「2010年」カテゴリーアーカイブ

広島城壊滅!

『広島城壊滅!―原爆被害の実態 平成22年度企画展』(財団法人広島市文化財団広島城1、20100716)

内容

はじめに
被爆までの広島城
各施設の被爆前の状況、および被害状況
1. 広島型原子爆弾の破壊力
2. 歩兵第一補充隊(竹の丸)
3. 砲兵補充隊(三の丸)
4. 西練兵場(大手郭)
5. 中国憲兵隊司令部(大手郭)
6. 偕行社・済美学校(大手郭)
7. 広島第一陸軍病院本院・第一分院(大手郭)
8. 広島護国神社(大手郭・西の丸)
9. 輜重兵補充隊(西の丸)
10. 広島第二陸軍病院本院(西の丸)
11. 広島陸軍幼年学校(北の丸)
12. 広島逓信局・広島逓信病院(北の郭)
13. 師団兵器部・弾薬庫(北の郭ほか)
本丸・二の丸の被爆前の状況、および被害状況
1. 天守閣
2. 本丸
3. 二の丸
4. 証言から見る被爆当日の本丸・二の丸
被爆写真の中の石垣
現在も残る広島城の被爆痕跡

 

 

 

 

広島平和記念都市建設法と平和への歩み(宇吹)

特集 広島平和記念都市建設法制定60周年(『平和文化』No_172、201006)

宇吹暁「広島平和記念都市建設法と平和への歩み」

平和都市法
広島平和記念都市建設法(以下、平和都市法と略称)は、その目的を、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」(第1条)としている。
法制定に尽力した広島市出身の寺光忠参議院議事部長によれば、その趣旨は、次のとおりである(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』、中国新聞社刊、1949年)。
日本は、新憲法において、あきらかに、戦争の放棄を宣言している。この恒久平和の人間理想を象徴し、同時にまた、わが戦争の放棄をも象徴するものとして、1つの都市を、この地上につくりあげるということは、日本の歴史においてはもとよりのこと、世界史的にみても大きな意義をもつものであろう。
平和都市法は、その後、国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などの形で、広島市の復興に大きく寄与した。また同時に、広島市の都市建設に、政府が今日に至るまで関心を寄せ続ける契機となった。1952年・53年に当時の内閣総理大臣であった吉田茂の広島市平和式典に寄せた式辞が残っているが、いずれにおいても、「世界の平和を目指して、民主々義に基く、文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり」、「新しい広島市の建設」は、「平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するもの」と平和都市建設の国家的意義を明らかにしている。その後も、総理大臣の挨拶のほとんどで、広島市の「平和都市」(1979年からは国際平和文化都市)建設への努力に敬意が表明されている。
戦災復興としての政府の事業は、1960年代後半に一応の収束を見る。しかし、この法律の精神は生き続けており、2000(平成12)年5月にも、この法律を適用することにより、爆心地近くの貴重な被爆建物である旧日本銀行広島支店が、国の重要文化財に指定されることを条件に、広島市へ無償譲与されることが決定された。
「被爆国」という言葉が、国内で広く使用されるようになるのは、1954年3月のビキニ水爆被災事件以降のことであるが、平和都市法の成立と展開の背景には、議会や政府の「被爆国」としての自覚を確認することができる。また、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法と略称。1957年4月施行)や閣僚・総理大臣の平和式典への参列(1960年代半ば以降)、広島・長崎両市への国立原爆死没者追悼平和祈念館開設(2002年、03年)など、政府による原爆被害への新たな関与を通して、「被爆国」という認識の内実が形成されていると考えることができよう。
平和都市法が公布・施行(1949年8月6日)された当日に広島市長が読み上げた平和宣言には、次の文言がうたわれていた。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
これと同じ文言は、1947(昭和22)年の第1回平和祭(広島市平和記念式典の始まり)での平和宣言および翌年の宣言にも確認することができる。このことを考えれば、平和都市法は、広島市の意思が「法律の形式においてあらわされた、国民の意思の表明」(寺光前掲書)に高めたものといえよう。
寺光の構想がそのまま法律になったわけではない。彼は、法律名にある「広島」、「記念」、「建設」について、それぞれ、「一地域を限る特別法という感じを与える」、「原子爆弾を追想させたり又は戦災復興を連想させたりするだけ」、「物的な建設事業だけを目的としているかのよう」と違和感を述べ、ただの「平和都市法」が良いとしている。
広島の復興と原爆遺跡
戦前の広島市には、「大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等」があり、全国から観光客を引き付けていた。しかし、これらは「昭和20年8月6日の戦災により潰滅」した(『広島市勢要覧 1947年版』)。そのかわりに「新しい観光資源」と考えられたのが、「爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンク」といった「原爆記念保存物」である(『同要覧 48年版』)。
広島市の企図は当たり、「日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れ」たため、「外客専用の観光ホテルの設置が強く要望」された(『同要覧 49年版』)。
このような『市勢要覧』の記述は、広島市の都市復興の過程で、原爆遺跡が観光資源という大きな役割を担っていたことを示している。ところが、広島市の原爆遺跡に対する関心は、平和都市法の施行後、次第に薄れて行く。その代わり、新たな観光資源として「広島平和記念都市そのもの」や「原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室」(1955年に広島平和記念資料館として開館。通称「原爆資料館」)などが登場する(『同要覧 49年版』)。その後の『市勢要覧』を見ると、「平和記念館」・「原爆資料館」・「平和大橋」「慰霊碑」など、平和都市法に基づいて建設された施設が新たに加わってゆく。1950年の市勢要覧の表紙は、原爆投下の目標となった相生橋と思われる橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄であり、本来存在するはずの「旧産業奨励館」(原爆ドーム)の姿はない。

50年度版には原爆ドームが消えている!!!

1948年版
48
1949年版
49
1950年版
50

広島市が原爆ドームの保存に乗り出すのは、1966年のことである。それまで保存に消極的だった浜井信三市長が保存募金活動では先頭に立った。しかし、浜井の場合、原爆ドームを「唯一」の「原爆の跡」と考えており(浜井の原爆ドームの保存に向けた「訴え」)、他の遺跡に目が向くことはなかった。
被爆資料は、一般に、「原爆の痕跡をもつ資料」と考えられてきた。ところが、1979年には、必ずしも被爆の痕跡を残していない「被爆樹木」が、さらに1985年には解体された広島市庁舎の礎石である「被爆石」も被爆資料と考えられるようになった。これは、被爆資料の基準が、「被爆の痕跡」から「被爆当時に存在していたもの」に変化したことを示している。

平和都市の現状と役割
平和都市広島の政府とのつながりは、復興のための都市計画でいえば建設省(現在の国土交通省)から始まり、1970年代後半からの国際的な反核運動の高まりの中で、外務省と密接な関係を持つようになる。被爆40周年に当たる1985年に、広島市は長崎市とともに、初の「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、政府レベルとは別に、都市同士の連帯による平和構築の努力を積み重ねている。さらに近年では、文化庁(文部科学省)との関わりを深めている。平和都市施設の中核をなす原爆ドーム・広島平和記念資料館・広島平和記念公園は、同省によりそれぞれ史跡(1995年6月)、重要文化財(2006年7月)、名勝(07年2月)に指定された。このうち、原爆ドームの史跡指定は、世界遺産リストへの登録へ向け、それまでの史跡の基準を変更しての指定であり、残る2件の指定も、戦後の建築物として、また、戦後建設された公園として初の指定であった。
文化財としての評価は、とりもなおさず平和都市が歴史的な扱いを受けていることである。歴史化する平和都市には、新たな歩みが求められるであろう。原爆遺跡は原爆ドームだけでない。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎の遺跡をも巻き込む世界遺産の拡大登録が考えられないだろうか。広島の景観は、城下町の軍事都市化、原爆と復興により大きな変貌をとげ、さらには現在の都市再開発で新たな変化の波に直面している。平和都市の景観はどうあるべきか、近代のみならず近世の文化を貫いて見直す視点の出現も期待される。

ビキニ環礁核実験場(世界遺産)

ビキニ環礁核実験場  Bikini Atoll Nuclear Test Site
https://whc.unesco.org/en/list/1339
マーシャル諸島共和国初の世界遺産。第2次世界大戦後にはじまった冷戦に伴い、アメリカ合衆国は、太平洋沖マーシャル諸島ビキニ環礁での核実験再開を決定した。周辺住民を移住させ、1946年から1958年まで、初の水素爆弾実験(1952年)を含む67回の核実験を実施した。その威力を示す重要で明白な証拠が、1946年の実験で礁湖に沈んだ船と、水素爆弾「ブラボー」の実験でできた巨大なブラボー・クレーターである。一連の実験は広島型原爆の7000回分に匹敵し、環礁の地質や自然環境、人びとの健康などに重大な影響を及ぼした。これによりビキニ環礁は、「核の時代」の幕開けの象徴となった。

Date of Inscription: 2010  Criteria: (iv)(vi)

資料

隠るべき所なし ビキニ環礁原爆実験記録(ブラッドリー著、佐藤亮一訳、講談社、19490830)

 

書誌2010

書誌2010

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
核なき世界へ 岩垂弘 同時代社 20100115
前田邦男オーラル・ヒストリー 前田邦男回想録 広島大学文書館 20100226
IPSHU研究報告シリーズ研究報告No.44 大北威寄贈資料目録(原爆関係資料) 川野徳幸編 広島大学平和科学研究センター 201002
長崎平和推進協会設立25周年記念誌 (財)長崎平和推進協会 201003
歴史の場ー史跡・記念碑・記憶  若林祐司・和田光弘編著  ミネルヴァ書房   20100520
日本軍「慰安婦」制度とは何か 吉見義明 岩波書店 20100609
2010NPT再検討会議広島県要請代表団報告集 2010NPT再検討会議を成功させる広島県実行j委員会 201006

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

NPT運用検討会議(2010年)

核兵器不拡散条約(NPT)

2010年5月にニューヨークで開催された2010年NPT運用検討会議では、NPTへの求心力を高め、NPTを基礎とする国際的な核軍縮・不拡散体制を強化することが重要な課題となった。会議では個々の争点を巡り、全ての締約国が全会一致で決定することができるか予断を許さない状況が続いたが、NPT体制を支える三本柱(①核軍縮、②核不拡散、③原子力の平和的利用)に関し、将来に向けた具体的な行動計画を含む最終文書を採択することができた。行動計画は、全ての締約国が協力してこの三本柱を推進していくための共通の基盤を提供した点で大きな意義があり、各国が今後この行動計画を着実に実施していくことが重要である。日本は、日豪両政府による核軍縮・不拡散についての具体的措置に関する作業文書に加え、軍縮・不拡散教育、国際原子力機関(IAEA)保障措置(12)の強化、原子力の平和的利用のためのIAEA技術協力に関する作業文書を提出した。日本の提案は、多くの国から幅広い支持を得て、広く最終文書に反映されるなど、会議の成功に貢献することができた。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2011/html/chapter3/chapter3_01_03.html#h02

広島市平和式典(2010年)

平成22年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名 5501人
名簿登録者総数 269446人
名簿総数 97冊

参列者の概要

被爆者や遺族など 約5万5000人
菅直人 内閣総理大臣
潘基文  国連事務次長
遺族代表 41都道府県
各国大使や代表 74か国と欧州連合(EU)。核兵器国のアメリカ、イギリス、フランスを含む。

出典:『平和文化 No.176 2012年10月号』(広島平和文化センター)

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の誠を捧げます。
そして今なお被爆の後遺症に苦しまれている方々に、心からお見舞いを申し上げます。
核兵器の惨禍を、人類は二度と繰り返してはなりません。唯一の戦争被爆国である我が国は、「核兵器のない世界」の実現に向けて先頭に立って行動する道義的責任を有していると確信します。私は、様々な機会をとらえ、核兵器保有国を始めとする各国首脳に、核軍縮・不拡散の重要性を訴えてまいります。また、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向け、日本国憲法を遵守し、非核三原則を堅持することを誓います。
昨年四月のオバマ大統領のプラハ演説を契機に、核軍縮・不拡散に向けた動きが活発化してきています。
こうした中、本日の式典には、潘基文国連事務総長、さらにはルース駐日米国大使を始め七十か国を超える国の代表の方々が出席されています。心より歓迎いたします。日本国民の、二度と核による被害をもたらさないで欲しいという思いを受けとめていただくよう祈念いたします。
核兵器廃絶を訴えるNGOである「平和市長会議」に加盟する都市は、広島や長崎を筆頭に、世界で四千を超えています。こうしたNGOや市民を母体とする活動は、世界的な核軍縮の気運を高めていく上で、重要な役割を果たしています。
五月の核兵器不拡散条約運用検討会議の際には、百人近くの被爆者の方々がニューヨークに赴き、会場や街頭で、核兵器被害の悲惨さを訴え、秋葉広島市長も現地で尽力されました。この会議が最終文書採択という成果を収めた背景には、こうした被爆者の方々とそれを支援するNGOや市民の方々の貢献がありました。
今後は、被爆者の方々が例えば「非核特使」として日本を代表して、様々な国際的な場面で、核兵器使用の悲惨さや非人道性、平和の大切さを世界に発信していただけるようにしたいと考えています。
政府としても、将来を見据えた具体的な核軍縮・不拡散の措置を積極的に提案し、国際社会の合意形成に貢献していく決意です。
政府は、被爆により苦しんでおられる方々に、これまで保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。
長く続いてきた原爆症認定集団訴訟については、昨年八月に終結に関する確認書を交わしました。この確認書に基づき、控訴の取下げや基金の創設などを行っています。
一方、原爆症の認定を待っておられる方々に関しては、一日でも早く認定すべく最善を尽くしたいと思います。さらに、法律改正による原爆症認定制度の見直しについて検討を進めてまいります。
また、母親の胎内で被爆された方々やご家族のご要望を踏まえ、こうした方々への支援体制も強化します。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸を心からお祈りし、併せて参列者並びに広島市民の皆様の御健勝を祈念申し上げ、私のあいさつといたします。
平成二十二年八月六日
内閣総理大臣 菅直人

出典http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201108/06hiroshima.html