原子放射能基礎医学研究施設設立について
『広島大学原子放射能基礎医学研究施設年報 第1号 昭和35年』
原子放射能基礎医学研究施設設立について
広大医学部長 渡辺 漸
広島大学医学部原子放射能基礎医学研究施設が正式に成立したのは昭和33年4月1日であり,その実際的の発足は同年秋となったが,その成立に至るまでの経過の概略に就て述べたい.
我々の医学部の前身であった県立広島医科大学では放射線医学の重要性を河石学長が強調されアイソトープ委員会もすでに昭和28年には構成され、アイソトープ研究室も広の附属病院構内に同じ頃に新築されたのであって,我が原基研の前身はすでにこの頃出来たと言ってもよかろう.しかし具体的に放射能医学生物学研究所の構想が出来たのは昭和29年の春,我々の医学部が国立に移管した翌年の事であった.この年の3月にビキニ水爆実験に伴う福龍丸の放射l能灰の被曝があって放射能の人体に及ぼす影響に就てにわかに世人の関心が高くなって来た時期である.
昭和30年度の概算要求に広大放射能生物学研究所の設立案を提出しようではないかとの考えが医学部内で強〈なり,それは理学部の協力が必要であるとの理由で、昭和29年6月3日の午後3時30分から阿賀の医学部会議室で当時の藤原理学部長,川村智治郎教授,品川睦明教授の3名を招き,当方からは河石学部長,浦城教授,沖野事務長と私の4名が出席して会合を開いたのがそもそもの初めてある.その時には研究所の設立だけでなく,広大放射能研究委員会の創設の案も席上の話題となった.この時に出来上って30年度の概算要求として提出された案は総経費479,000,000円(初年度151,000,000円)3ケ年完成の計画であって,基礎的研究,生物学的研究及び医学的研究の3部が更に13の部門に分れており,その各々に教授1,助教授1,助手3,その他66名、合計131名の職員があると言うので,当分は現在の霞町の医学部の建物の中に一棟を当てるが、将来は大学隣接地に鉄筋4層1900坪の建物を約2億円で新営するとの規模宏大な案であったが、文部省の省議も通過し得なかった.
その翌年即ち昭和30年には昭和31年度の新規概算要求として広大放射線基礎医学研究所としての案を提出したがこれは前年度に比べて可成規模が大きくなり,総予算733,700,000円(初年度148,000,000円)であって,物理,化学,生物,遺伝,診断,治療,障害の7研究部があり,これが更に17室に分れておるので,多くの研究部は2~3の研究室から構成されている.職員mp前年度要求よりは増えて165名となっているが,助教授を各研究室に置いたので17名とし,雇員、傭人の数を増しているのがその主なものである.建物は初めから新営として2590坪の鉄筋となっておるが,初年度の人員の要求を前年の73人に比して25人と縮少したのが目立つ点であった。然しこの案も結局は日の目を,見ずに終わった.
当時文部省はそれ自体として放射能生物学医学研究所を設立したい希望があり,その構想は大体我々が立案したものに近かいようであるとの情報があったが.厚生省もまた類似の構想を持ち他の省にも似たような希望があつたのだが各省で各々こうした同じような研究所を持つ事はよくないと言うので結局は科学技術庁直属の現在の放医研の誕生を見るに至ったと言う風に伝えられている.現在の放医研の物理,化学,生物,生理病理,障害基礎,環境衛生,臨床の7研究部23研究室の機構が我々の当初の案に甚だ似ておる点を見ても我々の構想が決して単なる空想でなかった事はよく分ると思う.こうした経緯で放射線の生物学医学研究所は恐らくは放医研だけに絞ぽられて行くであろうと言う見通しが強くなったので,当初の研究所と言う構想を我々は捨てて昭和32年度の概算要求には医学部原子放射能基礎医学研究施設として,予算61,700,000円、教授5,助教授5,助手12,その他10,合計32人で,生理学,病理学,生化学,薬理学及び細菌学の5部門に分れ,霞町の現在の校舎の一棟260坪を補修して使用する計画を樹てたが,完成は3年である点は以前と変りない.この案 は可成り本省でも注目されたが結局は翌年に持ち越さざるを得なかった.
斯くして昭和33年度の新規概算要求として総経費51,700,000円,2部門計17名の職員から成る計画が出来て,それが昭和33年度に1部門だけ認められ,更に昭和34年度に更に他の1部門が承認されて,一応計画の完成となったのである.この間大学院設置の要求などがあり,本研究施設の要求を第一義的に考えて行く事が出来ず,絶えず大きな困難に直面していたのであったが,本省側のたえざる好意と森戸学長以下大学当局の絶大の援助と,また他学部からの熱烈な支持があったからこそ今日の成果を収め得たのであり,また顧みて,歴代学部長以下我が医学部の関係職員の多年に亘る労苦を忘れることは出来ないのである.この機会に河石,西丸,鈴木の元学部長,及び田淵昭教授及び小山豪教授の名を特に挙げてその多年の尽力に対して感謝の意を表したい.
しかし我々多年の要望は本研究施設の成立によって充たされたわけではないので,一昨年春以来,理学部,工学部及び水畜産学部の関係の方々とも数回に亘り会合して意見の交換を行った結果,広島大学に原子核放射能研究所の実現を計ると言う点で一致した結論に到達した.それが為にはすでに発足した本施設を育成しつつこれを発展拡張せしめ次第に所期の目的に到達するのが適当であるとの意見が多かった.従って我々は今後たゆまざる努力と熱情とを以って一歩一歩所期の目的に近づいて行きたいのであって,かくてこそ本研究施設の成立の意義も充分にあるものと考えられる.
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年表:原爆爆心地復元運動
年表:原爆爆心地復元運動 1966~69年
年 | 月 | 日 | 記 事 |
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66 | 07 | 33 | 広島市平和公園の旧中島本町・材木町の住民20人余、NHKの企画で浄宝寺に集まり、慰霊碑周辺の復元を試みる。 |
66 | 08 | 広島大学原医研、中山町の被爆調査を開始。[復元] | |
66 | 08 | 03 | NHKテレビ、「カメラリポート:爆心半径500メートル」を放映。広島原爆爆心地の平和公園慰霊碑周辺の復元地図を作成し、初めて公表。 |
67 | 06 | 24 | 広島大学原医研、広島市の原爆爆心地付近の正確な被害調査をすることを決める。この日、旧中島本町・材木町の元住民3人から当時の状況を詳しく聞き、約40戸の消息をつかむ。[復元] |
67 | 08 | 03 | [掲載紙不明]「ほとんどは被爆死?-広島市中島町-戸籍に残る百歳代」[復元] |
67 | 08 | 04 | NHKテレビ、現代の映像「軒先の閃光~ヒロシマ・爆心地」を放映.[復元] |
67 | 12 | 18 | 中国新聞「被災全体像の重量において-ありえない核との妥協」(栗原貞子)[復元] |
68 | 03 | 18 | 広島大学原爆放射能医学研究所、爆心地の総合的調査に本格的に着手.[復元] |
68 | 03 | 19 | NHK広島放送局、「よみがえる爆心」を総合テレビ「時の動き」の時間帯の県内ローカルで放映。[復元] |
68 | 04 | 03 | NHKテレビ、「県民の話題:爆心地予備調査終わる~中島地区」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 06 | 12 | NHKテレビ、「県民の話題:進む爆心地調査」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 07 | 28 | 毎日新聞「幻の映画-復元上映の使命を痛感」(?画家・新協美術会委員)[原爆映画] |
68 | 08 | 04 | NHK、報道特集「被爆原点の空白~ヒロシマ・1968年夏」を放映。隅谷三喜男・森滝市郎・志水清・山田節男が出演。[復元] |
68 | 08 | 04 | 広島大学原医研、爆心地住民のつどいを広島平和記念館で開催.約130人参加.参加した21人の住民,爆心地復元中島地区委員会を結成.会長:土肥常三郎。 |
68 | 08 | 07 | NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(1)完成間近い爆心地図」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 08 | 08 | NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(2)動き出した住民たち~材木町保存会」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 08 | 09 | NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(3)ひろがる爆心運動」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 08 | 10 | NHKテレビ、「県民の話題:特集:よみがえる爆心(4)被爆から23年」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 09 | 02 | 土肥常三郎・被爆地図復元中島地区委員会委員長ら、山田広島市長に、全市復元地図の作製を要望。 |
68 | 09 | 02 | 被爆地図復元中島地区委員会の代表、山田広島市長に全市的被爆地図を作るよう申し入れる. |
68 | 09 | 05 | NHKテレビ、「県民の話題:原爆地図~もり上る被爆地図の復元」を放映。(「広島原爆ハンドブック」) |
68 | 10 | 07 | NHKテレビ、「カメラリポート:爆心を刻みたい~平和公園旧住民の願い」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 10 | 14 | 志水清広島大学原爆放射能医学研究所長、広島市全域の被爆地図復元運動を提唱。原爆被災総合調査委員会の設置を求めた試案を発表. |
68 | 10 | 16? | 小川岩吉(70歳)、入院中の広島原爆病院で、被爆地図の復元作業を行う。 |
68 | 12 | 04? | 広島市旧石見屋町の町民、町内72世帯の被爆地図を復元. |
68 | 12 | 10 | NHKテレビ、「県民の話題:被爆地復元をめざして」を放映。(「広島原爆ハンドブック」)[復元] |
68 | 12 | 11 | 広島被爆者援護強化対策協議会、開催.広島市の坂田助役,次年度から被爆地図復元に取り組む町内会に調査費用の援助することを明らかにする.広島大学原医研の調べでは、被爆当時の町内会は208。旧防空法により防空業務に従事中原爆の犠牲になった警防団員・医師・看護婦などへの援護措置を国に要望することを決める。 |
68 | 12 | 24 | 中国新聞「68ニュースその後(12)原爆映画初めて公開-完全復元へ猛運動-登場する半数からも同意得る」 |
69 | 01 | 21 | NHKテレビ、「県民の話題:はじまった復元調査」を放映。[「広島原爆ハンドブック」] |
69 | 02 | 21 | 広島市、新年度から被爆地図の復元に取り組むことを計画。 |
69 | 03 | 27 | 中国新聞、社説「原爆被災「全体像」の調査」[復元] |
69 | 03 | 29 | 原爆被災全体像調査のための市民集会、広島平和記念館講堂で開催.日本学術会議永積小委員長が基調講演「原爆被災資料の諸問題」。田原伯原爆被災資料広島研究会事務局長や志水清広島大学原医研所長らが問題提起。約150人参加.広島市が四十四年度から被爆戸別地図の復元作業をする方針を決め、市民の協力を呼びかけ。 |
69 | 03 | 30 | 原爆被災復元委員会、会議. |
69 | 04 | 04? | 原爆被災復元委員会、発足.会長は志水清広島大学原医研所長。 |
69 | 04 | 27 | 中国放送(RCC)ラジオ、「市民とともに:「被爆地図復元」」を放送。 |
69 | 05 | 11 | 広島市旧材木町の元住民、原爆25回忌法要を浄円寺で挙行。同町民の法要は、12年ぶり5回目。約100人が参列。広島大学原医研の湯崎稔ら、復元地図を持参。 |
69 | 05 | 16 | 中国新聞(夕刊)、連載「”空白”を埋める-原爆被災地図の復元調査」(~20日,4回). |
69 | 05 | 19 | 原爆被災地図復元の貴重な資料となる旧広島市千田町2丁目の町内会住民の家族構成・本籍地を記録した町籍簿が見つかる。 |
69 | 05 | 20 | NHKテレビ、「県民の話題:町籍簿から被爆地図作り」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元] |
69 | 06 | 18 | NHKテレビ、「県民の話題:拡がる爆心地図復元運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」] |
69 | 07 | 13 | 朝日新聞「被爆地図、独力で復元-広島・旧広瀬北町の老人[伊藤庫敏]-生き残った者の義務-犠牲者358人わかる」 |
69 | 07 | 18 | 広島大原医研、NHK広島中央放送局が共同で進めた爆心地復元調査の結果をまとめる。爆心地から半径500メートル以内の中島地区718人は全員死亡、追跡調査で70%の消息つかむ。NHKは調査記録を「原爆爆心地」として出版. |
69 | 07 | 19 | NHKテレビ、「102:爆心地復元(志水清)」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元] |
69 | 07 | 19 | 朝日新聞「科学者の静かな執念実る-被爆地図復元の志水広島大原医研所長-完成へさらに情熱-市民の共感で早く進む」 |
69 | 07 | 24 | 中国新聞「風紋:爆心地の元市街図」[復元] |
69 | 07 | 25 | NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(1)よみがえる旧中島地区」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元] |
69 | 07 | 26 | NHKテレビ、「県民の話題:爆心地復元(2)もりあがる市民運動」を放映。[「広島原爆ハンドブック」][復元] |
69 | 08 | 01 | NHKテレビ、「現代の映像:爆心の橋」を放映。[復元] |
69 | 08 | 04 | 中国新聞「この人・この本:「原爆爆心地」の志水清氏-被害の全体像つかむ-拡がった住民運動の輪」[復元] |
69 | 08 | 05 | 朝日新聞「閃光に消えた町-広島の爆心地を再現-生命と暮らしへの影響さぐる-ある母子家庭の24年-苦心の地図作り・広島大原医研」[復元] |
69 | 08 | 10 | NHKテレビ、「報道特集:鎮魂への条件~ヒロシマ1969」を放映。志水清・湯崎稔・丹下健三などが出演。[復元] |
69 | 09 | 09 | 土肥常三郎・元中島本町原爆復元地図作成委員会会長ら、広島市に平和公園内に爆心地復元銅版の設置を要望. |
69 | 09 | 22 | 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら10人、山田市長と朝尾市議会議長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。 |
69 | 12 | 09 | 成宮惣五郎「広島平和公園爆心復元委員会」会長ら3人、山田市長を訪れ、復元された爆心地の町並みを銅板に掘り、公園内の保存するよう要望。 |
69 | 12 | 10 | 原爆被災復元委員会志水清会長、広島市平和文化推進審議会[平和文化センター]で調査の中間報告. |
長崎市原爆資料保存委員会の活動(1949年4月11日~)
(1949年4月11日~53年5月30日)
[メモ]『原爆資料保存委員会経過報告』(長崎市原爆資料保存委員会、1959)]をもとに構成した。
昭和24. 4.11 第1回原爆資料保存委員会設立協議会
[協議事項]
1.会則の説明、並一部改正の件
2.委員の委嘱の件
3.資料収集の周知の件
4.写真展の開催の件
5.原爆地の実地調査の件
[経過]4月14日現地調査を実施。
昭和24. 4.14 第2回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.火の見台(外人墓地)、石鳥居(山王神社)、石像(浦上天主堂)、 石門(城山小)、水タンク(けい浦学校)、ベッド(マリヤ学院)、 等の資料を平和公園に移す件
[経過]給水タンク昭和25年2月平和公園に移転
昭和24. 5. 6 第2回原爆資料保存委員会
原爆資料館の開設を決議
昭和24. 5.13 第3回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.原爆火傷者の写真撮影の件
2.資料館大型資料配置の件
3.寄捨箱設置の件
4.資料館に花壇設置の件
5.絵画買上の件
昭和24. 5.13 第4回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.被爆樹木を平和公園に移植する件
2.被爆植物の影響統計表作成の件
3.文化会館設置の件
[経過]被爆枯木を昭和25年3月平和公園に移転
昭和24.12. 9 原爆資料保存委員会現地調査
[協議事項]
1.原爆資料館の視察調査(資料の展示方法、展示資料の整備)
2.浦上天主堂を視察
[経過]浦上天主堂に廃きょを資料として保存するよう申入れる
昭和25. 6.29 第1回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.資料を学術的に科学的に収集する
2.浦上天主堂・山王神社・紡績会社跡・医大その他10ケ所の原爆材指定の件
3.委員会規則の整備
[経過]7月に委員会規則を改正、改正に伴い委員を委嘱
昭和25. 7.24 第2回原爆資料保存常任委員会
[協議事項]原爆中心塔の件
昭和25. 8.17 第3回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.原爆中心塔建設の件
2.パノラマ製作の件
3.農産物に対する影響研究発表(古野氏)
4.原爆資料被災者状況記録収集の件
昭和26. 3.28 原爆資料保存委員会現地調査
[協議事項]文化会館建設用地視察
昭和26. 8. 3 第1回原爆資料保存委員会
[協議事項]浦上天主堂の壊壁保存の件
昭和26. 9.18 第2回原爆資料保存委員会
[協議事項]浦上天主堂残存物保存の件
昭和26.12.25 第3回原爆資料保存委員会
[協議事項]如己堂保存の件
昭和28. 1.14 第1回原爆資料保存委員会
[協議事項]原爆娘治療の件
昭和28. 1.20 第2回原爆資料保存小委員会
[協議事項]
1.原爆の図の作成の件
2.被爆者の体験記保存の件
3.パノラマ作製の件
4.天主堂さく作製の件[ママ]
5.傷害者写真保存の件
6.治療対象者範囲拡大の件
7.26日の現地調査の件
8.委員長広島派遣の件
昭和28. 1.26 原爆資料保存委員会現地調査
昭和28. 3. 7 第3回原爆資料保存委員会臨時総会
[協議事項]
1.28年度に於ける事業計画の件
2.委員長広島視察報告の件
昭和28. 5.30 第4回原爆資料保存委員会
[協議事項]
1.スライド並模型製作の件
2.原爆図絵製作の件
3.「長崎原爆被害概況」パンフレット出版の件
4.長岡省吾氏招聘の件
5.ABCC田中直氏委員会嘱託推薦の件
6.浦上天主堂廃きょ保存の件
7.資料館新設の件
[経過]
1.8月スライド長岡氏によって作製さる。36カット2本。
2.29年3月、丸木・赤松夫妻共同作2枚屏風式100000円
3.7月パンフレット「原爆の長崎」10000部発刊
4.6月に招聘
[以下略]
広島大学医学部による同大学職員及び学生生徒の総合調査(昭和1954年1月)
広島大学医学部による同大学職員及び学生生徒の総合調査(昭和1954年1月)
原爆の被爆を蒙った広島大学職員及び学生の9年後の血液学的所見に就て | ||||||||||||||||
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昭和29年1月18日より25日に至る間、広島大学及び学生に就て当医学部が総合調査を実施した際、我々はその原爆被爆者223名、直接被爆を受けなかったが二次性の放射能の影響を受けたと思われる22名及び対照19名に就て血液学的検査を行い、次の如き所見を得た。
[以下略] |
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