被爆者問題国際シンポジウム広島準備会・生活史調査委員会(編) 『被爆者・この32年の苦悩
-相談援助制度と援護法を求めて-』
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白いチョゴリの被爆者
『白いチョゴリの被爆者』 (広島県朝鮮人被爆者協議会編、労働旬報社、1979年7月15日)
広島県朝鮮人被爆者協議会(朝被協)は1975年8月2日発足.本書には広島で被爆した18名の朝鮮人被爆者の証言を収録.他に、朝被協による朝鮮人被爆者実態調査結果も発表.
目次
肉声を聞く(松本清張) | |
スニのための鎮魂歌(許南麒) | |
Ⅰ | なぜこんな体になったか忘れんでほしい(李永淳) |
1 強制連行で炭鉱夫に いわれた次の日にはもう家族と別れ/膝をまげ首までまげて穴を掘りました 2 怪我人の列が一日中続いとった 3 原爆スラムにバラックをたてて |
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Ⅱ | 劫火のなかに息子の焼かれるのをみて-戦争は私の家族何人を奪おうというのでしょう(辛福守) |
1 『皇国臣民』につくりあげられて ”おしっこ”がいえずにおもらしする子供たち/日本に淡い期待をいだいてきたが 2 燃える体に学生服のボタンが三つ並んでいました 屍の間でかろうじて息をして/死なんぞ-子供二人につづいて夫も 3 重なる惨劇-黒人兵に射殺された弟一家と兄の死と 4生命あるかぎり |
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Ⅲ | 犬のように殺されてたまるか-連行・逃亡・拷問のはてに(鄭順南) |
1 ”鮮人”は豚以下だそうです 畑にトラックでのりつけ連行することも/幾度かの逃亡失敗/豚に食わせる砂糖があってもおまえにはやらん 2 川もぎっしり死体で埋められてました 3 日本人のあなたに考えてほしい |
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Ⅳ | 地獄絵のなかの差別-貴様!!朝鮮人のくせにギャアギャアいうな!(呉鳳寿) |
1 土地をとられて小作させてもらい 2 どこでも一番危ない仕事は朝鮮人 3 こんな目に遭うても-忘れられないあの言葉 4 一冊の本になるほどの苦難の末に 食べ物で二人の子を失い/朝鮮を二度と植民地にしない子に育った |
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Ⅴ | 売春婦に売られて(金末順) |
1 だまされて日本の遊かくへ 2 やっとつかんだ幸せを原爆に奪われて |
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Ⅵ | 日本人はわしらを人間と思うとらんかった(南貴浩) |
1 生きているのが不思議なくらいいじめられた 2 生き残ったのは部落の一割 3 朝鮮人は朝鮮へかえれといいよる-さんざこきつかっておいて |
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Ⅶ | 四六年間”楽しいこと”は一つもないです(鄭寿祚) |
1 一○歳で子守に出されました 2 人間かお化けか 3 植民地なんかなかったら 一人が泣いて四人を助けるつもりで/故郷へ帰って両親の墓まいりするまで生きたい |
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Ⅷ | 一瞬の黒い熱い大波におおわれて(呉乙鶴) |
1 被爆-空中から卵型みたいなのがピカッ 2 産まれる子供が次つぎと 3 私が非常に訴えたいこと 4 朝鮮人は死んでも灰も届けられない |
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Ⅸ | 雨が降っても学校に傘もってくるな-朝鮮ブタ朝鮮ブタとさげすまれ(権重判) |
1 炭鉱を脱走した一七歳年上の主人と結婚 2 人間がイワシのように並べられ-爆風で白いかたまりの被爆者も 3 苦しみの倍加-子供への民族差別 一家六人をかかえてヤミ米買い出し/学校でも就職でも |
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Ⅹ | だれのためになんのために-どうしてもいっておきたい就職差別(文七権) |
1 まるで強盗でした-ウュノムの仕うち 2 おまえは鮮人だから-日本での屈辱 3 追われて広島へ-被爆の苦痛 4 希望の子供らまで就職差別され-戦後も消えぬ苦しみと怒り |
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ⅩⅠ | おまえらみたいな奴 三厘でいくらでも手に入るんだ-逃亡生活・徴兵拒否のはてに(朴在寿) |
1 貧困と差別のなかで 2 逃亡生活 一年余の徴兵拒否の逃避行/徴兵検査-父連行の脅迫で 3 人間が木炭のように 4 日本人以下に扱われる理由はないのです |
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ⅩⅡ | ”新日本人”と口先ではいいながら(黄義錫) |
1 消えない思い出 2 戦争のために 朝鮮人は劣等人間だからつき合えばバカになる/ていよく日本政府の番犬につかわれて 3 どの人も裸同然でした 4 日本のためにのみ働かされてきたのに |
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ⅩⅢ | 広島の街が大地に叩きつけられたように(柳昌洙) |
1 太陽が黒くみえた 2 心のやすらぎがほしいんよね 3 子孫が二の舞をふんでは死にきれん |
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ⅩⅣ | 歴史の底で死んだ母(鄭文玉) |
1 どの家庭も食べ物をあさる生活 卑屈な運命をたどる旅立ち/夢を破られた父との再会 2 日本が手を上げるならもっと早ければ 3 せめて人権だけでも-新憲法下でも変わらない仕うち 4 いまも暗い歴史を背負い |
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ⅩⅤ | 子供らに希望を語りつづけて-朝鮮人被爆教師として(朱碩) |
1 故郷も生活を荒らしまくられて 2 死の行列はあとからあとからつづき 3 反戦・平和・民族教育の灯を守るために 4 父母たちはなぜ被爆したか、なぜ原爆は落とされたのかを教えて |
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ⅩⅥ | 土地・言葉・故郷・八人の肉親を奪われて |
1 全財産を奪われて 2 血のようなくやし涙-妻も兄も八人の肉親を失い けん命に生きる人間のすべてを奪った原爆/なぜ最も善良なものが最も過酷な運命を 3 放置された被爆者のために |
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ⅩⅦ | 顔をみて”つける薬はない”と無視しました-事実を互いの民族がみつめあってこそ(閔基鎬) |
1 一日も胸をはって生きられなかった少年の日日 2 原爆と空襲のなかで 気づかずに積みあげた死体の脇に寝て/むごい体験 3 日朝のほんとうの交流をつくるために |
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ⅩⅧ | この世に生まれた価値を失わないために |
ⅩⅨ | 被爆朝鮮人問題と「朝被協」(李実根) |
1 被爆朝鮮人の由来 | |
一 在日朝鮮人の形成 二 軍都ヒロシマ-朝鮮人ヒバクシャ |
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2「朝被協」の結成と活動 | |
一 その結成と足跡 二 在広朝鮮人被爆者の実態調査 |
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あとがき | |
表紙絵・文中カット四国五郎 |
平和と学問を守る大学人の会会報第26号
平和と学問を守る大学人の会会報第26号
1960年2月20日
原爆被害の実相と被害者の苦しみ
『原爆被害の実相と被害者の苦しみ』 日本原水爆被害者団体協議会 1959年8月6日発行
目次
序 筆者紹介 まえがき 1 原爆によってどのような物理的被害を受けたか 1 原爆が爆発した瞬間の被害 2 残留放射能による被害 2 原爆症とはどのような病気か 1 原爆症の統計的研究 2 放射線は被害者の身体にどんな変化を与えているか 3 被爆者の生活にはどのような苦しみがあるか 1 被爆者の家庭生活のなかの苦しみ 2 被爆者の職業生活のなかの苦しみ 3 被爆者の苦しみと要求 4 被爆者の社会意識 4 被害者の救援はどこまで進んでいるか 1 医療法はどこまで役に立っているか 2 完全な医療保障と生活保障の実現のために むすび-救援運動と原水爆禁止運動とのむすびつきを深めるために 付「被爆者を囲む懇談会」への被害者代表の訴え 執筆者紹介
1 庄野直美 広島女学院大学助教授・物理学 佐久間澄 広島大学理学部教授・物理学 小川修三 広島大学理学部助教授・物理学 2 杉原芳夫 広島大学医学部助教授・病理学 3 山手茂 広島女子短期大学講師・社会学 4 石井金一郎 広島女子短期大学助教授・政治学 まえがき(抄)
被爆者の現状についての社会科学的な研究は、今までに極めて乏しかったので、今年初め日本原水協・被団協の依頼によって組織した「広島・長崎原爆被爆者調査団」がおこなった、431名の被爆者の面接調査および救援活動、救援機関の調査の結果を参考としてまとめている。
原爆問題広島総合研究会
原爆問題広島総合研究会 1979年2月設立
会報
No. | 発行年月日 | 所蔵 | ||
G=原爆資料館、U=宇吹 | ||||
01 | 19790715 | 庄野直美 | 研究会設立に際して | GU |
02 | 1980.01.25 | シンポジウム報告特集号 | NGO被爆問題国際シンポジウム2周年記念合同研究会報告 | G |
シンポジウム「核兵器と人類の生存」の報告 | ||||
03 | 1980.04.15 | 小寺初世子、木本喜美子 | 外国人の核意識―大学卒外国婦人に対する試験的調査のまとめ― | GU |
04 | 1980.06.28 | 被爆朝鮮・韓国人問題特集号 「被爆朝鮮・韓国人問題シンポジウム」報告 | GU | |
問題提起概要 | ||||
石田定 | ||||
渡辺正治 | ||||
栗原登 | ||||
上原敏子 | ||||
石田定 | ||||
鎌田定夫 | ||||
豊永恵三郎 | ||||
平岡敬 | ||||
深川宗俊 | ||||
李実根 | ||||
崔成源 | ||||
05 | 1980.08.06 | 平岡敬 | 被爆朝鮮・韓国人に関する資料目録 | GU |
06 | 1980.10.24 | 在韓被爆者実態(補充)調査活動の経過と分析 韓国の原爆被害者を援護する市民の会 | G | |
07 | 1981.06.30 | 「被爆者問題シンポジウム」報告 | G | |
茅誠司 | 「原爆被爆者対策の基本理念及び基本的在り方について」 | |||
08 | 1981.07.10 | ロートブラット氏とセガーラ女史を囲む懇談会の記録―「核拡散の問題点」および「軍縮のための国連の活動」 | G | |
09 | 1981.09.30 | 「非核三原則をめぐるシンポジウム」の報告 | G | |
10 | 1982.01.30 | 小寺初世子 | より効果的な核兵器の禁止を求めて―国際刑法典の制定をめぐる最近の国連活動への期待― | G |
11 | 1982.03.20 | IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕 | G | |
12 | 19821225 | 石田定 | IPPNW〔核戦争防止国際医師会議〕第二回総会に参加して | G |
湯崎稔 | シンポジウム「反核の軍縮の今後」―SSDⅡを終えて― | |||
永井秀明 | 10フィート映画の欧米上映で得たもの | |||
好村冨士彦 | 平和のための国際文学者会議を終えて | |||
谷口稜曄 | 反核運動と被爆者 | |||
高橋真司 | ナガサキからニューヨークへ―ポストSSDⅡへの展望 | |||
メッセージ | ||||
庄野直美 | シンポジウムのまとめ | |||
1982年度総会報告 | ||||
1982年度原爆問題広島総合研究会役員 | ||||
代表 | 庄野直美 | |||
顧問 | 今堀誠二・・・ | |||
幹事 | 石田定・・・・三村正弘(福島生協病院)・・・ | |||
事務局長 | 湯崎稔 | |||
会計監査 | 相原和光 | |||
原爆被害に関する事例報告(1976年)
『原爆被害に関する事例報告-生き続けた31年』(原爆被害者問題ケースワーカー懇談会<日本被団協気付・伊藤直子>、19760730刊)
目次
「原爆被害に関する事例報告」発刊にあたって―経過と目的――1976年7月30日原爆被害者問題ケースワーカー懇談会 | ||
事例報告 | ||
加藤礼子 | 1原爆に奪われた「人並み以上」の人生(広島赤十字病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴16年>)<当病院の医療社会事業部は、全国の日本赤十字社と足並を揃えて昭和28年ごろより始められ> | |
若林節美 | 2 被爆,下痢そしてスモン発病-2重の苦しみを背負って-(広島原爆病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
西村清登 | 3ある被爆者の老後-24年目の親子再会-(放射線影響研究所・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴13年>) | |
中村住代 | 4 生きるのぞみをうばわれて(長崎原爆病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴7年>) | |
白石照子 | 5 なおつづく「戦後」を背負って―二世に及ぶ被害(長崎原爆被災者協議会相談員) | |
野口文子 | 6 アル中,そして死-妻子にも語れたかった死の恐怖-(柳原病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
原玲子 | 7 影深く-尾をひく被爆体験(代々木病院・医療ソーシャルワーカー<ワーカー歴9年>) | |
石田忠 | 原爆被害の全体像をどうとらえるか-ケースワークにおける生活史把握の意味-<1976年2月29日広島県社会事業協会主催「被爆者問題事例検討会」での講演をまとめたもの> | |
記録をおわって あとがき | ||
参考資料 | ||
全国ケースワーカー大会(日本医療社会事業協会主催)
全国ケースワーカー大会(日本医療社会事業協会主催) 1977年5月20~21日。テーマ:「資格制度の方向性をさぐる」。会場:中国新聞社・平和記念会館(広島市)。参加者約600人。2日目の8分科会の一つに「原爆被害者問題」(このテーマの分科会が設けられたのは初)。約50人が出席。長崎(友池敏雄・長崎原爆病院)と広島(山田寿美子・福島生協病院)から実践報告。午後1時から石田忠一橋大学教授の特別講演「ケースワーカーにおける生活史把握の意味」と分科会報告。
出典:「赤旗」1977年5月22日。
SSDⅢ(第3回軍縮特別総会)
SSDⅢ(第3回軍縮特別総会)1988年5月31日~6月25日、ニューヨーク
出典:http://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/libraries/research_guide/themes/disarmament/
第3回軍縮特別総会
A/RES/41/60GおよびA/RES/42/40による第3回軍縮特別総会(通算15回目の国連特別総会)は、1988年5月31日から6月25日にかけ、ニューヨークで開催されました。
A/RES/41/60GおよびA/RES/42/40によって設置された準備委員会の作業文書は、文書記号A/AC.230/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/AC.230/SR.-の形で発行されました。準備委員会の総会に対する最終報告書はA/S-15/1(GAOR, 15th spec. Sess., Suppl. No. 1)として発行されています。
総会決定S-15/21によって設置された第15回国連特別総会全体委員会の作業文書は、文書記号A/S-15/AC.1/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-12/AC.1/SR.-の形で発行されました。全体委員会の最終報告書はA/S-15/50として発行されています。
同特別総会の作業文書は文書記号A/S-15/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-15/PV.-の形で発行されました。総会決定S-15/24により、特別総会は第3回軍縮特別総会の最終文書として、アドホック委員会の報告書(A/S-15/50)に留意しました。
SSDⅡ(第2回軍縮特別総会)
SSDⅠ(第2回軍縮特別総会)1982年6月7日~7月10日、ニューヨーク
外交青書27_1983_1
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1983/s58-contents.htm
(2)第2回国連軍縮特別総会
第2回軍縮特総は,6月7日からニュー・ヨークの国連本部において開催され,7月10日全会一致で結論文書を採択して閉会した。
同特総には,我が国の鈴木総理大臣,櫻内外務大臣,レーガン米大統領,サッチャー英首相,シュミット西独首相,シェイソン仏外相,グロムイコ=ソ連外相,黄華中国外相ら各国首脳が参加したほか,非政府団体及び平和軍縮研究機関の代表にも発言の機会が与えられ,我が国からも6名の代表が発言した。
同特総は,作業部会を設置して,(イ)第1回軍縮特総の決定及び勧告の履行状況の再検討,(ロ)包括的軍縮プログラムの検討及び採択,(ハ)軍縮のための国際世論を動員するための措置等につき審議を行った。その結果,前二者については合意は得られなかったが,最後の問題に関しては,世界軍縮キャンペーン,軍縮フェローシップ計画について合意文書が作成された。
同特総において鈴木総理大臣は,「軍縮を通じる平和の三原則」を中心とする演説を行った(資料編参照)。その中で主要な軍縮問題としては,(イ)戦略兵器削減交渉及び中距離核戦力交渉の促進,(ロ)核実験全面禁止条約の成立促進,(ハ)核不拡散条約への加盟促進,(ニ)平和的目的原子力施設の安全保障の確保,(ホ)化学兵器禁止条約の早期成立,(へ)通常兵器の保有及び国際移転の現状把握が取り上げられた。また,我が国は,(イ)国連軍縮フェローシップ計画参加者の広島・長崎訪問,(ロ)検証分野における国連の役割強化,(ハ)我が国の原爆に関する資料の国連への備え付け,(ニ)軍縮促進のための国連平和維持機能の強化・拡充に関しそれぞれ作業文書を提出した。
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出典:http://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/libraries/research_guide/themes/disarmament/
第2回軍縮特別総会
A/RES/S-10/2による第2回軍縮特別総会(通算12回目の国連特別総会)は1982年6月7日から7月10日にかけ、ニューヨークで開催されました。
A/RES/33/71HおよびA/RES/35/47によって設置された準備委員会の作業文書は、文書記号A/AC.206/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/AC.206/SR.-の形で発行されました。準備委員会の総会に対する最終報告書はA/S-12/1(GAOR, 12th spec. sess., Suppl. No. 1)として発行されています。
総会決定S-12/21によって設置された第12回国連特別総会アドホック委員会の作業文書は、文書記号A/S-12/AC.1/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-12/AC.1/SR.-の形で発行されました。アドホック委員会の最終報告書はA/S-12/32として発行されています。
同特別総会の作業文書は文書記号A/S-12/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-12/PV.-の形で発行されました。総会決定S-12/24により、アドホック委員会の報告書(A/S-12/32)は、第2回軍縮特別総会の最終文書(Concluding Document)として承認されています。
SSDⅠ(第1回軍縮特別総会)
SSDⅠ(第1回軍縮特別総会)1978年5月23日~6月30日、ニューヨーク
出典:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/un_cd/gun_un/gaiyo.html
国連における軍縮・不拡散への取り組み
平成25年2月
1.国際連合による議論
国際連合は、1945年の創立以来、国連憲章第11条(国連総会が、軍縮について審議し、加盟国もしくは安全保障理事会に勧告を行うことを規定)等に基づき、軍縮問題についても積極的に取り組んできた。
冷戦時代は、非同盟運動諸国(NAM)のイニシアチブによって、1978年、1982年、1988年と計3 回の国連軍縮特別総会が開催されるなどの動きはあったものの、全体としては国連を通じた具体的な軍縮・不拡散上の成果は限定的であり、むしろ二国間又は地域的な枠組みを通じて主要な軍縮の合意が形成されてきた。
他方、国連は基本的に総会における議論及び決議の採択という形で軍縮・不拡散に関与してきている。これらの議論や決議は、その時々の国際情勢、安全保障環境の中で国際社会の軍縮・不拡散問題についての関心や考えを反映したものであり、中長期的にみれば、これらの問題についての国際世論の形成に大きな役割を果たしてきた。
冷戦終焉後は、国連軍備登録制度の設置(1991年)、包括的核実験禁止条約(CTBT)の国連総会における採択(1996年)、国連小型武器行動計画の採択(2001年)等、国連総会の場を通じて軍縮・不拡散の具体的な成果が上げられている。また、安全保障理事会も1992年1月に軍縮・不拡散の重要性を強調する議長声明を発出したほか、2001年の米同時多発テロ以降のテロ組織等非国家主体に対する大量破壊兵器拡散への懸念の高まりを受けて、2004年4月には不拡散に関する安保理決議第1540号を採択し、さらに、2009年9月に行われた核不拡散・核軍縮に関する安保理首脳会合において安保理決議第1887号を採択した。また、2006年以降、安保理は北朝鮮及びイランといった個別の核問題について、制裁措置を含む決議を採択しており、国際的な不拡散体制の強化に安保理が果たす役割は、近年急速に増大している。
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出典:外交青書21_1977
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1977_1/s52-2-4-2.htm#ab1
6. 軍縮特別総会
(1) 第31回国連総会では「全面完全軍縮」の議題の下に,ユーゴースラヴィア等非同盟主要国が提唱し,わが国を含む75カ国が共同提案した軍縮特別総会の開催に関する決議が採択された。これにより78年5月ないし6月に国連創設以来初めて専ら軍縮問題の審議にあてられる特別総会が開催されることとなった。
(2) 軍縮特別総会開催の構想そのものは,1946年12月の第1回国連総会再開会合で採択された決議に始まるが,一方,非同盟諸国は,1961年の第1回首脳会議において世界軍縮会議もしくは軍縮特別総会の開催を呼びかけて以来,特別総会の開催を度々提唱してきた。76年,スリ・ランカで開催された第5回非同盟首脳会議で採択された政治宣言においても,1978年までに軍縮特別総会の開催を要求する趣旨が謳われており,第31回総会に提出された決議案もこれを受けたものである。
(3) 採択された決議に基づき,総会議長により指名された54カ国から構成される準備委員会が設立され(わが国もアジア・グループの一員としてメンバーとなり,副議長国となった),今後特別総会開催までに77年3月,5月,9月の3回にわたり同委員会の会合が開催され,特別総会の議題及び手続規則を決定する予定である。
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外交青書22_1978
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1978/s53-2-4-2.htm
3. 軍縮特別総会開催準備状況
(1) 78年5月に開催される国連軍縮特別総会のための準備委員会(54カ国で構成。わが国は副議長国)は,77年中に3回会合(3月,5月及び9月)し,次の決定を含む報告書を作成して第32回総会に提出した。
(イ) 特別総会開催期日
78年5月23日~6月28日。
(ロ) 特別総会開催場所
国連本部(ニューヨーク)。
(ハ) 代表レベル
できる限り高いレベル。
(ニ) 仮議題
(a) 軍縮交渉の成果と現状の再検討。
(b) 軍縮宣言及び行動計画の採択。
(c) 軍縮交渉のための国際的機構の役割の再検討。
(2) また第31回国連総会で採択された決議は,各国政府に対し,4月15日までに軍縮特別総会に関する見解を国連事務総長に提出するよう要請していたが,77年末までに,国連加盟国のうち合計59カ国がその見解を提出した。
わが国は,軍縮特別総会においては,次の項目が優先的に取り上げられるべきであるとの見解を4月15日付で国連事務総長に提出した。
(イ) 核軍備競争の停止と核兵器の削減。
(ロ) 核実験の全面的禁止。
(ハ) 化学兵器の禁止。
(ニ) 通常兵器の国際的移転。
(ホ) 軍事費削減問題。
(3) 第32回国連総会は、準備委員会の報告書を承認し,更に同委員会に作業を継続するよう要請する決議を採択した(わが国を含む55カ国の共同提案)。
78年の2月及び4月には,上記決議に基づく第4回と第5回の準備委員会を開催し,特別総会において審議,採択されるべき最終文書の起草作業を行う予定である。
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外交青書23_1979
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1979/s54-2-4-2.htm#1_1
(1) 国連軍縮特別総会
(イ) 概 説
国連史上初の軍縮特別総会は,1978年5月23日から7月1日までニュー・ヨークにおいて開催された。この特別総会には,従来軍縮交渉に参加していなかつた中国,フランスを含む145カ国が参加し,今後の軍縮審議,交渉の指針となる最終文書が,投票に付されることなく全会一致で採択されたほか,軍縮審議,交渉機構にも種々の改善が加えられた。
(ロ) 一般討論演説
5月24日から6月9日まで行われた一般討論演説においては,元首4名,首相16名,副首相4名,外相49名を含む126カ国の代表が演説を行った。
わが国は,園田外務大臣が5月30日に一般討論演説を行った。
演説において園田外務大臣は,平和憲法に立脚し,今後の国際社会における先覚者たるべく,軍事大国への道を排し,平和に徹し続けるわが国の決意を披瀝し,またわが国が非核三原則を堅持していることを宣明するとともに,核兵器国に対し,その責任を自覚し核軍縮を促進するよう強く要請した。さらに,軍縮の分野では,核兵器の廃絶を目標とした核軍縮の促進が,今日,最も高い優先度を置かれるべき課題であることを強調するとともに,この目標を達成するためには,まず核軍備競争を停止し,次に核軍備の削減を進めるとの方向で実行可能な措置を一歩一歩積み重ねて行くことが最も肝要である旨指摘した。そして,かかる観点から,米ソ戦略兵器制限交渉の早期妥結,包括的核実験禁止条約の早期締結などを強く訴えた。
(ハ) 最終文書
特別総会において採択された最終文書は,「序文」,「宣言」,「行動計画」,「機構」の4部から構成される。軍縮に関する一般原則を規定した「宣言」は,軍縮の究極的な目標が効果的な国際管理下での全面完全軍縮であり,この目標への前進のためには諸国の安全を守る必要性を考慮に入れ,軍備競争の停止と真の軍縮措置に関する協定の締結,及びその履行が必要であるとし,更にそのような措置の中では,核軍縮と核戦争の防止が最も優先度が高い旨規定している。
「行動計画」は,上記原則に沿って,今後,諸国家が着手すべき軍縮分野における諸措置を挙げ,今後の軍縮分野における努力の諸目標を示している。
(ニ) 軍縮審議交渉機構の改革
軍縮の審議,交渉機構の分野では,最終文書の「機構」が示すように特別総会において次のような改善,強化がなされた。
(a) 全ての国連加盟国が参加する審議機関としての国連軍縮委員会(UNDC)の復活(同委員会は65年以来休眠状態にあつた)。
(b) ジュネーヴ軍縮委員会については,主として次の改善が行なわれ,79年1月より新たに軍縮委員会(CD)として発足。
(i) 新軍縮委は米,英,ソ,仏,中の全ての核兵器国に開放されるとともに(従来軍縮委の加盟国であつたが実際上参加していなかつたフランスが参加を決定。中国は当面参加しないとみられている),わが国を含む旧軍縮委の加盟27カ国に加え,次の8非核兵器国が新たに構成国となった。アルジェリア,オーストラリア,ベルギー,キューバ,インドネシア,ケニア,スリ・ランカ,ヴェネズエラ。
(ii) 米ソ共同議長制を廃止し,議長を全ての構成国間で月毎の輪番制にする。
(c) 国連第1委員会は,従来,軍縮問題のほか,政治,安全保障,科学技術問題を審議してきたが,今後は,軍縮及びそれに関連する国際安全保障問題のみを取り扱う。
(d) 国連事務総長に助言するための軍縮諮問委員会の設置。
(2) 第33回国連総会
軍縮特別総会を受けて行なわれた第33回国連総会の軍縮討議においては,核軍縮の促進を中心として,軍縮特別総会で採択された最終文書の行動計画に盛られた諸分野につき審議され,40の軍縮関係決議が採択された。
なお,わが国は,包括的核実験禁止条約の早期締結を求める決議及び同条約が締結されるまでの間,全ての国に核実験を慎むよう要請する決議など,7つの決議の共同提案国となった。
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出典:http://www.unic.or.jp/texts_audiovisual/libraries/research_guide/themes/disarmament/
A/RES/31/189Bによる第1回軍縮特別総会(通算10回目の国連特別総会)は1978年5月23日から6月30日にかけ、ニューヨークで開催されました。
A/RES/31/189Bによって設置された準備委員会の作業文書は、文書記号A/AC.187/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/AC.187/SR.-で発行されました。準備委員会の総会に対する最終報告書は、A/S-10/1(GAOR, 10th spec. sess., Suppl. No. 1)として発行されています。
総会決定S-10/21によって設置された第10回特別総会アドホック委員会の作業文書は、文書記号A/S-10/AC.1/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-10/AC.1/SR.-の形で発行されました。アドホック委員会の最終報告書はA/S-10/23として発行されています。
同特別総会の作業文書は文書記号A/S-10/-の形で発行されました。会合記録は文書記号A/S-10/PV.-の形で発行されました。第1回軍縮総会の最終文書(A/RES/S-10/2)には宣言、行動計画および国際軍縮機構に関するセクションが含まれています。