「04 できごと」カテゴリーアーカイブ

雑誌『平和』

雑誌『平和』(1952年6月1日創刊)

編集評議員 (肩書)
柳田謙十郎 戦没学生記念会理事長
清水幾太郎 平和問題談話会
風見章 前国務大臣
上原専祿 科学者平和懇談会
中野好夫 平和問題懇談会
神近市子 婦人タイムス社長
岡三郎 日本教職員労組委員長
妹尾義郎 平和推進国民会議理事長
今中次麿 広島大学法学部長
務台理作 科学平和懇談会員
高桑純夫 科学平和懇談会員
福島要一 日本学術会議会員
淡徳三郎 日本文化人会議副議長
編集事務 西田義郎

 

目次

発行年月日 著者 タイトル
第1号~第15号の発行所:青木書店
1952
01 0601 草野信男 細菌兵器の威力-原子爆弾だけが問題なのではない
0601 足音 学者文化人の平和のための闘い
0601 教育学会平和の叫び
0601 日本平和文化賞関川秀雄氏に贈らる
0601 ”子供を守る会”の結成
0601 書評:青木書店 原爆の図(赤松俊子・丸木位里)
0601 [国立国会図書館副館長中井正一逝去(5月18日)]
0601 書評:「原爆の図」フランスで評判
02 0801 闘うジョリオ・キューリー
本郷新 平和のための美術展
峠三吉 原爆詩集「序」
03 0901 三笠宮崇仁 原爆禁止は全人類の声
正田篠枝 歌集[「さんげ」より4首]
谷本清(神戸) 談話室[関西エスペランチストのエスペラント語による「原爆の図」、「原爆の子」などの紹介]
足音 日本子供を守る会
04 1001 高橋幸八郎 国際教育者会議出席の記
長島又男 新聞・8月15日
中濃 日本で世界仏教会議
足音 国鉄労組新潟本部の平和運動 [新潟県の10ケ所で赤松俊子・丸木位利の「原爆の図」展覧会を開催。10余万の観覧者。]
05 1010 特集:朝鮮戦争の真相
原子兵器に反対する六億の意志
06 1101 編集部 [「東大生産技術研究所有志」による「アサヒ・グラフ」原爆号の英文説明書作成]、[近く岩波版「ひろしま」の英文説明書できる予定]
入江啓四郎 戦犯は釈放すべきか [「非常に不公平」、「特に例をとれば、広島や長崎の原爆である」]
中濃教篤 第2回世界仏教徒会議の陰謀 [9月25日-10月14日、日本で開催。]
文学者代表を送る会の文学準備委員 文学者代表を送る会(9月15日)の文学準備委員メッセージ [亜州及び太平洋地域平和会議に太田洋子・許南麒・檀一雄を送ることを決める。]
長田新 沈黙は共犯である-平和運動の困難点
07 1201 帆足計 広汎な平和戦線を [アジア太平洋地域平和会議準備会からの要請に応じ送られたメッセージ。「日本は世界さいしょの、二発の原子爆弾をうけた民族である」]
草野信男 平和の声 国際医師会議の禁止
ローゼンバーグ夫妻の死刑確定
小島正夫 広島で世界連邦アジア会議ひらく
大山郁夫・平野義太郎 諸国民の平和大会への呼かけ
岩村三千夫 北京会議を貫くもの
富永五郎 科学にも手が廻っている
「戦犯は釈放すべきか」に寄せて [「戦犯裁判の不公正と原爆および無差別爆撃行為を並立して、相殺論的に釈放問題を取上げることも同様に危険である」]
岩崎昶 映画また戦争外道を行く [10月17日の閣議で「原爆の子」の輸出を禁止]
小島正夫 広島で世界連邦アジア会議ひらく
足音 第13回学術会議
天野徳重 官公庁労働組合協議会の抗議 [「去る17日の閣議において文部省第1回特選映画「原爆の子」は一大蔵大臣の発言により海外への輸出禁止が決定された」]
1953
08 0101
09 0201
10 0301
11 0401
12 0410
13 0501
14 0601
15 0701
以下の発行所 青木書店
16 0901v
17 1001
18 1101
19 1201
1954
20 0101
21 0201 臨時増刊 平和巡礼 大山郁夫夫妻帰朝報告
21 0201
22 0301
23 0401
24 0501
26 0601
27 0701
28 0801
29 0901
30 1001
31 1101

日本文化人会議

日本文化人会議 1951年9月22日創立

「それぞれ専門分野を別にしながら文化活動にかかわる人々が、国内外の人々と提携して「平和」を守るために協力することを目的に結成」。破壊活動防止法制定に、戦前の「治安維持法」の再現として反対。また内灘や砂川など、米軍事基地拡張反対運動に積極的に参加。

雑誌『平和』(1952年5月 青木書店創刊。編集委員(淡徳三郎、福島要一、今中次麿、風見章、神近市子、務台理作、中野好夫、岡三郎、清水幾太郎、妹尾義郎、高桑純夫、上原専祿、柳田謙十郎)。のち、日本文化人会議の機関誌となり、編集長・中野好夫氏で大月書店より刊行。

出典:https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/archives/darc/bunkakaigi/

いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言(目次)

『いのちの塔-広島赤十字・原爆病院への証言』
「いのちの塔」手記集編纂委員会
中国新聞社  19920610

目次

グラビア 痛恨の『あの日 あの時』
核時代の生命のしるし ~序にかえて~ 大江健三郎
プロローグ 被爆前後の日赤かいわい 前保美枝子
証言・その一 ~周辺住民と入院患者ら~
一枚の白衣 宗藤尚三
八月六日 笠間徳子
長い白日夢 真栄田年穗
救護活動の拠点・日赤で 中谷昇
まるで悪夢の日々 中島睦男
 父と弟の死の日に 船倉[土+坒]子
証言・その二 ~医師・看護婦~
外科医の、それは“悲しい日々”が… 服部達太郎
ヒロシマを語りつぐもの 入江長生
生き残った一人として 宇野ヨネ子
二十歳の夏に 面田孝子
従軍看護婦になりたかった私 内田千寿子
婦長の一言に励まされて 栗原アヤコ
若い血を躍らせた館 浅野智恵子
無念の涙 大阪己佐子
耳を澄ませば聞こえる悲鳴  高田静子
 青春の詰まる“故郷” 小里美智子
証言・その三 ~被爆後の入院患者~
日赤病院で受けたケロイド手術 光島太郎
日赤は生きる希望でした 米田美津子
日赤入院とその後 吉川生美
今もお世話になる日赤なのに… 小野春子
詩・『窓』 野津彼方
小説 『母の炎』から
母の炎 山口勇子
考証 『被爆遺跡としての日赤本館』
広島赤十字・原爆病院の建築について 石丸紀興
未来へのメッセージ
「広島日赤病院本館」について 後藤陽一
核政策への無言の抵抗碑として 伊東壮
貴重な原爆遺跡を保存しよう 久保浦人
あとがき 宗藤尚三
資料編
<資料1> 広島赤十字・原爆病院保存運動の経過
<資料2> 広島赤十字・原爆病院の沿革
<資料3>  座談会・あの時の広島赤十字病院

広島平和記念都市建設法と平和への歩み(宇吹)

特集 広島平和記念都市建設法制定60周年(『平和文化』No_172、201006)

宇吹暁「広島平和記念都市建設法と平和への歩み」

平和都市法
広島平和記念都市建設法(以下、平和都市法と略称)は、その目的を、「恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設すること」(第1条)としている。
法制定に尽力した広島市出身の寺光忠参議院議事部長によれば、その趣旨は、次のとおりである(寺光忠『ヒロシマ平和都市法』、中国新聞社刊、1949年)。
日本は、新憲法において、あきらかに、戦争の放棄を宣言している。この恒久平和の人間理想を象徴し、同時にまた、わが戦争の放棄をも象徴するものとして、1つの都市を、この地上につくりあげるということは、日本の歴史においてはもとよりのこと、世界史的にみても大きな意義をもつものであろう。
平和都市法は、その後、国庫補助率の引き上げや国有財産の譲与などの形で、広島市の復興に大きく寄与した。また同時に、広島市の都市建設に、政府が今日に至るまで関心を寄せ続ける契機となった。1952年・53年に当時の内閣総理大臣であった吉田茂の広島市平和式典に寄せた式辞が残っているが、いずれにおいても、「世界の平和を目指して、民主々義に基く、文化国家を建設することは、わが国憲法の理想とするところであり」、「新しい広島市の建設」は、「平和的文化的なる日本国家の成長を表徴するもの」と平和都市建設の国家的意義を明らかにしている。その後も、総理大臣の挨拶のほとんどで、広島市の「平和都市」(1979年からは国際平和文化都市)建設への努力に敬意が表明されている。
戦災復興としての政府の事業は、1960年代後半に一応の収束を見る。しかし、この法律の精神は生き続けており、2000(平成12)年5月にも、この法律を適用することにより、爆心地近くの貴重な被爆建物である旧日本銀行広島支店が、国の重要文化財に指定されることを条件に、広島市へ無償譲与されることが決定された。
「被爆国」という言葉が、国内で広く使用されるようになるのは、1954年3月のビキニ水爆被災事件以降のことであるが、平和都市法の成立と展開の背景には、議会や政府の「被爆国」としての自覚を確認することができる。また、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法と略称。1957年4月施行)や閣僚・総理大臣の平和式典への参列(1960年代半ば以降)、広島・長崎両市への国立原爆死没者追悼平和祈念館開設(2002年、03年)など、政府による原爆被害への新たな関与を通して、「被爆国」という認識の内実が形成されていると考えることができよう。
平和都市法が公布・施行(1949年8月6日)された当日に広島市長が読み上げた平和宣言には、次の文言がうたわれていた。
この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
これと同じ文言は、1947(昭和22)年の第1回平和祭(広島市平和記念式典の始まり)での平和宣言および翌年の宣言にも確認することができる。このことを考えれば、平和都市法は、広島市の意思が「法律の形式においてあらわされた、国民の意思の表明」(寺光前掲書)に高めたものといえよう。
寺光の構想がそのまま法律になったわけではない。彼は、法律名にある「広島」、「記念」、「建設」について、それぞれ、「一地域を限る特別法という感じを与える」、「原子爆弾を追想させたり又は戦災復興を連想させたりするだけ」、「物的な建設事業だけを目的としているかのよう」と違和感を述べ、ただの「平和都市法」が良いとしている。
広島の復興と原爆遺跡
戦前の広島市には、「大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等」があり、全国から観光客を引き付けていた。しかし、これらは「昭和20年8月6日の戦災により潰滅」した(『広島市勢要覧 1947年版』)。そのかわりに「新しい観光資源」と考えられたのが、「爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンク」といった「原爆記念保存物」である(『同要覧 48年版』)。
広島市の企図は当たり、「日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れ」たため、「外客専用の観光ホテルの設置が強く要望」された(『同要覧 49年版』)。
このような『市勢要覧』の記述は、広島市の都市復興の過程で、原爆遺跡が観光資源という大きな役割を担っていたことを示している。ところが、広島市の原爆遺跡に対する関心は、平和都市法の施行後、次第に薄れて行く。その代わり、新たな観光資源として「広島平和記念都市そのもの」や「原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室」(1955年に広島平和記念資料館として開館。通称「原爆資料館」)などが登場する(『同要覧 49年版』)。その後の『市勢要覧』を見ると、「平和記念館」・「原爆資料館」・「平和大橋」「慰霊碑」など、平和都市法に基づいて建設された施設が新たに加わってゆく。1950年の市勢要覧の表紙は、原爆投下の目標となった相生橋と思われる橋の向こうに近代的なビルが並ぶ図柄であり、本来存在するはずの「旧産業奨励館」(原爆ドーム)の姿はない。

50年度版には原爆ドームが消えている!!!

1948年版
48
1949年版
49
1950年版
50

広島市が原爆ドームの保存に乗り出すのは、1966年のことである。それまで保存に消極的だった浜井信三市長が保存募金活動では先頭に立った。しかし、浜井の場合、原爆ドームを「唯一」の「原爆の跡」と考えており(浜井の原爆ドームの保存に向けた「訴え」)、他の遺跡に目が向くことはなかった。
被爆資料は、一般に、「原爆の痕跡をもつ資料」と考えられてきた。ところが、1979年には、必ずしも被爆の痕跡を残していない「被爆樹木」が、さらに1985年には解体された広島市庁舎の礎石である「被爆石」も被爆資料と考えられるようになった。これは、被爆資料の基準が、「被爆の痕跡」から「被爆当時に存在していたもの」に変化したことを示している。

平和都市の現状と役割
平和都市広島の政府とのつながりは、復興のための都市計画でいえば建設省(現在の国土交通省)から始まり、1970年代後半からの国際的な反核運動の高まりの中で、外務省と密接な関係を持つようになる。被爆40周年に当たる1985年に、広島市は長崎市とともに、初の「世界平和連帯都市市長会議」を開催し、政府レベルとは別に、都市同士の連帯による平和構築の努力を積み重ねている。さらに近年では、文化庁(文部科学省)との関わりを深めている。平和都市施設の中核をなす原爆ドーム・広島平和記念資料館・広島平和記念公園は、同省によりそれぞれ史跡(1995年6月)、重要文化財(2006年7月)、名勝(07年2月)に指定された。このうち、原爆ドームの史跡指定は、世界遺産リストへの登録へ向け、それまでの史跡の基準を変更しての指定であり、残る2件の指定も、戦後の建築物として、また、戦後建設された公園として初の指定であった。
文化財としての評価は、とりもなおさず平和都市が歴史的な扱いを受けていることである。歴史化する平和都市には、新たな歩みが求められるであろう。原爆遺跡は原爆ドームだけでない。旧日銀広島支店やアンデルセン、レストハウスなど広島の遺跡にとどまらず長崎の遺跡をも巻き込む世界遺産の拡大登録が考えられないだろうか。広島の景観は、城下町の軍事都市化、原爆と復興により大きな変貌をとげ、さらには現在の都市再開発で新たな変化の波に直面している。平和都市の景観はどうあるべきか、近代のみならず近世の文化を貫いて見直す視点の出現も期待される。

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

フォト・ドキュメント:被爆遺跡医学部11号館の消滅

1999年3月
10日 樹木が取り払われた南側
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10日 鉄骨が組み立てられた北側
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16日 覆いが施された西側
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23日 甍が取り払われた東側
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27日11:30 消えた屋根の中央部(北側より撮影)
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27日11:30 消えた屋根の中央部(南側より撮影)
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27日11:30 南側より撮影
ks990327ds
27日11:30 原医研南側の広場
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27日11:30 原医研南側の広場
 ks990327es
27日16:30 消える屋根の東側(北側より撮影)
 hj990327gs
27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
 hj990327hs
27日16:30 消えた屋根の東側(南側より撮影)
 hj990327js
29日13:00 消えた屋根の東側(北側より撮影)
 ks990329as
29日13:00 東側(南側より撮影)
 ks990329bs
30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)
 ks990329cs
30日08:30 消えた屋根の東側(北側より撮影)

ks990330as

1999年4月
01日08:30 消えた屋根の西側(北側より撮影)
 ks990401as
01日08:30 西側(南側より撮影)
 ks990401cs
01日08:30 西側(南側より撮影)
 ks990401ds
01日08:30 原医研南側の広場
 ks990401bs
02日13:00 わずかに残る東壁面の下部(南側より撮影)
 ks990402as
02日13:00 わずかに残る東壁面の下部
(北側より撮影)
 ks990402bs
02日13:00 ガレキの山と化した11号館(南側より撮影)
ks990402cs

 

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(目次)

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(被爆建物等継承方策検討委員会、平成4年[1992年]8月)目次

平成4年8月20日 委員長 庄野直美 ➡ 広島市長 平岡敬
まえがき
本委員会の審議経過と意見
参考 被爆建物等継承方策検討委員会
1 被爆建物等継承方策検討委員会開催状況
2 被爆建物等継承方策検討委員会設置要綱
3 被爆建物等継承方策検討委員会委員名簿

 

 

被爆建物等継承方策検討委員会

被爆建物等継承方策検討委員会  設置:1991年7月24日

Y M D 事項
91 06 19 浜井広島市長室長、市議会総務委員会で、「被爆建物等継承方策検討委員会」(仮称)を7月中旬に設置することを発表。
91 07 24 広島市「被爆建物等継承方策検討委員会」を設置。委員=石丸紀興・宇吹暁・小原誠・河合護郎・庄野直美・空辰男・田中茂・葉佐井博巳・平川浩子・平松スエノ・松重美人・横田工・浜井澄人・佐伯邦昭・鍋岡聖剛。
91 08 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の初会合を開催。庄野直美を委員長に選ぶ。
91 10 04 「被爆建物等継承方策検討委員会」、第2回会合を広島市役所で開催。「キリンフォーラム」の被爆外壁タイルの保存を要請することを申し合わせ、マツダ宇品工場内の被爆建造物などを、調査対象リストに追加。
91 10 29 広島市の「被爆建物等継承方策検討委員会」の第3回委員会、市役所で開催。原爆遺跡保存運動懇談会の意見を聴取。
91 12 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、第4回の会合を開催。広島赤十字・原爆病院の一部を現地保存するよう市が病院と協議するよう求める。
92 02 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の委員8人、市内の被爆建物9か所を視察。視察した被爆建物=広島市役所、広島大学理学部、広島赤十字・原爆病院、広電変電所、旧陸軍被服支廠、広島銀行銀山支店、旧陸軍司令部通信室、本川小学校、レストハウス(予定)。
92 02 14 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、5回目の会合を開催。公有の被爆建物の保存策を検討。
92 04 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の6回目の会合を開催。広島逓信病院、文理科大学、広島高等学校、日銀、兵器支廠、兵器学校、などの継承方策について検討。
92 05 26 広島市、第7回被爆建物等継承方策検討委員会を開催。民有の被爆建物の継承方策の検討など。
92 07 15 広島市、第8回(最終)被爆建物等継承方策検討委員会を開催。取りまとめ案の検討。
92 07 16 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、最終会合を開催。平岡市長に提出する答申案を固める。
92 08 20 庄野直美広島市被爆建物継承方策検討委員会委員長、平岡市長に被爆建物の保存・継承方法についての報告書を提出。

 

 

 

 

2020年2月(日録)

2020年2月(日録)

事項
01 平和記念資料館情報資料室。西本雅実氏と会う。
01 紙屋町シャレオ古本まつり。
02 ヒロシマ遺文への投稿=「下中弥三郎」。
02 旧被服支廠の保全を願う懇談会「旧被服支廠の解体を防ごう!緊急後援会」。原爆資料館。<参加できず>
03 自宅の書庫の本の整理。~
07 外付けディスクに保存していた女学院時代に作成したデータの確認。ヒロシマ遺文に使えそうな多くのデータを見つける。
08 広島市立図書館「企画展 広島ゆかりの詩人たち―黒田三郎生誕100年―」-
08 ブックオフ。本9冊1880円購入。
08 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館「時を超えた兄弟の対話-ヒロシマを描き続けた四国五郎と死の床でつづった直登の日記」
08 広島平和記念資料館企画展「海外収集資料から見る広島の原爆被害と復興」(20191227~202007下旬)
08 広島平和記念資料館情報資料室(図書貸し出しが可能なことを知る)―国際会議場地下で昼食。
08 HIP(平和のためのヒロシマ通訳者グループ)例会。
08 北方領土の日。1855年(安政元年)に江戸幕府とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた。
09 桜が丘の倉庫で女学院関係資料を引き出し一か所にまとめる。
09 ヒロシマ遺文への投稿=『時代と記憶 メディア・朝鮮・ヒロシマ』(平岡敬、影書房、20110615 )目次
11 建国記念の日 <建国記念の日のヒロシマ
11  2020ヒロシマ革新懇デー。記念講演「安倍政権の歴史偽造をただす-日本は朝鮮半島で何をしたか」(講師:中塚明)。会場:原爆資料館地下・メモリアルホール。<出席できず>
12 ヒロシマ遺文への投稿=「全国平和教育シンポジューム開催概要」、「『『平和教育研究 広島平和教育研究所年報』」、「広島平和教育研究所」、「広島県高等学校原爆被爆教職員の会」、「ひろしまの平和教育」、「平和教育へのあゆみ」。
 14  ヒロシマ遺文への投稿=「バーバラ・レイノルズ」、「核実験停止協定締結要請に関する決議(19621222)」、「核実験禁止要請に関する決議(19620811)」、「広島・長崎原爆被爆者医療法改正対策委員会陳情運動日誌」、「ヒロシマわが罪と罰」、「広島・長崎原爆被爆者大会(19620522)」
 15  ヒロシマ遺文への投稿=「広島女学院原爆被災実態調査報告書(19700625)」、「平和教育(季刊)」、「平和教育運動」、「広島教育研究所」、「ヒロシマの子育て・教育」、「『原爆の子-広島の少年少女のうったえ』」
 16  自宅の「平和教育」関係資料の整理。ヒロシマ遺文への投稿=「8・6全国高校生集会」
16 ヒロシマ遺文への投稿=「8・6全国高校生集会」
16 講演会「オックスフォード大学で山代巴を読む」(講師:キアラ・コマストリ(オックスフォード大学大学院歴史学研究科)、会場:ふくやま文学館)<参加できず>
17 ヒロシマ遺文への投稿=「資料:高校生平和ゼミナール」、「広島地区高校生部落問題研究協議会」、「『歴史と教育』総目録」、
18 ヒロシマ遺文への投稿=「石井金一郎先生追悼号(歴史と教育)」、「『歴史と教育』創刊号(広島歴史教育者協議会)」、「高校生の平和ハンドブック」
 19  ヒロシマ遺文への投稿=「広島市原対協被爆生存者(児童生徒)調査表」、「ドキュメント悲しみの千羽鶴」、「世界の子どもの平和像を広島に作る会」、「折り鶴の系譜(那須正幹)」、
20 ヒロシマ遺文への投稿=「国際平和教育研究会(広島大学教育学部)」、「原爆と平和(ユネスコ特定実験報告書)」、「フロイド・シュモー」、「広教組70年のあゆみ(抄)」、
21 ヒロシマ遺文への投稿=「広教組70年のあゆみ(抄)」、「平和・国際教育研究会会報」、「平和・国際教育研究会」、「韓国・歴史と平和の旅(1998)」、
22 ヒロシマ遺文への投稿=「広島自治体問題研究所」、「日本の科学者」。
22 3・1ビキニデーヒロシマ集会。講師:橋元陽一「国から放置されたヒバクシャ-「ビキニ国賠訴訟」で明らかになったこと」。会場:南区民文化センター。<参加できず>
23 祝日(天皇誕生日)[新天皇即位による新しい祝日]
 23  サンフレッチェ広島VS鹿島アントラーズ。3-0。
24  自宅の書庫の整理。
25 自宅の「研究会・講演会・著書執筆関係」資料の整理。
26 桜が丘へ。自宅の本(単著)を著者別に整理した箱8箱を持参。
27 全教広島関係資料の整理。
27 空辰男『加害基地宇品 新しいヒロシマ学習』読了。ヒロシマ遺文への投稿=「加害基地宇品 新しいヒロシマ学習」。
28 全教広島関係資料の整理。
28 ヒロシマ遺文への投稿=「広島教育研究所(資料年表)」
29 広島教育研究所関係資料の整理。
29 ヒロシマ遺文への投稿=「第9次平和教育のとりくみ実態調査1990年度のまとめ」、「原爆瓦ー世界史をつくる十代たち」、「原爆瓦は語りつづける 原爆犠牲ヒロシマの碑建設の記録」

 

 

 

ひろしま平和の歩み(1968年)

ひろしま平和の歩み(広島平和文化センター編・刊、19680801) 目次

執筆者
山田節男(広島市長)
まえがき 「平和の歩み」編集委員会
改訂版19730806発行。以下の目次・情報は改訂版
資料提供のための座談会出席者=伊藤正子、大原三八雄、河本一郎、金井利博、桑原英昭、谷本清、升川貴志栄。その他の協力者=浜崎左髪子、増田勉、浜野千穂子。
1 原爆被災救援の活動 庄野直美
被爆直後の応急措置
隣接の各地から 救援隊
一〇日後でも死体散乱
救援者も放射能の犠牲に
すばやかった科学者の活動
内外からの救援金
ケロイドの治療
広島原対協の発足
原対協の事業の内容
市が被爆者調査の試み
医師の治療活動の開始
全国的な救援活動
生活救護への道開く
被爆者による救済活動
原爆被害者の会
大きな運動の流れの中へ
広島県原爆被害者団体協議会
日本原水爆被害者団体協議会
統一を貫く日本被団協
医療法は一三回改正
被爆者特別措置法の制定
2 原爆孤児・孤老の救済活動 今堀誠二
投げ出された孤児・孤老
涙の記憶しかない兄弟たち
あらゆる悲境に耐える
広島子どもを守る会
新しいおかあさんができた
石井好子やダークダックスも
家族四人が全滅した子
浮浪者となった少年
一〇歳の少女の受難
学童疎開から帰ってみると
連帯のいとぐちをつかむ
あゆみグループの誕生
中野教授夫妻が親がわり
被爆の体験を訴えて歩く
諸外国からも激励の人々
さまざまの困難にぶつかる
日常の中から平和をめざす
全市民の支援の中で
3 平和祭のあゆみ 今堀誠二
二二年に第一回の平和祭
慈仙寺鼻で平和宣言
マッカーサーもメッセージ
全世界に反響を呼ぶ
爆音にかき消された第二回平和祭
占領軍の禁止命令
過去帳の奉納始まる
ビキニ被災で盛りあがる
三〇年から全国に式典中継
4 平和記念施設の歴史 今堀誠二
広島市民と七つの川
永久平和めざす丹下構想
平和大学
平和図書館の夢も
平和都市建設法が実現
迷える霊の供養塔
ハニワの家を型どった慰霊碑
ヒロシマの焦点原爆資料館
狭くなってきた記念館・公会堂
新生広島の百メートル道路
国民運動でドームを保存
5 外国人による活動 庄野直美
 ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」
平和請願一〇万人運動
原爆孤児精神養子運動
ヒロシマ・ピースセンターの活動
原爆乙女をアメリカで治療
シュモー・ハウスを一九戸建設
ドイツから平和の鐘
仏人モーリス氏の「広島憩いの家」
ヨット「フェニックス号」と広島
ベトナム人への支援も
レイノルズ夫人と世界平和巡礼
ウ・タント総長に白書を要望
ワールド・フレンドシップ・センター
6 世界連帯の活動 小谷鶴次
戦争そのものの絶滅を
国連加盟への市民運動
二六年に国連協会県本部
加盟後の普及活動
アウシュヴィッツとの連帯へ
七万キロを平和行進
三八年にアウシュヴィッツ委
世界連邦運動の展開
二四年に連邦運動スタート
二七年に世界連邦アジア会談
市民の意志で「広島宣言」
海外にも大きな反響
一〇万人署名をもとに平和都市宣言
戦争放棄の精神を決議
「世界連邦」の県宣言
西日本大会ではドーム保存支持
サーバス友の会
市民代表の欧州訪問
7 文化・報道関係の活動 小谷鶴治・今堀誠二・庄野直美
「中国文化」で原爆特集
栗原貞子の「生ましめん哉」
壊滅した中国新聞の再刊
正田篠枝の「さんげ」
原民喜・大田洋子の作品
押収された「ピカドン」
峠三吉の反戦運動
若い画家たちと平和美術展
ガリ版刷りの「原爆詩集」
映画「原爆の子」作成
日本ペンクラブも平和宣言
続々と被爆体験記
若い作家らの活躍
「広島の詩」が海外に反響
平和の原点を考える
さらに体験の発掘へ
8 原爆被災・平和問題に関する研究活動 小谷鶴治・今堀誠二・庄野直美
 直後の医学者の活動
専門家による療養方針
プレスコードで資料手放す
悪条件下でも研究続く
ABCCの調査活動
講和とともに発表の活発化
広島の科学者の自主研究
市の機関も研究を助成
三六年に広島原爆医療史
自然科学の原爆白書
広大原医研が活動開始
社会科学の研究活動
国際平和の諸研究から
広島大学に平和問題研
学生グループの活動
二八年に「広島大学人の会」
被爆者の心理・生活の調査
「談話会」の発足と活動
9 民間団体の初期における諸活動 今堀誠二
二四年に平和擁護の第一声
ストックホルムアピールの反響
文化団体も活躍
朝鮮戦争下も続く
原爆被害者団体の結成
宗教団体も独自の活動
努力の積み重ねに期待
10 市民による特殊な平和活動 庄野直美
原爆体験記を発刊
原爆の子友の会の活躍
原爆の子の像
これはぼくらの叫びです
折鶴の会が発足
現在も活動
原水禁広島母の会
会誌「ひろしまの河」発行
運動の分裂が与えた影響
談話会の発足
原爆白書運動の胎動
政府による白書製作を提言
平和七人委も強く要望
日本学術会議も起つ
白書をすすめる市民の会
胎内被爆者を守る「きのこ会」
ベトナム戦傷孤児の救援
さまざまの市民運動
11 原水爆禁止三団体をめぐる動き 庄野直美
 ビキニ被災事件
反核の叫び全国に広がる
広島の婦人の動き
国家保障を求める決議
東京杉並の婦人たち
下から支えられた運動
重さ一二五キロの署名簿
原水禁広島県協議会
原水禁世界大会の発想
中央と広島の運動の相違点
広島は原体験から出発
第一回原水禁世界大会
場外にあふれる参加者
歴史的な広島アピール
右翼団体の妨害も
広く具体的な運動へ
被爆者援護の方向へ
平和行進も始まる
安保問題で離脱騒ぎ
第一回目の分裂起きる
第二回目の分裂起きる
広島県民の使命訴える
被爆者援護の請願続く
第九回大会は県原水協が運営
超党派の市民運動も進む
―平和の歩み― 年表
執筆者: 小谷鶴次、今堀誠二、庄野直美

核兵器全面廃絶国際デー(9月26日)

核兵器の全面的廃絶のための国際デー
(核兵器全面廃絶国際デー)
(9月26日)

年(回) メモ(記念行事など)
2014 制定日
2015(1) (9月23日)
2016(2)
2017(3)
2018(4)

「9月26日は、国連が定めた「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」です。これに合わせて核兵器廃絶日本NGO連絡会では、9月24日に東京・お茶の水の明治大学で記念イベント「核なき世界に向けて 被爆国の役割を考える」を開催します。このほか、国内のさまざまなNGOが関連行事を行います。ニューヨーク国連本部では、国際デーを記念するイベントと、核兵器禁止条約の署名・批准式がそれぞれ行われます。」
https://nuclearabolitionjpn.wordpress.com/2018/09/01/intlday/

2019(5) (9月26日)ハイレベル会合(開催場所:米ニューヨーク・国連本部)

(9月23 日)記念イベント 「核なき世界へ向けて -それって他人事? 自分事?」-(核兵器廃絶日本NGO連絡会(主催)・国連広報センター(共催)https://www.unic.or.jp/news_press/info/34664/

 

【関連資料】

・報道資料[PDF]
https://www.unic.or.jp/news_press/features_backgrounders/11357/
2014年9月26日、国連は初の「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」を迎えます。
この国際デーを定めた総会決議68/32は、加盟国、国際システム、NGO、学術界、国会議員、マスメディア、個人を含む市民社会に対し、「核兵器が人類に及ぼす脅威と、核兵器の全面的廃絶の必要性に関する社会の認識を高め、教育を充実させることにより、この国際デーを記念し、普及させる」ことを求めています。
https://www.unic.or.jp/files/66e91069625f43abb2d8f87acd82c5da.pdf
・これまでの主な流れ[PDF]
・背景[PDF]
・国連事務総長による5項目の核軍縮提案[PDF]
・非核兵器地帯[PDF]
・「核兵器の全面的廃絶のための国際デー」に寄せる事務総長メッセージ
プレスリリース 14-060-J 2014年09月26日
世界は長い間、核兵器の不使用を絶対的に保証できるものは核軍縮以外にないこと、そして、核兵器が使用されれば人道面で壊滅的な影響が生じることを認識してきました。
よって、核軍縮は理想主義者の夢ではなく、全人類の安全を真に守るために緊急に実現が必要な課題といえます。
国連総会が初めて、核兵器その他の大量破壊兵器の廃絶という目標を掲げてから、68年が経ちました。
そして、核兵器不拡散条約の発効により、その締約国が誠実な核軍縮交渉の開始を約束してから、44年が経過しています。
この交渉を始めるべき時期は来ています。核軍縮交渉が行われていないことで、国際的なコミットメントにおける軍縮と不拡散の間の微妙なバランスが崩れてきているからです。
私は6年前、核軍縮に関する5項目の提案を出しました。その中には、この目標を達成するために可能な2つの道として、相互補強的な個別協定の枠組みに関する合意と、確固たる検証システムに裏打ちされた核兵器禁止条約が掲げられていました。
最も重要なのは、どちらの道を選ぶかではなく、選んだ道が、核兵器の全面的廃絶という国際的に合意された目標の達成に向かうようにすることです。
今年の国際デーは、単に私たちが核兵器を制限したり、その射程距離を狭めたり、その配備を制約したり、安全保障政策におけるその役割を低下させたりすることを求める日にとどまりません。
それは、国際社会が安全の強化から資金と科学的資源の保全に至るまで、核軍縮によって生まれるはずの多くの恩恵についてしっかりと考える日でもあります。
それはまた、核の抑止力という危険で脆弱なドクトリンが崩れたとしたら、どのような影響が生じることになるのかを想像するための日でもあるのです。
すべての人々、そして将来の世代の平和と安全を守るため、核軍縮を再び国際的な最優先課題としようではありませんか。