広島大学原爆放射能医学研究所創立30周年記念講演会記録
1991年11月2日 |
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広島大学原爆放射能医学研究所創立30周年記念講演会記録
1991年11月2日 |
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『原爆関係蔵書目録Ⅲ 1984年1月~1988年12月』(広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センター資料調査室 編・刊、19900731)
内容
序(蔵本淳・広島大学原爆放射能医学研究所長・付属原爆被災学術資料センター長) | |
凡例 | |
原爆被災学術資料センター原爆関係出版物分類表 | |
目次 1 | |
図書の部(大分類) | |
0 | 総記 3 |
1 | 原爆開発投下・核・軍事問題 10 |
2 | 原爆被災記録・体験記・手記 13 |
3 | 原爆被害の実態・影響(調査・研究)79 |
4 | 被爆者問題(被爆者対策・被爆者運動)96 |
5 | 原爆関係文学・芸術 115 |
6 | 平和問題(平和研究・原水禁運動・原爆教育)122 |
7 | 原子力問題(開発・利用・原子力災害)139 |
8 | 戦争関係資料(戦争の記録・戦争災害・戦争研究)140 |
逐次刊行物の部 | |
書名索引 巻末 |
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「原爆放射能医学研究所設置」・「原爆医療法中二粁の制限拡大」・「戦傷病者戦没者遺族等援護法中学徒・女子挺身隊・義勇隊等の時限法改正」に関する陳情運動日誌
(広島・長崎原爆被爆者医療法改正対策委員会 1962年2月)
はしがき
昭和三十四年九月原爆医療法の一部改正を目的とする政治運動展開を企図して構成された本対策委員会は、同年、画期的な同法改正に成功、翌三十五年原爆放射能医学研究所設置運動に乗り出し、僅々一カ月の短期間において同所究所創設にかかる予算獲得・法律改正を奇蹟的に果し、引続き三十六年には、特別被爆者の二粁制限撤廃に立ち上り、遂にその制限を三粁に拡大する予算獲得に成功し、ここに原爆問題の当面する重要案件を殆んど処理し終えたものである。
本委員会が斯る華々しい成果を収め得たのは、自民党幹部を始めとする関係各位の強力は御支援・御協力によるところであるが、特に運動の推進役を担当して貰った自民党広島県支部連合会被爆者対策委員長・広島市被爆者対策委員長任都栗司君の献身的努力に負うところ極めて多く、ここに改めて深甚なる敬意と謝意を表明するものである。
本委員会は、運動の当初より事務局をして運動の詳細を記録せしめていたものであるが、原爆問題の重要案件を殆んど処理完了した今日、ここにこれが運動日誌を公にし、格別の御協力を賜わった関係各位に対し心からの謝意を表すとともに、将来の参考とすることとした。
各位の御高覧を御願いして止まない。
昭和三十七年二月
広島長崎原爆被爆者医療法改正対策委員会
常任委員 参議院議員 岩沢 忠恭
目次(其の一)
年月日 | |
昭35(1960) 0922~1210 |
1.原爆医療法中2粁の制限拡大問題に関し、主として厚生省当局の意向を打診 |
1212-1213 | 1.原爆被害者医学総合研究機関の設置に関し関係各方面と基礎的打合わせ(特に所管省問題)をなす。 2.本対策委員会、昭和35年運動目標を原爆被害者医学総合研究機関の設置に置くことに決定。 |
1214-1221 | 1.広島市及び長崎市の原爆問題関係機関と打合せの結果、原爆医学研究機関の設置について地元の意識統一成る。 2.原爆医学研究機関設置にかかる陳情書作成 |
1223-1227 | 1.原爆医学研究機関設置に関し、関係各方面、特に自民党政調会文教部会に対し、陳情書提出の上、強力に陳情。 2.文部省当局に対し、原爆医学研究機関設置に関し、陳情運動展開中の旨連絡、表面化した場合引受け方陳情 |
1227 | 1.原爆医学研究機関設置の案件、広島大学に附置することとし、自民党政調会文教部会において満場一致をもって採択に決定 |
1228-0105昭36(1961) | 広島大学当局に対し、原爆医学綜合研究機関設置に要する必要予算を至急追加要求方要請 2.広島大学との協同陳情書(要求予算を含む)作成 |
昭36(1961) 0106~0107 |
1.広島大学より広島原爆放射能医学研究所にかかる追加要求予算書を文部省当局に提出 2.広島大学より文部省に対し、提出の追加要求予算内容一部訂正の上、必要陳情書作成 |
0106~0107 | 1.自民党役員、同政調会役員、文教部会役員に対し、訂正陳情書を提示の上原爆放射能医学研究所問題の採択方について強力に陳情 2.自民党政調会文教部会は、政調役員会に対し原爆放射能医学研究所予算四億六百万円を要求することに決定 |
0107-0109 | 1.自民党政調役員会において原爆放射能医学研究所関係予算満場一致をもって採択に決定 |
0109-0111 | 1.自民党政調会副会長並びに各部会長合同会議において原爆放射能医学研究所関係予算採択に決定 2.大蔵省に対し、関係有力者を通じ、協力に陳情 |
0111-0115 | 文部省は、大蔵省当局に対し、新規追加要求予算として原爆放射能医学研究所予算四億六千六百万円を提出 |
0116-0117 | 1.広島原爆放射能医学研究所設置に要する関係予算、大蔵省第三次査定に於いて二カ年継続事業として遂に承認を受く 2.本件に関し格段の協力を賜った自民党役員、同政調会役員、その他関係各位に対し、御礼挨拶廻りをなす。 |
目次(其の二)
年月日 | |
昭36(1961) 00403~1003 |
1.戦傷病者戦没者遺族等援護法中、学徒、女子挺身隊、義勇隊等の時限法改正に関し、運動の基本的打合せ、陳情書の作成、国会に対する請願書の提出並びに同請願の衆議院社会労働委員会において採択に至るまでの陳情 2.、原爆医療法中二軒の制限拡大に関し、運動の基本的打合せ、拡大の必要性を裏付ける資料の蒐集並 びに二粁制限拡大に伴う経費の昭和三十七年度厚生省要求予算に計上に至るまでの陳情 3.昭和三十六年度原爆医療法一般疾病医療費予算の不足に伴う予備費補充に関する陳情 4.原爆放射能医学研究所にかかる昭和三十七年度予算要求に関する陳情 |
1004-1116 | 1.原爆医療法中二粁の制限拡大にかかる経費について、昭和三十七年度厚生省要求予算に計上決定に伴い、関係各方面に対し、これが予算獲得に関する基礎的陳情運動 |
1128-1211 | 1.原爆問題陳情運動の一元化、漸くにして決定 2.二粁制限拡大の必要性を裏付ける資料蒐集、漸く完成し、陳情書作成 |
1212-1216 | 1.原爆医療法中二粁の制限拡大の必要性について、関係各方面、主として自民党政調会、社会部会並びに大蔵省に対し、陳情書を提出の上、強力に陳情 2.二粁制限拡大の案件、自民党政調会社会部会を満場一致をもって通過 3.原爆放射能医学研究所にかかる昭和三十七年度事業並びに長崎支所設置の明年度予算獲得について関係方面に強力に陳情 |
1217-1219 | 1.二粁の制限拡大に関し、自民党政調会役員並びに大蔵省当局に対し、関係有力者を通じ、強力に陳情 |
1220-1221 | 1.明年度予算にかかる大蔵省第一次査定の結果、二粁制限拡大に要する予算全額ゼロ査定を受く |
1222-1223 | 1.二粁軒制限拡大関係要求予算、大蔵省第一次査定に於いて全額不承認の結果に基き、これが復活要求について自民党政調会役員並びに大蔵省当局に対し、引続き強力に陳情 2.広島原爆放射能医学研究所残事業にかかる要求予算、大蔵省第一次査定において不承認の結果に基き、自民党政調会関係役員にこれが復活要求について陳情 |
1224-0105昭37(1962) | 1.二粁制限拡大関係要求予算、大蔵省第二次査定において三粁に拡大することとする基本線に基き、遂に承認を受く。 2.、戦傷病者戦没者遺族等援護法中学徒、女子挺身隊、義勇隊等の時限法改正に関する予算、厚生大臣、大蔵大臣の大臣接渉において、昭和三十八年度予算に計上することに確約を得る。 2.本件に関し、格段の協力を願った自民党役員、同政調会役員その他関係各位に対し、御礼の挨拶廻りをなす。 |
原子放射能基礎医学研究施設設立について
『広島大学原子放射能基礎医学研究施設年報 第1号 昭和35年』
原子放射能基礎医学研究施設設立について
広大医学部長 渡辺 漸
広島大学医学部原子放射能基礎医学研究施設が正式に成立したのは昭和33年4月1日であり,その実際的の発足は同年秋となったが,その成立に至るまでの経過の概略に就て述べたい.
我々の医学部の前身であった県立広島医科大学では放射線医学の重要性を河石学長が強調されアイソトープ委員会もすでに昭和28年には構成され、アイソトープ研究室も広の附属病院構内に同じ頃に新築されたのであって,我が原基研の前身はすでにこの頃出来たと言ってもよかろう.しかし具体的に放射能医学生物学研究所の構想が出来たのは昭和29年の春,我々の医学部が国立に移管した翌年の事であった.この年の3月にビキニ水爆実験に伴う福龍丸の放射l能灰の被曝があって放射能の人体に及ぼす影響に就てにわかに世人の関心が高くなって来た時期である.
昭和30年度の概算要求に広大放射能生物学研究所の設立案を提出しようではないかとの考えが医学部内で強〈なり,それは理学部の協力が必要であるとの理由で、昭和29年6月3日の午後3時30分から阿賀の医学部会議室で当時の藤原理学部長,川村智治郎教授,品川睦明教授の3名を招き,当方からは河石学部長,浦城教授,沖野事務長と私の4名が出席して会合を開いたのがそもそもの初めてある.その時には研究所の設立だけでなく,広大放射能研究委員会の創設の案も席上の話題となった.この時に出来上って30年度の概算要求として提出された案は総経費479,000,000円(初年度151,000,000円)3ケ年完成の計画であって,基礎的研究,生物学的研究及び医学的研究の3部が更に13の部門に分れており,その各々に教授1,助教授1,助手3,その他66名、合計131名の職員があると言うので,当分は現在の霞町の医学部の建物の中に一棟を当てるが、将来は大学隣接地に鉄筋4層1900坪の建物を約2億円で新営するとの規模宏大な案であったが、文部省の省議も通過し得なかった.
その翌年即ち昭和30年には昭和31年度の新規概算要求として広大放射線基礎医学研究所としての案を提出したがこれは前年度に比べて可成規模が大きくなり,総予算733,700,000円(初年度148,000,000円)であって,物理,化学,生物,遺伝,診断,治療,障害の7研究部があり,これが更に17室に分れておるので,多くの研究部は2~3の研究室から構成されている.職員mp前年度要求よりは増えて165名となっているが,助教授を各研究室に置いたので17名とし,雇員、傭人の数を増しているのがその主なものである.建物は初めから新営として2590坪の鉄筋となっておるが,初年度の人員の要求を前年の73人に比して25人と縮少したのが目立つ点であった。然しこの案も結局は日の目を,見ずに終わった.
当時文部省はそれ自体として放射能生物学医学研究所を設立したい希望があり,その構想は大体我々が立案したものに近かいようであるとの情報があったが.厚生省もまた類似の構想を持ち他の省にも似たような希望があつたのだが各省で各々こうした同じような研究所を持つ事はよくないと言うので結局は科学技術庁直属の現在の放医研の誕生を見るに至ったと言う風に伝えられている.現在の放医研の物理,化学,生物,生理病理,障害基礎,環境衛生,臨床の7研究部23研究室の機構が我々の当初の案に甚だ似ておる点を見ても我々の構想が決して単なる空想でなかった事はよく分ると思う.こうした経緯で放射線の生物学医学研究所は恐らくは放医研だけに絞ぽられて行くであろうと言う見通しが強くなったので,当初の研究所と言う構想を我々は捨てて昭和32年度の概算要求には医学部原子放射能基礎医学研究施設として,予算61,700,000円、教授5,助教授5,助手12,その他10,合計32人で,生理学,病理学,生化学,薬理学及び細菌学の5部門に分れ,霞町の現在の校舎の一棟260坪を補修して使用する計画を樹てたが,完成は3年である点は以前と変りない.この案 は可成り本省でも注目されたが結局は翌年に持ち越さざるを得なかった.
斯くして昭和33年度の新規概算要求として総経費51,700,000円,2部門計17名の職員から成る計画が出来て,それが昭和33年度に1部門だけ認められ,更に昭和34年度に更に他の1部門が承認されて,一応計画の完成となったのである.この間大学院設置の要求などがあり,本研究施設の要求を第一義的に考えて行く事が出来ず,絶えず大きな困難に直面していたのであったが,本省側のたえざる好意と森戸学長以下大学当局の絶大の援助と,また他学部からの熱烈な支持があったからこそ今日の成果を収め得たのであり,また顧みて,歴代学部長以下我が医学部の関係職員の多年に亘る労苦を忘れることは出来ないのである.この機会に河石,西丸,鈴木の元学部長,及び田淵昭教授及び小山豪教授の名を特に挙げてその多年の尽力に対して感謝の意を表したい.
しかし我々多年の要望は本研究施設の成立によって充たされたわけではないので,一昨年春以来,理学部,工学部及び水畜産学部の関係の方々とも数回に亘り会合して意見の交換を行った結果,広島大学に原子核放射能研究所の実現を計ると言う点で一致した結論に到達した.それが為にはすでに発足した本施設を育成しつつこれを発展拡張せしめ次第に所期の目的に到達するのが適当であるとの意見が多かった.従って我々は今後たゆまざる努力と熱情とを以って一歩一歩所期の目的に近づいて行きたいのであって,かくてこそ本研究施設の成立の意義も充分にあるものと考えられる.