原爆遺跡後世に伝えて―『赤旗』1992年8月6日
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原爆遺跡後世に伝えて―『赤旗』1992年8月6日
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1992年は,冷戦終結にともない,ウクライナ,ベラルーシからの戦術核解体・撤去作業の開始(1月),米ロ首脳会談での戦略核兵器の大幅削減の合意(6月)など,核をめぐる新たな動きが現れた.またアメリカでは,6月に下院,8月に上院が核実験停止法案を可決,10月にはブッシュ大統領が署名した.
こうした核軍縮の急展開にともない,核兵器の拡散,旧ソ連の核管理,原発管理などをめぐる問題が新たにクローズアップされた.
広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事が行われた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,92年8月2-9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1992年世界大会を開催した.24ヵ国,7国際・地域組織からの50人の国際・海外代表を含め,廷ベ1万2000人(広島8500人,長崎3800人)が参加した.長崎の大会では,く核兵器廃絶-「広島・長崎,核実験地周辺の被害と後遺についての国際シンポジウム>が開かれ,アメリカ,旧ソ連,マーシャル諸島の核実験被爆者などが参加した.
原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆47周年原水爆禁止世界大会も,8月4~9日広島・長崎で,それぞれ6500人,3500人規模で開催された.海外からは,11ヵ国から22人が参加した.
このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月1日に広島市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,連合が両被爆地で独自に開催した2回目の平和集会には,合わせて2000人が参加した.
国内の非核宣言自治体の総数は,92年3月に1684となり全自治体の過半数に達した.6月15~18日には,〈大量破壊兵器の不拡散〉をテーマにした国連軍縮広島会議が開催された(19ヵ国から56人が出席).11月4~7日,第6回国際非核自治体会議が,く核兵器の廃絶と恒久平和の実現をめざして>をテーマに横浜市で開催された.アジアで初めて開催されたこの会議には,19ヵ国130自治体(海外の自治体は22)の首長や議員など約800人が参加した.
4月15日,川崎市が,核兵器廃絶平和都市宣言(1982年6月8日)に基づく事業の一環として,26億円を投じて平和館を開設した.91年9月には,大阪府と大阪市が共同で〈ピースおおさか(大阪国際平和センタ)〉を開設しており,92年1月17日には鈴木東京都知事が〈平和記念館〉(仮称)の建設方針を正式に表明している.82年に〈非核〉をテーマとして出発した日本の自治体の平和行政は着実に定着し,終戦50周年を前に,<国際><平和>などのテーマを加え,新たな展開を始めている.
広島・長崎では,被爆建造物の保存と海外のヒパクシャとの交流の動きが活発となった.広島では,8月に市の被爆建造物等継承方策検討委員会が29の被爆建造物の保存・継承方法について報告書をまとめた.また,同市議会は9月29日,原爆ドームを世界遺産条約に基づく(文化遺産)として追加推薦を国に求める意見書を採択した.長崎でも平和公園内の旧浦上刑務支所の保存を求める運動が展開されている.
反原発では,10月4~5日,日本の原子力資料情報室とアメリカの核管理研究所が,都内で〈アジア・太平洋プルトニウム輸送フォーラム〉を開催した.この会議では,15ヵ国・地域からの参加者が,日本のプルトニウム輸送を厳しく批判した.また10月18日には,原水禁国民会議などが,敦賀市で〈止めようもんじゅ全国集会〉を開催(4000人が参加)している.
大量動員の動きはみられなかったが,いくつかの国際会議が開かれている.核戦争防止国際医師会議は,第3回アジア太平洋地域会議を92年7月22~23日に韓国のソウルで開催した.また,世界ウラン公聴会(9月13~19日,オーストリア,ザルツブルク,52ヵ国・地域から600人が参加)と第2回核被害者世界大会(9月20-25日,ドイツ,ベルリン,約60ヵ国から500人が参加)の二つの被爆者中心の国際会議も開催されている.このほか,フランスのシェルプール港から日本へのプルトニウム輸送への抗議の声が,輸送ルート周辺各国で起こり,グリーン・ピースなどが,輸送船くあかつき丸>の入港(11月7日)に対して激しい抗議行動を展開した.93年1月5日,〈あかつき丸〉は茨城県の東海港に入港し,同日に約6割のプルトニウムが3km離れた動力炉・核燃料開発事業団の燃料工場に運び込まれた.今回のプルトニウム輸送について,動燃の石渡鷹雄理事長は,〈理解を求める努力に欠け,各国に不必要な心配をかけたことは反省すべきだ〉と述べた.
『マンハッタン:陸軍と原爆―第2次世界大戦中の合衆国陸軍:特別研究』(Vincent C. Jones著、合衆国陸軍軍事史センター、1985年刊)
目次
部章 | 見出し | 備考 |
序言:1939年までの原子力の歴史 | ||
Ⅰ | 原爆開発任務の始まり | |
Ⅱ | 核分裂物質の生産 | |
Ⅲ | 支援活動 | |
Ⅳ | 原爆 | |
Ⅴ | 原爆開発任務の完了 | |
Ⅳ | 原爆 | |
24 | ロスアラモスの兵器プログラム | |
25 | 兵器開発と実験 | |
26 | 日本への原爆投下 | |
原爆投下部隊の準備 | ||
原爆使用の決定 | ||
原爆投下 | ||
日本の降伏 | ||
原爆の効果の調査 | ||
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広島大学原医研・疫学部門の抄読会(19920914) 宇吹報告(「マンハッタン:陸軍と原爆」)用レジメ。 |
マンハッタンは、陸軍航空軍の7月26日の命令[ハンディ発スパーツ原爆投下命令]の実行にあたり、重要な協力的役割を担った.トップレベルでは、グローブズ将軍が、ワシントンのアーノルド将軍のスタッフとの接触、テニアンの彼の代理(カークパトリック大佐、7月31日からはファーレル将軍)、キング提督から太平洋戦域の海軍司令官たちと原爆投下業務を調整することを任されたパ-ネル提督を通して、投下部隊全体に影響力を保持していた. ファーレル将軍は、進行中の日本への原爆投下の準備を調整するようグローブズから特命を受け、中部太平洋に到着した.ファーレルは.まずグァムに降り、ルメイ将軍(この直後に合衆国陸軍戦略航空軍参謀長に就任)とニミッツ提督と協議を行った.テニアンに移動してからは、ファーレルは、パ-ネル提督とパースンズ大尉を訪問した. ファーレルは、かなりの時間をパ-ネル提督と過ごした.パーネルは、第1技術支隊が7月の間にテニアンで行った集中的な活動について詳細に語った.同支隊は、第509部隊の他の部門と海軍の協力で、爆弾、特にリトルボーイの部品の組立とテストのための技術的能力を蓄え、緊惷時における硫黄島での再装填の能力のチェックを慎重に実施していた.更に、パースンズは、彼が新たに組織したプロジェクト技術委員会の役割についてもファーレルに語った.その役割とは、ガン型および内破型両タイプの複雑な最終テストと組立に関して、彼が計画し、陸軍航空軍の部門と協力することを援助することであった. 両タイプの爆弾の部品とアクティブ原料[ウラン]は、原爆投下部隊が実際に使用する直前に、テニアンの支隊に届いた.まず、リトルボーイのものが届いた.部品とU-235の大部分は、7月中旬にロスアラモスを出発した.それまでは、ロバート・R・ファーマン少佐(グローブスのワシントンの司令部から派遣された特別プロジェクト将校)、ジェームズ・F・ノーラン大尉(ニューメキシコ実験場の主任軍医将校)の厳重な管理下にあった。<以下未入力>
|
月 | 日 | 記事 |
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05 | 10 | 広島大学医学部学生、「被爆者医療」などをテーマに医学展を開催。5年ぶり。 |
05 | 27? | 広島市公文書館、特別展「原爆文献にみる戦後史」を開催。-6月31日。 |
06 | 01 | 広島市江波山気象資料館、開館式を挙行。関係者約150人が参列。 |
06 | 14 | 平和展「ヒロシマ原爆」、沖縄県の南風原文化センタ-で開幕。-28日。広島市原爆資料館や広島平和文化センタ-から借り出した資料を展示。 |
06 | 23 | 本橋成一の写真と貝原浩の絵画を集めた展覧会「チェルノブイリ・大地の結び」、丸木美術館(埼玉県東松山市)で開幕。-7月12日。 |
07 | 01 | 新日本婦人の会徳島支部、徳島市役所ロビーで「平和パネル展」を開催。-3日。4回目。 |
07 | 07? | 第13回ながさき8・9平和展の実施要項決まる。 |
07 | 11 | 1951年7月に京都市内で開催された「総合原爆展」の参加者ら、京都市内で当時の状況を語り合う会合を開く。 |
07 | 13? | 「核兵器のない世界を」展、大阪国際平和センタ-で開催。-8月30日。「マンハッタン計画」50周年の特別展。 |
07 | 14 | 広島市立中央図書館、海外の書籍など45点を集めた「海外の被爆文献資料展」を開催。-26日。 |
07 | 15 | 第13回ながさき8・9平和展企画委員会、8月5-9日に県立美術館で開催される展覧会の出品作品の申込を受け付ける。-30日。 |
07 | 22 | 広島市安佐北区の日浦公民館、「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」を開催。-8月6日。今回が9回目。 |
07 | 25 | 広島市現代美術館・中国新聞社主催「丸木位里展」、広島市現代美術館で開幕。-9月6日。 |
07 | 29 | 広島市公文書館、「占領下の原爆災害調査展」を開催。-8月末。 |
07 | 30? | 広島市の竹屋公民館、「市民が描いた原爆の絵展」を開催。50点を展示。-31日。 |
08 | 01 | 広島市祇園西公民館、原爆の絵展を開催。-31日。 |
08 | 01 | 広島市祇園公民館、ヒロシマ原爆写真展を開催。-17日。 |
08 | 03 | 茨城県被団協下館支部など、原爆写真展を下館市内で開催。-7日。 |
08 | 04 | 新潟県被団協など、写真展・絵画展などを新潟市役所前で開催。-7日。 |
08 | 05 | 「ながさき8・9平和展」、県立美術博物館で開幕。-9日。 |
08 | 05 | 新潟県被団協など、平和祈念行事を新潟市役所前で開催。 |
08 | 06 | 広島市平和記念公園の旧天神北組跡地で同町の被爆死者200人の写真展。 |
08 | 07 | 「ながさき原爆の写真展」、長崎市の平和公園で開催。-10日。 |
08 | 07 | 創価学会インタナショナル、長崎池田平和会館で「戦争と平和展-人類の課題・生命の世紀をひらくために」を開催。-16日。 |
08 | 08 | 山梨県被団協・YWCA、「被爆者の描いた絵展」を甲府市内で開催。 |
08 | 08 | 「ヒロシマ・ナガサキ原爆写真展と被爆体験を語る集い」、滋賀県津市で開催。 |
08 | 11 | 「平和のための戦争展」、東京・山手教会で開催。-15日。 |
08 | 24 | 広島県教組海田地区支部、「ヒロシマ・ナガサキ・オキナワ写真展」を東広島市で開催。-30日。 |
08 | 28 | 埼玉県松山市の原爆の図丸木美術館が募集した「丸木夫妻と広島を訪ねる会」の一行25人、広島市現代美術館で「丸木位里展」を鑑賞。 |
09 | 01 | 「ヒロシマ・ナガサキ被爆写真展」、佐伯郡湯来町農村環境改善センタ-で開幕。-30日。 |
09 | 16 | 月下美紀、韓国のソウルYMCAで「平和のひとりごと展」を開催。1週間。 |
10 | 22 | 「被爆写真パネル展」、JR長崎駅のイベント広場で開幕。国連軍縮週間の行事の一環。-26日。 |
『爆心地ヒロシマに入る カメラマンは何を見たか
』(林重男 、岩波ジュニア新書208 、19920619)
目次
章 | ||
1 | パノラマ写真 | |
原爆災害調査団 | ||
パノラマを撮る | ||
パノラマ写真を見る | ||
技術上の問題点 | ||
2 | 広島を撮る | |
志願してヒロシマへ | ||
第一日目 | ||
護国神社 | ||
島病院の伝言板 | ||
西向寺 | ||
産業奨励館 | ||
広島瓦斯本社 | ||
広島城址 | ||
相生橋 | ||
庶民金庫(商工中金) | ||
中国新聞社屋上からのパノラマ | ||
植物への放射能障害 | ||
枕崎台風 | ||
日照計の記録 | ||
3 | 裏側から見た戦争 | |
東方社に入る | ||
大艦隊や大戦車隊を”つくりあげる” | ||
新鋭機発表 | ||
”空中遊泳” | ||
東京に戦火せまる | ||
松戸上空の死闘 | ||
撃墜記録が敗戦記録に | ||
敗戦 | ||
4 | 長崎を撮る | |
ある兵士を護送する | ||
パノラマを撮る | ||
城山国民学校 | ||
市電大橋終点 | ||
ガスタンク | ||
山王神社 | ||
山里国民学校 | ||
浦上天主堂 | ||
長崎医科大学付属病院 | ||
三菱重工長崎兵器製作所大橋工場 | ||
最上少年の被爆 | ||
鎮西学院からのパノラマ | ||
アトミックーフィールド | ||
春木町丘陵からのパノラマ | ||
新興善国民学校からのパノラマ | ||
長崎を離れる | ||
5 | 原爆カメラマンたち | |
接収されたフィルム | ||
原爆災害を記録した人たち | ||
原子爆弾を最初に撮った人―山田精三さん | ||
ファインダーが涙でくもった―松重美人さん | ||
縮景園の感動を呼びおこした写真―松本栄一さん | ||
6 | 写真が生んだ感動 | |
返還されたフィルム | ||
城山国民学校との再会 | ||
ニューヨークに展示された写真 | ||
「反核・写真運動」 | ||
孫の一言 | ||
あとがき |
書誌1992
書名 | |||
広島市神崎保育園40周年記念誌 | 広島市神崎保育園後援会 | 19920331 | U |
藤居平一氏より受贈 | |||
『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』
「いのちの塔」手記集編纂委員会
中国新聞社 19920610
目次
グラビア | 痛恨の『あの日 あの時』 | |
核時代の生命のしるし ~序にかえて~ | 大江健三郎 | |
プロローグ | 被爆前後の日赤かいわい | 前保美枝子 |
証言・その一 ~周辺住民と入院患者ら~ | ||
一枚の白衣 | 宗藤尚三 | |
八月六日 | 笠間徳子 | |
長い白日夢 | 真栄田年穗 | |
救護活動の拠点・日赤で | 中谷昇 | |
まるで悪夢の日々 | 中島睦男 | |
父と弟の死の日に | 船倉[土+坒]子 | |
証言・その二 ~医師・看護婦~ | ||
外科医の、それは“悲しい日々”が… | 服部達太郎 | |
ヒロシマを語りつぐもの | 入江長生 | |
生き残った一人として | 宇野ヨネ子 | |
二十歳の夏に | 面田孝子 | |
従軍看護婦になりたかった私 | 内田千寿子 | |
婦長の一言に励まされて | 栗原アヤコ | |
若い血を躍らせた館 | 浅野智恵子 | |
無念の涙 | 大阪己佐子 | |
耳を澄ませば聞こえる悲鳴 | 高田静子 | |
青春の詰まる“故郷” | 小里美智子 | |
証言・その三 ~被爆後の入院患者~ | ||
日赤病院で受けたケロイド手術 | 光島太郎 | |
日赤は生きる希望でした | 米田美津子 | |
日赤入院とその後 | 吉川生美 | |
今もお世話になる日赤なのに… | 小野春子 | |
詩・『窓』 | 野津彼方 | |
小説 『母の炎』から | ||
母の炎 | 山口勇子 | |
考証 『被爆遺跡としての日赤本館』 | ||
広島赤十字・原爆病院の建築について | 石丸紀興 | |
未来へのメッセージ | ||
「広島日赤病院本館」について | 後藤陽一 | |
核政策への無言の抵抗碑として | 伊東壮 | |
貴重な原爆遺跡を保存しよう | 久保浦人 | |
あとがき | 宗藤尚三 | |
資料編 | ||
<資料1> | 広島赤十字・原爆病院保存運動の経過 | |
<資料2> | 広島赤十字・原爆病院の沿革 | |
<資料3> | 座談会・あの時の広島赤十字病院 |
被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(被爆建物等継承方策検討委員会、平成4年[1992年]8月)目次
平成4年8月20日 委員長 庄野直美 ➡ 広島市長 平岡敬 | ||
Ⅰ | まえがき | |
Ⅱ | ||
Ⅲ | 本委員会の審議経過と意見 | |
参考 | 被爆建物等継承方策検討委員会 | |
1 | 被爆建物等継承方策検討委員会開催状況 | |
2 | 被爆建物等継承方策検討委員会設置要綱 | |
3 | 被爆建物等継承方策検討委員会委員名簿 |
広島県旧陸軍被服支廠保存・活用懇話会
設置:1992(平成4)年8月4日
動向
月 | 日 | 事項 |
1992年 | ||
03 | 05 | 竹下広島県知事、県議会で旧陸軍被服支廠の保存に前向きの答弁。また、放射線被曝者医療国際協力推進協議会の事業に原爆被爆の実相や「ヒロシマの心」を伝える内容を盛り込む意向を表明。 |
06 | 01? | 広島市の旧陸軍被服支廠の保存・再生案、市民グループによりまとめられる。 |
06 | 29 | 広島市内の市民グループ、被爆した旧陸軍被服支廠の保存・再生案の提案書「赤れんが生きかえれ」を所有者の県に提出。 |
08 | 04 | 広島県、旧陸軍被服支廠保存・活用懇話会を設置。 |
09 | 18 | 広島県、旧陸軍被服支廠保存活用方策懇話会の初会合を開催。現地も視察。 |
11 | 16 | 橋本秀夫広島県建築士会副会長、旧陸軍被服支廠を調査。取り壊しを控え調査を要望。 |
11 | 19 | 原爆遺跡保存運動懇談会、旧陸軍被服支廠の保存・活用方法について、被爆の実相を伝える工夫をするよう広島県知事らに要望書を提出。 |
1993年 | ||
01 | 12? | 広島県建築物調査・改修協同組合、旧陸軍被服支廠の耐久度調査結果を発表。改修や補強で再利用はOK。 |
02 | 01 | 広島県の「旧陸軍被服支廠保存・活用方策検討委員会」、第3回会合(最終)を開催。 |
04 | 16? | 広島県の「旧陸軍被服支廠保存・活用方策懇話会」、会合の意見を報告書にまとめる。 |
08 | 10 | 広島県、被爆建物「旧陸軍被服支廠」の保存活用のための検討委員会を設置することを決め、委員13人の名前を公表。18日、初会合。 |
08 | 18 | 広島県、被爆建物「旧陸軍被服支廠」の保存活用方策検討委員会の初会合を開催。 |
10 | 25? | 土橋春人、旧陸軍被服支廠を明治38年に移した写真を広島市公文書館へ寄贈。 |
1994 | ||
01 | 31 | 広島県の「被爆50周年記念事業検討委員会」、第3回会合を開催。旧陸軍被服支廠の保存策がまとまらず、年内に報告書をまとめることになる。 |
03 | 03 | 広島県知事、県議会の答弁で被爆50周年の記念事業への取り組みとして旧陸軍被服支廠の活用、戦後50年誌の発刊などをあげる。 |
07 | 19 | 広島県の旧陸軍被服支廠の建物の活用検討委員会、第4回目の会合を開催。 |
12 | 05 | 広島県の戦後50周年記念事業検討委員会、旧陸軍被服支廠の保存・活用策について瀬戸内海文化博物館と音楽芸術センターとするなどの案をまとめる。 |
12 | 12 | 広島県の橋口収戦後50周年記念事業検討委員会座長、旧陸軍被服支廠の保存・活用策についての報告書を藤田県知事に提出。 |
1995年 | ||
03 | 22 | 原爆遺跡保存運動懇談会、県に旧陸軍被服支廠を被爆資料展示施設として活用を求める要望書を広島県に提出。 |
03 | 31 | 広島大学学生寮「薫風寮」、大学移転に伴い閉鎖。同建物は旧陸軍被服支廠で被爆建物。 |
05 | 03 | 広島市の被爆建物である旧陸軍被服支廠で火事。1階の一部約200平方メートルが焼ける。 |
09 | 13 | 広島県の瀬戸内海文化博物館策定会議の初会合。旧陸軍被服支廠の活用を検討。 |
1996年 | ||
04 | 03? | 広島県の「瀬戸内内海文化博物館」(被爆建物の旧陸軍被服支廠を利用)構想策定会議、平成7年度中の構想の策定を1年延期。 |
1997年 | ||
02 | 19? | 広島県、被爆建物「旧陸軍被服支廠」を「瀬戸内海文化博物館」として活用する構想の再検討を計画。耐震補強に巨額の経費が必要なことが判明したため。 |
03 | 27 | 広島県、旧陸軍被服支廠(広島市南区の被爆建物)を活用した瀬戸内文化博物館の基本イメージを発表。 |
12 | 26 | 広島県、被爆建物の旧陸軍被服支廠を「瀬戸内海文化博物館(仮称)」として活用する計画を、県財政の悪化を理由に当分凍結することを明らかにする。 |
1998年 | ||
02 | 16 | 広島県、1998年度予算案を発表。被爆建物の旧陸軍被服支廠を保存・活用する「瀬戸内文化博物館」計画を休止。 |
08 | 06 | 野外現代美術展「ヒロシマ・アート・ドキュメント98」、広島市の旧陸軍被服支廠などで開催。-20日。 |
平成4年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式
原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要
名簿に記帳された氏名 | 4944人 | |
名簿登録者総数 | 176964人 | |
名簿総数 | 59冊 |
参列者の概要
被爆者や遺族など | 約万人 | |
海部俊樹 | 内閣総理大臣(代理:山下徳夫厚生大臣) | |
桜内義雄 | 衆議院議長 | |
遺族代表 | 都道府県 | |
広島市長平和宣言(下記参照)
http://www.city.hiroshima.lg.jp/
内閣総理大臣挨拶
内閣総理大臣
出典