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平和祭(第2回、1948年)

平和祭(第2回、1948年)

谷本清(広島キリスト教会連盟委員長)は、1947年(昭和42年)10月、岡山市で開催された宗教連盟中国地区大会で、広島被爆の日である8月6日に世界平和を祈る運動を提唱した。彼のこの呼びかけは、翌48年3月、UP特派員ルサフォード・ポーツ記者により「ノーモア・ヒロシマズ」のアピールとして報道された。アメリカ北部バプテスト連盟の人々は、ジョン・ハーシーの広島ルポ(1946年5月従軍記者として広島入りし、原爆が人間に及ぼした影響について6人の体験者の証言を中心にまとめあげたルポ。全誌面を提供した8月31日付『ニューヨーカー』は、発売当日に30万部を売りつくし、以後100種以上の新聞に連載、ラジオドラマとして電波に乗せられ、10数か国語に翻訳されたといわれる)とジャパン・タイムズに掲載された第1回広島平和祭の記事に刺激されていたが、谷本のニュースを受け取ると、8月6日を世界平和デーにしようと呼びかけた (谷本清「寄稿・広島で世界宗教平和会議を」、この寄稿は、48年6月18日付 「読売新聞」(西部版)に掲載予定であったが、検閲により保留後ボツとなった)。その理由は、広島が「原子時代の戦争が意味するもののシンボル」であり、8月6日以外に「全世界を通じ平和の思想と感情に、より以上の共鳴を呼び起こす日」はないから、というものであった。48年4月18日、世界26か国の発起人により世界平和デー委員会が組織された。「ノーモア・ヒロシマズ」が、この運動のスローガンであった。
広島市は、1948年6月上旬、前年の平和祭に対する意見、批判やその後の国際的反響を踏まえ、文化的色彩を強くし世界平和運動のメッカたらしめることを主眼とした平和祭の新構想を発表した。浜井市長は、この構想の意図を、「平和祭行事は従来の放任的なものから今年は企画を統一したい」、「犠牲になった広島の平和運動が物乞根性と誤解されてはならない、あくまで平和運動のメッカとして世界人類の頭から広島をわすれさせないようにするのが念願である」と説明している(「中国新聞」48年6月9日、10日)。6月14日に開催された広島平和祭協会の48年度初の総会では、協会名を広島平和協会と改称したが、その意図は、世界平和運動に主力を注ぐことにあった。具体的には、平和宣言を恒久的なものにするため森戸辰男文部大臣に依頼して中央の権威者に再検討を仰ぐ、世界の都市に平和祭の意義を述べ世界平和運動への協力を求めるメッセージを送る、画壇大家の作品を網羅した平和美術展覧会を開催する、日本交響楽団を式典に招くといった新企画が考えられた。また、平和祭当日には供養と平和の象徴として市民が造花を胸に付けることが検討された。
このうち、平和宣言の起草は天野貞祐に依頼し、浜井広島市長は、世界の160都市の市長にメッセージを送ることとなった。また、平和協会は、美術展のための第1回協議会を6月24日に開催し、南薫造と小林和作の二人を顧問に委嘱し、準備を進めた。8月4日から袋町小学校を会場として開幕した展覧会は、県内のみならず国立東京博物館、大原美術館の名画400余点が展示され、広島としては未曽有の盛観を示した。日本交響楽団の招待は実現しなかったが、JOFKの尽力でNHK世界の音楽の来演が決まった。世界の音楽管弦楽団と合唱団は、平和式典で伴奏と合唱を行なうとともに、当日の夜と7日に児童文化会館で開催された音楽会に出演した。平和と供養の造花は、産業美術家協会に試作が依頼され、7月5日、市内の学校の教師にその作製方法の講習会が実施された。市民は、平和式典にこの造花を付けて参列し、約1,000人が、式典終了後これを胸に、「ノー・モア・ヒロシマズ」、「十万の御霊に誓う 世界平和は青年で」、「世界平和は広島から」などのプラカードを掲げ、平和広場から市役所前に向けて行進した(花行進)。
8月6日の平和式典は、前年と同じく、平和広場の平和塔前で、午前8時から1時間、つぎの式次第で開催された。
開会の辞  (寺田平和協会副会長)
大木惇夫作 詩「ヒロシマを思いて」朗読
平和の鐘  浜井会長
平和宣言  浜井会長
放鳩    (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将
メッセージ 芦田内閣総理大臣(代読:松本滝蔵)、松岡衆議院議長(代読:高津正道)、松平参議院議長(代読:岩本月洲)、森戸文部大臣、楠瀬広島県知事
平和記念植樹(伊藤副会長)
平和記念樹苗伝達(石島副会長)
平和の歌合唱(伴奏:世界の音楽管弦楽団)
閉会の辞  (寺田副会長)
(『昭和23年度広島平和協会事業報告』、「中国新聞」1948年8月7日)
第2回平和式典の基調は、ノーモア・ヒロシマズであった。平和塔の側には、「NO MORE HIROSHIMAS」の看板が建てられ、平和宣言は、「再び第2の広島が地上に現出しないよう誠心こめて祈念するものである」と、ノーモア・ヒロシマズを訴えた。また、海外では、この式典に呼応して少なくとも26か国で第1回世界平和デーの諸行事が開催された。
ロバートソン中将のメッセージは、平和宣言以上の長さであり、「渉外局」の平和式典に関する発表は、これを「記念講演」と表現し(「中国新聞」1948年8月6日)、AP電は「式典のクライマックス」(原文はhigh point)と伝えた(The New York Times 1948.8.6)。ロバートソンは、その中で「広島市が受けた懲罰は戦争遂行の途上受くべき日本全体への報復の一部と見なさねばなりません。今後諸君が平和政策を忠実に守るとすれば、世界全部がこのような悲惨事の起こるのを未然に防止できることと思います」と述べた。また、この式典には、オーストラリア国会議員団一行8人が、「オーストラリア国民の代表として民主的な国民になるだろう日本国民にどの程度の真実があるか、自分の目でみて判断したいと望んで」参列していた(ロバートソンの「メッセージ」の表現)。これらは、平和祭を見る世界の目が、原爆犠牲にもとづく広島の訴えへの同情のみでは無いことを示している。

中国配電株式会社弔魂塔

中国配電株式会社弔魂塔
建立年月日:1948(昭和23)年8月6日
場所:広島市寺町・西本願寺別院
(正面)
弔魂塔
(裏面)

昭和二十年八月六日ノ戦災ニ因リ本社社員ノ非命ニ斃レシ者二百七十八名是レ皆国家再造ノ犠牲本社進展ノ礎石ト謂フ可シ
茲ニ三周年ニ当リ僚旧均シク哀ヲ新ニシ感ヲ増ス
仍テ此ノ塔ヲ建テテ聊カ追弔ノ情ヲ表ハシ亦以テ永ク其ノ幽魂ヲ慰メント欲ス
昭和二十三年八月六日
中国配電株式会社取締役社長
島田兵蔵撰並書

広島市立第一高等女学校原爆慰霊碑(平和塔)

広島市立第一高等女学校原爆慰霊碑(平和塔)

建立年月日:1948(昭和23)年8月6日
場所:広島市中区中島町・平和大橋西詰
(裏面)
友垣に まもられなから やすらかに ねむれみたまよ このくさ山に

昭和廿三年八月六日
宮川雅臣
〔説明板〕(正面)(原文左横書)
広島市立高女 原爆慰霊碑
(裏面)
この碑は昭和廿年八月六日八時十五分この地附近で家屋疎開作業中原爆に遭って全員殉職した広島市立第一高等女学校報国隊職員生徒六七九柱の霊を弔うため、遺族会が昭和廿三年忌日母校校庭に建立同卅二年十三回忌に現地に移したものである。
碑面の浮彫は河内山覚祐氏の作で、国家の難に挺身した可憐な生徒たちを「あなたは原子力(E=MC*)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となったのです」と慰めている姿をあらわしている。

回顧五年-原爆ヒロシマの記録(1948年)

 『回顧五年-原爆ヒロシマの記録』(瀬戸内海文庫、19500505)

報道篇(1948年)

見出し 掲載紙 掲載月日
 原爆都一番乗り、瑞西から婦人記者  中国  0121
 アトム広島にアメリカの花  毎日  0124
 アトム広島に孤児の家  毎日  0205
 北米の仏教徒から贈物  毎日  0211
 原爆の被害者研究所   毎日  0215
原爆地に新しき村 朝日 0301
 グ司令長官来広  中国  0302
 明年“平和博”   毎日  0303
児童文化会館の建設進む 毎日 0305
 アトム広島復興の春  毎日  0325
 ベル博士らの祝福を浴びて  前例のない施設  中国  0504
爆心に悲願の公園  中国  0520
 営々の“村造り”二年  朝日  0703
 両市に原爆医学研究所新築   朝日  0706
 回り来る平和三周年  毎日  0801
 四度びめぐり来る思い出の日  中国  0801
 世界平和確立は市民の責任  朝日  0805
 海を渡りくる激励文  毎日  0806
 平和きっと広島から  中国  0807
 平和宣言  中国  0807
 「アトム都、広島の追憶式典」  朝日  0807
 さよなら原爆症  中国  0808
 大人気のスピード復興  中国  0824
 平和記念公園の応募要項きまる  中国  0824
 広島市民へのメッセージ(ヘレン・ケラー)  毎日  1014
 ヒロシマ新地園、一ヵ月に外客五百名  中国  1207
 素晴らしきかな平和都市  中国  1207
来広の外人に原子焼の贈物 中国 1207

 

 

 

 

 

見出し

原爆以後・廃墟の中より

『原爆以後・廃墟の中より』
広島文理科大学学友会文化部・広島高等師範学校学友会文化部編、1948年12月1日

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1948年11月2日から約1週間挙行される学園文化祭の「来会者の便宜に資し、且つ記念出版として、…「文化祭の栞」なるパンフレットとして発行するはずであった」<文理大学友会文化部「編輯後記」より>

目次

長田新(学長) 巻頭言 学園文化祭を祝いて
福原淑人(学友会文化部理事長、大学教育学科) 新文化創造の精神と哲学的実存のイデー(学園文化祭の意義に関して)
マックミラン女史(広島女学院講師) 広島の文化的再建の為に
沈木(中華民国広島華僑聯合会長) 学園文化祭に寄せて

 

新聞連載1948

新聞連載1948

・年月日は連載の開始の日付を示す。
・版は地方版を示す。

48 07 29 7 25年後の完成ヒロシマ ひろしま 夕刊
48 07 31 5 1年目と3年目-ヒロシマの姿 ひろしま 夕刊
48 08 02 3 ヒロシマさかりば歩き 中国

ひろしま(編集人:峠三吉)

『ひろしま 6月号 第1巻第1号』(編集人:峠三吉、発行所:瀬戸内海文庫、1948年6月1日)dc19480601

目次

著者 タイトル 備考
宇根元馨 表紙
大本カメラマン 口絵
 新延輝雄  カット
阿部静枝 運不運
大山郁夫は語る―理想と愛
宇根元馨 表紙絵にそえて―旧産業奨励館―
桝井迪夫 ジョン・ハースィの「広島」
谷本清 原爆と米人の愛
アルバム・アトムヒロシマ(広島市役所献上写真帳より本誌特写)
広島城跡
爆心地から己斐を望む
紙屋町付近
日本赤十字社広島病院
十字架
阿川弘之 夏(小説)
T 編輯後記
H 編輯後記

 

編年資料:ヒロシマ-1948(昭和23)年

編年資料:ヒロシマ-1948(昭和23)年

 

月日 資料名
0115 広島高校新聞創刊号
02 中国連絡調整事務局執務月報第2巻第2号 1948.2
03 模範社会事業都市建設に関する請願 1948.3
0305 ノーモア・ヒロシマズ=谷本清牧師の訴え
0606 オークランド世界平和デー委員会実行委員長アルフレッド・パーカー書簡
0806 広島市平和宣言(浜井信三)
0807 島市の第2回平和祭[ニューヨークタイムズの報道]
0809 長崎市平和宣言
0820 中国連絡調整事務局執務月報第2巻第13号
0920 中国連絡調整事務局執務半月報第2巻第15号
0923 労働省婦人少年局長崎出張所の被害者調査[『長崎民友』]
1103 中国連絡調整事務局執務半月報第2巻第18号
1122 広島市の原爆関係資料提供依頼
1130 小倉豊文『絶後の記録』(中央社)
11 広島文理科大学学友会文化部・広島高等師範学校学友会文化部編 「原爆以後・廃墟の中より」
1201 広島医科大学新聞創刊号
  広島戦災児育成所要覧[抄]

小倉豊文『絶後の記録』(中央社、1948.11.30)

はしがき[抄]

 「われわれが原子エネルギーを解放することができるという事実は、自然力に関する人類の理解に新しい時代を導入するものである」--これはトルーマン米国大統領が、1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されて16時間後、世界に向って宣言した放送の一節である。と同時に、「原子力時代」というながい人類の想像の世界が、今や現実になりつつあるのである。そして8月6日の広島の現実こそ、この宣言にもあるように、「日本国民を完全破壊からまぬがれしめるため」に、7月26日ポツダムの最後通牒を、日本の戦争指導者が「黙殺」した結果だったのである。人類は、特に日本国民は、この事実を忘れてはならない。

 かくて原子爆弾は、現代人類最大の課題となり、その広島への一発は、全人類に、特に日本国民に、痛烈な回顧と反省を要求している。

[中略]

 かれこれの結果から、本書が日本の一民間人の体験と見聞による、広島原子爆弾のルポルタージュとしての役目は、一応果しうると思うし、同時に側面からは、終戦善後の1年間を広島に生きていた一知識人の自画像として、またその亡き妻の素描として、ひいては敗戦日本の懺悔録として、読みとっていただければ幸である。

[後略]

 GHQ/SCAP検閲資料

FIDENTIAL  CIVIL CENSORSHIP DETACHMENT CIS-MIS GHQ-SCAP

INTERCEPT:

From: MASUNAGA Toyo  670, 1*chome, Kamiuma-machi, Setagaya-ku, (Tokyo-to, Japan)

To : c/o TOKYO ASAHI SHINBUN SHA (Tokyo Asahi Press) Editorial Dept.

   Yuraku-cho, Chuo-ku, (Tokyo-to, Japan)

Type: Postcard

Dated: 18 Dec 48

Languige: Japanese

Disposition: Passed

Examiner: P7 J-2304 TCS 27

Prep. Date: 29 Dec 48

DISTRIBUTION: DAI DIV

TEXT

PRESS: REPORT ON ATOM BOMB COMPILED BY HIROSHIMA UNIVERSITY PROFESSOR

Writer states:

 “OGURA Tyofumi (小倉豊文) of Hiroshima University of Literature and Science, an old acquaintance of mine, wrote a report on the atomic bomb entitled the ‘Zetsugo-no-kiroku (Unprecedented Record)’, a copy of which will be sent to you.

 “Please mention it in the Recommendation Columm of the art and science division in your press. The book gives us his precious experience described from the aouthor’s standpoint of “liberalism.”

 

平和への燈(再版に序して)[『絶後の記録』194936日刊版より抄録]

[前略]この多くの無惨の死者が、もし平和への人類の歩みに高く燈をかかげるものとならなかったら、どう為よう。この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであらう。今後、せめて所謂冷たい戦争程度だけで戦争は終るやうになってくれなければ、この沢山の日本人は犬死になる。この本をよく読んで世界の人々に考へてもらひたい。

    1949年2月                        高村光太郎

 

『国立国会図書館一般考査部『戦後記録文学文献目録稿 考査事務参考資料 第4号』19491220

「著者の筆は必ずしも巧みではないが、この必ずしも巧みでない筆を通して描き出される悲惨な状景には全く堪えがたいものがある。ノー・モア・ヒロシマの決意を促すに足る作品の一つであろう」

 

広島市の原爆関係資料提供依頼(1948.11.22)

広調甲第87号

 昭和23年11月22日

         殿

 

                   広島市長 浜井信三

     原爆関係資料提供依頼について

 原爆関係の知識についてはその一部が『広島市勢要覧』に記載されてありますが本市を視察するものは内外人を問は原爆の状況及其の影響を深く知りたい意向なので原爆に関する凡ゆる面を包含した冊子を刊行致したいと思います。

 就ては御多忙中御手数乍ら貴事業所から見た原爆の状況並びに復興に関する推移等左記御参照の上刊行物の資料となるものを御提供下さる様お願ひ申し上げます。

 追って資料は12月10日迄に市調査課へ御提出願います。

     記

 一 原爆当時の所在地並びに名称

 二 爆心地よりの距離

 三 原爆当日午前8時現在に於ける

   (1)在籍(在学)人員数

   (2)当時就業者(登校者)の人員並び作業(授業)の状況、勤労奉仕、部外作業、疎開中等の状況を含めて下さい。

 四 原爆瞬時の状況並びに感想