「04 できごと」カテゴリーアーカイブ

参議院社会労働委員の現地調査

参議院社会労働委員の現地調査

1.視察委員:参議院議員 谷口弥三郎、同 山下義信

2.視察日程概況

1月 時刻 概況
6日 14:20 広島県庁を訪問し、地自宅において副知事、民生部長、衛生部長、関係各課長から原爆傷害者対策の概況説明を聴取した後意見を交換し、又県側の陳情を聴いた。
15:15 県知事応接室
15:30 市役所
16 市役所会議室
7日 10 市役所
11 ABCC(原爆影響研究所)ロバート・エッチ・ホームズ所長
13 日赤広島病院
14

3.調査項目

<以下未入力>

広島国際シンポジウム(第16回)

広島大学平和科学研究―センター・原爆放射能医学研究所・広島大学文書館(共催)「第16回広島国際シンポジウム 広島の黒い雨と関連する課題」。開催日:20110112

情報元:広島大学平和科学研究センター”NEWSLETTER”2011年

シンポジウム:原爆被害と援護問題

シンポジウム:原爆被害と援護問題

日時:1983年8月7日
場所:広島市社会福祉センター
主催:「原爆被害と援護問題」シンポジウム世話人会BK840430

田村和之 開会のあいさつ
 小川政亮 被爆者援護の法理
 湯崎稔 原爆被害者援護問題への課題 ー「基本懇」答申の問題をめぐって一
 河合幸尾 被爆者援護と社会保障
若林節美 被爆者行政の現状と限界

 

核開発の国際史

公開シンポジウム「核開発の国際史―各時代の幕開けにおける科学者の社会的責任―」(日時:2003年8月10日、 会場:広島平和記念資料館メモリアルホール)

国際シンポジウム「20世紀における戦争・冷戦と科学・技術―国際共同研究の展望―」(日時:2005年10月2日、会場:広島市まちづくり市民交流プラザ内マルチメディア・スタジオ)

記録

『”戦争と科学”の諸相 原爆と科学者をめぐる2つのシンポジウムの記録』(広島大学総合科学部…編、市川浩・山崎正勝責任編集、丸善株式会社)

青年平和文化講座(創価学会)

青年平和文化講座(創価学会) 1973年~

http://www.pv-hiroshima-soka.jp/activity/lecture/backnumber/

 

年月 講師 肩書(当時) テーマ
197308 原田東岷 外科医 ヒロシマの外科医として
197404 伊藤満 創価大学教授 人権と平和
197608 熊田重克 中国新聞論説副主幹  現代における核の状況
197608 丸山益輝 広島大学教授 広島の青年の役割
198003  今堀誠二 広島女子大学学長  私にとってのヒロシマ
198004 畑博行 広島大学教授   日本と平和主義
198007 高橋昭博 原爆資料館館長   私の被爆体験と広島の心
198203 熊田重克 中国新聞論説主幹   広島と沖縄を結ぶ想像力
198302 豊永恵三郎 広島電機大学付属高校教諭  朝鮮・韓国人被爆者と私達
198308 深川宗俊 歌人  朝鮮・韓国の被爆者
198310  伏見康治 元日本学術会議会長  地平から平和の巨塔を
198404 日隈健壬 広島修道大学教授   21世紀の広島が見える
198408 北西允 広島大学教授  反核・平和運動の状況と展望
198503 磯野恭子 山口放送テレビ制作部次長   生命(いのち)の鼓動を伝えて
198504 山田浩 広島大学教授  これからの平和問題と私達
198603  片岡徳雄 広島大学教授  いま、教育の原点を考える
198706 川本義隆 原爆資料館館長   世界のヒロシマ 使命と責任
198709 大野允子 児童文学作家  あなたへのメッセージ
198711 秋葉忠利 広島修道大学客員教授 ヒロシマの心と広島に住む若者の役割
198802 小倉桂子 HIP代表   一人の力が平和の万波に
198805 二宮皓 広島大学助教授  世界のなかのヒロシマ
198809 目瀬守男 岡山大学教授   地域活性化と青年の役割

原爆被害者相談員の会

原爆被害者相談員の会 1981年6月13日発足

若林節美「原爆被害者相談員の発足と1年間のあゆみ」
(「ヒバクシャ-ともに生きる1号」所収)より

一九八○年十二月十一日、原爆による苦しみをなめ尽くしてきた被爆者は、原爆被爆者対策基本問題懇談会の意見書(以下、意見書)を期待と不安の中で、じっと待っていた。
それは、被爆者のみならず、被爆者援護や核廃絶を願う人々にとって、被爆者援護法が制定されるか否かは、日本の将来、ひいては人類の未来が問われるという重大な関心事であった。
しかし、報告された意見書は、国の戦争責任を回避し、原爆の被害を矮小化し、そしてあいまいな国家補償論で、三十五年間にわたる被爆者の苦渋に満ちた歴史に意味を与えず、逆に、被爆者に衝撃を与え、生きる意欲を奪ってしまうものであった。
年の瀬も迫る中、日常的に被爆者に接するソーシャル・ワーカー(以下、ワーカー)は、被爆者の悲しみ、怒りを見すごすことはできず、二十人の被爆者の怒りの声を、厚生大臣宛に直訴状として届けた。
震える手で直訴状をつづった老被爆者は、「夫と娘の死にようはひどいものでした。苦しんで、苦しんで……。生きる支えだった息子は、九年間生きましたが、白血病で狂うようにして死にました。たった一人残された私は、あとどれだけ生きられるかわかりません。この死を無駄にしないで下さい。」と訴えた。しかし、この被爆者は長年願い続けてきた援護法の日の目を見ないまま、意見書の衝撃と寒さのため、一ケ月後に他界してしまった。
こうした二十名の被爆者の怒りと抗議の声は政治の前にはむなしく、私たちの小さな灯は、意見書を乗り越える取組みへと燃えていった。

 被害者相談員の会の発足

一九八一年六月一三日、専門ボランティアによる原爆被害者相談が広島市内でスタートした。
これは、不当な意見書を乗り越えるために約半年をかけて産み出された、私たちの唯一の方法であり、運動であった。
今日、被爆者の高令化にともない、被爆者の問題は、複雑かつ深刻化し、とりわけ、被爆者援護の遅れは、被爆者のくらしや、こころの再建を非常に困難にしてきた。
この被爆者の問題に対し、行政や、各関係団体、各機関で相談事業が行なわれてきたが、今日の被爆者の切実な要請に応えるためには、一層、相談事業を強化しなければならず、しかも、専門的知識と経験を生かした総合的、かつ継続的な相談事業が求められていた。
それは、谷間で苦しむ被爆者のために、広く相談窓口を設け、被爆者の直接相談に応じながら、被爆者がかかえる現行二法の問題点、及ぴ、その被害の実態を科学的に究明し、しかも被爆者が被爆者として主体的に生きるための条件を整えていくという内容であった。
しかし、この相談事業の中心的役割を担わなければならないワーカーにとって、これほど重要な課題を目指すには、余りにも荷が重すぎ、不安は隠し切れなかった。
使命感と不安の中で、ワーカー、弁護士、研究者、教師、団体職員、市民等によって原爆被害者相談員の会が発足し、被爆者相談が取り組まれていった。こうして、過去五年にわたる原爆被害者問題研究会活動、NG0国際シンポジウムでの生活史調査、そして「三十五年目の被爆者」の出版等、ねばり強い活動経験が、さまざまな不安を一つ一つとり除き、次のような多くの成果と教訓を残した。

参考

年月日 事項
197511 広島原爆被爆者問題ケースワーカー研究会
198208 原爆被害者証言のつどい
198212 ヒバクシャ-ともに生きる1号
1981~ 年表:原爆被害者相談員の会

 

 

原爆障害者救援事業広島委員会

財団法人広島原爆障害者対策協議会原爆障害者救援事業広島委員会

1.名称  原爆障害者救援事業広島委員会

2.目的  ノーマン・カズンズ氏等国外有志の好意による原爆障害者救援事業の推進を図る

3.委員

   原爆障害者救援事業広島委員会委員名簿(順序不同)
 顧問  東京日赤中央病院長  都築正男
 日米協会長  小松隆
 日本タイムス社長  東ケ埼潔
 委員  広島市長原医協会長  渡辺忠雄
 日本医師会代議員原対協副会長  松坂義正
 広島県医師会長原対協副会長  正岡旭
 広島大学長  森戸辰男
 広島県副知事  河野義信
 広島商工会議所会頭  白井市郎
 広島市医師会長  今川卓治
 広島市社会福祉協議会  鈴川貫一
 広島市議会議長  柴田重*
 広島市助役  沖野悟
 広島原爆犠牲者遺族援護促進会委員長  任都栗一興
 広島県医師会理事  原田東岷
 広島県医師会理事 大内五良
財団法人広島ピースセンター 谷本清
広島市厚生局長 向井一貫

灰墟の光甦るヒロシマ

『灰墟の光 甦るヒロシマ』(ロベルト・ユンク著、原田義人訳、文芸春秋、1961年2月10日刊)

目次

 目次
Ⅰ 空虚と混乱(一九四五年)
書物
原子砂漠
大洪水のあと
孤児とやくざ
位牌
Ⅱ 新たな開始(一九四六-一九四八年)
夢見る人
たけのこ生活
〈アトム・ボーイ〉
〈杖さん〉
Ⅲ 平和の町(一九四八-一九五二年)
わが道を行く人びと
こわし屋
殺人
八月六日
草履
Ⅳ 生き残った人びと(一九五二-一九五七年)
かまぼこ御殿
救援の人たち
冷たい人たち
破滅にさからう二人
エピローグ
訳者あとがきに代えて
 <メモ >「1957年5月の末、・・日本を去ろうとしたとき、私は小倉薫という若い民間の学者と打ち合わせをした」

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