54戦友会編『北支那派遣甲第1979部隊』
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第4回54戦友会 宮島大会記念 1980(昭和55)年3月8日 |
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54戦友会編『北支那派遣甲第1979部隊』
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第4回54戦友会 宮島大会記念 1980(昭和55)年3月8日 |
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被爆60年を迎えて-近況と今後の抱負
宇吹 暁(広島女学院大学)
被爆50周年までの原爆手記の一応の取りまとめを終えたのが1996年末、これを増補したものを1999年に日外アソシエーツから『原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945-1995』(38955編の手記を収録した3677冊を紹介)として出版することができました。この解題の中で、私は、つぎのように述べています。
原爆被害は、しばしばアウシュビッツや南京の被害と並んで取り上げられる。しかし、多くの場合、犠牲者の数の比較にとどまり、被害者一人一人の個性において表現されているわけではない。もし、30数万人の被爆者及び数不明の遺族・被爆二世などの原爆被害者が、手記を書く、つまり原爆被害への自らの思いを活字として遺すとすれば、それは貴重な「平和への道標」(1986年発行の豊中市原爆被害者の会の手記集のタイトル)となることであろう。 広島で原爆白書の作製が提案されて、30年が経過した。この間、原爆被害の実態解明の試みがさまざまな形でなされてきた。原爆被災資料広島研究会による原爆被災資料の所在確認作業、広島・長崎両市の原爆資料館をはじめとする公共機関による資料の収集・保存事業、10フィート運動による原爆映画の製作、マスコミ各社の原爆企画報道など、その量は膨大なものである。原爆白書にとって、これらの成果を踏まえることはもちろんであるが、なによりも重要なのは、原爆被爆者の体験を基礎に据えることである。その意味で、原爆手記の分析は、原爆白書の基礎と骨格を構築する作業といえよう。 被爆体験は、原水爆禁止運動・反核運動のエネルギーの源泉であった。また、1980年代からは、被爆体験の証言活動を中心とした被爆者運動は、日本の運動の中心的役割を果たしてきた。日本の運動を振り返り、運動の今後を展望しようとする際、原爆手記の分析は、多くの示唆を与えてくれるであろう。 |
私は、原爆手記分析が、当面の課題と考えていましたが、転職により、しばらく中断をせざるを得なくなりました。早いもので、新しい職場である広島女学院大学で、5回目の8月6日を迎えようとしています。着任当初の予定では、3年間は、新任校での教育と校務に専念し、4年目以降定年まで、原爆被害に関するテーマに取り組むつもりでおりました。この予定は、二つの点から狂ってしまいました。一つは、残念ながら、なかなか以前のようなまとまった時間が取れない日々が続いていることです。もう一つは、初年度から毎年、学生とともにヒロシマについて学び考える機会が予想外の形で起っています。
着任直後の2001年5月24日に、アメリカの提携校ランドルフ・メイコン女子大学との合同セミナーで原爆被害についての講演を行いました。新たな講義の準備に追われる日々を送っていた私にとって、それまでの自分の専門の仕事が認められる可能性を感じることができた貴重な体験でした。これ以後、本学恒例の原爆記念日の平和祈念式、キリスト教主義大学の学生を本学に招いて開いているジョイント8・6平和学習プログラムなど、原爆問題の関わる学内行事には、積極的に参加してきました。
2年目には、朗読劇「夏雲は忘れない」に被爆当時の学院長役で出演しました。この劇は広島女学院の被爆体験記集をもとに構成し、本学の原爆講座(1967年に始まり第36回目)で上演したものです。練習中、自分自身の手記理解の浅さ、追体験することの難しさを痛感し、寝付かれない夜もありました。さらに、本番でも緊張しっぱなしで、観劇した学生の話では、私だけが「ブルブル震えていてカワイカッタ」とのことでしたが、遺族・同窓生の参加も得て大成功でした。
3年目からは、「平和文化」(2003年後期のみ)、「ヒロシマ」(2004年度は夏季集中で関西学院大学との連携講座、2005年度からは前期と夏季集中)を担当しています。講座「ヒロシマ」は、関西学院大学の平和講座設置計画が、同大学の学生による平和公園の「折鶴放火事件」を契機に、女学院大学との連携講座として実現したものです。初年度には30人の学生を迎え、2年目の今年は倍の60人が来学し、8月6日を挟んで、本学の学生とともに学ぶことになっています。
このほか、中国研修(2002年8月、蘆溝橋・中国人民戦争記念館など)、韓国研修(2003年3月、戦争記念館など見学)にも参加することができました。
被爆60周年を前に、マスコミは被爆体験継承の困難さを指摘しています。昨年の8月5日に放映されたNHK「クローズアップ現代」では、関西学院大学での平和講座を聴講する学生の態度(=私語・居眠りなど)をクローズアップしていました。このように、継承の困難さの原因を、学生の側に求める意見もあります。しかし、これらの行事・講義に参加したほとんどの学生は、それぞれ深い感銘を受けています。私は、女学院での体験を通して、継承の可能性への確信を持つことができました。問題なのは、こうした機会が、教育の現場から消えていくことだと思います。
女学院大学赴任以来、原爆手記を系統的に収集し読むという作業はできずにいます。しかし、それでも被爆50年を超えて、400冊を超える手記(集)が発行されていることを確認しました。つい先日も、『爆心地中島-あの日、あのとき-』(元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会編)が出版されました。手記などこれまでの出版物の記述を詳細に検討するとともに、新たに多くの証言を得て、爆心地である中島地域の被爆状況を明らかにしたものです。60年後の現在でも、かなりの証言を得ることが可能であることがわかりました。2004年に出版された中に『「原爆の絵」と出会う』(直野章子著、岩波ブックレット)、『原爆と寺院-ある真宗寺院の社会史』(新田光子著、法蔵館)があります。前著は、被爆の実相の普及に大きな役割を果たしてきた「原爆の絵」の全体像にはじめて向き合った経験の記録です。また、後著は、実家の寺院を中心に、その被爆状況や戦後復興のあゆみを多様な資料で明らかにした学術書です。直接の体験はなくても、被爆体験は新たな担い手により、新たな形で書き継がれています。女学院では、夏に向け同窓会が、新たに体験記集の出版を準備しています。また、女学院創立120周年を来年にひかえ、女学院の平和教育のあゆみをまとめる計画もあります。
今年になって、4半世紀前にまとめられた『広島原爆戦災誌』(全5巻、1971年8月~12月刊行)のテキスト版が広島平和記念資料館のホームページで紹介されていることを知りました。現在でも広島の原爆被害を包括的に取り上げたこの本は、しばしば活用されています。しかし、手記が多数出版されるようになったのは、この出版後のことであり、内容の不十分さが目立ちます。改訂版ないし増補版の作成計画が被爆40周年、50周年にあるかとも期待していましたが、そうした動きは生れませんでした。これまで書き残された体験記を今後生かしてゆく一つの方法として、『広島原爆戦災誌』改定・増補版の作成を提案します。ただし、本を出版することは想定していません。また、広島市にその作業を全面的に期待するものでもありません。具体的作業の一例をあげれば、広島女学院部分の改定・増補を、女学院の関係者がおこない、その成果をインターネット上で紹介することです。『広島原爆戦災誌』に取りあげられている各機関・団体でこの作業が行われたとすれば、広島市が、これらにリンクを張るだけで、とりあえずは改定・増補版が出来上がります。私は、この作業が本学の学生が中心となり、教職員・同窓生を巻き込んで進められることを期待しています。
自己紹介
1970年 広島県史編纂室、1976年 広島大学原爆放射能医学研究所、2001年より広島女学院大学勤務。広島県・広島大学では被爆資料の収集・整理・分析に従事。女学院大学では、生活科学部の芸術文化分野で講義「生活文化史」・「世界遺産」・「ヒロシマ」などを担当。
出典:『自分史つうしn ヒバクシャ』第150号(編集・発行:栗原淑江、20050710)
宇吹ヤス私歌集
年月日 | ||
1972 | ||
08 | 緑失せゆく地表に足れるや一塊の砂糖に群るる炎天の蟻 貯えて際限もなし炎天を自よりも太き虫骸曵く蟻 語りたき亡妹渡りいん夕あかねに迎いて大きく虹の橋立つ 斯く美しき暮色の巷を染むる虹の束の間の華麗をまぶしみて佇つ 何時の日かわと五十路越えたり今宵息子と管弦祭の華麗に酔えり 追憶の幻とならん闇に顕つ打ち上げ花火の華麗を見たり 共船の櫓しぶき浴びつつ献燈の海面に砕け揺るるを凝視む 猛る日のありと想えず今宵立つ回廊をなぶる異常高潮 狭き入り海を自在に巡らすご座船の竿さばきにどよめく拍手 篝火に映える奏楽の優雅さに雅な人等静かに甦らん 虫すだく子の家に夫と今宵見し華麗を抱きて静かに眠る 観祭の宿願叶いし昂ぶりを歌帳に稚なく綴らん我か 子に生きて寡婦貫きし人送る長き葬列を蝉しぐれ埋む とり縋る家族の前に無造作に火葬への鉄扉は固く閉ざされぬ 用果てし矢車夜闇に音高し惰性に生きて愚痴多き我の如 |
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1973 | ||
08 | 朝夕の我が愛素直に朝顔の初咲き一輪今咲かんとす 束の間の会いなる朝顔の花ちぎり吹きすぎる風に術もなく佇つ 緑濃き葉影にひそと紫を炎やす朝顔にそっと触れ見る 窓に揺れ透く朝顔数える安らぎに馴れつつ迎う今日原爆忌 冷房の部屋を出できて炎天にめくるめく黄のヒマワリ仰ぐ 氷柱の熔くるを知らず「雲雀山」哀しく舞える友の影追う 高砂を舞台狭しと舞える師の涼しき姿老松に映ゆ 往年の名優が演ず哀歓を見終えてうるむ街の灯みつむ 豊かなる土の香匂う馬鈴薯の重き感触にほのぼのと会う 惜しみなき愛そそぎつつ搾られしか給う牛乳の濃いくまろけし 欺まんなき土に親しむ友ゆ給びし艶めく馬鈴薯しばし手に持つ 瑞みずと艶めく馬鈴薯の肌ぬくしコオロギ群れいし畑の広ごり 招かれて山野の幸に驚喜せし日の温かき友の笑顕つ 幾重にもつつみこまれし甘き新茶の香り廚に豊かに匂う 日照雨にも蝉とり止めぬ孫と佇ちて夏の夕べの虹仰ぎ佇つ 疎みて払う我が手に縋り我が性と生き写しなる孫綾しおり 筆談にて商談なりし黒人の別れ告げる瞳のにこやかに笑む 聖旗と掲げし遠き傷みを君知るや黒き膚の若きマドロス 「ハラキリ」日本と片言交じりの黒人に甦り来る遠き傷かなし 灼熱のドバイに命預けいる新聞紙上の悲しき写真 世界の目ドバイにあつめたるままに一機に充つる重き沈黙 |
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1974 | ||
08 | 尾道の旅
きらめく水泡に消えたる人のいくばくか尾道水道の底いなき碧 花火 それぞれの宿命に生きん束の闇を彩る花火に声あぐる孫等 **さんの長男の葬儀 還るなき父の葬儀と知る術もなき遺児の泣き声高し |
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1975 | ||
08 | 嫁ぐ今日を夢みし母の瞳さながらに姪がライトに美しく浮く 在りし日の母の面影さながらにライトに笑う花嫁姪は 幽界に安堵の笑いたたえいん娘を託す君の広き肩巾 ベビーブームの時代背負い生きる行く末を案じし姪の今日の華燭を ソフトに日焼け男子めきいし姪が今華麗成る祝福総身に受く 若夫婦に寄する華麗なる祝辞を胸熱くうつむき聴けり我が子の如く 深ぶかと謝辞をのべつつ若夫婦のともす灯火が涙にゆらめく 幻とあえなく消えし我が青春かまさぐる車窓に揺るる白髪 夢多かりき遠き追憶追いにつつ祝宴の帰り路に踏むおのが影 碧澄める「八丈島」の渚に洗え母の亡き悲しみいだきて旅立ちし姪映画「サルの惑星」 「人造惑星基地」より地球侵略の奇想なる画面に冷ゆる暑き夏の夜 縮小人間・人造臓器・あり得べし人の踏みたる月光あわし |
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<作業中> | ||
1992 | 平成四年一月一日姉**千代様死亡
忽然死ひた希いいし積善の姉逝き給う雪舞う今日を |
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止
父の納骨のため京都旅行 1995年10月14(土)~15日(日)
14日 | |
07:10 | 母・兄・姉と私の車で桜ケ丘出発。東広島7:57発-京都10:44着。大変な混雑。11時西本願寺大谷本廟。納骨とお経(3000円)を済ませすぐに京都駅へ。奈良線で宇治へ。 |
13:00 | 宇治平等院-黄檗-深草墓園-まどか荘(兄と一緒に住んでいた建物が残っていた)-17時KKR京都くに荘(タクシー運転手の話では皇太后に縁の地)着。夕食を申し込んでいたが、キャンセルができなかった。 |
18:10 | 京阪バス「グランパノラマ夜の京ハイライト」(6820円)京都駅出発-京都府京都文化博物館(再訪の価値あり)-神泉院(祇園平八の京料理)-東山将軍塚-21時10分京都駅着-くに荘着。 |
15日 | |
09:50 | 京都定期観光バス「名園鑑賞と哲学の道コース」(8170円)京都駅出発-二条城-大徳寺塔頭・龍源院-豆狸(京弁当)-白沙村荘=橋本関雪記念館-哲学の道(小さな京人形を買う-法然院-大豊神社)-永観堂・禅林寺-京都駅。 |
16:07 | 京都駅発-18:55東広島着-19:30帰宅。全費用を母が出してくれる。 |
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祖母と母
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![]() 戦地の静男の要望で送った写真 |
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呉市第1回鉱山勤労報国隊 昭和17・8・22
三井山野三坑 [福岡県嘉穂郡稲築町(現在は合併して嘉麻市)] |
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宇吹ヤスのアルバム
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宇吹静男のアルバム
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静男と妻ユキ(私の母の姉) |
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柿浦結核療養所(広島県江田島市大柿町) |
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呉市立吉浦小学校 アルバムより
左端:暁、抱かれているのは弟 |
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暁:朝礼台のうえで模範演技 |
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中国新聞社の松江特派員として松江に派遣。広島の小学校の新聞部長から毎年数名が選ばれていた。子ども新聞に掲載された筈だが資料不明。 |
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宍道湖畔の宿 |
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1947誕生~保育所
リンゴを持つ暁 |
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