「23 被爆国」カテゴリーアーカイブ

昭和天皇の終戦史

『昭和天皇の終戦史』(吉田裕、岩波新書、19921221)

内容

「天皇独白録」とは何か 1
I 太平洋戦争時の宮中グループ 9
1 開戦をめぐる宮中グループの動向 11
2 戦局の悪化と近衛グループの台頭 18
3 ポツダム宣言の受諾 23
近衛の戦後構想 39
 1 「自主裁判」構想とその挫折 41
2 保守勢力の敗戦への対応 47
3 占領期の近衛 55
III 宮中の対GHQ工作 65
1 宮中グループによる政治工作の開始 67
2 高松宮の政治活動 72
3 GHQの対天皇政策 78
IV  「天皇独白録」の成立事情 85
 1 東久迩宮発言の波紋 87
2 GHQの対応 92
3 宮中グループの動き 98
4 寺崎英成の虚像と実像 103
5 松平康昌の役割 109
V 天皇は何を語ったか 123
1 2つの参考資料 125
 2 「独白録」の論理構成1 13
 3 「独白録」のなかの天皇像 146
4 「独白録」・その後 156
5 「独白録」をめぐる人脈 163
VI 東京裁判尋問調書を読む 171
 1 ニュルンベルク裁判との相違 173
2 尋問への協力 181
3 公判廷における証言 196
VII 行動原理としての「国体護持」 209
1 陸軍との対立 211
2 英米との協調の重視 215
3 国体至上主義 219
4 宮中グループの人脈 224
 再び戦争責任を考える 231
あとがき 243

戦後80年に寄せて( 令和7年10月10日内閣総理大臣所感)

戦後80年に寄せて( 令和7年10月10日内閣総理大臣所感)

(内閣総理大臣所感)

<作業中>
(はじめに)
戦後80年に寄せて

先の大戦の終結から、80年が経ちました。
この80年間、我が国は一貫して、平和国家として歩み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者を始めとする皆様の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものです。

私は、3月の硫黄島訪問、4月のフィリピン・カリラヤの比島戦没者の碑訪問、6月の沖縄全戦没者追悼式出席及びひめゆり平和祈念資料館訪問、8 月の広島、長崎における原爆死没者・犠牲者慰霊式出席、終戦記念日の全国戦没者追悼式出席を通じて、先の大戦の反省と教訓を、改めて深く胸に刻むことを誓いました。
これまで戦後50年、60年、70年の節目に内閣総理大臣談話が発出されており、歴史認識に関する歴代内閣の立場については、私もこれを引き継いでいます。
過去三度の談話においては、なぜあの戦争を避けることができなかったのかという点にはあまり触れられておりません。戦後70年談話においても、日本は「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」という一節がありますが、それ以上の詳細は論じられておりません。
国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか。
第一次世界大戦を経て、世界が総力戦の時代に入っていた中にあって、開戦前に内閣が設置した「総力戦研究所」や陸軍省が設置したいわゆる「秋丸機関」等の予測によれば、敗戦は必然でした。多くの識者も戦争遂行の困難さを感じていました。
政府及び軍部の首脳陣もそれを認識しながら、どうして戦争を回避するという決断ができないまま、無謀な戦争に突き進み、国内外の多くの無辜の命を犠牲とする結果となってしまったのか。
米内光政元総理の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう注意願いたい」との指摘もあった中、なぜ、大きな路線の見直しができなかったのか。
戦後80年の節目に、国民の皆様とともに考えたいと思います。

(大日本帝国憲法の問題点)
まず、当時の制度上の問題が挙げられます。戦前の日本には、政治と軍事を適切に統合する仕組みがありませんでした。
大日本帝国憲法の下では、軍隊を指揮する権限である統帥権は独立したものとされ、政治と軍事の関係において、常に政治すなわち文民が優位でなくてはならないという「文民統制」の原則が、制度上存在しなかったのです。
内閣総理大臣の権限も限られたものでした。帝国憲法下では、内閣総理大臣を含む各国務大臣は対等な関係とされ、内閣総理大臣は首班とされつつも、内閣を統率するための指揮命令権限は制度上与えられていませんでした。
それでも、日露戦争の頃までは、元老が、外交、軍事、財政を統合する役割を果たしていました。武士として軍事に従事した経歴を持つ元老たちは、軍事をよく理解した上で、これをコント
ロールすることができました。丸山眞男の言葉を借りれば、「元老・重臣など超憲法的存在の媒介」が、国家意思の一元化において重要な役割を果たしていました。
元老が次第に世を去り、そうした非公式の仕組みが衰えたのちには、大正デモクラシーの下、政党が政治と軍事の統合を試みました。
第一次世界大戦によって世界に大きな変動が起こるなか、日本は国際協調の主要な担い手の一つとなり、国際連盟では常任理事国となりました。1920年代の政府の政策は、幣原外交に表れた
ように、帝国主義的膨張は抑制されていました。
1920 年代には、世論は軍に対して厳しく、政党は大規模な軍縮を主張していました。軍人は肩身の狭い思いをし、これに対する反発が、昭和期の軍部の台頭の背景の一つであったとされていす。
従来、統帥権は作戦指揮に関わる軍令に限られ、予算や体制整備に関わる軍政については、内閣の一員たる国務大臣の輔弼事項として解釈運用されていました。文民統制の不在という制度上の問題を、元老、次に政党が、いわば運用によってカバーしていたものと考えます。
(政府の問題)
しかし、次第に統帥権の意味が拡大解釈され、統帥権の独立が、軍の政策全般や予算に対する政府及び議会の関与・統制を排除するための手段として、軍部によって利用されるようになっていきました。
政党内閣の時代、政党の間で、政権獲得のためにスキャンダル暴露合戦が行われ、政党は国民の信頼を失っていきました。1930 年には、野党・立憲政友会は立憲民政党内閣を揺さぶるため、海軍の一部と手を組み、ロンドン海軍軍縮条約の批准を巡って、統帥権干犯であると主張し、政府を激しく攻撃しました。政府は、ロンドン海軍軍縮条約をかろうじて批准するに至りました。
しかし、1935年、憲法学者で貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説について、立憲政友会が政府攻撃の材料としてこれを非難し、軍部も巻き込む政治問題に発展しました。ときの岡田啓介内は、学説上の問題は、「学者に委ねるより外仕方がない」として本問題から政治的に距離を置こうとしましたが、最終的には軍部の要求に屈して、従来通説的な立場とされていた天皇機関説を否定する国体明徴声明を二度にわたって発出し、美濃部の著作は発禁処分となりました。
このようにして、政府は軍部に対する統制を失っていきます。
(議会の問題)
本来は軍に対する統制を果たすべき議会も、その機能を失っていきます。
その最たる例が、斎藤隆夫衆議院議員の除名問題でした。斎藤員は1940年2月2日の衆議院本会議において、戦争の泥沼化を批判し、戦争の目的について政府を厳しく追及しました。いわゆる反軍演説です。陸軍は、演説は陸軍を侮辱するものだとこれに激しく反発し、斎藤議員の辞職を要求、これに多くの議員は同調し、賛成296票、反対7票の圧倒的多数で斎藤議員は除名されました。これは議会の中で議員としての役割を果たそうとした稀有な例でしたが、当時の議事録は今もその3分の2が削除されたままとなっています。
議会による軍への統制機能として極めて重要な予算審議においても、当時の議会は軍に対するチェック機能を果たしていたとは全く言い難い状況でした。1937年以降、臨時軍事費特別会計が
設置され、1942 年から45年にかけては、軍事費のほぼ全てが特別会計に計上されました。その特別会計の審議に当たって予算書に内訳は示されず、衆議院・貴族院とも基本的に秘密会で審議が行われ、審議時間も極めて短く、およそ審議という名に値するものではありませんでした。
戦況が悪化し、財政がひっ迫する中にあっても、陸軍と海軍は組織の利益と面子をかけ、予算獲得をめぐり激しく争いました。
加えて、大正後期から昭和初期にかけて、15年間に現役首相3人を含む多くの政治家が国粋主義者や青年将校らによって暗殺されていることを忘れてはなりません。暗殺されたのはいずれも国際協調を重視し、政治によって軍を統制しようとした政治家たちでした。
五・一五事件や二・二六事件を含むこれらの事件が、その後、議会や政府関係者を含む文民が軍の政策や予算について自由に議論し行動する環境を大きく阻害したことは言うまでもありません。
(メディアの問題)
もう一つ、軽視してはならないのはメディアの問題です。
1920 年代、メディアは日本の対外膨張に批判的であり、ジャーナリスト時代の石橋湛山は、植民地を放棄すべきとの論陣を張りました。しかし、満州事変が起こった頃から、メディアの論調は、積極的な戦争支持に変わりました。戦争報道が「売れた」からであり、新聞各紙は大きく発行部数を伸ばしました。
1929 年の米国の大恐慌を契機として、欧米の経済は大きく傷つき、国内経済保護を理由に高関税政策をとったため、日本の輸出は大きな打撃を受けました。
深刻な不況を背景の一つとして、ナショナリズムが昂揚し、ドイツではナチスが、イタリアではファシスト党が台頭しました。主要国の中でソ連のみが発展しているように見え、思想界にお
いても、自由主義、民主主義、資本主義の時代は終わった、米英の時代は終わったとする論調が広がり、全体主義や国家社会主義を受け入れる土壌が形成されていきました。
こうした状況において、関東軍の一部が満州事変を起こし、わずか1年半ほどで日本本土の数倍の土地を占領しました。新聞はこれを大々的に報道し、多くの国民はこれに幻惑され、ナショナリズムは更に高まりました。
日本外交について、吉野作造は満州事変における軍部の動きを批判し、清沢洌は松岡洋右による国際連盟からの脱退を厳しく批判するなど、一部鋭い批判もありましたが、その後、1937年秋
頃から、言論統制の強化により政策への批判は封じられ、戦争を積極的に支持する論調のみが国民に伝えられるようになりました。
(情報収集・分析の問題)
当時、政府を始めとする我が国が、国際情勢を正しく認識できていたかも問い直す必要があり
ます。例えば、ドイツとの間でソ連を対象とする軍事同盟を交渉している中にあって、1939年8月、独ソ不可侵条約が締結され、ときの平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を
生じた」として総辞職します。国際情勢、軍事情勢について、十分な情報を収集できていたのか、得られた情報を正しく分析できていたのか、適切に共有できていたのかという問題がありました。
(今日への教訓)
戦後の日本において、文民統制は、制度としては整備されています。日本国憲法上、内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならないと定められています。また、自衛隊は、自衛隊
法上、内閣総理大臣の指揮の下に置かれています。
内閣総理大臣が内閣の首長であること、内閣は国会に対して連帯して責任を負うことが日本国憲法に明記され、内閣の統一性が制度上確保されました。
さらに、国家安全保障会議が設置され、外交と安全保障の総合調整が強化されています。情報収集・分析に係る政府の体制も改善されています。これらは時代に応じて、更なる進展が求められます。
政治と軍事を適切に統合する仕組みがなく、統帥権の独立の名の下に軍部が独走したという過去の苦い経験を踏まえて、制度的な手当ては行われました。他方、これらはあくまで制度であり、
適切に運用することがなければ、その意味を成しません。
政治の側は自衛隊を使いこなす能力と見識を十分に有する必要があります。現在の文民統制の制度を正しく理解し、適切に運用していく不断の努力が必要です。無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持と責任感を持たなければなりません。
自衛隊には、我が国を取り巻く国際軍事情勢や装備、部隊の運用について、専門家集団としての立場から政治に対し、積極的に説明し、意見を述べることが求められます。
政治には、組織の縦割りを乗り越え、統合する責務があります。組織が割拠、対立し、日本の国益を見失うようなことがあってはなりません。陸軍と海軍とが互いの組織の論理を最優先として対立し、それぞれの内部においてすら、軍令と軍政とが連携を欠き、国家としての意思を一元化できないままに、国全体が戦争に導かれていった歴史を教訓としなければなりません。
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リス
クであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。海軍の永野修身軍令部総長は、開戦を手術にたとえ、「相当の心配はありますが、この大病を癒すには、大決心をもって、国
難排除に決意するほかありません」、「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である」と述べ、
東條英機陸軍大臣も、近衛文麿首相に対し、「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と迫ったとされています。このように、冷静で合理的な判断よりも精神的・
情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
政府が誤った判断をせぬよう、歯止めの役割を果たすのが議会とメディアです。
国会には、憲法によって与えられた権能を行使することを通じて、政府の活動を適切にチェックする役割を果たすことが求められます。政治は一時的な世論に迎合し、人気取り政策に動いて国益を損なうような党利党略と己の保身に走っては決してなりません。
使命感を持ったジャーナリズムを含む健全な言論空間が必要です。先の大戦でも、メディアが世論を煽り、国民を無謀な戦争に誘導する結果となりました。過度な商業主義に陥ってはならず、
偏狭なナショナリズム、差別や排外主義を許してはなりません。
安倍元総理が尊い命を落とされた事件を含め、暴力による政治の蹂躙、自由な言論を脅かす差別的言辞は決して容認できません。
これら全ての基盤となるのは、歴史に学ぶ姿勢です。過去を直視する勇気と誠実さ、他者の主張にも謙虚に耳を傾ける寛容さを持った本来のリベラリズム、健全で強靭な民主主義が何よりも大切です。
ウィンストン・チャーチルが喝破したとおり、民主主義は決して完璧な政治形態ではありません。民主主義はコストと時間を必要とし、ときに過ちを犯すものです。
だからこそ、我々は常に歴史の前に謙虚であるべきであり、教訓を深く胸に刻まなければなりません。
自衛と抑止において実力組織を保持することは極めて重要です。私は抑止論を否定する立場には立ち得ません。現下の安全保障環境の下、それが責任ある安全保障政策を遂行する上での現実です。
同時に、その国において比類ない力を有する実力組織が民主的統制を超えて暴走することがあれば、民主主義は一瞬にして崩壊し得る脆弱なものです。一方、文民たる政治家が判断を誤り、戦争に突き進んでいくことがないわけでもありません。文民統制、適切な政軍関係の必要性と重要性はいくら強調してもし過ぎることはありません。政府、議会、実力組織、メディアすべてがこれを常に認識しなければならないのです。
斎藤隆夫議員は反軍演説において、世界の歴史は戦争の歴史である、正義が勝つのではなく強者が弱者を征服するのが戦争であると論じ、これを無視して聖戦の美名に隠れて国家百年の大計を誤ることがあってはならないとして、リアリズムに基づく政策の重要性を主張し、衆議院から除名されました。
翌年の衆議院防空法委員会において、陸軍省は、空襲の際に市民が避難することは、戦争継続意思の破綻になると述べ、これを否定しました。
どちらも遠い過去の出来事ではありますが、議会の責務の放棄、精神主義の横行や人命・人権軽視の恐ろしさを伝えて余りあるものがあります。歴史に正面から向き合うことなくして、明る
い未来は拓けません。歴史に学ぶ重要性は、我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に置かれている今こそ、再認識されなければなりません。
戦争の記憶を持っている人々の数が年々少なくなり、記憶の風化が危ぶまれている今だからこそ、若い世代も含め、国民一人一人が先の大戦や平和のありようについて能動的に考え、将来に生かしていくことで、平和国家としての礎が一層強化されていくものと信じます。
私は、国民の皆様とともに、先の大戦の様々な教訓を踏まえ、二度とあのような惨禍を繰り返すことのないよう、能う限りの努力をしてまいります。

令和7年10月10日
内閣総理大臣
石破茂

裁かれた日本

『裁かれた日本』(野村正男、角川書店、19560405)

内容<作業中

007 開幕
007 明治ビル開く
009 日本を裁く舞台装置
012 耳新しい罪名
013 秋霜烈日のルール
015 死刑が原則だった
016 宿命の地獄坂
017 天長節を選んで起訴さる
022 弾劾された日本帝国
027 原爆を裁く
029 被告のモノローグ
030 七灯人
032 孤立無援の弁護団
035 26人乗りのバス
037 共同謀議者の面々
038 歴史に初めての裁判
040 狂う大川周明博士
041 松岡洋右の最後
042 暴に屈せず
047 忌避の申立て一蹴さる
049 秋田犬、獅子を噛む一幕
050 日本の降伏は無条件
051 キーナン日本弾劾の日
052 日本現代史の暴露
055 俎の上の28被告
057 日本の言分はきかない
059 うそぶく東条メッセージ
062 歴史の虚実
062 歴史を証言する
065 滝川教授のズバリ証言
066 三月事件の秘密
070 秘密書類続々法廷へ
072 スチムソンのペン
073 リットン・リポート
075 ヒトラーとの共同謀議
076 ノモンハン事件も侵略戦争
078 草場証人、謎の自殺
079 戦慄の赤軍諜報資料
080 広田内閣の「国策基準」
082 チャーチルの手紙
086 グルー大使は来ない
088 宮廷にゆらぐ灯
090 皇族内閣への反対
093 虎穴に入って得た暴虎
094 迷う天皇と「相当の確信」
096 捕虜は復讐する
098 日本抗弁の日きたる
100 弁護団、侵略を否認
102 反証に起つ
104 島田、ハル・ノートを叩く
107 東郷茂徳の二面作戦
109 日本は恥ずべき罪人
111 ナチスと日本はちがう
113 海図なき航海―その判決と刑罰
113 米弁護団首切らる
114 ハットリ・ハウス
116 判決をきく日
118 判決の印象四つ
122 敗者にきびしき法
123 捕虜虐待は政府の責任
126 日本は罪ある国
127 判決のヤマ
131 重光の場合
132 キーナン・レースの大穴
135 無罪は一人もいなかった
139 肉親のうれい
140 傍聴席には野坂参三も
142 君をしばり首にする
145 古い日本への決別
147 ブレークニィ最後の大弁論
150 葬られた少数派の判決
158 天皇の責任論
160 天皇の免責を考慮せよ―ウエッブ裁判長
165 広田の死刑を救え―オランダ判事
170 戦争と軍人の責任
171 日本だけ罰してはいけない―インドの判事
173 絞首刑は平和に貢献しない
175 原子爆弾こそ裁け
178 連合国の手も清潔ではない
180 まだ寛大すぎる―比島の判事
182 広田死刑は六対五
185 死刑の多数決は言語道断
187 マックは死刑を急いだ
193 終末
193 ワシントンの一幕
198 死の金曜日のこと
202 時は流る
204 裁くものは裁かる
207 あとがきにかえて

歴代天皇総覧ー皇位はどう継承されたか

『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』(笠原英彦、中公新書<中央公論新社>、20011125)

内容<作業中

はじめに
001 神話時代の天皇
第1代 神武天皇
031 古代の天皇
第5代 応神天皇
203 中世の天皇
第82代 後鳥羽天皇
265 近世の天皇
第108代 後水尾天皇
289 近現代の天皇
第122代 明治天皇
第123代 大正天皇
第124代 昭和天応
302 あとがき
307 天皇系図
323 年表
334 索引

BC級戦犯裁判

『BC級戦犯裁判』(林博史著、岩波書店<新書>、20050621)

内容<作業中

なぜ、いま戦犯裁判か
1 なぜ戦争犯罪が裁かれることになったのか
2 戦犯裁判はどう進んだか
3 八か国の法廷
1 イギリス
2 アメリカ
3 オーストラリア
4 オランダ
5 フィリピン
6 中国
7 フランス
8 ソ連
4 裁かれた戦争犯罪
1 アジア民衆への犯罪
2 捕虜への犯罪
3 女性への犯罪
5 裁いた者と裁かれた者
6 裁判が終わってー戦犯の釈放
BC級戦犯裁判とは何だったのか
あとがき
BC級戦犯裁判関係年表

昭和天皇の「極秘指令」

『昭和天皇の「極秘指令」』(平野貞夫著、講談社、20040410)

内容

まえがき 昭和天皇が託された願い1
前尾衆議院議長の遺言
昭和天皇のある「ご意志」16
核防条約に残された謎17
衆議院議長の真の力19
1 昭和天皇と田中角栄
自民党独裁政治の申し子24
社会的弱者の救済を26
権力の階段29
天皇のエリート官僚びいき31
アメリカの虎の尾34
田中首相は天皇が苦手35
外国人の天皇観を逆手に38
天命が田中角栄を見限った理由41
三木政権の功罪43
2 「ロッキード国会」の真相
原稿用紙三二九枚の覚書46
戦後最大のスキャンダルの裏側47
侍従長日記の興味深い記述50
捏造された診断書52
証人喚問が定着しないわけ55
国会決議は冷酒56
誰も予想しなかった「三木首相親書」58
前尾議長の斡旋に託す自民党62
衆議院議長が万能になる条件64
前尾議長に頼り切る三木首相66
社会党左派の誘い68
田中前首相への引退勧告70
「解散は絶対にさせない」72
CIA資金の行き先74
中曽根幹事長の奇妙な動き77
灰色高官公表に関する裏協定79
民社党の極秘工作82
3 衆議院議長の決意
解散阻止への異常なエネルギー86
外国からの資金提供と幹事長88
議長への「天の救い」91
鬼の形相92
憲政史上初の会談93
「宮本武蔵の心境か」96
議会政治史百年で初のケース98
テレビに出たいがために99
衆参両院議長の覚書の中身102
息を呑む書記長105
党首会談の早期開催への執念107
「なんとか今夜中に五党首会談を」109
一番長い日112
共産党・宮本委員長の仕切り114
鬼気迫る議長の執念116
核防条約にこだわる議長117
社会党・親中国派の反対120
戦後政治史の謎121
わずか一日の質疑125
その後のロッキード事件127
4 放置された核防条約
国会承認までに要した六年134
核防条約の真の狙い135
二つの意義136
不戦を誓った側面138
統一されなかった国論139
インドの核実験で昭和天皇は142
反対派の巧妙な抵抗144
自民党タカ派がつけた条件146
議長として最後の仕事149
前尾議長の奏上が長い理由151
各国元首の天皇への質問153
前尾議長が知った天皇のご心痛158
田中前首相逮捕の代償で160
奏上文に込めた遺志162
5 昭和天皇がもっとも信頼した政治家
内奏の部屋とは166
天皇がされた居睡りのあとで167
芸者遊びをお耳に入れた天皇は171
天皇のお気持ちを高松宮が173
死ぬまで国会議員をやる176
占領軍に抵抗して左遷178
衆議院議長が混乱を収拾する力180
防衛問題に対する昭和天皇のご発言182
6 昭和天皇と原子爆弾
最高の軍事機密「ニ号研究」188
海軍の原爆開発「F研究」191
天皇に叱責された東条英機194
原爆開発を裏づける議会証言197
足摺岬まで伝わっていた原爆開発200
東京大空襲のあと反対をしりぞけて視察203
戦争終結への一念206
八月二日までに「ポツダム宣言」を受諾していれば210
広島の真の惨状213
一時間ごとに状況をたずねられた天皇216
戦争終結への毅然たるお言葉218
小倉なら広島以上の犠牲222
トルーマン大統領のコンプレックス224
仁科博士が空から見た広島226
「私のことはどうなってもかまわない」227
「これでは国体は護持できない」230
軍部を説得された天皇232
涙を流される天皇235
日本が降伏した本当の理由236
「聖断」までの軍部との緊張241
広島で政治へのご不満を243
皇太子への手紙に示された真の姿246
7 天皇と憲法
天皇の政治的発言は禁じられているか250
奏上のたびに高まったお気持ち254
日本のためを考える人間同士として258
核問題についての昭和天皇の真意260
昭和天皇の深い苦しみ262
象徴天皇の「霊性」と憲法264
あとがき―昭和という時代の教訓268
年表272

象徴天皇がやって来る 戦後巡幸・国民体育大会・護国神社

『象徴天皇がやって来る 戦後巡幸・国民体育大会・護国神社』(坂本孝治郎、平凡社、19880810)

内容

まえがき
1 戦後地方巡幸と国民大会
 北海道新聞にみる1954年のコ-トシップ・ドラマ
はじめに
1 北海道巡幸と北海道国体
2 事前状況の構成
3 転換期のコートシップ・ドラマ
結びにかえて
2 静岡国体と護国神社参拝の開始
 静岡新聞にみる1957年の参拝キャンペーン
はじめに
4 1957年の参拝キャンペーン
5 1961年の参拝儀礼
1 皇族の護国神社参拝の状況
2 終戦儀礼と独立儀礼
3 佐賀県護国神社の象徴的意義
4 1971年の原爆慰霊碑参拝
結びにかえて
参考資料
関係年表 1945~61年
北海道新聞・関係記事年表 1954年6月~9月
北海道行幸啓日程(1954年)
天皇行幸一覧(1952~63年)
あとがき

主な学生運動<広島大学 >

主な学生運動<広島大学 >

年月日 事項
1950
0603 広島文理科大学自治会を中心に、イールズ声明反対・軍事基地化反対・全面講和を スローガンに全学決起大会を開催(開催場所不明)。
1952
0602 教養部学友会が学生大会を開催。約800人が参加し、破壊活動防止法(破防法)反 対を決議。ストライキの提案があったが、出席が過半数に満たず、賛成も3分の2 を上回らなかったため否決(開催場所不明)
0619  教養部生約800人が破防法反対決起大会を開催(開催場所不明)。大会後、約80人が 市内デモを実施。
1956
0602 平和と民主主義擁護委員会(文学部有志が結成)が教育3法案への抗議集会を開催 (開催場所不明)。約800人の学生が参加。
1957
1101 原水爆禁止広島協議会が原水爆禁止国際共同行動広島大会を開催(開催場所:広島 市役所南広場)。広島大学自治会連合会はストライキまたは授業放棄によって大会 に参加することを決定。広大生約600人、各団体から約500人が参加。
1958
0425 エニウェトク・クリスマス島水爆実験反対と勤務評定阻止全日本学生総決起大会を 開催(開催場所:原爆慰霊碑前)。約500人が参加。
0515 同上。約1,000人の学生 (広島大学以外も含む)が参加。大会後、デモ行進を実施
0626 広島大学自治会連合会が広島県警の学生スパイ強要事件に対して、スパイ活動強要 反対抗議集会を開催(開催場所:平和記念館前広場)。約1,000人の学生が参加。集 会後、デモ行進を実施。
1028  警察官職務執行法(警職法)改正反対運動のため、広島大学自治会連合会が完全授 業放棄を決定。本部・教養部の各門にピケを張り入構する学生を説得。午前と午後 の2回にわたり教養部校門前で抗議集会を開催し、デモ行進を実施。
1959
1030 教養部学友会執行部は午後からの授業放棄を決定。安保改定阻止全国学生統一行動 広島大会を開催。教養部学生約400人、文学部自治会・医学部生等約500人が参加(開 催場所:広島大学正門前)。集会後、デモ行進を実施。その際に計8人の学生が逮 捕される。
1960
0513 全日本学生自治会総連合の統一行動日に合わせて安保反対の総決起大会を開催(開 催場所:教養部中庭)。約500人の学生が参加。大会後、約70人がデモ行進を実施。 その後、本部で約30人が合流、15時に授業を終えた80人が合流。
0519 前日からストライキ実行委員会がバリケードを構築。当日は寮生を中心にピケ隊を 組織。8時半から約600人の学生が参加して総決起大会。大会後、約350人が デモを実施。13時半から約300人の学生が2回目のデモ行進を実施。その際に学生 1人が逮捕される。
0614 教養講堂で総決起集会。終了後、約500人がデモ行進。
0615 午前、午後の2回デモ行進を実施。参加者は約150人。 注:同日、国会前の抗議デモで東京大学学生の樺美智子が死亡。
0616 教養部で緊急学生大会開催。全日授業放棄を決定、10時ごろからデ モ行進を実施。約1,500人が参加(教養部生の他に、本部から学部生、大学院生、 教官等も参加)。その際に3人の学生が逮捕された。
0617 教養部生約250人、本部学部生・大学院生約400人がデモ。東雲 分校自治会、学生大会を開き初の市内デモを実施。
0618 広島平和公園で開かれた全階層中央集会に教養部生約500人、他学部 自治会約300人が参加。デモ行進の際に学生1人が逮捕される。東雲分校自治会 もデモを実施。水畜産学部・福山分校学友会も抗議集会を開き、初のデモ行進を 実施。
1962
0427 アメリカ太平洋核実験即時中止、ソ連核実験再開全体反対を掲げた日米英国際学生 統一行動を実施。教養部生約800人、学部生約500人が参加して抗議集会(開催場所: 広島大学正門前)を開催後、デモ行進を実施。文・教育学部自治会は核実験問題に ついて討論集会を開催。
1965
0513 千名デモ実行委員会がベトナム戦争反対集会を開催。約700人が参加。 注:この前後にも相次いでベトナム戦争反対の集会・デモ。
1028 日韓基本条約批准への抗議集会後、約300人がデモ行進を実施。その 際に学生1人が逮捕された。これに対してデモ隊が広島西警察署に抗議活動を 行ったところ、無届け集会という理由で学生2人が逮捕される。
1029 昼食時に抗議集会、その後、約250人が広島西警察署に抗議活 動を行い、無届けデモという理由で学生2人が逮捕される。放課後、抗 議集会とデモが行われ約500人が参加。
1967
1021  「10.21国際反戦統一行動」に応じて、広島大学自治会連合会が集会を開催。他大学 も含め約800人が参加。集会後、市内デモを実施。
1968
0529 教養部学生大会を開き、ベトナム戦争反対等を掲げたスト決行を決議 (賛成807、反対428、無効247)。大会後、150~200人の学生が学内デモを行い、教養部校舎の出入り口にバリケードを築くとともに、本部キャンパスの門を封鎖。
0530 午前中に教養部学友会は総決起集会。13時から広島大学自治会 連合会が全学集会を開催。集会後、約700人が広島市内で、約400人が呉市広で、 それぞれデモ行進を実施。このうち呉市広のデモで学生11人が逮捕される。
出典:『広島大学二十五年史』通史317~378、391~395、402~407頁

 

参考:「3章 高度経済成長下の広島大学 2節 大学紛争」『広島大学75年史通史編』

1 学生運動の変化
表3-8 主な学生運動(広島大学)
2 広大紛争の発生とキャンパスの封鎖
全国の状況
広大全共闘の発足と8項目要求
教養部学友会のスト決議・突入
川村学長の辞任と学部の封鎖
飯島学長の選出と団体交渉の実施
封鎖解除

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『皇室の20世紀 隔週刊DVD付きマガジン』(小学館刊)

発行年月日 タイトル
2010
1 0323 世紀のご成婚
2 0406 天皇皇后両陛下 日本全国への旅 国民に寄り添われるお姿
3 0420 昭和天皇の思い出  国民の幸せを願われたご生涯
4 0511 浩宮さま・礼宮さま・紀宮さま
5 0525 天皇陛下ご即位20年の歩み 国と国民に尽くすお志
6 0608 素顔の皇后美智子さま 慈愛に満ちたまなざし
7 0622 皇太子さま・雅子さまのご成婚 華麗なる平成絵巻
8 0706 天皇皇后両陛下国際親善の旅 世界を巡るふれあいのアルバム
9 0720 秋篠宮さま・紀子さまの絆 微笑みの日々を重ねられて
10 0803 敬宮愛子さまのご成長 皇太子ご一家の歩み
11 0817 昭和天皇戦後のご巡幸 復興から平和へ願いを込めて
12 0831 秋篠宮家のお子さま方 眞子さま、佳子さま、悠仁さまのご成長
13 0914 宮中晩餐会のすべて 世界の要人へのおもてなしの数々
14 0928 天皇陛下仕事でつづるお人柄ご多忙を極める365日
15 1012 美智子妃殿下から皇后陛下へ 50年の輝きとご足跡
16 1026 紀宮さま嫁がれるまでの日々  皇室ご一家に慈しまれた内新王
17 1109 昭和・平成の園遊会  皇室と時の人々とのご歓談
18 1122 被災地の復興に心を寄せられて
19 1207 皇太子三代の横顔  立太子礼とご活躍をたどる
20 1221 皇后美智子さまのお仕事
2011
21 0111 宮中の儀式と行事で新年を寿ぐ
22 0125 心に響くおことば集  天皇皇后陛下が述べられた御心の数々
23 0208 華麗なる皇室ファッション  皇后美智子さまの優雅な着こなし名場面集
24 0222 悠仁さまと秋篠宮の素顔
25 0308 地方ご訪問での出会い
26 0322 知られざる皇室のすべて
27 0405 六つの宮家
28 0419 皇族方の国際親善
29 0510 皇室の福祉への思い 明治から始まった活動とご訪問
30 0524 皇室とスポーツ素顔のひとときを追つて
31 0607 御用邸でのやすらぎ 皇室ご一家のご静養
32 0621 香淳皇后と皇后美智子様の微笑
33 0705 芸術に触れるひととき
34 0719 天皇皇后両陛下平和への祈り 慰霊の旅の記録
35 0802 皇室と王室との交流
36 0816 東宮ご一家、秋篠宮ご一家に囲まれて
37 0830 皇室の方々のご研究 ご公務の合間を縫って打ち込まれる分野
38 0913 皇后美智子さまと女性皇族方の輝き
39 0927 「励ましと祈り」の全記録
40 1011 天皇皇后両陛下 次世代への願い

 

戦争をしない国 明仁天皇メッセージ

『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』(矢部宏治<文>須田慎太郎<写真>、小学館、20150705)

内容<作業中

I  shall be Emperor
慰霊の旅・沖縄
国民の苦しみと共に
近隣諸国へのメッセージ
戦争をしない国
美智子皇后と共に
あとがき
付録 世界はなぜ、戦争を止められないのか―国連憲章と集団的自衛権