「広島平和文化センター(1976)」カテゴリーアーカイブ

世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書

『世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書 核の半世紀―目撃者は語る』(広島平和文化センター、19941216)

目次

発刊に当たって 平岡敬(広島市長、財団法人広島平和文化センター会長)
001 出席者のプロフィール
003 全体スケジュール
004 写真展の概要
005 原爆被害概況説明の概要
007 宇吹暁 原爆の社会的影響
011 練石和男 医学的影響「原爆放射線の健康影響」
013 山岡ミチコ 被爆者の証言「米国で27回の手術を受ける」
018 高橋昭博 被爆者の証言「私の被爆体験とヒロシマの心」
022 世界写真家平和シンポジウムの概要
1 日時
2 会場
3 テーマ
4 内容
5 主催
6 協力
7 後援
8 参考
023 平岡敬 開会あいさつ
024 シンポジウムの発言内容
勝部領樹
025 ジョー・オダネル
028 ユーリ・イワノビッチ・クイディン
30 勝部
30 キャロル・ギャラガー
32 勝部
33 ロバート・デルトレダシー
35 勝部
35 アンドレアス・ロベ
37 勝部
37 大石芳野
53 プロフィール
098 写真展における展示写真
109 新聞記事[原文]

平和記念施設あり方懇談会(レジメ)

平和記念施設あり方懇談会

平和記念施設保存・整備方針の策定

1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。

2 保存・整備方針策定の対象

ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。

1 目 的
ヒロシマの記憶が世界的に薄れつつあり、核兵器の使用さえ危惧されている状況の中、核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現を目指す被爆地ヒロシマの役割は益々重要なものとなっている。
これまでのヒロシマの取組みにおいて、原爆ドームをはじめとする平和記念施設は重要な役割を果たしてきており、その保存・整備については個別に検討がなされてきたが、被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から改めてその全体の保存・整備のあり方を整理する。
2 保存・整備方針策定の対象
方針策定の対象は、ヒロシマのシンボルである平和記念公園を中心とした空間(おおむねバッファーゾーンと同じ。)及びそこに所在する原爆ドーム、平和記念資料館、平和記念公園及び平和記念公園に接する平和大通りの一部を対象とする。
(1)原爆ドームは、核兵器が人類に何をもたらすのかを、最も象徴的に体現し、人間の理性と良心に訴えることのできる遺産であり、これを将来にわたって保存していくことの意義を改めて整理するとともに、将来の世代に理想的な姿で引き継いでいくための保存のあり方を整理する。
(2)平和記念公園及びそれに接する平和大通りの一部については、「平和大通り新世紀リニューアル事業」の基本方針を踏まえ、平和記念公園とその周辺エリアの利活用や平和の発信機能の強化を図るため、その空間のあり方や活用のあり方を整理する。
(3)平和記念資料館は、施設の老朽化への対応や将来を見据えた展示更新ための計画を策定することとしており、保存・整備方針においては、それに併せて平和記念資料館が今後その役割を果たしていくために必要な取組みについて整理を行う。

 1111135650270_1111134728705_image2
太線:緩衝地帯(バッファーゾーン)の区域

 

3 策定スケジュール

【平成15年度】
有識者等からの意見聴取、市民等からの意見募集

【平成16年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
平和記念施設保存・整備に係る資料の所在調査・整理

【平成17年度】
「平和記念施設あり方懇談会」の開催
「保存・整備方針」の素案に対する市民意見募集
「保存・整備方針」の策定・公表

関連情報

東京会議委員

飯田喜四郎   博物館明治村館長、名古屋大学名誉教授
猪口 邦子   上智大学教授
岩垂 弘    平和・協同ジャーナリスト基金代表運営委員
大石 芳野   フォト・ジャーナリスト
加藤 尚武   前鳥取環境大学学長
平山 郁夫   東京芸術大学長
山折 哲雄   前国際日本文化研究センター所長
山崎 朋子   ノンフィクション作家
横山 禎徳   一橋大学大学院客員教授

第1回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

≪平山委員≫
これは根幹に関わることだが、日本の遺跡の保存の仕方は、例えば奈良でも、あるいは海外でお釈迦さんの生まれた土地ルンビニに行っても、皆、公園化している。奈良でも石舞台の所に花や芝生を植えて道を造って、これでは遺跡ではない、破壊である。ドームを見ても芝生があって最後に瓦礫がある。なぜ瓦礫を残さないのか。当時はこんな綺麗ではない。阿鼻叫喚、地獄があった訳だが、それを知らない今の世代の人が見たらどう思うだろうか。過去の論議の資料で以前の市長が「火事になってもこの程度は壊れる」と言ったという記録があったが、まさしくそうである。この遺跡をどう扱うかは、アウシュビッツや色々な施設と比べてみても、姿勢が問われると思う。日本人は優しいところがあるから、平和的にやろうということならまた違ってくる。何を残していくのか、その精神とメッセージをどう伝えるのか。ただし構造的、物理的に限界があり、現状維持ではすぐ壊れるので、可能な限りガッチリと修理し、耐震構造にしても同じだが、それをどう景観と結びつけるか。その辺を根本的に討論したらどうか。

≪平山委員≫
今から見ると核の破壊力は飛躍的なものになっているが、古典的な広島型原爆がどれくらいの破壊力があったのか。半径2キロ四方が全滅した訳だが、通常B29が登載する爆弾の量は約5トンだったと言われている。TNT火薬1万トンあるいは1万2~3千トン、B29で一度に爆撃させたとすると、1万トンで2000機くらいになる。戦争中、兵器廠にいて1トン爆弾を近くに落とされて吹き飛ばされたことがあるが、砂地で直径約10メートル近い、深さが6~7メートルくらいのクレーターが開いた。それを考えるとものすごい破壊力があったことになる。今はそれの何十倍になっている。私の友達も即死を免れたが、放射能障害により1学年で50人位がガンで死んでいる。二世がいて、生まれてきた子どもも幼児ガンとかで死んでいる。二十歳前にも死んでいる。亡くなられた方が、14万人、15万人と言うが、これらをどうカウントするかである。もし被爆しなければ、そういう胃ガンとかは無かった。核の影響と言うのは観念的には70年、プルトニウムは200年、チェルノブイリでは草を食べたヤギや牛の乳からも影響があると言われている。それだけ怖いものである。それをよく知っているのはアメリカ、ロシアの核保有国である。私もウズベキスタンやあの辺りで講演などをしており、原爆や核実験は相当影響があると相談に来た人たちがいるが、政府は認めていなかった。恐らくアメリカもそうだったと思う。でも、怖さは一番知っている。だから、核拡散を恐れたり、大量破壊兵器を持たせないということは当事者として分かっていると思う。そういう怖さをヒロシマということではなく、これは猪口先生の軍縮でもそうだが、敵も味方もなく皆に知らせないといけない。落とせば両方が死に絶える。日本の世界文化遺産、例えば法隆寺にしても、塀の何メートルという近いところに土産物屋が並んでいるが、これは何とかならないかと思う。バッファーゾーンというのはやはり雰囲気というものがあるから、自粛するなりして、文化遺産の精神性のある根幹、哲学を知らせないといけない。広島の原爆ドームも柵をして緑で囲み公園にしているが、ぜんぜんイメージが違ってくる。これを限定された範囲でも芝生をどけて、時間は60年が経っているが、一瞬にしてこうなったということが再現されることは、大切なことである。昭和19年に大東亜戦争美術展があって、勧業博覧会があった。そういう建物だった。猪口先生が言われたように、戦争経験のない世代は、怖いんだと言っても見ただけでは分からないと思うから、どうやって戦争の怖さを知らせるか。そのためには、物として破壊をリアルに伝え、肉声で体験を教え、文書で記録し、流布していく。両面で行かないと確かにダメだと思う。是非そうしていただきたい。
どうドーム周辺を残していくか。建物は、がっちり耐震強化し、少々鉄を入れて補強しても、外観は変わらない。それよりも建物周辺の整備を行って、爆発した瞬間の凄まじさを再現する方が説得力がある。

≪平山委員≫
私も兵器廠で被爆し、市内の惨状をたくさん見た。目の前は燃えており、子どもが死んでいるのを親は知らないでいたり、ガラスがいっぱい刺さって血だらけになっているのに痛いと言わない。ヤカンだけ持ったり、枕だけ持ったり、8時15分だから寝巻きのままの状態、何がなんだか訳が分からない。静かになったと思うと、虚脱状態とパニックになって、身内がどうなっているかも分からない状態である。「痛い」とか泣き声を上げるのは相当経ってからである。ほとんど記憶がないと思う。いきなり、寝ていて、家が全壊して、潰されて、「助けてくれ」と言われても助けられない。そこに火が入ってくる。遊んでいたのが飛ばされたり、電車で丸焼けになったり、そういう状況の中で生き残っているから分からない。怖いということだけが記憶に残って、説明できない。肉親がいなくなった、どこに行ったか分からない。私は実家を離れて一人でいて自分さえ助かれば大丈夫だったので、どんなになっているかを半分は見ながら歩いていたが、そういう時に垣間見たことは、麻痺して感じなくなっていた。そういう状況だから説明がつかないことが多いと思う。言わないのではなくて言えない、分からない状態であったためである。

≪飯田委員≫
何を保存するかということについては、資料4の保存工事説明板、世界遺産説明板の文面があるが、これをまとめれば十分である。こういう理由で保存するということでいいと思う。
技術上の問題ついては、色々難しい問題がある。ギリシャ、ローマの遺跡であれば、まさに遺跡そのものであるが、原爆ドームは土を盛って芝をはってしまった。私が一番最初に行った時に「これはおかしいな」と思った。それで聞いたところが、公園として整備するために芝をはって盛り土をしているとのことだった。そのために壁が土の中に埋まっており、雨が降ったら全部これが上にあがってきて、大変まずいことになっている。ユネスコのセンターが東南アジアの研修生を呼んだとき、研修生は皆な同じ指摘をした。あそこに少なくとも60センチくらい盛り土があり、それを取ると先程(資料(パワーポイント)の周辺の瓦礫の画面)のような遺跡が出てくる。遺跡として見せるべきだ。あの様に綺麗にすべきではない。

≪猪口委員≫
まず、「なぜ残すのか。何のために残すのか」ということだが、教育の現場でいつも感じるのは、人の能力は非常に乏しく、自分の経験的な世界を越えて想像する力がとても弱いということ。教育は自分の経験的世界を越えて、人が物を考えられるように手助けする、そういうことを努力している。物事を抽象的に捉えるということもそうだし、経験をしたことがないことに対して思いを馳せるように教育は努力する。しかし、人間の能力は実際にそういう面で乏しいので、自分が経験していない悲劇について想像することを助けることが必要である。
まず、最も重要な存在は、被害の経験者である。だから被爆体験者はそのことを訴え続けていただかなければならない。国際社会では色々な軍縮の分野があるが、例えば、対人地雷の分野では、”raise the voice”という運動がある。「声を上げる」ということだが、実際に武器による被害の犠牲者となってしまう場合には、”raise the voice”をするような立場に立たない。対人地雷の被害に遭った子どもや親は、それを世界に訴えなければならないのだけれど、そういう余裕がないし、生きることだけがあまりにも大変で、訴える力がない。例えば欧米のNGOが、アフリカの内戦の被害者の被害・悲劇を代弁することをやるが、まったく不十分である。被害者そのものが訴えて、”raise the voice”をしてもらわなければならないのであって、それに代わるインパクトはあり得ない。人の乏しい能力は、実際に被害者が乏しい言葉であっても”raise the voice”することによって、思わぬほど深く発達するし、想像できるようになる。突然その問題に対してオーナーシップを自分として抱けるようになる。遺跡もそのようなものだと思う。乏しい人の能力を助けてくれるようになる。「二度とこの悲劇が起こらないように」というのが私達の願いだから、誰もその悲劇を経験することはないけれども、それを確実にするためには、全員がその悲劇をイマジンできなければダメである。ところが能力が弱いので、それを助けるものとして、永遠に原爆ドームは保存されなければならない。被害者は残念ながら亡くなってしまう。”モータル”になる。存在として”モータル”だけれども、無機物である建物は、人間の英知によって永久に保存する必要がある。被害者を超えて、永久に乏しい人間の想像する力、つまり核兵器の被害・悲劇はどういうものかという、もはや誰も経験しないことについて全員が想像できることを助ける最後のものとして原爆ドームは残る必要がある。これが理論的に「なぜ原爆ドームは永遠に残さなければならないか」ということの説明である。つまりヒロシマからの”raise the voice”という運動の一環であり、まず被爆者にやっていただかなくてはならないけれども、原爆ドームが全ての被爆者と私達と命を超えて、続く世代の更に乏しい能力を助けてくれると思う。例えばアテネに神殿があり骨格だけ残っているが、非常に深く古代の文明について訴えるものがある。いくつか永遠に骨格だけでも残るというものの保存の仕方を参考にすると良いのではないか。先ほど飯田委員が言われたように、外観はそういう意味で重要である。
産業奨励館として”イマジンハウス”というものを造る運動は、場合によってはとても興味深く重要な、新たな考え方に繋がるかもしれない。近距離に、元々あったものと破壊されたものとが、二つ残るという遺跡の保存の仕方は、今までなかったかもしれない。また、”イマジンハウス”を造る時に世界中の人が、乏しい能力だけれど、自分がたとえ1セントでも寄附するということでオーナーシップのプロセスに参加し、関係者となっていくプロセスとして、それを造ることができるのであれば、新しいメッセージの発信の仕方になる。
これは一般的なことだが、広島は見事に復活した。美しい公園と街も復活して、広島を訪れる私の軍縮仲間なども広島が復活していることに感激する。私はこのことについて二つのメッセージが必要だと思う。一つは「人間はどんな悲劇をも超える力がある」ということ、広島はその証人である。これを訴える記念施設のあり方を考えて欲しい。究極の破壊を受けてもここまで復活しメジャーな都市として再生しているということ。二つ目のメッセージは、必ず私が軍縮仲間の友人に言うことだが、「今あなたが見ている広島は決して同じものではない」ということ。失われたものは永遠に失われていて、同じものを復活することは人間には絶対にできないことである。この二つのメッセージが重要である。

≪横山委員≫
先程、猪口委員が言われたような問題があると思う。私は当時2歳11か月で62歳になるが、ということは10年後20年後になると実際のビジュアルのイメージや直接平山委員からお聞きしたような話がなくなってしまうような時代がすぐ来る。私は思い入れを持って原爆ドームを見るが、私が外国人だったらどのように見えるのだろうかと思う。例えばドレスデンの絨毯爆撃があったが、そこにいた私と同じくらいの年のドイツ人と話をしていて、どうしていたか聞いたら、「疎開はせずにドレスデンにいて、一家はみんな頭を真ん中にして放射状に寝ていた。死ぬ時は一緒だということで、そうやって寝ていた。」と言っていた。結局、原爆であろうとなかろうと、戦争の被害というものは悲惨であることは変わらない。それが、原爆だからというのを我々が思うように彼らはドームを見て感じるのかということだ。ドームのような破壊された建物は、当然ドレスデンにもあったはずである。その思い入れがどこまで広がって通じるだろうかという気がする。10年後、20年後には、もっと思い入れをもって見る人が少なくなってしまう。イマジネーションが少ないですから。我々と違う人たち、特に外国人が見た時、どんなインパクトがあるのかということには多少疑問がある。ドームだけではなくて資料館も含めて一体で分かってもらうように誘導すべきだし、そういうふうに見てもらうよう組み立てるべきだ。今は建築的には、ハードウエアとしては出来ている。シンボリックに軸も決まり、そうなっているからいかにも一体的に見えるが、歩き回る時に、人はそのように一体として捉えているかどうか。それがないとドームだけでは、少なくとも我々と違う人たちにはインパクトがない。
日本人の若者達でも同じことだ。ここで一番のテーマは、戦争の悲惨さだが、特に今問題なのは、戦争が攻撃側にリアリティがなくなっていることである。非常に極端な話が、オースト・スコット・ガードという作家の『エンターズ・デイ』というSF小説に書かれている。異星人が攻めてくるので地球防衛軍を作るが、その防衛軍は6歳以下の子どもである。テレビゲームのように毎日演習を行う。6歳の隊長が飽きてきて、「やめたい、本当の戦争はいつなんだ。」というと、「1週間前に終わったよ。」いう話である。要するにそれくらいリアリティがないということである。それで彼はショックを受けて、異星人と言えども、テレビゲームのようなリアリティのない世界で勝ったということを非常に悩む。そういう傾向が戦争にはあって、攻撃側が感情移入できない。日本は特に原爆とか核兵器に対しては、あまり積極的になれないところがあるけれど、今、別の形で起こっているピンポイント攻撃、85%の命中精度しかないが、日本だったらもっと命中精度の高いものを作れる技術とコンポーネントを全部持っている。実際に潜在的技術力から言うと、今のような極めてリアリティの低い戦争を仕掛けることができる能力を持っているし、持ちつつある。
そういうものと我々が語っているリアリティとの乖離が埋められるか。若者や外国人やイマジネーションのない人たちとの乖離が埋められるようなパッケージとして、提示すべきであって、ドームがどうだという議論をやっていると、ちょっとそこがずれてしまうという気がする。ハードウエアだけではなくて、目に見えない組み立ても含めて、リアリティをつなぐというところをやっていくべきだ。私は建築家なのだが、皆さんの言われるドームの機能に関しては、やはり建築の専門家を入れて議論すべきである。覆いをかけるとまったく変わってしまうというと、そんなことはなく、建築的にはどのようにでも組み立てることができる。単純に予算だけの問題である。
例えば、これはどれだけ周知の事実か知らないが、東京駅の復元計画がある。今は2階建てだが、本当は3階建てである。元のオリジナルの東京駅に復元するという計画があって、お金を出すのはたぶんJR東日本だと思うが、予算は500億円くらいである。私の建築の師匠の前川國男さんは「東京駅なんて残す価値のない建物だ」といつも言っていたが、それに対して500億円かけて、原形復旧する。それくらいのお金があれば、原爆ドームに、綺麗なほとんど目立たないようなデザインで完全なガラスの覆いをかけることは、建築家ならできる。しかもそれがあれば、パラドックスだけれど、そういうふうな覆いをかけてしまえば、あの芝生なんか外してしまえば良い。それで、実際のどうだったかということを見せることができる。構造的に計算できないと言われたが、どれだけ鉄骨・鉄の部分が劣化しているかということは、分かりようがない。いろんな形で固めていくと、沖ノ鳥島のようになってしまう。その方がみすぼらしいではないか。それだったら、綺麗な覆いをガラスでかけてしまえば、中は、地震の問題では別の補強をしなければならないが、酸性雨とかでもろくなっていく部分は完全に改善する。だから、どれだけの予算が出せるかということが、一種の踏絵であって、東京駅の復元に500億円出して、ここは予算がありませんというのは、やはり日本の建築の問題である。核兵器廃絶と言っているけれど、それはリップサービスであって本気ではない。これに100億か200億位の予算があれば、極めて皆さんが納得される立派な覆いをかけることができると思う。

≪平山委員≫
形あるのものは滅する。物理的に耐用期間というものがあり、限界がある。さらに保存せよという場合は、こういう方法もあるということを、広島に限らず根本的な条件として、出して認められれば、助かるところがあるかもしれない。

≪横山委員≫
アブ・シンベル神殿はユネスコの世界遺産だと思うが、コンクリートで固めてある。細分化して全部上げて、コンクリートのボックスの中で吊るしている。裏も見せるようになっている。そこまでやっている。ガラスで囲うこととそんなに差はない。

≪平山委員≫
アブ・シンベル神殿は水没するということがある。水没するのならば、切り取って移転するという方法を選んだ。崩れる年限になるならこうして保存するという精神が認められれば世界遺産でも認められる可能性がある。

≪飯田委員≫
あれは強引に切り取ったものである。他の案も出ていたが、排水しきれないということでああいう強引な形になった。今見ても鋭いカットした跡がある。ひどいやり方である。

第2回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

1 日時 平成16年(2004年)10月18日(月)13:30~16:00

≪山折委員≫
やはり広島の究極の面は鎮魂の場である。日本の歴史1500年を考えた場合、一番新しい鎮魂の場である。日本の歴史1500年の中で鎮魂の場はどういうものであったかという観点からすると、現在の広島のあり方は私には曖昧な空間に見えて仕方ない。本当に鎮魂の場として設定されているだろうか。具体的に言うと、原爆ドームと、平和記念資料館、追悼平和祈念館の関係がフラットにしか見えない。鎮魂の場であれば、どこかに奥の院がある。そうすると原爆ドームが奥の院で、資料館、祈念館がそこに至るまでの参道的な役割を持つということになる。そういう聖地空間としての機能が、必ずしも一体となっていない。奥の深さ、広がりを訪れる者に対比させるような形になっていない。むしろアプローチ、参道的な役割を果たしている所が中心的な空間であるという意識が非常に強い。それはそれで今日の時代的な要請で良いが、鎮魂の場としては、普遍的な存在をもう少し強調した整理の仕方にした方が良いのではないかと思う。
具体的にどのようにしたら良いかということだが、最初に思い浮かぶのは高野山の奥の院に至るアプローチは実に変化に富んでいる。宿泊の施設があり、盛り場があり、観光も出来る、山登りも出来る。もう一つは、伊勢神宮である。五十鈴川を渡り、次第次第に奥の内宮に近づいていく。その緊張感が、参内する時の普遍的な感覚を実にうまく演出している。もう一つは浅草タイプである。これこそ盛り場を中心として、先ほど屋台の話があったが、とにかく猥雑で様々な娯楽的な施設が集中している。しかし、やはり最後に観音様にお参りして、ホッとする。伝統的な文脈で言うと、浅草タイプ、伊勢神宮タイプ、高野山タイプの三つくらいあるが、その三者に共通しているのは、奥の院がしっかりしているということである。
そういう点では原爆ドームしか奥の院的役割を果たせるものはない。そういう工夫をもしもする とすれば、困難な面が出てくると思う。鎮魂の場というのは宗教的な祈りの場であるわけだから、奥の院は、当然、宗教的な象徴の意味がある。それが今日の広島市において出来るのかどうか、実際、我々がそういうことを指導的にやっていくことが出来るかどうか。多くの人々を今後集めるためには、どうしても宗教的な機能ということを考え直さなければいけないのではないか。鎮魂は非宗教的な行為であるという人が増えているが、その線を守っている限りにおいては広島は必ずしも普遍化・大衆化しない。これは言うは易しで乗り越えるのは困難な仕事であろうと思う。

≪山折委員≫
原爆ドームと厳島神社は一緒に世界遺産になっている。そういう所を巡礼するコース、連携・協力関係を作って、人の流れを作るということもある。
関連して、イスラエルのエルサレムにユダヤ教の聖地である”嘆きの壁”がある。あれは風化に任せており、特別の補修をしているようには見えないが、信仰の壁として生き続けている。その目と鼻の先に黄金のドームがある。イスラム教の聖地である。本当の聖地は中に囲われている岩であり、黄金のドームは鞘堂であるが、鞘堂をイスラムの聖地としている。時間が経てば変化していく可能性はあるが、問題は、ユダヤ教徒は”嘆きの壁”に行って帰ってくる。決して黄金のドームに行かない。イスラム教徒はドームにだけ行って岩にだけお参りする。お互いには巡礼しない。それは相互に不幸なことである。お互いの聖地を巡礼し始めると良いが、絶望的である。巡礼行動は往復運動であるが、多神教の世界では円運動になる。その特徴を生かしていけば、もう少し何か出来るかもしれない。
アウシュビッツは誰でも知っているが、次世代ではそれでも必ず忘れられていく。それに対する歯止めの教育的な措置として、石畳の街路に50m・100m置きくらいに一つの石を地上に盛り上がらせるように造っている。通る人は必ずそれに蹴躓き、蹴躓かせて思い出させる。その石を見ると犠牲者の名前が書いてあり、凄いな、ここまでやらないといけないのかと思った。良い悪いは別にしてアウシュビッツでさえも人の意識から忘れられていくということがある。
先ほど横山委員が言われたが、日本は平和愛好文化国家だったという歴史を教えることは一番根本的な問題である。日本の教育現場ではそれを教えていない。日本の歴史の中で長期に渡って平和を築いていた時期が二度もある。平安時代の350年と江戸時代250年である。なぜ実現可能だったかということに対し、正面きって研究はされていないが、これは驚くべきことだった。平安時代は貴族政権、江戸時代は封建武士政権、それでずっときている。なぜ、これだけの周期の平和が続いたか。それは、恐らく思想心、宗教心が作用している。こんな事例はヨーロッパの歴史にも中国の歴史にも無い。奇跡のような事実である。なぜそういうことが可能だったかという理由は、政治・経済・軍事などたくさんある。平和を担保する一番重要な要因は、宗教と国家の関係、調和のとれた関係である。神仏共存のシステムは平安時代に出来たが、今の社会の安定つながっていると思う。これも戦後の日本の経済は完全にネグレクトしている。この辺を根本的に反省しないと日本の歴史のポジティブな意味を受け継ぐことは出来ない。

≪横山委員≫
巡礼というのは宗教だけなのかというと、サンチアゴ・デ・コンスポテラというキリスト教の巡礼地がスペインにあり、昔からヨーロッパ中から巡礼に行く。何がある訳でもなく、建築的にも大した教会でもない。ソフトウェアとしてそこに行くような求心的なもの、日本であれば江戸時代の伊勢参りのようなものに出来ないのかということである。何か凄いものや宗教がなくては出来ないかと言うと、巡礼先が一つのテーマなのである。”嘆きの壁”の話があったが、スペインでは建築的にユダヤ教とキリスト教とイスラム教が層状に融合した建物もある。別にお互いに嫌いあった訳でもない時期があり、建築に残っている。神仏集合というのは、日本だけではなくイベリア半島にもあったのかも知れない。
今、科学の進歩からは、ステムセル(幹細胞)の問題、遺伝子、核や環境の話もそうだが、宗教を超えた人間観が要求されている。人間論というのはギリシャ哲学の頃からあるが、キリスト教が歪めてしまって、進化論を認めたのは1952年である。その時は、認めたという訳ではなく、宗教と科学を別にするという約束であった。その後、産業革命と機械論的人間論、進化論があって、ソフトウェア、ニューロン、通信システムのような人間観、遺伝子の人間観、要するに利己的な遺伝子のキャリアに過ぎないというような人間観など、それを超えたものが求められていて、日本から出てきて全くおかしくない時期にある。そういう人間観が日本から出てきて、リーダーにならなくてはいけないのにぐずぐずしている。それを広島から発信できれば、そこに物理的に何があるということではなく、サンチアゴ・デ・コンスポテラのように何がある訳ではなくても、巡礼地になり得る。広島あたりでやってみてはどうか。

第3回平和記念施設あり方懇談会(東京会議)会議要旨

1 日時 平成17年(2005年)1月27日(木)13:30~16:00

≪飯田委員≫
私は少しニュアンスが違う。確かにあの時撤回されたが、現在のままの状況でも数世代もつからというだけの理由であった。私としては第1回の時に覆いを掛けている事例についてお話があったので、その事例を見に行ったが話にならない。たくさん鉄骨を入れてなるべく大きなガラスをかけるというやり方であった。数世代経ってそういうものが必要になった時も、そういうやり方には賛成できない。例えばアテネのパルテノンも大気汚染でやられており、ブロンズもやられるのでチタン合金で保存の手を入れ、一般の人を立ち寄らせず手も触れさせないという状況である。あの辺の一番の汚染は大気汚染、自動車の排気ガスである。これから守ろうと思えばまさに覆いを掛けなければならない。でも大気汚染を防ぐ物を付けるという声は実際出ていない。やはり今のままで何とかしたいということである。だから今回の場合も覆いは絶対にやるべきではなくて、もし覆いをするのであれば横山委員が言われた銀行の例ような覆いでは駄目である。直径が1km位のドーム型の覆いを建てれば環境を保つことはできるが、まだそれに行く段階ではないと思う。球場なんかは全部空気のドームで覆っており、もちろん技術的には可能だが、まだその前にやるべきことがある。

≪飯田委員≫
理念が決まらないと、何年というのは出てこない。私は昔昭和の宮殿を造るときに関係したが、二重橋の鉄橋を造りかえるときに強く言われたのが、東京中の鉄橋が落ちてもこれは落とすなというような設計条件が出された。私どもは当然無視する。人が全部いなくなって、そこだけ残っても意味がない。広島についても同じであろう思う。広島市に震度7の地震が来たら残るところは非常に少ない。そういう状況でドームが耐えることは意味がない。理念をはっきりさせることによって決まってくるから、それによって何年ということを言ってもらえると良い。技術委員会は広島の地盤の状況から言って、どの程度の頻度でどれだけの震度の地震が起こることも分かる。それから一般の人が入らない建物であるから、安全率を下げることが出来る。そうであれば余り過度なことはしなくても良いということが出てくる。
現在、ドームの下の所に60センチ位盛土をして芝生が貼ってある。それをどうするかという問題である。ヨーロッパの遺跡に行ってみて庭園的なことをやっているのはイギリスが非常に多い。ローマの遺跡になると庭園的に造られたものは非常に少ない。ローマの中なら一部にはある。しかしローマの遺跡で一番残っているのは北アフリカの沿岸だが、そこは遺跡そのものである。瓦礫を出すか出さないかということをここで決めて頂ければありがたい。
また、あのように土が盛ってあると、煉瓦造りの建物なので下から湿気が登ってくる。普通の建物と違って水が上がって来ないように防水床をやっている。あの時代の建物は皆ていねいな仕事をしている。これで水が切れていたがそこに土を盛ってしまった。雨が降ると水が行く所がないので、壁体に上がって来る。上がって来るだけならいいが上がってきて蒸発すると、非常に濃い酸になり煉瓦を傷めてしまう。そういうことからも盛土の撤去を決めて頂くことはありがたい。

≪飯田委員≫
まず、役割については整理されているとおりだと思う。福井座長は観光について控えめに言われたが、観光であっても良いと思う。
平和公園とその周辺についてだが、記念碑とか慰霊碑はたくさんあるが、説明板の所が混んでいて面白くない、うんざりするということがある。解り易く、楽しいと言えば語弊があるが、そういうものにして欲しい。
中島地区の街並みの復元の話が出ていたが、あそこだけが無くなった訳ではなく、あそこだけ復元することは問題である。街並みとして復元するには相当広いスペースが要るので、大型の模型で示してそれをどこかに設置してはどうか。
それから「平和記念公園らしいサウンドスケープの整備」というのがある。遊歩道を歩くと鳥の声が聞こえてくるという装置があるが、あれは非常にいやらしい。平生は拡声器を兼ね、バック・グランド・ミュージックを流していて、限られた範囲だけならいいが音量の調整が難しく遠くまで聞こえてうるさいということになるのでサウンドスケープは難しい。特にヨーロッパのお客さんからはそういうことを強く言われる。音楽を流すのは良いがよほど気を付けてやる必要がある。

「民有地を含む空間のあり方」については、広告の規制など非常に良くやっておられる。日本の文化財行政の一番の欠陥は、周辺を保護しないことである。パリにはたくさんの文化財があるが、一つの文化財の周囲500メートル以内は、新築・改築全部が許可制である。それではじめて景観が保たれている。建物に対して500メートルといっても、建物に対して一緒に見える場合には規制を受けるという形になっている。日本の場合は周辺の環境を保護するということが全くない。平和記念公園の場合は市の方が苦労して広告を取って頂いていて良いが、平和記念公園で一つに気になるのは、慰霊碑のところから原爆ドームを見ると、やはり商工会議所の醜い建物が耐えられないということである。例えばパリなら都市計画の中で建物に高さの制限があるので、ユネスコの本部を造る時には、地下4階建てにして高さを制限している。原爆ドームのシルエットは非常に大切だから、ドームの後だけは樹を植えるとか建物に蔦をはわせるとかではなく、高さの制限をして頂きたい。広島だけではなく日本全体に文化財の周辺環境に対する配慮が全くない。商工会議所は築後40年ほど経過しており、100年200年持つものではないので必ず建て替えの時期が来る。難しいとは思うが、都市計画の中でドームの後ろにあのような建物がないようにしていただきたい。どの位の高さ、どの程度の距離まで規制するかを検討して頂き、何とか平和記念公園のビスタを守って頂きたい。
ドーム周辺の緑の中で1本だけ非常にドームに近いものがある。大きく育っているので、根が建物の下に入ったら建物を壊してしまうので、あれだけは伐採して頂きたい。

平和記念施設あり方懇談会設置要綱

平和記念施設あり方懇談会設置要綱
(設置)
第1条 被爆60周年となる平成17年に向け、長期的な観点から平和記念施設の保存・整備のあり方を整理するための平和記念施設保存・整備方針を策定するにあたり、有識者等から指導・助言をいただくことを目的として、「平和記念施設あり方懇談会(以下「懇談会」という。)」を設置する。
(平和記念施設)
第2条 方針策定の対象となる平和記念施設は、ヒロシマのシンボルである平和記念公園を中心とした空間(おおむね「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建物等美観形成要綱」の対象地域内(バッファーゾーン)と同じ。)及びそこに所在する原爆ドーム、平和記念資料館、平和記念公園及び平和記念公園に接する平和大通りの一部をいう。
(所掌)
第3条 懇談会の所掌は、次のとおりとする。
(1)平和記念施設保存・整備方針案の策定についての指導・助言に関すること。
(2)その他平和記念施設のあり方に関すること。
(委員)
第4条 懇談会の委員は、15人以内とする。
2 委員は、平和記念施設について優れた識見を有するものから市長が依頼する。
(任期)
第5条 委員の任期は、平成17年12月31日までとし、補欠の委員の任期は、前任者の残任期間とする。
(座長)
第6条 懇談会に座長1名を置き、委員の互選により選出する。
2 座長は、会務を総括する。
3 座長に事故があるときは、座長があらかじめ指定する委員がその職務を代理する。
(会議)
第7条 懇談会は、座長が招集し、座長が議長となる。
2 座長は、必要があるときは、懇談会に関係者の出席を求め、その意見又は説明を聴くことができる。
(庶務)
第8条 懇談会の庶務は、市民局国際平和推進部平和推進担当において処理する。
(その他)
第9条 この要綱に定めるもののほか、懇談会に関し必要な事項は、座長が定める。
附則
この要綱は、平成16年7月16日から施行し、平成17年8月31日限り、その効力を失う。
附則
この要綱は、平成17年8月30日から施行し、平成17年12月31日限り、その効力を失う。

 

 

平和関係施設調査研究委員会資料

平和関係施設調査研究委員会(1984年5月11日設置)宇吹所蔵資料

No. 年月日 資料名 形態
19840511 平和関係施設調査研究委員会<設置>
0 1989∼ 平和関係施設調査研究委員会ワーキンググループ  File
0-1 19891102 平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ合同会議
平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ合同会議資料
資料1  平和関係施設調査研究委員会・ワーキンググループ研究員名簿
資料2 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置について-これまでの経緯
資料3 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の広島設置に関する要望・提言の状況
資料4 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置年次計画
資料5 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置元年度事業計画
資料6 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の設置元年度事業実施スケジュール
資料7 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の広島設置について-基本構想のたたき台
資料8 平和と軍縮に関する国際的な研究機関必要人員数、延床面積
資料9 平和と軍縮に関する国際的な研究機関の組織図(案)
0-2 198912 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」の設置について-基本構想のたたき台(第1次改定分)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター)
0-3 199005 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(案)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター)
0-4 199005 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(案)(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター)
0-5 199006 「平和と軍縮に関する国際的な研究機関」設置基本構想(平和関係施設調査研究委員会・財団法人広島平和文化センター)
1 19870331 国立平和研究所広島設置の構想(案) 冊子
2 19910107~  平和に関する国際的な研究機関(三菱総合研究所)  File
2-1 19910107 「平和に関する国際的な研究機関」基本計画検討懇談会開催のお知らせ(三菱総合研究所⇒宇吹暁)
2-2 19910118 第1回基本計画検討懇談会(広島部会資料)
2-3 「平和に関する国際的な研究機関」設立当初の研究対象の具体例
2-4 [ご参考]「「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査 中間報告用資料(株式会社三菱総合研究所 1990年12月」
3 19910304 「平和に関する国際的な研究機関」基本計画検討懇談会開催のお知らせ(三菱総合研究所⇒宇吹暁)
3-1 19910315 第2回基本計画検討懇談会(広島部会資料)  綴
3-2 [ご参考]「「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査報告用資料(株式会社三菱総合研究所 1991年3月」  綴
4 19910331 「平和に関する国際的な研究機関」設置基本計画策定調査報告書(株式会社三菱総合研究所) 冊子
5 19910331 同上 <要約版> 冊子
6 19910331 「平和に関する国際的な研究機関」の設置について(市長室)  File

 

 

 

広島平和文化センター刊行物一覧(宇吹所蔵)

広島平和文化センター刊行物一覧(宇吹所蔵)

発行年月日 書名 備考
19770331 平和の推進(昭和51年版)
1983(昭和58年版)、
1988(昭和63年版)~1997年版(平成8年度事業)
19771220 ヒロシマ・原爆・平和 平和教育冊子No.1
広島平和文化センター編刊・渓水社(発行所)
19780720 ヒロシマ読本 小堺吉光著
19790320 平和  国家・核・教育 平和教育冊子No.2
19821120 国際連合の話 桑原輝路著 平和冊子No.4
19840331 軍備と軍縮の歴史 山田浩著 平和冊子No.5
19851025 平和事典 勁草書房(発行所)
19880331 原爆被爆者は訴える 被爆証言集 平和冊子No.6
煙石二三枝 犠牲者の遺骨の前で読経
川本義隆  人間らしく生きる世界を
小松キクエ 未だ骨もないわが娘を思う
小松清興  アウシュビッツとヒロシマがだぶる
笹村弘志  運動場に蚊帳を吊って子どもの世話を
高橋昭博  「ヒロシマ」で生きることの意味を問う
寺前妙子  苦悩を越えて強く生きよう
松重美人  生き地獄にシャッターが切れず
松原美代子 讃美歌で心の安らぎを
山岡ミチコ 米国で27回の手術を受ける
山根力男  課員全員が死亡する上原敏子      外国人の原爆被害について
19910930 平和研究入門 松尾雅著 平和冊子No.7
19920325 平和記念式典の歩み 宇吹暁著 平和冊子No.8
19930331 平和学を創る 構想・歴史・課題 岡本三夫著 平和図書No.9
19940331 ソ連・ロシアと世界平和 岩田賢司著 平和図書No.10
19950331 東欧の歴史と民族問題 林忠行著  平和図書No.11
19960331 開発と貧困-豊かさの中の貧しさと、貧しさの中の豊かさと 竹内常善著 平和図書No.12
19970331 軍縮への道 1995年版・国連軍縮年鑑 国際連合著      石栗勉訳
19970331 (財)広島平和文化センター20年誌―センターの歩み
19980331 冷戦後の世界と米中関係 中逵啓示著 平和図書No.13
19980331 国際社会と人権 水上千之著 平和図書No.14
19990331 哲学の21世紀-ヒロシマからの第一歩 嘉指信雄著 平和図書No.15
 19990331  平和と交流  1998年版(平成9年度事業)
~  2006年版(平成17年度事業)

世界平和連帯都市市長会議

世界平和連帯都市市長会議 1982年6月24日発足

2001年8月5日、「世界平和連帯都市市長会議」から「平和市長会議」に、2013年8月6日に「平和首長会議」に名称変更。

 

平和問題調査会

平和問題調査会=広島市長の諮問機関。1981年5月14日設置。

開催年月日 議題など
01 19810514  ①委員長の選出②会の名称、構成メンバー、事務局の決定③昭和56年会議開催計画等について説明④基本的問題と事業計画一軍縮シンポジウムの開催/市民講座・特別講演会の開催/国際的平和研究機関の誘致
02 19810724  パルメ委員会の東京招致及び広島ワークショップについて
03 19810907  ①パルメ委員会及びワークショップの開催について一東京、広島での準備状況
04 19811130  ①パルメ委員会を迎え、ジャパンワークショップ東京、広島セッション開催の事前検討について
05 19820128  ①パルメ委員会ジャパンワークショップの結果報告並びに今後の対策について
06 19820223  ①第2回国連軍縮特別総会への対応策について―ワーキンダ・グループの検討結果報告
07 19820517  ①第2回国連軍縮特別総会に対する広島・長崎両市の対応について
08 19820702  ①第2回国連軍縮特別総会の報告②パルメ委員会最終報告書に基づいた平和、安全保障と軍縮に関する東京セミナーについて
09 19821001  ①平和と安全保障と軍縮に関する東京セミナーの開催について一パルメ委員会報告を受けて
10 19840217  ①国連大学主催東京セミナーについて②広島市が行う平和推進活動について
11 19820218  ①第1回世界平和連帯都市市長会議(広島市・長崎市主催)について②東京セミナーについて
12 19870319  ①第1回世界平和連帯都市市長会議の報告②昭和61年は国際平和年に当たり、この取組みとして、国際平和サミット、平和シンポジウム等の実施計画を説明。
13 19880318  ①国際平和年事業の報告②被爆42周年への取組み③世界平和都市連帯推進事業④国連大学・国連大学協力関係プロジェクト
14 19880216  ①国連大学学長及び各委員紹介②昭和62年度実施事業報告③昭和63年度平和推進事業説明④6か国首脳会議帰国報告⑤第3回国連軍縮特別総会(広島・長崎両市長出席)へ向けての提言
15 19890217  ①昭和63年度実施事業②平成元年度実施事業③第3回国連軍縮特別総会への出席④国連軍縮広島講演会の開催⑤第9回核戦争防止国際医師会議世界大会の開催⑥第2回世界平和連帯都市市長会議⑦平和・軍縮研究機関の設置構想案
16 19900222  ①平成元年度主要平和関連事業実施状況②平成2年度主要平和関連事業計画案の概要③「平和に関する国際的な研究機関」の設置について
17 19911112  ①広島市の平和の取組み②新委員を含む委員の自己紹介及び意見交換。
18 19921204  ①広島市の平和の取組み概要②国連軍縮広島会議の報告③第3回世界平和連帯都市市長会議の検討④アジアにおける広島の役割⑤被爆50周年記念事業
19 19931202  ①「広島市の平和行政」について①原爆ドームの「世界遺産一覧表」への登録について③「第3回世界平和連帯都市市長会議」の報告④広島市の平和の取組み概要
20 19941219  ①被爆50周年を迎えての広島市の平和への取組み①米国スミソニアン協会・国立航空宇宙博物館における特別展③国際司法裁判所における核兵器使用の違法性の審理①原爆ドームの「世界遺産一覧表」への登録⑤|世界平和連帯都市市長会議アジア太平洋地域会議⑤広島市の平和の取組み概要
21 19950329  ①アメリカ社会における核廃絶の認識を高める方途について
22 19960321  ①被爆50周年以後の平和行政について。広島市平和問題調査会は、この会合を以て解散した。
『広島平和文化センター20年誌』(19970331刊)

 

国際連合訪問の経緯(1975~76年 )

国際連合訪問の経緯(1975~76年 )
出典:『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』(広島市・長崎市編 ・刊、19770331 )
概要
昭和50年、ちょうど原爆投下後30年目の記念にあたり、広島と長崎両市は、姉妹都市の提携を結び、しっかり手を組んで核兵器のもたらす悲劇を進んで世界に知らせることを誓い合った。
その第一歩として昭和51年度に、まず現存する国際機構のもっとも確立されている国際連合に、核兵器の廃絶と全面軍縮を訴えることを決意した。
両市とも広く市民の賛同を得、市議会の賛同を得て、国連事務総長に会う準備を始めたが、この事業を進めるに当って考えなくてはならないことは、国連という場へ地方自治体が臨めるかどうかという点であった。
もともと国際連合は、世界146力国が加盟している組織で、日本もその加盟組織の一単位に過ぎない。各都市は、国連に対しては直接的には関係がない存在である。
そこで両市は、まず外務省の国連局を通じて手続きを始めるのが順序となる。そのためには十分な根まわしが必要で、外務省の指導と自治省の了解を求める必要があった。
つぎに国連側の事務局との連絡は、東京の出先機関として東京に駐在している国際連合広報センターと折衝した。
幸いなことに国連事務次長で、事務総長の下で広報活動をする部の長である赤谷源一氏(外務省から出向している大使級で、国連広報センターの直接上司)が、たまたま、神戸に帰国した機会をとらえて、ワルトハイム事務総長との連絡を依頼した。
赤谷氏の好意的な尽力により、事務総長との会見日が12月1日と決定されたのは8月23日であった。
この段階で、訪問の今一つの大きな内容である主要国代表部の大使との会見、すなわち核保有国、核保有の可能性のある国および核反対を表明している国の大使こ直接訴えることが考えられた。そこで、会見の希望を伝える書簡を14カ国に送った。また、現地での日時設定は、ニューヨークの日本政府国連代表部に依頼した。

 

1975(昭和50年)8月1日

国際連合に対するアピールについて審議
荒木市長は昭和50年度第2回平和文化推進審議会(広島市平和文化センター所管)で「平和宣言の精神を基調として具体的行動を考えたい。それにはまずヒロシマを世界に広めるため、国連にアピールすることを思っている
が、これについて各委員の意見を伺いたい。」と発言した。
同審議会は小委員会を設置して検討を始めることとなった。
小委員会の委員はつぎの通りである。
今堀誠二(広島大学総合科学部長)
岡崎怒一(弁護士)[岡咲恕一]
小谷鶴次(広島大学教授)
坂田修一(元広島市助役)
原田東岷(原田外科病院院長)
丸山益輝(広臭大学教授)
森脇幸次(中国地方経済連合会専務理事)


1975(昭和50年)9月2日

平和文化推進審議会小委員会の各委員に対し、ヒロシマ・アピールに関する意見書の提出を依頼した。
各委員の意見の要点はつぎのとおりである<以下未入力>

1975(昭和50年)9月9日

平和文化推進審議会小委員会の開催
協議要旨は、つぎのとおりである。
<以下未入力>

1975(昭和50年)10月31日

<未入力>

1976(昭和51年)2月4日

<未入力>

1976(昭和51年)2月19日

<未入力>

1976(昭和51年)2月27日

1976(昭和51年)3月8日

1976(昭和51年)3月17日

1976(昭和51年)3月30日


1976(昭和51年)4月1日

広島市平和文化センター局、財団法人広島平和文化センターとして発足する。

1976(昭和51年)4月16日

1976(昭和51年)4月26日

1976(昭和51年)4月28日

1976(昭和51年)5月8日

1976(昭和51年)5月10日

1976(昭和51年)5月11日

1976(昭和51年)5月12日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島憩いの家原爆被災者の会一同(代表 田辺耕一郎)

1976(昭和51年)5月10日

1976(昭和51年)5月13日

1976(昭和51年)5月15日

1976(昭和51年)5月21日

1976(昭和51年)5月27日

1976(昭和51年)5月29日

1976(昭和51年)5月31日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島県原爆被害者団体協議会 理事長 森滝市郎

1976(昭和51年)6月1日

1976(昭和51年)6月9日

1976(昭和51年)6月14日

1976(昭和51年)6月16日

1976(昭和51年)6月17日

1976(昭和51年)6月24日

国連訪問支持決議<内容未入力>

明るい釈迦づくり広島県民大会 宮沢弘

1976(昭和51年)6月25日

第5回6月定例長崎市議会において、ナガサキーヒロシマ国連アピール準備委員会に対する負担金220万円を予算計上する。

1976(昭和51年)6月26日

林田国際文化会館館長 広島市へ出張する。 (広島市側国連アピール資料編集専門委員会委員選定の件、広島市長国連訪問支持決議の件)

1976(昭和51年)6月29日

佐野外務省事務次官、同政治課長らに国連訪問の主旨および折衝経過等を説明し、協力を要請する。(荒木市長、諸谷市長、広島・長崎両東京事務所長ほか)

1976(昭和51年)6月30日

第1回国連アピール市民懇談会の開催(世話人=岡咲恕一、小谷鶴次、原田東岷、広瀬ハマコ、丸山益輝、森脇幸次の在広各氏)
市長への要望事項
1、核兵器と戦争廃絶のために世論の流れを変える努力をして来てほしい。
2、核兵器を過少評価する動きがある。広島の生の声をぶっつけて来てほしい。
3、在米市民運動団体にも働きかけてほしい。

1976(昭和51年)7月1日

長崎市国連アピール資料編集専門委員会委員を選任する。

1976(昭和51年)7月3日

国連アピール資料編集専門委員会初会合協議内容
アピール内容は、事務総長へ要請する事項と被害資料とする。被害資料は物理的破壊、身体的障害、社会的破壊および今後の課題の4部とし、すべて歴史的事実に基づいて執筆することを申し合わせた。
構成メンバーは、つぎのとおりである。
顧問  飯島宗一 広島大学学長
貝島兼三郎 長崎大学学長委員長 今堀誠二 広島大学総合科学部長
〔広島側〕
副委員長 原田東岷 原田外科病院々長
委員   石田定  広島原爆病院内科部長
岡本直正 広島大学原爆放射能医学研究所長
庄野直美 広島女学院大学教授
湯崎稔  広島大学原爆放射能医学研究所助教授
〔長崎側〕
副委員長 秋月辰一郎 聖フランシスコ病院医長
委員   市丸道人 長崎大学医学部教授
岡島俊三 長崎大学医学部教授
島内八郎 長崎原爆資料協議会副会長
西森一正 長崎大学医学部教授
宮城重信 長崎原子爆弾被爆者対策協議会医療部会長
国連訪問医師  大内五良広島県医師会長

 

 

参考資料:『ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請』(広島市・長崎市 1976年10月)』
無題
<上記の抄録> 専門委員会は,今年7月上旬に発足以来,今回の問題に関心ある諸方面と連絡をとりながら、熱心な討議を重ね短期日の間にこの要請書並びに資料編を作成し。国連事務総長への要請項目の起草は、当初から,広島・長崎の被爆者を中心とする市民とくに被爆者団体と平和運動団体の代表者の意見を受けてまとめられた。またこれには財団法人・
広島平和文化センター」の理事会の意見も反映されている。
特にその資科編『原爆被害の実態-広島・長崎』の作成にあたっては、「原爆による物理的破壊」および「原爆による身体的障害に閔する原案を、庄野直美氏が石田田定氏の協力で起草し、また、「原爆による社会的破壊」の原案は湯崎稔氏が起草し宇吹暁氏(広島大学助手)の協力を得た。これらの原案に基づき.専門委員全体で検討を加えて資料編が完成された。
この要請書並びに責料編の英文翻訳にあたっては、「財団法人・放射線影響研究所(旧ABCC)の協力を得た。

 

1976(昭和51年)8月24日(宇吹メモ)
 19760824

1976(昭和51年)7月5日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本原水爆被害者団体協議会 代表委員 行宗一

1976(昭和51年)7月13日

1976(昭和51年)7月19日

1976(昭和51年)7月16日

1976(昭和51年)7月22日

1976(昭和51年)8月2日

外務省政治課長と打ち合せる。(広島市東京事務所長)
国連広報センターと打ち合せる。(同)

1976(昭和51年)8月3日

 広島市側国連アピール資料編集専門委員会第一回会合の資料の送付を受け、長崎市国連アピール資料編集専門委員に配布する

1976(昭和51年)8月6日

  広島三十一年目の「原爆記念日」
参拝した三木内閣総理大臣に対し、「国際連合訪問に関する要望書」を提出(荒木市長)
提出した要望書の全内容
人類史上初の被爆体験をした広島市民は、この凄惨な体験をみつめながら、ひとたび核戦争がはじまれば人類の滅亡と文明の終えんは明らかであることを予見し、一切の悲しみと憎しみを越えて、ヒロシマを再び繰り返さないよう、全世界に訴え続けてきました。
しかしながら、世界における核軍備の情勢は、全人類をせん滅して余りある巨大な量の核兵器が蓄積されつつあり、人類の安全にとって危険な兆候にあります。
広島市民は、こうした危険な事態を憂慮し、このうえは国際連合に対し、核兵器の廃絶を訴えなければならないとする機運が盛りあがってまいりました。
もちろん、国際連合および政府における核軍縮へのご努力は、広島市民としてまことに喜ばしいことではありますが、この際、ヒロシマーナガサキの立場において、国際連合総会が議決した核兵器の使用禁止・核拡散防止・核実験停止に関する諸決議の目ざす核兵器廃絶への具体的措置が早急に実現されるよう要請いたしたく、広島市民の総意と支持のもとに、長崎市長と共に、今秋国際連合に赴くことを決意した次第であります。
国際連合訪問計画および要請事項等については、現在、外務省当局のご指導を得ながら進めておりますが、政府におかれても、非核三原則の国是に立脚され、別添の要望事項について絶大なご指導とご協力を賜わりたく、お願い申しあげます。
昭和五十一年八月六日
広島市長 荒木武
内閣総理大臣 三木武夫殿
(別紙)国際連合訪問に関する要望事項(未入力)

1976(昭和51年)8月9日

  長崎三十一回目の「原爆記念日」
参拝した三木総理大臣に対し、広島市長が提出したように「国際連合訪問に関する要望書」を提出する。(諸谷市長)
内容は広島市とほぼ同一のため省略

1976(昭和51年)8月10日

1976(昭和51年)8月11日

1976(昭和51年)8月13日

1976(昭和51年)8月16日

1976(昭和51年)8月18日

1976(昭和51年)8月21日

1976(昭和51年)8月23日

1976(昭和51年)8月24日

1976(昭和51年)8月26日

1976(昭和51年)8月27日

1976(昭和51年)8月31日

1976(昭和51年)9月3日

1976(昭和51年)9月4日

1976(昭和51年)9月6日

1976(昭和51年)9月8日

1976(昭和51年)9月10日

1976(昭和51年)9月13日

1976(昭和51年)9月14日

1976(昭和51年)9月15日

1976(昭和51年)9月16日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本ペンクラブ会長 石川達三

1976(昭和51年)9月18日

1976(昭和51年)9月24日

1976(昭和51年)9月27日

1976(昭和51年)9月29日

1976(昭和51年)9月30日

1976(昭和51年)10月1日

1976(昭和51年)10月2日

1976(昭和51年)10月4日

1976(昭和51年)10月5日

1976(昭和51年)10月7日

1976(昭和51年)10月15日

国連訪問支持決議<内容未入力>

財団法人広島市連合母子会長 栗栖ミツヨ、財団法人安佐連合未亡人会長 西山春子

1976(昭和51年)10月24日

国連訪問支持決議<内容未入力>

第25回広島市民生委員・児童委員大会会長 宮本福松

1976(昭和51年)10月25日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島市地域婦人団体連絡協議会会長 藤野考子

1976(昭和51年)10月30日

1976(昭和51年)11月1日

国連訪問支持決議<内容未入力>

日本自動車産業労働組合連合会日産プリンス販売労働組合(中国・四国地区長沖実)

1976(昭和51年)11月4日

1976(昭和51年)11月5日

1976(昭和51年)11月8日

1976(昭和51年)11月9日

1976(昭和51年)11月10日

1976(昭和51年)11月13日

国連訪問支持決議<内容未入力>

(長崎)世界平和祈念旬間行事実行委員会

1976(昭和51年)11月14日

1976(昭和51年)11月15日

1976(昭和51年)11月17日

国連訪問支持決議<内容未入力>

広島ユネスコ協会総会

1976(昭和51年)11月19日

広島市渉外課長先発する。
同日
外務省および国連広報センターに渡米あいさつ回りをする。(広島市渉外課長)
同日
外人記者クラブに英文資料を提供する。(同)

1976(昭和51年)11月23日

荒木市長、大内県医師会長は渡米報告のため慰霊碑に参拝。同日夕刻、荒木市長広島を新幹線で出発。出発に先立ち、広島駅で壮行会を開催する。
511123(昭和51年11月23日)
諸谷市長一行は、杉本長崎原爆遺族会長、宮城原対協医療部会長、江角原爆老人ホーム理事長ら関係者多数の見送りと激励を受けこれに対し市長は「核廃絶の声が、国際世論となるよう全力を挙げて来たい」と決意をひ歴し、出発する。

1976(昭和51年)11月24日

大内県医師会長は広島空港から上京する。

1976(昭和51年)11月25日

両市長は、「スタジオ102」に出演したのち、東京を発ち、ニューヨーク経由でワシントンに到着した。
511125(昭和51年11月25日)
ブリュセルで開かれた第六回国際自由労連執行委員会は、両市長の国連に対するアピールをとりあげ、これを支持することを決定し、つぎのようにワルトハイム事務総長に打電した。

 

国際連合訪問の状況(日程順)

第1部 国際連合訪問の状況(日程順)

1976年11月
25日 ワシントン到着
26日 日本大使館を表敬訪問
米国務省軍縮局を訪問
国立公文書館を訪問
ウイリアム・ペン・ハウスで平和の集いを開催
27日 アーリントン墓地参拝
米国科学者連盟事務所を訪問
ウイルミントン到着
ウイルミントン大学学長主催夕食会に出席
28日 ウイルミントン市長主催朝食会に出席
ヒロシマ・ナガサキ記念文庫を訪問
ニューヨーク到着
29日 日本代表部を訪問
国連広報担当事務次長補を訪問
クリスチャン・センターを訪問
オーストラリア代表部を訪問
30日 カナダ代表部を訪問
フランス代表部を訪問
アメリカ代表部を訪問
1976年12月
1日 ワルトハイム国連事務総長と会見
イギリス代表部を訪問
内外新聞記者団と会見
イスラエル代表部を訪問
アメラシンゲ国連総会議長と会見
ニューヨーク市長を表敬訪問
赤谷次長補主催のレセプションに出席
ノーマン・カズンズ氏と懇談
2日 ソビエト代表部を訪問
インド代表部を訪問
東ドイツ代表部を訪問
西ドイツ代表部を訪問
日本協会主催のレセプションに出席
3日 ニュージーランド代表部を訪問
ノルウェー代表部を訪問
国連第1委員会(軍縮)を傍聴
4日 訪問10日目に休養日
5日 ロサンゼルス空港到着
広島・長崎両県人会主祭歓迎夕食会に出席、在米被爆者と懇談
6日 ロサンゼルス市長を訪問
大内会長ら、被爆者と医療相談
ロサンゼルス市議会を訪問
日本総領事官を訪問
シティー・ビュー病院を訪問
ロス郡医師会の昼食会に出席
日系老人ホームを視察
7日 ロサンゼルス郡参事会で発言
内外記者会見で両市長共同声明
トーマス・野口事務所を訪問
ロサンゼルス発
サンフランシスコ着
広島・長崎両県人会主催歓迎会に出席
8日 サンフランシスコ市長を訪問
オークランド=ベイ地区を見学広島・長崎両市長主催夕食会開催
9日 サンフランシスコ発、東京へ
10日 東京羽田着
12日 荒木広島市長、慰霊碑に帰国報告
13日 諸谷長崎市長、記念像に帰国報告

出典:『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』(著者:広島市・長崎市編、 刊 19770331 )

 

 

国連訪問レポート(1976)

『国連訪問レポート-1976 ヒロシマ・ナガサキ 核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請 』広島市・長崎市編 、刊、19770331)

事項
国連訪問を終えて
1 国際連合訪問の状況(日程順)<詳細リンク
2 国連事務総長への要請・要望事項および原爆被害の実態に関する資料
3 国際連合訪問の経緯
概要
1975年8月1日~1976年11月25日
編集後記