「1961年」カテゴリーアーカイブ

核兵器禁止平和建設国民会議結成宣言 1961年11月15日

核兵器禁止平和建設国民会議結成宣言

1961年11月15日

結成宣言

 戦争をなくし,自由と平和な世界の実現を希望する人々の強い願いにもかかわらず,ベルリン問題に端を発した東西の緊張は,ソ連の核兵器実験の再開,それにつづく,アメリカの地下核爆発実験の再開という事態に発展した。

これらの事態は,他の核保有国の実験を誘発し,また新たな核保有国の出現を誘起するものであって,断じて許すことのできないものである。

いかなる国家,民族といえども人類の福祉を脅かす死の灰を勝手に地球上に散布することは人類を滅亡に導くものであり,人道主義に反するものである。

このような行為を行う国家,民族は人類の敵と言わざるを得ない。

この重大な時期に,自由と平和を愛する全国民の代表は,すべての国家,民族,階級,思想,宗教等の立場を超越して純粋な人道主義に立脚し,核兵器の禁止並びに自由と平和社会の建設を念願し,ここに核兵器禁止平和建設国民会議を結成した。

今後はこの崇高な理想の実現のために国内はもとより,国際的にも積極的に運動を展開し,友情と信頼にもとづく結束を一段と固くし幾多の困難を克服しながら核兵器を禁止し,自由と平和社会を建設し,人類の繁栄実現に向って邁進することを誓う。

自由と平和を愛する全国民の名において右宣言する。

1961年11月15日

核兵器禁止平和建設国民会議結成大会

出典:『核兵器廃絶の叫び一核禁会議二十年史』

広島県議会 核実験禁止に関する決議 1961年9月7日

広島県議会 核実験禁止に関する決議

1961年9月7日

核実験禁止に関する決議

原爆の悲しむべき惨禍を体験したわが広島県においては、人類の破滅をきたす原爆の惨酷さと脅威を叫び、戦争のない人類恒久の平和な世界の実現を念じ、あらゆる機会に、世界の国々に核実験の禁止を強く訴え続けてきたのである。

しかるに最近ソ連においてはわれわれのこの悲願をも顧みず無謀にもすでに三回にわたる核実験を強行したと伝えられ、又米国もこれに対応するかの如く核実験を再開すると報道せられているのは、きわめて遺憾である。

本議会としては、既に過去三回にわたり核実験禁止要望の決議を行ない、人類久遠の平和を広く世論に訴えてきたのであるが、この非情な核実験再開の衝撃に耐えず、ここに広島県民の名において核実験強行の暴挙に対し強く反省を求めるとともに、理由のいかんにかかわらず、核実験は永遠に全面的禁止をすることを要求するものである。

右決議する。

昭和三十六年九月七日

広島県議会

核兵器禁止・平和建設国民大会 被爆者救援に関する決議 1961年8月15日

核兵器禁止・平和建設国民大会 被爆者救援に関する決議
1961年8月15日、於・東京都体育館

被爆者救援に関する決議

過去における人類の歴史は戦争の歴史であります。原爆の洗礼をうけた広島,長崎の街に十六年前の恐ろしかった,悲しいあの日が今年もめぐってきました。

最近の国際緊張は,ひしひしと戦争の危機を身近に感じさせ,再び暗い重圧感を,もたらしています。

戦争は人類の悲劇であります。夫を失ない,そして父を,兄弟を失ない,さらにケロイドのあとを残し,生命の不安におののきながら生きながらえる被爆者の孤独感を思う時「原爆許すまじ」とだれもが怒りをこめて叫ばざるをえません。

夏草の下にねむる数かぎりないみ魂よ,安らかなれと,静かな祈りをこめて,平和の鐘が鳴り響く時,広島,長崎も正常なよそおいに立ちかえったかに覚えますが,その裏には,今なお病苦と,生活苦に,夢も失った被爆者たちが,十七万人余りもいるといわれます。

こうした原爆の爪跡を一体誰が真剣に考えているのでしょうか。消費生活がやや安定し所得倍増ムードに甘えている今の社会情勢は,すでに被爆者のなやみも,また,存在をも忘れがちのようです。

被爆者の方たちは,日本の犠牲者です。国のために,犠牲に甘んじなくてならなかった人達です。これを日本中の人たちはいつまでも忘れてはなりません。

今の政府もまことに冷淡であります。その対策は申しわけにすぎず,いつまでも見はなしておくような態度は許せません。

私たちは本日の記念すべき平和大会の意志として被爆者救援を誓いあいたいと思います。

まず政府に対しては,援護法の成立と十分な対策費の計上に努力するよう要請し,更にヒューマニズムに立脚した相互に助け合い精神を発揮して物心面面の救援に乗り出すことをここに決議し,被爆者の方々の健在を祈り,平和な世界の実現に努力致しましょう。

(出典:「民社新聞」昭和36年8月18日)

広島県原水協年表(1961年)

広島県原水協年表(1961年)

月日 事項
0228 安保破棄憲法擁護広島県民共闘会議主催の「安保条約破棄・平和と民主主義を守る県中央集会」. 広島市役所横に35団体・1800人が参加.
3. 1 沖縄即時無条件全面返還要求大行進広島県中央集会, 児童文化会館で開く. 4.16 原水協中国ブロック会議・山口県原水協, 「核武装阻止・原水爆禁止・軍事基地反対(沖縄・新島連帯)・岩国原爆基地撤去西日本大会」を開催. 岩国市役所前広場に約1300名参加(広島から約 300名)
6.14 平和行進, 広島―東京間が原爆慰霊碑前を出発.
7.16 日本被団協第 4回全国代表理事会, 広島市の平和会館で開催. 全労会議がたくらむ第二原水協や自民党などの新日本協議会の動きに断固反対することを決定.
8.12 第7回原水爆禁止世界大会(東京).14日まで.
8.25 安保破棄・憲法擁護県民共闘会議, 県庁前広場で「安保破棄・政暴法粉砕, 県公安定例撤廃, 失業と貧乏をなくし最低生活保障を要求する県民大集会」を開催.
8.31 広島県原水協拡大担当常任委員会, ソ連の核実験再開についての声明( 8月 31日)を協議
10. 1 「広島のうたごえ」, 800名参加.
11. 1 共産党呉地区委員会, 灰が峰強制接収反対, 黄幡地区の無条件返還を要求する署名運動を開始.
12. 2 米第七艦隊主力空母レインジャー号の岩国入港に反対する抗議行動. 広島・ - 3 山口両県の共・社両党, 労組, 民主団体のべ3000人が終日岩国市内で運動.
1209 呉平和を守る会, 県下から50名参加で呉基地調査.

 

 

灰墟の光甦るヒロシマ

『灰墟の光 甦るヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋、1961年2月10日刊)

目次

 目次
Ⅰ 空虚と混乱(一九四五年)
書物
原子砂漠
大洪水のあと
孤児とやくざ
位牌
Ⅱ 新たな開始(一九四六-一九四八年)
夢見る人
たけのこ生活
〈アトム・ボーイ〉
〈杖さん〉
Ⅲ 平和の町(一九四八-一九五二年)
わが道を行く人びと
こわし屋
殺人
八月六日
草履
Ⅳ 生き残った人びと(一九五二-一九五七年)
かまぼこ御殿
救援の人たち
冷たい人たち
破滅にさからう二人
エピローグ
訳者あとがきに代えて
 <メモ >「1957年5月の末、・・日本を去ろうとしたとき、私は小倉薫という若い民間の学者と打ち合わせをした」

187

 

フェニックス広島号の冒険(アール・レイノルズ著)

『フェニックス広島号の冒険』(アール・レイノルズ著、三上仁

一・松元寛共訳)「中国新聞」連載(1961年10月10日~)。

「この連載記事は、今年アメリカで出版した”The Forbidden Voyage”=禁じられた航海=を、翻訳者に人を得て、日本の読者に向くよう一部改定したものです」(「中国新聞」1961.10.10)

No. 月日  見出し 備考
1-9 1010-1018 不吉な静けさ 1~9 19580409ハワイ島ヒロ港

 

10-17 1019-1026  海に立つ壁1-8
18-25  1027-1103  放射能図書室1-8
26-33  1104-1111  日本時間の中で1-8
 34-39 1112-1117  長い一日1-6
 40-46 1118-1124  保釈中の推理1-7
 47-52 1125-1130  ヒロシマの日前後1-6
 53-60 1201-1208  試練のういしお1-8
 61-65 1209-1214  名弁護士きたる1-5
66-69 1215-1218 科学も告発する1-4
70-72 1219-1221 打ちひしがれた時に1-3
73-77 1222-1226 ここもゆれ動く世界1-5 12月12日つづき―1958年12月25日(第1部おわり)

フェニックス広島号の冒険 第2部

No. 月日  見出し 備考
1-5 19620108- ”地球会社”の経営陣  19590108
6-15 19620113- 行為と無為
16-20 19620124- 広島大会は”赤”か1-5 、19590721、19590814
21- 19620201- けわしい再審の道 19590821
26- 19620206 故意と善意1- 19590828-
35- 19620216- 青年に期待- 19590920-
39- 19620220- 国策批判の声 19591104-
47- 19620304- 平和都市の内情 19600201-
52- 19620316- アメリカの自由 19600301-
56-57 19620324-0327 エピローグ 19610220-。―おわり―

「広島こそ”平和”のリーダーに  アール・レイノルズ氏-対談-森滝市郎氏」(『中国新聞』1962年2月14日)

編年資料:ヒロシマ-1961年

編年資料:ヒロシマ-1961(昭和36)年

月日 資料名
0806 広島市平和宣言
0809 長崎市平和宣言
0814 第7回原爆禁止世界大会(1961年)日本代表団の決議「被爆者救援に関する決議」
0815 核兵器禁止・平和建設国民大会「被爆者救援に関する決議」(於・東京都体育館)
0907 広島県議会決議「核実験禁止に関する決議」
1115 核兵器禁止平和建設国民会議結成宣言

 

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」(1952年9月)

都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」

今般、科学研究費交付金総合研究計画に基いて、新に『原子爆弾災害調査研究班』が設けられることとなり、過日、研究班の編成を終わり愈々その作業を始めることになった。就ては、その発足に当り、新研究班が設けられるに至った動機と経緯とを述べ且つ研究班運営の方針を考察し、以て関係各位の御参考に供したい。

昭和20年8月上旬広島市及び長崎市に落とされた原子爆弾によって発生した災害に就いては、当時設けられた文部省学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会に於て詳しい調査研究が行われ、我邦学界の総力を挙げて、その真相を明らかにすべく努力せられたのであった。特別委員会の仕事は前後3ケ年に亘って継続せられ、その間、アメリカ側から派遣せられた原子爆弾調査団とも協力し、理学、生物学、工学、医学、農学等の領域に亘って、広汎研究が行われ、多くの報告が出来上がった。

そこで、原子爆弾災害調査研究特別委員会は、その後、調査研究報告を発表し且つ刊行しようとしたが、色々な事情で、ことが円滑に進行せず且つ刊行費の調達に就いても困難があり、ために延々となっていたことは遺憾なことであった。ところが、その後新しく発足した日本学術会議はこの刊行事業を学術研究会議から引継ぎ、幸にして、刊行費の調達に就いても見透しがついたので、昭和26年8月先づ『総括篇』として概要を記した部分を刊行し、次で『各論篇』として報告書全部を刊行し得る配となったのであって、各論篇は昭和27年秋頃発刊の予定である。

原子爆弾災害に関する総合的の調査研究は前述のように、約3ケ年に亘る特別委員会の作業によって大略終了し、昭和23年以後は特に興味を持つ研究者が夫々の立場から、原子爆弾災害そのもの、或いはそれと直接間接に関連のある事項に就いて、個別的に調査研究をせられていたばかりであったので、纏った報告として発表せられたものは多くない。

一方アメリカ側は昭和22年6月原子爆弾の災害に就て、主として医学的の立場から長期に亘る調査研究を行うことを計画し、日本側としては予防衛生研究所がその世話をすることとなり、昭和23年2月以来準備を始め、昭和24年2月広島市に原子爆弾影響研究所(Atomic Bomb Casualty Commission, Laboratory-略名ABCC)を新設し、次で長崎市にも研究分室を設けて調査研究を開始した。

爾来、広島及び長崎に於けるABCC研究所の職員は熱心に調査研究せられて、夫々成績を挙げておられるようではあるが、もともと、原子爆弾の被爆者を主な対象としての仕事であるために、色々と困難な事情があり且つ研究所の行き方が純アメリカ式であるために、被検者との間に意志の疎通を欠き或は誤解を生ずる等のことも起ったようであった。しかし、時と共に互の理解も出来又互の気持もわかって来て、作業は大体に於て計画通り円満に進んでいるようである。それだけに、他面、仕事の面で或る程度の偏位を余儀なくされている点があるのではなかろうか。他国に於けるこの種の文化事業が甚だ困難なことであることは云うまでもない。ABCC研究所の前所長 Dr.Tessmer もその点に就ては色々と考慮せられていたが、現所長 Dr.Taylor は特にこの点に就ては多大の関心を持ち、熱心にことに当たっていられるようである。

日本側としては、原子爆弾災害に関する医学的調査研究は前述のように、昭和22年度で一先ずその総合的研究を終了したのであったが、その後、広島及び長崎を初めとし、その他の地区に於ても、原子爆弾の被爆者間に色々の後遺症が残されていることが注意せられるようになり、その内でも、既に注目せられているものとしては、貧血症、白血病、白内障等を挙げることが出来よう。又関係医家の間では、被爆生存者が時々異常な病像を示すことがあることが認められ、或は次のような機転によるのではないかとも考えられ始めている。即ち、強力な放射能による傷害の結果として、生存者にも、色々の内臓の障碍が残されており、平素は特別の故障はないにしても、何等か異常の状況が起って病的現象の発現を見る場合には、それ等内臓の機能障碍が、これに関連して、特殊な病像を示すのではなかろうかとの考え方である。

原子爆弾被爆生存者はその大部分が現在も猶広島及び長崎地区に居住しているが、昭和25年10月の国勢調査の結果から判断しても、意外に多くの人々が、日本内各地に転住して、ちらばっているようである。

従って、それ等の人々に就て適切な健康管理を行うことは我邦医学徒の責務であらねばならない。

昭和23年以来、一時下火になっていた我邦における原子爆弾災害の調査研究熱が、そのような関係から、最近、再び盛んとなり、それ等と関連する熱、光、放射能等による傷害に関する研究と共に、各学会等に発表せられるものが漸くその数を増して来たようである。特に、この方面には密接な関係を持つ病理学会、血液病学会、放射線医学会等に於ては、夫々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究を始めるに至った。

そこで、昭和26年暮頃から、有志の間で、この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた。ところが昭和27年1月26日広島ABCC研究所々長 Dr.Taylor 初め主要研究員の方々が東京に来られ、日本学術会議の肝入で、ABCCの事業の紹介並に業績発表の講演会が開かれ、同時にABCC及び予防衛生研究所関係の方々と、日本学術会議関係者との懇談も行われた。その結果、統合研究機関設立の議が急に具体化し、塩田広重博士を代表者として原子爆弾災害調査研究班が組織せられることとなったのである。

今般設立を見た原子爆弾災害調査研究班は上述のような事情で生れ出でたものであるから、その発足に当っては、特に次の諸点に就て、特別の考慮が払われなければならない。

1.本研究班の研究項目は純学問的の点だけでなく、あらゆる面で、国際的の性質を帯びていること。

2.アメリカ側の研究所が広島市及び長崎市で研究所を設け、充実した陣容で、すでに3ケ年余研究に従事しており、その初めから、日本側としては予防衛生研究所がその世話係をしていること。

3.広島市及びその付近では、広島医科大学及び日本赤十字社広島支部病院、広島県立病院、広島逓信病院等が従来からの関係で引続いて研究していること。

4.長崎市及びその付近では長崎大学医学部が従来の関係から引続いて研究をしていること。

5.病理学会、血液病学会及び放射線医学会では何れも放射線傷害対策委員会を設けて、夫々の立場から研究が始められたこと。

従って、原子爆弾災害調査研究班はその運営にあたって、特に次の諸点を強調すべきものと思う。

1.本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと。

2.本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し、既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと。

3.本研究班は予防衛生研究所を通じ、アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり、相互に協力し得るように運営せらるべきこと。

本研究班の編成にあたっては、上述の事情が考慮され、研究事項に関しては、権威ある独自の研究が十分に行われ得ると共に、各方面との円滑な連絡、相互の協力が支障なく達成し得られるように注意されて、別紙のような研究員の構成によって編成せられたのである。

本研究班の研究項目は最もその重要性が認められている医学部門に於けるものから着手するよう計画されており、第一年度(昭和27年度)に於ける研究計画項目は次の通りに定められた。

1.原子爆弾災害に関する未完結調査及び研究の継続

2.被爆者後遺症に関する調査研究

3.被爆者屍体の病理学的研究

4.原子爆弾災害に関連する基礎的研究

第二年度(昭和28年度)以降に於ては、次の方針で運営せられることとなる予定である。

1.第1年度の研究を継続し且つ増強する。

2.本研究を更に生物学的分野に拡大する。

3.研究成果の出版計画。

[以下略]