「10月忌」カテゴリーアーカイブ

序(蔵本淳・広島大学原爆放射能医学研究所長・付属原爆被災学術資料センター長)

序(蔵本淳・広島大学原爆放射能医学研究所長・付属原爆被災学術資料センター長)

『原爆関係蔵書目録Ⅲ 1984年1月~1988年12月』(広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センター資料調査室 編・刊、19900731)所収

内容


昨年末,全米研究評議会(NRC)は低レベル電離放射線の生物学的影響についてBEIR (Biological Effect ofIonizing Radiation)の報告書Vを発表して注目されている。現在,放射線許容量などの基礎ともなっている
BEIR一報告書Ⅲ(Chairman: A, C, Upton, 1980), I CRP (国際放射線防禦委員会)や, UNSCEAR (国連科学委員会)からのデータが,この10年間の広島,長崎での調査研究成果から,大幅な改訂を迫られたというoとくに白血病や,発癌リスクについては従来の甘さが指摘され,また被爆胎児の知能発育,被爆者の子供への遺伝的影響,被爆者年令(ATB)の影響などの見直し,未解決の問題を指摘している。
本資料センターは,原爆被災に関する資料の保存を目的として1974年(昭和49年)4月,日本学術会議の政府勧告,地元広島,長崎市民の要望,研究者,関係財団の熱意と努力の結果,当研究所に併設された。その当時の関係者の卓見とこれを実現された熱意とエネルギーに襟を正す思いである。
以来,営々と資料の収集と整理に努力が重ねられ,すでに「原水爆関係資料目録I」は1974~78年の5年分を1980年に,「原爆関係蔵書目録U」は, 1979~1983年の5年分を1985年に発刊してきた。今回は特に直接被爆者本人からしか聞きとれない,かけがえのない原爆被爆体験に関わる資料を一義的に収集する方針から被爆記録,体験記,手記に重点をおいた。そして個人体験のみならず,原爆当時の組織,機関,団体ごとの手記や記録が主要なものとなっている。45年を経過し,生き証人となる方々が,年々少なくなってこれら貴重な資料が埋れ,散逸することが懸念されている。今回の成果は市民の方々の深い理解と暖かい協力の賜であることを強調して感謝したい。
本センターは,これら「資料調査室」の活動とともに,「医学資料室」,「人口資料室」が各々の作業を進めて,原医研年報に成果を報告している。今後は上記のごとく,広島,長崎のデータが,これからの人類の命運に関わる放射線の人体に及ぼす影響について,原子力の平和利用,宇宙開発に伴う健康管理についてのかけがえのない情報を提供することにより,世界平和にも貢献できる貴重な資料であることを改めて確認する必要があろう。またそうならなくてはならない責任が,この資料センターには嫁せられ,また期待されていることを認識しなければならない。4年を経過したチェルノブイル原発事故後の放射能汚染問題を解決するため,ソ連政府からの依頼でIAEA (国際原子力機関)が調査を開始している。今回も広島,長崎からの参加,研究協力がソ連政府からも,国際機関からもそして現地の官民,医療機関からも強く要望されていることを,身をもって体験し覚悟を新たにしている。
目録刊行にあたり資料の御寄贈御協力頂いた方々に感謝すると共に,目録の作成に尽力された資料調査室の皆様に敬意を表します。今後共,各位の御理解と御指導を切にお願い致します。
1990年5月
広島大学原爆放射能医学研究所長
附属原爆被災学術資料センター長
藏本 淳
 kuramoto

02犬丸義一

犬丸義一

没年 よみ 享年 備考
1928生

20151002没

 

いぬまる・ぎいち 87 歴史研究者。1967年の歴史科学協議会の結成に参加、全国委員を務める。元長崎総合科学大学教授(1979年~1993年)。宇吹の学生時代、氏の長崎総合科学大学着任前後に面談。

著書

書名 発行所 発行年月日 備考
日本共産党の創立 青木書店 19821001
第一次共産党史の研究―増補日本共産党の成立 青木書店 19930315

香川亀人

香川亀人<作業中

19931015 香川亀人 かがわ・かめと 97

表紙
吉浦の昔ばなし集 (続編)
香川亀人/著他–吉浦の文化を進める会–198804
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2

表紙
吉浦の昔ばなし集
香川亀人/著他–吉浦の文化を進める会–198705
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3

表紙
一民生委員の足跡 第2集
香川亀人/著–香川 亀人–1985
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4

表紙
一民生委員の足跡 第3集
香川亀人/著–香川 亀人–1985
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5

表紙
忘れ得ぬ伊藤恕介先生の思い出
香川亀人/編–香川 亀人–1985
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6

表紙
一民生委員の足跡 第1集
香川亀人/著–香川 亀人–1984
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7

表紙
嶂南慧海氏略伝
香川亀人/編–香川 亀人–1980
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8

表紙
ミス・ドロシー・デッソー
香川亀人/編–香川 亀人–1978
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9

表紙
名国手 青木鎮造 評伝 奉仕の人 宇根 実 評伝
香川亀人/著–香川 亀人–1976
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10

表紙
商学博士 田中貢伝
香川亀人/著–香川 亀人–197412
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11

表紙
吉田照登 木村謙吾 英百合子 略伝
香川亀人/著–吉浦郷土史研究会–197309
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12

表紙
黒島亀人伝
香川亀人/著–香川 亀人–1972
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13

表紙
大正・昭和時代
香川亀人/編–吉浦わかやぎ会–197111
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14

表紙
明治時代を主にして
香川亀人/編–吉浦わかやぎ会–1970
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15

表紙
「吉浦の石工」の研究
香川亀人/著–吉浦わかやぎ会–1969
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16

表紙
テレビの見方についての研究
香川亀人/記–香川 亀人–1968
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17

表紙
老人問題研究会抄録
香川亀人/記–香川 亀人–1966
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18

表紙
民生委員の父 林市蔵先生伝
香川亀人/著–広島県民生委員連盟–1954
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19

表紙
愛の灯をかかげた人々
香川亀人–広島県民生委員連盟–1953
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20

表紙
広島県方面委員呉連盟十年史
香川亀人/編–広島県方面委員呉連盟–1942
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坪井直追悼(新聞コラム要約)

坪井直追悼(新聞コラム要約)

掲載日 < 紙名(コラム名)>要約
 20211029  <朝日(天声人語)>オバマ大統領、ネバーギブアップ。
  20211029  <中国(天風録)>毎年の賀状〈九十才代でお迎えが来たら、も少し待ってくれと泣きつこう/百才になってお迎えが来たら、そろそろOKしようかなと思う/平和の仕事が残っている。も少し生かしてほしいね〉。日本被団協代表委員。96歳での訃報。「ヒロシマの顔」。20歳で被爆。オバマ氏と対面。
  20211029 < 赤旗(潮流)> 当時20歳の学生「アメリカの野郎、よくもやったな。このお返しは、きっとするぞ」。御幸橋のたもとで記した「坪井はここに死す」。遺言のつもりが周りの人から助けられ、その恩返しと命のありがたさが被爆者運動の原点。みずから「ピカドン先生」。96歳の生涯で入退院を10回以上、抱えるがん二つ。その遺志を受け継ぐ人々のたたかいはこれからも。彼の締め言葉のように「ネバーギブアップ」。
 20211031  < 毎日(余録)>坪井直:20歳で被爆、60歳で教員を退職、79歳2005年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の際ニューヨークで4万人デモの先頭に立つ。91歳広島を訪れたオバマ氏に語りかける、4年前に冊子「にんげん坪井直 魂の叫び」を作る。96歳で亡くなるまで「ネバーギブアップ」を貫いた坪井さん。その精神を受け継ぐことが鎮魂の道。

 

 

坪井直関係資料一覧

坪井直関係資料一覧<作業中

年月日 資料名 種類 備考
19750310 『かけはし 父母が語る戦争体験記』( 翠町中学校PTA文化部編 翠町中学校PTA) 刊本
19790701 『この子らに語りつぐもの 広島原爆被爆教職員の手記 第1集』 (広島県原爆被爆教職員の会、広島県高校原爆被爆教職員の会編・刊) 刊本

 

坪井直

坪井直

坪井 直(つぼい すなお、1925年5月5日生 – 2021年10月24没)

日本原水爆被害者団体協議会代表委員。広島県原水爆被害者団体協議会理事長。元中学校教諭。

広島市名誉市民

つぼい すなお

坪井 直

平成30年(2018年)

3月27日

長年にわたる被爆体験証言及び国内外での核兵器廃絶に向けた活動により平和の推進に貢献するとともに、被爆者援護施策の充実にも貢献(令和3年(2021年)死亡)

広島市名誉市民 – 広島市公式ホームページ https://www.city.hiroshima.lg.jp/soshiki/7/17967.html

わたしの心が癒されるときは 栗栖洋遺稿・追悼文集

『わたしの心が癒されるときは 栗栖洋遺稿・追悼文集』(広島県原爆被害者団体協議会被爆者相談所編・刊、19981030)
内容

題字及びカット(四国五郎)
遺稿
鈴ヶ峯高校での証言一九九一年録音テープより
核兵器廃絶・被爆者援護での一貫した熱意と献身にふれて
『暮らしと政治』一九九〇年八月号
特集「終戦四十五周年と私と日本共産党」より
栗栖洋略歴
弔辞
一九九七年十月三十一日葬儀にて
金子一士/楠忠之/河野兵次
追悼のことば
核兵器廃絶を願う生命、世界にはばたけ(山瀬明)
栗栖洋君を偲んで(横山元明)
英語教育と平和教育(加藤信司)
手紙(小沢義照)
Let’s Cry For Peace!
「教科書の創造的な使い方」
栗栖洋さんとの出会い(土屋哲郎)
飄として立ち去る(谷整二)
手紙(相澤美希)
栗栖洋先生を偲ぶ言葉(皆川恵史
親族の思い出
被爆した弟を探して(今田三哲)
兄”栗栖洋”の追憶(森健)
弔歌(栗栖愛)
優しい思いを引きつぎたいと願っています(栗栖純子)
あとがき

目次

 

チェ・ゲバラ

チェ・ゲバラ(本名:エルネスト・ゲバラ) 19280 614生、19671009没

資料

書名 著者、発行所、出版年など 備考
ゲバラのHiroshima 佐藤美由紀、 双葉社、20170806
目次
プロローグ
第1章
 キューバ親善使節団
カバーニャ要塞のコマンダンテ
外交模索が目的の長期外遊
経済成長を支える日本の工業力を注視
ゲバラ一行の金銭事情
通商第一主義を通した日々
大使の息子とチェの出会い
冷淡な対応の中での学びと思索
第2章  ゲバラとヒロシマ
 千鳥ヶ淵と広島と
強行突破
原爆慰霊碑の前に立って
翳りある顔に見える心の葛藤
原爆資料館で吐き出した感情
被爆者を抱きしめて
ヒロシマからの言葉
カメラで切り取ったヒロシマ
持ち帰った強い思い
第3章 アメリカ嫌い
 政治的な目覚め
運命の出会い
キューバ上陸、革命成就
最大の反革命勢力・アメリカ
要注意人物
反帝国主義への新たな誓い
米支配に従属したニッポンを憂う
第4章 ミサイル危機と反核
 北の巨人の”いやがらせ”
要職歴任、昼夜の学び
アメリカの侵攻計画とソ連への接近
国交断絶と社会主義革命
ケネディ大統領の陰謀
ミサイル配備の思惑
米ソ二大国の応酬
当事国を無視した危機の収束
ゲバラの本音
反核の思いを込めた国連演説
第5章  それぞれのヒロシマ
 四四年後に果たされた約束
フィデル・カストロのヒロシマ
絶対平和思想
娘アレイダのヒロシマ
一般市民たちの被爆地への認識
キューバに息づくゲバラの思い
エピローグ
広島・キューバ展 2017年9月16日 会場:旧日本銀行広島支店
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備考

原爆補償法の思想(今堀誠二)

原爆補償法の思想(今堀誠二)

つぐない 原爆補償』(創刊号、19731206)所収

昭和十二年に日中戦争がはじまると、日本の海軍航空隊は中国の主な都市に渡洋爆撃を加えた。それは文字通り、中国のほとんどの都市を、片端から攻撃目標を軍事施設においていたとは言え、一般市民の中からも、少なからぬ犠牲者を出した。世界の世論は、その点て激しく日本を非難し、日本は市民の被害者に対して賠償すべきだという主張が半ば常識として言われていた。とくにアメリカは、ほとんど毎日、日本の外務省に抗議を行った。例えば十一月十日に、日本の爆撃機が南京の軍官学校に攻撃を加えたとき、正門付近で、市民が負傷した。これは無差別爆撃であり、国際法違反だからこのような爆撃を直ちに中止せよ、といったような抗議であった。アメリカ国務省は、ねばり強くあくまで、日本の非を鳴らしてやまなかった。日本は馬耳東風ときめ込んでいたが、世界の良心はいつも中国を是とし、日本を非とする立場をとり続けていた。

私たちが、原爆被災者の国家補償を要求するのは、原爆投下
が無差別爆撃であり、違法な戦争手段だから、これに対する補
償を求めるわけである。そのことは同時に、日本軍が行った違
法な攻撃を反省して、これに対する中国人民の補償要求を支持
するのはもとより、ひいてはすべての戦争において、附随的に
起きざるを得ない。この種の犠牲者の発生を、未然に防ぐこと
を主張するわけで、戦争そのものを、根絶するための具体的な
運動に、ほかならないのである。

日本人は原爆に対して、被害者意識をもつことはあっても、加害者としての反省は皆無に近い。広島・長崎における外国人被爆者は朝鮮人・中国人をはじめとし、世界の各国人を含んでいるが、そうした外国人被爆者の大半は、日本の国策によって日本に連れて来られた人たちである。国家補償をうけるとすれば、アメリカと並んで、日本の責任に帰せられるべきケースが多い。その点でも日本は加害者なのだが、問題はもっと深刻である。

日本は日中戦争以来、到る所で非戦闘員に対し、あらゆる残
虐行為を加えてきた。南京大虐殺は戦時下の「軍事美談」であ
って、「事実」ではないという主張を展開している大もいるが、そうした「軍事美談」が作られたこと自体が、時代の風潮を示す「事実」である。むろん、日本軍だけが、こうした残虐行為
を行なったわけではない。昭和十二年の通州事件では、約三百
人の日本人が強姦され、虐殺されているし、昭和二十年には北
満の開拓地にいた日本の農婦たちが、夫の出征後に、ソ連軍に
よって蹂躙しつくされている。ただこうした事件は、日本軍が
やって来た行為の裏返しであって、当時、兵隊であった私たち
は、アメリカに上陸して女と言わず子供と言わず、皆殺しにせ
よというような教育を、うけていたわけである。われわれはす
べての非戦闘員に対して加えた不法な行為に対し、心から反省
するとともにその被害者に対する補償を行なう決意なしには、
原爆補償を求めることはできないのである。

昭和二十年、日本の都市はつぎつぎに焼き払われた。何十万
という市民が絨毯爆撃のために殺され、数百万人が貴重な富を失なった。こうした一般戦災の被害は、原爆被災と同一視すべ
きではないが、原爆被災のみに補償を要求し、一般戦災への補
償を拒否することは許されない。両者の間にはっきりした相違
かおることは事実だが、原爆補償は戦災補償のうちでもっとも
重要な補償であり、これを突破口にして、戦災補償全体に、運
動の輪をひろげていくことが、将来のねらいとなってしかるべ
きであろう。

広島は軍都を誇り、事実、ハンブルグ以上の防備都市でもあ
った。そこには徹底抗戦の熱意に燃えた四十万の市民が住んで
いた。

アメリカの戦略爆撃はすでに日本の大部分の都市を灰にして
いたから、広島が攻撃を受けるのは時間の問題だったし、全市
民もそれを覚悟していた。そこに普通の爆弾が落されたのだっ
たら、広島は何も言えなかったし、ノー・モア・ヒロシマ運動
もまた起らなかった。原爆という、完全な無差別大量虐殺攻撃
をしかけられたことで、歴史は変わったのである。

原水爆時代は一日も早く終らせればならない。原爆補償法制
定の意義は、その点にかかっているが、同時に、その運動の拡
がりの中から、すべての戦災者の補償が実現されることで、福
祉国家が実現することにも、意味があると言わねばならない。
昭和二十年までの日本は、軍事国家であり、軍閥国家であった。
そのことへの根本的な反省が、補償法の制定となり、補償法に
よって国家が国民生活を保証するようになれば、福祉国家への
脱皮となるわけである。

運動の前途は、きわめて困難であり、成功の可能性は少ない
が、われわれはそれだからこそ、勇往邁進したいと思っている。
歴史を作るというのは、そういうことなのである。(東洋史)