「42長崎県」カテゴリーアーカイブ

あの日から23年 長崎原爆被災者の実態と要求

『あの日から23年 長崎原爆被災者の実態と要求 長崎原爆被災者の実態調査報告 憲法会議長崎通信No. 10』(長崎憲法会議・長崎被災者協議会・長崎高校原水協・日本科学者会議長崎支部、19680809)

01 被爆後23年の実態と要求をさぐる―長崎原爆被災者実態調査の方法と目的
02 1. 長崎県下の被爆者の概況
03 2. 長崎県市の「原子爆弾被爆者援護措置」運用状況
3. 長崎の被爆者の実態調査
[調査期日]昭和43年7月21日より8月3日まで。
[調査参加人員]のべ60人
①調査対象・被爆者と地域
男50人、女50人、計100人
07 4.調査に現れた問題事例
 (1)原爆手帳の交付をめぐって
 (2)生活と仕事をめぐって
10 5.最近の罹病傾向と医療問題-長崎原爆病院の報告から
11 被爆者援護と原爆問題にたいする長崎県市当局の態度
13 今次実態調査・結語

 

あすへの遺産 長崎被災協結成35周年記念誌

『あすへの遺産 長崎被災協結成35周年記念誌』(長崎原爆被災者協議会、19910809)

内容作業中

備考
1 被災協三十五年の歩み
1 前史(1945~1955) 
戦災者連盟の発足
原爆乙女の会の結成へ
原爆青年会も結成へ
2 揺藍期(1956~1960)  09
初代会長に杉本亀吉氏
原水禁世界大会ひらく
日本被団協の結成
原爆医療法の成立
安保改定をひかえて
原水禁大会に脅える政府・自民党
特別被爆者制度できる
3 内外多難ななかで(1961~1970)  24
国際交流も活発化
世界大会も援護法で特別決議
再開された核実験
法人となった長崎被災協
核禁会議結成の余波受ける
原水禁大会に新たな困難
原水禁運動の混迷
「援護法」への決意新たに
東京地裁の原爆判決
衆・参両院で援護強化の決議
原水禁運動の統一をねがって
日本被団協運動へも影響が…
中国五番目の核保有国になる
被爆者会館の建設へ
国民の平和への関心が高まるなかで
被爆者会館の落成
はじめての厚生省調査
機能を回復した日本被団協
被災協の授産事業はじまる
総選挙で候補者にアンケート
援護法制定へ大行動を展開
数寄屋橋での坐り込みも
全国行脚がスタート
自民党、小委員会を政調会に設置
被爆者特別措置法が可決・成立
原子力空母長崎へ
特別措置法の実態
まやかしの「二法」をこえて
つぎはハンストも辞せず
被爆者団体の結束はかる
被団協、代表委員制へ
4 『援護法』案いよいよ国会へ(1971~一1980) 75
援護法・要求骨子の策定へ
佐藤総理広島へ
自民党調査団長崎へ
援護法にかたくなな政府・自民党
被爆二世に痛ましい犠牲がつづく
立ち遅れていた二世問題
被爆者を理由に用務員をクビ
原爆病院での病棟閉鎖
援護法の要求骨子を発表
積極的に受け止められた「骨子」
要求実現へ大規模な中央行動を設定
長崎でも積極的な行動展開へ
厚生省まえでの座り込みを強行
田中角栄、私邸で面会を承諾
野党四党の共同提案で援護法案衆議院へ
援護法案は廃案となったが…
衆・参両院で被爆者代表が意見陳述
被爆者対策費は前年の64%増
欠陥原子力船むつ佐世保へ
三木総理、長崎の平和祈念式典へ
核兵器禁止国際条約の締結を!
NGOシンポの開催へ
援護法予算の試算を発表
延べニ〇〇〇名の中央行動
国際シンポジウムひらく
長崎原普協の結成
NGO・ジュネーブで国際会議
最高裁、孫振斗事件で判決
第一回国連軍縮特別総会開幕
原水禁運動の統一へ
動き出した市民懇
「基本懇」が発足
ノーモア・ヒバクシャ訪米の旅へ
第二次全国行脚はじまる
「基本懇」が現地を調査
ダブル選挙で自民勝利
市民懇とともに中央大行動
基本懇、『意見』を答申
被団協、基本懇に抗議
5 「基本懇」をのりこえて(1981~1990) 128
「国民法廷」運動始まる
好評、長崎での「国民法廷」
ローマ法王の来崎
定着はじめた語り部活動
活発化した国際活動
SSDⅡへ八名参加
受忍論はねかえす大運動へ
西日本懇問題が浮上
被団協の組織への「友の会」の介入
克服された組織的混乱
中央行動に一〇〇〇人
ヨ~ロッパに高まる核兵器への不安
被爆者要求調査にとりくむ
被爆者の「基本要求」の策定へ
被爆者援護法への国民の合意
四〇年目の八月九日
二つの被爆者調査
野党共闘にきしみも
統一乱れた原水禁大会
原爆被害を浮き彫りする調査結果
厚生省を取り囲んだ折り鶴人間の輪
香焼町役場で反核看板撤去
八八全国運動の展開へ
長崎原爆松谷訴訟はじまる
被爆四十五年には援護法を!
参院での賛同署名過半数を突破
援護法案、参院で可決
右翼、本島市長を狙撃
原爆死没者調査の結果を発表
毎月展開された中央行動
地元でも積極的な行動を展開
ネットワークが署名に威力
政府・自民党に大きな動揺
引き出した成果
2 46年目の証言  163
*田清「出張中に町は全滅」
*下敏子「忘れられぬ二日間」
*永アヤコ「九人家族が一人ぼっちに」
*本富夫「余りにもひどすぎる」
*戸縫子「心の傷を背負って」
*山正義「忘れられない悲惨さ」
*島旭円「あの日、私は」
*川佐代子「ひとりぼっちの苦しみをのりこえて」
*田清一「反戦・反核・反公害」
山口仙二「生きつづけて」
*いと「生き残った日」
筑城昭平「湾岸戦争と被爆体験」
*田保信「原爆と私」
*橋貴代「亡き二男を偲びて」
吉山秀子「ふたたびくり返さないで-」
*川康行「新型爆弾の恐怖」
下平作江「苦しみ悲しみに堪えて」
*川弘敏「余りにもむごすぎる」
*畑正勝「「語り部」を生き甲斐に」
*本義光「ロザリオ」
山口美代子「二度とあってはならないこと」
*宮司英「短歌九首」
*村勇男「長かった暑い一日」
*本フミヱ「戦争はもういや」
*田政助「たとえ体は蝕まれても…」
*木光子「原爆はもういや」
*輪博志「被爆の生証人として」
*村幸一「幼い目に映った原爆」
谷口稜曄「長崎を最後の被爆地に」
*山マサコ「夫と二人の娘を奪った原爆」
*尾幸子「二十一人を亡くして」
西河タケノ「湾岸戦争に重なる思い」
*田正明「原爆被害の責任追及を」
O・S「援護法の制定を」
*熊茂「「あの日」のこと」
*木ミツ「一人ひとりのこと」
*浦エキ「三ツ山は避難者であふれた」
*浦ヒサ子
*川代枝子
*見多見治
*地勝美「大村で看た被爆者」
*良崎新市「新婚四ヶ月の妻を奪われて」
*田千鶴子「戦争の記憶が薄らごうとも!」

 

長崎原爆被災者協議会評議員会資料

財団法人長崎原爆被災者協議会評議員会資料

年月日 資料名
19610701 <長崎原爆被災者協議会総会議案書>
19640523 昭和38年度の主な日記抜粋記録
19650529 長崎原爆被災者協議会第2回評議員会資料
19660528 長崎原爆被災者協議会第3回評議員会資料
19670527 長崎原爆被災者協議会第4回評議員会資料
19690518 長崎原爆被災者協議会第6回評議員会資料
19700523 長崎原爆被災者協議会第7回評議員会資料
19710529 長崎原爆被災者協議会第8回評議員会資料
19720527 長崎原爆被災者協議会第9回評議員会資料
19730717 長崎原爆被災者協議会第8回総会資料

 

長崎原爆被災者協議会

長崎原爆被災者協議会

1953年6月    原爆乙女の会(長崎)

一九五五年七月二十日 原爆乙女の会(長崎)、機関紙「原爆だより」第一号を発行。

一九五五年十月一日  原爆青年会

一九五五年五月三日  長崎原爆青年乙女の会

1956年6月    長崎原爆被害者協議会(原対協の総合診断名簿による7000人)

長崎原爆青年乙女の会編『原爆体験記もういやだ-原爆の生きている証人たち』(あゆみ出版社、一九五六年)

渡辺千恵子「十一年目の証言」

「毎年、夏が訪れるたびにいろんな原爆記念行事がくりかえされてきました。しかし肝心の私たち被爆者はいつも焦点の外におかれていました。ところが広島大会では私たち被爆者の救援がはじめて大きくとりあげられたのです。大会の模様が電波に乗って、世界の隅々まで伝わって行きました。

”ああ、生きていてよかった”

これは一人私だけでなく、生残りの被爆者の誰もがそう心から思ったにちがいありません。

 

「あとがき」

「長崎における原爆被害者の大衆活動は過去一年間唯一の被害者組織として歩みを続けた原爆青年乙女の会の呼びかけで、この六月やっと長崎原爆被害者協議会が発足したばかりである。しかもこれは原対協の総合診断名簿による被害者七千人が自動的に会員となった。さらに労働組合、民主団体など平和の力の総体的な弱さが被爆十一年後今なお被爆地としての問題点を明確にし得なかった根本原因であった。」

『中国新聞(夕刊)』一九五五年八月十日

「原爆殉難者慰霊祭奉賛会主催の被災者大会は八日午後七時から長崎市原口町国際文化会館で約五百名の被災者が集まって開かれ、直接恐怖の原爆を体験した人人が、原子爆弾に対する激しい怒りの声をあげたのち

一、原爆被害者に年金制度をつくれ。

二、原爆死亡者の遺族に扶助を与えよ。

三、財産上の損害を補償せよ。

など五項目を決議した。

 

『長崎日日新聞』一九五五年八月九日

「援護の不備を訴う 被爆者大会で悲痛の叫び

夜に入って原爆奉賛会主催の比婆宇社大会はきのう八日夜七時二十分から長崎国際文化会館講堂で開催、被爆者の悲痛な叫びをあげた。約一千名の被爆者が出席、開会の辞についで議長団に小佐々八郎(長崎市議)梶山清美両氏を選出して来賓のあいさつに入った。西岡知事、田川長崎市長、脇山市議会議長、矢野重俊氏らが原爆犠牲者のめい福と被爆者、犠牲者遺族の労苦をねぎらってあいさつを述べた。終わって意見発表に移り杉本亀吉氏(市内城山町)古瀬益司氏(同町)ら約十名の被爆者が援護の手の不備と被爆者の悲痛な叫びを訴えた。

ついで△原爆傷害者の国費による完全治療を実施するため①研究治療費の増額②傷害者はすべて健康管理下におき年金の支給△原爆犠牲者遺家族の範囲拡大と援護措置をはかるため①被爆者の遺族にも弔慰金の支給②被爆による財産の損害を国家で補償△原子兵器の製造実験および使用禁止の措置の三項の決議文を満場拍手のうちに採択、被爆者代表(後日選定)が政府、国会をはじめ各国大使館に手渡すことを決定した。

最後に”世界最初の原爆犠牲者であるわれわれに政府は責任と義務において万全の援護措置を構ずべきである。れわれは被爆者の権利をもって政府に訴える”との宣言文を高らかに宣言して大会を終った。このあと映画”陽のあたる家”を上映して午後十時過ぎ散会した。

山口仙二『115、500㎡の皮膚-被爆43年の自分史』(みずち書房、一九八八年)

六一頁

この入院生活では、私はその後の生き方にかかわる大きな収穫があった。調外科には、外傷をもつ多くの被爆者がいた。私は調先生から、追跡調査のため患者の組織づくりをしてくれるよう頼まれ、患者会をみんなで結成した。 何年??

->被爆者約一万名のリスト作り

->長崎原爆青年会の結成(十月一日) 七六頁

六八頁

第一回世界大会直後、辻幸江・江頭千代子と長野へ。

六九頁

この土地の、原爆への関心の高さには驚かされた。十三カ所の会場で、私たちの話をきいてくれた人びとはおよそ三万人。善光寺の半田孝海大僧正も会場にみえられ、のちに寺をあげての接待をして下さった。

七〇頁

長野から帰った直後、第一回原爆被害者救援委員会に出席

七七頁

(中国からの原爆被害者慰問金五万円をたずさえて)安井氏と私とで県庁へ相談に行った

。(安井がそのまま持ち帰る)。

 

第二回原水爆禁止世界大会長崎実行委員会『長崎における被爆者に関する調査資料』(一九五六年八月一日)

平和を―被爆から75年を行きぬいて

『平和を―被爆から75年を行きぬいて』(長崎原爆被災者協議会、20200809)

内容

著者 タイトルなど
[口絵] 写真でみる被災協のあゆみ
001 濱谷正晴 [特別寄稿]被爆七十五年被爆者運動に思う
1 忘れえぬあの夏の日
長崎7人
2 戦中・戦後を生きる
長崎12人
濱谷正晴 原爆と人間アーカイブに残る深堀悟迫真の証言
3 被爆者運動
長崎6人
4 戦争放棄・核兵器なくせ
長崎7人
5 被爆者・家族の思いをつなぐ
長崎11人
6 戦争、被爆体験・記憶を語りつなごう
長崎7人
資料編 長崎被災協のあゆみなど