資料1949年日本製鋼所広島製作所争議
止
資料1949年日本製鋼所広島製作所争議
止
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案)
広島大学蔵 |
原爆にたをれむ人もやすらかに平和の光受けて眠らむ
広島平和記念都市建設方案 (昭和24.9.20立案) |
企画部 | 建設構想の研究、実施の促進 | ||
建設法に伴ふ国家各機関との交渉 | ||||
建設予算編成と財源捻出(県市、国家、外国) | ||||
都市形態整備 | 特殊的 | 記念保存物調査決定(産業奨励館、原爆十景等) | ||
新建設物 | 慰霊塔(平和塔) | |||
記念館 | ||||
美術館 | ||||
科学館 | ||||
一般的 | 土木工事 | 道路 公園 | ||
軌道 ガス | ||||
上下水道 | ||||
橋梁 | ||||
建築工事 | 公共文化、社会事業的建造物 | |||
個人住宅 | ||||
内容充実 | 霊場設置 | 二十万犠牲者の鎮魂場 | ||
原爆資料 | 実物、写真 | 調査蒐集 | ||
文書、統計 | ||||
平和精神涵養 | 講演会(教育、宗教、文化団体連絡) | |||
雑誌(平和協会ヨリ発行) | ||||
市旗(平和都市象徴・各戸掲揚) | ||||
平和祭発展 | 行事の研究(世界的構想へ) | |||
市民の熱意表現工夫 | ||||
世界平和運動 | 国際連合、ユネスコ連絡(行事) | |||
会場の建設 | ||||
文化施設内容 | 美術館 | 資料研究、調査、蒐集 | ||
科学館 |
『HIROSHIMA』(発行所:Hiroshima Publishing Company<観音町613>、1949)
内容
Hiroshima’s role in Japan | Paintings Hatsusaburo Yoshida | |
Hiroshima its former Military role | Paintings Hatsusaburo Yoshida | |
Emplosion of the atomic bomb | Paintings Hatsusaburo Yoshida | |
Hiroshima that evening | Paintings Hatsusaburo Yoshida | |
Love in the Ruins | Tomikazu Matsui | |
Effects of the atomic bomb | ||
1.Scientific phenomena of the atomic bomb | T.Fujiwara, D.SC. Professor of Hiroshima University | |
1 | 国泰寺大樹 | |
2 | ||
3 | 元安橋 | |
4 | 御幸橋 | |
5 | 萬代橋 | |
6 | ガスタンクに遺された影 | |
7 | 墓石 | |
8 | 国泰寺石塔 | |
2.Medical aspects of the atomic bomb | K.Takeuchi,M.D. Former;Director Hiroshima red cross hospital | |
Atomic Bomb Casualty Comission Medical Research Program | <未完> | |
American contributions to the people of Hiroshima | ||
Hitoshima today | ||
History of Hiroshima | ||
Looking at old Hiroshima | ||
Present impressions and future outlook | ||
Hiroshima speaks | ||
Visitors to Hiroshima | ||
Commanding officers of the Hiroshima M.G. team and city planning advisor | ||
Map of urban Hiroshima | ||
Table of contents | ||
Paintings | Hatsusaburo Yoshida | |
Hiroshima | Masanori Nagao | |
Love in the Ruins | Tomikazu Matsui | |
Photographic Section | Etsuji Kato | |
Hiroshima Speaks | ||
Four Outstandings News | ||
Map of Hiroshima | Fujito Haitani | |
『生きているヒロシマ』(中島健蔵<著者代表>、田中嗣三<発行者>発行所<広島県観光協会>、19490510)
目次
頁 | タイトル | |
005 | まえがき 生きているヒロシマ | 中島健蔵 |
009 | 戦前ヒロシマの珍らしい航空写真 | |
010 | ヒロシマ小史 | 山室太柁雄 |
011 | 140年前のヒロシマ絵図と広島城 | |
013 | 地上から撮ったヒロシマの原子雲 | |
014 | 原子沙漠(爆撃当時の爆心地附近) | |
016 | 被害区域地図と破壊状況各種 | |
018 | 繁華街の跡 | |
019 | 破壊状況を示す4枚の写真 | |
020 | 元の産業奨励館と爆破後の同館 | |
020 | 元の相生橋と破壊された同橋 | |
021 | 以前の泉邸と焼かれた泉邸 | |
022 | 爆心地から同距離に於ける破壊状況を示す3枚の写真 | |
023 | 爆心地から異った距離に於ける3ッの破壊物 | |
024 | 段原町附近の民家の屋根 | |
025 | ヒロシマ病院で手当てを受け荷車で帰る負傷婦人 | |
026 | 植物も例外ではなかった!(松、竹、橙、ヒヒラギ等の火傷) | |
028 | 活躍した科学陣 | |
028 | 軍国日本の最後(無残に吹き飛ばされた兵器廠・大本営・城) | |
030 | 3年目のヒロシマはどうなっていたか?(城跡、蓮池、孤児たち、平和の樹、建築、繁華街、街頭所見、店舗その他) | |
042 | 3年後の同じ場所を比較対照する | |
044 | 中国新聞屋上から鳥瞰したヒロシマ市街の新旧対照写真 | |
046 | ヒロシマを訪ねた天皇 | |
047 | 平和祭 | |
048 | その後の子供の世界 | |
049 | 本川小学校の生徒たち | |
050 | 無心に遊ぶ子供 | |
051 | たそがれの孤独な幼児 | |
052 | 五日市孤児収容所の生活 | |
053 | 僧侶になった5人の孤児 | |
054 | 爆心地附近のその後 | |
056 | 復活した二つの教会 | |
058 | ハーシーの「ヒロシマ」の中に出てくる6人の登場人物訪問記録 | |
060 | 珍らしい原爆被害の現象9種 | |
062 | われわれが訪問した6人の犠牲者とその話 | |
064 | 赤十字病院のその後 | |
064 | 被害を受けた看護婦さん | |
064 | 有名な第1号患者 | |
065 | 施療状況 | |
065 | 壁に突きささった窓硝子の破片 | |
066 | ヒロシマの民主化 | |
071 | ヒロシマは本当に復興したのか? | |
072 | みじめな住宅 72 | |
073 | 舟の住居 | |
073 | 川縁の壕舎 | |
073 | 大本営跡のアベック | |
074 | たちあがるヒロシマの青春男女 | |
074 | 英文学習 | |
074 | 広島聖心女学院 | |
077 | 海浜の娘たち | |
078 | 平和都市ヒロシマは日本でも最良の観光地帯である! | |
078 | 海に浮ぶ厳島神社 | |
080 | 日本最古の踊り | |
082 | 厳島の奇妙な行事 | |
085 | 観光列車 | |
087 | 三段峡の奇景と典型的な日本農家 | |
089 | 茶ノ湯に招かれた占領軍家族 | |
090 | ヒロシマ農村風物誌 | |
092 | 七塚村の大牧場 | |
093 | 吉田口の梨畑 | |
094 | 三次町の鵜飼 | |
095 | 帝釈峡の風景 | |
096 | 帝釈峡の鍾乳洞と美しい石灰岸壁 | |
096 | 怪物さんしょう魚 | |
097 | 川底の奇現象 | |
097 | 道後山スキー場 | |
098 | 福山駅と福山城 | |
098 | 優良酒の産地と醸造実況 | |
100 | 以前の要塞地帯を探る | |
100 | 呉軍港はどうなっているか? | |
105 | 江田島の現在 | |
106 | 瀬戸内海風景 | |
110 | 倉橋島の魚猟 | |
114 | 日本軍隊防備の跡 | |
115 | 怒り島 | |
115 | 緬羊 | |
116 | 大崎島の蜜柑畑 | |
117 | 軍艦伊勢の末路 | |
118 | 新造船平和丸 | |
120 | 尾道から瀬戸内海を望む | |
122 | 生口島の寺院と宝物 | |
124 | 捕鯨船の建造(因ノ島) | |
125 | 塩田 | |
126 | 鞆港風景 | |
127 | 家なき吉和村の人々 | |
128 | 尾道港の夕景 | |
「Living Hiroshima : scenes of A-bomb explosion with 378 photographs including scenery of Inland Sea」 |
『平和のともしび 原爆第一号患者の手記』(吉川清、京都印書館、19490815)目次
頁 | 事項 |
口絵 | 上図:著者の両腕と背のケロイド(松笠やうのもの) |
下図:ライフ誌上に掲載された一文 | |
「ライフ」特派員より著者に送られた書簡 | |
病床にある著者と妻。英文はタイム誌上に掲げられた一文 | |
永久に平和記念館として保存される旧産業奨励館 | |
1 | 序 (富田勝己 <京都府立医科大学外科教室> ) |
5 | 目次 |
図:避難場所、休憩場所 | |
1 | 思ひ出の八月六日 |
4 | 悲しき経験 |
11 | 命は助つたが |
15 | 生の欲望 |
「大粒の雨」、「西原国民学校」 | |
21 | 遂に失神 |
「祇園青年会館」 | |
25 | その夜の救護所 |
「祇園神社」 | |
29 | 可部町勝圓寺にて |
29 | 父を亡ふ |
「可部の警察署の診療所」、「勝圓寺の御堂」 | |
33 | 八月十五日を迎ふ |
37 | 顕著な原爆症状 |
42 | 絶望より微かな希望へ |
52 | 焼土廣島の見開 |
59 | 復員列車をみる |
63 | 友情に泣く |
三次町より川内村へ | |
70 | 無医村に迎へる冬 |
赤十字病院に入院 | |
75 | 三度廣島へ |
79 | 闘病生活つづく |
87 | 山根さんの人間的魅力 |
91 | 再び思ひ出の八月六日 |
97 | 平和の黙祷 |
100 | 死の淵を彷徨 |
103 | 春を迎へて |
105 | 平和の礎石に |
111 | 実験臺上へ |
116 | 「ライフ」特派員と會ふ |
122 | 跋 (伊藤嘉夫 広島赤十字病院皮膚科医学博士 ) |
後記( 吉川清) | |
帯 | |
口絵 |
京都印書館=1944年(昭和19年) 人文書院と立命館出版部ほか京都の出版社数社が企業整備により統合し誕生した出版社。http://www.jimbunshoin.co.jp/company/c285.html
報道篇(1949年)
見出し | 掲載紙 | 掲載月日 |
八月六日を“世界平和デー”に | 中国 | 0128 |
海越えて米婦人“愛の小包” | 朝日 | 0131 |
原爆広島の復興、外人に忠言を聞く | 朝日 | 0206 |
原爆の街ヒロシマ | 毎日 | 0209 |
原爆患者の被災実演を撮影 | 朝日 | 0316 |
「原爆の日」を祝日に“ヒロシマ”の著者にも | 毎日 | 0320 |
原爆都の皇太子さま | 中国 | 0407 |
ノーモア・ヒロシマズ運動 | 中国 | 0419 |
原爆罹災者の署名運動 | 中国 | 0515 |
全人類を愛で結べ | 中国 | 0604 |
きのう晴れの着工 | 朝日 | 0604 |
原爆孤児と仲良く半日 | 毎日 | 0609 |
原爆の広島救えと9萬ドル | 朝日 | 0618 |
鳴れ世界の果まで | 中国 | 0623 |
悲願広島の家 | 朝日 | 0702 |
原爆傷害研究所近く着工 | ? | 7020 |
賛成が圧倒 | 中国 | 0709 |
平和を祈る一票 | 毎日 | 0709 |
あす公式に開所式 | 中国 | 0713 |
八月六日を広島の日に | 毎日 | 0719 |
6・7・8の三日間広島で平和祭 | 毎日 | 0804 |
世界各地へ記念ポスター | 中国 | 0804 |
高らかに平和の鐘 | 毎日 | 0807 |
広島・長崎にノッポ人出現か | 中国 | 0822 |
原爆死者二十萬突破 | 中国 | 0830 |
米眼科医二名が来広 | 朝日 | 0908 |
平和生む最後の一撃 | 朝日 | 0926 |
吉川氏夫妻を激励慰問金を贈る | 毎日 | 1001 |
四年後のヒロシマ | ? | 1001 |
原爆研究所陣容を強化 | 毎日 | 1009 |
平和への道標 | 毎日 | 1015 |
原爆の眼への影響 | 中国 | 1103 |
広島平和センター | 中国 | 1119 |
広島で原爆都市青年交歓会 | 毎日 | 1121 |
初の国際学生会議 | 中国 | 1122 |
広島、長崎に新しい原子病 | 毎日 | 1122 |
原爆体験記を紹介 | 朝日 | 1123 |
広島に集まる同情の眼 | 舞に | 1228 |
見出し |
平和擁護広島大会
1949年10月2日
原子兵器の禁止 広島市民から全世界に打電
国際平和闘争デーの10月2日、原爆都市広島では(既報)10数団体の共同主催で「平和ようご広島大会」が、流川広島女学院講堂にて参加者300名でひらかれた。大会は午後2時民科代表中川氏の司会で始まり議長団には今堀文理大助教授(学術団体)、小西民婦協支部長、高橋自由法曹団弁護士、松江地労委員長、郷土詩人峠三吉氏が選出された。
郷土作家畑耕一氏、自由法曹団を代表した高橋武夫氏の講演に続き、松江地労会長より長田文理大学長、浜井広島市長、広島出身牧師赤岩栄氏のメッセージが読み上げられた。続いて戦争の悲劇を中心にした詩の朗読が広島詩人協会上野氏によってよまれ各団体よりの戦争反対の意見発表がなされた。菅原安芸高女校長(仏教会)、民婦代表村上さん、広島高師学生米倉君、市内段原小学校5年山根君、朝鮮人代表金英哲氏、今堀文理大助教授、安井広島市連合未亡人会長からそれぞれ戦争はいやです永久にこの世から戦争をなくしませうと切々と訴えれば参加者の中よりYさん(27)-広島市観音町-が本大会に発表される平和のための宣言に必ず原爆をうけた広島市民の声として原爆兵器の廃止を入れ全世界にこれを発表して下さい、との緊急動議が出され参加者拍手のうちに可決、続いて議長団より指名された宣言起草委員によって全世界に向って平和のための宣言が発表された。午後5時大会は第二部の映画「ドン底」の上映に移った。
平和擁護広島大会宣言
自由と平和を保証した日本の民主主義革命は最近極めて危険な状態を示してきました。好戦的なファシストたちは、またもや戦争によって利益を得ようとしはじめ、そのための障害となる政治・経済の分野は勿論、科学、芸術、思想、教育などにおいて、さらにそれは日常生活の瑣細な一点に至るまで、総ての民主主義的なものに対して狂暴な圧迫を加えつゝあります。このことは自由と平和を愛好してやまなかったわれわれがかつてのファシズムの被害者としての経験から身をもって知るところの現実であります。ことに民主主義革命の先頭に立ちその主体的役割を果しつゝある労働者階級の諸運動に対しては、最近血を見るほどの暴虐ぶりを示しております。政令、規則、条例などの公布による思想、集会、言論、結社、団体行動の自由に対する明白な蹂躙、全国到る所で惹起する労働争議並びに民主団体に対する警官隊を動員して無謀な弾圧など、憲法によって保証された基本的人権圧殺の事実は、まさにその集中的な現れであります。こうした今日の日本の現実からは、われわれが希ってやまない自由も平和も民族の独立も期待出来ません。さらにこのことは厳粛な世界史の方向にも逆行し人類に課せ られた論理をも無視したものであります。われわれが自然のような強さと深い憂いをもって平和のための一文を草したのもここに由来するものであります。
われわれはこのような矛盾に満ちた現実の中から自由と平和を闘いとるために民主主義革命の先頭をゆく労働者階級との結ぴつきを飛躍的に強化し農民、家庭婦人、青年、学生、中小商工業者たちとも親しく手をとり合い、知識人をもひろく結集して、平和のための一大防壁を築くと共に、今日の国際平和闘争デーを闘いつゝある全世界の平和を愛好する人々の総てと手を握り”戦争ならびにファシズム反対、平和擁護”のための世界的規模における闘いを推し進めねばなりません。
思いまするに、われわれが平和の象徴である広島の地から、こうした平和のための一文を掲げ、人民各層に呼びかけねばならなかったこのこと自体が自由、平和、民族の独立の危機!今日の現実が含む一切の矛盾!人類の生存にとって大きな不幸を招く危険!それらを極めて身近かに象徴していると思います。
われわれは以上のような趣旨によって、人民各層が一人残らず、これに参加し、実に強力な結集と統一との秩序ある広汎な組織を希望いたしますと同時に、われわれはその先頭に立って闘うことを宣言します。
最後に人類史上の最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として「原子爆弾の廃棄」を要求します。
1949年10月2日
国際平和闘争デー 平和擁護広島大会
出典:『ひろしま民報』第19号(1949年10月10日)
広島県立文書館の特別展の展示より | |
広島ペンクラブ 19490408設立(「広島県大百科事典」(岩崎清一郎・記)では1951年5月発会)
機関誌『ペン HIROSHIMA』
巻号 | 発行年月日 | 著者 | タイトル | 所蔵 |
所蔵:P=ピカ研、H=原爆資料館 | ||||
1-1 | 19621031 | 発行人:田淵実夫 | P | |
1-2 | P | |||
1-3 | P | |||
10-5 | 19770501 | H | ||
小倉馨 | 広島市長国連を行く | |||
19830325 | H | |||
19840501 | H | |||
19860520 | H | |||
19870401 | H | |||
19880415 | H | |||
19881015 | H | |||
19901201 | H | |||
19910701 | H | |||
19911230 | H | |||
19920701 | H | |||
19930101 | H | |||
19930701 | H | |||
19940701 | H | |||
19941201 | H | |||
19950601 | H | |||
19951201 | H | |||
19960815 | H | |||
19961120 | H | |||
19970220 | H | |||
19980910 | H | |||
19990515 | H | |||
19990715 | H | |||
20000115 | H | |||
20000517 | H | |||
20010115 | H | |||
20020110 | H | |||
20020510 | H | |||
20070124 | H | |||
20071121 | H | |||
20080125 | H | |||
20080521 | H | |||
20080723 | H | |||
20080917 | H | |||
20090128 | H | |||
20090728 | H | |||
20100127 | H | |||
2013(下) | 20130717 | H | ||
2014(下) | 20140716 | H | ||
2015(下) | 20150715 | H | ||
2016(上) | 20160120 | H | ||
舛井寛一 | 回想原田東岷会長 | |||
松本忠之 | 日米安全保障条約 | |||
吉中康麿 |
天皇皇后両陛下のご訪問
|
|||
吉村良哉 | ご対面 黄瀛さんと米田栄作さん | |||
今田 | 被爆七十年の広島 | |||
高崎宗利 | 節目の思い出と裏話(その二)ご視察での天皇陛下のご記憶とご配慮 | |||
新川貞之 | 父をかえせ 母をかえせ 峠三吉さん | |||
長谷川是求 | 是求柳壇―広島赤十字・原爆病院血液内科の日々 | |||
2016(下) | 20160801 | H | ||
梶矢文昭 | オバマさんくるかなあ | |||
舛井寛一 | 回想原田東岷会長(下) |
編年資料:ヒロシマ-1949年
月日 | 資料名 |
---|---|
0129 | 広島市の原爆関係資料提供依頼 |
0130 | 永井隆『長崎の鐘』(日比谷出版社) |
0330 | 相生農場建設計画書[抄] |
0410 | 日本基督教青年会同盟『天よりの大いなる声』[抄](東京トリビューン社) |
0425 | 平和擁護東京大会(1949年4月25日)での大田洋子の発言[抄] |
0612 | 永井隆ブーム [『週刊朝日』] |
0625 | 広大細胞新聞第2号 |
0716 | 中国連絡調整事務局執務半月報第3巻第13・14合併号 |
0720 | 衣川舜子『ひろしま』(丁字屋書店) |
0805 | 広島県学生自治会連盟平和宣言 |
0806 | 広島市平和宣言(浜井信三) |
0809 | 長崎市平和宣言 |
0815 | 吉川清『平和のともしび-原爆第一号患者の手記』(京都印書館) |
0816 | 中国連絡調整事務局執務半月報第3巻第15号(自8月1日至8月15日) |
0916 | 中国連絡調整事務局執務半月報第3巻第17号(自9月1日至9月15日) |
0920 | 山崎与三郎の広島平和記念都市建設方案 |
1002 | 平和擁護広島大会宣言 |
1016 | 中国連絡調整事務局執務半月報第3巻第19号(自10月1日至10月15日) |
1130 | 参議院「ユネスコ運動に関する決議」 |
1201 | 中国連絡調整事務局執務半月報第3巻第22号 |
全日本学生新聞連盟 1949年に結成
連盟通信(全日本学生新聞連盟発行)記事目録
No,56 | 発行年月日 | 頁 | 見出し(平和、反原爆関連) |
56 | 19500501 | 03 | ストックホルム平和決議を支持 |
66 | 19500802 | 4-7 | 反戦平和特集 |
18 | 慶応高校で平和投票禁止 | ||
67 | 19500818 | 06 | ”Sアピール特集” 広島原爆記念日にS署名聖火発表 各国でも大々的に記念 |
10
|
弾圧下行われた反戦平和大会=広島 | ||
68 | 19500902 | 14 | ”こんなにうれしい、こんなかなしいことはありません” 涙で語れぬ赤松さん 原爆三部作完成記念 |
16 | 「原爆展」終る、9万の観客に深い感銘 | ||
<未入力> | |||
206 | 19550830 | 1~63 | 原水爆禁止世界大会特集にあたって |
所蔵機関:法政大学大原社会問題研究所