2024年12月(日録)
日 | できごと |
01 | (日) |
02 | |
03 | |
04 | |
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06 | |
07 | |
08 | (日) |
09 | |
10 | ノーベル平和賞受賞式 |
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15 | (日) |
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22 | (日) |
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28 | |
29 | (日) |
30 | |
31 | |
ヒロシマ遺文への投稿=「」 |
止
2024年12月(日録)
日 | できごと |
01 | (日) |
02 | |
03 | |
04 | |
05 | |
06 | |
07 | |
08 | (日) |
09 | |
10 | ノーベル平和賞受賞式 |
11 | |
12 | |
13 | |
14 | |
15 | (日) |
16 | |
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21 | |
22 | (日) |
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27 | |
28 | |
29 | (日) |
30 | |
31 | |
ヒロシマ遺文への投稿=「」 |
止
2024年11月(日録)
止
2024年10月(日録)
日 | できごと |
01 | |
02 | |
03 | ヒロシマ遺文への投稿=「空襲通信記事目録(抄)」、「2024年10月(日録)」 |
04 | |
05 | |
06 | (日) |
07 | |
08 | |
09 | |
10 | |
11 | |
12 | |
13 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「香川亀人」、「資料年表:香川亀人」 |
14 | (スポーツの日) |
15 | |
16 | ヒロシマ遺文への投稿=「ドロッシィ・デッソー」、「ミス・ドロシー・デッソー 日本における生活と事業」 |
17 | ヒロシマ遺文への投稿=「奉仕の人・宇根実評伝」、 |
18 | ヒロシマ遺文への投稿=「『民生事業概要 昭和47年版』(広島市社会課)」 |
19 | |
20 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「ひろしまの福祉五十年」 |
21 | |
22 | |
23 | |
24 | ヒロシマ遺文への投稿=「被害者をめぐる今日までの動き」、「人間に未来はあるのか-ある物理学者の問い」 |
25 | |
26 | |
27 | (日) |
28 | |
29 | ヒロシマ遺文への投稿=「公開質問状(国鉄労働組合広島地方本部執行委員長→ABCC所長)」 |
30 | ヒロシマ遺文への投稿=「原水爆禁止世界大会(第1回)関係資料」 |
31 | ヒロシマ遺文への投稿=「広島市文化団体協議会決議」 |
ヒロシマ遺文への投稿=「」 |
止
2024年9月(日録)
日 | できごと |
01 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「2024年9月(日録)」 |
02 | |
03 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:呉空襲を記録する会」 |
04 | |
05 | |
06 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉戦災を記録する『1フィート運動呉市民の会』結成のご案内」 |
07 | |
08 | (日)ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:岡田智晶」 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉を語る 呉市制一〇〇周年記念 体験手記集 詳細」 |
10 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉・戦災と復興-旧軍港市転換法から平和産業港湾都市へ」 |
11 | |
12 | |
13 | |
14 | |
15 | (日) |
16 | (敬老の日) |
17 | |
18 | ヒロシマ遺文への投稿=「全国主要都市概況図(第2次補備調査)」 |
19 | |
20 | ヒロシマ遺文への投稿=「追憶―平和への切なる願いを込めて― 国民学校入学1期生が綴る戦中・戦後体験記」 |
21 | |
22 | (日)(秋分の日)ヒロシマ遺文への投稿=「北川健次」、「呉空襲体験記 第1集」 |
23 | (振替休日) |
24 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:大田英雄」、「戦跡よ語れ 呉の平和な未来を―呉戦災フィールドワークの手引き」。 |
25 | |
26 | |
27 | 自民党の総裁選挙。石破茂が第28代総裁に選出される。 |
28 | |
29 | (日) |
30 | |
ヒロシマ遺文への投稿=「」 |
止
『広島県女性運動史』(鈴木裕子、ドメス出版、19850225)
内容
章 | |||
まえがき | |||
1 | 解放への胎動-広島県が生んだ明治社会主義者・神山松子 | ||
2 | 婦人運動の開始とともに | ||
3 | 立ちあがる女工 | ||
4 | 婦人運動の発展 | ||
5 | 共産主義の旗をかかげてー嵐の中の女性たち | ||
6 | 戦時下の婦人国民精神総動員強調週間 | ||
終 | 戦後の婦人運動 | ||
講和発効後の婦人運動 | |||
県婦協の発足と原水禁100万人署名運動 | |||
広島子どもを守る会の結成 | |||
第1回広島県母と女教師の集い | |||
広島県農協婦人組織連絡協議会の結成 | |||
第1回広島県働く婦人の集い | |||
第1回広島地区母親大会 | |||
60年安保闘争と婦人運動の前進 | |||
あとがき | |||
止
2024年8月(日録)
日 | できごと |
01 | ヒロシマ遺文への投稿=「2024年8月(日録)」 |
02 | |
03 | |
04 | (日) |
05 | |
06 | |
07 | ヒロシマ遺文への投稿=「社説・論説20240806」、「第九条の会ヒロシマ」、「」、 |
08 | ヒロシマ遺文への投稿=「スターリンと原爆(上)(下)」 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿=「広島県健康福祉局被爆者支援課『原爆被爆者援護事業概要』」 |
10 | ヒロシマ遺文への投稿=「戦後における京都府政の歩み」 |
11 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「アメリカは有罪だった 核の脅威の下に」 |
12 | (山の日の振替休日) |
13 | ヒロシマ遺文への投稿=「征きて還らず <広島県三原市戦没者遺族会婦人部>」 |
14 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉戦災 あれから60年」 |
15 | |
16 | |
17 | ヒロシマ遺文への投稿=「複製資料目録 第1集(県内編)」 |
18 | (日) |
19 | ヒロシマ遺文への投稿=「今、平和のために 戦災・空襲を記録する会全国連絡会議第10回記念那覇大会報告書」 |
20 | ヒロシマ遺文への投稿=「日本平和論大系」 |
21 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉戦災を記録する会会報」、「呉戦災を記録する会会報No.4」 |
22 | |
23 | ヒロシマ遺文への投稿=「くれ 呉市政だより 戦後30年特集号」 |
24 | |
25 | (日) |
26 | |
27 | |
28 | |
29 | ヒロシマ遺文への投稿=「呉海軍工廠電気実験部の記録」 |
30 | |
31 | ヒロシマ遺文への投稿=「聞き書 ふるさとの戦争 徴用は山河に及び」、「広島県女性運動史」 |
止
資料年表:宇吹暁の8・6<2001年~><敬称略><作業中>
年 | 事項 | |||||||||||||||||||||
2001 | ||||||||||||||||||||||
07:30 | 出勤。タクシーで平和記念式典会場へ。西垣学長、村松、岡本三夫と原爆ドーム前で会う。小泉の挨拶の内容に「平和憲法」・「非核三原則」という言葉があったので、わが耳をうたがったが、その他はひっかかるところなし。問題は、この挨拶と靖国参拝が同一人物で重なること。 | |||||||||||||||||||||
09:10 | 広島女学院上幟町校地到着。 | |||||||||||||||||||||
被爆56周年平和祈念式。於・上幟町校地・慰霊碑前。キリスト教主義大学ジョイント8・6平和学習参加の学生も含め盛会。西垣学長が、挨拶の中で私の名前をあげる。女学院高校の生徒が挨拶。加害についても考える必要があるとの内容。 | ||||||||||||||||||||||
10:40 | Oが一生懸命撮影してくれる。だいぶ疲れた様子。終了後、休憩室で湯茶をよばれ、Oは帰宅。 | |||||||||||||||||||||
11:30 | キリスト教主義大学ジョイント8・6平和学習で講演。小泉首相と女学院高校生徒の挨拶を取り上げる。-12時半。西垣学長から、他校の慰霊式典の様子を聞かれる。NからTシャツを貰う。Nの話=謝礼を次回の給与に振り込む。昼食を一緒に摂り、退席。 | |||||||||||||||||||||
13:00 | 原爆被害者8・6証言のつどい20周年のつどい。於:広島YMCAコンベンションホール。M・S(広島県立保健福祉大学)・S・Nと話す。Iに続いて挨拶を求められる。-2時半に中途退席。タクシーで大学に戻る。 | |||||||||||||||||||||
13:01 | M=広島国際大学は、まもなく辞めるつもり。S=来年の非常勤は宇吹の名前で予算要求しているのでよろしく。今年は福島生協病院の?に依頼した。N=8月23日にアメリカに戻る。原爆の絵とともになつかしの広島を描いた絵も全部閲覧できた。?が親切に応対してくれた。 | |||||||||||||||||||||
15:00 | K(共同通信)より大学へ電話。被爆体験継承策についての見解を聞かれる。 | |||||||||||||||||||||
2002 | ||||||||||||||||||||||
自宅で早朝から採点。8時の平和式典中継を見て、出勤。広島駅で今朝の朝刊を購入。 | ||||||||||||||||||||||
10:00 | 校内で*と彼女の姉母子と会う。私の研究室でコーヒーを飲みながら30分ほど話す。姉は、広島大学の国際協力研究科(修士)を卒業し、現在女学院英米文学博士過程に在籍中とのこと。父親が、鉱山関係の研究者とのこと。中国の核実験などについて話す。 | |||||||||||||||||||||
15:00 | 2002年度「8・6平和学習プログラム」。於:広島女学院幟町校地内。2時30分、印パ学生との交流会の最後に加わる。3時~4時半、まとめの集会で発言。終了後、帰宅。 | |||||||||||||||||||||
2003 | ||||||||||||||||||||||
09:00 | 広島駅新幹線口で今日の新聞を購入して出勤。広島女学院被爆58周年平和祈念式には参列せず。全国各新聞社のホームページで社説をチェック。文化史学の採点。帰宅後、夜中までかかり一応終了。 | |||||||||||||||||||||
18:30 | NHK総合テレビで朗読劇「夏雲」の模様を簡単に紹介。翌日Tから聞いた話では、折鶴が焼かれた事件のため、放映時間が短くなった由。 | |||||||||||||||||||||
2004 | ||||||||||||||||||||||
07:00 | 講座「ヒロシマ」:市民球場バス停へ。7:30集合だったが関西学院一行は、7:00に集まる。長富健三(中国新聞・論説委員)もしばらく取材。天風録で取り上げる由 | |||||||||||||||||||||
07:20 | 「せこへい」の碑前で沢野(安田高校)で出会ったので、碑の説明を講座「ヒロシマ」参加者向けにしてもらう。 | |||||||||||||||||||||
07:30 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(広島市平和式典参列)。*(関西学院大学商学部4年)を含む第9グループがNHKの取材を受けるため、式典会場に一緒に座る予定であったが、会うことが出来ず。別々に会場に座る。「8・6平和セミナー」と会う。 | |||||||||||||||||||||
09:00 | 講座「ヒロシマ」:広島女学院高校へ移動。 | |||||||||||||||||||||
10:00 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(広島女学院原爆死没者追悼式典参列)。*が在学生代表で挨拶。総務の職員と課長クラスが総動員されていた。英文関係の顔が見えず。 | |||||||||||||||||||||
11:00 | 講座「ヒロシマ」:「原爆の絵碑」除幕式。早坂暁・森本順子も参列。*の話では、早坂暁には旅費は出さず、森本順子にはオーストラリアから来日する旅費を出したとのこと。講座「ヒロシマ」のメンバーはほとんどが参列せず。 | |||||||||||||||||||||
11:30 | 講座「ヒロシマ」:女学院中学高等学校の食堂で昼食。当初、関西学院大学の学生は夜8時に集合の予定であったが、彼らがコンサートに参加することになっており、集合時間を9時半まで延長することを私からアナウンス。 | |||||||||||||||||||||
13:00 | 講座「ヒロシマ」:現地実習(平和公園碑めぐり、原爆資料館見学などグループごとに)。 | |||||||||||||||||||||
13:10 | *と大学に戻る。直後に*と*、来室。広告のレポートについて二人で検討。2時間ほど研究室で寝る。「アジアの中のヒロシマ」の資料を作成。 | |||||||||||||||||||||
15:30 | *より電話。講座「ヒロシマ」でビデオを上映したい由。 | |||||||||||||||||||||
20:00 | 講座「ヒロシマ」の学生に会うため、平和公園へ。関西学院大学の学生は、8:45に市民球場前に集合することにしていた。歩いて広島女学院中学・高等学校へ。最後まで付き合った女学院学生は4人。その一人*を広まで送って10時過ぎ帰宅。*は広島大学国際協力研究科の事務職員とのこと。 | |||||||||||||||||||||
2005 | ||||||||||||||||||||||
06:30 | 広島駅の駐車場に車を置き、駅の売店で新聞を購入。日経が昨日の模様を大きく掲載。電車で市民球場南側へ。07:15関西学院大学のバス到着。まとまった班から平和公園へ。*・*も来る。デジタルビデオカメラでの撮影を依頼。 | |||||||||||||||||||||
08:06 | 集中ヒロシマ(第2日)④⑤現地実習(広島市平和式典参加)。会場内に空席が無く、式典会場の西側へ。翌朝の報道では5万5000人が参列。学生とはぐれ、式典の最中に出口付近に移動して待ったが会えず。最後までいたとのことで、ほとんどが女学院慰霊祭に遅刻。 | |||||||||||||||||||||
2006 | ||||||||||||||||||||||
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2007 | ||||||||||||||||||||||
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2008 | ||||||||||||||||||||||
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2009 | ||||||||||||||||||||||
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2010 | ||||||||||||||||||||||
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2011 | ||||||||||||||||||||||
呉駅-0711広島駅。宮島行広電で原爆ドーム前へ。11本通り-熊野団地入口。12時帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2012 | ||||||||||||||||||||||
焼山発の広電バスで広島へ。8時に平和公園到着。正午過ぎまで市内で資料収集と写真撮影。むさしで昼食。一気に疲れが出たので、広島バスセンターから帰路へ。~12時。 | ||||||||||||||||||||||
野田首相挨拶=原稿に目を向けたまま顔を上げず。棒読み。献花=内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、外務大臣、厚生労働大臣・・・・・。広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式典。 | ||||||||||||||||||||||
旧日本銀行広島支店。せこへい美術館。澤野と話す。佐々木の兄と黒瀬の紹介で会ったことがある由。 | ||||||||||||||||||||||
ウェブ上の地方紙の8・6社説をチェック。翌日も補遺作業。原発に言及するものもあり。 | ||||||||||||||||||||||
2013 | ||||||||||||||||||||||
06:42広電昭和支所ー7:37中電前ー平和公園ー9:12国際会議場ー篠原収と会うー「光の肖像展」-平和大通り(第一県女)ー旧日銀・せこへいーバスセンター12:13-13:13昭和支所ー13:30帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2014 | ||||||||||||||||||||||
広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式。 | ||||||||||||||||||||||
2015 | ||||||||||||||||||||||
08:00被爆70年。広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式。式典終了後、篠原収・田城明と会う。 | ||||||||||||||||||||||
本川学区慰霊碑(正面)慰霊之碑(裏面)為原爆死没者 昭和三十二年八月六日建之 本川学区内有志〔説明板〕此の慰霊碑は過ぐる昭和二十年八月六日原爆投下された際本川地区一帯の死亡者数千の遺体を本川小学校内に集め、焼却された遺骨を此の位置にあった空鞘町防空壕内に埋没されたのであります。その後遺骨は平和公園内の供養塔内に移したのですが、永く此の聖地を記念しその英霊を慰めるため、地区内有志相寄り此の慰霊碑を建立したのであります。合掌 昭和四十年八月本川地区町民有志本川町三丁目町内会 | ||||||||||||||||||||||
2016 | ||||||||||||||||||||||
広島市平和記念式典の周辺を取材。昨年・一昨年と供養塔前に置いてあった平和のメッセージが今年はなかった。旧日銀・袋町・県立体育館を回り、1時過ぎのバスで帰宅。 | ||||||||||||||||||||||
2017 | ||||||||||||||||||||||
広島市平和記念式典に参列・取材。旧日本銀行広島支店などを覗く。 | ||||||||||||||||||||||
2018 | ||||||||||||||||||||||
07:30 昭和市民センター発のバス(始発)で広島へ。8時過ぎ、平和公園に到着。 | ||||||||||||||||||||||
2019 | ||||||||||||||||||||||
広電バス・昭和市民センター前 | ||||||||||||||||||||||
08:00原爆犠牲ヒロシマの碑8;00 全損保8:13、供養塔茶席08:30、9:16嵐の中の母子像。9:48NHK、 | ||||||||||||||||||||||
22:00NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~ 」(50分)。 | ||||||||||||||||||||||
2020 | ||||||||||||||||||||||
読売・毎日・日経・産経をコンビニで購入。 | ||||||||||||||||||||||
08:15 黙とう呼びかけの呉市からの町内放送に合わせ1分間の黙とう。 | ||||||||||||||||||||||
2021 | ||||||||||||||||||||||
広島平和公園へ。原爆死没者慰霊行事に参列。原爆ドーム北側などを取材撮影。―07:26。 | ||||||||||||||||||||||
広島大学「平和と人間D」期末レポート採点表、メール添付で返送。 | ||||||||||||||||||||||
10:30 そごう駐車場―平和公園―広島県動員学徒犠牲者の会―原爆の子の像―原爆ドーム―原爆慰霊碑―花輪―撤去表(北辰映電)―献花―小倉桂子―peace run clubー平和の鐘を吊るす装置―巨大スクリーン―原爆慰霊碑―会場テント内―平和記念式典に寄せられたメッセージ―温井慰霊碑―造船工慰霊碑―教師と子どもの像―損保慰霊碑―湯川秀樹歌碑―原爆資料館―嵐の中の母子像―原爆資料館時計―ローマ法王碑―被爆ピアノ11:09―<全損保―被爆遺構―レストハウス>―そごう地下で昼食用弁当― | ||||||||||||||||||||||
「47ニュース」で社説・論説をチェック。https://www.47news.jp/news/column/shasetsu | ||||||||||||||||||||||
2022 | ||||||||||||||||||||||
自宅発―広島平和公園。 | ||||||||||||||||||||||
2023 | ||||||||||||||||||||||
読売・毎日など購入。 | ||||||||||||||||||||||
ヒロシマ遺文への投稿=「社説20230806」 | ||||||||||||||||||||||
2024 | ||||||||||||||||||||||
止
資料年表:宇吹暁の8・6<1967~2000年><敬称略>
年 | ||
1967 | 平和式典・第13回原水爆禁止世界大会広島大会 | |
1980 | 家族で東北旅行。5-9日。民宿千葉荘泊.岩手県肝沢郡衣川村. | |
1981 | 大山登山。5-7日。 | |
1982 | 年休。世界大会援護法関連分科会に出席. | |
1983 | ||
1984 | 広島大学慰霊祭に出席。熊田重邦夫人と会う。 | |
1984 | 原水禁大会(統一)分科会。於竹屋小学校。北西が運営委員として参加。 | |
1985 | 広島大学本部慰霊祭に参列. | |
1986 | 広島大学慰霊祭参列.8月7日、五日市ユソフ忌に参列。 | |
1987 | ||
1988 | ||
1989 | 広島大学慰霊行事参列. | |
1990 | 広島大学原爆死没者慰霊行事参列。 | |
1991 | 自宅を出発。7時過ぎより広島市の原爆死没者慰霊式・平和祈念式に出席。Sと。 | |
1991 | Oに広島市所蔵の死没者名簿の閲覧について伝える。8月下旬に閲覧とのこと。宇吹も一緒に行くから連絡されたしと伝言。 | |
1991 | 広島市立中央図書館の正田篠枝展を観る。 | |
1991 | 国際平和シンポジウム。-16時。疲れてほとんど寝ていた。これまでの国際シンポにも共通した感想だが、国内からのパネラーの質が悪い。 | |
1992 | 広島大学原爆死没者追悼式。Hと参列。Hによれば参列者数は約100人。OにHを紹介。 | |
1992 | 「世界遺産条約資料集1・2」届く。剄草書房へ「核兵器廃絶の思想と運動」のゲラを返送。 | |
1992 | 放影研でH・H・Mと会う。Hは、役人の天下りのようで、資料のことに詳しかった。年表と国会議事録の作業を進めることを伝える。私の補助者が問題であったようだが、検討期間を貰い、8月末か9月初に返事することにした。 | |
1992 | 粟屋憲太郎来所。「ブルータス」への連載の取材で初めて来広した由。「平和記念式典の歩み」を贈呈。6時ごろから黄金山を案内し、椿亭で夕食。来年、研究休暇が取れるのでオーストラリアへ行くとのこと。 | |
1993 | 広島大学の追悼式を欠席。 | |
1993 | 藤居より電話。吉田嘉清が午前中に来てくれた。彼が統一の仲介をしてくれと私を訪ねてきたのは1977年。佐久間・庄野・石井が一緒だった。吉田は1984年に除名。 | |
1994 | Kの運転で海田市駅まで行き、朝日・毎日・中国・読売の各紙を購入。1紙=110円。呉駅の8番レンタカーで軽トラックを予約。4000円。マーチの自動車保険契約変更(健の運転に伴う)代金2万6160円を支払う。 | |
Sへ順子と一緒に行く。電気・対面式台所・風呂等の検討。地鎮祭と柱建ての日程を決定。2時過ぎ、帰宅。荷物の一部を健と借家に運ぶ。6時、家族で出来庭に行き夕食。 | ||
1994 | 順子と、*・**・***に引っ越しと新築工事について挨拶に行く。 | |
1995 | 呉駅で各新聞を購入。 | |
1995 | 自宅のテレビで平和記念式典の中継を観る。4時過ぎのRCC「8月6日のヒロシマ」でマンハッタン調査団の映像への私のコメントが放映される。午後9時からの「調査報告・地球核汚染-ヒロシマからの警告」を観る。1日、自宅で新聞の整理。 | |
1996 | 年休をとる。5時に起きて原医研へ寄りNHKへ到着。*・*と一緒に平和公園へ行き、6時半、慰霊碑への石段下西側の記者席に着席。*(東京・NHKラジオセンター)がプロデューサー格で加わる。 | |
1996 | *とのリハーサルの時、*から総理挨拶を批判するよう勧められる。「あなたがそう思わないなら言わなくても良いが、もし思っているのなら・・・」という形で。 | |
1996 | 平和式典会場の上空にヘリコプター2機。朝日とまともに向き合う席ではなはだ暑い。8時前、平岡市長が近くに来て立っているので何ごとかと思ったら、橋本総理を出迎えるため。二人は挨拶を交わしていたが、こうした場合何を言い合うのか。 | |
1996 | 開式前、*は短い現場中継、その後、式典の進行については簡単に打ち合わす。私は準備した原稿の趣旨の半分も話せず。一般参列者としては、随分長く感じたが、今回はあっと言う間に1時間が過ぎた。 | |
1996 | 終了後県立体育館に寄ったが成果無し。バスセンターで新聞各紙を購入して原医研に帰る。寝不足で仕事にならず、そのまま帰宅。昼食後、3時まで寝込む。 | |
1997 | 自宅で平和式典中継を見る。出勤途中で、広島駅により日経と産経を購入。 | |
1997 | 広島市立中央図書館で「しるされた被爆体験」展を見る。*娘が受付。*が案内してくれる。峠・正田の原稿がきれいに残っているのに驚く。文学資料保全の会からは、寄贈を受けた形になっているが、まだ正式に受け入れ手続きはしていない由。 | |
1997 | 広島県立総合体育館の原水禁大会の会場へ。書籍を購入。森脇・湯川の顔を見る。 | |
1997 | 広島原爆資料館で「きのこ雲の下に子どもたちがいた」を見る。漫画でわかりやすくした展示。一瞬「ムッ」としたが、見進むうちに感心する。*と話す。ハーウィットがこの展示を誉めた由。尾津の紙芝居も好評。 | |
1997 | Kの話=市長?は、レストハウスへの文化庁の保存要請について、それなら文化財に指定してもらえ、と言っている。レストハウス保存に方針転換するには、共産党に手柄を立てさせることになる、という議会内の反発がある。 | |
1997 | Y(NHK広島放送局)来所。明日東京へ転勤、新聞社のデスクに相当する役。もっと実際に番組作りに携わりたかった、また、歴史番組が作りたかったとのこと。 | |
1997 | NHKスペシャル「姿なき核開発・核兵器最前線で何が起きているのか」を見る。 | |
1998 | 早朝出勤。荒神堂に向かう赤バスの中でコンスタンチノフと会う。市の平和式典に参列するとのこと。 | |
1998 | 荒神堂到着。山中高女の追悼式に最前列で参列。8時前から読経。8時半、終了。A夫人と会う。第二県女の慰霊祭は被爆50周年で止めたが、この式には出席しているとのこと。 | |
1998 | 平和公園内を一周し写真を撮る。県立体育館前でSと会う。彼の話では、右翼がたくさん来ていた由。中央公園まで歩く。 | |
1998 | 広島大学原爆死没者追悼式。M・U・Oらと会う。Uの母は山中の教師をしていたので、彼も荒神堂に行っていた由。学長が式辞の中で、インド・パキスタンの核実験に対する怒りを表明。 | |
1998 | 昼過ぎに原医研に戻ってから、インターネットで各新聞を閲覧。6日新聞の整理。ホームページアクセス788件。 | |
1998 | M母子3人が来宅していた。Kが順子の土産、イタリアサッカーチームのユニフォームを喜ぶ。 | |
1999 | 広島市平和公園へ。平和式典の会場周辺で模様を撮影。N(中島本町の平和観音像前)・諏訪住職(レストハウス)・Y(そごう前)と会う。Nの話=今年は、空の椅子が目立つ。 | |
原医研へ出勤。YAHOO!JAPANから「新着情報」に私のホームページを紹介したとのメール。アクセスカウントが急上昇する。と同時に壊れる。Hが心配して別のアクセスカウントを入れてくれる。 | ||
I(中国)より電話。今年の平和宣言について。私の感想=わかりやすくて好感が持てた。 | ||
朝からインターネットで地方紙の8・6社説の確認。ホームページに、組合の碑めぐりや今日の平和公園の模様を加える。 | ||
2000 | 休日出勤。平和記念式典に出席。公園でM(中国)と会う。10時前研究所へ帰る。10時まで、新聞とデジカメで撮影した式典のデータの整理。 | |
HPC<宇吹のホームページのアクセス数>=14673(rbm)3711(lec)6512(hist)。 | ||
止
2024年7月(日録)
日 | できごと |
01 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:石垣重信」 |
02 | ヒロシマ遺文への投稿=「広島県市町公文書等保存活用協議会(略称:広文協)」、「『ふるさとを訪ねて9 広島』」、「渡部正」 |
03 | ヒロシマ遺文への投稿=「原爆の証言」 |
04 | ヒロシマ遺文への投稿=「オバマの誤算-「チェンジ」は成功したか」 |
05 | |
06 | ヒロシマ遺文への投稿=「毛沢東研究序説」、「レッド・パージとは何か 日本占領の影」 |
07 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「朝鮮戦争は誰が起したか」 |
08 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:吉田茂」、「日本の志」 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿=「非核護憲都市宣言運動のすすめ」、「平和は歩いてこない」、「シンポジウム 今なぜ非核自治体か」、「シンポジウム 核兵器廃絶の展望を探る」、「歴史教育シンポジウム記録集 1995~1999年」 |
10 | ヒロシマ遺文への投稿=「小笠原臣也」、「23森井忠良」、「明日を創る―提言・新世紀の社会保障」、「広島県労働者学習協議会」 |
11 | |
12 | |
13 | ヒロシマ遺文への投稿=「東洋工業労働者のたたかいとともに」 |
14 | (日) |
15 | (海の日)ヒロシマ通信への投稿=「資料年表:宇吹暁の8・6<1967~2000年>」、「資料年表:宇吹暁の8・6<2001年~>」 |
16 | ヒロシマ遺文への投稿=「みんなでつくろう住みよい焼山」 |
17 | |
18 | ヒロシマ遺文への投稿=「家永三郎」 |
19 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:家永三郎」 |
20 | ヒロシマ遺文への投稿=「大塚茂樹」 |
21 | (日) ヒロシマ遺文への投稿=「『家永教科書裁判 被告側証人』(抄)」 |
22 | ヒロシマ遺文への投稿=「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会ニュース」 |
23 | |
24 | ヒロシマ通信への投稿=「旧4軍港都市の平和運動代表による「非核サミット」の記録」 |
25 | |
26 | |
27 | ヒロシマ遺文への投稿=「オリンピックと日本スポーツ史」、「資料年表:オリンピック」 |
28 | (日) |
29 | ヒロシマ遺文への投稿=「広島県労働年鑑 1952~」 |
30 | |
31 |
2024年6月(日録)
日 | できごと |
01 | |
02 | (日) |
03 | |
04 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1956一覧」、「書誌1957一覧」、「書誌1958一覧」 |
05 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1959一覧」 |
06 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1960一覧」、「書誌1961一覧」、「書誌1962一覧」、「書誌1963一覧」、「書誌1964一覧」、「書誌1965一覧」、「2024年6月(日録)」、 |
07 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1966一覧」、「書誌1968一覧」、「書誌1969一覧」、「書誌1970一覧」、「書誌1971一覧」、「書誌1972一覧」、「書誌1973一覧」、「書誌2005一覧」、「書誌1974一覧」 |
08 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1975一覧」、「書誌1976一覧」、「書誌1977一覧」、「書誌1978一覧」、 「書誌1979一覧」、「書誌1980一覧」、「書誌1981一覧」、「書誌1982一覧」、 |
09 | (日)ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1983年一覧」、「書誌1984一覧」、「書誌1985年一覧」、「書誌1986一覧」、「書誌1987一覧」、「書誌1988一覧」、「書誌1989一覧」、「書誌1990一覧」、 |
10 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌1991一覧」、「書誌1992一覧」、「書誌1993一覧」、「書誌1994一覧」、「書誌1995一覧」、「書誌1996一覧」、「書誌1997一覧」、「書誌1998一覧」、「書誌1999一覧」、「書誌2000一覧」、「書誌2001一覧」、「書誌2002一覧」、「書誌2003一覧」、「書誌2004一覧」、「書誌2005一覧」、 |
11 | |
12 | ヒロシマ遺文への投稿=「“戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録」、「追悼上野英信」 |
13 | ヒロシマ遺文への投稿=「鎌田定夫」、「時代を生きて 文集・鎌田定夫」 |
14 | |
15 | ヒロシマ遺文への投稿=「書誌2006一覧」 |
16 | (日) |
17 | |
18 | |
19 | |
20 | |
21 | |
22 | |
23 | (日) |
24 | ヒロシマ遺文への投稿=「資料年表:文沢隆一」 |
25 | ヒロシマ遺文への投稿=「日の丸・君が代の戦後史」 |
26 | |
27 | |
28 | ヒロシマ遺文への投稿=「戦争遺跡は語る」 |
29 | |
30 | (日) |