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反核運動1996

反核運動1996


フランスが、1月27日に南太平洋ムルロア環礁で核実験(昨年の核実験再開以来6回目)を実施したが、終了後、実験終結を宣言、その後ムルロアの核実験場の閉鎖に着手した。また、中国も、6月8日と7月29日に、ウィグル自治区ロプノルで核実験を実施、7月の実験後、核実験を凍結するとの声明を発表した。これにより、前年に引き続いて展開された両国の核実験に対する反対や抗議の運動は終息した。

今年には、世界の非核化に大きな進展があった。仏・米・英の3つの核保有国の南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)への調印(3月25日)、ロシアを除く核保有4カ国のアフリカ非核化条約(ペリンダバ条約)への調印(4月11日)がなされた。これにより、これまでに調印された南極(1959年)・中南米(トラテロルコ条約、67年)・東南アジア(95年)の各非核地帯条約と合わせ、南半球の大半が非核地帯で覆われることとなった。さらに、9月10日には、国連総会であらゆる核兵器の爆発実験やその他のあらゆる核爆発を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が158カ国の賛成で採択された。

【核実験反対運動】

日本国内ではさまざまな団体が、仏・中両国の在日大使館への抗議デモや抗議文の送付を実施した。1月4-14日には、広島の市民グループによる「市民のフランス原爆展」が、パリ・リヨン・グルノーブルの3都市で開催され、約1000人の観客を集めた。また、2月6日-17日、連合や広島・長崎の被爆者団体など主催の「ヒロシマ・ナガサキ原爆資料展」が、パリで開催され、期間中に約9000人が見学した。

このほかに、長崎大学医学部有志が、ルモンド紙(1月27日付)に、1面を使った反核意見広告を掲載している。また、6月には衆議院(14日)と参議院(17日)が中国の核実験に抗議する決議案をいずれも全会一致で採択した。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日前後、広島・長崎両市で原水爆禁止日本協議会(原水協)系の原水爆禁止世界大会が、それぞれ7500人、3000人規模で開催された。国際会議では「核兵器のない21世紀を=国際共同行動」を提唱した宣言が採択された。また、大会には核保有5カ国の核開発・実験・使用によって生じた放射線被曝者の代表が参加し、交流を深めた。

一方、原水爆禁止国民会議(原水禁)系の大会も、「CTBTから核廃絶へ」をメインテーマに、それぞれ5500人、2800人規模で開催された。連合・原水禁・核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)の合同集会(前年に続き2回目)、生活協同組合連合会の集会なども同じ時期に両市で開催されている。

【被爆体験の普及と継承】

広島・長崎両市は、昨年のスミソニアン協会航空宇宙博物館の被爆資料展示の中止問題を契機に、被爆の実相を伝えるため国内外の団体に原爆展の開催を呼びかけていたが、7月26日には政府主催による海外での原爆展開催を外務省に要請した。アメリカでは平和をめざす退役軍人の会が、広島・長崎両市の呼びかけに応え、8月20日から13日間、コロンビア市のスティーブン大学で原爆展を開催した。また、広島市は、8月27日-9月1日に新潟市で「ヒロシマ原爆展」が開催した。両市は、こうした国内外での原爆展を来年以降も継続的に開催することを計画している。

原爆展以外にも被爆体験の普及と継承をめぐる新たな動きが見られた。長崎市の原爆資料館が、4月1日に新装開館した。同館に展示された南京大虐殺など日本の加害を示す資料は、国内外に反響を呼び起こした。中国からは、新華社通信が開館を報道するなど好意的な反応が示されたが、同月23日、開館前からこの展示に反対していた長崎日の丸会などが「長崎の原爆展示をただす市民の会」を結成した。

平岡広島市長が8月6日の平和宣言の中で、「被爆資料の集大成」と「平和文化」の創造を訴えたが、宣言の中でこうした問題が取り上げられたのは、初めてのことである。広島では、12月に原爆ドームの世界遺産化の実現し、被爆体験の国際化が新たな形で進められようとしている。

広島・長崎両市は、数年前から平和公園一帯の整備を進めている。しかし、その一環として計画されたレストハウス解体(広島)、原爆落下中心地碑の撤去・立て替え(長崎)について、両市民の間で、これらの計画を撤回し保存を求める集会や署名運動が広がりを見せた。

【国際司法裁判所】

オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)は、世界保健機構(WHO、1993年11月決議)と国連総会(94年12月決議)の要請に基づき核兵器使用と威嚇が国際法に違反するかどうかの審理を続けていたが、7月8日、その判断を示した。それは、WHOの要請については、要請を提出する資格がないとして却下する一方、国連総会決議に対しては「核兵器使用または核兵器による威嚇は一般的には国際法違反」との勧告的意見を示したものであった。

この意見が、自衛目的の使用についての判断を避けたものであったことから、広島・長崎両市では、否定的な評価が目立った。しかしその一方で、ICJの意見を、核兵器廃絶を求める国際世論に応えたものとして評価し、これを足がかりとして核兵器廃絶をめざす動きが見られた。マレーシアなど非同盟23カ国は、10月31日、ICJの勧告的意見に基づき核兵器禁止条約交渉の早期開始を求める決議案を国連総会第1委員会(軍縮)に提出した。この案は、同月14日の委員会において圧倒的多数で採択された(日本政府は棄権)。

【チェルノブイリ10周年】

チェルノブイリ原発事故10周年のさまざまな行事が催された。4月9-12日には、IAEAと世界保健機構(WHO)・欧州連合(EU)の共催による同事故の影響と今後の対策について話し合う国際会議が、ウィーンで開催された。世界各国から約700人が参加したこの会議では、事故により放出された放射線が当初推計の3-4倍に及ぶことや事故後に発生した小児甲状腺がんの増加状況などが報告され、改めて事故の被害の大きさが確認された。

同月20日には主要7カ国(G7)とロシア首脳がモスクワで原子力安全サミットを開き、原子力平和利用で安全性を最優先させることやCTBTの早期締結などを柱とする声明と宣言を採択した。事故当日に当たる26日には、ロシアやウクライナなどで事故犠牲者の追悼行事が催された。ロシアでは事故犠牲者27人が眠るモスクワ郊外の墓地において、ロシア第一副首相ら約2000人が参列して追悼式典が挙行された。

【海外の動き】

4月1日から4日間、米・ネバダ大学ラスベガス校で米内外の反核・平和団体35組織から500人余が参加して核廃絶サミットが開かれた。また、4月24-25日にはNGO(非政府組織)国連軍縮会議が、「1996年-重大な転機にある軍縮」との全体テーマのもとにアメリカ・ニューヨークの国連本部で開催された。日本から、前者には原水協や日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表が、また後者には広島・長崎両市の代表が参加した。このほかに7月25-28日には、米マサチューセッツ州ウースターで核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の第12回世界大会が、42カ国から400人が参加して開催された。

反核運動1995

反核運動1995


被爆50周年を迎え、広島・長崎両被爆地はもちろん海外でも、例年になく多彩な行事が催された。また、核軍縮をめぐっても、大きな動きが見られた。核拡散防止条約(NPT)延長・再検討会議(4月-5月、ニューヨークで開催)は、投票無しの全会一致で無期限延長という結果に終わった。同時に、1996年中に包括的核実験禁止条約(CTBT)の締結に向けた合意を達成することが決められたが、その直後の5月15日に中国が新彊ウイグル自治区のロプノル実験場で核実験を実施、6月13日にはフランスが核実験再開の意向を表明した。その後、8月17日に中国(今年第2回目)が、また、9月5日、10月1日、27日、11月22日とフランスが南太平洋ポリネシアのムルロア環礁で核実験を実施した。

【核実験反対運動】

フランスの核実験再開声明に対し、スウェーデン・デンマーク・ドイツなどでフランス製品のボイコット運動が始まり、その他のヨーロッパ諸国や日本にも広まった。また、オーストラリア・日本やフランスなどで、数千人から1万人を超える集会が、繰り返し開催された。国際的な反核団体グリーピースは、9月1日に「虹の戦士2」のボートによるムルロア環礁のフランス領海突入といった直接行動を実施した。また、同フランス支部は、10月28日に世界約30か国から集まった核実験反対の署名約700万人分をシラク大統領あてに送った。

6月29日には、核実験場となるポリネシアの政庁所在地タヒチ島パペーテで、同島始まって以来の約1万2000人による実験反対デモが行われ、実験直前の9月2日には、10数か国の国会議員約100人を含む約2000人による国際抗議集会が開催された。しかし、実験直後の6日に発生した約3000人のタヒチ島ファーア空港への乱入・放火事件後、ポリネシア領内での運動は鎮静化した。

こうした市民レベルの運動と並行して、7月14日の欧州議会(EU)、30日の東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議、9月14日の南太平洋諸国会議(SPF)首脳会議、22日の国際原子力機関(IAEA)第39回総会、11月10日の英連邦首脳会議などで核実験への憂慮や遺憾の意が表明された。また、11月16日には国連第1委員会で日本・オーストラリアなど41か国が共同提案した核実験停止決議案が採択された。国内では、8月4日、参・衆両院の本会議で、それぞれ中国・フランスの核実験に反対する決議が採択され、国内の県市町村議会でも、核実験反対決議があいついだ。

【被爆50周年】

広島・長崎両市では、国連軍縮長崎会議(6月12日-16日、テーマ「過去半世紀における軍縮努力と将来への展望」)、世界平和連帯都市市長会議アジア太平洋地域会議(6月28日-30日、広島、テーマ「アジア太平洋地域の平和と都市の役割-核兵器廃絶を目指して」)、第45回パグウォッシュ会議(7月24日-29日、広島)、国連非政府組織(NGO)軍縮特別委員会主催「被爆50年国際シンポジウム」(7月31日-8月2日、広島)などの国際会議が開催された。長崎での国連軍縮会議(日本での開催としては7回目)と日本でのパグウォッシュ会議の開催は、被爆50周年を記念して初めて開催されたものであった。両者ともに、これまで核管理や核軍縮を中心テーマとしたものであったが、今回はとくに核廃絶が取り上げられた。

海外のマスコミも被爆50周年に大きな関心を寄せた。広島・長崎両市長は、3月15日、日本外国特派員協会に招かれて講演、広島市の平和記念式典を取材した報道機関は、同市が把握しただけでも21か国95社に及んだ。両市は、こうした関心に応え、NPT延長・再検討会議などの会議への代表派遣、8月6日付ワシントン・ポスト紙への意見広告の掲載(広島市)といった海外への働きかけも積極的に行った。このほか9月28日に、外務省が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会に広島の原爆ドームの推薦書を提出しているが、これも被爆50周年の実現をめざして、政府が前年から準備していたものであった。

【原爆展】

スミソニアン協会航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念して原爆資料の展示を企画したが、退役軍人会などの圧力に屈して1月に展示の中止を決定、6月28日に広島原爆投下機エノラ・ゲイを中心とした展示を開始した。この問題を契機にアメリカ国内では、原爆投下の正当性をめぐる論議が高まり、ワシントンのアメリカン大学(7月8日-27日)などで原爆展やシンポジウムが開催された。韓国でも、ソウル市(7月25日-31日)などで「侵略と原爆展」が開かれた。アメリカ国内で見られた「侵略者である日本が被害者として描かれる」という批判を考慮した新しい試みであった。

【国内の動き】

原爆記念日前後、広島・長崎両市で原水爆禁止日本協議会(原水協)を中心にそれぞれ9000人、6000人規模の、また、原水爆禁止国民会議(原水禁)を中心に6000人、3000人規模の原水爆禁止世界大会が開催された。NGOが日本で「国際シンポジウム(正式名称:広島・長崎への原爆投下と核軍拡競争による被害の実態と補償ならびに核兵器廃絶についての被爆50年国際シンポジウム)」を開催するのは、1977年以来のことである。今回は、原水協と日本原水爆被害者団体協議会が中心となって準備をおこなったもので、23か国40団体77人の海外代表が参加した。シンポジウムでは、日本の原爆被害だけでなく、アメリカ・ロシア・カザフスタン・マーシャルなどでの核開発にともなう被害の実態が明らかにされた。このほか、連合が、原水禁と核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)と「協催」の形で、1万人、3500人規模の集会を広島・長崎両市で開催している。

急速に普及しているインターネットを利用した反核の動きが日本にも現れた。東京大学の大学院生が呼びかけたフランスの核実験への抗議署名には、8月15日までに102か国から約6万人が応じた。また、広島・長崎両市長は、ホームページを設け、その中で、原爆記念日の読み上げた平和宣言などを世界に発信している。このほかにも、原爆被害情報を中心として発信する試みがいくつか試行されている。

【海外の動き】

10月30日-11月15日、オランダ・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)で核兵器の使用やそれによる威嚇が国際法違反に当たるかどうかに関する口頭弁論が開催された。これは、国際平和ビューロー(IPB)・核戦争防止国際医師会議(IPPNW)・反核兵器国際法律家協会(IALANA)などが提唱した世界法廷運動が、前年12月の第49回国連総会の決議を経て実現したもので、22か国が陳述した。広島・長崎両市長は、日本政府の代表として参加し、11月7日の陳述で、核兵器の使用の違法性の主張を避ける方針を示していた日本政府の方針とは異なり、ともにその違法性を明言した。

放射線被曝者の実態が、前年に続き明らかになってきた。ウラル放射線医学研究センター(1月、ロシア・チェリャビンスク市)・世界保健機構(WHO、ジュネーブ、11月)が開催した会議では、それぞれ旧ソ連下の核開発とチェルノブイリ原発事故による放射線被曝の実態が明らかにされた。また、8月にはアメリカ・エネルギー省が、対象者が1万6000人に及んだとする放射線による人体実験に関する最終報告書を公表した。

反核運動1994

反核運動1994


1995年3月の核拡散防止条約(NPT)期限切れにともなう同条約の改定問題をめぐる論議など、核拡散をめぐる問題がクローズアップされた1年であった。6月には、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)の核開発疑惑に対するアメリカを中心とした経済制裁の動きがあり、緊張の高まりが見られた。その一方で、11月にはウクライナ最高会議の核拡散防止条約(NPT)加盟決議、カザフスタンのウラニウムのアメリカへの移送など核不拡散に向けての動きも存在した。また、被爆50周年という節目の年を1年後に控え、国内外で原爆開発や投下、被爆の意味を問い直す動きが見られた。被爆地広島・長崎では、原爆犠牲者50回忌を迎え、慰霊・追悼行事が多数催された。

【核兵器使用への意見陳述】

国際司法裁判所がWHO加盟国に求めていた核兵器使用に関する意見陳述問題で、広島・長崎両県知事・両市長は、4月、日本政府に核兵器使用の違法性を訴える陳述書の提出を求めた。原水禁団体や平和団体なども、6月以降同様の要請を行った。外務省は当初、「核兵器使用は国際法に違反せず」との陳述書案を準備していたが、羽田内閣の内部でも問題となり、6月10日、政府は違法性に言及しない陳述書を提出した。この問題は、11月に国連総会第一委員会が、非同盟諸国が提出した核兵器使用が違法であることについて国際司法裁判所に勧告的意見を求める国連決議案を採択したことにより、引き続き国際的な問題として検討されることになった。

【原水爆禁止世界大会】

原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月2日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、7500人、3000人規模の大会を開催した。大会では、NPT改定問題が取り上げられ、アメリカなど核保有国が意図する同条約の無期限延長への反対が決議された。原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地で同じ規模の代表が参加した。この大会には、6月末に社会・自民・さきがけ3党による村山内閣が発足したのを受けて、自民党の代表が初めて参加した。

【国内の動き】

細川政権のもとで連立与党による原爆被爆者援護法に関するプロジェクトチームが作られ、援護法の精神・内容についての検討が始まっていた。これは村山内閣の連立与党3党の課題として引き継がれ、11月に政府案がまとまった。一般空襲による被害や海外の戦後補償問題への波及を避けるため「国家補償の精神」が取り入れられないなど、被爆者の要求を満たすものでなく、被爆者団体やその支援団体から強い反発が示されたが、12月に成立した。

広島市を中心に進められていた原爆ドームを世界遺産条約の遺産リストに登録するよう求める請願が、参議院(1月)を衆議院(6月)で採択された。9月には、登録への前提となる文化財指定のための文化庁による遺跡について指定基準の見直し作業が始まった。

NPT改定問題は、5月に開催された第2回国連軍縮広島会議(19か国から61人が参加)でも議論が集中した。また、原爆記念日の広島・長崎両市の平和宣言は、いずれも無期限延長への反対を明確に表明した。

【海外の動き】

前年11月、アメリカの新聞アルバカーキ・トリビューン紙が核開発過程で行われた放射性物質による人体実験の事実を詳細に報道した。これが発端となり、今年早々、クリントン政権による実態究明が始まるとともに、実験の被検者やその遺族による損害賠償請求訴訟がつぎつぎと起こされた。

アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館は、原爆投下50周年を記念する企画展示として、広島への原爆投下機エノラ・ゲイ機と併せて広島・長崎の被爆資料の展示を計画した。このシナリオが明らかになると、アメリカ国内では退役軍人協会を中心に、同機と被爆資料の同時展示に反対する動きが起こり、9月には上院が全会一致で同博物館に企画の修正を求める決議をおこなうまでに発展した。同博物館は、シナリオの大幅な修正を加え、こうした動きへの妥協を図ったが、その一方で、国内の著名な歴史学者やジャーナリストらが原爆投下を賛美するものとして、修正を求めている。

このほか、それぞれ100人、4000人という小規模ではあったが、カザフスタン共和国セミパラチンスクで8月末から9月初めにかけて核兵器廃絶と核実験被害者への補償を求める国際会議が開かれ、10月にはイギリスの核軍縮運動(CND)による集会がロンドンで数年ぶりに開催された。

反核運動1993

反核運動1993


1993年の年頭(1月3日)に、第2次戦略兵器削減条約(START2)がアメリカとロシア両国首脳の間で調印された。また、フランス(1月)やアメリカ(7月)が核実験停止(モラトリアム)延長の声明を行ったことにより、核軍縮への大きな期待が寄せられた。しかし、いっぽうでは、北朝鮮の核拡散防止条約からの脱退声明(3月)、西シベリアの軍事閉鎖都市「トムスク7」の放射能汚染事故(4月)、中国の約1年ぶりの核実験実施(10月)、ウクライナの核兵器保有継続の意志表明(11月)などがあり、核軍縮の困難さが改めて明らかになった1年であった。

【原水爆禁止世界大会】

欧米の反核運動が退潮する中でも、日本においては、被爆体験に基づく運動が展開され続けている。原爆記念日を中心に、さまざまな団体が恒例の集会を開いた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、8月3日~9日に、広島・長崎で、それぞれ、3500人、8000人規模の大会を開催し、「核兵器全面禁止・廃絶国際条約締結」と「原爆被害と核実験被害などの実相調査と補償」を求める特別決議を採択した。また、原水禁国民会議(原水禁、社会党系)の大会にも、両地合わせて1万人近くが参加し、細川連立政権に、原爆被爆者援護法の制定や戦後責任を明確にし戦後補償を果たすことなどを求める行動決議を採択している。このほかに、日本生活協同組合連合会と連合が、両地合わせて数千人規模の集会を開いた。

【放射線ヒバクシャ問題】

海外のヒバクシャとの交流が活発に行われた。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)は、3・1ビキニデー前後に、アメリカ、マーシャル、カザフの核実験被害者を招いて、東京・広島・長崎などで国際シンポジウムを開催するとともに、10月にはネバダ核実験場に訪問交流団を派遣した。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)も、代表をセミパラチンスク(5月)・ネバダ(7月)に送り、放射線ヒバクシャとの交流を行った。また、全国各地の市民団体により、チェルノブイリ原発事故被災者の招請も見られた。行政レベルでも、発足して3年目の放射線被爆者医療国際協力推進協議会(広島県・市を中心に組織)に加えて、今年には外務省や長崎・ヒバクシャ医療国際協力会(1992年発足)による放射線医療関係者の招へい事業も始まった。

【国内の動き】

国連軍縮局は、4月13日~16日、国連軍縮京都会議を開催した。国内での開催としては5回目となるこの会議に、37か国から約90人の軍縮専門家が参加した。会議では、核拡散や核流出問題が話し合われた。また、8月5日~9日には、広島・長崎両市で、「平和の構築と都市の役割-核兵器廃絶をめざして」をテーマに、第3回世界平和連帯都市市長会議が開催され、海外37か国81都市、国内41都市、合計38か国122都市の市長や市議会議長などが参加した。

広島では、数年前から活発になった原爆遺跡保存をめぐる動きに新たな進展が見られた。広島市は、5月に被爆建物の保存に補助金を交付するための要綱を制定し、その第1号として広島日赤の被爆窓枠の保存に3000万円を交付した。また、6月には連合広島など13団体が「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」を結成した。100万人を目標に署名運動を開始し、10月に約134万人分の署名を衆参両院議長に提出した。

【海外の動き】

世界保健機構(WHO)は、5月の第46回年次総会で、核兵器の使用が国際法違反かどうかの判断を国際司法裁判所に求める決議案を賛成多数で採択した(賛成73、反対40、棄権10か国で、日本政府は棄権)。これは、国際平和ビューローが1992年5月に発足させた「世界法廷プロジェクト」の働きかけによるもので、11月には、決議が国連総会第1委員会(軍縮・安全保障)に提出された。このプロジェクトに加わっている核戦争防止国際医師会議(IPPNW)は、第11回世界大会を、9月30日~10月3日にメキシコ市で開催(73か国から約1200人が参加)し、「核兵器は、化学・生物兵器と同様に、国際条約によって禁止すべきだ」とする声明を発表した。

10月17日、ロシア海軍の船舶が日本海に液体放射性廃棄物の投棄を行った。この動向に対する国際環境保護団体グリーンピースによる追跡・抗議行動は、世界的な反響を呼びおこし、液体放射性廃棄物海洋投棄中止のロシア政府声明(10月21日)を引き出すことに成功した。さらに、11月18日には、海洋汚染を防止するための「ロンドン条約」の締約国定例会議が、低レベル放射性廃棄物の海洋投棄を全面禁止する条約改正案を圧倒的多数で採択した。

反核運動1992

反核運動1992


1992年は,冷戦終結にともない,ウクライナ,ベラルーシからの戦術核解体・撤去作業の開始(1月),米ロ首脳会談での戦略核兵器の大幅削減の合意(6月)など,核をめぐる新たな動きが現れた.またアメリカでは,6月に下院,8月に上院が核実験停止法案を可決,10月にはブッシュ大統領が署名した.

こうした核軍縮の急展開にともない,核兵器の拡散,旧ソ連の核管理,原発管理などをめぐる問題が新たにクローズアップされた.

【原水爆禁止世界大会】

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事が行われた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,92年8月2-9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1992年世界大会を開催した.24ヵ国,7国際・地域組織からの50人の国際・海外代表を含め,廷ベ1万2000人(広島8500人,長崎3800人)が参加した.長崎の大会では,く核兵器廃絶-「広島・長崎,核実験地周辺の被害と後遺についての国際シンポジウム>が開かれ,アメリカ,旧ソ連,マーシャル諸島の核実験被爆者などが参加した.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆47周年原水爆禁止世界大会も,8月4~9日広島・長崎で,それぞれ6500人,3500人規模で開催された.海外からは,11ヵ国から22人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月1日に広島市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,連合が両被爆地で独自に開催した2回目の平和集会には,合わせて2000人が参加した.

【国内の動き】

国内の非核宣言自治体の総数は,92年3月に1684となり全自治体の過半数に達した.6月15~18日には,〈大量破壊兵器の不拡散〉をテーマにした国連軍縮広島会議が開催された(19ヵ国から56人が出席).11月4~7日,第6回国際非核自治体会議が,く核兵器の廃絶と恒久平和の実現をめざして>をテーマに横浜市で開催された.アジアで初めて開催されたこの会議には,19ヵ国130自治体(海外の自治体は22)の首長や議員など約800人が参加した.

4月15日,川崎市が,核兵器廃絶平和都市宣言(1982年6月8日)に基づく事業の一環として,26億円を投じて平和館を開設した.91年9月には,大阪府と大阪市が共同で〈ピースおおさか(大阪国際平和センタ)〉を開設しており,92年1月17日には鈴木東京都知事が〈平和記念館〉(仮称)の建設方針を正式に表明している.82年に〈非核〉をテーマとして出発した日本の自治体の平和行政は着実に定着し,終戦50周年を前に,<国際><平和>などのテーマを加え,新たな展開を始めている.

広島・長崎では,被爆建造物の保存と海外のヒパクシャとの交流の動きが活発となった.広島では,8月に市の被爆建造物等継承方策検討委員会が29の被爆建造物の保存・継承方法について報告書をまとめた.また,同市議会は9月29日,原爆ドームを世界遺産条約に基づく(文化遺産)として追加推薦を国に求める意見書を採択した.長崎でも平和公園内の旧浦上刑務支所の保存を求める運動が展開されている.

反原発では,10月4~5日,日本の原子力資料情報室とアメリカの核管理研究所が,都内で〈アジア・太平洋プルトニウム輸送フォーラム〉を開催した.この会議では,15ヵ国・地域からの参加者が,日本のプルトニウム輸送を厳しく批判した.また10月18日には,原水禁国民会議などが,敦賀市で〈止めようもんじゅ全国集会〉を開催(4000人が参加)している.

【海外の動き】

大量動員の動きはみられなかったが,いくつかの国際会議が開かれている.核戦争防止国際医師会議は,第3回アジア太平洋地域会議を92年7月22~23日に韓国のソウルで開催した.また,世界ウラン公聴会(9月13~19日,オーストリア,ザルツブルク,52ヵ国・地域から600人が参加)と第2回核被害者世界大会(9月20-25日,ドイツ,ベルリン,約60ヵ国から500人が参加)の二つの被爆者中心の国際会議も開催されている.このほか,フランスのシェルプール港から日本へのプルトニウム輸送への抗議の声が,輸送ルート周辺各国で起こり,グリーン・ピースなどが,輸送船くあかつき丸>の入港(11月7日)に対して激しい抗議行動を展開した.93年1月5日,〈あかつき丸〉は茨城県の東海港に入港し,同日に約6割のプルトニウムが3km離れた動力炉・核燃料開発事業団の燃料工場に運び込まれた.今回のプルトニウム輸送について,動燃の石渡鷹雄理事長は,〈理解を求める努力に欠け,各国に不必要な心配をかけたことは反省すべきだ〉と述べた.

反核運動1991

反核運動1991


核をめぐる国際情勢は,この1年激しく揺れ動いた.湾岸戦争では,米軍によりイラクの原子炉が空爆され,イラク軍による化学兵器や米軍による核兵器の使用が懸念された.ソ連邦解体の動きは,連邦所有の核管理体制に不安定な状態をもたらした.しかし,その一方で戦略兵器削減交渉(START)条約調印(7月31日)など核軍縮への動きに拍車をかける結果となった.

国内では,各種の反核団体が,湾岸戦争,自衛隊掃海艇のペルシア湾派遣,国連平和維持活動協力法案(PKO法案)などへの取り組みをおこなった.しかし,これらの課題への態度は団体ごとに異なり,大規模な統一行動は生まれなかった.

1991年は,「満州事変」60周年・パールハーバー50周年にあたり,日本の加害責任を明らかにする動きが活発となった.広島・長崎は,それらとの関連で改めてクローズアップされた.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月2日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1991年世界大会を開催した.25か国(29各国組織、10国際・地域組織)からの60人の国際・海外代表を含め、延べ1万2,000人(広島4,500人、長崎7,500人)が参加した。原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆46周年原水爆禁止世界大会も,8月4日~9日,広島・長崎で,それぞれ8,000人・4,500人規模で開催された.海外からは,13か国から28人が参加した.このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,8月3日に長崎市で核兵器禁止全国集会(500人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第11回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・長崎で開催した.また,連合が初めて両被爆地で独自に開催した平和集会には、併せて3,500人が参加した。

[国内の動き]

被爆者団体・原水協・原水禁は,湾岸戦争やパールハーバー50周年に関連してなされたアメリカ政府高官の原爆投下正当化発言に対して,抗議の意志表明をおこなった.10月24日-27日,原水協を中心に核兵器廃絶をめざす第5の「平和の波」行動がもたれ,国内での行動は6,000を数えた.また,7月末現在で,国内の非核宣言自治体は1,612自治体(全体の49%)となった.

被爆地では,原爆被害に新たな意義づけをおこなう動きが見られた.4月,広島で放射線被曝者医療国際協力推進協議会(広島県・市や市内の被爆者医療・研究機関で構成)が発足し,広島の被爆者医療の経験が,チェルノブイリ原発事故の被災者など海外のヒバクシャ医療に役立てられることになった.また,広島・長崎両市長は,8月の原爆記念日に読み上げた平和宣言に,揃ってアジア・太平洋地域へ与えた被害についての謝罪の気持ちを盛り込んだ(広島の宣言では初).

[海外の動き]

1月4日-5日、米国ネバダ州ラスベガスで核実験禁止国際集会が開催された.平和・環境保護団体のグリーンピースや米国内の反核団体などが呼びかけたもので,20か国から1,500人が参加した.5日のデモには3,000人が参加、柵を越えて核実験場内に侵入した450人が逮捕された。この集会は,7日からニューヨークの国連本部で開催される部分的核実験禁止条約(PTBT)改定会議(-18日)での包括的核実験禁止条約(CTBT)実現への機運を盛り上げるため開催されたが,中東での戦争を反映し,主催者の予想を越える盛り上がりを示した.さらに,12日,グリーンピース、アメリカ平和実験、核戦争防止国際医師会議などの反核団体が,ニューヨークで「地球的反核連合」を発足させ,ネバダ(米)・セミパラチンスク・ノバヤゼムリャ(ソ連)・ムルロア(仏)・ロプノル(中国)の5つの核実験場閉鎖のために協力することを宣言した。一方,10月17日-18日には,ネバタ・セミパラチンスク運動が,ソ連カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場で,「地球的軍縮のための国際会議」を開催した.共和国大統領令(8月29日)により同実験場が閉鎖されたこと を記念するこの集会には,約1,000人が参加した.二つの集会には,日本から原水禁の代表が参加した.

反核運動1990

反核運動1990


広島・長崎の原爆被爆45周年という区切りの年,ヒバクシャ問題をめぐり,国内外で新たな動きが見られた.国内では,「ふたたび被爆者をつくらない」保障として被爆者援護法制定を求める声が高まり,米ソでも,原発事故や核開発による被曝者の救援をめぐる動きが活発となった.

[ヒバクシャ問題]

1989年12月15日,参議院で原爆被爆者援護法案が可決,90年5月15日には,厚生省が,85年度に実施した原爆死没者調査の結果を5年ぶりに発表した.また,地方議会の援護法制定を求める促進決議・意見書の採択が,昨年から今年にかけ千を越え,全体で1,500議会(全地方議会の45%)となった.在外被爆者援護については,海部首相が来日した盧泰愚大統領に在韓被爆者への40億円の基金提供を約束(5月24日)という具体的な進展が見られた.

アメリカでは,6月,エネルギー省が,「マンハッタン・プロジェクト」以来アメリカの核兵器製造に携わった約20万人分の健康被害調査データの公表を開始した.また,10月15日には,ブッシュ米大統領が「核被害者補償法案」に署名し,ネバダ核実験やウラン採掘による核被害者に最高5-10万ドルが支払われることになった. ソ連のチェルノブイリ原発事故による被曝者をめぐってもさまざまな動きが見られた.9月6日,日ソ両外相が「チェルノブイリ原発事故の結果生じた事態を克服するための日ソ協力に関する覚書」に署名,23日には,ソ連とIAEA(国際原子力機関)が,「チェルノブイリ原発事故研究センター」設立協定に調印した.また,10月26日には,広島市で開催された世界保健機構(WHO)科学諮問委員会が,被曝住民20万人の疫学調査など研究プログラムに関する6項目の勧告をまとめている.

[原水爆禁止世界大会]

広島・長崎の原爆記念日を中心に,さまざまな団体による恒例の行事がおこなわれた.原水爆禁止日本協議会(原水協,共産党系)は,8月1日~9日,広島・長崎を舞台に原水爆禁止1990年世界大会を開催した.この大会には,13の国際・地域組織と26か国の34組織から69人の海外・国際代表と1万5000人(両地の参加者合計)が参加した.大会期間中に実施した第4の「平和の波」行動は,世界64か国と国内2000か所でも取り組まれた.

原水爆禁止国民会議(原水禁,社会党系)の被爆45周年原水爆禁止世界大会も,8月3日~9日,広島・長崎で,それぞれ7000人・3000人規模で開催された.海外からは,初参加のネバダ・パラチンスク運動の代表(オルザス・スメイロフ議長など11人)と朝鮮民主主義人民共和国の被爆者(広島被爆)をはじめとする12か国・1地域組織の43人が参加した.

このほかに,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議,民社党系)が,7月31日に広島市で核兵器禁止全国集会(600人参加)を開き,公明党も6月から8月にかけ第10回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を沖縄・広島・佐世保で開催した.また,8月6日には,連合・原水禁・核禁会議三者が共催で原爆被爆者援護法の制定を求めるヒロシマ集会を開催している.

[国内の動き]

8月15日現在で,国内の非核宣言自治体は1491自治体(全体の45%)となった.非核三原則をめぐる動きとしては,核軍縮を求める22人委員会(座長:宇都宮徳馬)が,6月初め非核三原則法制化のための要綱を作成し,非核法についての理解を広めるため7月20日と11月27日に東京都内と広島市内でシンポジウムを開催した.また,8月の原爆記念日に広島・長崎両市長が読み上げた平和宣言に,揃って非核三原則の法制化が盛り込まれた(広島の宣言では初).3月26日には,東京都中野区議会が,法的拘束を平和行政に求めたものとしては国内初の「平和行政の基本に関する条例」を可決した.

[海外の動き]

5月24日-26日,核実験禁止国際市民会議が,ソ連カザフ共和国の首都アルマアタ市で開催された.同共和国のセミパラチンスクとアメリカ・ネバダ両核実験場の風下住民や広島の被爆者など,20か国から核被害者や反核活動家1,000人が参加し,核実験禁止の連帯を誓った.ソ連のカザフ共和国では,このほかに10月1日,セミパラチンスク州ソビエト総会が,セミパラチンスク核実験場での地下核実験を即時中止するよう求める決議を採択,25日には共和国最高会議が採択した国家主権宣言の中で核実験全面禁止を規定するなど核実験禁止を求める動きがこれまでになく広まった.

11月8日~11日には、イギリスのグラスゴーで第5回非核自治体国際会議が開催された。23か国から約400人が参加し、反核の課題とともに、イラクのクエート侵攻非難とアメリカの軍事力行使にたいする警告を盛り込んだ決議を採択した。

反核運動1989

反核運動1989


INF条約締結後の緊張緩和ムードの中で、以前のような西欧の反核運動の熱気は見られなくなったが、原子力開発にともなって生じたさまざまな核被害にたいする関心は、世界各地に着実に広がっている。国内では、広島・長崎の被爆地を中心に、市民レベルでの原爆遺跡保存運動や、行政レベルでの「黒い雨」被害の見直し作業など、原爆被害への新たな動きが起こった。

原水爆禁止国民会議(原水禁、社会党・総評系)などがこれまで推進してきた「反原発」運動は、労働界再編の動きの中で新たな対応を迫られた。原水禁は、前年からスローガンを「反原発」から一定期間の原発の操業を容認する「脱原発」に変えている。1月22日には、脱原発法の制定を求める1千万人署名運動がスタートした。

[原水爆禁止世界大会]

8月を中心に、反核団体による恒例の行事がおこなわれた。原水禁の被爆44周年原水爆禁止世界大会は、7月31日~8月9日、東京・広島・長崎で開催され、16か国・地域の40人の海外代表を含め、のべ2万人が参加した。長崎の閉会総会では、被爆者援護法・非核法・脱原発法などの制定を求める大会宣言を採択した。

一方、原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党・統一労組懇系)の原水爆禁止1989年世界大会は、8月3日~9日、広島・長崎で、13国際・地域組織、27か国35組織から63人の海外代表と日本各地の代表1万1000人(長崎閉会時)の参加のもとに開催された。大会と並行して展開された第3の「平和の波」行動は、69か国にひろがり、国内では3000か所以上で取り組まれた。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎市で核兵器禁止全国集会(700人参加)を開き、公明党も8月2日~20日に第9回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を広島・長崎・京都・東京・沖縄で開催した。また、8月31日には、「連合」が、東京で「平和・軍縮・核兵器廃絶」をスローガンに、「国際平和シンポジウム」を開催している。

[国内の動き]

5月上旬、1965年に水爆を積載したアメリカ海軍機が沖縄沖に沈んだまま放置されていることが判明し、これを契機に改めてわが国の国是とされる非核三原則が問い直された。5月14日、核兵器廃絶運動連帯が東京で「西太平洋における核軍縮と日本の責任」をテーマに、また、6月1日には核軍縮を求める22人委員会と非核都市宣言自治体連絡協議会が、横浜市で「今、海の非核化を考える」をテーマにシンポジウムを開催し、非核三原則の法制化を訴えた。8月の原水禁・原水協の世界大会でも、非核三原則の法制化を求める宣言・アピールが採択されている。

広島市の呼びかけによる被爆のシンボル「原爆ドーム」の保存工事費用の募金が、5月1日にスタートした。この募金は、目標額の1億円をわずか3か月で達成、11月20日現在で3億円を超えた。この募金には、各反核団体が協力するとともに、団体には組織されない多くの国民の参加がみられた。募金総額の3分の1は個人によるものである。こうした原爆被害にたいする国民的関心のもりあがりは、原爆被爆者援護に関してもみられた。援護法制定促進決議・意見書は、10月20日現在で、367議会にのぼり、11月14日には、社会・公明・共産・連合参議院・民社・参院クラブの参院6会派が被爆者援護法案を共同で提出している。

[国際平和会議]

広島・長崎の両被爆地を舞台に、二つの大きな国際平和会議が開催された。その一つは、第2回世界平和連帯都市市長会議で、8月5日~9日に開催された。4年ぶりのこの会議には、海外26か国81都市、国内38自治体、計27か国119都市の市長らが出席し、「核兵器廃絶をめざして-核時代における都市の役割」を基調テーマに討議をおこなった。もう一つは、第9回核戦争防止反核国際医師会議(IPPNW)で、10月7日~12日に「ノーモア・ヒロシマ この決意永遠に」をテーマとして開催された。最終登録者数は、海外75か国、1220人、国内1880人、計3100人という国内最大級の国際会議であった。10日発表の「広島・長崎アピール」では、核実験の即時停止や軍事支出の50%削減などを訴えた。このほかに、国連軍縮京都会議(4月19日~22日)・パグウォッシュ東京シンポジウム(9月16日~19日)も開催され、今年は、例年になく国際会議の集中した年となった。

[海外での反核の動き]

2月8日~11日、アメリカのオレゴン州ユージン市で第4回非核自治体国際会議が開催された。21か国から約150の自治体や団体が参加し、海洋核と原子力平和利用を中心に討議をおこなった。また、9月22日から3日間、オランダのハーグに24か国から約150人が参加して、国際反核法律家協会第1回世界大会を開催し、核兵器廃絶を緊急任務とする宣言を採択した。このほか、核実験や原発による放射能被害の解明を求める住民運動が世界各地で展開された。中でも注目されるのはソ連国内での反核運動である。8月6日、セミパラチンスクで1万人規模の核実験抗議行動がおこなわれ、10月21日にも、6万人のデモが展開されている。

反核運動1988

反核運動1988


1988年5月31日~6月26日、第3回国連軍縮特別総会(SSDⅢ)が開催された。INF全廃条約締結後に開催されたこの総会にむけての国際的な盛り上がりは、6年前のSSDⅡほどにはみられなかった。しかし、日本においては、SSDⅠ・Ⅱのような諸団体の統一的な取り組みはなされなかったものの、それぞれの団体がSSDⅢにむけて多様な運動を展開し、約18団体が総勢1200人をニューヨークに送った。総会は、最終文書が採択されないという不調な結果に終ったが、8月前後には、恒例の原水爆禁止世界大会をはじめ、非核自治体や青年など反核運動の新しい担い手による取り組みが広島・長崎を中心に繰り広げられた。

[第3回国連軍縮特別総会]

日本で大量の代表を派遣したのは、日本原水爆被害者団体協議会や日本青年団協議会など市民10団体の「SSDⅢの成功に向けての市民準備会」、原水爆禁止日本協議会(原水協=共産党・統一労組懇系)などの「SSDⅢに核兵器のすみやかな廃絶を要請する日本連絡会」、原水爆禁止国民会議(原水禁=社会党・総評系)の「SSDⅢに向けて行動する会」で、それぞれ250~340人からなる代表団を送った。

総会に設定されたNGOデーである6月8日~9日には、9人の日本代表が発言した。第1日目の発言者は、伊藤サカエ(原水禁)・伊東壮(被団協)・二階堂進(軍縮議連)・中林貞男(市民準備会)・庭野日敬(立正佼成会)の5人で、このうち、伊東は「被爆実態を世界に普及するための各国政府による被爆者招請」を、また中林は「核軍縮に関する国連の情報・研究センターの広島設置」を提言した。第2日目には、荒木武広島市長と本島等長崎市長(世界平和連帯都市市長会議)および広根徳太郎(原水協)・山崎尚見(創価学会インタナショナル)が発言した。

10日には、国連本部で署名提出式が500人の参加のもとに開催された。約3900万の署名の目録が、総会議長へ手渡された。このうち3000万の署名は、日本連絡会の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名である。翌11日には10万人の参加者によりハマーショルド広場での平和集会とセントラルパークまでのデモ行進がおこなわれた。世界的に反核運動の大衆動員が低迷する中で、原水協は、SSDⅢの開催中の6月9日に、前年の10月に続く第2の「平和の波」行動を実施した。この行動では、世界51か国、日本国内では約1000の市町村で反核の署名活動や集会などがおこなわれた。

[原水爆禁止世界大会]

原水禁による被爆43周年原水爆禁止世界大会は、8月1日の東京の国際会議を皮切りに広島と長崎で総会を開催した。国際会議には25か国・地域、2国際組織の60人の海外代表が参加した。一方、原水協を中心とした原水爆禁止1988年世界大会は、国際会議を2日から4日まで広島で、海外代表26か国14国際組織の代表と日本代表のあわせて290人のもとに開催し、広島と長崎で総会をおこなった。いずれの世界大会の総会も、広島では8000~1万人規模、長崎では5000人規模のものであった。また、原水協の大会は、核固執勢力との闘いを訴えた宣言を採択し、原水禁の大会は、「いまこそ、生活の場から反核を!日本こそ、非核・軍縮を!」との大会宣言を決議した。

このほかに、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議=民社党・同盟系)が、7月29日に長崎で核禁会議九州ブロック集会(800人参加)を、8月1日には広島で核禁会議全国集会(600人参加)を開き、公明党も7月31日と8月5日に第8回核兵器全廃と軍縮をめざす平和市民集会を長崎と広島で開催している。

いわゆる市民団体の行事や集会も広島・長崎を舞台に繰り広げられた。日本生活協同組合連合会は、8月5日に広島で「文化の夕べ」を、9日には長崎で750人を集めて「虹のひろば」を開催した。一方、被団協は、広島・長崎で、それぞれの原爆記念日に「被爆者・遺族と国民のつどい」を開催し、原爆被爆者援護法の制定を訴えた。また、日本青年団協議会も、6日に広島で平和集会を開催している。なお、長崎では、県被災協・生協連など市民5団体主催の「市民平和集会」がもたれ、400人の参加が見られた。

[非核自治体運動]

1988年にも60以上の自治体が非核宣言をおこない、宣言自治体総数は約1300となった。非核宣言自治体の宣言後の行動として、東京の町田市・葛飾区、新潟の長岡市、大阪の大東市、福岡の八女市、山口市などが2月から9月にかけて平和都市宣言碑を建立した。大阪の枚方市は、初の試みとして7月25日から3泊4日の広島・長崎ツアー「平和の船」を航行させた。一般公募者1700人から選ばれた市民600人は、船上での記念講演やコンサート、人形劇・平和学校などの催しに参加するとともに、被爆地で原爆被害の実相を学んでいる。このほか、4月に日野市が1億円の平和基金条例を公布した。

非核自治体に関連した動きとしては、非核の政府を求める会(86年に近藤幸正・関屋綾子・宮本顕治などの呼びかけで結成)が、6月21日に東京で第3回総会を開催した。同会は、結成後地方の会づくりに力をそそいできたが、総会までに38都道府県で会の結成をおこなった。

[国内の動き]

日本の反核運動は、これまで8月を中心に繰り広げられてきたが、1988年は、SSDⅢの関係で、5月から6月にかけていくらかの集会がもたれた。5月13日には、原水協などが東京の日比谷の野外音楽堂で「広島・長崎の火5・13集会」を開催した。これは、3月26日に広島・長崎をそれぞれ出発し、全国6コースでリレーされてきた国連に届けるための「火」の終結集会で、2800人が参加した。一方、社会党・総評を中心とするSSDⅢにむけて行動する会は、開会中のSSDⅢに呼応して、6月13日に東京・代々木公園で「平和のひろば」を開いた。約80の団体が出店やパフォーマンスを展開したこの集会には2万3000人が参加した。このほか、宇都宮徳馬を座長とする核軍縮を求める22人委員会が、5月14日に「SSDⅢに向けて、なにができるか」をテーマに、「長崎平和シンポジウム」を開催し、核実験の禁止、非核3原則の堅持、海洋核の軍縮などを求めたアピールを採択した。このほかに、日教組婦人部などが、5月17日から22日にかけて、広島と東京において、「反核・軍縮、地球をまもる女たちの集会」を、12か国からの海外代表をまじえて開催するなど 、多彩な行事が展開されている。

原爆記念日前後には、原水協・原水禁あるいは生協といった大規模な組織による集会とは別に、コンサートなど若者を巻き込んだ行事や職能別の反核団体によるさまざまな行事が、継続的にもたれるようになっている。申楽乃座は、6日に大阪で、4回目の「反核・平和のための能と狂言の夕べ」を上演した。被爆地でも、5日に山本コータローらが広島で、また、6日にはさだまさしが長崎で、それぞれ「ヒロシマ88平和コンサート」とコンサート「長崎から・1988・夏・さだまさし」を開催した。いずれも昨年から始まったものであるが、広島では5000人、長崎では2万人の入場者があった。

[海外での反核の動き]

3月11日から10日間、アメリカの平和団体「ネバダ平和実験」(APT)が中心となってネバダ核実験抗議行動が展開された。12日には、5000人が集会を開き、実験場内に突入して1200人の逮捕者を出している。5月には、ギリシアの「平和の10日間行動」で8万人が行進をおこなった。また、6月25日、地中海の島国マルタ共和国では、3万人が決起し、港を船で封鎖、イギリス核艦船の寄港を阻止した。

こうした大衆動員の行動以外に、SSDⅢに合わせて、パグウォッシュ会議と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)が、それぞれニューヨークとモントリオール(カナダ)で開催された。

慰霊式(1951年)

慰霊式・平和記念式典(1951年)

1951年(昭和26年)5月10日、第1回と第2回平和祭の式典会場となった平和広場の平和塔の除去作業が始まった。直接の理由は、「都市美観上と同地が記念公園となるため」(「中国新聞」1951年5月12日)であったが、平和祭の終幕を象徴するできごとであった。
1951年7月25日、浜井広島市長は、各国主要都市200、国内各市300へメッセージを送付し、そこで原爆6周年の平和式典を開催することを明らかにしている。しかし、この年の平和祭の準備は、スムーズには進んでいなかった。平和祭分担金45万円の追加予算案が可決したのは8月4日の定例広島市会においてであった。
8月3日、広島市警と同公安委員会は、平和祭典委員会、平和擁護委員会などが許可申請を出していた市民広場と荒神小学校での平和大会を禁止するとともに、市民に向けてつぎのような声明を発表した。
平和祭は認めるが、これは同日を市民の厳粛な祈りとする建前であって、平和運動の美名にかくれて反占領軍的あるいは反日本的行動は断じて許されぬ。市民はこのことを十分了解されて、不用意にこの種集会などに参加して政令第325号違反あるいは公安条例など違反に問われることのないよう注意していただきたい。(「中国新聞」1951年8月4日)
この年の式典は、8月6日7時30分から10時まで戦災供養塔前広場で開催された。その式次第はつぎのようなものであり、平和祭というより広島平和協会主催の慰霊祭と言ってもよいようなものであった。
開会の辞  (吉田平和協会事務局長)
慰霊祭   修祓(教派神道)、献花祈祷(キリスト教)、□[判読不能]辞(神社庁)、敬白文奏上、読経回向(仏教)、玉串奉献(教派神道)、賛美歌
献花(浜井平和協会会長)、焼香(藤田供養会長)、玉串拝礼(森保、長岡遺族代表)
黙とう(サイレン)
記念式典
あいさつ  浜井市長
メッセージ 吉田首相、林衆議院議長、佐藤参議院議長、大原広島県知事
平和の歌
閉会の辞
中国新聞社と広島県・市は、アメリカ空軍岩国基地の要請により、朝鮮戦争に50回以上出撃したパイロット20数名を式典に招待していた。また、岩国基地所属の飛行機から花輪が投下され、霊前に供えられた。
この年は、原爆死没者の7回忌に当り、さまざまな団体によって8月6日に向けて多くの慰霊祭が開催された。