『明治百年問題-「明治百年祭」は国民になにを要求するか 緊急特集版第3集』(青木書店、19680501)
内容<作業中>
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『明治百年問題-「明治百年祭」は国民になにを要求するか 緊急特集版第3集』(青木書店、19680501)
内容<作業中>
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『みんなでつくろう住みよい焼山 焼山工業団地反対運動をつうじて』(焼山工業団地反対同盟、19750511)
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資料年表:宇吹暁の8・6<2001年~><敬称略><作業中>
年 | 事項 | |||||||||||||||||||||
2001 | ||||||||||||||||||||||
07:30 | 出勤。タクシーで平和記念式典会場へ。西垣学長、村松、岡本三夫と原爆ドーム前で会う。小泉の挨拶の内容に「平和憲法」・「非核三原則」という言葉があったので、わが耳をうたがったが、その他はひっかかるところなし。問題は、この挨拶と靖国参拝が同一人物で重なること。 | |||||||||||||||||||||
09:10 | 広島女学院上幟町校地到着。 | |||||||||||||||||||||
被爆56周年平和祈念式。於・上幟町校地・慰霊碑前。キリスト教主義大学ジョイント8・6平和学習参加の学生も含め盛会。西垣学長が、挨拶の中で私の名前をあげる。女学院高校の生徒が挨拶。加害についても考える必要があるとの内容。 | ||||||||||||||||||||||
10:40 | Oが一生懸命撮影してくれる。だいぶ疲れた様子。終了後、休憩室で湯茶をよばれ、Oは帰宅。 | |||||||||||||||||||||
11:30 | キリスト教主義大学ジョイント8・6平和学習で講演。小泉首相と女学院高校生徒の挨拶を取り上げる。-12時半。西垣学長から、他校の慰霊式典の様子を聞かれる。NからTシャツを貰う。Nの話=謝礼を次回の給与に振り込む。昼食を一緒に摂り、退席。 | |||||||||||||||||||||
13:00 | 原爆被害者8・6証言のつどい20周年のつどい。於:広島YMCAコンベンションホール。M・S(広島県立保健福祉大学)・S・Nと話す。Iに続いて挨拶を求められる。-2時半に中途退席。タクシーで大学に戻る。 | |||||||||||||||||||||
13:01 | M=広島国際大学は、まもなく辞めるつもり。S=来年の非常勤は宇吹の名前で予算要求しているのでよろしく。今年は福島生協病院の?に依頼した。N=8月23日にアメリカに戻る。原爆の絵とともになつかしの広島を描いた絵も全部閲覧できた。?が親切に応対してくれた。 | |||||||||||||||||||||
15:00 | K(共同通信)より大学へ電話。被爆体験継承策についての見解を聞かれる。 | |||||||||||||||||||||
2002 | ||||||||||||||||||||||
自宅で早朝から採点。8時の平和式典中継を見て、出勤。広島駅で今朝の朝刊を購入。 | ||||||||||||||||||||||
10:00 | 校内で*と彼女の姉母子と会う。私の研究室でコーヒーを飲みながら30分ほど話す。姉は、広島大学の国際協力研究科(修士)を卒業し、現在女学院英米文学博士過程に在籍中とのこと。父親が、鉱山関係の研究者とのこと。中国の核実験などについて話す。 | |||||||||||||||||||||
15:00 | 2002年度「8・6平和学習プログラム」。於:広島女学院幟町校地内。2時30分、印パ学生との交流会の最後に加わる。3時~4時半、まとめの集会で発言。終了後、帰宅。 | |||||||||||||||||||||
2003 | ||||||||||||||||||||||
09:00 | 広島駅新幹線口で今日の新聞を購入して出勤。広島女学院被爆58周年平和祈念式には参列せず。全国各新聞社のホームページで社説をチェック。文化史学の採点。帰宅後、夜中までかかり一応終了。 | |||||||||||||||||||||
18:30 | NHK総合テレビで朗読劇「夏雲」の模様を簡単に紹介。翌日Tから聞いた話では、折鶴が焼かれた事件のため、放映時間が短くなった由。 | |||||||||||||||||||||
2004 | ||||||||||||||||||||||
07:00 | 講座「ヒロシマ」:市民球場バス停へ。7:30集合だったが関西学院一行は、7:00に集まる。長富健三(中国新聞・論説委員)もしばらく取材。天風録で取り上げる由 | |||||||||||||||||||||
07:20 | 「せこへい」の碑前で沢野(安田高校)で出会ったので、碑の説明を講座「ヒロシマ」参加者向けにしてもらう。 | |||||||||||||||||||||
07:30 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(広島市平和式典参列)。*(関西学院大学商学部4年)を含む第9グループがNHKの取材を受けるため、式典会場に一緒に座る予定であったが、会うことが出来ず。別々に会場に座る。「8・6平和セミナー」と会う。 | |||||||||||||||||||||
09:00 | 講座「ヒロシマ」:広島女学院高校へ移動。 | |||||||||||||||||||||
10:00 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(広島女学院原爆死没者追悼式典参列)。*が在学生代表で挨拶。総務の職員と課長クラスが総動員されていた。英文関係の顔が見えず。 | |||||||||||||||||||||
11:00 | 講座「ヒロシマ」:「原爆の絵碑」除幕式。早坂暁・森本順子も参列。*の話では、早坂暁には旅費は出さず、森本順子にはオーストラリアから来日する旅費を出したとのこと。講座「ヒロシマ」のメンバーはほとんどが参列せず。 | |||||||||||||||||||||
11:30 | 講座「ヒロシマ」:女学院中学高等学校の食堂で昼食。当初、関西学院大学の学生は夜8時に集合の予定であったが、彼らがコンサートに参加することになっており、集合時間を9時半まで延長することを私からアナウンス。 | |||||||||||||||||||||
13:00 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(平和公園碑めぐり、原爆資料館見学などグループごとに)。 | |||||||||||||||||||||
13:10 | *と大学に戻る。直後に*と*、来室。広告のレポートについて二人で検討。2時間ほど研究室で寝る。「アジアの中のヒロシマ」の資料を作成。 | |||||||||||||||||||||
15:30 | *より電話。講座「ヒロシマ」でビデオを上映したい由。 | |||||||||||||||||||||
20:00 | 講座「ヒロシマ」の学生に会うため、平和公園へ。関西学院大学の学生は、8:45に市民球場前に集合することにしていた。歩いて広島女学院中学・高等学校へ。最後まで付き合った女学院学生は4人。その一人*を広まで送って10時過ぎ帰宅。*は広島大学国際協力研究科の事務職員とのこと。 | |||||||||||||||||||||
2005 | ||||||||||||||||||||||
06:30 | 広島駅の駐車場に車を置き、駅の売店で新聞を購入。日経が昨日の模様を大きく掲載。電車で市民球場南側へ。07:15関西学院大学のバス到着。まとまった班から平和公園へ。*・*も来る。デジタルビデオカメラでの撮影を依頼。 | |||||||||||||||||||||
08:06 | 集中ヒロシマ(第2日)④⑤現地実習(広島市平和式典参加)。会場内に空席が無く、式典会場の西側へ。翌朝の報道では5万5000人が参列。学生とはぐれ、式典の最中に出口付近に移動して待ったが会えず。最後までいたとのことで、ほとんどが女学院慰霊祭に遅刻。 | |||||||||||||||||||||
2006 | ||||||||||||||||||||||
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2007 | ||||||||||||||||||||||
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2008 | ||||||||||||||||||||||
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2009 | ||||||||||||||||||||||
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2010 | ||||||||||||||||||||||
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2011 | ||||||||||||||||||||||
呉駅-0711広島駅。宮島行広電で原爆ドーム前へ。11本通り-熊野団地入口。12時帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2012 | ||||||||||||||||||||||
焼山発の広電バスで広島へ。8時に平和公園到着。正午過ぎまで市内で資料収集と写真撮影。むさしで昼食。一気に疲れが出たので、広島バスセンターから帰路へ。~12時。 | ||||||||||||||||||||||
野田首相挨拶=原稿に目を向けたまま顔を上げず。棒読み。献花=内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、外務大臣、厚生労働大臣・・・・・。広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式典。 | ||||||||||||||||||||||
旧日本銀行広島支店。せこへい美術館。澤野と話す。佐々木の兄と黒瀬の紹介で会ったことがある由。 | ||||||||||||||||||||||
ウェブ上の地方紙の8・6社説をチェック。翌日も補遺作業。原発に言及するものもあり。 | ||||||||||||||||||||||
2013 | ||||||||||||||||||||||
06:42広電昭和支所ー7:37中電前ー平和公園ー9:12国際会議場ー篠原収と会うー「光の肖像展」-平和大通り(第一県女)ー旧日銀・せこへいーバスセンター12:13-13:13昭和支所ー13:30帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2014 | ||||||||||||||||||||||
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式。 | ||||||||||||||||||||||
2015 | ||||||||||||||||||||||
08:00被爆70年。広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式。式典終了後、篠原収・田城明と会う。 | ||||||||||||||||||||||
本川学区慰霊碑(正面)慰霊之碑(裏面)為原爆死没者 昭和三十二年八月六日建之 本川学区内有志〔説明板〕此の慰霊碑は過ぐる昭和二十年八月六日原爆投下された際本川地区一帯の死亡者数千の遺体を本川小学校内に集め、焼却された遺骨を此の位置にあった空鞘町防空壕内に埋没されたのであります。その後遺骨は平和公園内の供養塔内に移したのですが、永く此の聖地を記念しその英霊を慰めるため、地区内有志相寄り此の慰霊碑を建立したのであります。合掌 昭和四十年八月本川地区町民有志本川町三丁目町内会 | ||||||||||||||||||||||
2016 | ||||||||||||||||||||||
広島市平和記念式典の周辺を取材。昨年・一昨年と供養塔前に置いてあった平和のメッセージが今年はなかった。旧日銀・袋町・県立体育館を回り、1時過ぎのバスで帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2017 | ||||||||||||||||||||||
広島市平和記念式典に参列・取材。旧日本銀行広島支店などを覗く。 | ||||||||||||||||||||||
2018 | ||||||||||||||||||||||
07:30 昭和市民センター発のバス(始発)で広島へ。8時過ぎ、平和公園に到着。 | ||||||||||||||||||||||
2019 | ||||||||||||||||||||||
広電バス・昭和市民センター前 | ||||||||||||||||||||||
08:00原爆犠牲ヒロシマの碑8;00 全損保8:13、供養塔茶席08:30、9:16嵐の中の母子像。9:48NHK、 | ||||||||||||||||||||||
22:00NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~ 」(50分)。 | ||||||||||||||||||||||
2020 | ||||||||||||||||||||||
読売・毎日・日経・産経をコンビニで購入。 | ||||||||||||||||||||||
08:15 黙とう呼びかけの呉市からの町内放送に合わせ1分間の黙とう。 | ||||||||||||||||||||||
2021 | ||||||||||||||||||||||
広島平和公園へ。原爆死没者慰霊行事に参列。原爆ドーム北側などを取材撮影。―07:26。 | ||||||||||||||||||||||
広島大学「平和と人間D」期末レポート採点表、メール添付で返送。 | ||||||||||||||||||||||
10:30 そごう駐車場―平和公園―広島県動員学徒犠牲者の会―原爆の子の像―原爆ドーム―原爆慰霊碑―花輪―撤去表(北辰映電)―献花―小倉桂子―peace run clubー平和の鐘を吊るす装置―巨大スクリーン―原爆慰霊碑―会場テント内―平和記念式典に寄せられたメッセージ―温井慰霊碑―造船工慰霊碑―教師と子どもの像―損保慰霊碑―湯川秀樹歌碑―原爆資料館―嵐の中の母子像―原爆資料館時計―ローマ法王碑―被爆ピアノ11:09―<全損保―被爆遺構―レストハウス>―そごう地下で昼食用弁当― | ||||||||||||||||||||||
「47ニュース」で社説・論説をチェック。https://www.47news.jp/news/column/shasetsu | ||||||||||||||||||||||
2022 | ||||||||||||||||||||||
自宅発―広島平和公園。 | ||||||||||||||||||||||
2023 | ||||||||||||||||||||||
読売・毎日など購入。 | ||||||||||||||||||||||
ヒロシマ遺文への投稿=「社説20230806」 | ||||||||||||||||||||||
2024 | ||||||||||||||||||||||
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資料年表:宇吹暁の8・6<1967~2000年><敬称略>
年 | ||
1967 | 平和式典・第13回原水爆禁止世界大会広島大会 | |
1980 | 家族で東北旅行。5-9日。民宿千葉荘泊.岩手県肝沢郡衣川村. | |
1981 | 大山登山。5-7日。 | |
1982 | 年休。世界大会援護法関連分科会に出席. | |
1983 | ||
1984 | 広島大学慰霊祭に出席。熊田重邦夫人と会う。 | |
1984 | 原水禁大会(統一)分科会。於竹屋小学校。北西が運営委員として参加。 | |
1985 | 広島大学本部慰霊祭に参列. | |
1986 | 広島大学慰霊祭参列.8月7日、五日市ユソフ忌に参列。 | |
1987 | ||
1988 | ||
1989 | 広島大学慰霊行事参列. | |
1990 | 広島大学原爆死没者慰霊行事参列。 | |
1991 | 自宅を出発。7時過ぎより広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席。Sと。 | |
1991 | Oに広島市所蔵の死没者名簿の閲覧について伝える。8月下旬に閲覧とのこと。宇吹も一緒に行くから連絡されたしと伝言。 | |
1991 | 広島市立中央図書館の正田篠枝展を観る。 | |
1991 | 国際平和シンポジウム。-16時。疲れてほとんど寝ていた。これまでの国際シンポにも共通した感想だが、国内からのパネラーの質が悪い。 | |
1992 | 広島大学原爆死没者追悼式。Hと参列。Hによれば参列者数は約100人。OにHを紹介。 | |
1992 | 「世界遺産条約資料集1・2」届く。剄草書房へ「核兵器廃絶の思想と運動」のゲラを返送。 | |
1992 | 放影研でH・H・Mと会う。Hは、役人の天下りのようで、資料のことに詳しかった。年表と国会議事録の作業を進めることを伝える。私の補助者が問題であったようだが、検討期間を貰い、8月末か9月初に返事することにした。 | |
1992 | 粟屋憲太郎来所。「ブルータス」への連載の取材で初めて来広した由。「平和記念式典の歩み」を贈呈。6時ごろから黄金山を案内し、椿亭で夕食。来年、研究休暇が取れるのでオーストラリアへ行くとのこと。 | |
1993 | 広島大学の追悼式を欠席。 | |
1993 | 藤居より電話。吉田嘉清が午前中に来てくれた。彼が統一の仲介をしてくれと私を訪ねてきたのは1977年。佐久間・庄野・石井が一緒だった。吉田は1984年に除名。 | |
1994 | Kの運転で海田市駅まで行き、朝日・毎日・中国・読売の各紙を購入。1紙=110円。呉駅の8番レンタカーで軽トラックを予約。4000円。マーチの自動車保険契約変更(健の運転に伴う)代金2万6160円を支払う。 | |
Sへ順子と一緒に行く。電気・対面式台所・風呂等の検討。地鎮祭と柱建ての日程を決定。2時過ぎ、帰宅。荷物の一部を健と借家に運ぶ。6時、家族で出来庭に行き夕食。 | ||
1994 | 順子と、*・**・***に引っ越しと新築工事について挨拶に行く。 | |
1995 | 呉駅で各新聞を購入。 | |
1995 | 自宅のテレビで平和記念式典の中継を観る。4時過ぎのRCC「8月6日のヒロシマ」でマンハッタン調査団の映像への私のコメントが放映される。午後9時からの「調査報告・地球核汚染-ヒロシマからの警告」を観る。1日、自宅で新聞の整理。 | |
1996 | 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。 | |
1996 | *とのリハーサルの時、*から総理挨拶を批判するよう勧められる。「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら・・・」という形で。 | |
1996 | 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。8時前、平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。 | |
1996 | 開式前、*は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。 | |
1996 | 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。 | |
1997 | 自宅で平和式典中継を見る。出勤途中で、広島駅により日経と産経を購入。 | |
1997 | 広島市立中央図書館で「しるされた被爆体験」展を見る。*娘が受付。*が案内してくれる。峠・正田の原稿がきれいに残っているのに驚く。文学資料保全の会からは、寄贈を受けた形になっているが、まだ正式に受け入れ手続きはしていない由。 | |
1997 | 広島県立総合体育館の原水禁大会の会場へ。書籍を購入。森脇・湯川の顔を見る。 | |
1997 | 広島原爆資料館で「きのこ雲の下に子どもたちがいた」を見る。漫画でわかりやすくした展示。一瞬「ムッ」としたが、見進むうちに感心する。*と話す。ハーウィットがこの展示を誉めた由。尾津の紙芝居も好評。 | |
1997 | Kの話=市長?は、レストハウスへの文化庁の保存要請について、それなら文化財に指定してもらえ、と言っている。レストハウス保存に方針転換するには、共産党に手柄を立てさせることになる、という議会内の反発がある。 | |
1997 | Y(NHK広島放送局)来所。明日東京へ転勤、新聞社のデスクに相当する役。もっと実際に番組作りに携わりたかった、また、歴史番組が作りたかったとのこと。 | |
1997 | NHKスペシャル「姿なき核開発・核兵器最前線で何が起きているのか」を見る。 | |
1998 | 早朝出勤。荒神堂に向かう赤バスの中でコンスタンチノフと会う。市の平和式典に参列するとのこと。 | |
1998 | 荒神堂到着。山中高女の追悼式に最前列で参列。8時前から読経。8時半、終了。A夫人と会う。第二県女の慰霊祭は被爆50周年で止めたが、この式には出席しているとのこと。 | |
1998 | 平和公園内を一周し写真を撮る。県立体育館前でSと会う。彼の話では、右翼がたくさん来ていた由。中央公園まで歩く。 | |
1998 | 広島大学原爆死没者追悼式。M・U・Oらと会う。Uの母は山中の教師をしていたので、彼も荒神堂に行っていた由。学長が式辞の中で、インド・パキスタンの核実験に対する怒りを表明。 | |
1998 | 昼過ぎに原医研に戻ってから、インターネットで各新聞を閲覧。6日新聞の整理。ホームページアクセス788件。 | |
1998 | M母子3人が来宅していた。Kが順子の土産、イタリアサッカーチームのユニフォームを喜ぶ。 | |
1999 | 広島市平和公園へ。平和式典の会場周辺で模様を撮影。N(中島本町の平和観音像前)・諏訪住職(レストハウス)・Y(そごう前)と会う。Nの話=今年は、空の椅子が目立つ。 | |
原医研へ出勤。YAHOO!JAPANから「新着情報」に私のホームページを紹介したとのメール。アクセスカウントが急上昇する。と同時に壊れる。Hが心配して別のアクセスカウントを入れてくれる。 | ||
I(中国)より電話。今年の平和宣言について。私の感想=わかりやすくて好感が持てた。 | ||
朝からインターネットで地方紙の8・6社説の確認。ホームページに、組合の碑めぐりや今日の平和公園の模様を加える。 | ||
2000 | 休日出勤。平和記念式典に出席。公園でM(中国)と会う。10時前研究所へ帰る。10時まで、新聞とデジカメで撮影した式典のデータの整理。 | |
HPC<宇吹のホームページのアクセス数>=14673(rbm)3711(lec)6512(hist)。 | ||
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『東洋工業労働者のたたかいとともに』(日本共産党東洋工業支部、19720501)
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『職場をとりでに 東洋工業労働者のたたかいとともに』(日本共産党東洋工業党委員会、19741107)
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広島県労働者学習協議会<作業中>
機関誌 『ひろしま労働運動』
号 | 発行年月日 | |||
創刊 | 197705 | U | ||
奥田泰治 | 創刊にあたって | |||
喜花俊幸 | 放送の民主化を前進させ県民の知る権利を守るためにー広島テレビ労組の全面解決斗争の報告- | |||
松尾武久 | 広島地区マスコミ・金融・商業・医療関係労組連絡会の活動の若干の総括と今後の方向 | |||
迫彊 | 労働組合運動に科学性を(その1) | |||
2 | 197709 | U | ||
江川和禧 | 三菱広船からの報告(1)-広船分会分裂の背景 | |||
鍵浦俊文 | 広島日赤病院における’77春闘について | |||
沢田良平 | 「下請け」労働者の直用化・社員化闘争の総括 | |||
八幡保 | 今日の情勢にふさわしい建設・一般労働組合協議会-広範な未組織労働者の組織化のために | |||
藤田厚吉 | 原水禁運動の国民的統一を実現しよう | |||
? | <全損保の原水禁運動> | |||
佐藤光雄 | 30年史発刊事業のとりくみをふりかえって<広島市職労30年史> | |||
迫彊 | 労働組合運動に科学性を(その2) | |||
3 | 197801 | U | ||
能美千枝子 | 魅力ある教組婦人部活動をめざして | |||
山口登 | 東洋工業の不当労働行為を告発-役員選挙への介入を地労委に提訴 | |||
石本義明 | 運賃値上げ反対と安全運転確保の戦いの前進のために | |||
太田武男 | 新聞の過当販売競争と独占集中化-読者と共に”危機”克服へ | |||
北村晴夫 | 東建地質支部の処分・昇給差別との闘い | |||
佐々木猛也 | 少年法「改正」反対について組合活動家のみなさんに訴える | |||
4 | 197807 | U | ||
統一戦線明代労組懇談会主催 ’78春闘総括交流集会の報告から | ||||
松尾武久 | 呼びかけ人を代表しての挨拶 | |||
松尾幸雄 | 報告(1)広島合同 | |||
山田昭夫 | 報告(2)全日自労 | |||
西山豊治 | 報告(3)全国建設 | |||
報告(4)三菱広船 | ||||
報告(5)中国放送 | ||||
報告(6)広島日赤 | ||||
報告(7)記念病院 | ||||
報告(8)全気象 | ||||
報告(9)全司法 | ||||
報告(10)広島テレビ | ||||
報告(11)全建労 | ||||
報告(12)証券 | ||||
宮田文雄 | 全基労、全面解決闘争勝利の報告-人権侵害、差別を克服したたたかい | |||
(全国社会保険診療報酬支払基金労働組合中央副執行委員長) | ||||
5 | ||||
6 | 19790331 | U | ||
’79春闘講座の報告から | ||||
五領田茂子 | <報告>留守家庭子ども会指導員のたたかい | |||
大山泰弘 | <報告> | |||
松本稔 | <報告> | |||
岡本俊治郎 | <報告> | |||
石本義明 | <報告> | |||
奥治 | <報告> | |||
吉田良夫 | <報告> | |||
松尾武久 | <報告> | |||
迫彊 | <報告> | |||
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『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井 忠良、NTT出版)
内容<作業中>
序章 | 新世紀の福祉社会建設のために | |
第1章 | 豊かで成熟した福祉社会の創造 | |
第2章 | 新時代の社会保障制度の構想 | |
第3章 | 安全で質の高い生活を確保するために | |
第4章 | 過去から未来へ・時間軸を見据えて | |
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資料年表:森井忠良<作業中>
年月日 | 事項 | メモ |
1829 | ||
0725 | 誕生(広島県呉市吉浦) | |
1953 | ||
早稲田大学法学部卒 | ||
日本電信電話公社入社 | ||
1972 | ||
衆議院議員初当選。以後当選7回 | ||
1996 | ||
0606 | 森井忠良『明日を創るー提言・新世紀の社会保障』(NTT出版) | |
2011 | ||
0423 | 没。享年81歳。 | |
0425 | 『中国新聞』(2011年4月24日) | |
「森井忠良氏死去 元厚相 被爆者援護法に尽力 81歳」 | ||
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資料年表:小笠原臣也
年月日 | 事項 | メモ |
1935 | ||
0217 | 誕生 | |
1987 | ||
0930 | 広島県副知事。~1993年7月28日 | |
1993 | ||
11 | 呉市長。~2005年11月。 | |
2004 | ||
1001 | 小笠原臣也『[対談集]新生・呉の出帆』(呉地域自治振興懇話会) | |
2007 | ||
05 | 小笠原臣也『戦艦「大和」の博物館 大和ミュージアム誕生の全記録』(芙蓉書房出版) | |
2009 | ||
0815 | 『追憶―平和への切なる願いを込めて― 国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記』(広島県立呉三津田高校4回生同期会国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記編集委員会著、広島県立呉三津田高等学校四回生) | |
第7章 戦後の生活と学校 ―混乱、窮乏のなかで新しい動きと平和への願い― 私達の運命と思想を左右した戦争 ―今日あるを感謝―〈小笠原臣也〉…246 |
||
2012 | ||
09 | 小笠原臣也 著・広島大学文書館編 編『私の人生公路 小笠原臣也回顧録』現代史料出版 | U |
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『歴史教育シンポジウム記録集 1995~1999年』(歴史教育シンポジウム記録集編集委員会編、日本歴史学協会刊、20020330)
目次
歴史教育シンポジウム記録集 1995~1999年 目次 |
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[記録]「歴史教育シンポジウム」報告者・報告題目一覧 |
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