爆者医療に情熱を注ぐと同時に、世界にも目を向ける医師の存在に直接触れる ことのできた貴重な体験であった。

       元広島大学原爆放射能医学研究所 宇吹 暁(うぶき さとる)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

1978.9.14 於YMCA

広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)

(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。

(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。

(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。

(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。

(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。

川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。

大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。

(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。

(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。

(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。

(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。

(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。

(佐々木)

(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。

(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。

(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。

(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。

(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。

(佐々木)9月15日頃までと聞いた。

(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。

(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。

川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。

(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。

(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。

(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。

(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。

(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。

(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。

(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。

(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。

(松重)藤井さんは撮影しているか。

(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。

(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。

(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。

(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。

(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。

(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。

(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。

(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。

(岸田)虫目がねで見るようなですよ。

(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。

中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。

(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。

(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。

(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。

(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。

(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。

(松重)キャビネに統一して。

(佐々木)35mmもか。

(松重)そうだ。

(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。

(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。

(岸田)11月末までにやったらどうか。

(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。

(松重)<ネガ再製について>

市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。

(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。

(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。

(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。

(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。

(深田)島本

(川原)〃

(入室)(黒石)

(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。

(松重)字句については、また考えてみる。

(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。

(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。

(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。

(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。

(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。

(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。

(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。

(松重)これは森本タイジさんの写真です。

(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。

(黒石)会費をとったらどうか。

(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。

            次回11月末までに通信でやる。

(川原)記録の会の写真は返ってくるか。

(松重)あれは言いますよ。

            15:35 終了