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平和祭(第1回、1947年)

平和祭(第1回、1947年)

1947年(昭和22年)4月、戦後初めての衆議院議員選挙や初の地方選挙が実施され、5月3日には、日本国憲法が施行された。こうした戦後の改革は、国民の平和への関心を高めた。広島では、被爆2周年目の8月6日に、前年の「統制的・追憶的」な行事ではなく「平和の息吹で原子砂漠をおおう」行事を開催しようとの声が起こった(「中国新聞」1947年6月21日)。石島治志NHK広島放送局長は、被爆市民の平和への意志を全世界に公表するために平和祭を開催することを構想し、4月17日公選初の市長に就任した浜井信三に助言するとともに、広島観光協会でも提唱した。また、広島商工会議所内でも平和祭開催の機運が高まっていた。中村藤太郎同会頭は、6月初め、浜井市長にその旨を申し入れ、市長とともに呉市にあった米軍軍政部に赴き、平和祭についての打診を行なった。これに対し、軍政部の司令官は、「膝を乗り出して賛成した」と伝えられている(浜井信三『原爆市長』)。
占領軍の後援が明らかになると、平和祭に向けて準備が進められた。6月20日には、広島市役所、広島商工会議所、広島観光協会(1951年に、広島市観光協会に発展的改組)の三者が発起人となって広島平和祭協会を設立し、会長には浜井広島市長が、また副会長には中村広島商工会議所会頭と寺田豊広島市議会議長が就任した。新設された平和祭協会は、7月3日から7日にかけて、宗教、茶道、音楽、興業、展覧会、展示会、スポーツ、報道、文化、商店といった各関係方面ごとに参集を求めて打ち合せを行ない、平和祭の諸行事を決定した。また、同協会は、平和祭で合唱される平和の歌および慈仙寺鼻広場と元護国神社前広場の名称の募集も行なっている。両者の入選作の発表は、22日におこなわれた。「平和の歌」(現在の名称:「ひろしま平和の歌」)には、豊田郡の中学校教師重園贇雄の作品が、応募作品151点の中から選ばれた。一方、広場の名称は、慈仙寺鼻広場が「平和広場」、元護国神社前広場が「市民広場」に決定した。このうち、平和祭の会場予定地である「平和広場」には、7月上旬から平和塔(高さ10メートル)と野外音楽堂の建設(木造約28坪、工費15万円)が進められた。
寺田豊市会議長(広島平和祭協会協会副会長)は、7月18日上京、GHQを訪問して、平和祭へのメッセージを要請していた。これに対し、GHQは、7月末、マッカーサー自身のメッセージが寄せられると公表した。マッカーサーが、日本の地方行事にメッセージを寄せることは、極めて異例のことであり、彼自身がこの式典に強い関心を寄せていることを伺わせるものであった。
また、広島市は、1947年7月31日、「毎年8月6日は、本市の平和記念日として市役所事務を休停する。」との条例(「広島市役所事務休停日条例」)を制定し、市役所あげて8月6日を迎えることとした。
平和祭式典は、8月6日午前8時から9時までの1時間、つぎのような式次で開催された。
開会挨拶 (野田平和祭協会事務局長)
平和塔除幕(木原前広島市長令嬢)
平和の歌演奏・合唱(広島放送管弦楽団)
平和宣言 浜井市長
平和の鐘 浜井市長
(花火・サイレン・平和への祈り)
メッセージ発表
ダグラス・マッカーサー連合軍最高司令官(代読訳文:山口秘書)、英連邦軍総司令官(代読:ライアン少佐)、米軍政部長(代読:クロワード中佐)、片山内閣総理大臣(代読:山田参       議院議員)、松岡衆議院議長(代読:藤田代議士)、松平参議       院議長(代読:山下参議院議員)、森戸文部大臣、楠瀬広島県       知事
祝電披露 全国各市長、米国ボストン市長、モントゴメリー(元広島復興顧問)
放鳩(10羽)(中村商工会議所会頭)
平和記念樹植樹(寺田市会議長)
全国199戦災都市へ送る平和記念樹苗の伝達
(石島広島放送局長から末永呉市長へ)
平和の歌合唱(市内男女中等学校生徒100余名)
閉会の辞 (野口事務局長)
(「夕刊ひろしま」1947年8月6日、「中国新聞」8月7日)
マッカーサーは、メッセージの中で、広島の教訓を、「自然の力を利用した戦争による破壊力の進展はその停止するところなく遂には人類を絶滅し、現世界の物的構成を一挙にして壊滅に帰せしむる手段となるであろうということを全人類に警告する助け」となったことに求めた(「朝日新聞」1947年8月7日)。この人類絶滅観は、浜井市長の読み上げた平和宣言の中でも言及された。
NHK広島中央放送局(JOFK)は、午前8時から30分間、式典の模様を実況放送した。それは、そのままJOAK(東京)を通じて米国に中継されたが、この放送は、日本の戦後初の国際放送であった。また、INS、CBSといった米国の放送会社やユナイト、日映、時事などのニュース映画会社も、式典の模様を取材した。
8月1日からすでに盛り沢山な行事が始まっていた。平和記念日を中心とする3日間の広島には、市民のほか、近郊からも多くの人々が押し寄せ、大変な賑わいを示した。この3日間の広島、横川、己斐の各駅の利用者の数は、平日より2万人以上増加したと報じられている(「中国新聞」1947年8月8日)。
第1回平和祭の開催は、海外で大きな反響を呼んだ。アメリカの臨時世界人民会議(Emergency World Peoples Congress)は、8月6日にアラモゴードでヒロシマ2周年の集会を開催した。この集会の中で、マッカーサーが広島に寄せたメッセージが読み上げられた(The New York Times 1947.8.7)。また、ニューヨークタイムズは、この日の社説で、「原子爆弾がなければ殺戮はもっと大きかったであろうし、この点で原子爆弾の使用は正当化される」としながらも、つぎのように述べた。
広島と長崎で行われた涙をそそる記念行事は到るところの人情ある人々の心を動かさずにはいないが、我々はこの両都市が各種記念行事を執り行う唯一の場所として永久に留まることを希望し祈らなければならない。
(「中国新聞」1947年8月9日)
ニューヨークの「世界同胞運動協会」は、つぎのような感想を述べた「広島市民への公開状」と題する書簡を広島にもたらした。
われわれは広島市民諸君が8月6日、平和祭を行われたことを聞き、ただ頭を下げるばかりである。すなわちこの日広島市民諸君が争いの観念をすて、平和を念願努力されていることをきき、われわれは罪の観念を   深め、民族としての反省を続けている。(「中国新聞」1947年9月21日)
こうした国内外の反響の中には、批判的なものもあった。アメリカの雑誌ライフは、平和祭の模様を「アメリカ南部の未開地におけるカーニバル」と表現した。また、平和祭協会には、「あのようなお祭り騒ぎをするのはもってのほかだ」、「厳粛な祭典は一つも見られなかった」といった投書が市民から寄せられた。このように、市民の間には、8月6日を「厳粛な黙祷の日にすべきだ」との主張がある一方で、「若しただ1回の平和祭に100万円の費用をかけるとしたら、その100万円を花火線香に終らせず、世界に向って何かを残し与えるような施策が必要」(長田新の論説、「中国新聞」1947年9月8日)といった意見や、「平和祭を復興に直結させたものにすべきだ」という現実論(浜井信三の話、「中国新聞」1948年6月9日)も存在した。

回顧五年-原爆ヒロシマの記録(1947年)

『回顧五年-原爆ヒロシマの記録』(瀬戸内海文庫、19500505)

報道篇(1947年)

見出し 掲載紙 掲載月日
 広島・長崎の再建  毎日  0103
 広島・長崎の居住害なし  毎日  0119
 米記者団一行の広島訪問感想記  中国  0220
 原子爆弾で奇形児生る  毎日  0328
 自然の恵みを生かせ  中国  0430
 広島の焼跡に颯爽?登場  中国  0430
 爆心に祈る孤児にうるむ愛の瞳  中国  0501
 米国版「広島の声」  中国  0515
 ベル博士と本川校結ぶ愛情  中国  0516
 UP特派員の広島訪問記  中国  0519
 人間は一撃で死んだ  中国 0605
 原爆症診断に都築博士来広  中国 0624
夏草原子爆弾模様 朝日  0628
 爆心地に「仲よしくらぶ」  中国 0630
 広島こそ平和のメッカ  中国  0729
  高らか平和の鐘  毎日 0629
原子医学は世界一  中国  0801
 ピカッと来た途端に産ぶ声  朝日  0801
 市街の八割三分復興  朝日  0801
 あれから三年アトム広島変遷記 中国  0802
 平和のメッセージ  朝日  0802
 母の愛か奇跡の生  中国  0803
 原爆患者を慰問  中国  0803
 平和の書「ヒロシマ」後日物語り  中国  0803
 平和な悲願の旅路  中国  0804
 広島へマ元帥の特使  朝日  0804
 世界語「ピカドン」  中国  0805
 空から見た広島  毎日  0805
 原爆のヒロシマの体験録音で全米に放送  朝日  0805
 きょう原爆二周年  毎日  0806
 高鳴る平和の鐘  朝日  0807
 安らけし平和の日  中国  0807
 マ元帥メッセージ  中国  0807
 文明の魁に広島市長宣言  毎日  0807
 正一君をたずねて幾千里  朝日  0807
 我が家の焼跡巡禮  朝日  0807
 落とすなかれ三発目  中国  0809
 広島、長崎の原爆影響調査  中国  0903
 「原爆の乙女」が再生の航路  朝日 0904
 広島、長崎の幼児発音調査  中国  0906
 原子都と観光瀬戸内海  中国  0908
 似島に原爆千人塚  中国  0920
 轟け平和の鐘  中国  0924
 つゆ草の遺伝変種発見  中国  0926
米に新しき友  毎日  0928
 広島こそ世界のメッカ  中国  0928
 吹き飛んだ二〇キロ  中国  1004
 アチラの友達から広島の学童へ贈物  中国  1005
  広島児童文化会館地鎮祭  中国  1005
 原爆から二年、脚光を浴びる似島  中国  1014
原爆千人塚除幕式 中国 1014
 沙漠に学童の天国  中国  1122
 実験室に新しき生  中国  1129
広島で平和の世界会議  朝日  1207
  アトム洗禮の神父遍歴の旅から還る  朝日  1208
 お土産はアトム教会 朝日  1208
 原爆の都にわれらの天皇 世界に伝わる“天皇と広島”  中国  1208
 原爆地に千萬ドルの贈物  毎日  1215
 ヒロシマに原爆研究所  毎日  1217

国立予防衛生研究所

国立予防衛生研究所 1957年5月21日設立

年報目次(抄)

年度 章節 見出し 備考(抄録)
1947 1 沿革
1-1 誕生
1-2 設立の趣旨及び機能
1-3 予研の将来
1-4 運営方針
1948 原子爆弾影響の医学的調査に関する米国Atomic Bomb Casualty Commision (ABCC)との協同研究
1949 原子爆弾影響研究所
1950 原子爆弾影響研究所その他における協力
1951 原子爆弾影響研究
1952 ⅩⅤ 広島・長崎支所
1953 ⅩⅤ 広島・長崎支所
1953 ⅩⅥ 原爆症調査研究協議会
1954 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1954 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1954 ⅩⅦ 原爆症調査研究協議会
1955 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1955 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1956 ⅩⅣ 放射能研究委員会
1956 ⅩⅥ 広島・長崎支所
1957 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1957 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1958 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1958 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1959 ⅩⅤ 放射能研究委員会
1959 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1960 ⅩⅦ 広島・長崎支所
1961 ⅩⅧ 広島・長崎支所
1962 ⅩⅧ 広島・長崎支所
1963 ⅩⅨ 広島・長崎支所
1964 ⅩⅨ 広島・長崎支所

国会会議録の中のヒロシマ・ナガサキ(第1~11回)

国会会議録の中のヒロシマ・ナガサキ(第1~11回)

第1回参議院議員選挙(1947(昭22)0420)

第23回衆議院議員選挙(1947(昭22)0420)

1121 非戦災者特別税法案(内閣提出) [質問]北村徳太郎、[答弁]栗栖赳夫 衆財 [財政及び金融委員会議録]、広島・長崎の焼け残った家。
1208? 広島市及び長崎市の復興助成の請願に関する報告書(12月8日付) [請願者]長崎市長大橋博外1名 衆財 [財政及び金融委員会議録第51号付録]
1208 請願 [採択]、広島市及び長崎市の復興助成の請願。

第1回特別国会(1947(昭22)0520-1209)、片山内閣(0524成立)

第2回通常国会(1947(昭22)1210-19480705)、芦田内閣(0310日成立)

0702 社会事業振興に関する小委員長報告 [請願の審議経過・結果報告]姫井伊介 参厚 [決定]。模範社会事業都市建設に関する請願
0705 請願 [厚生委員会の審議経過報告]塚本重蔵 [採択]。模範社会事業都市建設に関する請願

第3回臨時国会(1948(昭23)1011-1130)、第2次吉田内閣(1015日成立)

第4回通常国会(1948(昭23)1201-1223解散)

第24回衆議院議員選挙(1949(昭24)0123)

第5回特別国会(1949(昭24)0211-0531)、第3次吉田内閣(0216成立)

0326 [3月25日]世界連邦建設運動と日本国会の参加 [自由討議]菊池義郎 原子力の惨害
0426 広島市を平和都市に指定する件 [発言]石田博英 衆議 原子爆弾の惨害、
0427 広島市を指定都市にする件 [発言]石田博英、中村寅太、神山茂夫 衆議 長崎の扱い、
0510 広島平和都市建設法案及び長崎国際文化都市建設法案の取扱いに関する件 [経過説明]石田博英、[質疑]土井直作、浅沼稲次郎、神山茂夫、林百郎、大池眞事務局長。 衆議 委員会審査省略を決定。

第6回臨時国会(1949(昭24)1025-1203)

1025 [広島平和記念都市建設法・長崎国際文化都市建設法の賛成投票の結果の確定通知(8月4日付)] [内閣総理大臣]吉田茂
1130 湯川秀樹君表彰の件・永井隆君表彰の件 [参考人]仁科芳雄、亀山直人、武谷三男、[質疑]福井勇、小林進、木村榮、浦口鉄男、神山茂夫。 衆考特
1203 湯川秀樹君表彰の件委員会報告に関する件 [質疑]浦口鉄男、木村榮、福井勇 衆考特 [考査特別委員会]、[可決]。

第7回通常国会(1949(昭24)1204-19500502)

1215 永井隆君表彰の件 [参考人]田川房太郎、[質疑]岡延右衛門、内藤隆、横田甚太郎、梨木作次郎。 衆考特 永井隆の人物・病状・生活の現況。
1223 永井隆君表彰の件調査報告書に関する件 [討論]吉田甚太郎<共産党> 衆考特 [多数決採択]

第2回参議院議員選挙

第8回臨時国会(1950(昭25)0712-0731)

第9回臨時国会(1950(昭25)1121-1209)

第10回通常国会(1950(昭25)1210-1951年0605)

510525 平和に関する請願(今野武雄紹介第2350号) [趣旨説明]砂間一良 衆外 東京都北多摩郡清瀬村上宮教会清瀬療園平和懇談会(佐藤己未夫外134名署名)、「日本人として人類最初の原子爆弾をこおむり、その惨禍を身をもって味わいました」

第11回臨時国会(1951(昭26)0816-0818)

0819 [8月18日]国務大臣の演説に関する件 [質問]岩間正男、[答弁]吉田茂 平和運動への弾圧、広島・長崎を再び繰返さない、

広島大学新聞(創刊~9号)

広島大学新聞(創刊~9号)

号数 発行年月日 主要記事見出し
発行者:広島文理科大学新聞部
創刊 19470215 創刊を祝う(長田新(学長))
広島学生連合会結成-早速震災地救援活動
無から有へ-原子爆弾その後
広島文化運動の展望
2 19470405 広島学生連合ついに誕生-盛上がる学生の熱意をこの一線に
広島学生連合規約
不適格教授をめぐり学生再び動く-教・倫の立場
ペスタロッチー運動の回顧(長田新(学長))
3 19480115 総合大学目差して運動展開-要望される県民の協力
深い御造詣-御進講の両教授は語る
ようこそ陛下広島へ
全国学生運動の統一なる-広島学生自治連発足
我観-窮処守高(長田新(学長))
中国地区ワークショップ-広師で開催
4 19480225  平和日本建設の道(長谷信夫)
国立広島総合大学の設立-その構想と実現(長田新(学長))
邁進せん平和国家建設へ-広島学徒大会開かる
国立総合大学は何故広島に必要か?
5 19480515 ペスタロッチー運動の回顧(承前)(長田新)
決定は6月中か-其の後の総合大学問題
論説:大学の自治と学問の自由
新教育の方向(今堀誠二)
イールズ氏来広
授業料値上げを排撃-国立大学学生自治連起つ
6 19481210 本年度学士院賞-藤原教授受賞
CIEイールズ博士来広-つぶさに各校を視察
活発に動く自治連-広島の場合
払えない授業料-値上げ反対の波全国に及ぶ
論説:文教政策と学生の態度
7 19481210  本学から4教授を推薦-日本学術会議
論説:学生運動の在り方
石門心学会広島支部発会式における高松宮殿下の御言葉
学生厥起大会-県庁にデモ
6、7両日本学で講演-英連邦軍教育顧問-ブランデン氏
廃墟に返り咲く文化-学園文化祭終る
民科文理大班発足
自治会の在り方-来広のタイバー氏語る
総大に夜間部を-夜間部学生起つ
A級に編入か-その後の総大問題
高松宮さま-学生代表と御懇談
広高生百余名-本学教授会にデモ
米国人文科学顧問団来広-中・四国大学高専代表と会議
文部省大学法試案を廻って各方面に波瀾-本学の態度
学生新聞の在り方(糸川成辰)
回想:学生運動1ケ年の回顧
8 19490125  民科啓蒙講座開設
広島総大設立予算全額県民負担-全額国庫負担にせよ-県民学生の猛反対
学友会刷新成るか-授業料不払を解く
論説:1949年と闘う
中国研究所広島支部発会
第1回学術会議に3名当選-第1部長田・古賀両教授、第4部三村教授
YMCAの動き
9 19490309  論説:総長選挙と今後の問題
三者協議会誕生か-其の後の学友会刷新
学内のセクト主義を破れ
マルキシズムと学生-社会心理学的調査
総大総長-初代総長は長田現学長か-決定権は文部省に
100 19601210
発行者:広島大学新聞会
著者 タイトル
論説委員会 □巻頭言□ 学生新聞と中立
特集・教育の危機を考える
長田 新 国民教育の大道

創刊号

広島平和祭協会(広島平和協会)略年表

広島平和(祭)協会略年表

1947年
事項
06 20 広島平和祭協会設立の打ち合せ会を広島商工会議所で開催。役員など決定。
07 03 広島平和祭協会、平和祭行事について市内各団体との打ち合せ会を開催(~7日)。
07 07 広島市平和祭協会、常任委員会を開催。「平和マーク」を販売して社会事業費に当てることを決定。
07 11? 広島平和祭協会、行事の大綱を決定。平和メッセージ・平和の鐘・平和の鳩など。
07 16? 広島市平和祭協会、平和祭予算105万円の募集に奔走。
07 22 広島平和祭協会、公募していた平和の歌・慈仙寺鼻と護国神社前の広場の名称の当選者を発表。
08 10? 広島平和祭協会、被爆体験を後生に伝える資料写真集・パンフレットの作成を計画。
08 15? 広島平和祭協会、市民のお祭騒ぎ批判の声に対し弁明。
1948年
06 14 広島市平和祭協会、48年度第1回総会を開催。協会名を平和協会と改称。
1948年
06 28 広島平和協会、宗教・茶華道関係団体の委員会を開催。30日までに興業・スポーツ・新聞報道・文化・商店街関係団体の委員会も開催。
08 06 広島平和協会・NHK・FK,NHK「世界の音楽」公開演奏会を広島児童文化会館で開催。
1949年
05 03 広島平和協会、世界憲法起草人民会議(50年9月ジュネーブで開催予定)代議員派遣署名運動を開始。
05 03 広島平和協会・中国新聞社、国際平和協会理事長賀川豊彦を招いて平和確立記念講演会「世界平和の創造」を開催。
06 06 広島平和協会、第1回役員会を開催。13名が参加。平和祭行事を決定。
06 27? 広島平和協会など、8月5日から3日間開催予定の平和都市記念書道展覧会の作品を募集。
08 05 広島平和協会、平和音楽祭を児童文化会館で開催。
08 06 広島平和協会、第4回平和祭式典を市民広場(児童文化会館前)で開催。約3000人が参加。
08 06 広島平和協会、平和音楽祭を児童文化会館で開催。英国の詩人ブランデン(東大講師)が平和祭に寄せた「ヒロシマに寄する歌」を広島放送合唱団が合唱。7日も。
1950年
02 11 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。
06 02? 広島平和協会、平和祭行事の計画案を作成。お祭り気分的行事を廃することをとする。予算は約200万円。
08 02 広島平和協会、緊急常任委員会を開催。平和祭を中止することを決定。
08 02 広島平和協会,平和祭中止を決定.
08 06 広島市民生局社会教育課編「原爆体験記」(広島平和協会)発刊.
1951年
07 25 広島平和協会、世界各国の主要都市(200)・国内各市(300)にメッセージを発送。

出典:『中国新聞』ほか

同志社大学神学部新島講座

同志社大学神学部新島講座 1947年8月4日~8日

『原子力時代に於ける基督教-新島講座記念論文集』( 有賀鉄太郎編、聖光社刊、19480215 刊)=1947(昭和22)年8月4日-8日、同志社大学神学部で開かれた「新島講座」の講演記録。

目次

著者 タイトル
有賀鉄太郎
「この書に収められた諸篇は、昭和22年8月4日から8日に亘って同志社大学神学部に開かれた「新島講座」の講演に基づいたもの」
湯浅八郎 原子力時代に於ける基督教
「文明のかかる欠陥を痛感するアメリカの学会は、戦時中より科学、宗教、哲学の三分野に亘り学会の権威をコロンビア大学に招集し年一度綜合研究会を開催することを試みた。1946年には第4回目の会合がコロンビア大学で開かれたが、その時最も大きな感銘と衝撃とを与えたものは、サタデー・リビュー・オブ・リテラチュアの主筆、カズン[ノーマン・カズンズ]氏の原子力時代に関する論文であった」
山崎亨 旧約に於ける世界思想
富森京次 新約に於ける世界思想
有賀鉄太郎 初代基督教徒の世界思想
大塚節治 基督教世界観
湯川秀樹(招聘) 現代科学思想
 細野軍治  国際連合に就て
 安田貞雄(発題者)  懇談会:農本文化と農村文化
 J.G.ヤング  宗教教育の諸問題
魚木忠一 新島先生に於ける国家思想

 

編年資料:ヒロシマ-1947

編年資料:ヒロシマ-1947

 

月日 資料名
0215 広島大学新聞創刊号
0710 島師範新聞創刊号
0721 広島市の平和祭構想
0806 広島市の第1回平和祭
0806 広島市平和宣言(浜井信三)
0908 広島文理科大学長長田新「世界平和への道」(抄)『中国新聞』
10 広島高師学生新聞創刊号
1207 天皇「ヒロシマ巡幸」
1220 広島女高師新聞創刊号

【資料】天皇「ヒロシマ巡幸」1947.12.7

【資料】天皇「ヒロシマ巡幸」 1947.12.7

[広島市民広場での]御言葉

[『天皇と廣島』(小野勝、広島文化社、1949)所収]

この度は皆の熱心なる歓迎を受けて嬉しく思う。
本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。
我々はこの犠牲を無駄にすることなく平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない。

THE NEW YORK TIMES 1947.12.8

Hirohito Rules Out New ‘Pearl Harbor’

by The United Press

HIROSHIMA, Japan, Dec. 7 –Emperor Hirohito pledged today that Japan never again would pursue policies that might lead to another “Pearl Harbor” as he addressed 40,000 persons at this atom-bombed city on the sixth anniversary of the attack on Hawaii.

In an unprecedented and unexpected speech, the Emperor said the Japanese people “must work to contribute to world peace and rebuild the country.”

He expressed the deepest personal sorrow at the atomic disaster that had befallen Hiroshima, but said Japan faced the future hopefully

Emperor Hirohito stood alone and unattended on a raised openair platform in the center of the atomic bomb. Australian military police aided in controlling the crowds.