「1979年」カテゴリーアーカイブ

白いチョゴリの被爆者

『白いチョゴリの被爆者』 (広島県朝鮮人被爆者協議会編、労働旬報社、1979年7月15日)
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)は1975年8月2日発足.本書には広島で被爆した18名の朝鮮人被爆者の証言を収録.他に、朝被協による朝鮮人被爆者実態調査結果も発表.

目次

肉声を聞く(松本清張)
スニのための鎮魂歌(許南麒)
なぜこんな体になったか忘れんでほしい(李永淳)
1 強制連行で炭鉱夫に
いわれた次の日にはもう家族と別れ/膝をまげ首までまげて穴を掘りました
2 怪我人の列が一日中続いとった
3 原爆スラムにバラックをたてて
劫火のなかに息子の焼かれるのをみて-戦争は私の家族何人を奪おうというのでしょう(辛福守)
1 『皇国臣民』につくりあげられて
”おしっこ”がいえずにおもらしする子供たち/日本に淡い期待をいだいてきたが
2 燃える体に学生服のボタンが三つ並んでいました
屍の間でかろうじて息をして/死なんぞ-子供二人につづいて夫も
3 重なる惨劇-黒人兵に射殺された弟一家と兄の死と
4生命あるかぎり
 犬のように殺されてたまるか-連行・逃亡・拷問のはてに(鄭順南)
1 ”鮮人”は豚以下だそうです
畑にトラックでのりつけ連行することも/幾度かの逃亡失敗/豚に食わせる砂糖があってもおまえにはやらん
2 川もぎっしり死体で埋められてました
3 日本人のあなたに考えてほしい
 Ⅳ  地獄絵のなかの差別-貴様!!朝鮮人のくせにギャアギャアいうな!(呉鳳寿)
 1 土地をとられて小作させてもらい
2 どこでも一番危ない仕事は朝鮮人
3 こんな目に遭うても-忘れられないあの言葉
4 一冊の本になるほどの苦難の末に
食べ物で二人の子を失い/朝鮮を二度と植民地にしない子に育った
  Ⅴ 売春婦に売られて(金末順)
1 だまされて日本の遊かくへ
2 やっとつかんだ幸せを原爆に奪われて
日本人はわしらを人間と思うとらんかった(南貴浩)
1 生きているのが不思議なくらいいじめられた
2 生き残ったのは部落の一割
3 朝鮮人は朝鮮へかえれといいよる-さんざこきつかっておいて
 四六年間”楽しいこと”は一つもないです(鄭寿祚)
1 一○歳で子守に出されました
2 人間かお化けか
3 植民地なんかなかったら
一人が泣いて四人を助けるつもりで/故郷へ帰って両親の墓まいりするまで生きたい
一瞬の黒い熱い大波におおわれて(呉乙鶴)
 1 被爆-空中から卵型みたいなのがピカッ
2 産まれる子供が次つぎと
3 私が非常に訴えたいこと
4 朝鮮人は死んでも灰も届けられない
雨が降っても学校に傘もってくるな-朝鮮ブタ朝鮮ブタとさげすまれ(権重判)
1 炭鉱を脱走した一七歳年上の主人と結婚
2 人間がイワシのように並べられ-爆風で白いかたまりの被爆者も
3 苦しみの倍加-子供への民族差別
一家六人をかかえてヤミ米買い出し/学校でも就職でも
だれのためになんのために-どうしてもいっておきたい就職差別(文七権)
1 まるで強盗でした-ウュノムの仕うち
2 おまえは鮮人だから-日本での屈辱
3 追われて広島へ-被爆の苦痛
4 希望の子供らまで就職差別され-戦後も消えぬ苦しみと怒り
ⅩⅠ おまえらみたいな奴 三厘でいくらでも手に入るんだ-逃亡生活・徴兵拒否のはてに(朴在寿)
1 貧困と差別のなかで
2 逃亡生活
一年余の徴兵拒否の逃避行/徴兵検査-父連行の脅迫で
3 人間が木炭のように
4 日本人以下に扱われる理由はないのです
ⅩⅡ ”新日本人”と口先ではいいながら(黄義錫)
1 消えない思い出
2 戦争のために
朝鮮人は劣等人間だからつき合えばバカになる/ていよく日本政府の番犬につかわれて
3 どの人も裸同然でした
4 日本のためにのみ働かされてきたのに
ⅩⅢ 広島の街が大地に叩きつけられたように(柳昌洙)
1 太陽が黒くみえた
2 心のやすらぎがほしいんよね
3 子孫が二の舞をふんでは死にきれん
ⅩⅣ 歴史の底で死んだ母(鄭文玉)
1 どの家庭も食べ物をあさる生活
卑屈な運命をたどる旅立ち/夢を破られた父との再会
2 日本が手を上げるならもっと早ければ
3 せめて人権だけでも-新憲法下でも変わらない仕うち
4 いまも暗い歴史を背負い
ⅩⅤ 子供らに希望を語りつづけて-朝鮮人被爆教師として(朱碩)
1 故郷も生活を荒らしまくられて
2 死の行列はあとからあとからつづき
3 反戦・平和・民族教育の灯を守るために
4 父母たちはなぜ被爆したか、なぜ原爆は落とされたのかを教えて
ⅩⅥ 土地・言葉・故郷・八人の肉親を奪われて
1 全財産を奪われて
2 血のようなくやし涙-妻も兄も八人の肉親を失い
けん命に生きる人間のすべてを奪った原爆/なぜ最も善良なものが最も過酷な運命を
3 放置された被爆者のために
ⅩⅦ 顔をみて”つける薬はない”と無視しました-事実を互いの民族がみつめあってこそ(閔基鎬)
1 一日も胸をはって生きられなかった少年の日日
2 原爆と空襲のなかで
気づかずに積みあげた死体の脇に寝て/むごい体験
3 日朝のほんとうの交流をつくるために
ⅩⅧ この世に生まれた価値を失わないために
ⅩⅨ 被爆朝鮮人問題と「朝被協」(李実根)
1 被爆朝鮮人の由来
一 在日朝鮮人の形成
二 軍都ヒロシマ-朝鮮人ヒバクシャ
2「朝被協」の結成と活動
一 その結成と足跡
二 在広朝鮮人被爆者の実態調査
あとがき
表紙絵・文中カット四国五郎

 

原爆問題広島総合研究会

原爆問題広島総合研究会 1979年2月設立

会報

No. 発行年月日 所蔵
G=原爆資料館、U=宇吹
01 19790715  庄野直美  研究会設立に際して GU
02  1980.01.25  シンポジウム報告特集号  NGO被爆問題国際シンポジウム2周年記念合同研究会報告 G
シンポジウム「核兵器と人類の生存」の報告
03  1980.04.15  小寺初世子、木本喜美子  外国人の核意識―大学卒外国婦人に対する試験的調査のまとめ― GU
04  1980.06.28   被爆朝鮮・韓国人問題特集号 「被爆朝鮮・韓国人問題シンポジウム」報告 GU
問題提起概要
石田定
渡辺正治
栗原登
上原敏子
石田定
鎌田定夫
豊永恵三郎
平岡敬
深川宗俊
李実根
崔成源
05  1980.08.06  平岡敬  被爆朝鮮・韓国人に関する資料目録 GU
06  1980.10.24  在韓被爆者実態(補充)調査活動の経過と分析 韓国の原爆被害者を援護する市民の会 G
07  1981.06.30  「被爆者問題シンポジウム」報告 G
茅誠司 「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」
08   1981.07.10  ロートブラット氏とセガーラ女史を囲む懇談会の記録―「核拡散の問題点」および「軍縮のための国連の活動」 G
09  1981.09.30  「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 G
10  1982.01.30  小寺初世子  より効果的な核兵器の禁止を求めて―国際刑法典の制定をめぐる最近の国連活動への期待― G
11  1982.03.20  IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕 G
12 19821225 石田定 IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕第二回総会に参加して G
湯崎稔 シンポジウム「反核の軍縮の今後」―SSDⅡを終えて―
永井秀明 10フィート映画の欧米上映で得たもの
好村冨士彦 平和のための国際文学者会議を終えて
谷口稜曄 反核運動と被爆者
高橋真司 ナガサキからニューヨークへ―ポストSSDⅡへの展望
メッセージ
庄野直美 シンポジウムのまとめ
1982年度総会報告
1982年度原爆問題広島総合研究会役員
代表 庄野直美
顧問 今堀誠二・・・
幹事 石田定・・・・三村正弘(福島生協病院)・・・
事務局長 湯崎稔
会計監査 相原和光

 

三十五年目の被爆者

『三十五年目の被爆者』(広島原爆被害者問題ケースワーカー研究会編、労働教育センター、19790720刊)

目次

はじめに
富岡啓子 広島原爆障害対策協議会 二人の娘に残したもの-中川和子さんの場合
若林節美 広島原爆病院 絵に託すねがい-宮本広三さんの場合
池田みはる 草津病院 病室の中で-品川和三一さんの場合
江崎須賀子 広島市民病院 肝障害を押して-工藤志げのさんの場合
西村清登 放射線影響研究所 光をうばわれた半生-杉沢浅代さんの場合
白石順子 元放射線影響研究所
三村正弘 福島生協病院 生きていてよかったといえる日まで-富永初子さんの場合
塚本弥生 広島市民病院 平和を願い、訴えつづけて-藤枝良枝さんの場合
桶舎洋子 元安佐協同病院 長袖で過ごした青春-西田豊子さんの場合
加藤礼子 広島赤十字病院 生きる重み-長沢豊太郎さんの場合
山田寿美子 福島生協病院 二重の障害を背負って-西本良子さんの場合
座談会-いま被爆者は 石田明(全国被爆教師の会)、湯崎稔(広島大学)、富岡啓子、三村正弘、若林節美