「2005年」カテゴリーアーカイブ

平和学連携講座「ヒロシマ」200508

平和学連携講座「ヒロシマ」20050805~09

事項(敬称略)
05 10:00 集中ヒロシマ受講生(関西学院大学):21人。(広島女学院):日文3年2人、4年1人、英文3年13人、4年1人、人社2年6人、生活2年4人。計27人。総計48人。
05 10:30 関西学院大学学生、宿舎(広島工業大学セミナーハウス)より到着。歴史資料館前。堀川・宇吹で出迎え。
05 10:31 ソフィア101で関西学院大学学生へのガイダンス。今田学長が女学院と関西学院大学の関係について簡単に説明。
05 10:50 大学内見学:歴史資料館=岩内解説、図書館フリースペース「広島女学院における平和教育のあゆみ」展、図書館内=土屋解説。~12:00。
05 12:00 集中ヒロシマ受講生:昼食。ヒノハラホール。~12:40。
05 13:00 集中ヒロシマ(第1日)①今田寛女学院大学学長歓迎の言葉。平松一夫関西学院大学学長挨拶。*本(女学院学生代表)挨拶。ソフィア202。
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05 13:01 集中ヒロシマの取材:久米井(NHK神戸)、佐竹(日経新聞大阪本社社会部)、稲田(読売新聞大阪本社福山支局三原通信部)、取材。NHK神戸は、の広島県出身の*本(関西学院大学生)を追跡取材。
05 13:10 講義「平和式典と平和公園の歴史」(宇吹暁)。ソフィア202。~14:30。
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05 14:40 集中ヒロシマ(第1日)②発表「私のヒロシマ」。自己紹介(関西学院大学の学生)=自らのこれまでのヒロシマとの関わり、今回の講義への参加動機、期待など)。女学院学生は簡単な自己紹介。班分けでの打合せ。
05 14:42 集中ヒロシマ(第1日)直野章子の本を紹介。
05 16:20 集中ヒロシマ(第1日)③講義「ヒロシマの心」(赤木直美:広島女学院高等女学校1948年卒、広島女学院高等学校1949年卒、広島女学院大学英文科1953年卒、現在:学校法人赤木学園・井口台シオン幼稚園理事長)。~15:20。
05 16:21 赤木の話=1930年生まれ。1941年在米3年の父が最後の帰国船で帰国。1943年広島女学院入学。200人の定員に260人が応募。200人中20人の死亡と65人の生存を確認。1943年~45年の女学院の資料は、歴史資料館を調べたが皆無に近い状態。
05 16:22 赤木の話=1945年2年生のとき、身体が弱いので財務局に動員。7月30日トラックで山形郡のかすかな知人宅をたよりに疎開。屯所に住む。8月6日引越しの手伝いで山県にいる。数日後、母が父を探しに入市。1週間近く音沙汰なし。父は足を骨折して二中から廿日市の病院に移動して入院中。その後、父は岐阜に移住。
05 16:23 赤木の話=1946年2月、女学校が牛田山で開校。現在の牛田山荘で生活。現在、原爆体験記朗読会に所属。1年下の小田なおこの手記を朗読。父は牧師で、女学院では聖書と事務を手伝っていた。
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05 17:20 赤木と生活科学部長室で話す。西垣院長、桐木も同席。17:40、赤木を見送る。
05 18:00 集中ヒロシマ(第1日)懇親会(夕食)。西垣院長、歓迎の挨拶。途中で私から桐木・丸田・堀川を紹介。村田関西学院大学教務部長から、中迫周一教務部次長、片岸教務課員、吉津広報室員の紹介。終了後、堀川から同行していた*教務課主任が体調不良のため帰宅したとの情報。ヒノハラ。~19:30。
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05 19:00 関西学院大学から、女学院の学生一人一人に同大学グッズ(ストラップとボールペン)のプレゼント。残6組を私が預かる。
05 19:30 懇親会(夕食)終了。テーブルを元通りに直し、関西学院大学の学生を20:00ごろ見送る。
06 06:30 広島駅の駐車場に車を置き、駅の売店で新聞を購入。日経が昨日の模様を大きく掲載。電車で市民球場南側へ。07:15関西学院大学のバス到着。まとまった班から平和公園へ。宇吹ゼミの*木・*間も来る。デジタルビデオカメラでの撮影を依頼していた。
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06 07:30 集中ヒロシマ(第2日)④⑤現地実習(広島市平和式典参加)。会場内に空席が無く、式典会場の西側へ。翌朝の報道では5万5000人が参列。学生とはぐれ、式典の最中に出口付近に移動して待ったが会えず。最後までいたとのことで、ほとんどが女学院慰霊祭に遅刻。
06 10:00 集中ヒロシマ(第2日)⑤現地実習(広島女学院原爆死没者追悼式典参加)。西垣が約20分の式辞。参列者に同窓会から梅坪の和菓子3個入りが配られる。大学教員では谷沢・篠原・石井・岡井・下岡・佐藤の顔が見える。
06 10:01 西垣の式辞=戦略爆撃、碑文論争などさまざまな論点を克明にレポート。
06 11:10 集中ヒロシマ(第2日)昼食。同窓会の手記集が配布されていた。
06 11:11 集中ヒロシマ(第2日)集合時間を20:30に変更したことを伝える。班別行動をこの日に相応しいものにするよう注意するつもりだったが止める。関西学院大学の職員から、5時半以降は班行動をしないような女学院学生の雰囲気について心配があったので、私から注意。
06 12:00 集中ヒロシマ(第2日)⑥⑦⑧現地実習。昼食後、学生は、タクシーを呼んで移動。(平和公園碑めぐり、原爆資料館、原爆死没者追悼平和祈念館、袋町小学校平和資料館、広島市立中央図書館など、班ごとに行動・見学)。
06 20:30 集中ヒロシマ(第2日)広島女学院中高校前集合。バスで宿舎へ帰るのを見送る。
08 09:00 集中ヒロシマ(第3日)⑨講義「オキナワとヒロシマ」(桐木建始・沖縄県人会=中村盛博・柴田ゆき子)。ヒノハラ5Fアセンブリーホール。踊り4人。これらの人たちに薄謝で申し訳ない思い。
08 10:40 集中ヒロシマ(第3日)⑩講義「アウシュヴィッツとヒロシマ」(原谷勉)。ヒノハラ5Fアセンブリーホール。ビデオを使用。「ハロルド・アグニューとヒバクシャとの広島での対話」(筑紫哲也の特別番組の一部)。翌日の討論では、衝撃を与えていた。
08 13:00 集中ヒロシマ(第3日)⑪講義「アジアの中のヒロシマ」(丸田孝志)。ソフィア202。内容は韓国人原爆犠牲者慰霊碑について。丸田は講義の最後に簡単なレポートを提出させる。丸田へのレポートの感想で多かったもの:韓国人原爆犠牲者慰霊碑の存在を知らなかった。ドイツと日本の戦後責任への対応の違い=市民権を持った国民と市民権を持たない国民の違い。
08 14:40 集中ヒロシマ(第3日)⑫講義「原爆の絵」(直野章子:九州大学大学院助教授)。ソフィア202。前半、原爆投下問題について。主題:パワーポイントで原爆の絵を示しながら、聞き取りの結果を紹介。本人が涙ぐむ場面もあった。翌日の討論では男子学生が高く評価。
09 09:00 集中ヒロシマ(第4日)⑬グループ討論。ソフィア202(もともとヒノハラの予定であったが変更)。
09 10:30 私が持参した被爆建物のレンガの解説「放射線が含まれているかも知れない」を*徳が批判。
09 10:40 集中ヒロシマ(第4日)⑭グループ代表によるまとめ発表。ソフィア202。
09 11:02 *(関西学院大学の学生)の呼びかけで、長崎の時間に合わせ30分間の黙祷。
09 12:00 集中ヒロシマ(第4日)⑭宇吹の講評=被爆二世への影響をどう考えるか。昨年と比較し加害の問題に焦点、被爆50周年と比較するとイベント化が今年の特徴。本講座の講師は、私の依頼に真摯に対応してくれた。自分の問題として「ヒロシマ」の向き合ってくれた。
09 12:01 集中ヒロシマ(第4日)⑭村田関西学院大学教務部長の講評=靖国の問題が論議を加害の問題に集めた。昨年よりレベルの高い議論ができた。
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原爆と写真

『原爆と写真』(徳山喜雄、御茶の水書房、20050715)

目次

はじめに
キノコ雲と空爆写真
生身の一人一人への視線
忘却と想起の間で
土門拳
「魔性の爪跡」を記録/叫び、怒りながら撮影/かなぐり捨てた中立性
東松照明
「白いうなじ」と疎外感/被爆者は核時代のキリスト
大石芳野
「かれらのいま」に対時/半世紀の風貌を撮る
江成常夫
見えなくなったものの視覚化/遠かったヒロシマヘの道
キノコ雲の下で起こったこと
松重美人
原爆禍を伝える最初の一枚/なんと惨たらしい光景か/加害と被害
山端庸介
被爆翌日の長崎に入る/廃嘘をさまよう少年/冷徹に任務を遂行/重慶爆撃にも従軍/被爆者と人間天皇を撮って
松本栄一 アサヒグラフで初公開
林重男 「道楽」をせずに、忠実に記録
原爆棄民を追う
伊藤孝司
なぜ韓国・朝鮮人の被爆者が多いのか/身の丈の目線で淡々と/被響が警認める不条理
山本将文
「恨」を象徴する一枚/スナップショットを超えるために
鈴木賢士
「韓国のヒロシマ」という意味/被爆した屍まで差別された/「定年カメラマン」と称して
核の風下の人々
豊崎博光
おしゃべりするマグロ/水爆実験で流浪の民にされた人たち
徳山喜雄
冷戦崩壊後の危険な「核」の行方/核弾頭を搭載したミサイルを眼前にして
森住卓
「残虐な写真」を撮る勇気と確信/日本の被爆者と向き合えなかった
広河隆一
原発事故で消えた村を記録/自ら救援組織を立ち上げる
おわりに
参考文献
写真家紹介

原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって

『原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって』(鈴木雅文、窓社、20050620)

目次

原爆=写真論
初発「原爆写真」の位相 山田精三と山端庸介
まなざしをめぐる〈神話〉8
基点としての一枚の写真 10
見ること/知ることを困難とした無告の光景 13
『黒い雨』の欠陥をめぐって 16
〈ことば〉への像の叛乱 19
撮影者を反照する「記録」 22
原爆写真には二つの「語りえぬもの」が溶融している 26
始まりのない終わりの始まり 30
原爆写真の現場性 32
戦後「原爆写真」の円環 土門拳と東松照明
「擬死」からの覚醒 37
ジェノサイド以降の〈野蛮〉 39
歓待された写真集、『ヒロシマ』 41
賞賛と翼賛の関係 44
なんという「非転向」だろう! 46
『ヒロシマ』から十年を経た原爆写真の「現在」 49
問われるべき「息苦しさ」の意味 52
落涙の理由とその帰結 54
自縛する反物語 58
『ヒロシマ』から『〈11時02分〉NAGASAKI』へ 62
現代「原爆写真」の展開 石黒健治と土田ヒロミ
薄れゆく「記憶」 66
見えがたいままに見届けようとする試み 68
非物語へ架橋する『広島HIROSHIMA NOW』 70
像と〈ことば〉の臨界 73
表現者から報告者へ 76
「見えないヒロシマ」の方ヘ 79
「引用」という想像力 81
方法を挑発する『ヒロシマ・コレクション』 84
「私写真」から遠く放たれて 88
来たるべき〈野蛮〉のために 90
リーフェンシュタール覚書
彷徨する眼球 開高健「闇、三部作」考
識閾の木霊〈ことば〉と〈まなざし〉の病理
写真をめぐる、欄外的独言

 

書誌2005

書誌2005

本・パンフレット

書名 著者 発行所 発行年月日
 広島市実施計画 2004-2007 広島市企画調整局 広島市  200502
戦艦大和が沈んだ日 運命の4月7日 元戦艦大和乗組員・八杉康夫聞き書き 中川秀彦 牧歌舎 20050228
「NPT体制の再検討-広島・長崎からの提言」「東アジアの核軍縮の展望」 広島市立大学広島平和研究所 200503
福岡空襲死者の祭り-集う、悼む、伝える- 西村明編、九州大学文学部人間化学科比較宗教学研究室 20050301
ピース!PEACE! NAGASAKIから世界へ飛び出す若者たち 高校生1万人署名活動実行委員会・長崎新聞社報道部 長崎新聞社 20050317
 新藤兼人・原爆を撮る 新藤兼人  新日本出版社 20050325
ハト派の伝言 宮沢喜一元首相が語る 宮沢喜一 中国新聞社 20050328
丹下健三 時代を映した”多面体の巨人” 日経アーキテクチュア編 日経BP社 20050516
広島被爆体験集 60年目に語る被爆市民の心 「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会 長周新聞社 20050525
僕のヒロシマノート 木原省治 七つ森書館 20050601
木原フミ子「私の被爆体験」pp14-17
原爆体験-6744人・死と生の証言 浜谷正晴 岩波書店 20050607
八月のいのり-あの日のヒロシマから60年 平口洋(監修)・野村隆信(編集)・池田一成(制作) 平口洋事務所 20050615
広島のおばあちゃん 過去・現在・未来 -中・高校生、社会人向け- 鎌田七男 20050620
原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって 鈴城雅文 窓社 20050620
BC級戦犯裁判 林博史 岩波書店 20050621
ヒロシマ、60年の記憶 近藤紘子 リヨン社 20050624
呉戦災 あれから60年 呉戦災を記録する会 20050701
BRUTUS Casa イサム・ノグチ伝説 マガジンハウス 20050710
八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 佐藤卓己 筑摩書房 20050710
原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ 広島市・長崎市原爆災害編集委員会(編) 岩波書店 20050715
原爆と写真 徳山喜雄 御茶の水書房 20050715
チンチン電車と女学生-1945年8月6日・ヒロシマ- 堀川恵子・小笠原信之 日本評論社 20050715
2005年NPT再検討会議をどうみるか-被爆60年、いま核兵器廃絶へ 非核の政府を求める会 20050716
広島 記憶のポリティクス 米山リサ 岩波書店 20050726
広島大学原爆放射線医科学研究所所蔵 平岡敬関係文書目録(韓国人・朝鮮人被爆者問題関係史料) 広島大学文書館編 広島大学平和科学研究センター 200507
爆心地中島-あの日、あのとき- 元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会 200507
原子爆弾は語り続ける ヒロシマ六〇年 織井青吾 社会評論社 20050730
ピーステップ いまからはじめる平和の第一歩 創価学会女性平和文化会議 第三文明社 20050801
平和を祈る人たちへ-広島女学院同窓会被爆60周年証言集 被爆60周年証言集編集委員会 広島女学院同窓会 20050806
新装版 戦後民主主義-戦後日本・占領と戦後改革第4巻 中村政則・天川晃・尹健次・五十嵐武士編 岩波書店 20050811
秋の蝶を生きる-山代巴 平和への模索 佐々木暁美 山代巴研究室 20051031

雑誌論文

著者 タイトル 雑誌名(発行者) 発行年月日

 

NPT再検討会議(2005年)

NPT再検討会議(2005年)

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2006/html/framefiles/honbun.html

日本は、核兵器のない平和で安全な世界の実現のために、NPTを礎とする国際的な核軍縮・不拡散体制の維持・強化を極めて重視しているが、5月の2005年NPT運用検討会議では、中東諸国を中心とする非同盟諸国と西側諸国との意見対立等により、会議時間の約3分の2が手続き事項の採択に費やされ、最終的に実質的事項に関する合意文書を作成することができなかった。9月の国連首脳会合で採択された成果文書についても、核軍縮と不拡散のバランスを巡る意見対立等の結果、軍縮・不拡散に関する記述が盛り込まれなかった。これらの結果は、アナン国連事務総長が「本年2回失敗した」と述べたとおり、大変遺憾な結果であった。

核開発の国際史

公開シンポジウム「核開発の国際史―各時代の幕開けにおける科学者の社会的責任―」(日時:2003年8月10日、 会場:広島平和記念資料館メモリアルホール)

国際シンポジウム「20世紀における戦争・冷戦と科学・技術―国際共同研究の展望―」(日時:2005年10月2日、会場:広島市まちづくり市民交流プラザ内マルチメディア・スタジオ)

記録

『”戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』(広島大学総合科学部…編、市川浩・山崎正勝責任編集、丸善株式会社)

広島市平和式典(2005年)

平成17年8月6日広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式

原爆死没者慰霊碑の奉安箱の原爆死没者名簿の概要

名簿に記帳された氏名
名簿登録者総数
名簿総数

参列者の概要

被爆者や遺族など 約万人
小泉純一郎 内閣総理大臣
 国連事務次長
遺族代表 都道府県
各国大使や代表 か国と欧州連合(EU)。核兵器国のを含む。

 

広島市長平和宣言(下記参照)

http://www.city.hiroshima.lg.jp/

内閣総理大臣挨拶

内閣総理大臣

出典

 

 

被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-

小特集「被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-」
シンポジウムの記録
被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-文献資料の観点から
『芸備地方史研究』NO.250・251pp11-20

20060425

「文献資料の観点から」宇吹 暁

広島女学院大学に勤めております宇吹といいます。四年半前までの二十五年間、広島大学の原爆放射能医学研究所に勤めておりました。広島市は、一九九一年に広島市被爆建物等継承方策検討委員会を立ち上げて、被爆建物の保存を検討していました。石丸先生も私も委員でしたが、先生は、気迫を漲らせて、保存についての主張をされておりました。見識のない私は、いつも小さくなっていたので、先生をうらやましがっていました。
私は長い間、職場である霞キャンパスの戦前の建物が壊されていくことで、次第に自分たちの環境がよくなると考えていましたが、最後の一棟となった時に、初めて、ちょっとおかしいのではないかと感じるようになりました。さきほど、石丸先生の講演の中に、広島大学医学部十一号館が壊される話がありました。この情報を知ったのは、大学からではなく、広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の担当者からでした。「おたくの建物が壊されるということを知っているか、どうするのか」と言われて非常に恥ずかしく、情けない思いをしました。内部で、保存を訴えたのですが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした。私の原医研での二十五年間の発言というのは、この例のように、天に唾して自分にみな戻ってくるというものでした。しかし、自分のことを棚上げして言わないと行動・発言できませんので、これからの報告もそういうものとして聞いて頂ければと思います。
文献資料への関心
まず文献資料への関心の歴史に沿ってみていきたいと思います。だいたい十年間ごとに大きな変化があったように思います。占領下で広島市自身が原爆関係資料を保存することに意義を見出した一番初めはいつかということで見てみますと、一九四九年一月二十九日付で広島市が出した「原爆関係資料の提供依頼」が、私の確認した限りでは一番古いものでした。それまで市政要覧に載せているのだけれども、それ以上の情報を国内外から求められるということが契機であったようです。これの流れだと思いますが、翌年八月六日には『原爆体験記』が出されます。この年というのは、全国的にも非常に重要な年だと思います。この前年くらいからある一部の人達が、原爆関係の事実というのを我々がきっちりと認識すべきではないかという声を起こし始めています。一例をあげますと『原爆の図』の赤松俊子さんの証言ですが、原爆で建物がやられただけではなく自分たちの精神状態も呆けていた、体験したものとして何かをやらなければいけないと思ったのが一九四八年で、それまでは空白状態であったと書いています。
戦前教員をやっていた山崎与三郎という方が、戦後、御幸橋のたもとのところで古本屋をやっておられました。私が大学卒業後広島のことを知りたいと思った際に初めて名前を知った人です。ぜひご本人に会いたいと思い伺いました。その後、山崎さんが一九四九年に自筆で書かれた「平和記念都市建設法案」を、たまたま広島大学図書館の片隅で見つけました。これは、未整理だったので今どうなっているのかちょっと心配です。「原爆に倒れん人も安らかに、平和の光受けて眠らん」。こういうように自分で書かれており、原爆資料を収集する必要性も主張しておられます(表1参照)。非常に大きな構想ですが、その中へ原爆資料の保存・調査・収集というのが入っており、山崎さんは一生かけてこの仕事を自分自身でやられたように思います。
被爆十周年を迎えた年に、広島平和記念資料館が開館します。立派な建物が出来ましたが、中身は原爆資料保存会が提供するという形で出発しているようです。資料そのものは、行政の中にも、或いは市民運動としてもあまり大きなものはなかったのです。例外的な動きはあるものの、これ以後広島市は、建物を建てることには一生懸命になりますが、中身のことはあまり本気で取り組まずにきていると思います。原水禁運動も、被爆十周年から非常に大きな盛り上がりを見せますが、資料への関心は薄かった時代と言えます。
それでは、原爆資料、被爆資料に社会的に関心が持たれるようになったのはいつからだといえば、被爆二十周年からだと思います。それの先導役を務めたのが、談和会という団体で、中四国の大学教員を中心に大学人の会というのができていたのですが、そのメンバーの一部の人たちが立ち上げています。それは、一九六四年のことで、政府にきっちりと何か動いてもらおうという被爆二十周年へ向けての新たな動きが起こりました。私はこれに直接関わっておりませんが後でこの動きを知りました。後で紹介するように、非常に大きな仕事をしています。
マスコミも、被爆二十周年の報道で、早くから本格的に準備を行ない、企画ものなど様々な形で原爆被害を取り上げました。たまたま、地元の報道機関で最も多量の報道をした中国新聞社が、これで新聞協会賞というのをもらいます。これは、日本の報道で非常に優れたものに毎年与えられているものです。原爆関連の報道が、この対象として認められたことは、他の新聞社なり中国新聞社自身のその後の報道姿勢に大きな影響を与えたと思います。平岡敬さん、大牟田稔さんなど、その後の広島市政に大きな影響力をもつ人たちが育っていったのも、二十周年の原爆報道の中であったと思います。
私は、それまでも原爆報道というのはあるのですが、八月を迎えるにあたって原爆を報道しなければいけないという恐怖観念がマスコミに生まれたのは被爆二十周年だと思います。翌年、NHKが「爆心半径五百メートル」という番組を放映して、これがきっかけで原爆爆心地復元運動というものが起こりました。これは、今日まで引き継がれている動きです。同じ年、原爆ドームの保存運動も起こっています。
原爆爆心地復元運動というのは、行政なり或いはNHKの企画を引き継いだ広島大学の原医研或いは広島市原対課などが主体であって、個人や市民のエネルギーをそういう場所へ吸収するという構造でした。市民自身が、資料についてきちんと整備をしていこうという動きとして一九六八年の二月に原爆被災資料広島研究会というのが発足します。私自身はこの研究会で最も多くのことを学びました。
談和会の動きに戻りますが、一九六四年に談和会が発足して、翌年には原水爆被災白書についての佐藤総理大臣への要望書を提出しています。佐藤栄作さんの弟さんは広島で原爆に遭い亡くなったそうで、今堀誠二先生がこの要請に行かれた折に、その話をされながら、この要望について正面から取り上げられたそうです。佐藤さんは、閣議でこの要請を検討するように指示したのですが、何をやったらいいのか分からず、受け止める省庁がなくウヤムヤになったとのことでした。今堀先生のご存命中にもう少し詳しく聞いておきたかったのですが、先生などからそのように伺っております。
談話会の動きなどがきっかけとなって原爆被災白書推進委員会が作られます。委員長は茅誠司、委員には、内閣官房長官愛知揆一など錚々たる人々が名を連ねております。占領期の山崎与三郎さんの想いを、今度は日本全国の学者が具体化しようとしたものと考えることもできます。この会が、翌年、政府に要望書を出しているのですが、その中では、日本の政府は世界に原爆被害についてどういうことを発信しなければいけないかということを非常に体系的に述べられています。ここでは、医学的調査とともに被爆者の心理的影響と社会的変動、富の損失についても研究するというテーマがあります。今日では、大きな災害、校内での殺人事件などがあるとPTSDのケアが必要だということになっていますが、こうした心理的影響への対応の認識は、日本では阪神大震災以後のことです。原爆という非常に大きな災害がありながら、これまで何等の配慮がなく今もないということは、被爆者対策の恐るべき空白ではないかと思っています。
原爆被災資料広島研究会ですが、私はこれに関わるととともに、この成果を随分利用させていただきました。慰霊碑めぐりなど色々なものをやる際に手がかりになりました。この会の中心人物の一人である田原伯さんは、非常に貴重な資料を沢山収集しておられ、詳細なデータを整理しておられました。今、それらの資料がどうなっているか分からないのですが、一九九九年には、JRから払い下げを受けたコンテナの中へ保存されていました。占領期の資料で非常に貴重なものをお持ちです。
一九七〇年代の前半というのは、全国的に原爆被害だけではなく戦争被害に対する関心が高まり、資料収集の重要性が様々な場所、行政や平和教育現場、市民運動の中でも認識をされた時期です。その主な動きをまとめております。
先ほど全国組織の要望書を紹介しましたが、地元の広島でも取り組む会が必要だということで原水爆被災資料センター設置推進に関する準備懇談会というのが、一九七二年の二月一日に広島大学原爆放射能医学研究所で開かれました。広島県の中からも担当者を出してほしいということで、県史編さん室員であった私が出席しました。私は、原水爆被災資料センターを国立で作ろうという運動に、最初の時点で関わっていたことになります。その翌年に平和教育シンポジウムというのも、第一回が開かれております。一九七四年には、呉空襲を記録する会というのが生まれました。私は呉に住んでおりますので、この運動の始めだけ関わっておりました。中国新聞社呉支局が、これを取材して独自に本にしました。早くから、会として体験記集を作ろうという声もあったのですが、「こういう運動というのは本を作ってしまったら終わりになるので作るのを遅らせよう」という意見があり、長い間実現していませんでしたが、今年にやっと出版されました(呉戦災を記録する会『呉戦災 あれから六〇年』)。
広島市は、一九七五年にアメリカにある被爆資料の調査を行いました。広島市が自分のところの資料だけではなく、海外に目を向けた恐らく最初の動きだと思います。この年は、被爆三十周年に当たり、日本学術会議が政府へ国立の原水爆被災資料センターを作れという勧告を出しました。日本学術会議は、こういう勧告が出たからか原爆問題に非常に熱心で、事務局長が変わるごとに広大の原爆放射能医学研究所に様子を見に来られました。ただ、広島大学の教員の中には、日本学術会議は、政府に立てつく組織であり、これが言うから実現しないのだという声もありました。
政府としては国立の原水爆被災資料センターは作りませんでしたが、一九七四年に広島大学原医研内に原爆被災学術資料センターを設置します。それまで医学標本だけを集める医学標本センターがあったのですが、それに医学関係資料だけではなくもっと広く資料を収集しようということで予算と人員をつけました。私は、この措置により、そこに就職することができました。国立の原水爆被災資料センター設立運動に関わった人たちからは、この措置に対する強い批判がありました。なぜかといえば、自分たちの運動がこれでごまかされたというものです。先ほど、運動というのはまとめが出ると終わりになるという意見を紹介しましたが、もう一つ組織ができるとだめになるところがあります。原医研に資料センターができたことで、一般的に資料への関心が薄まったように感じています。この運動に関わった人たちの中には、自分の仕事を片方で持ちながら今日に至るまでずっと原爆被災の基本に関わる運動・仕事を続けている人が少なからずいます。彼らに比べ私は非常に恵まれた立場にあったのですが、私もこの運動に関わっていたので、非常に肩身が狭いというか、つらい思いを、原医研へ勤めている間しばしば感じていました。
被爆四十周年前後から新たな動きが起こります。一つは、被爆者団体による原爆手記の出版、証言活動が非常に活発になりました。被爆者自身が、自分たちの声をみんなに伝えようという運動です。これは、四十周年に際立って高まります。もう一つは、広島市、広島県、厚生省といった行政機関が被爆資料に対する取り組みを始めます。まず、原爆手記集を見ていきます。一九八五年が被爆四十周年ですが、この一年間だけで二百冊を超える原爆手記を載せた本が出版されました。その多くは自費出版です。被爆四十年当時には、この事実を分かっていたわけではないのですが、次第に明らかになったので、どの程度の規模なのか、なぜこれほど手記が出されるのか、ちゃんと確認しておきたいと思い調べ始めました。手記集を編んだ意図として、自分たちに被爆五十周年はないのだから、この四十年を機に作っておこうという思いが随分入っております。そこで、五十年まで続かないのであれば、この傾向ががどう消えていくのか確認しておこうと考えました。しかし、消えるどころか持続し、被爆五十年には再び非常に多くの手記集がでるという現象がありました。結局、被爆四十周年から五十周年までずっと原爆手記の収集と分析を自分の仕事中心に据えることとなりました。その結果、一九九五年までの五〇年間に三万七七九三件の手記を掲載する三五四二点の刊行物を確認しました。
もう一つの行政などの取り組みは、先ほどの石丸先生が紹介されたものと重なる部分もありますが、単に建造物だけではなくてもっと様々な形で被爆の資料に対する関心が見られました。私が関わったもので一番早かったのは、平和文化センターが一九八四年に設置した原爆被災資料調査研究委員会です。今堀先生が座長だったと思いますが、今堀先生から依頼を受けて入りました。一九八八年の中国地域データベース推進協議会は、この当時通産省がデータベースというのは今後日本の商業戦略上非常に重要だということで色々な機関に委託研究をさせたものの一環です。中国新聞社が、新聞記事データベースの総合利用に関する調査研究というテーマで引き受け、広島でデータベース化するとすればまずなによりも原爆資料ということで私が関わりました。当時、データベースの中でわが国独自のものは四分の一に過ぎず、日本は外国のものを利用するだけで発信するものが何もないほど少ないという現状がありました。取り組みは早かったのですが、しばらくは進展しませんでした。しかし、森喜朗首相の折に、インパク(インターネット博覧会)というのがあり、それ以降さまざまな機関が、資料のデータベースの作製やホームページによる紹介に取り組んでいます。
厚生省が、被爆五十年の目玉として原爆死没者の追悼施設を作るということを計画しました。色々ややこしい経緯があったのですが、被爆者対策で弔慰金を認めないかわりに、つまり被爆者手帳を持たずに亡くなった人たちに対する対策をしないかわりにこのような追悼施設を作るという形が出てきました。これに対する反対が強く中々実現しませんでした。結局、十一年かかって国立の死没者追悼平和祈念館ができることになります。広島市は、一九九四年に広島平和記念館東館を開館します。被爆五十年を過ぎた一九九八年には原爆資料館の外部委託を打ち出しました。当時、「屋上屋を重ねる」、つまり原爆資料関連施設の機能重複論が国や広島市行政の中でまかり通っていました。私自身は、外部委託でどうなるのか見当もつきませんでしたし、その問題に意見・見解を述べるつもりはなかったのですが、この「屋上屋」論を認めてしまえば歴史的な研究や資料面に対する関心が失われてしまうという危機感を個人的に持ち、自分なりに意見を述べました。たとえば、日銀を原爆文学館として活用してほしいという市民の要望に対して、市立中央図書館や広島平和文化センターと役割が重なるとの声が市の中にありました。私に言わせれば、それでは、市立中央図書館や広島平和文化センターにどれだけ原爆文学が収められているのかと問いたいということです。小泉首相(当時厚生大臣)も、原爆死没者追悼平和祈念館をどのような中身にするかという議論の中で、広島には原爆資料館があり屋上屋を重ねるようなことはないと発言しました。それでは、原爆資料館がどれだけのものなのかと問いたいということです。一九九八年二月十五日に原爆資料館の外部委託を考えるというシンポジウムが中国新聞社の会議室で開かれました。誰が主催なのかよく分からない怪しい会議であったかと思います。そこで、様々な角度からの意見が出されたのですが、私は、行政資料や個人資料などに対する配慮が市の行政にはないということ、広島・長崎両県以外の資料は広島市の手にあまるのではないかということ、それから広島市は、自らが今抱えているもの、あるいは広島市内に存在するものについては資料の収集整理保存利用体制を整える必要があるわけで、それが外部委託で可能なのかという発言をしていました。
公共機関(厚生省・広島市)への期待
被爆六十年になった現状ですが、被爆二十周年以降原爆資料についての関心が非常に高まり、その高まりが四十年間続いた結果、我々が何かを調べようとすれば様々な形で簡単に知ることができるようになっています。国立公文書館で原爆を検索すると、国の公文書など様々なものを検索することができます。中には、要審査という簡単には見せないものも含めて公開されているというはすごいことだと思います。四十年前では考えられなかったことだろうと思います。たとえば、京都大学の行政文書ファイル管理システムがインターネットで確認できます。広島で調査を行っている最中に、台風で亡くなった人の慰霊祭関係の行政文書が残っているということが分かります。
原爆資料館の委託には、先ほど述べたように、当初、抵抗感、違和感があったのですが、人的な充実がなされた結果、非常によい仕事をされていると思います。その中身は、後で高野さんの方から報告があると思います。やはり、施設があり、そこに人がつくということは、非常に大きな変化を生むのだと感じています。それに対して、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、国の施設でありながら、一体何をしているのだというのが、開館以来の私の気持ちです。国立というには、あまりにも恥ずかしいのではないかという気がしています。
今年、マスコミは被爆問題について非常に関心が高いように見受けられるのですが、その中の資料をめぐる内容は非常に少ないと思います。やはり被爆五十年で終わったのだという感を強くしています。マスコミに関する限り、報道のあり方が五十年と比較することによって一変しています。先ほど言った原爆被災実態や原爆資料への関心の低下は、マスコミだけではなくて全体にいえることだと思います。それから平和教育面ですが、ここに先生方が居られたら是非お話を伺いたいのですが小中高では非常に力が弱まっているように思います。その代わりといってはなんですが、幾つかの大学では活発になっており、広島市では「広島・長崎講座」というのを企画しています。現在の職場である女学院を例に見ても、年間を通じて何らかの形で原爆問題を取り上げています。また、被爆手記の出版活動は一体どうなっているのかということを昨年確認してみました。一九九六年以降、私の確認できた限りですので、もっと多くのものが出版されているはずですが、四百七点の書誌が出版されています。
最後に、新しい動きあるいは今後こういうものが色々な形で起こってくればいいということで幾つかの動きを紹介したいと思います。一つは、昨年出た本ですが『原爆と寺院―ある真宗寺院の社会史』(法藏館、二〇〇四年)という本です。新田光子さんという方は、関西方面の大学教員ですが、自分の実家が寺院ということで、或るお寺がどういう風に原爆に遭遇したのかというのを調べ始めたようです。中身は広島原爆戦災誌をベースにして、それに自分の個人的な関わりを加えているという本です。私自身は、広島原爆戦災誌を新たな形で作る必要があると思っています。この本は、そういう作業の一つだと思っています。次に、一昨日出版されました元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会の『爆心地中島―あの日、あのとき―』も、爆心地域の事実というものを広島原爆戦災誌だけではなく、それ以後出版された手記集、あるいは今日生存している方々の証言を合わせてまとめられたものです。色々な地域を対象にこういう作業がやられる必要があると思っています。三つめは直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店、二〇〇四年)です。原爆の絵を全て見られたそうですが、見ている最中に、夜眠れないと言っていました。絵の情景が寝ても出てくるとも言っていました。この人は若い研究者ですが、広島市など様々な公共機関が集めている資料を、全部を見てみるというチャレンジは素晴らしいことだと思っています。この方は、この四月から九州大学大学院に就職が決まり、幸い今後も原爆問題をテーマとした研究を続けていきたいと言っておられました。
最後は、数野文明さんが、非常にマイナーで我々に見えない雑誌(『国文学研究資料館紀要 アーカイブス研究編』第一号、二〇〇五年)に執筆された「原爆とアーカイブ」という論文です。私は原爆被災で県庁の文書がすべて無くなったと教えられてきましたが、否そんなことはないということに途中で気がついていました。それを真っ向から取り上げ、一体原爆で失った行政資料はどれなのか、戦後行政の怠慢・責任で無くなった資料はどれなのかという事実関係を明らかにしています。非常に面白く読ませて頂きました。原爆問題全体について私が感じていたことですが、広島市や県の行政責任や市民自身の責任まで原爆の責任にするという広島の言説が、まま見られます。例えば占領期の問題では、アメリカ軍をみな悪者にしておけばいいというわけで、アメリカが悪かったからできなかった、占領軍が悪かったから原爆関係のこれこれができなかったという言説です。
原爆問題に関する課題は、文献資料だけを取り上げても、多くが残されています。私は、原爆問題に関心のある学生がいれば一緒に、『広島原爆戦災誌』のテキストをパソコンに取り込んで、活用していこうと思っていましたが、最近、広島市のホームページ上に掲載されているのを見つけました。広島市の当面やるべきことの一つとして、この本の改訂版の作成があると思っています。これは、何も本にする必要は毛頭なく、インターネット上でちゃんと見られるようにすればいいと思います。広島市へ全部これをきちんとやれと言っても、広島市もやることが多いし何も全部やってもらわなくてもいい。それぞれの団体、あるいは関わりのある人々がその改訂版を作っていけばいいと思います。私の場合は、今広島女学院にいますので『戦災誌』の広島女学院部分の改訂作業が、同窓会関係者や学生とともに行えればと考えています。また、折鶴の会の世話をしておられ、広島女学院中高に勤めておられた河本一郎さんの資料を原爆資料館が引き取って下さり整理されています。これらも女学院の関係者で活用させていただければと思っています。
五~六年前元の職場にいた折に、主に政府関係者に対し資料は無限にあるのだということを主張する根拠として、原爆被害関連組織の一覧表を作りました。一九四五年だけでも、三つがあります。これをずっと見ていくと、膨大な団体が生まれております。例えば、一九五七年九月十五日には原爆被害者大分県協議会というのが作られており、五七年三月二十九日には岡山県原爆被害者協議会というのが作られています。毎年、多くの被爆に関わる組織が作られてきています。これらは、資料を生んでいるはずです。そうした資料は、組織が消滅した後にどうなるのだろうか、それぞれの行動記録は残されていくのだろうかと考えると、はなはだ心もとない限りです。これは、広島、長崎あるいは関係者がやれば一番いいのですが、そういうことができないまま消えてしまうものも多くあったと思います。これらへの配慮を、国だけでは無理ですが、少なくとも全国的な運動にならなければならないといけないと思います。『広島県史』を作る折に、広島県予防課と広島市原爆被爆者対策課の資料調査をさせて頂いたことがありますが、原爆手帳交付申請書というのが保管されていました。これは、全国の各県庁にあるはずですが、恐らく広島県や長崎県を除く他県では、こういう資料の重要性を認識してもらうのは非常に難しいのではないかと思います。これら、他県にある資料を一体どうするのかということです。秋田県は、被爆者が全国で一番少ない県で、何年か前にすでに百人を切っていますが、そういった資料は今後どうなるのかということです。時間を四十分使ってしまいましたが、以上で終わります。

山崎与三郎の広島平和記念都市建設方案1949年9月20日