放送はヒロシマをどう伝えてきたか
<NHK広島放送局制作、総合(広島県内)テレビ1998年7月17日~18日>紹介された番組一覧
第1回 被爆と向きあう |
time |
年月日 |
局 |
番組名 |
0 |
460811 |
NHK |
広島平和復興祭(ラジオ) |
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480806 |
NHK |
平和祭(ラジオ全国中継) |
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6008 |
NHK |
日本の素顔「黄色い手帳」 |
11 |
651128 |
NHK |
ドキュメンタリー「耳鳴り~ある被爆者の生涯」 |
21 |
691009 |
HTV |
「碑(~広島二中一年生全滅の記録)」 |
29 |
910806 |
RCC |
「おとう・・・小頭児の45年」 |
38 |
670804 |
NHK |
現代の映像「軒先の閃光 よみがえった爆心の町」 |
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NHK |
原爆の絵 |
48 |
96 |
NHK |
「昭和20年 被爆の言葉」 |
53 |
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(解説)大牟田稔 |
104 |
840805 |
NHK |
NHK特集「世界の科学者は予見する 核戦争後の地球」 |
122 |
950806 |
NHK |
NHKスペシャル「調査報告 地球核汚染 ヒロシマからの報告」 |
129 |
960806 |
NHK |
NHKスペシャル「核兵器はこうして裁かれた 攻防・国際司法裁判所」 |
138 |
950611 |
NHK |
NHKスペシャル「アメリカの中の原爆論争-スミソニアン展示の波紋」 |
147 |
970804 |
NHK |
「インターネット核討論-地球法廷・広島からの訴え」 |
149 |
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(解説)明石康 |
新聞連載1948
・年月日は連載の開始の日付を示す。
・版は地方版を示す。
48 |
07 |
29 |
7 |
25年後の完成ヒロシマ |
ひろしま |
夕刊 |
48 |
07 |
31 |
5 |
1年目と3年目-ヒロシマの姿 |
ひろしま |
夕刊 |
48 |
08 |
02 |
3 |
ヒロシマさかりば歩き |
中国 |
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新聞連載1947
・年月日は連載の開始の日付を示す。
・版は地方版を示す。
47 |
08 |
03 |
2 |
世界の書ヒロシマ後日物語 |
中国 |
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47 |
08 |
05 |
5 |
広島の再建を語る-座談会 |
中国 |
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新聞連載1946
・年月日は連載の開始の日付を示す。
・版は地方版を示す。
46 |
07 |
13 |
21 |
ひろしま新「旧蹟」-ムカシの姿と比べてみませう |
ひろしま |
夕刊 |
46 |
08 |
01 |
7 |
新生一年-原子沙漠に灯は点る |
中国 |
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46 |
08 |
02 |
9 |
ユートピア広島の建設 |
中国 |
|
46 |
08 |
09 |
4 |
新生第二年へ-本社編輯局同人座談会 |
中国 |
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新聞連載1945
・年月日は連載の開始の日付を示す。
・版は地方版を示す。
年 |
月 |
日 |
回 |
タイトル |
紙名 |
版 |
45 |
08 |
20 |
7 |
原子爆弾-浅田博士に聴く |
朝日 |
大阪 |
45 |
09 |
11 |
3 |
原子爆弾の解剖-都築博士を囲む座談会 |
中国 |
|
45 |
09 |
14 |
5 |
原子爆弾報告書 |
朝日 |
大阪版 |
45 |
11 |
10 |
20 |
復興する町内会 |
中国 |
広島平和をきずく児童・生徒の会日記
(1955年10月-1957年3月)
年月日 |
事項 |
19551025 |
佐々木禎子さん原爆症でたおれた。 |
19551110 |
幟町中の級友、全国中学校長大会で平和を訴え、「原爆の子の像」を作るビラをお願いした。 |
19551225 |
禎子さんの級友が「こけしの会」をつくる。 |
19560128 |
広島市小中高校が一つになり「平和をきずく児童生徒の会」を結成、宣言文を読む。会則を決め役員を選挙する。 |
19560325 |
「原爆の子の像」を建てる全国運動をおこし、趣意書を全国のお友達にくばる。 |
19560425 |
会の委員、街頭募金第1回を行う。 |
19560701 |
イギリス・ハンガリヤ等外国からも激励文が来はじめる。 |
19560806 |
会の代表、原水禁広島大会へ参加、世界の子供が平和への手をつなぐ運動をおこす。 |
19560809 |
委員長中村君、長崎世界大会に出席、外国代表に会のメッセージを手渡した。 |
19561010 |
像の制作者選考にとりかかり、大人の美術家に相談する。 |
19561015 |
像の制作者、東京芸大教授菊池一雄先生に決定。 |
19561020 |
アメリカ文化センター・フツイ館長、ノーマン・カズンズ氏をたずね、アメリカの友達とも文通することをお願いした。 |
19561128 |
菊池先生来広、制作計画をたてられる。 |
19561231 |
像の募金を締切る。 |
19570227 |
総会を開き会計報告をし、反省会をする。 |
19570310 |
像の模型出来上り菊池先生来広。 |
出典:『平和』第5号(広島平和をきずく児童・生徒の会、1957年8月5日)
平和をきずく児童・生徒の会 1956年1月11日準備会 28日結成総会
平和をきずく児童生徒の会関係資料
資料名 |
年月日 |
メモ |
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広島平和をきずく児童・生徒の会日記 |
195703 |
1955年10月-1957年3月 |
平和をきずく児童生徒の会会則 |
19560201 |
効力発生 |
私たちの手で”原爆の子の像”を |
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中村正司(基町2年)(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長) |
「原爆の子の像」建設趣意書 |
19560301 |
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子どもの手で作る「原爆の子の像」に御支援を請う! |
19560310 |
ビラ(謄写印刷) |
私たちの手で”原爆の子の像”を |
19560310 |
中村正司(平和をきずく児童・生徒の会(広島平和記念館内)委員長) |
平和 8月6日特集号 |
19570805 |
(広島平和をきずく児童・生徒の会機関紙) |
”千羽鶴”製作懇談会ご案内 |
19571101 |
”千羽鶴”製作現地本部⇒ |
千羽鶴・シナリオ第一稿 |
19571210 |
共同映画社・広島平和を築く児童生徒の会編 |
千羽鶴製作ニュース |
195804 |
共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会 |
千羽鶴製作ニュースNo.1 |
1958 |
共同映画社、広島平和をきずく児童生徒の会 |
「千羽鶴」撮影予定表 |
195804 |
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(出演現地生徒へのご配慮方要請) |
195804 |
”千羽鶴”製作現地本部⇒中学校長 |
1958年5月5日完成除幕報告 『原爆の子』の像建立募金名簿 |
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広島平和をきずく児童・生徒の会 |
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「原爆の子の像」建設趣意書
1956(昭和31)年3月1日
私たちの手で”原爆の子の像”を
禎子さんはしんどいめをして死んでゆきました。小学校四年生の義登君もそうでした。
原爆の時、禎子さんはまだ二つだった。お母さんにおわれて必死で楠木町の方へ逃げ、ほいでいのちが助かった。それなのに去年のちょうどいまごろ、ぽっくりと原爆症がおき、お医者にかかりました。病名は亜急性リンパ腺白血病というむずかしい名ですが、息がきれるまで九ヶ月間、それはとても苦しいとう病生活でした。
私たちお友だちで、日赤病院へ見舞いに行った時、禎子さんはベッドに寝たまま、薬の紙で千羽鶴を折っていました。「こが-に鶴う折ってどうするん。」と言ったら、「ほいでも、早うなおりたいけ・・・」と、うらめしそうにこたえた禎子さんの顔が、まだ忘れられません。
運動の選手だった禎子さんは、早うなおって、又一番をとりたかったにちがいありません。
千羽鶴はみなで六四三羽折られていました。私たちはそれを一つずつ形見にもらい、あとはみんな私たちの手で、棺の中の禎子さんのお顔や胸におさめてあげ、お別れをしました。
義登君はクリスマスから悪くなり、この一月二十四日には、もうなくなりました。何を問われても、コックリうなずいて寝かされていた義登君。約束の原爆の映画にも、もうとってもらえないし、つまらないなあ。
禎子さんの遺品となった出しかけの手紙があります。
「私の手にゆけつされるときはたいへんいたかった。医者さんがいわれるには、病気をしたときは、少しはいたいことをしないとなおらないといわれました。いたいめをしてでもよいから、私は早くよくなって春休みにはおねえちゃんの所にいきたい」
これをホーム・ルームで読んだとき、島本さんが、「のう、みんなで原爆の子の像を作ろう。」と言いました。「ほいでも、えっとお金がかかるぞ」と洋吉君が口を出し、みんな困った。「そりゃ、お互が節約して出すんよの」と、島本さんが言って、みんなこれに賛成しました。
それからず-りきて、一九五六年一月二十八日でした。広島市内の小学校から高等学校までのぜんぶの児童・生徒のお友達たちの代表が集まり、像をたてる決議をしました。
さいしょの原爆が広島に落とされたとき、私たちはまだこまかった。かすかにしか覚えていません。でも、あの日、町の建物をのけたり、工場のきんろう作業に出されていたお兄さんや、おねえさんは、二十四万の爆死者とともになくなられた。二度と私たちのように楽しい勉強も、カープの試合も見られないから可哀そうです。
紘治君のお母さんも、仕立物をぬいながら、今でもよく泣いています。
この二月のはじめ、市の原爆しょうがい協議会が、私たちの中には、まだ九七〇〇人の爆弾にあったお友達がいると発表されたので、なんだかいびせくなります。
今年も原爆の病気が出て、広島市内でもつぎつぎと、大人の方がなくなっています。
禎子さんや義登君のように、カスリきず一つうけないで、お勉強をしてきたのに、いまになって、しかも自分のせいでない病気のために落さねばならない。ほんとうにこんなことがあってよいでしょうか。
戦争で傷つけられたのは、私たち広島の市民だけではありません。全国の児童・生徒の皆さんも、それぞれぎせいを受けられて、いまもきっと、情けないめをしていられることでしょう。あの時焼け死んだ一万名のお兄さんや、おねえさんたちは、みんな死にたくなかった。どんなにつらかったでしょう。今でも夜がくると、川の橋の下で、その泣き声が聞えるような気がします。
それに、死んでも禎子さんにはまだ仏だんがない、ナメクジ住宅のバラックのお家はすうすうして寒い板の打ちつけです。
全国のお友達の皆さん!
私たちは私たちの手で、これらたくさんの学徒や、お友だちの霊を、おまつりしてあげたいのです。お小づかいをしまつして、祈りのこもった原爆の子の像を作りたいのです。そしてお互に励まし合い、毎日一心に基金を集めています。
しかし、次の計画のように、心のこもった意義のある像を建てるには、えっともとでがかかり、大へん困っています。どうかこのことを知って、げきれいし、できたら、えんじょしていただけないでしょうか。私たちこころからのお願いです。
一九五六年三月一日
広島市材木町 広島平和記念館内 平和をきずく児童・生徒の会
委員長 中村正司
”原爆の子の像”を建てる計画書
1.事業者 広島市公私立小・中・高校の児童・生徒会
2.目的 私たちは戦争の犠牲となった亡き児童・生徒の霊を心からとむらい、傷ついた友達をなぐさめるために”原爆の子の像”を建て、ふたたび戦争をくり返すことのない、平和な住みよい世界を打ちたてるべく、努力することを誓います。
3.規模と制作 真にこの目的にかなって、意義がこもり、つねに私たちや人々の追憶と平和へのしるべとなり、後世に遺る規模のものを、この道のすぐれた彫刻家に依頼して制作してもらう。
4.建てる場所 広島市中島平和記念公園内
5.完成予定 募金額、制作費等と関係があり、まだとり決めていないが、見通しがつき次第、ただちに着手し、なるべく早く完成させたい。そして除幕式には御支援下さったお友達の地方代表をもお招きしたい。
6.募金対象と期限
イ.広島市内各小・中・高校児童・生徒
ロ.全国各学校のお友達
ハ.こころざしある一般の方々
とし第1期の募金〆切期日を昭和31年8月6日とする。
7.建てる基金を送って下さるには
1.一番確実な御送金は、この趣意書につけている振替用紙をおつかい下さい。
2.用紙のない場合も、同じく郵便局を御利用下さって、口座番号、広島20番広島銀行本店宛にお送り願います。
3.右の1.2.どちらの場合も、たいへん御面倒ですが、同封の葉書にて次の事務所宛に御送金下さった由を御一報下さい。
8.募金の扱い及び事務所
広島市材木町 広島平和記念館内 平和をきずく児童・生徒の会
準備会 昭和31年1月11日 結成総会 昭和31年1月28日
平和をきずく児童生徒の会会則
第1章 総則
(事務所)第4条 この会の事務所を広島市元町一番地、広島市児童文化会館内に置く。
第2章 役員
委員長 |
中村正司(基町高) |
副 長 |
福田晴之(幟町中) |
同 |
(青崎小) |
(顧問)(小学校)田中* (中学校)田中元逸 (高等学校)正月定夫 (市教委総務課長)森岡幹造
佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争
『緑の旗 Vol.8』(広島大学教養部学友会総合機関誌、19680410)目次
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頁 |
栗原貞子 |
生ましめんかな |
16 |
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村岡孝彦・野口照生 |
ZENGAKUREN その思想と行動 |
66 |
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全学連 この一年の闘い |
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ドキュメント 佐世保 |
71 |
1968年1月 |
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16日 |
博多 |
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17日 |
平瀬橋 |
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18日 |
佐世保球場 5万人集会 |
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19日 |
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20日 |
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21日 |
島之瀬公園 2万人集会 |
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