『廣島あの日から』(長岡省吾、資料集成後援会、19550525)
内容(抄)
図表・写真・ | 解説 | |
爆発当時の状況 | 19450806 08:15 晴天無風状態 | |
原子雲 | 宇品町7丁目より木村権一氏決死的撮影。爆心より4km | |
広島市の被害全影 | 1か月後爆心地付近より撮影 | |
『廣島あの日から』(長岡省吾、資料集成後援会、19550525)
内容(抄)
図表・写真・ | 解説 | |
爆発当時の状況 | 19450806 08:15 晴天無風状態 | |
原子雲 | 宇品町7丁目より木村権一氏決死的撮影。爆心より4km | |
広島市の被害全影 | 1か月後爆心地付近より撮影 | |
『広島壊滅のとき-被爆カメラマン写真集』(広島原爆被災撮影者の会、19810801)
目次
頁 | 撮影者 | 備考 |
序にかえて(広島市長 荒木武) | ||
001 | 尾糠政美 | |
004 | 尾木正己 | |
016 | 鴉田藤太郎 | |
017 | 川原四儀 | |
028 | 川本俊雄 | |
070 | 岸田貢宣 | |
077 | 岸本吉太 | |
096 | 北勲 | |
099 | 木村権一 | |
101 | 黒石勝 | |
106 | 斉藤誠二 | |
109 | 空博行 | |
122 | 林寿麿 | |
127 | 深田敏夫 | |
130 | 松重三男 | |
133 | 松重美人 | |
143 | 森本太一 | |
146 | 山田精三 | |
147 | 山本儀江 | |
148 | 谷川長次 | |
149 | 陸軍船舶司令部写真部 | |
153 | 廣島特報 | |
154 | 廣島特報 | |
[一覧表]=撮影者氏名、撮影時年齢、遺族ほか | ||
156 | 発刊のことば(19810715、ヒロシマ原爆被災撮影者の会) |
『原爆死の真実―きのこ雲の下で起きていたこと』(NHKスペシャル取材班、岩波書店、20170725 )
目次
章 | ||
1 | きのこ雲の下の二枚の写真 | |
原爆投下三時間後の写真 | ||
「涙でファインダーがくもった」 | ||
御幸橋は壊滅地帯の出口だった | ||
コラム① 「地獄の再現」は、証言者がいたからこそ実現した | ||
2 | 橋の上には凄惨な光景が広がっていた | |
少女は動かなくなった赤ちゃんを抱いていた | ||
「どこに逃げればいいのか」それだけを考えていた | ||
瀕死の重傷を負って | ||
あれは「死の前の光景」だった | ||
コラム② 私たちは八月六日、御幸橋を通った | ||
3 | 写真にはどのような”痛み”が写し出されているか | |
「科学の力」で原爆の実相を浮かび上がらせる | ||
人間が感じる最大の痛み、”フラッシュ・バーン” | ||
写真は”原爆の非人道性”を物語る | ||
放射線による影響は出ていたか | ||
コラム③ 対談 熱傷の専門家×原子核物理学者 | ||
4 | 橋の上は、命を救う最前線だった | |
御幸橋は、救護の拠点となっていた | ||
広島に入った特攻兵を皮肉な運命が待っていた | ||
命の選別が行われた | ||
似島に運ばれて | ||
コラム④ 水をあげるか、あげないか。それは究極の選択だった | ||
5 | 私は友を置いて橋へと逃げた | |
がれきの下で校歌の合唱が始まった | ||
橋の上にいたのは、一〇代の少年少女たち | ||
最大の犠牲者は中学生だった | ||
悔いを抱えて | ||
コラム⑤ 写真が写し出す”悲しき物語” | ||
終章 | 原爆は市民の上に落とされた | |
公表になぜ七年もかかったのか | ||
世界で唯一の写真は、訴え続ける | ||
「被爆の真実」は伝わっているか | ||
コラム⑥ 差別を超えて | ||
あとがき | ||
2020年9月(日録)
日 | できごと |
01 | 投稿『原爆の記録ヒロシマ―米国返還資料から』の校訂作業。 |
02 | 『原爆の記録ヒロシマ―米国返還資料から』を昭和図書館へ返却。 |
02 | ヒロシマ遺文への投稿=「2020年9月(日録)」 |
03 | ヒロシマ遺文への投稿=「原爆死の真実―きのこ雲の下で起きていたこと」。 |
04 | ヒロシマ遺文への投稿=「原爆死の真実―きのこ雲の下で起きていたこと」。「広島壊滅のとき-被爆カメラマン写真集」、「廣島あの日から(長岡省吾)」、 |
05 | ヒロシマ遺文への投稿=「平和擁護広島大会宣言(19491002)」、「HIROSHIMA(長岡省吾)」、「広島(吉川清)」、 |
06 | ヒロシマ遺文への投稿=「原爆記録映画」、「論文:原爆記録映画」、「年表:原爆記録映画」、「爆心地ヒロシマに入る」、「ヒロシマ二十年 原爆記録映画製作者の証言」、「たたかう映画-ドキュメンタリストの昭和史」、「世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書」 |
07 | ヒロシマ遺文への投稿=「母と子でみる 原爆を撮った男たち」、「佐々木雄一郎ヒロシマ25年 写真記録」、「ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録」、 |
08 | 呉市立昭和図書館。『広島原爆写真集』、『長崎原爆写真集』、『広島、1945 生きていた広島』を借り出す。 |
08 | ヒロシマ遺文への投稿1=「ヒロシマ 21世紀へのメッセージ」、「年表:原爆展(1952年)」、「年表:原爆展(1953年)」、「年表:原爆展(1954~55年)」、「年表:原爆展(1956年)」、「年表:原爆展(1958~64年)」、「年表:原爆展(1969年)」、 |
08 | ヒロシマ遺文への投稿2=「年表:原爆展(1970年)」、「年表:原爆展(1973年)」、「年表:原爆展(1974年)」、「年表:原爆展(1975年)」、「年表:原爆展(1976年)」、「年表:原爆展(1977年)」、「年表:原爆展(1978年)」、「年表:原爆展(1979年)」、 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿1=「年表:原爆展(1980年)」、「年表:原爆展(1981年)」、「年表:原爆展(1982年)」、「年表:原爆展(1983年)」、「年表:原爆展(1984年)」、「年表:原爆展(1985年)」、「年表:原爆展(1986年)」、「年表:原爆展(1987年)」、「年表:原爆展(1988年)」、「年表:原爆展(1989年)」 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿2=「年表:原爆展(1990年)」、「年表:原爆展(1991年)」、「年表:原爆展(1992年)」、「年表:原爆展(1993年)」、「年表:原爆展(1994年)」、「年表:原爆展(1995年)」、「年表:原爆展(1996年)」、「年表:原爆展(1997年)」、「年表:原爆展(1998年)」、「年表:原爆展(1999年)」 |
09 | ヒロシマ遺文への投稿3=「広島原爆写真集 決定版」、「長崎原爆写真集 決定版」、「広島、1945 生きていた広島」、「トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録」、「原爆=写真論 「網膜の戦争」をめぐって」、「原爆と写真」 |
10 | NHK総合「土門拳のヒロシマを探して 戦後75年を生きた人たち」(2020年8月8日07:30~07:55)<再放送>視聴。 |
10 | ヒロシマ遺文への投稿=「明田弘司」、「年表:広島原爆資料館」、「文献:原爆資料館」。 |
11 | ヒロシマ遺文への投稿=「松重美人「世界の記録写真」をめぐって」、「ヒロシマ・1960 永田登三写真集」。 |
13 | ヒロシマ遺文への投稿=「土門拳」。 |
14 | 新聞のダウンサイズ作業。切り抜き対象記事掲載の紙面だけを切り取る。9月13日~8月24日分終了。 |
15 | 新聞のダウンサイズ作業終了。8月23日~8月6日。 |
18 | NHK総合ラウンド中国「また、語れる日まで~被爆者“コロナの夏”を生きる~」(出演:豊永恵三郎、森下弘)視聴。 |
19 | ピカ研資料整理=主に地図の整理。 |
19 | 19:00~ ~21:00。BS1「少年たちの連合艦隊〜“幸運艦”雪風の戦争〜」(再放送)視聴 |
20 | ユーチューブのせこへい美術館(2020年8月8日~16日まで、旧日銀広島支店で開催)を視聴https://www.youtube.com/watch?v=cvGz5-kye-Q |
20 | 岩波写真文庫写真(長野重一・名取洋之助撮影)の整理。 |
21 | ヒロシマ遺文への投稿=「生きているヒロシマ」、 |
22 | ヒロシマ遺文への投稿=「HIROSHIMA」、「原爆第1号―ヒロシマの写真記録」、「アサヒグラフ」、「グラフひろしま」、 |
23 | 石踊(安芸書房)に電話。ピカ研にあった第五師団の詳細な地図の存在を尋ねたが、知らないとのこと。 |
23 | ヒロシマ遺文への投稿=「敗戦と原爆投下(週刊朝日百科)」、「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」、 |
24 | ヒロシマ遺文への投稿=「秘録大東亜戦史 原爆国内篇」の校訂作業。 |
25 | ヒロシマ遺文への投稿=「感性で撮るうまい写真」、「森下一徹」、「ヒロシマ 土門拳(1958)」、「ヒロシマ 土門拳全集10」、「生きているヒロシマ 土門拳1978」、「写真随筆 土門拳1979」、 |
27 | ヒロシマ遺文への投稿==「江成常夫」、「記憶の光景・十人のヒロシマ」、「ピカドン-ある原爆被災者の記録」、「福島菊次郎」、「福島菊次郎原爆と人間の記録」、「戦争がはじまる 福島菊次郎全仕事集」、「遺品は語る」、「きみはヒロシマを見たか」、「写真集 被爆45年広島の声なき証言者たち」、「写真集 平和のモニュメント」 |
28 | ヒロシマ遺文への投稿=「写真集 ドンが聞こえなかった人々」、「写真でみる原爆の記録」、「浜口タカシ写真集」、「カール・マイダンス 激動日本の目撃者」、「写真家100人 顔と作品」、 |
予定
年月日 | |
20021004 | ピカ資料研究所資料整理。 |
20201103 | アメリカ大統領選挙。 |
202012 | 真珠湾攻撃(12月8日未明、ハワイ時間12月7日)79周年。 |
『ヒロシマの証 岩波グラフィックス ・7 』(土田ヒロミ写真、杉原正、兼口芳哉文、岩波書店、19821124)
目次
頁 | 遺品 | 旧所有者 | タイトル | 証言者(寄贈者) |
02 | 半ズボンとバンド | 満田二朗 | ナガサキ・ヒロシマ | 満田義忠 |
06 | 懐中時計 | 二川謙吾 | 8時15分で止まった時計 | 二川一夫 |
10 | 弁当箱と水筒 | 折免シゲコ | ||
12 | 防空ずきんとカバン | 生まれ変わり | 舛田耀夫・舛田和枝 | |
17 | スリップ | |||
18 | 救急袋 | 妹のけな気さ | 桑山暁美 | |
22 | ご飯蒸しとコウリャン | 黒いコウリャン | 道田政雄 | |
26 | 双眼鏡 | |||
28 | 学生服 | 甲子園への夢 | 下田則明 | |
33 | 中学生の学生服 | |||
34 | 将校の軍服 | 心の負い目 | 冨田実 | |
39 | サーベル | |||
40 | ガラス・皿・酒杯 | 「武田一括資料」 | 武田学郎 | |
45 | ワンピース | |||
46 | ガラス片 | 体内ガラス | 伊藤悟 | |
50 | 軍医の服 | 夫からのはがき | 本田松子 | |
55 | 爪 | |||
56 | 預金通帳 | 残った通帳 | 佐久間一夫 | |
61 | もんぺ | |||
62 | ピアノ | 被爆ピアノ | 金子修郎 | |
66 | 鉄かぶと | 教師の心の痛み | 福丸敦枝 | |
70 | 帽子・防空ずきん・被服帳 | |||
72 | 下駄 | 執念の下駄 | 井上富子 | |
76 | ワンピース | 謝る毎日 | 古川ミツヨ | |
80 | 金銅仏 | |||
『NHKスペシャル 長崎 よみがえる原爆写真』(NHK取材班編、日本放送出版協会、19950830)
目次
章 | ||
序文 | ||
序章 | アメリカでよみがえる長崎 | |
写真修復計画「長崎・ジャーニー」 | ||
1945年8月10日、川端庸介の「長崎・ジャーニー」 | ||
山端写真と最新技術との出会い/クリスとジュディ | ||
第1章 | 長崎を記録した男 | |
ヒロシマとナガサキ | ||
原爆を記録したカメラマンたち | ||
写真家・山端庸介の戦争 | ||
西部軍報道部と火野葦平 | ||
新たに発見された山端写真 | ||
PHOTOGRAPHS 8・10 長崎・ジャーニー | ||
第2章 | 長崎・ジャーニー1 ラッキーガール、おにぎりを持った親子 | |
偶然の「浦上工場」/八月十日「悲劇の谷」到着/早朝の憲兵隊本部 | ||
少女の微笑み/「ラッキーガール」の悲劇/「さまよう兄弟」との出会い | ||
炊き出しのおにぎり/「おにぎりを持った親子」/優しかった母の面影 | ||
第3章 | 長崎・ジャーニー2 爆心地・傷つき焼かれた人々 | |
モンペの柄から/トラックの上の炎熱地獄/爆心地の悲惨/立ちすくむ少女 平和を祈る龍さんの五十年/路面電車、生と死のドラマ 謎の「浦上天主堂」写真 |
||
第4章 | 長崎・ジャーニー3 救援・逃げ延びた人々 | |
爆心地から北へ/市役所職員奮闘す/「これは私の家だ」 道ノ尾駅の幻の看護婦/日赤第七一三救護班/胸に滲むチンク油の匂い 語ってくれた[お乳をあげる母]/二人の子を失って/写真が説明している |
||
〇〇 | PHOTOGRAPHS 8・10 長崎・ジャーニー | |
終章 | 長崎の映像は語る | |
クリスとジュディの長崎再訪/アメリカ・原爆写真展の衝撃 | ||
あとがき | ||
『昭和をとらえた写真家の眼 戦後写真の歩みをたどる 』(松本徳彦、朝日新聞社、19890331 )
目次
章 | ||
1 | 敗戦・飢餓の証言者として | |
濱谷浩と影山光洋と菊池俊吉と木村伊兵衛そして林忠彦 | ||
2 | 戦後の家族生活を記録 | |
影山光洋と吉岡専造そして富岡畦草 | ||
3 | “時代の貌”をとらえる | |
林忠彦と大竹省二と | ||
4 | 労働者の戦いの中で | |
田村茂と川島浩と | ||
5 | 政治を彩った宰相の顔に迫る | |
三木淳と吉岡専造そして石井幸之助 | ||
6 | 米軍基地問題にいどむ | |
佐伯義勝と常盤とよ子と | ||
7 | ジプシー・ローズをモデルに | |
稲村隆正と秋山庄太郎そして中村正也 | ||
8 | 事件と報道のモラル | |
紫雲丸沈没を撮ったアマチュアカメラマン | ||
9 | 日本古来の建築美に挑戦 | |
渡辺義雄と石元泰博と | ||
10 | “スターの時代”を飾る | |
中村立行と吉岡潤そして早田雄二 | ||
11 | 農村の暮らしに分け入って | |
濱谷浩と木村伊兵衛と | ||
12 | 社会をリアルに切りとる | |
渡部雄吉と長野重一と | ||
13 | 人間の状況に迫る映像 | |
奈良原一高と細江英公と | ||
14 | 浅沼刺殺の一瞬をキャッチ | |
吉武敬能と長尾靖そして大友誠一 | ||
15 | “百円”の写真集にこめる情熱 | |
土門拳と河又松次郎そして… | ||
16 | 原爆の悲惨を見すえる | |
土門拳と松重美人と山端庸介そして… | ||
17 | 現実に対決する強いイメージ | |
東松照明 | ||
18 | 高度成長の“陰”に迫る | |
桑原史成と英伸三と | ||
19 | 都市の光景の映像化 | |
富山治夫と高梨豊と | ||
20 | 広告写真の新時代を築く | |
早崎浩と横須賀功光と | ||
21 | ベトナム戦争と写真家たち | |
岡村昭彦と秋元啓一と沢田教一と石川文洋そして… | ||
22 | “揺れる大学”へ入ったカメラ | |
栗原達男と杉崎弘之と金山敏昭そして江成常夫 | ||
23 | 記憶と幻想を追って | |
森山大道と内藤正敏と | ||
24 | “私写真”への傾斜 | |
深瀬昌久と荒木経惟と | ||
25 | 映像表現の流れに沿って | |
昭和後期写真史への試み | ||
参考文献 | ||
あとがき |
『HIROSHIMA 半世紀の肖像-やすらぎを求める日々』(大石芳野、角川書店、19950303 )
目次
頁 | ||
004 | <はじめに>ヒロシマを撮り始めて | |
021 | 火傷の痕跡をかかえて | |
清水ツルコ、池田精子、山岡ミチコ、岩谷久仁子、 | ||
067 | 入・退院を繰り返しながら | |
高橋昭博、松重美人、原広司、芝間タズ、橋本待子 | ||
加藤礼子、宮田幸子、桑原千代子、定信多紀子 | ||
小倉醇、久保浦寛人、宮永初子、室田秀子、小松清興、金田郁子、今田弥一、沼田鈴子、沼田聰子、日詰忍、佐伯敏子、下江武介、 | ||
李実根、金連順、郭福順、鄭寿作、権順分、厳粉連、金*禮、 | ||
久保美津子、豊永ツヤ子、豊永恵三郎、宗藤尚三、平元一登・平元ツルヨ、梅津康子、竹内武・竹内美代子、槻山ミツエ、山根富子、浜田忠夫、友保絹枝、 | ||
149 | 治らない原爆の傷 胎内被爆小頭症の場合 | |
171 | 半径500メートル圏内 | |
199 | もう一つのヒロシマ 毒ガス島 | |
213 | 夏の記憶 平和公園 | |
252 | <あとがき>凛然とした歳月 | |
255 | 原爆被害MEMO |
『立ち上がるヒロシマ1952 岩波写真文庫アーカイヴス』(岩波書店編集部編、岩波書店、20130728)
頁 | ||
004 | 略地図 | |
006 | ||
007 | ||
008 | ||
129 | 名取洋之助と長野重一 発表されなかった写真<岩波書店編集部> | |
131 | 『広島―戦争と都市』の製作担当は私でした<倉持幸一(元・岩波書店常務取締役)> | |
『百二十八枚の広島 広島を撮り続けて六十一年、明田弘司(写真家)が見た 昭和二十年代→三十年代 』(明田弘司、南々社、20090808)
目次
頁 | ||
004 | 広島駅 界隈 | |
014 | 八丁堀・幟町 界隈 | |
024 | 本通り 界隈 | |
034 | 紙屋町 界隈 | |
042 | 基町・横川 界隈 | |
056 | 原爆ドーム・平和記念公園 界隈 | |
064 | 平和大通り 界隈 | |
076 | 千田町 界隈 | |
086 | 仁保・丹那・宇品 界隈 | |
100 | 江波・観音・草津・五日市 界隈 | |
110 | 広島市街編 宮島、玖波、海田市、坂、呉(川原石)、豊島、尾道、因島、鞆の浦、芸北、西条 |