「25吉川清」カテゴリーアーカイブ

広島は訴える 原爆広島11年の記録

『広島は訴える 原爆広島11年の記録』(小積明男<川手健?>編、発行者:吉川清、発行所:広島原爆資料出版会、19560801)

目次

見出し
002 その朝までの広島
005 運命の日、八月六日
014 原爆は平和をもたらしたか
019 魔の遺産、原爆症
045 原爆被害者の生活
069 原爆被災児の実態
082 原爆被害者の運動
103 原水爆禁止運動の発展
128 附録1 原爆障害者調査結果表(原対協発表)
132 附録2 原爆被害者の損害賠償請求起訴状
145 附録3 損害賠償請求訴訟の政府側答弁書

「原爆一号」といわれて

『「原爆一号」といわれて ちくまぶっくす36』(吉川清、筑摩書房、19810724)

目次

 見出し
 はじめに
 1  怒りこみ上げる基本懇の答申
1  運命の日
  8  夜勤明けのその日
 19  死に脅える毎日
 23  八月一五日
2  救護所での日々
26  血と膿の体
29  極貧の日々
 32  死亡者名簿の私の名前
 37  救護所の閉鎖
39  日赤病院へ入院
3 43  原爆一号
44  原爆一号の命名
 49  インタビューや訪問客に追われる
写真(1947年)広島日赤病院の屋上でライフ誌の撮影に協力。
51  医学学術集会での研究材料
写真(1949年)広島日赤病院を慰問したプロ野球選手と。故小西得郎氏、藤村冨美男氏の姿も。
54  ケロイド手術の失敗
57  患者会結成と強制退院
4  原爆ドーム横集落時代
62  野宿
65  原爆ドーム横にみやげ物店開店
70  被爆者を訪ね歩く
78  原爆傷害者更生会の誕生
83  原爆乙女と私
写真(1950年)日赤広島病院を訪れた日本ペンクラブの一行と。故川端康成氏の姿も。
写真(1953年)東大附属病院小石川分院で、原爆乙女の診察に立ち会う。
5  被爆者運動の組織化
92  原爆被害者の会を結成
100  ケロイドを見せものにしてなぜ悪い
写真(1963年)ヒロシマみやげをつくるのもひと苦労。福島菊次郎氏撮影。
103  原爆被害者の会の協力会
105  原爆被害者の会分裂
111  ABCCの横暴
6  原水爆禁止世界大会
118  平和都市広島の再興
128  原水爆禁止広島市民大会
129  ネール首相の広島訪問
写真(1957年)広島原爆病院前で故ネール首相と。
131  国会請願と日本被団協結成
134  原爆一号の店取り壊し
写真(1957年)原爆一号の店の前で。
136  原水禁運動の分裂
7   バー「原始林」開店
 138  マスターの私、ママの妻
140  ホステス、被爆者の売春婦
 144  不愉快な客
  8 東南アジア歴訪
 150  パール博士の碑文への疑問
  157  インドネシアでの広島出身元日本兵
 9  映画と私
  164  「原爆の子」
 166  「ひろしま」
  167  「生きていてよかった」
  168  「二十四時間の情事」
 169  「ヒロシマ一九六六」
 175  「記録なき青春」
 176  「ヒロシマの証人」
 177  挫折した「小さな恋人たち」
 178  「灯は生きていた」
 178  流産した「にっぽんの青い鳥」
  180  反響をよんだ「はだしのゲン」
10   折り折りの人
 182  宗教と私
 186  病に倒れた峠三吉
 189  首相官邸前で割腹自殺した小林雲徹
写真(1957年)クリスマス島英水爆実験に抗議して座り込み。右端が小林雲徹。
 193  ガンで死んだ南小一
 197  広島へ通った土門拳
写真(1953年)原爆一号の店の前で土門氏と。
 203  結びにかえて

平和のともしび 原爆第一号患者の手記

『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次

 事項
口絵 上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの)
下図:ライフ誌上に掲載された一文
「ライフ」特派員より著者に送られた書簡
病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文
永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館
 1 序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> )
5 目次
図:避難場所、休憩場所
 1  思ひ出の八月六日
 4  悲しき経験
  11  命は助つたが
 15  生の欲望
「大粒の雨」、「西原国民学校」
 21  遂に失神
「祇園青年会館」
 25  その夜の救護所
「祇園神社」
 29  可部町勝圓寺にて
 29 父を亡ふ
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」
  33  八月十五日を迎ふ
  37  顕著な原爆症状
 42  絶望より微かな希望へ
 52  焼土廣島の見開
  59  復員列車をみる
  63  友情に泣く
 三次町より川内村へ
70  無医村に迎へる冬
 赤十字病院に入院
   75  三度廣島へ
  79  闘病生活つづく
 87  山根さんの人間的魅力
   91  再び思ひ出の八月六日
  97  平和の黙祷
 100 死の淵を彷徨
 103  春を迎へて
  105  平和の礎石に
  111  実験臺上へ
116  「ライフ」特派員と會ふ
  122  跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 )
 後記( 吉川清)
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 口絵

京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html

 

 

原爆第1号吉川清の試み

【資料】原爆第1号吉川清の試み

『中国新聞』 1951.4.3
原爆第1号きのう退院
昭和21年1月広島赤十字病院に入院、療養をつづけていた原爆1号吉川清氏は前後16回におよぶ手術で健康を全く回復し2日午後退院、5年2ヵ月の病院生活に別れをつげた。
(吉川清氏談)私は原爆による限りない苦悩を過去の長い病床生活において切実に味わってきた。同じような原爆による傷害者とかたく手をたずさえ、更生の道をどこまでも突き進みたい。このような意味からこのたび広島原爆傷害者救済援護会を設立した。

『中国新聞(夕刊)』 1951.6.4
インドから援助第1号!
めぐり来る原爆7周忌を前に原爆第1号患者として有名な吉川清氏(38)を中心に同病傷害者のうち127名の有志が内外の浄財によって人造パール製造の共同作業所と原爆患者診療所を設置し、相互に雄々しく立ち上がらんとする朗話がある。
原爆傷者立上がる 作業・診療所“われらの手で”
発起人に選ばれた吉川氏は6年にわたる入院生活からさる4月2日退院、爆心地産業奨励館ドーム前に夫人生美さん(30)とともに外人相手にみやげ物店を開業、細々ながら再起の日々を送っていたが、たまたま同地の整地作業に訪れる原爆ケロイド患者の日雇人夫の人々と病状を語り合うと共に、身体障害でどん底の困窮生活にあえぐ人々の多きを知り“なんとか相携えて働ける仕事 もちたい”と話し合った結果、予算70万円で次の事業計画をたて、かつて日赤入院時代同氏を見舞った内外人にこの基金募集を呼びかけ、すでにインドのシャルマン氏(昨年12月来広)がニューデリーにおいて松本滝蔵代議士と会見、50万円寄付の伝言があり、6月からは地元名士の援助署名運動に着手している
▽共同作業場=主として海外輸出用の人造パール(真珠)の製作ならびに販売
▽原爆患者の診療所の設置=原爆患者に対し実費治療ならびに一般困窮者の無料診察および相談(担当医は日赤副委員長服部達太郎氏が無料奉仕で当たる)
(吉川氏談)なんとかこの同病患者が結束して暗い気持を忘れ仕事にぼっとうして立上がれば幸いと思っています。予算面もインドから50万円近く送金するという手紙もあり、残りは私がリュックサックを背負って全国資金行脚してでも完成さす決心です。

吉川生美

吉川生美

きっかわ・いきみ 生20131228没 享年92
爆心地から約1・6キロの現広島市中区西白島町で被爆。夫の「原爆1号」と呼ばれた故吉川清とともに、戦後のヒロシマを生き抜く。

閃光を背負って―原爆第一号の足跡

閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日

 掲載月日  見出し1   見出し2
1  0816  署名運動  救済求め手を組もう
2 0817   請願書  最初は”外注”友人に依頼
3  0818  被爆者の叫び1  「このケロイドを見よ」
4  0819   被爆者の叫び2  東京でも体験語る
5  0822   被爆者の叫び3  被害者の会を脱退
6  0823  八・六友の会  すべてと仲良く
7  0824  抗議  広島の人間として
8  0826  あがき  自分が手がけたのに
9  0830  吉川清の思い  この”肩書”ずしりと
10  0831  歩み・上  権利の主体へと
11  0902  歩み・中  土産物店など経営
12 0902 歩み・下 ぐち口にせず往生

吉川清

吉川清

きっかわ・きよし 生19860125没 享年74
「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。

資料

 

その他

リンク:吉川生美

 

19860125 きっかわきよし 74 「原爆 1号」と呼ばれ、被爆者運動に尽力。[原爆被害者の会代表者]。