「1975年」カテゴリーアーカイブ

『核時代の平和学』(目次)

『核時代の平和学』(日本平和学会編、時事通信社刊、 19760815)目次(抄)

川田侃 まえがき
関寛治
核に覆われた世界の危険性
進藤榮一・(討論者)白鳥令 国際危機と核抑止
森利一・(討論者)西川潤 第三世界への核拡散
丸山益輝・(討論者)袖井林二郎 平和的核開発の限界
山田浩・(討論者)関寛治 米ソ核戦略の展開と批判
D・ゼングハース・(討論者)鴨武彦 軍拡力学と軍縮
核抑止論からの脱出
木村修三・(討論者)増田祐司 核拡散防止条約体制を超えるもの
岸田純之助・(討論者)小山内宏 非核武装地域の可能性
R・フォーク・(討論者)田畑茂二郎 非核未来秩序計画
文沢隆一・庄野直美(補論)・行宗一(討論者) 被爆者の現状と問題点
永井秀明・(討論者)浮田久子 平和教育の構造と平和研究の課題
核軍縮と平和研究の課題
坂本義和 核軍縮と平和研究の課題
関寛治 報告・討論のまとめ-核時代の平和学における争点の展開
付録 D・ゼングハース 欧米の平和研究の成果と課題
R・フォーク 非核世界の実現は幻想か
夏の核問題会議から
被ばく30年・広島国際フォーラム 8月3日・4日 広島
パグウォッシュ国際シンポジウム―完全軍縮への新しい構想 8月28日―9月1日 京都
日本平和学会―核と平和 9月3・4日、広島

 

年表:平和教育(1975年)

年表:平和教育(1975年)

04 30 広島平和教育研究所、平和教育カリキュラムの第一案をまとめる
06 14 第3回全国平和教育シンポジウム、広島市・幟町中学校で開催。全国18都道府県から1000人近くが参加。-15日。
07 03 広島市教委、「平和教育の指導例集・小学校編」まとめる
08 06 広島県三次市の高杉小学校、集団疎開した広島市袋町国民学校の疎開児童6人を招き、体験を聞く。
08 06 広島市の安田女子高校、栗原貞子の詩「生ましめん哉」のモデルになった平野美貴子の被爆体験を聞く。
09 25 愛知県名古屋市の立花高校2年生209人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の慰霊碑前で合唱・詩の朗読などを実施。同校が修学旅行で来広するのは今回で5回目。
10 23 愛知県立佐屋高校2年生256人、修学旅行で広島を訪問。平和公園の原爆慰霊碑前で平和式典を開く。

 

 

NPT再検討会議(1975年)

NPT再検討会議(1975年)

1975年は,核兵器不拡散条約の発効後5年目にあたり,同条約の規定に従つて発効後5年目にその運用を検討するための再検討会議が5月5日より30日までジュネーヴにおいて開催された。同会議においては勿論のこと,同会議に前後して開催された軍縮委員会春会期及び夏会期並びに第30回国連総会においても,核の一層の拡散をいかにして防止するかという問題が大きくとりあげられた。75年の軍縮に関する最も中心的な問題は,この核拡散防止問題であつたといつてよいであろう。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1976_1/s51-2-4-2.htm#c1

72カ国の参加のもとで75年5月開催された核兵器不拡散条約の再検討会議は,メキシコ等の非同盟グループと米英ソ等が対立し難航したが,最終日になり,同条約体制の維持強化を謳つた最終宣言が全会一致で採択された。わが国は,決定には加わることができない署名国の資格で同会議に参加したが,多くの国がわが国の主張に耳を傾け,わが国の主張が最終宣言にとり入れられたことが注目された。また,同会議と相前後して西独,イタリア等が核兵器不拡散条約に参加し,同条約の普遍性は,一段と高まつた。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1976_1/s51-2-4-2.htm#c4

広島・長崎30年の証言

『広島・長崎30年の証言』広島・長崎の証言の会編、未来社 (上) 19750806(下)19760430

内容

(上) 19750806
序章  原爆30年目の問い
秋月辰一郎 ヒロシマ・ナガサキ三十年の想い
鎌田定夫 わが内なるヒロシマ・ナガサキ
第1章 歴史の暗点から
小堺吉光 ヒロシマ・救われない犠牲者 -国民義勇隊員の惨禍
秋月辰一郎 ナガサキ・歴史の暗点
第2章  ”核権力”と被爆者
栗原貞子 天皇と核権力と被爆者と
山田かん 原爆とキリシタン
李奇相 被爆朝鮮人の受難と怒り -在日朝鮮人の証言と告発
第3章 ビキニ水爆20年目の告発
広田重道 ビキニ被災二十年目の証言 -原水禁運動の原点をみつめて
久保山さんへの手紙は訴える -原水爆への国民的怒りの原点をさぐって加納竜一 近藤弘 長岡弘芳
第4章 30年を生きて今-被爆者30年目の証言
鎌田信子 原爆を生きつづける証人たち -長崎原爆青年乙女の会のふたり
古浦千穂子 生きられなかった被爆者たち
文沢隆一 胎内被爆から三十年-きのこ会のこと
広瀬方人 被爆二世の生と死
石田明 原爆裁判への情念と論理
福田須磨子 〔遺稿〕 われなお生きてあり(続)
第5章 無国の谷間から -海外被爆者の告発
辛泳洙 被爆と民族の問題-日本政府・天皇・国民への苦言
鎌田定夫 在韓被爆者三十年の遺恨と告発
林福順 苦しみの淵から
 厳粉連 広島から韓国へ地獄はつづく
島津邦弘 核に追われる難民 -ミクロネシアの被爆者たち
立ちあがる在米被爆者たち
据石和江 アメリカ人に原爆の悲惨を訴えて
倉本寛司 カリフォルニア州上院小委員会 原爆被爆者公聴会における証言
関係文献目録
(下) 19760430
第6章 反原爆運動の中から
伊東壮 日本被爆者運動の三十年
草の根・被爆者運動の中で
前座良明 長野における反原爆運動二十年と私--長野県原水爆被災者の会と共に
杉山秀夫 私の原水禁運動・被爆者運動二十年 --静岡県原水爆被害者の会と共に
 伊藤普 福岡被団協の二十年と私
平山良明 おきなわ・二重苦の被爆者たち
伊東壮 東友会二十年のあゆみ
深川宗俊 朝鮮人被爆者復権のたたかい
浜崎均 原水禁運動とともに生きる--渡辺千恵子さんの生を支えるもの
北西允 原水禁運動の統一と静岡・広島
鎌田定夫 歴史の証言から歴史の変革へ--「長崎の証言」運動とその周辺
第7章 原爆体験の継承をめざして
瀬戸口しのぶ おさなき弱者と「見えない被爆者」
今田斐男 戦争・原爆体験の伝承者として
森下弘 沈黙の決議 --被爆者教師としての三十年
空辰男 平和教育の諸相と課題
 島田麗子 ひろしまを考える旅
長岡弘芳 原爆から原発まで  --《原爆体験を伝える会》
第8章 原爆体験の思想化
石田忠 福田須磨子さんの生と死
文沢隆一 原爆資料発掘作業の試み
湯崎稔 原爆被災復元調査の中から--人間の復権めざして
山手茂 社会科学者は原爆被害問題とどうとりくんできたか
小川岩雄 原水禁運動とパグウォッシュ運動--その問題点と今後の課題
山田かん 詩の中の反原爆
 岩崎清一郎 文学のなかの「原爆」--記録の虚構・その変貌
栃木利夫 日本近・現代とヒロシマ・ナガサキ
高橋真司 反原爆の思想 --広島・長崎の現代史的意義
終章 反原爆三十年目の課題と展望--「広島・長崎の証言の会」座談会
ヒロシマ・ナガサキ30年とは何か--広島での討論記録
被爆者運動30年と今後の課題--東京での討論記録
核権力と民衆と証言運動--長崎での討論記録
鎌田定夫 あとがき

 

核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団

核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団:1975年12月8日、ワルトハイム国連事務総長と会見。

出典:『広島・長崎の原爆被害とその後遺-国連事務総長への報告』(核兵器全面禁止国際協定締結・核兵器使用禁止の諸措置の実現を国連に要請する国民代表団派遣中央実行委員会、19760806)

目次

原爆被爆者の30年-事例研究 1
事例-1.広島、男、65歳 被爆当時陸軍運輸部 現在、精神病 院入院中
事例-2.長崎、女、故人 原爆孤老となり、82歳で死亡
事例-3.広島、女、47歳 被爆当時高女在学 現在、離婚
事例-4.長崎、男、41歳 被爆当時小学生、後遺に苦しむ
事例-5.広島、女、73歳 被爆当時主婦、残留放射能による 被爆者
事例-6.ある被爆二世の死<長崎の事例>
原爆被害とその後遺の実態
1 被害の物理実態
2 被害の医学的実態
3 被害の社会的実態
あとがき<報告書作成の専門家グループ=伊東壮、庄野直美、川崎昭一郎、田沼肇、草野信男、峠一夫、佐久間澄>

 

ひろしまの碑をめぐる思想性

ひろしまの碑をめぐる思想性1975年9月の宇吹報告

『平和教育研究』(広島平和教育研究所・年報1976年)所収

(1)

今日、平和公園をはじめとして広島市内で私が確認した限り、いわゆる「慰霊」を目的とした碑は90余りあります。歌碑とか詩碑で、慰霊の意味を含まない平和慰霊碑を会わせると120の碑があるという報告もありますが、慰霊の内容が確認できるものとしては、90余りだと思います。

これらの碑を訪れてみた感想としては、どの碑の場合も掃除がきちんとゆきとどき、今日もなお、市民や遺族の哀悼の念が戦後30年生き続けていることが非常によくわかりました。そして、慰霊碑そのものが、犠牲者なり遺族なりの戦後30年の歴史をさまざまな形で示しているようにも思ったわけです。それらが、今日生きている私たちにさまざまな事柄を強く訴えており、その内容をどう位置づけるかと言うことで、一つの史論的なものとして、「ひろしまの碑をめぐる思想性」を考えてみたいわけです。

そこで一つの例として、広島市立高等女学校の慰霊碑の経緯をみてみたいと思います。といいますのは、この経緯は他の慰霊碑と似かよったものがあり、他の慰霊碑もこれとよく似た歴史をもっているので、まずその流れを述べてみたいと思います。

終戦直後の昭和20年10月30日、この10月30日というのは戦前の教育勅語発布の記念日だそうですが、この日に、「殉職諸先生及び生徒の慰霊祭」が市立高女(現在の舟入高校)の破損した講堂で行われています。翌21年8月6日、多くの生徒と教職員が家屋疎開作業に出ていて原爆の犠牲となった現場で、一周忌法要という仏式の慰霊祭を行い、「殉職諸先生並生徒供養塔」と書き込んだ木碑をそこに建立しています。

2年後の昭和23年5月に新制高校が発足し、市女は二葉高校として出発しましたが、その年の8月6日に、母校市女の御真影奉安庫跡に石の祈念碑を建立し、慰霊碑とは呼ばずに「平和塔」と呼びました。正面は、少女が3人刻みこまれ、まん中にE=MC2(原子エネルギーの公式)という箱をもった少女がいます。裏側は「友垣にまもられながらやすらかに眠れみたまよこのくさ山に」という詩が刻んであります。

昭和25年、都市計画で最初に建てた木碑の「供養塔」地が百メートル道路の一部になるので、その年の8月6日に持明院というお寺の境内に木碑を移しています。同時に、広島市女原爆遺族会を結成し、以後は遺族会が中心となって追弔行事を行ってきました。さらに翌26年8月6日、持明院境内にもう一つの石碑「市女原爆追悼碑」を建立し、除幕しています。これは学校に建立した平和塔と同じものですが、正面のE=MC2がなくなったかわりに、「市女原爆追悼碑」と刻み込まれています。そして昭和32年8月6日、学校に建立した「平和塔」を現在地の元安川畔へ移し、今日にいたっているというのが大まかな経緯です。

(2)

この市女の例にみられるように、広島市内にある慰霊碑の多くは、慰霊祭とか慰霊法要という宗教的行事に結びついて建立されているようです。この点について、原爆投下後から翌21年8月までの一か年間に、当日の中国新聞に慰霊祭・慰霊法要を営むという宣伝広告がたくさん載りました。総計すると114種の慰霊祭・法要の通知が載っています。1年間でこれだけたくさんの慰霊祭・法要が営まれたわけですが、その際に、遭難地・火葬地・学校や職場・法要を営んだ寺などに木碑が多く建てられたと思われます。このようにして建てられた木の墓標とか、簡単な供養塔が広島における今日の慰霊碑の始まりのようです。

今日、これら初期の木碑は、そのままの形で残っているものはありませんが、当時のもので碑銘の明らかなものを調べてみると、戦死者31名之墓・船舶練習隊処理之墓・広島郵便局殉職者供養塔・神崎学区戦災死没者追善供養塔など、「原爆」という文字の出てこないのが注目されます。占領下では、こうした銘名が一般的であったようで、終戦直後のプレスコード(9月19日)などによって原爆に対する批判が封じられていた影響によると思われます。

占領下の当時は、原爆という文字が使えないだけでなく、学校などに慰霊碑を建てることにも制約が加えられています。昭和20年と22年に広島市から各国民学校長宛に出した公文書の中で、慰霊碑建立に対する制約のあることが確認できます。また当時、広島市立学校長に、学校に現存する忠魂碑とか戦没者記念碑などを撤去したかどうか報告せよという文書も出されています。そのほかに、学校を宗教行事に使用してはならないだけでなく、学外でも学校がこうしたことを主催するのを禁止しています。

昭和20年から22年に出されたこれら一連の通達は、それまでの軍国主義的な教育と一線を画すために行われた政策の一つであったと思われますが、逆に原爆犠牲者の遺族達の慰霊に対する心情をゆがめる結果にもなったと思います。

こうした当時の状況を反映して、一例として最初に述べた市女学内に建立された碑は、慰霊碑と呼ばずに「平和塔」と呼びました。この点について市女原爆遺族会長は、「当時わが国は米国占領下にあり、慰霊碑などの建立は許されない諸情勢であったが、市女原爆関係者は率先してこれを建立し、平和塔と呼んでいた」と追憶記の中で書いています。また、この平和塔の浮彫は、「あなたは原子力(E=MC2)の世界最初の犠牲として人類文化発展の尊い人柱となった」と級友が犠牲者を慰めている姿を表しているといわれており、ここでは原子力と原爆が同一視されています。占領政策が解かれた年の昭和26年に持明院境内に建てられた同型の碑では、表面の浮彫は消え、かわりに「市女原爆追悼碑」という碑銘がはいったことなどからみて、いかに原爆がタブー視されていたかの一端がうかがえます。

このように、「原爆」という二文字さえ自由に使えなかった占領下においては、ほとんどの慰霊碑の性格は、慰霊という宗教目的を出ることはありませんでした。しかし、占領が解けると、慰霊碑はさまざまな性格をもつようになってきます。その一つは、「原爆」という二文字が一般的に用いられるようになったことです。つまり、原爆犠牲が「戦死者」「戦災死者」など戦争一般の犠牲者と区別できない表現から、「原爆犠牲者」「原爆死没者」というように、その死因として「原爆」を指摘する表現になったことに大きな意味があると思います。

二つには、原爆という言葉と同時に、「平和の礎」「殉国」「散華」「英魂」「英霊」と言った死者に対する一種の意義づけが行われるようになったことです。「平和の礎」という表現は占領下から使われていましたが、これは、原爆投下が戦争を早く終わらせ平和をもたらしたのだという占領政策の思想からきたのだと思われます。昭和30年ごろまでよく使われていましたが、それ以後の碑にはなくなっています。「殉国」「散華」などは、戦前から使われている普通の表現ですが、占領下では消えており、占領解除後は学校関係の碑を中心に多く用いられています。これは、いたいけない子ども達を失った父母たちが、何らかのかたちでその死を位置づけたいという気もちによるものだと思われますが、今日の靖国神社法案と関連して深刻な問題を示しているともいえます。

「平和の礎」や「殉国」などといういい方は、過去の反省にたった表現となっていますが、昭和30年前後からは、原爆犠牲を過去のこととしてではなく、現在や未来に結びつけたものが建てられるようになりました。つまり、原爆犠牲者への哀悼の念をとおして平和への祈念、原爆への怒り、核兵器廃絶の決意などが語られるようになったわけです。その表現方法も、具体的なことばだけでなく、象徴的な彫刻などによるようになりました。

たとえば、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから=原爆慰霊碑」「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための=原爆の子の像」「なぜあの日はあった なぜいまもつづく 忘れまい あのにくしみを この誓いを=全損保労組被爆20周年記念碑」「天を撃つな 戦霊を射て 人を撃つな 戦禍を射て 原爆広島に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来を=国労慰霊碑」などがその一例です。

これら慰霊碑の碑文や彫刻などに脈うつ原爆観、平和観はけっして同一ではなく、戦後30年広島・日本・世界中にうずまいた平和運動の影響を多かれ少なかれ受けていると思います。その意味では、今日までの平和観・原爆観の縮図のような気もしますが、一つだけ同じ訴えをしているように思います。それは、広島の悲劇を再び地上にくり返してはいけないということです。

 (3)

以上が、碑をめぐる問題について私なりの大まかな史論的な考えです。それと関連して、これら広島の慰霊碑と国などが行っている慰霊祭は、本質的に違うと思うのです。国などの場合は、戦前のことが常に考えられているようだし、靖国神社ともつながって計作されていると思います。これに対し、広島の慰霊碑の性格としては、市民の要求や市民のやむにやまれぬ感情が結集してつくられていると思います。

ところで、体験記の中にも慰霊碑でみてきたのと同じような流れがあります。[中略]

慰霊碑の碑文が簡潔で、どのようにでも解釈できるような場合もたくさんあるわけですが、慰霊碑の建立を機に出されている体験記集とかみあわせることによって、その碑のもつ意味が一つ一つ正確に位置づけられると思います。