山口県原爆被害者団体協議会<作業中>
1957年11月10日
『中国新聞』一九五六年二月二日
「山口県玖珂郡美和村、中川国雄君(一八)は八月六日原爆投下の日、当時三篠小学校一年生だったが、市内中広町(爆心から一キロ)で通学途中被爆、焼けただれた身体で父母とともに田舎に疎開したまま、不自由な身で極貧の生活に突き落とされた。希望も楽しみも奪い去られた灰色の生活-ところが、正月早々ふと開いた新聞で治療機関の原対協の存在を知り、一筋の希望を抱いて去る十二日来広、治療へトビラをたたき、さっそく治療を承認され市民病院での入院生活が始まった。
・・・
またこの愛の執刀に加え、原爆被害者の会の温品道義さん(五〇)が寂しく横たわる同君の親代りとなりしばしばベッドを訪れ精神面で援助、原・水爆禁止広島協議会からも見舞金として千円が贈られるなど三百円しかフトコロになかった同君はまるで夢のよう。・・・」
『中国新聞』一九五六年六月二十六日
「原・水爆患者の集団検診や治療にあたりながら禁止運動を展開していこうと原・水爆禁止山口県協議会(山口市後河原県教組内)が発足したが、同会推薦の第一号として徳山地方の養老院にいる山田豊(六四)=広島市出身=が二十五日県立防府中央病院へ収容された。
山田さんは広島で原爆にあって以来、二十二年には歯ぐきから血が出て歯が抜けてしまい、二十五年ごろからは心臓や肝臓に障害が認められ、去る四月八日養老院に収容されてからも、医者にかかっている。防府病院では専門医の長崎医大病院糸賀博士の精密検査を受ける。」
56 11 08? 下関市福祉事務所、市内の原爆被災者の実態をまとめる。広島被災115名、長崎被災11名、計126名。 09 042 C 1108
56 11 11 山口県下関市原爆被災者の会、結成総会を開催。C 1108