ヤスの旅一覧(国内)
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ヤスの旅一覧(国内)
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いとこ会
1999年9月25日 会場:ヤスの実家 |
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撮影:宇吹暁 |
第31回おんど会 2003年2月8日 会場:戸田本店(音戸町)
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黄印は社会科教員。後列右から2番目=加納恒治先生 |
久留島恵一先生 |
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佐々木優秋先生 |
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広島県立音戸高等学校第21回卒業証書授与式
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広島県立音戸高等学校の日々(抄)1969年10月1日~
月日 | ||
1969 | ||
0930 | 職員会議 宇吹着任の挨拶 | |
1002 | 朝礼 着任式(宇吹) | |
1006 | 高教組本部オルグ 副委員長 11・13の斗いについて | |
職員会議 高校生の政治活動について 部落研と安保 | ||
1007 | 今日より2週間、1年5組のHR | |
1011 | [職員会議]②同教報告 広相就職差別事件に関連して | |
1017 | 職員会議 ②高同教大会(臨時時間割)今日・明日 | |
1021 | [職員会議]④同和講演会 22日(水)9:20~12:00 正覚寺 講師・広大 後藤陽一 | |
1028 | 本部オルグ | |
1102 | 文化祭 | |
1224 | 終業式 | |
1970 | ||
0108 | 始業式 | |
0209 | 3年期末試験。~14日。 | |
0301 | 卒業式。 | |
社会科教員集合写真 | ||
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出典:『Graduation Memory 21th 1970 音戸県立音戸高等学校』(卒業アルバム) | ||
ヤスの自分史:原爆・終戦
昭和二十年八月六日。
私と母は内のの谷という所へ畠を借りていたので朝行く途中、原爆の閃光を見た。自分の眼の前がピカットと光った。何か普通より違う感覚である。爆音が聞こえたので空襲だと直感。母と走って梅林の防空壕へ入らしてもらった。静かに爆音がしなくなったので恐る恐る壕から出て広島の空を仰いだ時、あの原爆雲、もくもくと無邪気に広がる。あれを見たのである。
世界で始めての爆弾。誰も解らぬ。「ガスのタンクが爆発したのだそうだ」「新しい爆弾だそうだ」皆思い思いの事を話した。何時までも道路で話し合ったものだ。
其の中に、今の保育所が共済病院だったので、そこへ火傷の人がトラックで運ばれてきだした。みんな黒こげで仁王さんの様に大きくはれている人もいる。正視できない姿である。これは大変だと思った。警防団が召集され、広島へ救援にむかった。
下川さんには弟が召集あり、兄と妹が見送りに行かれ三人とも死なれた。堀田さんも親の家が広島なので救援に行かれた。肉親を求め来る日も来る日もみんな歩いた。命絶えた人は火葬にするだろう。探してもいない筈。それでも毎日探す人は絶えない。広島の惨状を直接見たのではないが、聞くのに胸が張り裂けそうだ。
九日、長崎も洗礼を受けた。
八月十五日。
終戦の詔勅放送あり。
この日岩神の畠へ母と仕事に行っていた。下の段が木村の墓所である。木村のおじさんが下から「おごうさん、もう防空壕は入らんでもええんで。戦争は終わったんじゃけん」びっくりした。大切な放送がある。玉音放送である。放心、虚脱、敗戦の足音の日々高まりを聞きながらも心の一部には神風を祈っていたのである。
起たざれば虚脱の闇に吸われいん 夫婦の日を信ず終戦
ひた踏みしがなべて虚構と知りし 今吐く息白し消ゆるたそがれ
虚構の長き橋踏み終えて狂わざるふし太き双掌を静かに凝視む
踏みしむる大地は揺れたり虚脱より起たねば命は子と共に絶ゆ
繰り言と笑われて吐く大正の苦汁を秘めて白し我が息
軍国の夢破れたり崩れゆく大地を踏みて子と共に佇つ
終戦の日の追憶を詠めば斯くの如し。
ヤスの自分史9:空襲下の生活
敗戦の色が濃くなりだした頃、あの人も、この人も戦死の公報がありだした。何時公報があるのかとビクビクの毎日が続いた。
其の頃、父が別居すると言い出した。余りにも戦死の公報が続くので生きて帰って来るとは思えない様になった。私と子供二人三人をかかえてゆくより自分一人が別居した方が楽だと思ったのではないか。毎日其の事にこだわる。
辛かった。母は私に言った。
「別れるのなら別れよう。然しみんなで働いたのだから、じいさんだけに金は渡せない。自分は静男からあんたと子供を頼むと聞いているのだから、あんたとは別れん。ある金を三分しよう。一つ分をじいさんに渡し二人でがんばろう。帰るまで」
嬉しかった。二人はしっかり心に誓った。
おじいさんは一生懸命生きようと思ったのだろう。息子は生きては帰らないと決めていたのだろう。空襲警報が出れば一番に防空壕に一人で逃げていたのを見てもわかる。
母は、哲夫を背負い、瞳をこする美智子の手を曳いて逃げてくれる。私は家を守る為に一人は家に残るのである。夜中何度も避難する。眠る間はない。防空ズキンにもモンペにもみんな名前と血液型を書きつけてある。大人も子供も。どんな場所で怪我等しても輸血等出来る様にしてあったのか。
国の方針には絶対服従の時代。建物の疎開もあった。消火の為に防水池があちらこちらに造られた。其の場所に当った者の不運である。姉、**も呉住居を追われた。そして吉浦にきた。現在の吉浦の家の場所も建物疎開にあった。堀田の家があった。地主は松原である。大きな池だった。終戦になって地主に返され、それを譲り受ける事が出来て現在に至った。
次第に戦局は不利に思えたが、神風を信ずる国民である。本土決戦で戦う意気込み、身の程を知らぬ思い上がりであった。防火演習、救護演習、等々、隣組活動が盛んである。若く健康な身には苦にはならないけれど、病身の人達には、ついて行けない労働である。新聞報道は戦勝を報ずるけれど、ヒソヒソと敗戦がささやかれ出した。表面ばかり見せられても何処からかニュースは流れ出してくる。
「欲しがりません 勝つまでは」
どんなに耐えをしいられてもみんながまんの国民だった。
敵機をうち落下傘で投下した、アメリカの飛行機だったのかな。岩上の刑務所へ入所していたのがいた。よく家の前を自動車にのせられて目かくしをされ連行されてゆくのを見ていた。赤いちぢれ毛が印象的に眼裏にやきついている。
ヤスの自分史8:配給と防空演習
配給食料品も遅配がちになった。前川の処が雑炊食堂になった。みんな並んで行列をしている。箸が立つ硬さの雑炊が規準だったとか。
私の家では父が百姓をしてくれていたので、イモ、ジャガイモ、南京、菜類、大根等を食べれば、何とか空腹はしのげた。米を少しの中へ、イモ、大根等をたくさん入れて量を増やして食べる。
それはまだいい方である。隣家等では、配給の一ヶ月分を子供達がそれぞれ勝手に食べるので直になくなる。たまりかねて米にもメリケンにもカギをかけてあるのだそうだ。それでも空腹にはかなわないので、あけて食べるそうだ。
豊富な食生活の今を見ると、あの頃を思い出すのさえ恐ろしい様だ。食べ物の無い時代を通り過ぎた者は近い将来襲うであろう食料難時代等耐ゆる事はたやすい事である。
隣組で防空演習も度々あった。空襲警報になると道路で青松葉を燃す事もした。何しろ生の青松葉だから燃えない。いぶすのだ。煙幕のつもりである。
白壁は目立たない様に黒く汚す。敵機から見えない擬装のつもりである。何のことはない、子供だましの労力浪費。どんな人が指導をしたのか、よくみんなついていったものだ。馬鹿馬鹿しくて、無智によく馴らされたものだ。
夜は燈火管制である。少しあかりがもれていても注意を受ける。暗い火の下何をしていたのかしら。
ヤスの自分史7:子どもの疎開
参観日には必ず出席した。子供に夢をかけるより他ない自分だったから。おかげで美智子も勉強はまあまあやった。楽しみはそれ位しかなかったものだから、嬉しかった。
美智子が小学一年生の頃、空襲をさけて疎開先があるものは疎開する様にとの学校からの通達があった。
どうしても行く事の出来ない子供は集団疎開といって山地のお寺とか学校へ集団で疎開する。私は宇吹本家の納屋をかしてもらう事が出来た。子供二人を連れて、おばあさんと交替しながら生活した。
美智子は焼山の小学校へ通学させた。焼山の子等の中、シラミがいる子がいてそれがうつり困った。原始的な生活である。水は家の前を流れる小川の水を使う。洗い物、食べ物、洗濯物、何でも其の小川である。上流で何をしているか知れたものではないけれど(上流に家はなかった)他の家もそうしているのだから仕方がない。風呂は三、四日交替にわかす。木はいくらでもあるのに習慣なのだ。毎日入浴していた私達も便利が悪い等とは言っておられない。
家のまわりが草深いのでヘビがいくらでもいる。学校からの帰途何匹か数えきれない程いる。竹藪があるので、竹の子、フキ等食べきれない程ある。夏は蛍が飛び交う。蚊は多いから蚊帳は毎晩つる。
納屋の後ろの山へ、本家のおばさんと一緒に防空壕を掘った。当座の食物とか救急医薬品とか重要なものをその穴に入れておいたものだ。
ヤスの自分史6:闇値と宇品署への出頭
次々統制になっていった。何もかも、物は不足しだした。商売の下駄も花緒も公定価格がきめられたけれど、其の値段では品物は無かった。いきおい闇値が生れる。経済警察というのがあって闇値に眼を光らす。
花緒を闇値で買って警察に呼び出された。宇品署に出頭すべしと。下駄屋は全部買っていたのだ。駅前に**、東本町に**、本町に**と家、みんなぞろぞろ恐る恐る出頭した。一人ずつ取り調べを受ける。私は一番後だった。巡査が私の顔をじろじろ見ながら、名前をきいた。宇吹です、答えると里は何処かとたずねる。矢野の**の娘ですと答える。矢野まで迷惑がかかるのかと心配していると「**さんの妹かね。**さん元気かね」。地獄で仏とはこの事かも知れぬ。**さんが好きだった巡査だった。呉地方には知った人はいないと思ったとの事。代書(始末書を書いてもらう為)で待っていると、良い具合に書いてやってくれといいにきてくれた。帰途早速矢野へ立ち寄り事情を話すと、挨拶に行って応召中両親と子供をかかえての商売の辛さをのべて罪にならぬ様頼んで置いた方がよかろうと、兄につきそわれて自宅を訪ねた。すると**(花緒を買った問屋)は今気が小さくなっているから、今たくさん品を買っておいてやれば良い、始末書だけで別に罪にはならないと教えられ、まずは一安心と胸を撫ぜた次第。
出征の人は誰でも見送りに出た。召集は珍しくなくなった。お宅もですか、――――、――――、みんなである。「**さん」応召がかかっても何処にいるか解らない為、結局兵役をのがれた。案外聖戦でないのを知っていて協力しなかったのかも知れぬ。酒さえ呑めば良い人だった。
金物は何でも供出する時代だった。仏壇の飾り、真鍮、下駄の裏金等も供出した。学校の校庭へ集められて放置されてあった様に思うが、ほんとうにそれが再生されたものかどうか。みんな国の為という名のもとに夢遊病者の様だった。ぜいたくは禁じられ、遊びも禁じられ、国民は軍国指導者の思うままに動くより仕方がなかった時代である。衣料も切符制になり何も買えなくなった。
金はあっても点数がない為何も買えない。古着を買う時代になった。何もない中からやりくりをして。妹きみちゃんは**へ嫁いだ。何を買ってもらってものか。私の時代は品はあるが金が無く、きみちゃんは金はあっても品がない破目だったのである。私も**の奥様の古着を買った。**のトシ子さんがゆずってもらっているのを見てから買ったのだ。山まゆのコート、めいせんの単衣、きんしやの浴衣。セルの着物、確か四枚である。仕入れ、学校、出歩く事は全部私だから忙しい。