ubuki のすべての投稿

資料年表:宇吹暁の8・6<1967~2000年>

資料年表:宇吹暁の8・6<1967~2000年><敬称略

1967 平和式典・第13回原水爆禁止世界大会広島大会
1980 家族で東北旅行。5-9日。民宿千葉荘泊.岩手県肝沢郡衣川村.
1981 大山登山。5-7日。
1982 年休。世界大会援護法関連分科会に出席.
1983
1984 広島大学慰霊祭に出席。熊田重邦夫人と会う。
1984 原水禁大会(統一)分科会。於竹屋小学校。北西が運営委員として参加。
1985 広島大学本部慰霊祭に参列.
1986 広島大学慰霊祭参列.8月7日、五日市ユソフ忌に参列。
1987
1988
1989 広島大学慰霊行事参列.
1990 広島大学原爆死没者慰霊行事参列。
1991 自宅を出発。7時過ぎより広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席。Sと。
1991 Oに広島市所蔵の死没者名簿の閲覧について伝える。8月下旬に閲覧とのこと。宇吹も一緒に行くから連絡されたしと伝言。
1991 広島市立中央図書館の正田篠枝展を観る。
1991 国際平和シンポジウム。-16時。疲れてほとんど寝ていた。これまでの国際シンポにも共通した感想だが、国内からのパネラーの質が悪い。
1992 広島大学原爆死没者追悼式。Hと参列。Hによれば参列者数は約100人。OにHを紹介。
1992 「世界遺産条約資料集1・2」届く。剄草書房へ「核兵器廃絶の思想と運動」のゲラを返送。
1992 放影研でH・H・Mと会う。Hは、役人の天下りのようで、資料のことに詳しかった。年表と国会議事録の作業を進めることを伝える。私の補助者が問題であったようだが、検討期間を貰い、8月末か9月初に返事することにした。
1992 粟屋憲太郎来所。「ブルータス」への連載の取材で初めて来広した由。「平和記念式典の歩み」を贈呈。6時ごろから黄金山を案内し、椿亭で夕食。来年、研究休暇が取れるのでオーストラリアへ行くとのこと。
1993 広島大学の追悼式を欠席。
1993 藤居より電話。吉田嘉清が午前中に来てくれた。彼が統一の仲介をしてくれと私を訪ねてきたのは1977年。佐久間・庄野・石井が一緒だった。吉田は1984年に除名。
1994 Kの運転で海田市駅まで行き、朝日・毎日・中国・読売の各紙を購入。1紙=110円。呉駅の8番レンタカーで軽トラックを予約。4000円。マーチの自動車保険契約変更(健の運転に伴う)代金2万6160円を支払う。
Sへ順子と一緒に行く。電気・対面式台所・風呂等の検討。地鎮祭と柱建ての日程を決定。2時過ぎ、帰宅。荷物の一部を健と借家に運ぶ。6時、家族で出来庭に行き夕食。
1994 順子と、*・**・***に引っ越しと新築工事について挨拶に行く。
1995 呉駅で各新聞を購入。
1995 自宅のテレビで平和記念式典の中継を観る。4時過ぎのRCC「8月6日のヒロシマ」でマンハッタン調査団の映像への私のコメントが放映される。午後9時からの「調査報告・地球核汚染-ヒロシマからの警告」を観る。1日、自宅で新聞の整理。
1996 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。
1996 *とのリハーサルの時、*から総理挨拶を批判するよう勧められる。「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら・・・」という形で。
1996 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。8時前、平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。
1996 開式前、*は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。
1996 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。
1997 自宅で平和式典中継を見る。出勤途中で、広島駅により日経と産経を購入。
1997 広島市立中央図書館で「しるされた被爆体験」展を見る。*娘が受付。*が案内してくれる。峠・正田の原稿がきれいに残っているのに驚く。文学資料保全の会からは、寄贈を受けた形になっているが、まだ正式に受け入れ手続きはしていない由。
1997 広島県立総合体育館の原水禁大会の会場へ。書籍を購入。森脇・湯川の顔を見る。
1997 広島原爆資料館で「きのこ雲の下に子どもたちがいた」を見る。漫画でわかりやすくした展示。一瞬「ムッ」としたが、見進むうちに感心する。*と話す。ハーウィットがこの展示を誉めた由。尾津の紙芝居も好評。
1997 Kの話=市長?は、レストハウスへの文化庁の保存要請について、それなら文化財に指定してもらえ、と言っている。レストハウス保存に方針転換するには、共産党に手柄を立てさせることになる、という議会内の反発がある。
1997 Y(NHK広島放送局)来所。明日東京へ転勤、新聞社のデスクに相当する役。もっと実際に番組作りに携わりたかった、また、歴史番組が作りたかったとのこと。
1997 NHKスペシャル「姿なき核開発・核兵器最前線で何が起きているのか」を見る。
1998 早朝出勤。荒神堂に向かう赤バスの中でコンスタンチノフと会う。市の平和式典に参列するとのこと。
1998 荒神堂到着。山中高女の追悼式に最前列で参列。8時前から読経。8時半、終了。A夫人と会う。第二県女の慰霊祭は被爆50周年で止めたが、この式には出席しているとのこと。
1998 平和公園内を一周し写真を撮る。県立体育館前でSと会う。彼の話では、右翼がたくさん来ていた由。中央公園まで歩く。
1998 広島大学原爆死没者追悼式。M・U・Oらと会う。Uの母は山中の教師をしていたので、彼も荒神堂に行っていた由。学長が式辞の中で、インド・パキスタンの核実験に対する怒りを表明。
1998 昼過ぎに原医研に戻ってから、インターネットで各新聞を閲覧。6日新聞の整理。ホームページアクセス788件。
1998 M母子3人が来宅していた。Kが順子の土産、イタリアサッカーチームのユニフォームを喜ぶ。
1999 広島市平和公園へ。平和式典の会場周辺で模様を撮影。N(中島本町の平和観音像前)・諏訪住職(レストハウス)・Y(そごう前)と会う。Nの話=今年は、空の椅子が目立つ。
原医研へ出勤。YAHOO!JAPANから「新着情報」に私のホームページを紹介したとのメール。アクセスカウントが急上昇する。と同時に壊れる。Hが心配して別のアクセスカウントを入れてくれる。
I(中国)より電話。今年の平和宣言について。私の感想=わかりやすくて好感が持てた。
朝からインターネットで地方紙の8・6社説の確認。ホームページに、組合の碑めぐりや今日の平和公園の模様を加える。
2000 休日出勤。平和記念式典に出席。公園でM(中国)と会う。10時前研究所へ帰る。10時まで、新聞とデジカメで撮影した式典のデータの整理。
HPC<宇吹のホームページのアクセス数>=14673(rbm)3711(lec)6512(hist)。

広島県労働者学習協議会

広島県労働者学習協議会<作業中

機関誌 『ひろしま労働運動』

発行年月日
創刊 197705 U
奥田泰治 創刊にあたって
喜花俊幸 放送の民主化を前進させ県民の知る権利を守るためにー広島テレビ労組の全面解決斗争の報告-
松尾武久 広島地区マスコミ・金融・商業・医療関係労組連絡会の活動の若干の総括と今後の方向
迫彊 労働組合運動に科学性を(その1)
2 197709 U
 江川和禧 三菱広船からの報告(1)-広船分会分裂の背景
鍵浦俊文 広島日赤病院における’77春闘について
沢田良平 「下請け」労働者の直用化・社員化闘争の総括
八幡保 今日の情勢にふさわしい建設・一般労働組合協議会-広範な未組織労働者の組織化のために
藤田厚吉 原水禁運動の国民的統一を実現しよう
<全損保の原水禁運動>
佐藤光雄 30年史発刊事業のとりくみをふりかえって<広島市職労30年史>
迫彊 労働組合運動に科学性を(その2)
3 197801 U
能美千枝子 魅力ある教組婦人部活動をめざして
山口登 東洋工業の不当労働行為を告発-役員選挙への介入を地労委に提訴
石本義明 運賃値上げ反対と安全運転確保の戦いの前進のために
太田武男 新聞の過当販売競争と独占集中化-読者と共に”危機”克服へ
北村晴夫 東建地質支部の処分・昇給差別との闘い
佐々木猛也 少年法「改正」反対について組合活動家のみなさんに訴える
4 197807 U
  統一戦線明代労組懇談会主催 ’78春闘総括交流集会の報告から
松尾武久 呼びかけ人を代表しての挨拶
松尾幸雄 報告(1)広島合同
山田昭夫 報告(2)全日自労
西山豊治 報告(3)全国建設
報告(4)三菱広船
報告(5)中国放送
報告(6)広島日赤
報告(7)記念病院
報告(8)全気象
報告(9)全司法
報告(10)広島テレビ
報告(11)全建労
報告(12)証券
宮田文雄 全基労、全面解決闘争勝利の報告-人権侵害、差別を克服したたたかい
(全国社会保険診療報酬支払基金労働組合中央副執行委員長)
5
6 19790331 U
  ’79春闘講座の報告から
 五領田茂子  <報告>留守家庭子ども会指導員のたたかい
 大山泰弘  <報告>
 松本稔  <報告>
岡本俊治郎  <報告>
 石本義明  <報告>
 奥治  <報告>
 吉田良夫  <報告>
 松尾武久  <報告>
 迫彊  <報告>

明日を創る―提言・新世紀の社会保障

『明日を創る―提言・新世紀の社会保障』(森井 忠良、NTT出版)

内容<作業中

序章 新世紀の福祉社会建設のために
第1章 豊かで成熟した福祉社会の創造
第2章 新時代の社会保障制度の構想
第3章 安全で質の高い生活を確保するために
第4章 過去から未来へ・時間軸を見据えて

23森井忠良

資料年表:森井忠良<作業中

年月日 事項 メモ
1829
0725 誕生(広島県呉市吉浦)
1953
 早稲田大学法学部卒
 日本電信電話公社入社
1972
衆議院議員初当選。以後当選7回
1996
0606 森井忠良『明日を創るー提言・新世紀の社会保障』(NTT出版)
2011
0423 没。享年81歳。
0425  『中国新聞』(2011年4月24日)
 「森井忠良氏死去 元厚相 被爆者援護法に尽力 81歳」

 

小笠原臣也

資料年表:小笠原臣也

年月日 事項 メモ
1935
0217 誕生
1987
0930 広島県副知事。~1993年7月28日
1993
11 呉市長。~2005年11月。
 2004
 1001 小笠原臣也『[対談集]新生・呉の出帆』(呉地域自治振興懇話会)
2007
05 小笠原臣也『戦艦「大和」の博物館 大和ミュージアム誕生の全記録』(芙蓉書房出版)
2009
0815 『追憶―平和への切なる願いを込めて― 国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記』(広島県立呉三津田高校4回生同期会国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記編集委員会著、広島県立呉三津田高等学校四回生)
 第7章 戦後の生活と学校 ―混乱、窮乏のなかで新しい動きと平和への願い―
私達の運命と思想を左右した戦争 ―今日あるを感謝―〈小笠原臣也〉…246
2012
09 小笠原臣也 著・広島大学文書館編 編『私の人生公路  小笠原臣也回顧録』現代史料出版  U

 

平和は歩いてこない

『平和は歩いてこない』(法政平和大学編、勁草書房、19840420)

内容

著者 タイトル メモ
はしがき
001 尾形憲 元職業軍人は教師として今
030 姜徳相 日本にとって朝鮮問題とは何か
065 早乙女勝元 平和は歩いてきてくれない  -東京大空襲と私-
092 西田勝 近代日本における戦争と文学者
121 太田卓 戦時中の教育と戦後の教育
144 服部学 核戦争の危機と日本
173 永井憲一 平和憲法の運命と教科書問題
202 高柳先男 現代国際政治と危機