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広島県原爆被害者団体協議会

広島県原爆被害者団体協議会<作業中

1956年5月27日

原爆被害者大会・国会請願デーの開催は,広島におlナる既存の原爆被害者組織の大同団結と新たな被害者組織づくりの重要な契機となった。原爆被害者大会実行委員会は,1956(昭和31)年4月8日,事務局に県内各地から30人が参加して代表者会議を開催,次のような決議を行った。

資料:広島県原爆被害者全県地区代表者会議 1956年4月8日

県内の原爆被害者の組織は,被害者大会までに,大竹市(1955年8月6日結成)・甲奴郡(9月1日)・芦品郡(10月11日)・深安郡・神石郡・三次地区(1956年3月15日)などに結成されており,大会後の3月29日には,賀茂郡原爆被害者の会が結成された。一方,広島市内の場合,原爆被害者連絡協議会世話人会は発足しても協議会が結成さしていたわげではなかった。5月4日,市内の6団体の代表と吉田広島市社会課長ら約20人が市役所で協議会第1回準備会を開き,市婦連・未亡人会・民生委員などの協力を得て全市的な組織化をすすめ,協議会を結成することを決めた。また,この日には,毎月6日を追悼の日にしようと申し合わせ,5月6日,5団体の代表約20人が,平和公園の原爆慰霊碑に敬虔な祈りを捧げたのち,1時間iこわたって付近の清掃を行った。

被害者大会実行委員会は,こうした組織づくりに積極的にかかわる一方で,注目すべき国際的な活動を行っている。5月15日には,渡米する大原県知事にアメリカ国民へのお礼と訴えの言葉を託した。お礼は,さきに渡米し治療中の原爆乙女25人への配慮に対してであり,訴えの内容は,原爆障害の根本的な治療法を確立するのは核兵器所有国の務めであり,さらに被害者の念願は二度と原子力兵器が人類の上で炸裂しないことであり,またこれを可能ならしめるのはアメリカはじめ全人類の良識であると強調したものである(「中国新聞」1956年5月15日)。また,5月21日には,訪中視察団の代表である山田恥目および本間大英に,まだ結成前であったが広島県原爆被害者団体協議会名で,中国人民へのお礼を託した。

資料:中国人民への御礼

原爆被害者大会実行委員会は,4月8日につづいて5月13日にも代表者会議を開催,5月21日には,事務局長藤居平一の名で,5月27日の広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協と略称)結成総会の案内状を発送した。広島YMCA講堂で開かれた結成総会には,県内の被害者団体代表120人のほか,長崎8人,愛媛1人の代表が参加した。総会は,経過報告,規約案の審議ののち,次のような運動方針を決定した。

資料:広島県原爆被害者団体協議会結成総会・今後の運動方針 1956.5.27

なお,総会は,藤居平一(原爆被害者大会実行委員会事務局長・広島原水協事務局次長)・井上昇(広島県東部被害者連絡協議会)・日野義隆(大竹市被害者同志会)の3人を代表委員に,また,藤居を事務局長に選出した。