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マルセル・ジュノー

 ジュノー、マルセル Marcel Junod 19040514生19610616没 享年57 スイス国籍の外科医。赤十字国際委員会駐日代表として来日。1945年9月8日、GHQの医薬品ともに広島入り。

 

ジュノーは「ヒロシマの恩人」か?
1.私とジュノー
私が、ジュノー博士の活動の見直しをマスコミで知ったのは、1978年(昭和53年)のこと。この年から大佐古一郎氏や丸山幹正氏によるジュノー博士の足跡をたどる作業が始まり、翌79年には、平和公園にジュノー博士の記念碑が建立された。
それ以後、ジュノー博士のことを目にすることは無くなっていたが、それから12年後の1990年に再び登場するようになり、それは現在まで続いている。その一つは、ジュノー記念祭である。これがこの年に始まり、以後毎年行われるようになった。一昨日の16日日曜日には、第7回の記念祭が開かれている。
また、この1990年の暮れに、府中市の市民団体「ジュノーの会」がチェルノブイリ原発事故での被災者の救援活動を計画、翌1991年夏に事故で被曝した子供たちの招待を実現させた。以後、医師の現地への派遣や医薬品・医療機器を届けるといった事業をおこなっている。今年7月には、原爆被害者の相談にあたってきた広島の二人の人をウクライナのキエフに送ることになっている。
1978・79年つまりジュノー博士に足跡の掘り起こしが始まり記念碑が建立された当時は、GHQの資料が徐々に公開されていた時期。私は、その資料の調査を行っていたが、その業務報告の中に、赤十字国際委員会のジュノーに、米軍の医薬品を広島へ届けさせたという、記述があった。このことから、ジュノーの仕事を、「米軍の手伝い」という軽いイメージで受け止めていた。
ところが、1990年からの動きには、私の親しい人たちが次々に関係するようになっていった。「ジュノーの業績とは、いったいナンジャ?」ということで、自分なりに考えてみたので、それについて話してみたい。
2.ジュノー博士来日の目的
広島に続き原爆が長崎に落とされた8月9日にジュノーは、満州国の首府新京(現在の長春=吉林省の省都)を出発、夜、日本(羽田飛行場)に到着(「ドクター・ジュノーの戦い」)。以後、4か月間、日本に滞在した。
ジュノー博士は、赤十字国際委員会の日本派遣員の代表として来日したもので、その大きな目的は、連合軍捕虜への援護活動であった。
450810 国際赤十字委員会マルセル・ジュノー、アンクスト・ビルフィンガー・ペスタロッチとともに東京から軽井沢に向かう。17日、東京に戻る。
24日から活動を開始、この日、それぞれが東京を出発し、日本各地の捕虜収容所に向かう(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
ジュノーは、東京で活動、25日に大森収容所で米飛行士の捕虜と接触(「ドクター・ジュノーの戦い」)。27日に、相模湾停泊中の米軍艦サン・ディエゴ艦上で米軍と接触、米軍とともに大森収容所を解放(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
こうした捕虜の救出活動が、各地で行われ、ほぼ1か月後の9月20日には、日本にいたアメリカ人捕虜すべてが本国に送還された。
このほかにアメリカ兵以外の在日外国人の援護活動も行う。103の収容所があったが、これらに40万ドル相当の物資をパラシュートで届けた。
ジュノー博士の4か月間の日本における活動は、連合軍から高く評価され、日本を去るにあたり、マッカーサー自身がお礼を述べている。
3.ジュノー博士の広島救援の意義
ジュノー博士は、こうした本来の目的遂行の中で、9月8日から13日の6日間、広島の救援活動を行った。その内容は、これから見る映画「第三の兵士」で紹介されている通りであるが、ジュノー博士の広島救援の仕事は、ジュノー博士の来日の目的からすれば、与えられた任務を超えた仕事であった。
8月24日に赤十字国際委員会の日本派遣員が、各地の捕虜収容所に向け東京を出発する。その中の一人ビルフィンガーの目的地はオランダ人捕虜が収容されていた広島県の向島造船所であった。ジュノーは、彼に広島の状況を知らせるように頼んでいたが、彼は30日に、広島に到着し、仮設の病院を二つ視察し、「回復したかに見える多数の犠牲者は白血球の減少及び他の内部損傷により突如致命的な再発を来たし事実上相当数が死亡す」と急性放射能障害の実情と広島における医薬品の欠乏状況を伝え、救援物資を要請する電報をジュノー宛に打った(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
ビルフィンガーのこの行動は、これまで見落とされがちであるが、広島の救援の歴史では重要と思われる。それは、彼の広島視察が、外国人としては最も早い例の一つであるということである。8月下旬から日本のマスコミは70年生物不毛説として大々的に広島の状況を伝えるようになり、これが日本の原爆被害の本格的な研究の契機となったが、それはあくまでも調査研究にとどまっていた。これに対し、ビルフィンガーの電報は、広島救援を要請するというものであり、こうした行動は日本側には存在しなかった。
なお、ソ連の大使館員が、被爆直後に広島を視察したことがこれまで何回が伝えられているが、それが救援の要請に結びついた形跡は見あたらない。
ジュノーは、ビルフィンガーからの広島報告の電報を9月2日受け取ると、早速横浜の連合軍の司令部を訪れ、前日日本の外務省から入手した広島の写真とビルフィンガーの報告を示し、広島への救助隊の編制を要請した(「ドクター・ジュノーの戦い」)。
連合軍最高司令官総司令部は、ジュノーのこの要請を受けた形で、米軍用に日本に持ち込んでいた医療物資15トンを広島に届けることを決めた。
この決定の中心人物は、のちにGHQの公衆衛生局長となるサムス大佐であるが、彼によれば、15トンの医療物資を提供した背景には、ジュノーの要請に応えると同時にもう一つの意図があった。それは、アメリカの原爆開発の組織であるマンハッタン・プロジェクトの原爆被害調査団を敵意に満ちていると思われる原爆被災地で無事に実施することである。
GHQが、9月6日に日本政府に対して出した命令が残っているが、そこでは、
1.原子爆弾調査を行う約15名の科学者一行の保護・援助
2.国際赤十字社のビルフィンガーに送付する約12トンの医療品の配布を国際赤十字の指示のもとに行う
という二つのことが指示されている(「DDT革命」)。
ジュノー博士には、日本政府に対する命令が出された日の翌日7日に、医療品の提供がGHQから伝えられた。このことからすると、GHQとしては、ジュノー博士が原爆被害調査団に同行することを予定していなかったものと考えられ、ジュノー博士の立場からは、ビルフィンガーに任せることも出来たと思われるが、博士自らが広島にやってきて、医療物資の現地への伝達に立ち会ったのであった。
(1996.6.18)