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藤居平一

 

ふじい へいいち 19150807生 19960417没

 

 略歴
広島市民生委員連盟理事
広島市社会福祉協議会理事
1954.09 原水爆禁止運動広島協議会常任委員
1955.05 原水爆禁止世界大会広島準備会財政副委員長
1955.09 原水爆禁止日本協議会常任理事
1955.11 原水爆禁止広島協議会事務局次長
1955.11 原水爆禁止広島協議会原爆被害者救援委員会幹事長
1956.02 広島県原爆被害者大会実行委員会事務局長
1956.05 広島県原爆被害者団体協議会代表委員・事務局長
1956.05 全国社会福祉協議会原爆被害者救援特別小委員会代表
1956.08 日本原水爆被害者団体協議会事務局長

 

原爆被害問題研究の恩師

 「先生は、原水爆禁止運動について、どう思われますか」、「忘れた」。「先生は、第1回原水爆禁止世界大会の中で重要な役割を果たされています。何か思い出されることは、ありませんか」、「忘れた」。1995年12月のある日、原爆医療法制定当時に広島市の医師会の幹部だったドクターのお宅で、数回繰り返されたQ&Aです。それまで、「原爆医療法の成立」(広島大学テレビ公開講座用の1テーマ)過程について、打ち解けてお話してくださっていたドクターの顔が、突然無表情になりました。私のシナリオでは、原水禁運動が原爆医療法成立に果たした積極的な役割(藤居さんから学んだことです)が予定されています。カメラは回り続けています。窮地に立った私は、「藤居さんをご存知ですか」と話題を変えてみました。ドクターの表情が緩みました。「良く知っている。快男児だった」。会話がつながりました。シナリオどおりにはなりませんでしたが、インタビューを無事終えることができました。

私自身が藤居さんに初めてお会いした(熊田重邦先生の紹介)のは、1980年(昭和55)4月26日のことです。しかし、その3年前の1977年に「藤居資料」に出会っています。それは、広島大学法学部の北西允研究室の2箱の段ボールの中にありました。当時、私は、日本人の核意識をテーマとする文部省の研究班(庄野直美班長)の仕事で同研究室に出入りしていました。この研究が一段落ついた7月、北西教授は、私に、この資料を生かして欲しいと託されました。聞けば、それは、石井金一郎教授が日本の原水爆禁止運動の歴史をまとめるために藤居さんから借用したもので、石井教授の死(1967年)後、同教授が預かっていたとのことでした。

私は、大学卒業後約6年間、広島県史編さん室に勤務し、今堀誠二・熊田の両先生の指導の下で、『広島県史・原爆資料編』編纂業務に従事しており、原爆問題に関する資料は、かなりのものに目を通していたつもりでいました。しかし、「藤居資料」(簿冊13冊、一点資料も含めた総点数は429点)のほとんどは、初めて目にするものでした。学生時代、数人の先輩から、歴史研究を志すものにはいつか自分の研究を方向づける資料との運命的な出会いが訪れると聞かされていました。「藤居資料」と出会った私は、とっさに「これだ!」と思いました。早速、勤務先の原爆放射能医学研究所で、整理に取りかかり、8月末には目録を作成しました。この経緯を熊田先生に伝えたところから、資料の主であった藤居さんとの出会いが実現したわけです。

それから15年の間の私の原爆被害問題研究の歩みは、藤居さんとともにありました。翌年から始まった藤居さんへの聞き取りは、1984年まで続きました。その録音テープは、120分テープで60本に及んでいます。その成果は、広島大学原爆被災学術資料センター資料調査室発行の『資料調査通信』に「まどうてくれ-藤居平一聞書」として8回(第5号1981年12月号から第29号1984年1月号)にわたり、まとめさせていただきました。

この作業の中で、藤居さんは、原爆被爆者運動草創期に活躍された多くの人々に紹介してくださいました。中でも忘れられないのは、原水爆禁止日本協議会が製作した映画「生きていてよかった」の関係者との出会いです。1982年3月には、草月流の勅使河原宏家元(この映画の助監督)が出席された同派の広島支部の会合に、原爆乙女の会の会員だった人たちと一緒に参加させていただきました。また、同年7月には、藤居さんの発案で、映画に出演された主だった方々を招いて、広島市の平和記念館で同映画の上映会を開催しました。関係者の招待に奔走されたのは竹内武さんでしたが、私も映写技師として裏方を勤めさせていただきました。

竹内さんから日本原水爆被害者団体協議会の初期資料である「平和会館資料」を借用したのは、この上映会から5日後のことでした。この資料との格闘は、1985年6月まで続きました。この間に整理した資料(1963年の原水爆禁止運動分裂までのもの)は、単行本・パンフレット・逐次刊行物合わせて901点4373冊、文書綴・ノート類は55冊3897点、一点資料1287点に及ぶものでした。

1995年10月26日夜、藤居さんから自宅に電話がありました。日赤病院からとのことで、7月下旬に広島で開催されたパグウォッシュ会議のことや、広島大学原医研に新たに導入された機器のことを話されました。しかし、突然、すごい剣幕で怒鳴られたかと思うと、電話が切れてしまいました。病室の電話の接続にトラブルが生じたものと思い、再び電話がかかるのを待っていましたが、かかっては来ませんでした。そして、これが、私が聞いた藤居さんの最後の声となりました。「藤居平一聞書」のために録音テープを取り始めたのは日赤病院の病室でした。そして、最後の声も同病院内からのもの。私には、入院生活の合間に藤居さんからお話を伺っていたような印象があります。今では、翌朝すぐにお見舞いにゆくべきだったと悔やんでいますが、その時は、死につながる病とは思ってもいませんでした。

藤居さんの原爆被害に対する関心は、この15年間に、大きく変りました。「まどうてくれ」の作業に応じてくださった気持ちを、「紙の碑を残したい」と語られていました。いわば関心は、「過去」あったわけです。ところが、その後、関心が「現在・未来」へ移りました。時期的には、1990年前後と記憶しています。この頃から藤居さんは、私にしばしば原爆被爆者対策基本問題懇談会の答申に対する批判や原爆被害を調査・研究する「医者・科学者グループ」の組織化への協力を要請されました。しかし、私には、荷が重すぎて積極的な回答ができません。その度に励ましとお叱りを受けました。藤居銘木に残された資料を1996年7月30日に頂いて帰りましたが、同社の高瀬さんが丁寧に準備されたその資料からは、お亡くなりになる直前まで、藤居さんがこれらの問題と取り組まれていた様子が伝わってきました。

藤居さんは、私に多くの宿題を残して逝かれました。「庶民の歴史を世界史にする」、これは藤居さんから私が聞いた好きな言葉の一つです。過去10年間、私は原爆手記の収集と分析を行ってきましたが、この作業を私は藤居さんへのレポートと考えています。

1996年5月のある夜、私は広島駅前の飲み屋で、二人の先生と同席していました。広島在住のA先生が、友人であるB先生(日本の平和運動のリーダーの一人)に、原水爆禁止運動に関心を持つ私を引き合わしてくださったのです。何から話してよいか迷った私は、「藤居さんをご存知ですか」と聞いてみました。即座に出た答は、「日本被団協を作った人でしょ」でした。1955年当時、B先生にとって藤居さんは雲の上の存在だったそうです。しかし、しばしば原水爆禁止運動関係の会合でお目にかかったことがあるとのことでした。初対面の会話が、これを機にはずんだことは言うまでもありません。

同じ年の7月、私は、信濃毎日新聞社に1956年当時の長野県内の被爆者組織について問い合わせの電話を入れました。「藤居資料」では、日本被団協は、広島・長崎・愛媛・長野の4県の被爆者組織で出発したことになっています。しかし、藤居さんは、長野の組織の状況をご存知なかったのです。同社からは、オリンピック関連の取材で手一杯であるが、あなたが長野に調査に来れば、そのこと自体を記事にすることができる、それによって当時の状況を知る手がかりが得られるのでは、との親切な回答をいただきました。

私は、藤居さんの「現在・未来」の課題にはお役に立つことができませんでした。しかし、私の「過去」との取り組みは、これからも藤居さんととともに続きます。

 

 

現代と広島の会

「現代と広島」の会

設立:1978年7月10日

年表

年月日 報告者 「タイトル」ほか
1 19780710 発足準備の話し合い。 参加者8名 。朝日会館屋上
2 19780828  宇吹 「 被爆直後の原爆報道」
3 19780925  田原  「不思議な広島」
4 19781030  藤原  「尾道時代の中井正一」
5 19781120  宇吹 「 原爆と市民」
6 19781218   忘年会。 参加者7名 。源蔵。
資料「「現代と広島の会」1978年の歩み」1979.1.29
7 19790129  木村
8 19790226  田原  「原爆手記の考察(Ⅰ)」
9 19790326  深川  「被爆朝鮮人徴用工について」
10 19790423 田原  「子どもの視界の中で―継承の問題―」
11 19790522  島津 「 原爆孤児の戦後―広島戦災孤児育成所を中心に」
12 19790625  今田  「鮎川信雄の『死の灰詩集』批判について」
資料「「現代と広島の会」1979年(前半)の歩み」1979.6.25
13 19790723  松林  「町内会・部落会等の廃止について」
197908 10日~11日。合宿(呉市・国民宿舎温度ロッジ。7名領収書計41933円)
14 19790810  石踊  10:30~安芸書房の現状など
15 19790810  深川宗俊  13:35~「消えた国旗批判」
16 19790810  田原  16:30~<ピカ研(調査報告綴)、原爆ババアなど>
17 19790811  藤原  09:20~「戦後の広島県内文化運動について」
18 19790811  宇吹  「『原水禁運動の原点』をめぐって」<レジメが行方不明>
19 19790917  島津 「太平洋核実験場から」
20 19791022 内田恵美子 「原爆被災資料論」<レジメのタイトル「資料センター発足後の経緯・問題点・今後の課題」、「広島大学原爆放射能医学研究所の沿革」>
21 19791112 安藤  「早速整爾論」
 土師ダム(日帰り会場)
19810512 石踊  安芸書房の現状など
19810512 田原  梶山季之、中国文化連盟など、
19810616 島津  「中国山地の製鉄業」
19810714  田原  「ピカ時評」命日の紹介。

 

 

 

 

20170517京都・三千院

京都・三千院

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わらべ地蔵 青紅葉とコケ
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重文 往生極楽院
国宝 弥陀三尊
切り株

京都・寂光院

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三千院から寂光院へ 寂光院の門
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寂光院 目眩む色と<復元色> 青紅葉   暁