「被爆体験」の展開ー原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として<工事中>
『芸備地方史研究』(第140・141号、19830531)
宇吹暁
はじめに
「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。一九五四年三月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた。また、一九五五年八月に開催された第一回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と思想化か急速に進んだ。
たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、一九五五年五月頃には約三〇〇名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、五六年二月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(一二団体)約二万名」が組織されている。こうした五五年五月から一一月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(一九五六年五月二七日)につながる広島県原爆被害者大会(五六年三月一八日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(五六年八月一〇日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」
形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである。なお、一九七七年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。
<以下骨子>
一 原水爆禁止と被爆者救援
第1図 第1回大会宣言における原水爆禁止と原爆被害の関連
二 運動分裂後の展開
1 原水爆被害者
第1表 宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
第2表 宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例
2 原爆投下責任の追及
第2図 第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連
第3表 大会決議の標題にみえる救援と援護法
3 「被爆体験」の新展開
第4表 大会宣言・決議に現われた原水爆被害(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く)
おわりに
第5表 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』(原爆被災資料広島研究会1972年)より作成)
第3図 原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷
原水爆禁止世界大会広島準備会
結成:1955年5月21日
資料
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出典:『原水爆禁止世界大会広島ニュース』第1号(1955年6月15日)』 |
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止
『8・6世界大会準備ニュース』(原水爆禁止世界大会日本準備会、19550605)
原水爆禁止世界大会(第1回)
本会議 1955年8月6日 広島公会堂
午前十時十四分-十二時
開会の挨拶(野々宮はつえ)
議長団選出
議長団代表挨拶(浜井信三)
大会運営委員選出
歓迎のことば(渡辺忠雄)
外国代表紹介
日本準備会代表挨拶(椎尾弁匡)
一般報告(安井郁)
各界の祝辞(鳩山一郎、東久迩稔彦)
外国代表挨拶
宗教界代表=チャラバテイ(全世界宗教界代表者会議代表)
米国代表
午後二時十分-六時
外国代表挨拶
政党、民主団体代表の挨拶
母親大会代表=私も長崎で夫と母を亡くし、二人の子を残されました。
自治体代表の挨拶
被爆者代表の挨拶
高橋昭博
山口みさ子(25)
久保山すず
各国・各団体メッセージ
ニューヨークの原爆十周年記念集会へのメッセージの提案と可決
基調報告(武谷三男、平野義太郎)
[原水爆被害について(草野信男、本田きみ子、田辺耕一郎)は、なされず]
(『原爆許すまじ-原水爆禁止世界大会の記録』)
資料)浜井信三「議長団代表挨拶」(1955.8.6)
なお、さいごに原水爆禁止運動と戦争反対の運動との関係につきまして、参考までに私、御紹介を申し上げたいと思いますことは、例の「ノー・モア・ヒロシマズ」という標語であります。これはアメリカのアルフレッド・パーカー氏がはじめてもちいたものでありますが、この原語は「ノー・モア・ウオア、ノー・モア・ヒロシマズ」の対句となっていたのでありますが、それがいつとはなしに、あとの方だけがいわれるようになったのであります。私たちもこの対句の形でなければならないと確信しております。
資料)東久迩稔彦「祝辞」(1955.8.6)
わが国は十年前に戦争に敗れ、広島、長崎とあいついで極悪非道な原子爆弾の攻撃を受けた。原爆は人類のもっとも恥ずべきものです。全人類に向い、原水爆禁止と世界平和を叫び、犠牲者の霊を少しでも慰めたい。
一九五五年八月六日午後二時-
本川小学校の3教室
広島教職員組合主催「原爆被害者を囲む懇談会」於天満小学校
体験者八名聴衆者四〇〇名程度
『関西共同デスク速報』
吉川清、峠三吉夫人、原爆乙女三人など一一人
『広島機関紙クラブ共同デスク』
七時四十分「歓迎と祈りの国民大会」於平和広場
学生「被爆者との懇談会」於修道高校
「原水爆禁止世界大会に関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)
内容
章 |
タイトル |
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はじめに |
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1 |
世界大会の継続開催 |
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表1 |
世界大会の開催地・参加者数(第1~9回) |
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表2 |
世界大会の日程 |
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表3 |
新しい潮流による大会開催状況 |
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表4 |
原水禁3団体による大会の開催地・参加者数(昭和39~51年) |
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表5 |
統一大会の開催地・参加者数 |
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2 |
大会の課題 |
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表6 |
第1回大会の分科会における代表の発言内容 |
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表7 |
各大会の正式名(昭和30~38年) |
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表8 |
分科会一覧(第2~4回) |
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表9 |
大会本会議(総会)における意見発表者 |
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表10 |
世界大会で採択された宣言・決議・勧告(第1~9回) |
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表11 |
原水協・原水禁の大会でとりあげられた主要議題(昭和39~51年) |
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3 |
大会の基盤(国民運動性・大衆性・国際性) |
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表12 |
平和行進の概要 |
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表13 |
平和行進歓迎集会の概要 |
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表14 |
原水協大会・統一大会の平和行進の概要 |
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表15 |
原水協による大会内外での対外活動 |
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表16 |
統一大会に参加したアメリカ代表の所属団体一覧 |
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表17 |
各大会に厳守・議長などがメッセージを寄せた国一覧 |
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おわりに |
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注 |
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付記 |
大会関係資料の収集に当たっては、北西允・佐久間澄・竹内武・藤居平一・三宅登・宮崎安男の各氏、および平和会館。平和親善センター・日本原水協の各機関のご協力を得ました。末尾ながら、記して謝意を表します。 |
|
はじめに
昭和29年3月1日のビキ二水爆被災事件を直接の契機として生まれた日本の原水爆禁止運動は、今日まで絶えることなく展開されている。昭和30年以降毎年8月6日に前後して開催される原水爆禁止世界大会は、各年の運動の頂点に位置するものであった。各大会は、マスコミにより大きく取りあげられ、各方面からさまざまな論評が加えられている。また、これまでにも、この運動に関する著書がいくつか出版されてきた。今堀誠二『原水爆禁止運動』(潮出版社 昭和49年)は、第1回から第10回までの大会への参加記をまとめたものであるが、同時にこの間の大会の分析を通して日本における原水爆禁止運動の特質の解明を試みた書ということができる。熊倉啓安『原水爆禁止運動』(労働教育センター 昭和53年)は、原水爆禁止日本協議会の指導的立場からの、また伊藤茂(編著)『平和運動と統一戦線―原水禁運動の歴史と
展望-(増補版)』(ありえす書房 昭和50年)は、原水爆禁止国民会議の指導的立場からの運動の一つの総括である。また、岩垂弘『核兵器廃絶のうねり―ドキュメント原水禁運動-』(連合出版、昭和57年)は、昭和52年以降の統一大会に関する詳細な報告書である。しかし、これらの著書は、いずれも対象とする時期が限定されたり、分裂した運動の一方の立場に立った総括であり、日本で30年近くにわたって展開されてきた原水爆禁止運動の全体を対象としたものではない。一般的に、大会が分裂して開かれた昭和39年から51年までの期間の運動の意義は、分裂した大会の一方の当事者によっては無視され、第三者からは、両者ともに極めて不当に軽視されている。また、運動の総括は、しばしば、
分裂の責任あるいは運動の正統性に集中する傾向があり、そのことは運動の実態の把握を困難なものとしている。
本稿は、原水爆禁止世界大会の分析を対象とするものであるが、大会の論議に立ち入ることは意識的に避け、主としてその形式的側面からのアプローチを試みた。また、大会が分裂していることにではなく、大会が分裂してではあれ開催されつづけてきたことを重視する立場をとった。こうした方法によって明らかにできる日本の原水爆禁止運動の性格や意義は、おのずと限られたものであろう。本稿の意図は、すでに28回を数える大会を、大会の継続開催、大会の課題、大会の基盤という三点から整理し、今後の運動の本格的な分析に資そうとするものである。
「被爆体験」の展開――原水爆禁止世界大会の宣言・決議を素材として(『芸備地方史研究 140・141合併号』、芸備地方史研究、19830531)
内容
章 |
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はじめに |
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Ⅰ |
原水爆禁止と被爆者救援 |
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第1図 |
第1回大会宣言における原水爆禁徒と原爆被害の関連 |
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Ⅱ |
運動分裂後の展開 |
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2-1 |
原水爆被害者 |
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第1表 |
宣言・決議(1955~62年の大会)に現れた原水爆被害者の用例 |
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第2表 |
宣言・決議(1963~76年の大会)に現れた原水爆被害者の用例 |
|
2-2 |
原爆投下責任の追求 |
|
第2図 |
第14回大会における原水爆禁止と原爆被害の関連 |
|
第3表 |
大会決議の標題にみえる救援と援護法 |
|
2-3 |
「被爆体験」の新展開 |
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第4表 |
大会宣言・決議に現れた原水爆被害者(被爆者およびABCCなど被爆者関連機関・制度を除く) |
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|
おわりに |
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第3図 |
原爆手記の掲載書・誌数と手記数の年次別変遷(『原爆被災資料総目録第3集』原爆被災資料広島研究会、1972年 より作成) |
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第5表 |
原爆手記の掲載書・誌数と手記数の発行主体別変遷 |
|
註 |
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はじめに
「被爆体験」を原爆被害の組織化と思想化を契機に形成される社会的体験としてとらえるならば<1>、ビキニ水爆被災事件は、その全国的展開の出発点であった。1954年3月以降国会をはじめ全国の議会で採択された決議や全国各地で展開された署名運動は、そのほとんどが水爆実験禁止ではなく原水爆禁止を訴えていた<2>。また、1955年8月に開催された第1回原水爆禁止世界大会は、原水爆被害者救援運動を原水爆禁止運動と密接不可分のものとして位置づけた。こうした中で原爆被爆者自身による原爆被害の組織化と組織化か急速に進んだ。たとえば、広島県内の原爆被害者の組織状況をみると、1955年5月頃には約300名(原爆被害者の会々員数)ほどであったが、56年2月には「数個の団体、二千名程度」となり、同年一一月には「一七郡市及び広島市(12団体)約2万名」が組織されている。こうした55年5月から11月にかけての原爆被害者の組織化の急速な発展は、原水爆禁止運動の力によるものであった<3>。一方、広島県原爆被害者団体協議会の結成(1956年5月27日)につながる広島県原爆被害者大会(56年3月18日)および日本被団協の結成総会となった原水爆被害者全国大会(56年8月10日)の決議は、その第一項でそれぞれ「原・水爆禁止運動を促進しよう」、「原水爆とその実験を禁止する国際協定を結ばせよう」と述べていた。これは、原爆被害者レベルでの「被爆体験」が原水爆禁止と密接に結合していることか示すものである。原水爆禁止運動は、一方で、原爆被害者の「被爆体験」形成の契機になるとともに、原爆被害者の「被爆体験」を核にしながら、独自の「被爆体験」を発展させていく。本稿の課題は、原水爆禁
止世界大会の宣言・決議を素材として、日本における原水爆禁止運動の中で展開された「被爆体験」をあとづけることである<4>。なお、1977年以降の統一大会および独自大会は、本稿の対象としなかった。
註
<1>拙稿「日本における原水爆禁止運動の前提-『被爆体験』の検討-」(『日本史研究』236 1982年)。
<2>拙稿「日本における原水爆禁止運動の出発一1954年の署名運動を中心に―」 (広島大学平和科学研究センター『広島平和科学5』1982年)。
<3>「原爆医療法の成立」(『広島大学原爆放射能医学研究所
年報』23号 1982年)。
<4> 被爆者問題については、田沼肇『原爆被爆者問題』(新日本出版社 1971年)、伊東壮『被爆の思想と運動』(新評論 1975年)の労作がある。また拙稿「原水爆禁止世界大会に
関する覚書」(『広島県史研究』第8号 1983年)は、日本の原水爆禁止運動を大会の形式的側面から検討したものであり、これを総論とすれば、本稿はその各論に当たる。
原水爆禁止世界大会記録一覧(1979年~)
年 |
タイトル |
所蔵 |
備考 |
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所蔵:U=宇吹 |
|
1979 |
報告 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1980 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1981 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1982 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1983 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1984 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1985 |
行動の記録 |
U |
発行: 原水爆禁止日本協議会 |
1986 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1987 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1988 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1989 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1990 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1991 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1992 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1993 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1994 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1995 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1996 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1997 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1998 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
1999 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2000 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2001 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2002 |
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|
|
2003 |
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|
2004 |
|
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|
2005 |
|
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2006 |
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2007 |
|
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2008 |
|
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2009 |
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2010 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2011 |
|
|
|
2012 |
|
|
|
2013 |
|
|
|
2014 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2015 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2016 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2017 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2018 |
|
|
|
2019 |
記録 |
U |
発行: 原水爆禁世界大会実行委員会 |
2020 |
|
|
|
2021 |
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|
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|
原水爆禁止世界大会記録一覧(第10~22回)
回 |
年 |
タイトル |
所蔵 |
備考 |
|
|
所蔵:U=宇吹 |
発行=原水爆禁止日本協議会 |
10 |
1964 |
|
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11 |
1965 |
|
|
|
12 |
1966 |
議事要録1・2 |
|
|
13 |
1967 |
議事要録1・2 |
|
|
14 |
1968 |
議事要録1・2 |
|
|
15 |
1969 |
議事要録1・2 |
|
|
16 |
1970 |
記録1・2 |
|
|
17 |
1971 |
記録1・2 |
|
|
18 |
1972 |
記録1・2 |
|
|
19 |
1973 |
記録1・2 |
|
|
20 |
1974 |
記録1・2 |
U |
|
21 |
1975 |
記録1・2 |
U |
|
22 |
1976 |
記録1・2 |
U |
|
|
|
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|
|
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|
|
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|
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|
『原水爆禁止2013年世界大会』(原水爆禁止日本協議会、2013/05/02)<パンフ34頁>
内容
|
|
|
1 |
核の被害をたどる |
|
2 |
北朝鮮の核問題 |
|
3 |
世界の非核平和 |
|
4 |
日本の非核平和 |
|
5 |
被爆者とともに |
|
6 |
言ぱっと核兵 |
|
7 |
世界大会に向けて-国民平和大行進 |
|
8 |
世界大会に向けて-ショメイと原爆展 |
|
9 |
さあ!2013年世界大会へ |
|
『原水爆禁止運動』(今堀誠二、潮出版社、19740625)
目次
第*回大会 |
タイトル<初出掲載誌紙> |
プロローグ |
|
原水禁運動の発足 |
|
杉並アピール |
|
見殺しにされた被爆者 |
|
被爆者救援運動の発足 |
|
|
1 |
三千二百万人の国民運動の進展 |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』187号(195509)> |
|
八月六日の回想 |
|
発言の本音 |
|
被爆者の生活と意見 |
|
科学者の責任 |
|
救援運動の出発 |
|
基地闘争への賛否 |
|
ヒロシマ・アピール |
|
歴史学研究会の問題点 |
|
歴史をになうもの |
|
|
2 |
被爆者・全国民・全世界との連帯が高まる |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』200号(195610)> |
|
世界を動かしたヒロシマ |
|
世界の連帯 |
|
進む戦争準備 |
|
沖縄問題 |
|
再軍備への告発 |
|
被爆者救援運動との結合 |
|
原子力の平和利用と大衆 |
|
大衆運動の進め方への反省 |
|
|
3 |
地方原水協の強化と中央および国際組織の空転 |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』211号(195709)> |
|
台所までもち込まれた運動 |
|
専門家の告発 |
|
歴史家は何をすべきか |
|
六大陸にひろがった原水禁運動 |
|
原水爆戦争体制との対決をうち出す |
|
会議は空転する |
|
全学連の誤謬 |
|
大会決定の成果と不安 |
|
問題点のかずかず |
|
組織と理論に重大な欠陥 |
|
|
4 |
日本の非核武装化にたちむかうために |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』223号(195709)> |
|
岸内閣を助けた原水協 |
|
ICBMの評価を誤る |
|
欧米で核兵器反対運動高まる |
|
平和行進 |
|
原爆の加害国化する日本 |
|
統一戦線 |
|
日本の核武装 |
|
空転する討論 |
|
中国・朝鮮への差別 |
|
運動の進め方への反省 |
|
難航した国際会議 |
|
実験禁止から核武装反対へ |
|
原水協を全国民のものに |
|
|
5 |
原水禁運動の正しい道と左右の日和見主義 |
|
<初出掲載誌紙:『歴史評論』110号(195910)> |
|
原水禁運動のマニフェスト |
|
一千万人の平和行進 |
|
自民党の妨害工作 |
|
安保改定と原水禁運動 |
|
大会からの脱退者 |
|
左右の日和見主義者 |
|
|
6 |
戦う平和運動の目標は軍備全廃か冷戦終結か |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』246号(196010)> |
|
二千二百万人の平和行進 |
|
平和の敵は誰か |
|
平和運動における二大潮流 |
|
人類の導きの星 |
|
日本と沖縄での戦いの報告 |
|
大会の混乱と成果 |
|
軍備全廃か冷戦終結か |
|
|
7 |
帝国主義時代の平和理論と原水爆時代の平和理論 |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』257号(196109)> |
|
|
|
謀略工作 |
|
平和運動における西欧方式とAA方式 |
|
AA地域別会議流れる |
|
本会議でのかけひき |
|
大会決議のおもてうら |
|
原水爆時代の平和理論 |
|
大衆の平和運動 |
|
両派の自己批判と運動の進展 |
|
|
8 |
社・共両党の激突と大衆の統一への願い |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』269号(196210)> |
|
矛盾の中で |
|
総評まかり通る |
|
あらゆる核実験に抗議する問題 |
|
核戦争の元凶は誰か |
|
幅広い運動か、反帝政治闘争か |
|
原水協の「内乱」と統一のエネルギー |
|
|
9 |
国民運動の崩壊と再生への四つの芽 |
|
<『思想の科学』19号(196310)> |
|
宗平協―国民運動をはぐくむもの |
|
地方原水協の活動 |
|
原水協、国民を無視 |
|
大会準備のなかでー国民運動にそむくもの |
|
大会のうらおもて―国民運動の崩壊劇 |
|
大会懇談会の諸報告―国民運動の新しい芽 |
|
すべての地域と職場に原水協をつくろう |
|
|
10 |
毛沢東理論からみた日本原水協批判 |
|
<初出掲載誌紙:『歴史学研究』299号(196504)> |
|
原水禁運動と私 |
|
毛沢東の平和理論の問題点 |
|
中ソ対立と原水禁運動 |
|
民族解放運動との接点 |
|
資本主義国の平和運動の意義 |
|
統一戦線への整風運動 |
|
日本の平和運動の性格 |
|
広島の平和運動の性格 |
|
原水協はその基本原則で再統一を |
|
|
核兵器のない世界をめざして |
|
<『聖教新聞』1973年2月21日~28日> |
|
日本の安全はどうして守るのか |
|
平和運動のゆくえ |
|
新しい平和の条件 |
|
国際連合の将来 |
|
|
あとがき |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
ヒロシマの歴史を残された言葉や資料をもとにたどるサイトです。