広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)
建立年月日
場所
備考
19520806
平和公園(広島市中区中島町)
広島平和都市記念碑(原爆慰霊碑)
平和記念公園には、戦前、中島本町、天神町、材木町、元柳町が存在し、店舗や住宅約700軒が密集していた。この地域は、原爆爆心地からほぼ500メートル圏内に位置しており、原爆攻撃により壊滅した。戦後、広島市は、この場所を、公園(中島公園)とすることを計画した。広島市は、1949年4月20日、この公園を平和記念公園として建設することとし、設計図を全国に公募した。7月18日に募集を締め切ったが、応募作品は145点におよんだ。この中から選ばれたのは、丹下健三ら4人の共同作品であった。
この公園は、広島平和記念都市建設法の公布(1949年8月6日)にともない、その裏づけのもとに建設されることとなった。49年10月3日、東京で平和文化都市建設協議会の第1回会合が開催されたが、そこでは平和の理想を象徴する平和記念施設として、①記念公園(平和公園)、②記念館、③記念街路(平和緑道)が建設されることとなった。
①は、本川と元安川に抱かれた三角州の頂点に位置する中島公園(=平和広場、3万2、200坪)とその東側対岸の4、800坪(旧広島県産業奨励館敷地)と、その東北に接続する旧広島城跡を中心とする中央公園(=市民広場、22万坪)を総合した公園とされた(その後、中央公園部分は平和公園から外される)。③は、中島公園南端を基点として、東西に伸びる延長約4、000メートル、幅員100メートルの街路であった(後に「平和大通り(百メートル道路)」と呼ばれる)。また、②は、中島公園およびその東側対岸に設置するものとし、その内容としては、つぎのようなものが考えられていた。
(a)平和会館 2、500人収容の会議室及び事務室、原爆関係資料陳列室等。
(b)平和アーチ 張間120メートル、高60メートル、頂点に五つの鐘を吊す。
(c)慰霊堂 原爆犠牲者の遺骨並びに銘を納める。
(d)原爆遺跡 原爆により破壊された旧産業奨励館の建物を補強し保存する。
(大島六七男「復興の足どり」)
1951年2月21日、東京で第4回広島平和記念都市建設専門委員会が開催された。この席上、浜井広島市長は、「今夏で7回忌を迎える原爆都市の慰霊塔関係の設立を急ぎたい」との意向を述べた。しかし、建設省は、広島市の納骨堂を含む「慰霊塔」案は、墓地であり、公園法の建前から認められないと、難色を示した。そこで広島市は、遺骨の代わりに名簿を奉納することとし、8月6日までの式典に間に合うように碑を建立することを決定した(「中国新聞」51年2月22日)。しかし、碑は、51年の8月6日には間に合わず、52年3月末着工した。
碑の設計者は、丹下健三であった。コンクリート素打の工法で埴輪をデフォルメした設計で、当初案の巨大な「平和アーチ」は、正面から見た底辺4.7メートル、高さ3.67メートル、横から見た上辺8.29メートル、下辺5.26メートルのはにわ型に縮小・変更された。原爆死没者名簿を奉納するため、碑の中央に黒い御影石製の矩形の箱が配置された。そして、この箱の正面には、雑賀忠義が作成した碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀の英訳:Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil.)が、刻み込まれた。この碑は、建立当時から「原爆慰霊碑(原爆死没者慰霊碑)」と呼ばれたが、碑の正式名称は、「広島平和都市記念碑」である。工費は、300万円であった。
広島市は、1984年1月、碑改築の方針を発表した。その理由として、コンクリートの石灰分が表面に吹き出して中の鉄筋の腐食が進み、碑にひびが入ることが明らかになったこと、原爆死没者名簿が32冊入っているが、あと数冊の余裕しか残っていないことの二つがあげられた。改築工事は、同年7月23日から始められ、翌85年3月26日、新慰霊碑(旧慰霊碑と同型で材質はコンクリートからみかげ石に変更)の除幕式が行なわれた。
賢人グループ会合に引き続き、8月26日(水)から28日(金)にかけて「第25回国連軍縮会議in広島」が開催され、23か国・5国際機関から83人が会議に参加しました。
国連軍縮会議は、アジア・太平洋地域において軍縮問題に対する意識を高め、軍縮・安全保障に関する対話を行うことを目的として、国連が平成元年(1989年)から開催しており、広島市では19年ぶり4回目の開催となりました。
今回の会議では、広島市からの提案により、被爆の実相を伝えるプログラムや、賢人グループ会合のメンバーが参加するオープニングハイレベルセッション、国内外の若者が平和について発表し合う世界学生平和会議が会議プログラムに組み込まれました。出典:「平和文化」NO.190
平和と学問を守る大学人の会
会の結成
1953(昭和28)年2月21日,広島県内の大学に教職を持つ有志約50人は,平和と学問を守る大学人の会(略称・大学人会)を結成した。結成の背景について同会会報創刊号(1953年6月1日)は次のように述べている。
昨年の破防法問題の時には,広島の大学人は結局これを見送ったのであったが,見送りながらも刻々民主々義の基盤が侵蝕され,平和が危機に曝されて行く事実を見逃すことはでぎなかったのである。さらに昨年末から本年にかけて問題となった科学技術庁案は,侵略の魔手が直接研究の現場にまで迫ってきていることを気づかせたのである。そして,このことはかって支那事変から太平洋戦争の時代にかけて,軍事科学の偏重のために人文・社会の研究は勿論,自然科学といえども,基礎的研究は経済的に圧迫されて事実上閉塞し,さらに軍国主義思想が学問の自由を破壊したという,まだ去って間もない過去の苦しい経験を,まざまざと思い起させたのである。この反省が,今度こそはわれわれ自身の手によって学問の自由を確保し,平和を擁護しなければならないという自覚を促し,その自覚がわれわれを,今,ここに結集させているのである。春秋の筆法を以てすれば,破防法に始まる悪法が--さらに遡ってサンフランシスコ条約以来の反平和的情勢が,われわれ広島の大学人会を結成させたものである。
大学人会の目的は,「平和を擁護し良心と学問自由を守ること」(規約第2条)とし,事業として,1.共同研究会の開催,2.公開講演会・公開討論会・座談会等の開催,3.本会と目的を同じくする諸団体との連絡提携などが定められた(規約第3条)。発足以後,3月末には会員数は90入に達し,5月末現在では100人を超した。
大学人会の発足当初の活動は,地味なものであったが,この会は,のちの広島の社会運動,とりわけ原水爆禁止運動・安保闘争の中で重要な役割を果すこととなる。
大学人の会の研究活動
平和と学問を守る大学人の会は,同会研究論集として『原爆と広島』(1954年12月10日),『広島の農村』(1955年7月20日)を発行し,高い評価を受けていたが,これらは同会の共同研究の成果というよりも,個人的労作を編集したものであった。1956(昭和31)年には会の共同研究を推進することを決め,石井金一郎を中心に検討がなされた。その結果,次のような計画がまとめられ,6月12日の常任委員会で承認された。
1.広島の平和運動の過去と現状及び将来の展望(世話役=今中次麿・石井)-運動実践家を囲んで運動の実態を聞く会と,研究参加会員によるその運動の評価の研究会とを交互にもって,研究をすすめる。平和運動としては原水爆禁止運動・平和憲法擁護運動・平和文学の運動等々を含めた広い運動を対象とする。
2.原子力問題(伊藤満・庄野博允)=肩のこらない軽い気持で参加できる研究会にする。原子力をめぐる各方両の問題を一つづつとりあげて懇談を行うことから出発する。自然科学部門の人と社会科学部門の人との共同研究の場にしたい。
3.日本における学問の自由=欧州の学問の自由の歴史・日本の学問の自由の歴史・大学自治の問題,現在われわれが直面している問題等々を問題としたい。
(「広島大学人会会報」NO.16)
このほか,平和文学(または国民文学)の問題を取りあげることも検討されたが,結局見送ることになった。
平和運動の研究班は,8月17日に大原亨(広島県労議長)・松江澄(平和擁護委)・棗田金治(広大自治会)から労組・学生団体の平和運動について,同月20日に円辺耕一郎・藤居平一(広島県原水協)・山口勇子(広島子供を守る会)・松江澄から原水爆禁止運動について,また,23日には米田栄作・望月久・島陽二(詩人)・佐々木豊・志木寥波(歌人)・小林健三・土谷厳郎(平和問題談話会)・桑原英昭(人類愛善会)・河本一郎(FOR友和会)・金井利博(中国新聞社記者)から宗教・文化関係の話を聞く会を開いた。この3回の懇談会の記録は,同年12月に石井金一郎により『広島の平和運動(平和運動研究班(中間報告)」としてまとめられた。同書は,「広島の平和運動研究資料一」と銘打たれていたが,1957(昭和32)年中に「同二」として『原爆被害者の歩み』(庄野博允執筆)が、また「同三」として『原爆被害者救援の動き』(佐久間澄執筆)がそれぞれ発行された。
なお,原子力の班は,討議の資料として原子力に関する自然科学・社会科学各方面にわたる国内文献目録の作成と原子力問題についての歴史年表の作成を計画,前者については,1957(昭和32)年3月に「原子力問題研究資料1原子力関係文献目録』(佐久間澄編)として発行している。
原子爆弾後障害研究会(第1回)
1959年6月13日-14日 於広島市平和記念館
挨拶
広島市長 浜井 信三
主催者を代表致しまして一言御挨拶申上げます。
本日茲に広島県・市並に広島原爆障害対策協議会共催のもとに原子爆弾後障害研究会を開催致しましたところ,御多忙中にも拘らず厚生省尾村局長,塩田先生をはじめ医学界の各先生方並に来賓各位多数の御臨席を頂きましたことは誠に感謝に堪えないところでございます。一昨年四月,原爆医療法制定以来多数の被害者の方々が健康診断及び治療等の恩典に浴し,原爆障害の将来に明かるい見透しを持つことが出来るようになりましたことは誠に喜びに堪えないところでございますが,被爆後十年を経ました今日尚原爆後障害に悩んで居る人々が多いのでありまして,原爆の惨禍は今尚存して居るのでございまして,現在原爆障害対策に就きまして二つの問題があると考えるのでございます。その一つは原爆障害者の生活援護の問題でありましてその点につきましては今後皆様方の御理解と御援助によりまして何とか解決の道を見出すべく努力を続けて参りたいと存じます。今一つの問題は原爆障害についての医療的研究と治療の問題でございます。その意味に於きまして被爆者は勿論,行政の衝に当ります県・市といたしましても本研究会に期待するところ極めて大であると思うのでございます。幸い,関 係者の皆様方の絶大な御支援と御協力とによりまして,本日此の研究会を開催する運びに到りましたことは誠に喜びにたえません。私達関係者は此の研究会が今後の原爆障害者の医療に新生面を拓き,今尚この障害に悩んで居る人々に明かるい希望を与えるきっかかけとなりますように念願致してやみません。最後に,本研究会開催に当りまして厚生省をはじめ各方面から寄せられました特別の御好意に対して厚く感謝致しますと共に今後一層の御指導,御鞭撻を腸りますよう重ねてお願い致しまして御挨拶と致します。
挨拶
厚生省公衆衛生局長 尾村 偉久
本日は県・市・原対協三者の主催で我々厚生省はじめ長崎関係等後援申上げまして,本研究会が会の大きさこそささやかでございますが,非常に斯界でも質的に貴重な意義のある研究会が本日発足致しまして非常におめでたいことでございます。心より主催者に対しまして敬意を表する次第でございます。14年前に多数の原爆による死没の犠牲者を出し,更に二十数万,約三十万に及ぶ負傷原爆被爆者の生存者が居られるわけで,その蔭には10年以上,公の点では国の政策に於ても必ずしもうまく行っておらず,地元のそれぞれの団体の御協力によりまして細々とこれらの救済が続けられておったのでございます。非常な熱誠ある御努力によりまして,32年から原爆医療法が施行されまして,国費を以ての或る程度の医療の道が開かれて更に原爆医療に対する審議会が設けられまして,斯界の権威者を網羅してこの医療を全うするための御協議や審議が続けられて軌道にのせるべく進んでいるのでありますが,しかし何といたしましても之等の被爆生存者の方々に対する国なり国民の願いは最もよい,適切な治療を速かに施して早くなおして頂き,立派な一般の社会人として100%の生活を続けて頂き たいというところにあるのであります。ただ何といたしましてもこの病気が或はこの負傷が世界でも初めてのことでございまして,それ以前にすでに我が国はもとより世界各国で確立された治療法なり医学的のまとまった意見というものが必しもなかった。むしろ過去十四年間にそれぞれ地元の関係の方々或いは市全体のこれに関係をもたれた方々が経験によりましてつみ重ねられて来られたことが現在においてもそれが一つの治療に対する最も高ろ意見であろうと,かように思われるのであります。むしろまだ治っておらない,これらの多数の被爆者の方々の適切な医療をやるには過去の個々に積まれた意見をこのさいにお互に示し合ってその綜合の中からまた新たな点をみいだす。或いは今後もお互いに研究しながら生じて行く方向につきまして相互に認識し合って速かな進歩を来すということはこれからは国内の被爆者にとって一番必要なことであると同時に,これが将来の原子力の平和利用に基きましての色んな障害が予想されるのでありますが,それらに対しましてもこのような会に於けるまとまった意見というものは斯界にも非常に貢献することは疑いないと信ずるわけであります。さような意味で, お集まりの方々は恐らく2~300人の関係の学者の方々であろうと思うのでありますが,此の学会の結果如何によっては学会それ自身を権威し,或いは協議会というようなところが,大いにお世話をされてそれぞれの学者の発表を充分うまく利用されて非常な力をいたされておる。さらにもう一つは一番被害をうけられた市の土地,地元のしかも爆心地に近い地でこの研究会が行われるということは恐らくやはりこの会場の下でも相当の犠牲者の方々がここで死なれておられる。かようなことも非常な特徴でございまして,更に全国にわたりまして家族を含めて数十万以上の直接のこの治療がどうなるかということについて関心をもたれている方々が,この二日間の小さい乍らも学会を非常に注目しておられる,とこう信ずるのであります。これは従来の一般の学会とは非常な性質も違い,その大きさは小さくとも質的に非常な重要性をもち又,今後もますます発展すべき含みをもっている学会であろうしさような意味で本日,スムースに発会出来ましたことを大いにお祝い申上げると同時に我々と致しましても国が今後原爆被災者に対する医療行政をやるのに,この発会の成果は直ちに,利用出来,利用という と具合が悪いですが,反映して適切な行政に裏付をするということがあとに続いているのであります。さような意味でも厚生省といたしましても,大いにこれは関心をもつと同時に御協力申上げなければいかんわけであります。さような意味でお祝いを申上げると同時にみなさま方の熱心なノーリツ的な御検討を心からお願い致します。よい成果を被害者のためにお出し下さるようにお願い致しましてお祝いの言葉と致します。
挨拶
原爆後障害研究会名誉会長 塩田 広重
(略)
祝辞
広島医学会々頭 田坂 三友
(略)
経過報告
準備委員会副委員長・原対協副会長 松坂 義正
ここに本日及ぴ明日にわたり、原子爆弾後障害研究会の開催に至りました経過の概要を御報告申上げます。
御承知の如く,我が広島市におきましては,昭和28年1月県・市当局,医科大学,在広官公立病院,県・市医師会,及び本市各層有識者によって,広島原爆障害対策協議会を設立し,爾来原爆症に関する治療研究,及び障害者に対する治療の国費支弁獲得に努力致して参りました。ついで原爆症研究に対する公的の会日,昭和28年11月,国立予防衛生研究所に原爆症調査研究協議会を,広島・長崎に於ける関係者及び中央の諸家により構成設置され,29年5月,第五福龍丸ビキニ問題発生により同年10月,前の協議会を発展的に解消されて厚生省に原爆被害対策調査研究連絡協議会の第5部会として,広島・長崎部会となり,其の間数回現地でシンポジウム又は学術報告などを開催され,昨年広島県医師会特別委員会に於てもシンポジウムを開催いたされていたのであります。
一方被爆地としての県・市当局,原対協は,障害者医療費等の国費支弁につきしばしば政府や国会に陳情しておりましたところ,政府は昭和32年3月原爆医療法として国会に提案し,その可決により同年4月より被爆者の健康管理及び治療は,国の施策により行なわれることに相なり,爾来医療法の施行2年余に及びましたが障害者がその恩恵に浴するところ少なしとしないのであります。
他面,被爆者の健康管理の向上,治療法の究明j,援護などの諸問題,等々の研究は一日も怠り得ざる重要なる基礎であり,これらについて諸家の研究にまつ所尠からずと信ずるものがあります。被爆地広島・長崎においてもその研究の学会を開催して解明に努力してはおりましたが,かつて原爆医療法を推進して頂いた参議院議員在任中山下義信氏が、厚生省当局に対しこの研究治療等は学会のゆるがせにすぺからざる事を以てその開催の緊要なることを強く献言いたされ,厚生省当局に於かれても,かねての宿願でもあったので,原爆医療審議会に其の議を諮問し,その賛同を得られ,且つ諸般の協力を約束されよって広島県・市に其の開催を要望されたのであります。
茲に県・市は多額の予算を計上し原対協と共に本会開催の運びとなり地元に於ては本年3月関係者が一丸となり準備委員会を組織して諸般の用意をいたし,本日より開催することと相成った次第であります。
本会開催にあたりまして諸先生方が遠路のところ多数御参加,御講演いただくことは準備委員会として光栄とするところであります。以上,概要を御報告申上げます。
尚準備委員会に於きましては,本研究会の会長を,広島大学医学部長渡辺漸教授をお願いしているところであります。皆様の拍手を以て御賛成を願います。
更に今回の研究会に厚生省原爆医療審議会々長塩田先生を名誉会長に御堆載致したいと存じます。満場の拍手を以て御賛成を願います。
挨拶
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
本研究会の開会に当りまして一言御あいさつ申上げたいと思います。こういうふうな原爆の被爆による障害についての研究会は従来も開会されたことがないわけではございません,例えば日本血液学会或いは広島医学会などにおいてそれぞれ相当の時間をさいてこのことを論じたことはございますけれども,二日間にわたってそのことのみに専心して研究のデータを発表する,そして永くつづけて原爆被爆者の福祉に貢献しよう,というようなことはなかったのであります。その意味において唯原爆に起因するところの障害者そういうことの医学的の調査研究,それだけを目的とする学会としての意義は非常に深いのであります。大体原爆の投下にみられる医学的の調査研究のデータを発表致しまして,且、それについて,討議を交わして被爆者の福祉によき貢献をなすということが,この研究会の目的であることは申すまでもございません。しかしながら私は医療を必要とするという程度に至るまでにはっきりと臨床的の症候をそなえてきた,そういう医学的の障害或いは医学的の障害を蒙った人,それのみが我々の調査研究の対象ではないことを特に強調いたしたいのであります。即ち,被爆者の病理のみ ならず,その健康管理についても我々は重要に努力しなければならないのでございます。かくして被爆者の健康管理は完全に行われるのでございまして,被爆者の健康の擁護ということが最も大切な命題であって,ひいてはこのことが後障害の発現の防止にも寄与するものと信じております。被爆者にすでに発現している後障害の治療をすることが大体,医療法制定の主旨でございますが,単に治療のみでなく健康の保持乃至は発病の阻止という点までずっと一貫した措置がとられなければならないのでございまして,こういうような,はなればなれにその措置がとられるということでは,不充分でございます。従ってそのためには原爆被爆者に見られるいかなる自覚的障害も,又生理的にさえみえるその因習に対する反応の態度も一々刻明に記載され、且つ提示される必要があるのでございます。今日我々の知識では原爆被爆者にみられる障害のあるものを,被爆と関連のないもの或いは少ないものとして見逃しておるかも知れませんが,我々はこうしたことをはっきり記憶しておく必要があると思います。そしてその集積されたものの解析と総合によってはじめてかかる障害が如何なる理由で原爆の放射能との 因果関係があるかをはっきりと認識して行けるのであります。どうかここにお集まりの皆様方も,そうした態度でこの問題にとりくんでいただき,原爆被爆者の健康が之以上に障害されないように適切な対策が樹立されることを望んでやみません。そして本研究会が被爆者自身の幸福のために医学的に役立つことを第一に且最も重要な目標としてテーマを掲げられんことを切に望むものであります。終りに遠路はるばるおいで下さいました講師の方々,多忙な時間を割いて参加下さいました参会者の各位に,厚く御礼を申上げ本研究会の今日の成立までに尽力された方,準備委員の方々に深い敬意を表する次第でございます。プログラムの時間が非常にぎっしりつまっておりますので,どうか講演なさる方々だけでなく,更に御参加の方々も御意見をお聞かせねがうことも非常に重要な問題でございますので,そういう討論の時間を犯さないように尊重してやって下さるように演者の方々にも御願い致すとともに,皆様方の隔意ない御討議,御意見をおきかせ下さるようお願いする次第でございます。
閉会の辞
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
一言閉会に当って御あいさつ申上げたいと思います。只今,主催者である県知事或いは広島市長も居られませんので,私から代りまして御あいさつ申上げたいと存じます。昨日及び本日の二日間に皆様方に色々と御話をねがいましたが,此の学会の成果と致しましては,やはりこの二日間に皆様方が原爆の後遺障害というものの全ぼうを略把握された,そういうことが最も有益なる収穫であったのではないかと考えます。但し只今も或いは二日間のその間にも皆様方,色々と御話しになったのでありますが,原爆被爆者においては,やはり,一見何でもないようにみえておっても,その予備力というものは非常に低下しておるのでその取扱いには慎重な注意を要するということが,最も大切なことでありまして,殊に今日治療の方面に於きましても,ここにシンポジウムに参加された方々が,ていねいに色々な治療法についてお示しになりましたけれども私はこういう治療法の施行に当っては,やはり薄氷をふむ思いでやって頂きたいということを痛感するものでございます。あまり治療にねっしんの余りに,そういう治療法を乱用されるということは被爆者にとってはむしろ有害でこそあれ決して益のないこ とでありまして,どうかそういう治療に当っては,いやが上にも慎重になすって頂きたいということを私も臨床医家ではございませんけれども特に,ここに御参集の指定医の皆々様,並びに他の方々におねがい致しておく次第でございます。この会は非常に予期以上の成果を挙げ得ましたが,これはわざわざ遠路参加して頂きました講師の方々,又昨日今日に此の会に参加するためにおいで頂きました,一般の参加者の方々の御協力によるもので,深く感謝する次第でございます。こういう成果はやはりこのままにしておいてはいけないので,これを記録に致しまして,出来るだけ早い機会に皆様のお手元に届くように,又,必要に応じましてはそういうものを実費頒布か何かの形式で頒布いたしまして,少なくとも今日いらっしゃる方々の御目にとまるように,又利用出来るような形にいたしたい所存でございます。それから,この学会は,やはり中々そういうデータが集まるのが難しいとは申しますものの,やはりたえず我々勉強して行かなければならないのでございまして,ひきつづき来年も,こういう研究会を催したいのでございますが,それは御迷惑でございましょうけども広島と肩を並ベ,或いはうれ いを共にしているところの長崎において開催していただくように我々はおねがい致したく存ずる次第でございまして,又ほかの方々の御意見でも,そうしたらいいだろう,ということでございますし,長崎の方々には,これには多分の負担を感じられるかしれませんけれども,どうかそういう負担を原爆被爆者に免じてお担い下さいますよう,重ねて私から御願い申上げる次第でございます。これを以て閉会の御あいさつとさせて頂きます。
広島市(編・刊)
1971年8月6日~12月8日
書名コード
書名
71080601
第1巻-第1編 総説
71090601
第2巻-第2編 各説・第1章広島市内各地区の被爆状況
71100601
第3巻-第2編 各説・第2章広島市内主要官公庁・事業所の被爆状況
71110601
第4巻-第2編 各説
第3章広島市内各学校の被爆状況、
第4章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆状況、
第5章関連市町村の状況.
71120801
第5巻-資料編
1-
第1編 総説
1-0
序章 広島市の概要
1-1-1
第一章 第二次世界大戦下の広島市
1-1-2-
第二章 原子爆弾の惨禍
1-1-2-1
第一節 投下・炸裂
1-1-2-2
第二節 威力と障害
1-1-2-3
第三節 人的・物的被害
1-1-3-
第三章 救護活動
1-1-3-1
第一節 救護状況概要
1-1-3-2
第二節 広島陸軍船舶部隊の活動
1-1-3-2-1
第一項 陸軍船舶司令部隷下の諸部隊
1-1-3-2-2
第二項 陸軍船舶司令部
1-1-3-2-3
第三項 陸軍船舶練習部
1-1-3-2-3-1
1.陸軍船舶練習部本部、
1-1-3-2-3-2
2.陸軍船舶練習部第十教育隊
1-1-3-2-4
第四項 教育船舶兵団司令部
1-1-3-2-5
第五項 陸軍船舶砲兵団司令部
1-1-3-2-5-1
1.陸軍船舶砲兵団衛生教育隊、
1-1-3-2-5-2
2.陸軍船舶砲兵団第一聯隊第一中隊
1-1-3-2-6
第六項 暁第一六○九部隊芙蓉隊明石隊
1-1-3-3
第三節 陸軍軍需輸送統制部の活動
1-1-3-4
第四節 呉海軍鎮守府の活動
1-1-3-4-1
第一項 呉海軍鎮守府
1-1-3-4-2
第二項 賀茂海軍衛生学校
1-1-3-5
第五節 広島陸軍病院の活動
1-1-3-5-1
第一項 陸軍病院の概要
1-1-3-5-2
第二項 広島第一陸軍病院
1-1-3-5-3
第三項 広島第二陸軍病院
1-1-3-5-4
第四項 大野陸軍病院
1-1-3-6
第六節 歩兵第三二一聯隊の活動
1-1-3-7
第七節 市内各病院の活動
1-1-3-7-1
第一項 広島赤十字病院
1-1-3-7-2
第二項 広島逓信病院
1-1-3-7-3
第三項 三菱重工業株式会社構内病院・構内診療所
1-1-3-7-4
第四項 広島陸軍共済病院
1-1-3-7-5
第五項 県立広島病院
1-1-3-8
第八節 県下医療救護班の活動
1-1-3-9
第九節 県地方事務所職員・警察官・警防団の活動
1-1-3-10
第十節 県外その他からの救援
1-1-4
第四章 被爆直後の広島
1-1-4-1
第一節 焼野原の生活
1-1-4-2
第二節 復旧への努力
1-z
主要付図・一覧表
1-z-01
一、広島新開地干拓図
1-z-02
二、広島市大避難実施要領
1-z-03
三、広島市内陸軍諸部隊の概要
1-z-04-1
在広主要部隊配置図
1-z-04-2
広島市軍用通信網
1-z-04-3
在広部隊一覧表
1-z-04
四、残留放射能による障害調査概要
1-z-05
五、原子爆弾による人的被害数(推定)表
1-z-06
六、重要建物被災状況表
1-z-07
七、県内医療救護班応援状況表
1-z-08
八、県下警防団出動状況表
1-z-09
九、県外医療救護班応援状況表
1-z-10
一○、被爆後の人口復帰状況
1-z-11
一一、被爆後の建物復興状況
2-
第2編 各説
2-1-
第1章広島市内各地区の被爆状況
2-1-01
第一節 序説
2-1-02
第二節 国泰寺地区
2-1-03
第三節 中島地区
2-1-04
第四節 本川地区
2-1-05
第五節 基町地区
2-1-06
第六節 白島・二葉の里地区
2-1-07
第七節 牛田地区
2-1-08
第八節 戸坂地区
2-1-09
第九節 幟町地区
2-1-10
第一〇節 荒神地区
2-1-11
第一一節 大洲地区
2-1-12
第一二節 尾長地区
2-1-13
第一三節 矢賀地区
2-1-14
第一四節 中山地区
2-1-15
第一五節 段原地区
2-1-16
第一六節 比治山地区
2-1-17
第一七節 皆実地区
2-1-18
第一八節 仁保地区
2-1-19
第一九節 大河地区
2-1-20
第二〇節 青崎地区
2-1-21
第二一節 宇品地区
2-1-22
第二二節 似島地区
2-1-23
第二三節 竹屋地区
2-1-24
第二四節 千田地区
2-1-25
第二五節 吉島地区
2-1-26
第二六節 神崎地区
2-1-27
第二七節 舟入地区
2-1-28
第二八節 江波地区
2-1-29
第二九節 広瀬地区
2-1-30
第三○節 天満・中広地区
2-1-31
第三一節 観音地区
2-1-32
第三二節 福島・南三篠地区
2-1-33
第三三節 三篠地区
2-1-34
第三四節 己斐地区
2-1-35
第三五節 草津・庚午地区
2-1-36
第三六節 古田地区
2-1-37
第三七節 井口地区
2-1-z
主要一覧表・記録
2-1-z-1
一、広島市内主要橋梁の被害状況表
2-1-z-2
二、広島市常会議員河口祉三メモ帖
2-1-z-3
三、元広県産業奨励館(原爆ドーム)の概要
2-1-z-4
四、広島市本川聯合町内会日誌
2-2
第2章広島市内主要官公庁・事業所の被爆状況
2-2-1
第一節 序説
2-2-2
第二節 官公庁
2-2-2-1
第一項 中国地方総監府
2-2-2-2
第二項 広島県庁
2-2-2-3
第三項 広島県警察部
2-2-2-3-
広島県警察部(広島県防空本部)/東警察署・西警察署・宇品警察署・及び東・西両消防署
2-2-2-4
第四項 広島市役所
2-2-2-5
第五項 広島鉄道局
2-2-2-6
第六項 広島通信局関係各機関
2-2-2-7
第七項 広島管区気象台
2-2-2-8
第八項 広島地方専売局
2-2-2-9
第九項 広島財務局及び広島税務署
2-2-2-10
第一○項 広島控訴院
2-2-2-11
第一一項 広島控訴院検事局
2-2-2-12
第一二項 広島地方裁判所・広島区裁判所
2-2-2-13
第一三項 広島地方裁判所検事局及び広島区裁判所検事局
2-2-2-14
第一四項 広島刑務所
2-2-3
第三節 銀行・会社・その他団体
2-2-3-
(銀行)
2-2-3-01
第一項 日本銀行広島支店
2-2-3-02
第二項 株式会社芸備銀行
2-2-3-03
第三項 株式会社 日本勧業銀行広島支店
2-2-3-04
第四項 株式会社日本貯蓄銀行広島支店
2-2-3-05
第五項 株式会社帝国銀行広島支店
2-2-3-06
第六項 株式会社安田銀行広島支店
2-2-3-07
第七項 株式会社三菱銀行広島支店
2-2-3-08
第八項 株式会社住友銀行広島支店
2-2-3-09
第九項 株式会社三和銀行広島支店
2-2-3-
(会社・その他団体)
2-2-3-10
第一○項 広島中央放送局
2-2-3-11
第一一項 合名会社中国新聞社
2-2-3-12
第一二項 広島県食糧営団
2-2-3-13
第一三項 広島電鉄株式会社
2-2-3-14
第一四項 広島瓦斯株式会社
2-2-3-15
第一五項 中国配電株式会社
2-2-3-16
第一六項 株式会社福屋百貨店
2-2-3-17
第一七項 三菱重工業株式会社広島機械製作所及ぴ広島造船所 手記 (二重被爆の記録) ヒロシマ・ナガサキ 山口彊―死と灰の町―
2-2-3-18
第一八項 東洋工業株式会社
2-2-3-19
第一九項 株式会社日本製鋼所広島製作所
2-2-3-20
第二○項 中国塗料株式会社
2-2-3-21
第二一項 藤野綿業株式会社
2-2-3-22
第二二項 株式会社熊平製作所
2-d
主要一覧表・記録
2-d-1
一、広島市役所関係各施設被害状況表
2-d-2
二、八月六日の気象状況(広島地方気象台記録)
2-3
第3章広島市内各学校の被爆状況
2-3-1
第一節 序説
2-3-1-d-1
広島市学童疎開実施表
2-3-1-d-2
集団疎開児童の記―竹屋国民学校の場合
2-3-1-d-3
広島市内各学校の建物疎開作業出動状況
2-3-1-d-4
広島市内各学校被災状況表(動員学徒を含む)
2-3-2
第二節 各国民学校
2-3-2-1
第一項 広島市本川国民学校
2-3-2-2
第二項 同袋町国民学校
2-3-2-3
第三項 同幟町国民学校
2-3-2-4
第四項 同中島国民学校
2-3-2-5
第五項 同大手町国民学校
2-3-2-6
第六項 同広瀬国民学校
2-3-2-7
第七項 同神崎国民学校
2-3-2-8
第八項 同天満国民学校
2-3-2-9
第九項 同観音国民学校
2-3-2-10
第一○項 同竹屋国民学校
2-3-2-11
第一一項 同白島国民学校
2-3-2-12
第一二項 同千田国民学校
2-3-2-13
第一三項 同段原国民学校
2-3-2-14
第一四項 同三篠国民学校
2-3-2-15
第一五項 同舟入国民学校
2-3-2-16
第一六項 同皆実国民学校
2-3-2-17
第一七項 同荒神町国民学校
2-3-2-18
第一八項 同大芝国民学校
2-3-2-19
第一九項 同牛田国民学校
2-3-2-20
第二○項 同尾長国民学校
2-3-2-21
第二一項 同比治山国民学校
2-3-2-22
第二二項 同己斐国民学校
2-3-2-23
第二三項 同大河国民学校
2-3-2-24
第二四項 同矢賀国民学校
2-3-2-25
第二五項 同江波国民学校
2-3-2-26
第二六項 同宇品国民学校
2-3-2-27
第二七項 同古田国民学校
2-3-2-28
第二八項 同仁保国民学校
2-3-2-29
第二九項 同楠那国民学校
2-3-2-30
第三○項 同草津国民学校
2-3-2-31
第三一項同青崎国民学校
2-3-2-32
第三二項 同似島国民学校
2-3-2-33
第三三項 広島市立第一国民学校
2-3-2-34
第三四項 同第二国民学校
2-3-2-35
第三五項 同第三国民学校
2-3-2-36
第三六項 県立広島師範学校男子部附属国民学校
2-3-2-37
第三七項 広島陸軍偕行社附属済美国民学校
2-3-2-38
第三八項 光道国民学校(註・広島高等師範学校附属国民学校は、大学の項に併記する。)
2-3-3
第三節 各中等学校
2-3-3-01
第一項 広島県立広島第一中学校
2-3-3-02
第二項 同広島第二中学校
2-3-3-03
第三項 県立広島師範学校
2-3-3-04
第四項 広島県立広島工業学校
2-3-3-05
第五項 広島県立広島商業学校
2-3-3-06
第六項 広島県立広島第一高等女学校
2-3-3-07
第七項 広島県立広島第二高等女学校
2-3-3-08
第八項 広島県聾学校
2-3-3-09
第九項 広島県盲学校
2-3-3-10
第一○項 広島市立中学校
2-3-3-11
第一一項 広島市立第一工業学校
2-3-3-12
第一二項 広島市立第二工業学校
2-3-3-13
第一三項 広島市立造船工業学校
2-3-3-14
第一四項 広島市立第二商業学校
2-3-3-15
第一五項 広島市立第一高等女学校
2-3-3-16
第一六項 広島市立第二高等女学校
2-3-3-17
第一七項 修道中学校・修道第二中学校・修道学校
2-3-3-18
第一八項 山陽中学校・山陽商業学校・山陽工業学校・山陽中学校附設広島中学校
2-3-3-19
第一九項 崇徳中学校
2-3-3-20
第二○項 広陵中学校
2-3-3-21
第二一項 松本工業学校
2-3-3-22
第二二項 安田高等女学校
2-3-3-23
第三三項 進徳高等女学校
2-3-3-24
第二四項 広島女学院高等女学校
2-3-3-25
第二五項 比治山高等女学校
2-3-3-26
第二六項 広島女子商業学校
2-3-3-27
第二七項 安芸高等女学校
2-3-3-28
第二八項 西高等女学校
2-3-4
第四節 専門学校・高等学校・大学
2-3-4-1
第一項 広島女学院専門学校
2-3-4-2
第二項 広島女子専門学校
2-3-4-3
第三項 広島工業専門学校
2-3-4-4
第四項 広島医学専門学校
2-3-4-5
第五項 広島女子高等師範学校・附属山中高等女学校
2-3-4-6
第六項 広島高等学校
2-3-4-7
第七項 広島文理科大学・広島高等師範学校・附属中学校・附属国民学校
2-4
第4章広島市内主要神社・寺院・教会の被爆状況
2-4-1
第一節 序説
2-4-2
第二節 神社(広島護国神社ほか一五社)
2-4-2-1
①広島護国神社
2-4-2-2
②白神社
2-4-2-3
③天満宮(現在・天満神社)
2-4-2-4
④空鞘神社
2-4-2-5
⑤広瀬神社
2-4-2-6
⑥胡子神社
2-4-2-7
⑦住吉神社
2-4-2-8
⑧三篠神社
2-4-2-9
⑨比治山神社
2-4-2-10
⑩饒津神社
2-4-2-11
⑪鶴羽根神社
2-4-2-12
⑫碇神社
2-4-2-13
⑬東照宮
2-4-2-14
⑭早稲田神社
2-4-2-15
⑮旭山神社
2-4-2-16
⑯神田神社
2-4-3-
第三節 寺院(慈仙寺ほか一五寺)
2-4-3-17
⑰慈仙寺
2-4-3-18
⑱浄宝寺
2-4-3-19
⑲浄圓寺
2-4-3-20
⑳妙法寺
2-4-3-21
(21)誓願寺
2-4-3-22
(22)国泰寺
2-4-3-23
(23)本覚寺
2-4-3-24
(24)円隆寺
2-4-3-25
(25)本願寺派広島別院
2-4-3-26
(26)多聞院
2-4-3-27
(27)唯信寺
2-4-3-28
(28)瑞川寺
2-4-3-29
(29)三瀧寺
2-4-3-30
(30)法雲寺
2-4-3-31
(31)不動院
2-4-3-32
(32)千暁寺
2-4-4
第四節 教会(日本基督教団広島流川教会ほか二教会)
2-4-4-33
(33)日本基督教団広島流川教会
2-4-4-34
(34)幟町天主公教会(現在・世界平和記念聖堂)
2-4-4-35
(35)日本基督教団広島教会
2-5
第5章関連市町村の状況
2-5-1
第一節 序説
2-5-2
第二節 各市町村
2-5-2-1
第一項 呉市
2-5-2-2
第二項 大竹市
2-5-2-3
第三項 三次市
2-5-2-4
第四項 庄原市
2-5-2-5
第五項 因島市
2-5-2-6
第六項 佐伯郡五日市町
2-5-2-7
第七項 同廿日市町
2-5-2-8
第八項 同沖美町
2-5-2-9
第九項 同宮島町
2-5-2-10
第一○項 同大野町
2-5-2-11
第一一項 同湯来町
2-5-2-12
第一二項 同能美町
2-5-2-13
第一三項 同大柿町
2-5-2-14
第一四項 安佐郡祇園町
2-5-2-15
第一五項 同安古市町
2-5-2-16
第一六項 同佐東町
2-5-2-17
第一七項 同安佐町
2-5-2-18
第一八項 同沼田町
2-5-2-19
第一九項 同可部町
2-5-2-20
第二○項 同高陽町
2-5-2-21
第二一項 安芸郡府中町
2-5-2-22
第二二項 同船越町
2-5-2-23
第二三項 同安芸町
2-5-2-24
第二四項 同海田町
2-5-2-25
第二五項 同坂町
2-5-2-26
第二六項 同瀬野川町
2-5-2-27
第二七項 同矢野町
2-5-2-28
第二八項 同熊野町
2-5-2-29
第二九項 同熊野跡村
2-5-2-30
第三○項 同江田島町
2-5-2-31
第三一項 同音戸町
2-5-2-32
第三二項 同倉橋町
2-5-2-33
第三三項 高田郡白木町
2-5-2-34
第三四項 同向原町
2-5-2-35
第三五項 同吉田町
2-5-2-36
第三六項 同甲田町
2-5-2-37
第三七項 賀茂郡志和町
2-5-2-38
第三八項 同黒瀬町
2-5-2-39
第三九項 同八本松町
2-5-2-40
第四○項 同西条町
2-5-2-41
第四一項 山県郡戸河内
2-5-2-42
第四二項 同加計町
2-5-2-43
第四三項 甲奴郡上下町
2-5-2-d
主要付図・一覧表
2-5-3-d-01
一、広島市学童疎開実施表
2-5-3-d-02
二、集団疎開児童の記
2-5-3-d-03
三、広島市内各学校の建物疎開作業出動状況
2-5-3-d-04
四、広島市内各学校被災状況表(動員学徒を含む)
2-5-3-d-05
五、建物疎開作業に出動した地域国民義勇隊の被爆状況表
2-5-3-d-06
六、避難者郡町村州内訳表
2-5-3-d-07
資料提供者氏名表/参考図書一覧表
d-
資料編
d-01
1.(イ)広島市永年防空計画、
(ロ)昭和十六年度広島市防空計画
d-02
2.広島県下に於ける空襲被害状況表
広島県警察部新畑十力警部補(当時)により作成されたもので、昭和十九年二月二日午前十時十五分ごろ、B29一機が御調郡原田村山林中に、焼夷弾一二発を投下したのを最初とし、昭和二十年八月十四日午後八時四十分ごろ、B12一機が、呉市中心に飛来し、宣伝ビラ約二万枚を撒布したことまでを、その被害程度と共に記述した一覧表である。昭和二十二年頃広島県警察部発行
d-03
3.防空日誌(矢賀警防分団)
d-04
4.炎のなかに
当時、動員学徒として、第二総軍双び中国軍管区司令部に出動していて被爆した生存者の「原爆で逝った級友の二十五回忌によせて」作られた体験記集で、猛火迫る司令部の地下壕指揮連絡室から、広島全滅の第一報を九州の第十六方面軍(福岡)など、三か所に、電話報告したことなど、貴重な証言が多く、また炸裂下、軍の中枢機関の惨状を如実に伝えている。一九六九年八月六日旧比治山高女第五期生の会発行
d-05
5.被爆者救援活動の手記集(暁部隊)
被爆直後の暁部隊の活動記録で、本誌刊行にあたり提供された当時の将兵三九人の体騒記集である。
d-06
6.(県政)雑記帖被爆直後、豊田郡地方事務所長から広島県人事課長(食糧対策委員)に就任し、県の被爆救援対策・復旧対策などにあたった竹内喜三郎の事務覚書で、八月七日から九月二十一日まで、大混乱時における食糧対策を中心とした県行政の克明な記録である。
d-07
7.比治山国民学校迷子収容所・五日市戦災児育成所
当時、収容所の教師として活躍した斗桝訓導の手記
d-08
8.広島原子爆弾被害調査報告(気象関係)
広島管区気象台の発行
d-09
9.原子爆弾に依る電気工作物の被害調査
d-10
10.8・10広島陸軍兵器補給部ニ於テ新型爆弾ニ関スル研究会(大野茂[海軍技術中佐])
d-11
11.軍関係災害調査報告文書集
d-12
12.原子爆弾傷研究綴(広島第一陸軍病院)
d-13
13.被爆広島の写真記録者たち(川西恒夫)
編集後記
11.軍関係災害調査報告文書集
年月日
資料名
編著者
450806
中野探照灯台広島爆撃目撃状況
呉海軍警備隊
450810
八月六日広島空襲被害状況並ニ対策(第二報)[呉鎮機密第142-10-33(8月10日送付)]
呉鎮守府衛生部
450814
八月六日広島市空襲戦訓(第三報)[呉鎮機密第142-10-33-2(8月14日送付)]
呉鎮守府衛生部
450814?
八月六日広島市空襲戦訓(第四報)[呉鎮機密第142-10-33-3]
呉鎮守府衛生部
450810?
陸、海軍合同特殊爆弾研究会決定事項(要項抜粋)[呉鎮機密第142-10-34]
呉鎮守府衛生部
450810
八月六日広島空襲ニ対スル研究会議事概要
呉工廠
450813
八・六広島市被害状況
中国軍管区司令部
4509
広島市ニ於ケル原子爆弾ニ関スル調査(一般的調査)[(付録被害地写真帖)]
呉鎮守府
450902
衛生速報第二号
中国軍管区軍医部
450912
衛生速報第三号
中国軍管区軍医部
450912
衛生速報第四号
中国軍管区軍医部
450912
衛生速報第五号
中国軍管区軍医部
450912
衛生速報第六号
中国軍管区軍医部
451022
衛生速報第九号[原子爆弾症ニ関スル研究]
中国軍管区軍医部
12.原子爆弾傷研究綴(広島第一陸軍病院)
八月六日広島市戦災ニ関スル経験並所感
都野大尉、増田少尉、石井少尉
原子爆弾症報告
江波分院 藤田少尉
原子爆弾症報告
江波分院 柳少尉
原子爆弾傷ニ就テ
広島第一陸軍病院櫛ケ浜分院
13.被爆広島の写真記録者たち(川西恒夫)
加納竜一、菊池俊吉、林重男、木村権一、尾糠政美、川原四儀、山田精三、松重美人、宮武甫、松本栄一、岸田貢宣、松重三男、川本俊雄、林寿麿、岸本吉太、深田敏夫、空博行、北勲、黒石勝、斉藤誠二、佐々木雄一郎、
スミソニアン協会特別展計画中止についての広島市長コメント(1995年1月31日)
[広島市資料]
スミソニアン航空宇宙博物館が当初の意図に反して、特別展の規模を縮小し≪米国戦勝50年≫一色に修正したことは、極めて遺憾である。
世界がなお、核の脅威にさらされている今日、戦勝国の論理で原爆を投下した工ノラ・ゲイ号を展示する時代ではない。
広島・長崎両市には、今回の被爆資料貸し出しによって米国を責め、非難する意図はまったくなかった。ただ、核兵器がもたらした残虐な実態を米国の人々に知ってもらうことによって、核兵器のない世界を築く世論を高めたい、と願っていただけに、残念さは一層強い。
広島市としては、今回のスミソニアン側の決定とは関係なく、≪被爆50年≫にあたって米国で討論の場を設けるなど、独自な催しを展開することによって、米国民に核兵器廃絶にかけるヒロシマの思いを訴えかけていくつもりである。
平成7年1月31日
広島市長 平岡 敬
スミソニアン航空宇宙博物館「原爆展」計画をめぐって8名のアメリカ研究者グループの申入書
1994年11月17日
あて先:国立航空宇宙博物館館長 マーティン・ハーウィット
差出人:バートン・バーンスタイン、ケイ・バード、キャロル・ガラハー、ジョゼフ・ガースン、ロバート・J・リフトン、グレッグ・ミッチェル、ロバート・ミュージル、ローレンス・S・ウィットナー
「終幕:原爆と第二次世界大戦終結」展に関する勧告
1)原爆使用および、それが第二次世界大戦終結に必要であったがどうかに関する50年間にわたる論争を明確にふまえること。
2)原爆投下以前に日本は敗北に近づいていたことの証拠を認めること。
3)原爆使用について留保を示した歴史的人物たちの重要な発言を含めること。
4)日本への焼夷弾爆弾がもたらした破壊に関して正確な評価を取り入れること。
5)広島とそこに居住する市民を標的とすることは正当であり主に軍事的な目的があったという印象を修正すること。
6)アメリカが日本に侵攻した場合に予想されたアメリカ人死傷者に関する記述を修正すること。
7)日系アメリカ人の強制収容所について明記すること。
8)第400セクション「グランド・ゼロ」から削除された部分を復活させること。
9)被爆者の扱いを修正すること。
10)原爆投下に対して当時まき起こった宗教的、道徳的、政治的な反対運動に関する歴史的な記録を盛り込むこと。
11)原爆投下が後世に残した事柄について適切な扱いを行うこと(第500セクション)
出典:原水爆禁止日本協議会『国際情報資料1』(1994年12月28日)
スミソニアン協会特別展に関する米国上院決議につき上院議長あて広島市長書簡(1994年10月20日)
[広島市資料]
米国上院議長
アルバート・ゴア様
拝啓 時下益々御清祥のことと存じあげます。
この度、私たちは、アメリカ合衆州国上院が来年5月から開催が予定されているスミソニアン協会・国立航空宇宙博物館の展示会「最後の幕:原爆と第2次世界大戦の終結」に関し、「原爆を投下したエノラ・ゲイは第2次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った。展示が、自由のために命を捧げた人々の記憶を非難し、攻撃すべきではない。」との決議を満場一致で採択したことを知りました。
私たち広島市民は、原爆投下を肯定し、ひいては戦争を正当化するこのような考え方に強い怒りと悲しみを感ぜざるを得ません。いずれの国の国民も決して核兵器や戦争は求めていないと確信しているからです。戦後50年を経て、私たちが成すべきことは、歴史に学ぶ視点を持ち、全人類の共存と繁栄を願い、その実現に向けて努力することであります。
私たちは過去の戦争の是非を議論するのではなく、いかにして核兵器が存在する時代の戦争をなくすべきかを議論することに意義があると考えております。そのためには、ヒロシマ・ナガサキの被爆の実態を世界の人々が知り、核兵器の持つ非人道性を認識することが大切です。
核時代に生きていることを身をもって知っている私たちは、その最初の体験を世界の人々に知って欲しいと思っております。この展示会が、私たちの意図を汲み取り、よりよき未来社会の形成に向けて、大きな役割を果たされんことを切望しております。
敬具
1994年10月20日
広島市長 平岡 敬
アメリカ合衆国上院
スミソニアン原爆展に関する決議
1994年9月23日
アメリカ合衆国上院決議
来る国立航空宇宙博物館エノラ・ゲイ展示におけるアメリカ軍兵士の適切な記述に関して、上院の意見を表明する。
一.エノラ・ゲイは、第2次世界大戦を慈悲深く終わらせるのに役立ち、日米両国民の命を救った。
一.国立航空宇宙博物館エノラ・ゲイ展示の現在の企画書は、修正主義的で、多くの従軍兵士にとって侮辱的である。
一.連邦法は、「スミソニアン協会は、アメリカ合衆国における、自由で、平和で、独立した社会及び文化を、創造し、発展させ、維持するために、アメリカ軍によってなされた貢献を記念し、展示するものである。」と謳っている。
一.連邦法は、「アメリカ軍兵士の勇気ある行為、献身的な軍務は、アメリカの現在、未来の世代への鼓吹として、描かれるべきである。」とも、謳っている。
一.国立航空宇宙博物館は、交戦におけるアメリカの役割を記念するため、連邦法のもとに、時代の適切な文脈で、歴史を記述する義務をもっている。
従って、ここに、次のとおり上院の意見を決議する。
エノラ・ゲイに関する国立航空宇宙博物館による展示はすべて、第2次世界大戦中、忠実に、無私にアメリカ合衆国に仕えた兵士に対して、適切な記述をすべきであり、自由のために命を捧げた人々の記憶を非難し、攻撃すべきではない。
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