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広島警備担任船舶司令官布告文(1945年8月7日)

広島警備担任船舶司令官布告文

1945年8月7日

広島市民ニ告グ

米機ハ遂ニ人道上許スヘカラサル特殊爆弾ヲ以テ我カ広島ヲ侵セリ痛憤真ニ極リナシ

予ハ広島警備担任司令官ヲ命セラレ死力ヲ竭シ戦災復旧ヲ完遂セントス

親愛ナル広島市民ヨ 予ト一体トナリ断乎米鬼撃滅ノ闘魂ヲ振起シ戦災復旧ヘノ協力ニ邁進セラレンコトヲ望ム

昭和二十年八月七日

広島警備担任司令官 船舶司令官

注意

一、警報ト共ニ必ズ防空壕ニ待避シ服装ハ常ニ皮膚ヲ露出シナイコト 万一火傷シタ場合ハ取敢ヘズ海水ヲ二分ノ一ニ薄メテ浴ビルコト カクスレバ此ノ種ノ攻撃モ十分ニ防護スルコトガ出来マス

二、負傷者ハ次ノ場所ニ収容中

東練兵場 比治山西側聖橋 御幸橋東三叉小路 工兵連隊 泉邸 東警察署 住吉橋 横川駅 土橋 舟入本町 己斐駅 廿日市 似島宇品船舶練習部 暁六一六七部隊 赤十字病院 坂金輪暁部隊 暁六一八○部隊

軍ニ於テ収容シタ死傷者ハ目下調査中二ツキ逐次発表シマス

三、糧食水薬品被服等ニオ困リノ方ハ最寄ノ地区警備司令部ニ相談シテ下サイ

地区警備司令部ハ次ノ場所ニアリマス

宇品地区警備司令部 宇品船舶司令部内

東地区警備司令部 丹那橋東側

中〃 紙屋町芸備銀行

西〃 住吉橋西側

四、電車線路及ビ大キナ道路ハ目下通行出来マス

広島警備担任船舶司令官「広島警備命令」(1945年8月7日)

広島警備担任船舶司令官「広島警備命令」

1945年8月7日

広警船作命第一号 八月七日一四、○○

広島警備命令

一、予ハ自今広島警備ノ担任ヲ命ゼラレ在広諸部隊並ニ逐次広島付近ニ到着スル陸軍部隊ヲ併セ指揮シ速ニ戦災復旧ヲ処理セントス戦災処理ノ為警備ニ関シ中国地方総監広島県知事及広島市長ヲ区処セシメラル

海軍増援部隊指揮官ハ戦災復旧ニ関シ予ヲ援助シ広島駅(含ム)ヨリ十日市土橋ヲ経テ己斐駅(含ム)ニ至ル乗車線以北地域ニ於ケル救護給与ヲ援助シ且ツ広島駅付近復旧ニ任ス

二、東地区警備隊長(暁沢田部隊長)

中地区警備隊長(暁芳村部隊長)

西地区〃(暁梶部隊長)

ハ船防作命第一八号ニ拠リ別紙区分ニ基キ広島市ノ警備一任スへシ

海軍増援部隊指揮官担任地域ト重複スル地域ニ於ケル警備ハ広島駅付近ヲ除ク外陸軍主担任トシ細部ハ相互協定スルモノトス

三、中国憲兵隊司令官ハ現任務ヲ続行スヘシ

四、中国地区鉄道司令官ハ広島付近山陽線ノ復旧ニ任スルト共ニ一部ヲ以テ先ヅ速ニ宇品線ノ復旧並ニ運行ヲ処理スヘシ

五、中国軍管区派遣部隊ハ中地区警備隊長ノ指揮ヲ承クヘシ

六、中国地方総監広島県知事広島市長ハ警察及警防団等ヲシテ警備ニ関シ各東地区中地区西地区警備隊長ノ指揮ヲ承ケシムヘシ

七、細部ニ関シテハ参謀長ヲシテ指示セシム

八、予ハ宇品ニ在リ 明八日八時ヨリ広島市役所ニ在リ

広島警備担任船舶司令官 佐伯文郎

 

広警船作命第一号二基ク参謀長指示

一、広島市戦災復旧ハ軍官民一体トナリ迅速ニ処理ヲ完了シ第一次ハ八月九日迄ニ救護及屍体収容ヲ完了スルモノトス

二、作業ハ先ヅ速ニ負傷者ノ救護ニ任スルヲ主トス 救護所及設置担任区分左ノ如シ

1比治山西側聖橋 東地区警備隊長

2御幸橋東側三叉路〃

3住吉橋 東地区警備隊長

4観音町中央十字路・市立商業北側付近 陸軍燃料廠救護班

5東練兵場、6土橋、7横川駅、8己斐駅 海軍増援部隊

9東警察署、10市役所、11泉邸跡 広島県

三、救護ハ昼夜連続実施スルヲ本則トシ特二払暁黎明時機ヲ活用シ八月九日中ニ終了スルモノトス

四、屍体ノ処理ハ丁重且迅速ニ実施スルヲ主旨トス

各警備隊官庁ハ所在ノ地ニ於テ火葬又ハ土葬シ為シ得ル限リ神官僧侶ヲ列席セシムルニ勉メ人名止ムヲ得サルモ柱数ヲ確実ニ調査シ逐次広島警備担任船舶司令官ニ報告スルト共ニ広島市長ニ通報スルモノトス

広島刑務所長ハ左記地点ニ各囚人約百名ヲ派遣シ屍体処理ニ任セシムルモ各警備隊官庁ニ於テハ迅速処理ニ遺憾ナカラシムルモノトス

1山陽中学北側

2市役所

3紙屋町八丁堀付近

4土橋

五、警報伝達ハ民心安定ノ第一要件ナルヲ以テ各警備隊ハ警備地区内ノ警報伝達ニ関シ遅クモ明八日十二時迄ニ施設ヲ完備スルモノトス 広島県広島市ハ警報伝達ニ関シ強カニ援助スルモノトス(鐘太鼓等用意ノコト)

六、流言ノ取締ノ為新型爆弾ニ対シ防空壕ノ価値大ナルコトヲ推奨シ「何トカ手ハアル」ノ信念ヲ確保セシムルモノトス

七、広島県広島市ハ天幕及菰等ヲ明八日十二時迄ニ収容シ各救護所ニ配布スルモノトス

八、広島市長ハ速カニ水道ノ復旧ヲ実施シ尚電灯ノ復旧並主要幹線ノ「バス」ノ運行ヲ促進セシムルモノトス 又罹災民ノ情況ヲ判明セシムルタメ各町内会ニ罹災民相談所ヲ設クルモノトス

九、各警備隊長ハ主要交通路ノ啓開及交通整理並ニ倉庫ノ盗難防止ニ関シ特ニ所要ノ処置ヲ実施スルモノトス

昭和二十年八月六日

船舶参謀長 馬場英夫

一、輸送困難ニツキ自今「戦災処理員」ノ腕章ヲ右腕ニ付ケタルモノハ陸軍部隊等ノトラックニ便乗スルコトヲ得

一、警報伝達用鐘代用ノ石油カン一○○箇及燈油若干ヲ広島市役所ニ配布ス

一、炊出シハ警備隊ニ於テ適正ニ行フコト

一、明九日ノ連絡会議ハ十七時ニ比治山神社ニ於テ実施ス

一、警防団ノ配置及活動ニツキ明八日午前八時広島市役所ニ於テ県警察部係員ト連絡協議ヲナス

広島県知事論告(1945年8月7日)

広島県知事論告

1945年8月7日

今次ノ災害ハ惨悪極マル空襲ニヨリ我国民戦意ノ破砕ヲ図ラントスル敵ノ謀略ニ基クモノナリ

広島県民諸君ヨ

被害ハ大ナリト雖モ之戦争ノ常ナリ

断ジテ怯ムコトナク救護復旧ノ措置ハ既ニ着々ト講ゼラレツツアリ

軍モ亦絶大ノ援助ヲ提供セラレツツアリ

速ニ各職場ニ復帰セヨ

戦争ハ一日モ休止スルコトナシ

一般県民諸君モ亦暖カキ戦友愛ヲ以テ罹災者諸君ヲ労リ之ヲ鼓舞激励シ其遠カナル戦列復帰ヲ図ラレ度

本次災害ニ際シ不幸ニシテ相当数ノ戦災死者ヲ出セリ

衷心ヨリ哀悼ノ意ヲ表シ其ノ冥福ヲ祈ルト共ニ其ノ仇敵ニ酬ユル道ハ断乎驕敵ヲ撃砕スルニアルヲ銘記セヨ

我等ハアクマデモ最後ノ戦勝ヲ信ジ凡ユル艱苦ヲ克服シテ大皇戦ニ挺身セン

昭和二十年八月七日

広島県知事 高野源進

 

米穀配給台帳による広島市の原爆被爆前人口

 1945年6月30日

地域

米穀配給人員
牛田 7019
尾長 8034
矢賀 1887
青崎 6187
荒神 5508
段原 10342
比治山 10440
仁保 4074
楠那 2178
大河 4793
皆実 10187
宇品 12110
似島 1765
白島 7104
幟町 8082
竹屋 12353
千田 9165
袋町 6036
大手 6076
中島 9196
広瀬 4980
本川 5237
神崎 9637
舟入 5983
江波 6000
大芝 10057
三篠 12393
天満 7389
観音 18429
福島 4065
己斐 7780
古田 3830
草津 7107
合計 245423

マンハッタン・プロジェクトのプレス・リリーズ(1945年)

[解題]

 マンハッタン・プロジェクトは、1942年8月13日、原子爆弾製造を目的として米合衆国陸軍の管下に作られた組織である。47年1月1日、米国原子力委員会(46年1月24日設置)に吸収移転されることにより、4年有余の特異な歴史を閉じた。

 その歴史は、同プロジェクト自身によって『マンハッタン・プロジェクト-公的歴史とその諸資料』(MANHATTAN PROJECT – Official History and Documents)としてまとめられている。

 ここに紹介する資料は、この中に含まれていたプレス・リリーズ(報道向け発表、計712ページ)の目次である。

 101点のメモと6点の参考資料(番号にAまたはBを付記)からなるこの資料は、時期的には、広島原爆攻撃直後から同プロジェクト廃止までのもので、発表源は、ホワイト・ハウス、国務省などのものが若干あるが、ほとんどは陸軍省である。

 内容は、原爆開発を推進した立場からの公式見解として、あるいは原爆情報統制下の公式発表として、いずれも重要な資料である。

1945年

番号 月日 資料タイトル メモ
001 08.06 Statement by the President of the United States トルーマン合衆国大大統領声明(ホワイトハウス発表)
002 08.06 Statement by the Secretary of War スチムソン陸軍長官声明(陸軍省発表)
002A 08.06 British Statement Relating to the Atomic Bomb 原子爆弾に関する英国声明
002B 08.06 Canadian Statement カナダの声明
003 08.06 Memorandum Regarding Report on Damage at Hiroshima 広島の被害報告に関するメモランダム(偵察機は、雲が目標地域を覆っていると報告。結果が明らかになり次第、陸軍省から公表する)
004 08.06 First Test Conducted in New Mexico ニューメキシコで行われた最初の実験(ニューメキシコ地域に発表)
005 08.06 Atomic Energy Source of Inexhaustible Power 無限の力としての原子力資源
006 08.06 Atomic Power Usage Once Thought Impossible 一旦は不可能とみられていた原子力使用
007 08.06 Labor Plays Vital Role in Activity of Manhattan District 労働者は、マンハッタン管区の活動において重要な役割を演じた
008 08.06 Atomic Energy Harnessed 利用された原子力
009 08.06 MED Projects Lead to Townsite Growth マンハッタン技術管区プロジェクトは、都市の発展をもたらした。(テネシー地域に発表。オークリッジの解説)
010 08.06 Security Message and General Information to the Press プレスに対する情報防衛上の注意および取材に有益な一般情報(ニコルス大佐署名の一般情報および防衛注意の2通。オークリッジおよびクリントン工場の解説)
011 08.06 Background Information on Electromagnetic Plant 電磁工場の解説
012 08.06 Background Information on Gaseous Diffusion 気体拡散工場の解説
013 08.06 Background Information on Thermal Diffusion 熱拡散工場の解説
014 08.06 Background Information on H.E.W ハンフォード工場の解説(ワシントン州に発表)
015 08.06 Background Information on Los Alamos Townsite ロスアラモスの解説
016 08.06 Hiroshima 広島の解説
017 08.06 Major General L. R. Groves L.R.グローブズ少将の紹介
018 08.06 Brigadier General T. F. Farrell T.F.ファーレル准将の紹介
019 08.06 Colonel K. D. Nichols K.D.ニコルズ大佐の紹介
020 08.06 Colonel F. T. Matthias F.T.マチアス大佐の紹介
021 08.06 Colonel S. L. Warren S.L.ワレン大佐の紹介
022 08.06 Manhattan District Officers マンハッタン管区の職員(グローブズが40名について紹介)
023 08.06 Manhattan District Officers マンハッタン管区の職員(ニコルズが44名について紹介)
024 08.06 Dr. J. B. Conant J.B.コナント博士の紹介
025 08.06 Dr. R. C. Tolman R.C.トルマン博士の紹介
026 08.06 Scientists Associated with Manhattan District マンハッタン管区に協力した科学者たち(H.C.ユーレイ、V.B.ブッシュ、A.H.コンプトン、E.O.ローレンスの紹介)
027 08.06 Dr. J. R. Oppenheimer J.R.オッペンハイマー博士の紹介J.R.オッペンハイマー博士の紹介
028 08.08 Comment Regarding Dr. Jacobson’s Speculation Concerning Radioactivity ジェイコブソン氏の放射能に関する推測に対するコメント(放射能の持続的存在の否定)
029 08.09 Comment by Security of War on Use of Atomic Bomb 陸軍長官の原子爆弾使用についてのコメント
030 08.11 Elaborate Security Measures Protected Secret of Atomic Bomb 原子爆弾の秘密を守った十全の防衛手段
031 08.11 Release of Smyth Report スマイス報告の公表
031A 08.11 A General Account of the Development of Methods of Using Atomic Energy for Military Purposes under the Auspies of the United States Government (Smyth Report) 合衆国政府の監督下1940年から1945年にかけて行われた軍事目的に原子力を使用する方法の開発に関する概括約説明(通称スマイス報告)
032 08.13 WACS ( Women’s Army Corps ) Assigned to Manhattan Project マンハッタンプロジェクトに従事した陸軍婦人部隊
033 08.15 Security to be Uneffected by Cessation of Hostilities 終戦は、原爆情報防衛政策を何ら変更ぜず
034 09.09 Eye Witness Account of Atomic Mission over Nagasaki 原爆調査隊の長崎上空における目撃談(8月9日打電したニューヨークタイムズ科学記者W.L.ローレンスの記事が一カ月後に陸軍省から公表されている)
035 09.12 General Groves Awarded DSM ( Distributed Service Medal ) グローブズ将軍に殊功章が贈られる(殊功章=Distinguished Service Medal)
036 09.14 President’s Request that Unreleased Information be Withheld from Publication 未発表情報を公表することを差控えるよう大統領要請(「秘・・・公表禁止・・・編集者への注意」との注意書が初めにある)
037 09.19 Final News Conference of Secretary Stimson スチムソン陸軍長官の最終記者会見
038 09.29 Remarks by Secretary of War at Army-Navy “E” Ceremonies at Oak Ridge 陸海軍E記念式におけるパターソン陸軍長官の演説
039 10.09 Statement of General Groves before the House Military Affairs Committee 下院軍事委に際しグロ-ブス将軍の声明
040 10.09 Statement of Secretary of War before the House Military Affairs Committee 下院軍事委に際しパターソン陸軍長宮の声明
041 10.18 Statement of Dr. J. R. Oppenheimer before the House Military Affairs 下院軍事委に際しオッペンハイマー博士の声明
042 10.20 Secretary of War Welcomes Public Discussion of Atomic Science if Continued to Subject Matter of Smyth Report 陸軍長官、スマイス報告の内容に限定された原子科学の公開議論は歓迎されると言明
043 10.30 General Farrell Awarded DSM ファーレル将軍に殊功章が送られる
044 11.14 Statement to the Press by Secretary of War Concerning May-Johnson Bill メイ・ジョンソン法に関する陸軍長官声明
045 11.26 Awards to Officers of Manhattan District マンハッタン管区の職員に功労章が送られる(52人に対し3種の功労章)
046 12.10 Announcement of Contemplated Joint Test of Atomic Bombs 陸海合同原子爆弾実験に関する発表。

NEW YORK TIMESに見る日本の原爆報道(1945年)

[メモ]”THE NEW YORK TIMES INDEX” で検索した記事の見出しと、記事の要約を記した。

月日 頁-段 記事概要
08.07 1-7 UP WASHINGTON, Aug. 6 TRAINS CANCELED IN STRICKEN AREA  Traffic Around Hiroshima Is Disruped Japanese Still Sift Havoc by Split Atoms [大阪ラジオ、広島地域で列車が不通になったことを報じる。同盟がトルーマン ・アトリーの発表を報じる。OWI(戦時情報局)、トルーマン声明を日本に向け放送]
08.07 1-7 UP LONDON, Aug. 6 [同盟、被害は調査中と述べる]
08.08 1-5 Japan Keeps People in Dark on Nature of New Scourge [日本、爆弾の性質を国民に知らせず。同盟および日本の他のラジオ、新聞のコ メント]
08.08 7-2 Tokyo Reports a Prince Killed by Atomic Bomb [同盟、李殿下が死亡したことを伝える]
08.09 1-3 Hiroshima a ‘City of Death’ [東京ラジオ、海外向け放送で広島の破滅を報道]
08.10 2-6 Prince Killed by Bomb is Praised [東京ラジオ、李殿下死去に対する阿南陸相の遺憾の意を報道]
08.10 5-3 Foe Threatens Retaliation Tokyo Cities Poison Gass [シンガポールの日本放送、報復を示唆。東京ラジオ、毒ガスと比較]
08.11 1-6 Japan Protest to U.S. on Missile [同盟、日本政府が、原爆投下についてスイス政府を通じてアメリカ合衆国に抗議を行ったと報道]
08.11 5-6 Japanese Depicts Horror [東京の放送、日本人兵士の広島目撃談を報道]
08.13 1-7 Tokyo Newspapers Again Urge Unity [東京の新聞、ラジオの論調、日本人スポークスマン、防御可能と語る]
08.14 3-4 Japan Belittles Effect Of Our Atomic Bomb [シンガポールの日本放送、広島の被害を過少評価。同盟、市長と二人の官吏が死亡したことを報道]
08.15 3-2 Emperor Informs People of Defeat Hirohito Read Edict on Radio-Advices Japanese to Act Prudently in Coming Days [ヒロヒト、原爆による国の破滅回避が降伏の理由であると述べる]
08.15 3-3 Text of Hirohito’s Radio Rescript [ヒロヒトのラジオ放送テキスト]
08.17 6-4 Japanese Change Tune On Atomic-Bomb Morality [日本の原爆論調、非難から賞賛に変わる]
08.20 22-1 UP WASHINGTON, Aug. 19 Hiroshima in Ashes, Tokyo Says [東京ラジオ、広島が灰塵に帰したと報道]
08.22 4-7 NAGASAKI REPORTED IN RUINS Tokyo Says Atomic Bomb Tore Buildings 10 Miles From City [東京ラジオ、長崎が灰塵に帰したと報道]
08.23 1-6 UP SAN FRANCISCO, AUG. 22 Tokyo Puts Tolls of Atomic Bombs At 190,000 Killed and Wounded [東京ラジオおよび同盟の原爆被害についての報道。鳥居技師の調査報告。原爆の人体にもたらした計り知れない影響]
08.25 3-1 UP SAN FRANCISCO, Aug. 24 JAPANESE STRESS HIROSHIMA ‘HORROR’ Atomic-Bomb ‘Radioactivity’ Killed 30,000, Says Tokyo – Sympathy Effort Seen SUCH EFFECT DENIED HERE Enemy Radio Talks of Toll Still Mounting From ‘Burns’ Caused by ‘Rays’ in Area [日本の放送、爆発後2週間の間に3万人の被災者が放射能のために死亡したと報道。オッペンハイマー博士のコメント]
08.27 3-5 Tokyo’s Figures on Air Casualties [日本タイムズ、広島・長崎の原爆犠牲者数を報道]
08.28 3-8 ATOM BOMB DID IT, ENEMY PRINCE SAYS Premier Adds That Emperor’s ‘Love of the People’ Also Prompted Surrender [東久迩宮、衆議院で原爆と天皇の国民への愛が聖断をもたらしたと述べる]
09.01 4-5 UP SAN FRANCISCO, Aug. 31 YONAI DENIES WAR GUILT Japanese Navy Chief Says He Would Have Opposed Attack [米内光政、原爆が日本の降伏をもたらしたと述べる]
09.04 7-1 AP TOKYO Sept. 1 (Delayed) Japan Still Censors Bomb News [日本の新聞、記者の現地報告を掲載(広島)]
09.04 7-2 UP SAN FRANCISCO Sept. 3 Nagasaki Plant Life Revives [東京のラジオ、長崎の被害を報道]
09.05 1-7 TOKYO, Sept. 4 by ROBERT TRUMBULL [高橋代議士、原爆が急激な降伏の原因であると述べる]
09.06 1-6 TOKYO Sept. 5 by FRANK L. KLUCKHOHN JAPAN’S PREMIER EXPLAINS DEFEAT Tells Diet Nation Was Losing Fast Before Atom Bomb and Soviet Entry Sealed Fate [東久迩宮、日本敗戦について議会に報告]
09.06 3-2 Japanese Premier’s Talk to Diet on Reasons for Defeat [東久迩宮報告テキスト]
09.07 3-2 5 MILLION CASUALTIES LISTED BY JAPANESE [広島県と長崎県、死傷者を発表]
09.07 3-5 He Hopes to Cure Victims [東京のラジオ、都築正男の障害区分を報道]
09.09 34-2 UP SAN FRANCISCO, Sept. 8 SICKNESS AFTER VISIT TO HIROSHIMA DENIED [東京のラジオ、東京帝大栗本博士の広島調査結果を報道。入市者への影響を否定]
09.09 35-7 AP TOKYO, Sept. 8 HIROSHIMA TOLL 126,000 Domei Reports Figures Given by Prefectural Government [同盟、広島において12万6000人が死亡したと報道]
09.13 4-6 TOKYO, Sept. 12 by W. H. LAWRENCE NO RADIOACTIVITY IN HIROSHIMA RUIN Army Investigators Also Report Absence of Ground Fusing – 68,000 Buildings Damaged [ファーレル代将、広島の調査結果について発表。広島に放射能が残留しているという説を否定]
09.15 4-1 AP TOKYO, Sept. 14 HIGASHI-KUNI BIDS U.S. FORGET DEC.7 Premier Says Japan Then Will Forget Atom Bomb and Start Anew as Peacefull Nation [東久迩宮との会見。東久迩宮、米がパールハーバーを忘れれば日本は原爆を忘れると発言]
09.15 4-2 United States Reaction Is Cool [米国は東久迩宮の発言に冷ややかな反応]
09.16 27-2 TOKYO ‘RECONSIDERS’ ATOMIC BOMB EFFECT [同盟、原爆放射能の影響は1週から10日後には無くなったとの二人の日本人科学者の発言を報道]
09.19 5-1 M’ARTHUR CLOSES ASAHI, TOKYO PAPER Orders 48-Hour Suspension for Mocking Comment on Our Atrocity Reports SHARED GUILT-CHARGED Foe’s Editional Says Atom Bomb’s Use Is Inhumane – Other Journals Coopetate [マッカーサー、朝日新聞に発行停止を命令]

 

中国文化連盟

結成:1945年12月17日

 1945年12月17日,広島近郊の国民学校で栗原唯一・貞子夫妻を中心に結成.細田民樹・畑耕一を顧問とするこの連盟は,翌46年,「中国文化人追悼大会」という名目で原爆犠牲者追悼大会を開催し,参加者150人が慰霊と平和の誓いをたてる.同連盟は,46年3月機関誌『中国文化』を「原子爆弾特輯号」と銘打って創刊し,8月には栗原貞子の詩集『黒いたまご』(原爆詩「生ましめんかな」を収録)を出版.『中国文化』の発行人であった栗原唯一は呉市にあった米軍民間情報部に呼びだされ,「原爆の惨禍が原爆以後もなお続いているというような表現は,いかなる意味でも書いてはならない」と厳重に言い渡される(栗原貞子『「中国文化」原子爆弾特集号・復刻』,『黒い卵―占領下検閲と反戦・原爆詩歌集』).

広島戦災児育成所

開設:1945年12月1日

広島戦災児育成所要覧[抄] 1948

一.沿革

1.広島市原爆による孤児の収容施設を設置のため山下義信氏発起し広島県労政課協力し広島市労務課賛同し原爆後直ちに即ち10月中旬より山下氏を中心に計画をすすめ、県有土地建物の使用認可を得て開設した。開設費は山下氏個人の支出するところであった。

2.開設と同時に広島市の学童集団教育所を併設し学校教員数名宿泊し所内の小学校教育を開始し昭和23年3月までこれを継続した。

3.昭和21年8月6日の原爆記念日を期して財団法人広島戦災児育成会の設立認可があった。

4.爾来食堂浴場便所児童寮(4棟)を増築し更に最近2棟を建築完成した。

5.昭和22年5月9日神父フラナガン氏来訪した。

6.昭和22年12月6日天皇陛下御巡幸をお迎えした。

7.昭和23年10月23日高松宮殿下御来所。

二.創設年月日

1.昭和20年11月1日設立準備開始。

2.昭和20年12月1日開設。

3.昭和20年12月23日第1回児童入所。

4.昭和21年1月19日開所式挙行。

[以下略]

文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会

1945年9月14日設置(文部大臣名の発令は10月24日)

委員長:林春雄(学術研究会議会長、東京帝国大学名誉教授)

9科会(科会長はすべて東大教授)

科会名

科会長
1.物理学化学地学 西川正治
2.生物学 岡田要
3.機械金属学 真島正市
4.電力通信 瀬藤象二
5.土木・建築 田中豊
6.医学 都築正男
7.農学水産学 雨宮育作
8.林学 三浦伊八郎
9.獣医学畜産学 増井清

第1回報告会。 1945年11月30日、於東京帝国大学。

山崎匡輔科学教育局長挨拶「今回原子爆弾の災害調査につきまして、各般の権威の有る方々に御調査をお願い致すことを決定致しましたところが、学研の方でこの問題を喜んでお取上げ下さいました。いま少し小規模な御研究を願いたいと思いましたのでございますが、皆様の非常な御熱誠の結果非常に完璧な研究団ができまして、私ども非常に衷心より感謝致している次第であります。」

第2回報告会。1946年2月28日、於東京帝国大学。
「昭和22年度末まで3カ年にわたって作業を継続したが、主要な調査研究は昭和20年度(昭和21年3月まで)に行われた。」

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』

(日本学術振興会、1953年5月5日)

理工学編 38編
生物学編 6編
医学編 130編

「医学科会は特別委員会中最大の科会であり、約30名の委員、150名の研究員、1,000名の助手から成り、日本の全ての主要な医学部、研究所及び病院を代表している。」

都築正男メモ

医学科会への最初の協力者都築正男(科会長)、中泉正徳(東京大学)、菊池武彦(京都大学)、大野省三(九州大学)、井深健次(日本陸軍軍医総監)、福井信立、石黒茂夫、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

1945年10月任命

田宮猛雄、都築正男、佐々貫之、中泉正徳、三宅仁(東京大学)、木村廉、船岡省吾、真下俊一、菊池武彦、森茂樹(京都大学)、高木耕三、木下良順、布施信義、福島寛四(大阪大学)神中正一、中島良貞、小野興作、沢田藤一郎(九州大学)、林道倫(岡山医大)、古屋野宏平(長崎医大)、井深健次、平井正民(陸軍軍医)、横倉誠次郎、金井泉(海軍軍医)、勝俣稔、古屋芳雄(厚生省公衆衛生官)、高折茂(鉄道医官)

主たる参加機関

東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部、大阪帝国大学医学部、九州帝国大学医学部、長崎医科大学、岡山医科大学、熊本医科大学、金沢医科大学、京都府立医科大学、山口医学専門学校、陸軍軍医学校、海軍軍医学校、広島陸軍病院、大野陸軍病院、呉海軍病院、岩国海軍病院、佐世保海軍病院、大村海軍病院、東京帝国大学伝染病研究所、厚生研究所。

1945年の調査対象

1.被害の統計学的調査、2.有害エネルギーの医学的調査

3.被災者の臨床的調査、4.人体に及ぼす残存エネルギーの影響調査

1946年度の調査の主要テーマ

1.死傷者の統計的調査、2.被災者の臨床的調査、

3.病理解剖的調査4.残存放射能の影響調査、

5.人間の遺伝調査

合同調査団の設置と日本側の研究調査の成果の吸収

都築の公職追放

1946年8月15日、公職追放(理由:6年間海軍軍医であったこと)

1947年3月24日、半年間の公職追放規定の免除の覚書(ウィットニィ軍政局長)

1947年7月16日、3月24日の覚書の取り消しの覚書(ウィットニィ軍政局長)

***1957年まで日本側の原爆症研究は中断

1947年4月、第12回日本医学会総会演説

菊池武彦(京都帝国大学教授)木本誠二(東京帝国大学助教授)「原子爆弾症の臨床」

参考文献

日本学術会議原子爆弾災害調査報告書刊行委員会編『原子爆弾災害調査報告書』(日本学術振興会、1953年5月5日) B5版 1642頁

広島市役所編『広島原爆戦災誌 第5巻 資料編』(1971年)

広島県編『広島県史 原爆資料編』(1972年)

仁科記念財団編『原子爆弾-広島・長崎の写真と記録』(光風社書店、1973年)

広島市編『広島新史 資料編1 都築資料編』(1981年)

核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会編『医師たちのヒロシマ-原爆災害調査の記録』(機関紙共同出版、1991年)