平和祭(第3回、1949年)
1949年(昭和24年)5月10日と11日、広島平和記念都市建設法案が第5回国会の衆参両院でそれぞれ満場一致で可決された。この法案は、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的」(第1条)としたものである。この法案は、7月7日実施された住民の賛否投票の結果、7万1,852票(有権者総数の59.2%、有効投票数の91.9%)という圧倒的多数の賛成を得て成立し、8月6日に公布されることになった。
広島平和協会は、6月8日に開催した第1回役員会で第3回平和祭の行事を決定するとともに、協会の会則を変更し、第1条に「恒久平和の念願と人類文化の向上」という目的を明示することとした。広島市は、平和式典を前に、「恒久平和」(原文:Peace Forever)をモチーフとしたポスターを作成し、式典への招待状とともに全国の都道府県知事、268都市長および県内全市町村に郵送した。また、海外の161都市には、浜井市長のサイン入りのポスターを送っている。
この年の平和式典の会場は、前年とは異なり市民広場の児童文化会館前広場となった。そこには、4日、30尺(約9メートル)の鉄筋の鐘楼が完工し、5日には広島銅金鋳造会が新造した「平和の鐘」が備えつけられた。8月6日の式典は、組立式の会場で、8時15分から約1時間、つぎのような式次第で開催された。
平和の鐘
開会の辞 (伊藤平和協会副会長)
平和の歌合唱(広島放送合唱団 伴奏:広島吹奏楽団)
平和宣言 浜井会長
放鳩 (ミスヒロシマ)
進駐軍メッセージ 英連邦軍司令官ロバートソン中将(代読:ギャレット代将)、マッカーサー元帥、ウォーカー中将(代読:仁井出渉外課長)
メッセージ 幣原衆議院議長(代読:山本代議士)、松平参議院議長(代読:浅岡参議院議員)、吉田内閣総理大臣(代読:森戸代議士)
平和記念植樹(楠瀬知事、石島副会長)
平和記念樹苗伝達(仁都栗副会長)
平和記念公園・記念館設計当選者発表(仁都栗副会長)
ヒロシマ平和都市の歌合唱(広島放送合唱団女子部)
閉会の辞 (森沢常任理事代表)
(「中国新聞」1949年8月7日)
広島平和記念都市建設法公布の記念行事として開催された式典には、米英人80人、県選出国会議員ら来賓100余人、市民約3,000人が参列した。浜井市長は、平和宣言の中で同法の公布に言及するとともに、仁都栗市会議長と連名でトルーマン大統領あてに、「平和都市建設法を通じてなさんとする聖業の上に多大の関心を寄せられ、偉大なる人間愛の大使命達成の上に光栄ある御賛助を賜わらんことを懇願」するメッセージを送った(「中国新聞」1949年8月7日)。また、恒久平和の象徴として建設する平和記念公園の設計図は、145点の応募の中から、丹下健三ら4人の共同作品が当選と決定し、式典の中で公表された。このほかに、8月6日には、広島平和記念都市建設法公布記念切手が発売されている。
海外でも、この日を期して第2回世界平和デーの行事が催された。アメリカ・オークランド市のアルフレッド・パーカー(世界平和日運動の提唱者)の連絡によれば、カリフォルニア州で渡米中の谷本清の主宰で記念式典が開催され、ニュージャージー、ニューヨーク両州、サンフランシスコ市の各教会が原爆投下時刻に平和を祈る鐘を鳴らしている(「中国新聞」1949年8月27日)。また、アメリカ以外でもつぎのような動きが見られた。
フィリピン政府は、この価値ある目的に全面的に賛同すると表明し、デリーでは18ケ国大使からメッセージを受取り、ブタペスト、ハンブルグ、ミューニッヒ、バンガロール、ロンドンは大集会を催し、ベルリンは公園 で永遠の平和の火を点じ、ブルッセルでは「戦争停止」の独得の平和運動 を起こし、オーストラリア、ノールウェー、ウルグワイなどは全国的に放 送し、(中略)オーストラリアでは多くの集会や行事をしてこの日を祝賀した。
(「中国新聞」1950年4月11日)
1949年の4月初め、渡米中の谷本清は、ノーマン・カズンズとジョン・ハーシーの示唆により、広島市に対し、トルーマン大統領あての平和請願署名運動を実施するよう勧めた。谷本らは、7月中ごろまでに10万人以上の署名を入手し、8月6日に大統領に手渡す計画であった。しかし、広島市は、広島平和記念都市建設法案の住民投票との重なりを考慮し、平和祭を期して署名運動を開始することとした。「世界最初の原子爆弾戦争を体験した我等広島市民は、アメリカ大統領に対し国際連合を強化し、今後の戦争を防止し得るような強力な世界組織を作らんことを請願す」とある請願書の署名運動は、8月13日から開始された。この署名は、8月下旬までに10万7,854人分が集まり、5冊に綴ってカズンズあてに送られた(谷本清『ヒロシマの十字架を抱いて』)。
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)
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広島大学蔵 |
原爆にたをれむ人もやすらかに平和の光受けて眠らむ
広島平和記念都市建設方案
(昭和24.9.20立案) |
企画部 |
建設構想の研究、実施の促進 |
建設法に伴ふ国家各機関との交渉 |
建設予算編成と財源捻出(県市、国家、外国) |
都市形態整備 |
特殊的 |
記念保存物調査決定(産業奨励館、原爆十景等) |
新建設物 |
慰霊塔(平和塔) |
記念館 |
美術館 |
科学館 |
一般的 |
土木工事 |
道路 公園 |
軌道 ガス |
上下水道 |
橋梁 |
建築工事 |
公共文化、社会事業的建造物 |
個人住宅 |
内容充実 |
霊場設置 |
二十万犠牲者の鎮魂場 |
原爆資料 |
実物、写真 |
調査蒐集 |
文書、統計 |
平和精神涵養 |
講演会(教育、宗教、文化団体連絡) |
雑誌(平和協会ヨリ発行) |
市旗(平和都市象徴・各戸掲揚) |
平和祭発展 |
行事の研究(世界的構想へ) |
市民の熱意表現工夫 |
世界平和運動 |
国際連合、ユネスコ連絡(行事) |
会場の建設 |
文化施設内容 |
美術館 |
資料研究、調査、蒐集 |
科学館 |
『HIROSHIMA』(発行所:Hiroshima Publishing Company<観音町613>、1949)
内容
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Hiroshima’s role in Japan |
Paintings Hatsusaburo Yoshida |
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Hiroshima its former Military role |
Paintings Hatsusaburo Yoshida |
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Emplosion of the atomic bomb |
Paintings Hatsusaburo Yoshida |
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Hiroshima that evening |
Paintings Hatsusaburo Yoshida |
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Love in the Ruins |
Tomikazu Matsui |
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Effects of the atomic bomb |
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1.Scientific phenomena of the atomic bomb |
T.Fujiwara, D.SC. Professor of Hiroshima University |
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1 |
国泰寺大樹 |
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2 |
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3 |
元安橋 |
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4 |
御幸橋 |
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5 |
萬代橋 |
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6 |
ガスタンクに遺された影 |
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7 |
墓石 |
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8 |
国泰寺石塔 |
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2.Medical aspects of the atomic bomb |
K.Takeuchi,M.D. Former;Director Hiroshima red cross hospital |
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Atomic Bomb Casualty Comission Medical Research Program |
<未完> |
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American contributions to the people of Hiroshima |
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Hitoshima today |
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History of Hiroshima |
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Looking at old Hiroshima |
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Present impressions and future outlook |
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Hiroshima speaks |
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Visitors to Hiroshima |
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Commanding officers of the Hiroshima M.G. team and city planning advisor |
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Map of urban Hiroshima |
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Table of contents |
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Paintings |
Hatsusaburo Yoshida |
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Hiroshima |
Masanori Nagao |
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Love in the Ruins |
Tomikazu Matsui |
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Photographic Section |
Etsuji Kato |
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Hiroshima Speaks |
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Four Outstandings News |
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Map of Hiroshima |
Fujito Haitani |
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『生きているヒロシマ』(中島健蔵<著者代表>、田中嗣三<発行者>発行所<広島県観光協会>、19490510)
目次
頁 |
タイトル |
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005 |
まえがき 生きているヒロシマ |
中島健蔵 |
009 |
戦前ヒロシマの珍らしい航空写真 |
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010 |
ヒロシマ小史 |
山室太柁雄 |
011 |
140年前のヒロシマ絵図と広島城 |
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013 |
地上から撮ったヒロシマの原子雲 |
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014 |
原子沙漠(爆撃当時の爆心地附近) |
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016 |
被害区域地図と破壊状況各種 |
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018 |
繁華街の跡 |
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019 |
破壊状況を示す4枚の写真 |
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020 |
元の産業奨励館と爆破後の同館 |
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020 |
元の相生橋と破壊された同橋 |
|
021 |
以前の泉邸と焼かれた泉邸 |
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022 |
爆心地から同距離に於ける破壊状況を示す3枚の写真 |
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023 |
爆心地から異った距離に於ける3ッの破壊物 |
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024 |
段原町附近の民家の屋根 |
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025 |
ヒロシマ病院で手当てを受け荷車で帰る負傷婦人 |
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026 |
植物も例外ではなかった!(松、竹、橙、ヒヒラギ等の火傷) |
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028 |
活躍した科学陣 |
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028 |
軍国日本の最後(無残に吹き飛ばされた兵器廠・大本営・城) |
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030 |
3年目のヒロシマはどうなっていたか?(城跡、蓮池、孤児たち、平和の樹、建築、繁華街、街頭所見、店舗その他) |
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042 |
3年後の同じ場所を比較対照する |
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044 |
中国新聞屋上から鳥瞰したヒロシマ市街の新旧対照写真 |
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046 |
ヒロシマを訪ねた天皇 |
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047 |
平和祭 |
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048 |
その後の子供の世界 |
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049 |
本川小学校の生徒たち |
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050 |
無心に遊ぶ子供 |
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051 |
たそがれの孤独な幼児 |
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052 |
五日市孤児収容所の生活 |
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053 |
僧侶になった5人の孤児 |
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054 |
爆心地附近のその後 |
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056 |
復活した二つの教会 |
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058 |
ハーシーの「ヒロシマ」の中に出てくる6人の登場人物訪問記録 |
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060 |
珍らしい原爆被害の現象9種 |
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062 |
われわれが訪問した6人の犠牲者とその話 |
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064 |
赤十字病院のその後 |
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064 |
被害を受けた看護婦さん |
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064 |
有名な第1号患者 |
|
065 |
施療状況 |
|
065 |
壁に突きささった窓硝子の破片 |
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066 |
ヒロシマの民主化 |
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071 |
ヒロシマは本当に復興したのか? |
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072 |
みじめな住宅 72 |
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073 |
舟の住居 |
|
073 |
川縁の壕舎 |
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073 |
大本営跡のアベック |
|
074 |
たちあがるヒロシマの青春男女 |
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074 |
英文学習 |
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074 |
広島聖心女学院 |
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077 |
海浜の娘たち |
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078 |
平和都市ヒロシマは日本でも最良の観光地帯である! |
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078 |
海に浮ぶ厳島神社 |
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080 |
日本最古の踊り |
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082 |
厳島の奇妙な行事 |
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085 |
観光列車 |
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087 |
三段峡の奇景と典型的な日本農家 |
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089 |
茶ノ湯に招かれた占領軍家族 |
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090 |
ヒロシマ農村風物誌 |
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092 |
七塚村の大牧場 |
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093 |
吉田口の梨畑 |
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094 |
三次町の鵜飼 |
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095 |
帝釈峡の風景 |
|
096 |
帝釈峡の鍾乳洞と美しい石灰岸壁 |
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096 |
怪物さんしょう魚 |
|
097 |
川底の奇現象 |
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097 |
道後山スキー場 |
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098 |
福山駅と福山城 |
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098 |
優良酒の産地と醸造実況 |
|
100 |
以前の要塞地帯を探る |
|
100 |
呉軍港はどうなっているか? |
|
105 |
江田島の現在 |
|
106 |
瀬戸内海風景 |
|
110 |
倉橋島の魚猟 |
|
114 |
日本軍隊防備の跡 |
|
115 |
怒り島 |
|
115 |
緬羊 |
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116 |
大崎島の蜜柑畑 |
|
117 |
軍艦伊勢の末路 |
|
118 |
新造船平和丸 |
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120 |
尾道から瀬戸内海を望む |
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122 |
生口島の寺院と宝物 |
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124 |
捕鯨船の建造(因ノ島) |
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125 |
塩田 |
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126 |
鞆港風景 |
|
127 |
家なき吉和村の人々 |
|
128 |
尾道港の夕景 |
|
|
「Living Hiroshima : scenes of A-bomb explosion with 378 photographs including scenery of Inland Sea」 |
平和擁護広島大会宣言
1949年10月2日
平和擁護のための宣言
自由と平和を保証した日本の民主主義革命は最近極めて危険な状態を示してきました。好戦的なファシストたちは、またもや戦争によって利益を得ようとしはじめ、そのための障害となる政治・経済の分野は勿論、科学、芸術、思想、教育などにおいて、さらにそれは日常生活の瑣細な一点に至るまで、総ての民主主義的なものに対して狂暴な圧迫を加えつゝあります。このことは自由と平和を愛好してやまなかったわれわれがかつてのファシズムの被害者としての経験から身をもって知るところの現実であります。ことに民主主義革命の先頭に立ちその主体的役割を果しつゝある労働者階級の諸運動に対しては、最近血を見るほどの暴虐ぶりを示しております。政令、規則、条例などの公布による思想、集会、言論、結社、団体行動の自由に対する明白な蹂躙、全国到る所で惹起する労働争議並びに民主団体に対する警官隊を動員して無謀な弾圧など、憲法によって保証された基本的人権圧殺の事実は、まさにその集中的な現れであります。こうした今日の日本の現実からは、われわれが希ってやまない自由も平和も民族の独立も期待出来ません。さらにこのことは厳粛な世界史の方向にも逆行し人類に課せ られた論理をも無視したものであります。われわれが自然のような強さと深い憂いをもって平和のための一文を草したのもここに由来するものであります。
われわれはこのような矛盾に満ちた現実の中から自由と平和を闘いとるために民主主義革命の先頭をゆく労働者階級との結ぴつきを飛躍的に強化し農民、家庭婦人、青年、学生、中小商工業者たちとも親しく手をとり合い、知識人をもひろく結集して、平和のための一大防壁を築くと共に、今日の国際平和闘争デーを闘いつゝある全世界の平和を愛好する人々の総てと手を握り”戦争ならびにファシズム反対、平和擁護”のための世界的規模における闘いを推し進めねばなりません。
思いまするに、われわれが平和の象徴である広島の地から、こうした平和のための一文を掲げ、人民各層に呼びかけねばならなかったこのこと自体が自由、平和、民族の独立の危機!今日の現実が含む一切の矛盾!人類の生存にとって大きな不幸を招く危険!それらを極めて身近かに象徴していると思います。
われわれは以上のような趣旨によって、人民各層が一人残らず、これに参加し、実に強力な結集と統一との秩序ある広汎な組織を希望いたしますと同時に、われわれはその先頭に立って闘うことを宣言します。
最後に人類史上の最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として「原子爆弾の廃棄」を要求します。
1949年10月2日
国際平和闘争デー 平和擁護広島大会
出典:『ひろしま民報』第19号(1949年10月10日)
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
頁 |
事項 |
口絵 |
上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
|
下図:ライフ誌上に掲載された一文 |
|
「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 |
|
病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 |
|
永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 |
1 |
序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
5 |
目次 |
|
図:避難場所、休憩場所 |
1 |
思ひ出の八月六日 |
4 |
悲しき経験 |
11 |
命は助つたが |
15 |
生の欲望 |
|
「大粒の雨」、「西原国民学校」 |
21 |
遂に失神 |
|
「祇園青年会館」 |
25 |
その夜の救護所 |
|
「祇園神社」 |
29 |
可部町勝圓寺にて |
29 |
父を亡ふ |
|
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 |
33 |
八月十五日を迎ふ |
37 |
顕著な原爆症状 |
42 |
絶望より微かな希望へ |
52 |
焼土廣島の見開 |
59 |
復員列車をみる |
63 |
友情に泣く |
|
三次町より川内村へ |
70 |
無医村に迎へる冬 |
|
赤十字病院に入院 |
75 |
三度廣島へ |
79 |
闘病生活つづく |
87 |
山根さんの人間的魅力 |
91 |
再び思ひ出の八月六日 |
97 |
平和の黙祷 |
100 |
死の淵を彷徨 |
103 |
春を迎へて |
105 |
平和の礎石に |
111 |
実験臺上へ |
116 |
「ライフ」特派員と會ふ |
122 |
跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
|
後記( 吉川清) |
 |
帯 |
 |
口絵 |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html
報道篇(1949年)
見出し |
掲載紙 |
掲載月日 |
八月六日を“世界平和デー”に |
中国 |
0128 |
海越えて米婦人“愛の小包” |
朝日 |
0131 |
原爆広島の復興、外人に忠言を聞く |
朝日 |
0206 |
原爆の街ヒロシマ |
毎日 |
0209 |
原爆患者の被災実演を撮影 |
朝日 |
0316 |
「原爆の日」を祝日に“ヒロシマ”の著者にも |
毎日 |
0320 |
原爆都の皇太子さま |
中国 |
0407 |
ノーモア・ヒロシマズ運動 |
中国 |
0419 |
原爆罹災者の署名運動 |
中国 |
0515 |
全人類を愛で結べ |
中国 |
0604 |
きのう晴れの着工 |
朝日 |
0604 |
原爆孤児と仲良く半日 |
毎日 |
0609 |
原爆の広島救えと9萬ドル |
朝日 |
0618 |
鳴れ世界の果まで |
中国 |
0623 |
悲願広島の家 |
朝日 |
0702 |
原爆傷害研究所近く着工 |
? |
7020 |
賛成が圧倒 |
中国 |
0709 |
平和を祈る一票 |
毎日 |
0709 |
あす公式に開所式 |
中国 |
0713 |
八月六日を広島の日に |
毎日 |
0719 |
6・7・8の三日間広島で平和祭 |
毎日 |
0804 |
世界各地へ記念ポスター |
中国 |
0804 |
高らかに平和の鐘 |
毎日 |
0807 |
広島・長崎にノッポ人出現か |
中国 |
0822 |
原爆死者二十萬突破 |
中国 |
0830 |
米眼科医二名が来広 |
朝日 |
0908 |
平和生む最後の一撃 |
朝日 |
0926 |
吉川氏夫妻を激励慰問金を贈る |
毎日 |
1001 |
四年後のヒロシマ |
? |
1001 |
原爆研究所陣容を強化 |
毎日 |
1009 |
平和への道標 |
毎日 |
1015 |
原爆の眼への影響 |
中国 |
1103 |
広島平和センター |
中国 |
1119 |
広島で原爆都市青年交歓会 |
毎日 |
1121 |
初の国際学生会議 |
中国 |
1122 |
広島、長崎に新しい原子病 |
毎日 |
1122 |
原爆体験記を紹介 |
朝日 |
1123 |
広島に集まる同情の眼 |
舞に |
1228 |
広島ペンクラブ 19490408設立(「広島県大百科事典」(岩崎清一郎・記)では1951年5月発会)
機関誌『ペン HIROSHIMA』
巻号 |
発行年月日 |
著者 |
タイトル |
所蔵 |
|
|
所蔵:P=ピカ研、H=原爆資料館 |
1-1 |
19621031 |
発行人:田淵実夫 |
P |
1-2 |
|
|
|
P |
1-3 |
|
|
|
P |
10-5 |
19770501 |
|
|
H |
|
|
小倉馨 |
広島市長国連を行く |
|
|
19830325 |
|
|
H |
|
19840501 |
|
|
H |
|
19860520 |
|
|
H |
|
19870401 |
|
|
H |
|
19880415 |
|
|
H |
|
19881015 |
|
|
H |
|
19901201 |
|
|
H |
|
19910701 |
|
|
H |
|
19911230 |
|
|
H |
|
19920701 |
|
|
H |
|
19930101 |
|
|
H |
|
19930701 |
|
|
H |
|
19940701 |
|
|
H |
|
19941201 |
|
|
H |
|
19950601 |
|
|
H |
|
19951201 |
|
|
H |
|
19960815 |
|
|
H |
|
19961120 |
|
|
H |
|
19970220 |
|
|
H |
|
19980910 |
|
|
H |
|
19990515 |
|
|
H |
|
19990715 |
|
|
H |
|
20000115 |
|
|
H |
|
20000517 |
|
|
H |
|
20010115 |
|
|
H |
|
20020110 |
|
|
H |
|
20020510 |
|
|
H |
|
20070124 |
|
|
H |
|
20071121 |
|
|
H |
|
20080125 |
|
|
H |
|
20080521 |
|
|
H |
|
20080723 |
|
|
H |
|
20080917 |
|
|
H |
|
20090128 |
|
|
H |
|
20090728 |
|
|
H |
|
20100127 |
|
|
H |
2013(下) |
20130717 |
|
|
H |
2014(下) |
20140716 |
|
|
H |
2015(下) |
20150715 |
|
|
H |
2016(上) |
20160120 |
|
|
H |
|
|
舛井寛一 |
回想原田東岷会長 |
|
|
|
松本忠之 |
日米安全保障条約 |
|
|
|
吉中康麿 |
|
|
|
|
吉村良哉 |
ご対面 黄瀛さんと米田栄作さん |
|
|
|
今田 |
被爆七十年の広島 |
|
|
|
高崎宗利 |
節目の思い出と裏話(その二)ご視察での天皇陛下のご記憶とご配慮 |
|
|
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新川貞之 |
父をかえせ 母をかえせ 峠三吉さん |
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長谷川是求 |
是求柳壇―広島赤十字・原爆病院血液内科の日々 |
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2016(下) |
20160801 |
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H |
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梶矢文昭 |
オバマさんくるかなあ |
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舛井寛一 |
回想原田東岷会長(下) |
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全日本学生新聞連盟 1949年に結成
連盟通信(全日本学生新聞連盟発行)記事目録
No,56 |
発行年月日 |
頁 |
見出し(平和、反原爆関連) |
56 |
19500501 |
03 |
ストックホルム平和決議を支持 |
66 |
19500802 |
4-7 |
反戦平和特集 |
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18 |
慶応高校で平和投票禁止 |
67 |
19500818 |
06 |
”Sアピール特集” 広島原爆記念日にS署名聖火発表 各国でも大々的に記念 |
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10
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弾圧下行われた反戦平和大会=広島 |
68 |
19500902 |
14 |
”こんなにうれしい、こんなかなしいことはありません” 涙で語れぬ赤松さん 原爆三部作完成記念 |
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16 |
「原爆展」終る、9万の観客に深い感銘 |
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<未入力> |
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206 |
19550830 |
1~63 |
原水爆禁止世界大会特集にあたって |
所蔵機関:法政大学大原社会問題研究所
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。