広島原爆被災撮影者の会の初会合(宇吹メモ)
1978.9.14 於YMCA
(佐々木)東京に行っている広島の撮影分は、入れるというより記録に残しておくだけにしないと。
(松重)それらを入れないと、集大成にならないのではないか。ほとんど出版されているのではないか。
(佐々木)出版物掲載分も記録として残してはどうか。木村さんのは(大和人絹内撮影)ほとんど東京へ行っているのではないか。それを入れるとなると、いろいろ問題が出てくる。個人と写したものと、軍や警察が写したものを一緒にするとトラブルが起きはしないか。
(木村)主人も死んでいるし、撮影を指示した医師も死んでいて、当時のことがわからなくなっている。当時の看護婦さんなどは生きている。
(佐々木)行動記録が今は一番大切ではないか。今後写真が出てきた場合、推定の根拠になる。死なれた人のは、もうわからなくなってしまう。6×6で何枚、キャビネで何枚などという記録が大事。
川本さんの写真――N.G.ピンボケなどのネガが残っている。最初写したものは、米軍が全部持って帰った。それではもう一度撮れとの警察の指示で写したものが残っている。
大和人絹の中には相原さんは行っていない。日赤と逓信病院のみ。大和人絹の中は木村さんのものだけで済ましている。軍と警察のものだけがわからない。
(尾糠)憲兵隊に提出。ネガを提出したかどうかわからない。
(佐々木)川本さんも尾糠さんと同じコースを歩いている。
(尾糠)終戦後すべての写真を焼いた。写真班の横に穴を掘ってうめた。
(佐々木)東京空襲のも警視庁のものだけ残っている。東京のもの、ライカで30本ぐらい写している。
(松重)川本さんの写真、現像ミスも含めれば4~50枚残っているのでは。見たものだけでもそれくらいある。
(佐々木)
(松重)出版物のも写したものにまちがいなければ、複写してでも残してはどうか。
(佐々木)それはいいが、あいまいなものまで加えると目録の価値がなくなる。木村さんは自分の責任でとったもの以外は、自分で写したものとは言われなかった。軍と警察以外のものは、ほぼ検討がつく。
(松重)今日来ておられない人のネガ、枚数の確認と行動記録をつくることが必要。
(川原)6日は罹災者へ食料をもていったと言っていた。7日から写したものと思われる。軍人と一緒に巡ったそうだ。
(木村)宇品が解散になるまで、やめさせてもらえなかった。
(佐々木)9月15日頃までと聞いた。
(川原)相原さんが(調べるため)問い合わせた件についてもすべて返事を主人の代理で書いた思えがある。あの手紙が借りれれば書けると思うんだが。
(佐々木)相原さんがどこかに出すつもりがなければ、借りれると思うが。
川原さんが我々にもっと心を開いてくれたらなあ。
(川原)あの頃は市役所とのいきちがいがあったので、何もしゃべらなくなった。
(佐々木)相原さんは、S44、ぼくが東京へ行くまでは何も知らなかった。
(入室)(山本よしえ)中国新聞写真部に松重君と一緒にいた。
(佐々木)川原さんがついて行ったのは憲兵隊の人と一緒だったと言っていた。
(尾糠)私も憲兵隊と一緒に行った。
(川原)次の日(終戦日)行かれないからと憲兵隊の人にカメラを貸したら、もう返してもらえなくなった。
(佐々木)江波へも行っている。どうやって行ったのか、宇品から船で行ったのかも知れない。
(川原)楠木を写したものは、ゆがんだので写し直した。ゆがんだものが相原さんのところにあり、まっすぐなったのが残っている。
(松重)藤井さんは撮影しているか。
(川原)藤井さんは出ていないと聞いているが、会って話した時には、自分も出たと言っておられた。
(松重)来年どうしても出版しなければならないということはないが、みんないつ死ぬかわからないから早くしておきたい。
(深田)林(タクマ)さんは、自分のは大したことは何(ママ)から、と言っておられたが、早く行っていないと、もう高齢だから。
(松重)川本さんのは、息子が私に任せると言っているが、足どりをまとめておかなくては。
(佐々木)息子さんではわからないのではないか。私も警察関係の人々にずい分聞いたがわからなくなった。
(松重)いよいよ本職の新聞記者にやってもらわなくてはどうにもならないのではないか。今、原災研は150~60万ある。
(岸田)キャビネで揃えたらどうか。費用の点は自分でやっておくことにし、やれない人は私のところでもやるから。
(佐々木)36mmはベタ焼きの方がよい。
(岸田)虫目がねで見るようなですよ。
(山本)出版するのなら写真のサイズを考えておかないと。
中国新聞屋上から、同僚(谷川君)と一緒に移した。合計4枚出てきた。あとは整理してみないとわからない。
(佐々木)わかるものは、もう作業しましょうや。
(川原)当時のことは何も知らないから、私は遠慮さしてください。
(佐々木)尾糠さんは川原さんの行動を知っていないか。
(尾糠)わからない。写真を見ればわかるものがある。
(佐々木)藤井さんが元気な時聞いたら、現像焼付みな別々の人間がやったのだから、だれが写したかわかりはしないよと言っておられた。それがほんとのことだろうと思う。
(松重)キャビネに統一して。
(佐々木)35mmもか。
(松重)そうだ。
(山本)(岸田)利用にはキャビネが良い。
(松重)カード添付写真はキャビネ版とする。行動記録はいつにするか。
(岸田)11月末までにやったらどうか。
(松重)行動記録、11月末までに〆切ったらどうか。
(松重)<ネガ再製について>
市平和文化センターから手紙。田中にやらせるからオリジナルネガを貸して欲しいとの要請があった。それについての私案をつくった。8・6前に依頼があった。
(岸田)<貸出しの場合撮影者の同意をうる>は個人ではなく撮影者の会にしたらどうか。
(山本)撮影者の会を通してやったらどうか。
(岸田)撮影者の会としての権威をもたなくては。
(佐々木)個人で協力しない人もいる。それをどう考えるか。職員が個人でやって、充分責任をもっていない。
(深田)島本
(川原)〃
(入室)(黒石)
(岸田)佐々木さんは佐々木さんの意志ですればよい。
(松重)字句については、また考えてみる。
(佐々木)出版などで依頼があった場合どうか。
(岸田)個人へ来たら、撮影者の会へ連絡することにする。代表者・会則をつくる必要がある。
(松重)原爆写真は公共性が強いから、金銭面は慎重でなくてはならぬ。文化センターは永久保存用ネガと貸出用ネガをつくろうとしている。
(佐々木)文化センターは、いる写真といらない写真を別けようとしている。公文書館は全部を保存しようとしている。
(松重)文化センターは、貸出用ネガがあれば良い。
(松重 三)借りに来たが(キャビネ)何のあいさつもない。
(山本)原稿なら原稿料がでるのだから写真に対しても謝礼があって当然。
(松重)これは森本タイジさんの写真です。
(佐々木)もうこれで集まって話すよりも、あとは通信でやったらどうか。
(黒石)会費をとったらどうか。
(佐々木)1000円づつ集めたらどうか。2000円。
次回11月末までに通信でやる。
(川原)記録の会の写真は返ってくるか。
(松重)あれは言いますよ。
15:35 終了