「慰霊碑2(平和公園)」カテゴリーアーカイブ

佐東町川内・温井義勇隊の碑

佐東町川内・温井義勇隊の碑

 (正面)(原文左横書)
義勇隊の碑
(縦書)広島市長
浜井信三書
 HIC072
(裏面)上温井(六八名略)
中温井(三七名略)
下温井(四〇名略)
 HIC072B
 〔側碑〕
(正面)謹みて義勇隊の霊にささぐ
我等みな忘れまじ悲しみて余りある惨状の日を、
そは昭和二十年八月六日午前八時十五分なり。
原爆、この地に投下され阿鼻叫喚の巷の中で
苦悶のはてに吾がはらからはいまここに眠る。
軍の至上命令とはいえ百七拾四名の尊き犠牲者
当日早朝より家屋疎開の作業に従事す。
その名川内村義勇隊旧安佐郡川内村温井
部落居住者なり
戦禍の憎しみ今ここで言うをまたず我等遺族
その若き命をささげし霊に対し断腸の思い
果つるを知らず。
ここに遺族一同相はかりてその尊き犠牲を
永久に語りつたえ、今平和のきざしこの地より
出ずるにあたり、霊よとこしえに安かれと祈念し
この碑を建立す。
昭和三十九年八月六日
安佐郡佐東町川内温井
遺族一同

 

 

 

 

祈りの像

平和祈念慰霊国民大祭記念祈りの像
建立年月日:1960(昭和35)年8月15日
場所:広島市・平和記念公園

(台座正面)
祈り
(台座裏面)
施工者 今村正範
(台座右側面)
平和祈念慰霊国民大祭記念
昭和三十五年八月十五日建立
慰霊対象
被爆者   軍人軍属
官公吏   警察官
警防団員  動員教師
動員学徒  派遣看護婦
助産婦   抑留同胞死没者
戦犯処刑者 殉死者
自決者   在外同胞非業死没者
其他一般犠牲者

〔側碑〕

平和を祈り
御霊を鎮めん
大木惇夫
山河に歎きはみちて
叫ぶ声あり 戦ひは
げに 人類の恥辱ぞと
ああ 奮ひ起ち挙り立て
心つなぎて つつましく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

青空の光をうけて
闇を絶たずや 戦ひは
げに 人類の愚劣なり
ああ 奮い起ち挙り立て
呼べば応へて たくましく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

夕星のさとしはありて
こだま地にみつ 戦ひは
げに 人類の自滅ぞと
ああ 奮い起ち挙り立て
まこと尽して 美はしく
世界の平和 祈らばや
やすらぎの日をもたらして
国に殉ぜしもろ人の
み霊をこそは鎮めまし
み霊よ 地下に哭くなかれ

 

 

原爆供養塔小史

原爆供養塔小史

1947年(昭和22年)8月6日、前年に引き続いて慈仙寺鼻の戦災供養礼拝堂で広島宗教連盟主催のもとに慰霊祭が執行された。慰霊祭は、午前7時に仏式から始まり、キリスト教、教派神道、神社庁式の順に正午まで続いた。

1949年のこの行事の式次は広島市戦災死没者供養会が発行した「広島市戦災死没者慰霊祭執行について」と題する案内状により詳細に知ることができる。これによれば、8月6日午前6時半から7時半の1時間、宗教連盟主催の行事を行ない、平和式典開催時間(8時15分-9時15分)の中断後、9時半に再開、新教(プロテスタント)、天理教、浄土宗、旧教(カトリック)、日蓮宗、真宗本派、真宗大派、真言宗、曹洞・臨済宗の各派の順にそれぞれ1時間ずつ法要を執行し、午後6時半に終了することになっている。この行事は、平和祭の中断した50年にも執行されており、平和記念日の諸行事の中で、翌年から現在まで開催され続けている唯一のものである。

原爆被爆直後、広島から重傷者約2、000人が宇品港から海上約6キロメートル沖の似島の陸軍検疫所に送られた。7日朝までの死亡者約400人は、火葬に付されたが、相ついで死亡した約1、500人の死体は、火葬が間に合わず、同島南岸の横穴と露天の防空壕に土葬されていた(「中国新聞」47年10月14日)。

1947年9月25日、広島市議会は、「広島市戦災死歿者似島供養塔」(千人塚)の建設費30万円を可決し、似島に眠る無縁仏を弔うこととした。発掘作業は、9月下旬から開始され(この時行われた放射能調査では、掘り出された骨から放射能が検出された)、11月13日、供養塔の除幕式および追悼法要が、日本宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会の共催で死没者遺家族約300人の参列のもとに開催された。翌48年の平和記念日からは、宗教連盟広島県支部と広島市戦災死没者供養会が、中島の供養礼拝堂と似島供養塔の両所で慰霊祭を行なうようになり、54年まで続けられた。

1950年3月、それまで宗教連盟とともに慰霊祭を行ない、戦災供養塔を管理していた広島市戦災死没者供養会が、政教分離を求めるポツダム政令にもとづいて広島市の管理からはずされることになった(「中国新聞」55年2月15日)。そこで、同年5月、これに代わる民間団体として広島戦災供養会が結成された。同会は、分散している無縁仏を一か所に納骨するための堂の建設や戦災死没者名簿作製、祭祀法要の執行などを計画し、50年11月8日につぎのような請願書を広島市長に提出した。

現在市内数ケ所にある戦災者の遺骨は約30万柱あるが、これを一ケ所に集め明年の8月6日には、この新納骨塔で戦災供養を行ない霊を慰めたい。場所は、広島城、大本営跡の西側で、建設に要する費用約500万円を県および市で負担し、この納骨堂の傍らへ平和会館(仮称)を建設し、平和に関する研究所、図書館、会議場などを設けてもらいたい。 (「中国新聞」50年11月9日)

この請願書を付託された市議会の建設委員会は、同地が文化財保護法の適用を受けているので、使用を認めず、現在地への再建を認めた。しかし、市当局は、中島公園を平和記念公園として建設する計画から、墓地と同性格の納骨堂の公園内建設に難色を示し、この問題は停滞状態を続けることとなった(「中国新聞」53年11月25日)。

原爆犠牲者の遺骨については、講和条約発効前後から、大きな社会問題となっていた。新聞には、つぎのような動きが取り上げられている。

事項
1951  2月20日、山口県熊毛郡伊保庄村専唱寺で保管されていた元陸軍病院跡で発掘された1、288柱の遺骨が広島県世話課と復員連絡局広島支部に引き取られる。
1953  3月24日、中島供養塔[戦災供養塔のこと]で合同慰霊祭を執行。終了後、原爆死没者分1,232柱は、中島供養塔に、外地戦没者分56柱は、比治山納骨堂に納骨。
1952 7月4日、金輪島で原爆犠牲者の遺骨29柱が見つかる。7月10日、坂村に160体以上の遺骨が眠るとの情報。29日、千田町で42体、31日、二葉山麓で52体発掘。これらの内、引取り手の無い遺骨506柱が、中島の供養塔に合祀されることになり、8月5日、納骨法要を供養会主催で執行。
1953 2月、市内己斐西本町の善法寺に数百の無縁仏のあることが判明。8月6日、安芸郡府中町、龍仙寺の遺骨143柱を広島市に移管。
1954 4月19日、県病院職員の遺骨66柱を中島供養塔へ移す。

 

こうした動向は、納骨場所としての原爆供養塔建設問題に新たな進展をもたらした。1954年、広島市は、建設から8年を経過し、くち果てた姿になっている戦災供養塔の再建を検討するため、広島市供養塔建設対策委員会(委員長:坂田修一助役)を設置した。5月29日に初会合が開かれ、以後協議を重ねたが、50年当時と同様の問題から、なかなか結論に達しなかった。55年2月14日に開催された第5回委員会で、原爆供養塔の敷地は、市民感情と既成事実を尊重して、現在地を可とするとの市長への答申を決定した。一方、広島戦災供養会も、6月3日の理事会で原爆供養塔再建問題を協議し、荘厳なものを条件に市に一任し、再建資金45万円を市に寄付することを決定した。これを受けた市は、予算150万円で8月6日までに再建することとした。

原爆供養塔(設計は市立浅野図書館設計者の石本喜久治が担当)は、6月15日の地鎮祭を経て、7月20日に完成した。8月4日に、似島(約2,000柱)、己斐(約500柱)などの遺骨が移管、収納され、5日に完工式と開眼法要が挙行された。また、広島戦災供養会も、原爆供養塔の建立に合わせて供養塔北側に新塔婆を建立し、8月5日、開眼法要を執行した。塔婆に使用された木は、宮崎県の有志から寄贈された160年の古杉で、周囲3尺、高さ33尺、重量4トンという大きなものであった。

広島市社会課は、1957年にかけて、市内および市周辺の遺骨の掘り起こしと移管を行ない、遺骨の収納をほぼ終了し終えた(「中国新聞(夕刊)」61年8月13日)。しかし、遺骨は、その後も、市内の工事現場から発見されたり、被爆直後犠牲者の収容作業に当たった人々の証言などにより新たに発掘された。特に71年に広島市が実施した似島での発掘作業では、220体分という大量の遺骨が発掘された。こうした遺骨は、その都度、原爆供養塔に収納されている。現在、氏名の判明している948人の遺骨と、約7万人の無縁仏の遺骨が納められている。
原爆供養塔開眼を目前に控えた1955年8月1日、原爆供養塔の氏名判明遺骨2,432人の氏名が市の社会課によって公表された。これらの名簿の公表は、それぞれ関係者の大きな関心をあつめた。

被爆30年の1975年、広島市は、原爆供養塔に納骨されている犠牲者の遺骨の名簿を全国に送付することとし、7月28日から全国3,379の市町村あてに発送を始めた。この名簿は、55年に初めて公表され、68年に始まった名簿公開の会場で閲覧に供されていたが、広島市が積極的に全国に働きかけたのは初めてのことであった。その背景には、戦後30年経過し、遺家族や関係者が全国に散在しているとの判断があった。名前や収集場所の分かっている遺骨は2,432柱であったが、このうち、91年までの名簿公開で1,487人の遺骨の身元が判明した。

1985年、広島市が、市内の区役所、出張所、公民館に、一枚の紙に印刷した名簿を掲示したところ、12月下旬までに16家族が遺骨を引き取り、26家族が名乗り出るなどの成果があった。このため、広島市は、名簿の全国公開を、被爆40年の85年にふたたび実施することとした。85年7月3日、全国約890の自治体に「原爆供養塔納骨名簿」(1,080人分)を発送し、同月15日から10月31日まで全国一斉に掲示してもらうよう依頼した。全国公開は、この年以後、毎年実施されるようになった。91年には、948人分の名簿が発送された。

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

広島平和都市記念碑碑文(1952.7.22文案完成、8.6碑除幕)

 安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから

(英文)Let all the souls here rest in peace For we shall not repeat the evils

参考:原爆慰霊碑の写真

雑賀忠義「碑文について」(『広島市 おしらせ』第31号、1952年9月1日)

二十数万の霊は安らかに眠れない筈だ。「安らかに眠って下さい」と祈る上は不可能を可能にする決意と努力と(更にむずかしい)賢明さがいる。「過ちは繰り返しませぬから」との誓いにそれが表わされている。・・・ませぬがま・・・せんでもヘナヘナになるだろう。

一度あることは二度ある。広島は長崎で繰り返された。この繰り返しは防げるか。二十数万の犠牲が可能にする。むだにしないと忘れぬ間は。それならば、金石文字にしておこう。

廿世紀己文明の犯した最大の過ちは広島の原爆であった。

過去に低迷している広島市民ではない。飛躍して人類のなし得なかった仕事をしようと光明を見出す。

過ちは繰返さぬという決意は長崎と共に広島がなし得る特権である。原爆文明は世界の破滅を脅している。

文明はこのように不賢明だ。

人類の光明は広島の一角からとすれば、犠牲はむだでない。

パール博士の碑文への抗議(「中国新聞」 1952年11月4日)

この碑文に「過ちは再び繰返しませんから」とあるのは、むろん日本人をさしているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明りょうである。落としたものの手は、まだ清められていない。この過ちとはもしも前の戦争をさしているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が問うよう侵略のために起したものであることも明瞭である。

浜井市長の説明(「中国新聞」 1952年11月4日)

過去の戦争は明かに人間のあやまちであった。私はあの碑の前に立つ人々がだれであろうと「自分に関する限りはあやまちは繰り返さない」という誓いと決意を固めることが将来の平和を築く基礎であり、また現在生きている人たちがそれを実践したときはじめて地下の英霊は安かに眠るることができるものである。その意味のことをあの短い文章に書いたのである、碑の前に対してだれの罪であると個人をつかまえてせんさくする必要はないと思う、あの碑の前には世界各国の人が立つだろうと私は思う。

雑賀忠義(碑文作成者)の考え(「中国新聞」1952.11.11)

広島市民であるとともに世界市民であるわれわれが過ちを繰返さないと霊前に誓う-これは全人類の過去・現在・未来に通じる広島市民の感情であり、良心の叫びである。「広島市民が過ちを繰返さぬといっても外国人から落とされた爆弾ではないか。だから繰返さぬではなく繰返させぬであり、広島市民の過ちではない」とは世界市民に通じないことばだ。そんなせせこましい立ち場に立つときは過ちは繰返さぬことは不可能になり霊前でものをいう資格はない。

岸田日出刀「広島の碑」(『文芸春秋』1957年2月号)

(前略)

「安らかに眠って下さい」も冗漫度しがたいセンスと思うのだが、「過ちは繰返しませぬから」に至っては、いったい何を言おうというのだろう。侵略戦争のようなものは二度としませんの意かもしれないが、こんな妙ちきりんな但し書は、あの残虐無慚な死に方をした多くの人たちの冥福とは何の関係もないことだ。(中略)

慰霊堂や碑石の造形にみられる簡素清純さによく合うような、もっとあっさりと素直な碑文を書き表せなかったものだろうか。わたくしだったら「慰霊」の二字だけを筆太に力強く縦に刻むだろう。この慰霊碑がこのままいつまでも据えつづけられるのだろうか。(後略)

Y M D NEWS1
52 08 06 平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)除幕.
52 11 03 世界連邦アジア会議インド代表パール博士、広島市の原爆慰霊碑に参拝。碑文に異論を唱える。
52 11 06 パール博士,原爆慰霊碑の碑文に異議をとなえる.10日,広大雑賀教授反論
54 08 11 浜井広島市長、原爆で両親を失った黒沢銀子(17才、東京都大田区)から原爆慰霊碑の碑文に対する抗議の手紙を受け取る。
55 08 19 原水爆禁止世界大会参加の中共代表団(劉寧一団長、謝泳心ら7名)、広島入り。原爆慰霊碑参拝。広島赤十字病院訪問。
57 03 14 吉田治平(革政ク),広島市議会予算市会で原爆慰霊碑の碑文についての市長の見解を問う.
57 08 04? 呉市の文化団体、広島の原爆慰霊碑の碑文について、各界からアンケートを集める。木下夕爾「意味が不徹底だから撤去する」などの回答。
70 02 11 「原爆慰霊碑を正す会」結成。有志八十人。「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませんから」の碑文は、屈辱的で二十数万の犠牲者の霊を冒とくする」
70 02 12 安保破棄要求貫徹広島県実行委員会、原爆慰霊碑の碑文変更反対を山田広島市長に申し入れ。十四日には原水禁母の会など五団体も広島市に申し入れ
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、「碑文まっ消」を市長へ請願(「平和の推進」)。
70 03 09 原爆慰霊碑を正す会、山田広島市長と浅尾市議会議長に「碑文抹消」を請願
70 03 13 「原爆慰霊碑の碑文を守る連絡会議」結成。社会、共産両党系の団体、市民運動グループなど十五団体が共闘、「碑文抹消運動は核アレルギーの解消、軍国主義復活を目指す策略だ。碑文は絶対に守り抜く」
70 08 03 山田広島市長、原爆慰霊碑の碑文は変えないと公式発表。「碑文の主語は〃世界人類〃であり、人類全体への警告、戒めである」(「平和の推進」)
71 04 16 天皇・皇后、広島市の原爆慰霊碑を参拝。
77 09 23 広島市の平和記念公園内、原爆慰霊碑の碑文の照明装置が壊されているのを発見。
83 08 09 ジュネーブ軍縮委員会で今井大使、広島市の原爆慰霊碑の碑文についての解釈を表明。「核戦争をあくまで回避せねばならないという決意を示したもの」
88 10 19? 故雑賀忠義広大教授による原爆慰霊碑碑文の英語版、広島市立本川小学校の平和資料館に展示。
96 08 29 亀井静香自民党組織広報本部長、広島国際会議場で開催された党青年議員連盟総会の講演で、原爆慰霊碑の碑文を批判。
96 09 02 新進党広島県連、「原爆慰霊碑は目障り」と発言した亀井静香自民党組織広報本部長に対する抗議声明を発表。
97 12 20 亀井静香前建設大臣、広島市の原爆慰霊碑について「広島にもそういうばかげた碑がある。日本が悪いということを堂々とうたっている」と新潟市内での講演で発言。

 

原爆死没者名簿奉納者数の変遷

原爆死没者名簿奉納者数の変遷

 

追加数 内  数 総 数
1952(昭和27) 57902 57902
1953(昭和28) 391 58293
1954(昭和29) 212 58505
1955(昭和30) 523 59028
1956(昭和31) 680 59708
1957(昭和32) 185 15 59893
1958(昭和33) 173 60066
1959(昭和34) 187 60253
1960(昭和35) 161 95 66 60414
1961(昭和36) 139 64 60553
1962(昭和37) 125 83 42 60678
1963(昭和38) 127 29 60805
1964(昭和39) 169 44 60974
1965(昭和40) 469 69 61443
1966(昭和41) 550 68 61993
1967(昭和42) 430 157 43 62423
1968(昭和43) 1101 521 428 121 63524
1969(昭和44) 9211 1390 6764 1035 72735
1970(昭和45) 3606 1228 1122 1196 76341
1971(昭和46) 1745 243 389 1107 78086
1972(昭和47) 2097 204 319 1567 80183
1973(昭和48) 2650 321 742 1575 82833
1974(昭和49) 1970 139 396 1429 84803
1975(昭和50) 2172 128 450 1590 86975
1976(昭和51) 2159 114 392 1647 98134
1977(昭和52) 2282 143 528 1611 91416
1978(昭和53) 2179 97 370 1712 93595
1979(昭和54) 2090 59 318 1713 95685
1980(昭和55) 2279 71 355 1853 97964
1981(昭和56) 2753 82 656 2015 100717
1982(昭和57) 3060 112 792 2153 103777
1983(昭和58) 5179 65 2648 2466 108956
1984(昭和59) 4315 56 1685 2573 113271
1985(昭和60) 25419 123 22009 3234 138690
1986(昭和61) 4941 165 1018 3656 143590
1987(昭和62) 4619 110 993 3473 148177
1988(昭和63) 4476 114 931 3428 152650
1989(平成 元) 4424 23 921 3474 157071
1990(平成 2) 10175 1565 5117 3483 167243
1991(平成 3) 4787 20 1081 3682 172024
1992(平成 4) 4944 176964
1993(平成 5) 4878 181836
1994(平成 6) 5110 186940
1995(平成 7) 5094 192020
1996(平成 8) 5030 197045
1997(平成 9) 5076 202118
1998(平成10) 4927 207045
1999(平成11) 5071 212116
2000(平成12) 5021 217137
2001(平成13) 4756 221893
2002(平成14)
2003(平成15)
2004(平成16)
2005(平成17)

 

注:①1945年8月6日死没者、②1945年8月6日~前年8月5日死没者、③前年8月6日~当年8月6日死没者
出典:1967年までは新聞報道、68年以降は広島市原爆被害対策部の資料

 

原爆死没者名簿

原爆死没者名簿

広島市調査課は、1951年(昭和26年)5月、原爆死没者調査を実施した。再三のGHQへの陳情の結果実現したもので、7回忌(51年8月6日)を期して慰霊堂に合祀するための全死没者名簿作成を目的とするものであった。

調査は、「広島に投下された原子爆弾により直接に、又は原爆の影響を直接の原因として死没された方全部」を対象としており、調査の内容としては、「1.死没者の氏名、2.性別、3.死没時の年齢、4.死没者の当時の住所、5.死没者の当時の職業(勤務先)、6.死没年月日、7.直接の原因、8.死没の場所、9.被爆時にいた場所」の9項目があげられていた。

その方法は、関連者からの申告によるものとし、「広島市内及び広島県下については特別に徹底を期して、調査票も市内は全世帯に配布、県下も多量配布し、個人票以外に事業体、学校、団体、病院、寺院等には連記制調査票も配布」した。また、県外については、「各県の地方課から各市町村役場の関係課係を通じて連絡員(部落の世話人)、前国勢調査員、学校の生徒達の御協力により、或は告知板の利用等により申告者に調査票を入手させ、記入して貰う」こととした(広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意書」)。

慰霊堂の建設は、51年の式典には間に合わなかった。しかし、式典前日までに確認された氏名は、いろは別にカーボン紙に記載され、式典会場の戦災供養塔に供えられた(広島市『市勢要覧昭和26年版』、「中国新聞」54年8月6日)。

1952年7月上旬、広島市は、市内の能筆家20人に委嘱して過去帳への記載を始めた。5万7,902人の原爆犠牲者の名前を謹記した15冊の「広島市原爆死没者名簿」は、8月6日の式典で、浜井広島市長の手によって原爆死没者慰霊碑の中に設けられた奉納箱に納められた。広島市調査課は、この名簿の写しを、式典当日、原爆死没者慰霊碑と戦災供養塔前で公開し、記帳洩れの届出の受け付けを行なった。

1953年の式典では、この日以降新たに確認された391人の追加者の名簿が奉納され、以後、追加名簿の奉納が式典の慣例となった。

広島市は、1951年の調査に先だって、死没者の総数を20数万人と想定していた(「中国新聞」51年4月14日)。この根拠は、被爆当時の広島市内の人口を42万人(市内在住者約25万人、軍関係者約8万人、市外からの来広者約9万人)と推定、それから、50年に国勢調査付帯調査で明らかになった生存者数15万7,575人を差し引くという大雑把なものであった。ところが、51年の調査の結果は、6万人にも達せず、広島市調査課長は、53年7月に、死没者数は十数万が妥当との見解を発表した(「中国新聞」53年7月22日)。

原爆死没者名簿作成当時、この中への記帳者は、原爆被爆時またはその直後に死亡したもののみが対象との理解があった。翌1954年の式典での追加記入は212人に過ぎず、こうした結果を踏まえて、今後の追加者を加えても、名簿記帳者数は、6万人程度にとどまるのではないかとの見解が報じられている(「中国新聞」54年8月6日)。しかし、その後、被爆後数年経過した時点での死没者も記帳対象と考えられるようになった。57年には22人、58年には34人、59年には38人(原爆病院で死亡した人)が、過去1年間の死没者として名簿に追加されている。
表は、現在までの追加数と名簿奉納総数を年別にみたものである。名簿への記帳は、遺族からだけでなく、関係団体からの申し出によってもなされた。1955年と56年には、県婦協の調査により確認された死亡者が追加され、記帳者数が増加した。69年の9,211人という増加は、市長が、被爆者健康手帳所持者で届出の無い死亡者6,844人を職権で記載したためである。また、この年には、原爆供養塔の無縁仏のうち氏名判明分1,071柱の名前が、広島戦災供養会の申し出により記入された。

追加奉納された犠牲者のうち、過去1年間の死亡者の人数は、67年までは、100人未満、68年は121人であった。しかし、広島市が、市内の死亡者の中から被爆者を調査して追加奉納を行なうようになった69年以降は、1、000人を超えるようになった。

広島市は、市外の死亡者については、自動的に名簿に記載するという措置を取ることができないでいた。原爆医療法(1957年3月31日公布、正式名称:原子爆弾被爆者の医療等に関する法律)、原爆特別措置法(68年5月20日公布、正式名称:原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)にもとづく行政事務は、広島・長崎両市を除き都道府県が担当しているからである。77年の場合、7月13日現在で名簿追加記帳予定者数は、1,664人(最終的には2,282人)であったが、そのうち、広島市の措置による数は、1,489人であり、遺族と名簿記入運動を進めている広島県原爆被害者団体協議会の届出分は、175人に過ぎない。

この年、広島市を除く広島県内の被爆者健康手帳1,141人分が、所持者の死亡により県に返還されていた。しかし、広島県が、記帳の申し出は遺族の自主判断に任せるという方針を採っていたため、県から市へ記帳対象者として連絡されることはなかった(「読売新聞」1977年7月22日)。

このような死亡時の居住地による名簿記帳手続き上の差異を無くするため、広島市は、80年、全国の原爆被爆者対策担当窓口に死没者名簿登載申請書を送った。また翌81年には、長崎市と連名で、知事、政令市市長などを通じて、全国の遺族に犠牲者の名簿記載を呼びかけ、さらに82年には各地の被爆者団体にも働きかけを行なった。

年々の追加奉納数は、表のように1972年と83年を画期として、それぞれ2,000人、4,000人を超えるようになっており、85年と90年には顕著な増加を示した。85年の急増は、前年、被爆者関係のデ-タ処理をそれまでの片仮名処理から漢字処理に変更した広島県が、被爆者健康手帳が交付されるようになった57年以降の死亡による手帳返還者2万865人の名前を広島市に提供したことによる。また、90年の急増は、85年に厚生省が実施した死没者調査で新たに判明した5,551人の犠牲者名が加えられたためである。

原爆死没者名簿の奉納は、一貫して市長の役割であった(ただし、1960年のみ県知事と共同で行なった)。その補助者を、69年までは市の職員が務めていたが、翌年からは遺族代表が務めるようになった。70年の補助者に選ばれたのは、この年に新たに名簿に追加された2人の死没者の遺族であった。その後、補助者は、2人(男女)が通例となった。ただ、追加者数の多かった85年と90年には3人が務めている。

原爆死没者名簿(仏式で「過去帳」とも呼ばれる)には、俗名・死没年月日・享年が記入されている。奉納された簿冊の数は、1952年の15冊から始まり、91年には、57冊となった。

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)小史

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)小史

平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。

この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。

①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)

1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。

碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。

広島市は、1984年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)

建立年月日 1952(昭和27)年8月6日
場所:地図no.51 広島市中区中島町・平和公園

関連資料

写真
HIC024P
1950年代後半。左端は私。
HIC024B
HIC024C
HIC024D

解説

広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)小史
原爆死没者名簿
原爆死没者名簿奉納者数の変遷
平和記念都市建設碑(原爆慰霊碑)碑文論争

 

 

 

広島の碑をめぐる闘いの記録

『廣島の碑をめぐる闘いの記録』(藤井一郎編、瀬戸内報道社海内興論、19710927)

内容

見出し
林房雄氏の論文とその反響
(1)何を訴えようとする碑か 1

(2)林氏の寄稿を第一波として 2

(3)その反撃は万波となって 4

(4)高田範幸氏は岸田博士の一文を 5

(5)武藤貞一氏の悲憤の文字 6

(6)元中国新聞論説委員小林健三氏の所論 6

(7)中村武彦氏の二十年前の炎の文字 6

(8)平泉澄博士の「広島」 8

(9)葦津珍彦氏の鉄腸の訴え 9

市民世論の盛り上がりを背景に
(1)「原爆慰霊碑を正す会」発足 10

(2)一万八千人の署名請願書と提出 12

(3)「請願」に市側の誠意見られず 13

(4)山田市長の独断専行 14

(5)山田市長の不実の答弁 14

両陛下御巡幸にあたり
(1)偽りの碑へのお立寄り拝辞を求めて 16

(2)要請・要望を繰返したが 17

資料=民族派要請文
(1)日本青年旭心団要請文 21

(2)原爆慰霊碑碑文改正推進青年学生協議会の「要請」文 23

(3)全九州民族運動協議会の訴え 24

(4)川田貞一氏の訴え 25

(5)中央における「道の友」の闘い 28

(6)未だ一生氏の訴え 32

両陛下ご来広までのまとめ
(1)運動主導者としての懺悔 36

(2)若者をミスリードするマスコミ 37

(3)文化人意識過剰の座談会記事 40

(4)新左翼を育てる素地 42

(5)遂に現れた 天皇糾弾 43

「天皇糾弾集会」をめぐる闘い
(1)三月の彼我の動き 45

(2)坂田教授との面談四時間 47

(3)広大全共斗の策動 48

陛下ご来広中のデモに対する闘い
(1)新左翼を狂奔させる背景 49

(2)「天皇糾弾」デモ五件に対し我らもデモを申請 51

(3)「天皇は国民統合の象徴である」こと 53

(4)県警本部に対策について質す 54

(5)歴史は夜つくられる 55

(6)総理の 強権発動 は当然の措置 55

(7)破砕できなかった二つのデモ 57

資料= 合法闘争 記録
A  平和記念館使用問題
(1)「使用取消処分」取消の訴状 59

(2)行政処分執行停止申立書 61

(3)広島市長の「意見」 72

(4)付1 広島平和記念館使用条例 74

付2 広島市職務権限規定 75

付3 記念館使用許可書 77

付4 記念館使用許可書取消通知書 78

(5)付1.2 永野知事の「通達」 78

付3 永野知事の「謹話」 79

付4 奉迎送計画書 80

(6)「申立」を支持する地裁決定 81

(7)広島市長の「抗告状」 86

(8)即時抗告理由追加申立書 89

(9)「即時抗告」を支持する高裁決定 90

(10)集団示威運動許可申請書 93

(11)広島県公安委員会指令第五七号 94

B  糾弾デモに対抗する粉砕デモ問題
(1)集団行動許可申請書(四通)95

(2)広島県公安委員会指令第五八号~六一号 97

(3)代理人(弁護士)委任状 99

(4)行政処分取消請求訴状 100

(5)行政処分執行停止申立書 100

(6)裁判請求陳情書 101

(7)広島県公安委員会の「意見書」 102

(8)1付・デモ集会に関する「条例施行規則」 103

C  天皇来広糾弾デモ問題
(1)新左翼の集団更新許可申請書 111

1 天皇来広糾弾連絡協議会(二通)111

2 広島大学全学共闘会議(三通)112

3 三段体連絡会議(一通)115

(2)不許可理由 115

(3)申立人の暴力的傾向 116

(4)全共闘申立を支持する地裁決定 116

(5)即時抗告棄却の高裁決定 118

(6)全共闘の申立を支持する地裁決定 119

(7)即時抗告原決定変更支持の高裁決定 120

(8)三団体の申立を支持する地裁決定 122

(9)佐藤総理の「異議の理由」 125

(10)地裁決定を取消す 126

デモ一覧表
 デモ周辺図
資料=新左翼による「天皇糾弾」の主張
原爆慰霊碑を正す運動年表