広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」  検索年月日:2020年1月7日http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database

分類 件数
被爆資料 403件
写真 60件
原爆の絵 86件
美術品 17件
本【単行本】 551件
本【雑誌】 125件
音楽・音声 1件
動画 17件
被爆者証言ビデオ 4件

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

現在*  原爆ドーム
竣工時 広島県物産陳列館
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.16キロメートル
所在地 中区大手町11丁目10(猿楽町)
竣工時期 1915(大正4)年4月
構造/階数  レンガ造/3階建
設計者/施工者 ヤン・レツル/椋田組

 

 

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(目次)

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(被爆建物等継承方策検討委員会、平成4年[1992年]8月)目次

平成4年8月20日 委員長 庄野直美 ➡ 広島市長 平岡敬
まえがき
本委員会の審議経過と意見
参考 被爆建物等継承方策検討委員会
1 被爆建物等継承方策検討委員会開催状況
2 被爆建物等継承方策検討委員会設置要綱
3 被爆建物等継承方策検討委員会委員名簿

 

 

被爆建物等継承方策検討委員会

被爆建物等継承方策検討委員会  設置:1991年7月24日

Y M D 事項
91 06 19 浜井広島市長室長、市議会総務委員会で、「被爆建物等継承方策検討委員会」(仮称)を7月中旬に設置することを発表。
91 07 24 広島市「被爆建物等継承方策検討委員会」を設置。委員=石丸紀興・宇吹暁・小原誠・河合護郎・庄野直美・空辰男・田中茂・葉佐井博巳・平川浩子・平松スエノ・松重美人・横田工・浜井澄人・佐伯邦昭・鍋岡聖剛。
91 08 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の初会合を開催。庄野直美を委員長に選ぶ。
91 10 04 「被爆建物等継承方策検討委員会」、第2回会合を広島市役所で開催。「キリンフォーラム」の被爆外壁タイルの保存を要請することを申し合わせ、マツダ宇品工場内の被爆建造物などを、調査対象リストに追加。
91 10 29 広島市の「被爆建物等継承方策検討委員会」の第3回委員会、市役所で開催。原爆遺跡保存運動懇談会の意見を聴取。
91 12 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、第4回の会合を開催。広島赤十字・原爆病院の一部を現地保存するよう市が病院と協議するよう求める。
92 02 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の委員8人、市内の被爆建物9か所を視察。視察した被爆建物=広島市役所、広島大学理学部、広島赤十字・原爆病院、広電変電所、旧陸軍被服支廠、広島銀行銀山支店、旧陸軍司令部通信室、本川小学校、レストハウス(予定)。
92 02 14 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、5回目の会合を開催。公有の被爆建物の保存策を検討。
92 04 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の6回目の会合を開催。広島逓信病院、文理科大学、広島高等学校、日銀、兵器支廠、兵器学校、などの継承方策について検討。
92 05 26 広島市、第7回被爆建物等継承方策検討委員会を開催。民有の被爆建物の継承方策の検討など。
92 07 15 広島市、第8回(最終)被爆建物等継承方策検討委員会を開催。取りまとめ案の検討。
92 07 16 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、最終会合を開催。平岡市長に提出する答申案を固める。
92 08 20 庄野直美広島市被爆建物継承方策検討委員会委員長、平岡市長に被爆建物の保存・継承方法についての報告書を提出。

 

 

 

 

被爆建造物を考える会

被爆建造物を考える会

設立:1989(平成元)年7月16日

目的:「本会は、広島の街から次第に姿を消そうとしている被爆建造物をとおして、歴史的な意味を持つ広島の体験をどう次代に伝えていくか多面的に検討し、市民に被爆体験の継承について考える機会を提供することを目的とする。」(会則第2条)

事業(会則第3条)
本会は、前条の目的を達成するために以下の事業を行う。
①被爆建造物の存在を広く市民に認識してもらうために、フィールドワークやスケッチ大会、シンポジウムなどを開催する。
②他都市における歴史的建造物保存の試みなどについて調査する。
③広島に残る被爆建造物について、専門家による多角的な調査・研究活動を行う。
④調査・研究活動の成果をまとめ、報告書として出版する。また、市民、子ども向けの被爆建造物マップ、解説書などの出版活動を行う。
⑤その他、会報発行など目的達成に必要な事業を行う。

動向

年月日 事項
1989
07 16 「原爆遺跡を考える会」、広島市で発足。呼びかけ人に飯島宗一・新藤兼人・庄野直美ら。原爆遺跡への関心を高め、被爆建造物の調査などを計画。事務局を広島平和教育研究所に設置。
07 25 「被爆建造物を考える会」主催原爆遺跡をめぐるフィールドワーク、広島市で実施(約60人参加)。広島赤十字・原爆病院・広大理学部などを見学。
07 30 「被爆建造物を考える会」、広島市内各所で、被爆建造物を描くスケッチ大会を開催(約30人参加)。
0925 「被爆建造物を考える会」。於教育会館<宇吹メモ>
12 24? 「被爆建造物を考える会」による本格的な調査活動、開始。同会社会部会、原医研資料センターの資料で被爆建造物について調査。
1990
08 02 「被爆建造物を考える会」、広島信用金庫横川支店で現地調査。その他の建造物についても調査中。
11 25? 「被爆建造物を考える会」の葉佐井博巳広大教授ら、広島市内の被爆建造物の残留放射能を測定し、各地点の中性子量を算出。それによると、日米合同委員会による被曝線量推定方式DS86とは大差。
12 03 「被爆建造物を考える会」、調査結果をまとめた「広島の被爆建造物-被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、発行日:1990年12月1日)を作成。
12 08 「被爆建造物を考える会」、広島市で、記念シンポジウムを開催(約300人参加)。大江健三郎による講演「壊れものとしての人間と文化」など。

 

広島市庁舎被爆石等譲与(1985年~)

広島市庁舎被爆石等譲与

★旧庁舎解体時期  1985年10月~1986年2月
旧庁舎の敷石等の譲与譲与状況(1988.01.01)

区分 譲与
団体数
譲与物件
敷石 側壁石 その他
地方公共団体 32 83 27 35
被爆者団体 4 4 1 7
学校関係 8 5 1 22
市公共施設 4 188 1 13
姉妹都市等 1 1
その他 5 8 2 2
54 289 32 79

【被爆石残数調】(1988.01現在)
*敷石   60枚
*側壁石  50枚
*その他 200個(小片を含む)

☆依頼の一番早い都市
北海道深川市(1985年5月1日)
☆譲渡のの一番早い都市
鳥取県西伯郡名和町(1985年11月15日)
☆最北端の都市
北海道深川市
☆最南端の都市
大分県北海部郡佐賀関町
☆外国の都市
ソ連邦ボルゴグラード市

原爆遺跡一覧(広島市内)

原爆遺跡一覧(広島市内)

名称(被爆時) 距離(km) 所在地(旧町名) no.
広島県産業奨励館
(原爆ドーム)
0.16 中区大手町11丁目10
(猿楽町)
006
燃料会館
(レストハウス)
0.17 中区中島町1-1
(中島本町)
007
帝国銀行広島支店
(アンデルセン)
0.36 中区本通7-1
(革屋町)
022
日本銀行広島支店 0.38 中区袋町5-16
(袋町)
023
頼山陽史跡資料館 中区袋町5-15
本川国民学校校舎 0.41 中区本川町1丁目5-39
(鍛治屋町)
026
袋町国民学校 0.46 中区袋町6-36
(袋町)
029
大林組広島支店 0.49 中区本通3-10
(平田屋町)
032
福屋百貨店 0.71 中区胡町6-26
(胡町)
043
中国軍管区司令部防空作戦室 0.79 中区基町21
(基町)
049
広島城跡 0.98 中区基町21-1
(基町)
広島市役所
(旧庁舎資料展示室)
1.02 中区国泰寺町1丁目6-34(国泰寺町) 062
広島中央電話局西分局(NTT広島西営業所) 1.08 中区西十日市町10-15
(北榎町)
063
縮景園 1.20 中区上幟町2-11
広島陸軍幼年学校
炊事室
1.34 中区白島町19-8
(基町)
077
広島逓信病院 1.37 中区東白島町19-16(基町) 079
広島文理科大学本館 中区東千田町1丁目1-89(東千田町)
広島赤十字病院 中区千田町1丁目9-6
千田国民学校講堂 中区東千田町2丁目1-34(千田町2丁目)
多聞院 南区比治山町7-10
電気試験所
広島出張所
西区三篠町1丁目15-3(三篠本町1丁目)
山陽文徳殿 南区比治山町7-1
(段原町)
住友銀行
東松原支店
南区猿猴橋町3-7
(猿猴橋町)
広島電鉄千田町変電所 中区東千田町2丁目9-29(千田町3丁目)
東照宮 東区二葉の里2丁目1-18
久永金紙押紙工場 西区三篠町3丁目20-4(三篠本町2丁目)
己斐調整場
送水ポンプ室
西区己斐東1丁目9-2(己斐町)
桐原容器工業所 中区舟入南4丁目1-11(舟入川口町)
第一国民学校 南区段原山崎町4-42(段原山崎町)
広島陸軍被服支廠 南区出汐2丁目4-60
(出汐町)
光徳寺・納骨堂 南区皆実町6丁目15-21(皆実町3丁目)
広島高等学校講堂 南区翠1丁目1-1
(皆実町3丁目)
広島陸軍兵器補給廠
第11兵器庫
南区霞1丁目2-3
(霞町)
牛田水源地濾過池
濾過調整機上屋
東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
牛田水源地送水ポンプ室(広島市水道資料館) 東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
牛田水源地量水室 東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
日本麻紡績給水塔 西区己斐本町3丁目12(己斐町)
陸軍兵器学校
広島分教所
中区舟入南6丁目7-11(江波町)
日本特殊グリース倉庫 南区大洲1丁目9
(大洲町)
広島陸軍糧秣支廠
食肉処理場
南区宇品御幸1丁目
12-23
(宇品町)
広島陸軍糧秣支廠
缶詰工場(広島市郷土資料館)
南区宇品御幸2丁目6-20(宇品町)
不動院 東区牛田新町3-4-9
広島地方気象台(広島市江波山気象館) 中区江波南1丁目40-1(江波町)
中国配電南部変電所 南区宇品御幸3丁目17-1(宇品町)
麒麟麦酒広島工場 安芸郡府中町大須2丁目1
(安芸郡府中町)
官立広島師範学校
講堂・職員室
南区東雲3丁目1-33
(東雲町)
陸軍船舶練習部 南区宇品東5丁目3
(宇品町)
広島鉄道局
広島工機部
東区矢賀5丁目1
(矢賀町)
広島陸軍糧秣支廠
倉庫
南区宇品海岸3丁目11
(宇品町)

慈仙寺境内の墓石平和公園内

出典:広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』(1996年3月)

原爆ドーム(世界遺産)

原爆ドーム(世界遺産)Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)

The Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome) was the only structure left standing in the area where the first atomic bomb exploded on 6 August 1945. Through the efforts of many people, including those of the city of Hiroshima, it has been preserved in the same state as immediately after the bombing. Not only is it a stark and powerful symbol of the most destructive force ever created by humankind; it also expresses the hope for world peace and the ultimate elimination of all nuclear weapons.

Date of Inscription: 1996  Criteria: (vi)

原爆遺跡の保存を求める決議(1990年3月27日)

広島市議会「原爆遺跡の保存を求める決議」
1990年3月27日
世界最初の原子爆弾投下による広島市の惨禍は、人類の未来に対して大きな警鐘を打ち鳴らすものであり、この惨禍を二度と繰り返させてはならない。
そのために、原子爆弾の被災による実相を世界の多くの人びとに伝えることは、広島の責務であると考える。
しかしながら、近年、原子爆弾の被災を受けた建物が、老朽化等の名のもとに次々と取り壊されている。
今後、被爆の実相を広く伝えるためにも、これらの被爆建物に対する対応の仕方については、慎重かつ十分な調査研究の上にたって、その歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべきである。
以上、決議する。
1990年3月27日
広島市議会

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

広島市勢要覧にみる「観光都市広島」

1947(昭和22)年版

観光

広島市は日本三景の一つである厳島を控へ、国立公園随一、詩の瀬戸内海に面し、デルタ上を六つの清流が貫き、山紫水明で、而も海陸交通の便極めてよく、北に行っては桜と鵜飼の三次、つつじと、スキーの道後山、及び芸北の仙境三段峡等があり、又泉都別府、道後に船の旅を楽しむもよく、而も原子爆弾により、国際的に有名化し、世界に冠絶した観光都市として内外人の訪客を受けようとしつつある。殊に終戦後は、軍国の黒衣に包まれていた瀬戸内海島の要塞地帯の景勝地を、あます所なく開放し、更に貿易港としての指定を受けることになれば、観光上喜びにたえないところである。

市に於ても本年1月商工会議所に観光協会を設立し、地方産業、経済並びに文化の向上に寄集すると共に国際親善を期しつつあり、其の最初の事業として市の緑化を企図し、4月に植樹祭及び緑の週間を実施した。次いで8月15日の貿易再開を機にバイヤーの誘致につとめ「かき」、「のり」、「缶詰」、「縫針」等広島の特産品を通じ外貨獲得による日本経済再建をもはかりつつある。

史蹟、名勝等

本市には大本営跡、旧御便殿、広島行在所跡、第7回帝国議会仮議場跡、頼山陽旧居、国宝広島城、縮景園、広島護国神社、饒津神社、国泰寺等由緒深ひ史蹟等があったが、これらも昭和20年8月6日の戦災により潰滅して漸くにして戦禍を免れ又は其の面影を残しているものは次の通りである。

千田廟と千田男爵銅像

往年日本の大玄関として名声のあった宇品港は、明治17年時の県令千田貞暁によって起工せられ、工費30余万円5カ年の歳月を経て完成を見た。

其の後4年日清戦役勃発するやこの宇品港は一躍重要基地として国運の進展に寄与し、次々の事変戦役にも重要役割を果たしてきた。

市民は千田県令の偉大なる事業を偲び大正4年宇品町御幸通りの中央に高く広島湾の海波を望んで銅像を建立し、後更に千田廟を祀り毎年4月盛大なる千田祭を執行して来ったのである。

不動院(牛田町)

天正2年僧行基の開基と伝へられ、当時は行基自ら観音像を彫刻し、七堂伽藍を創建して新日山蓮華王寺と称し、方7町12の末寺を備へていたと云う。その後大永年間兵火にかかって荒廃したが、安国寺恵瓊豊太閤に請うて再建し不動院と称し、豊太閤、朝鮮征伐の途次当院に滞陣した。背後の丘には、豊太閤及び福島正則の遺髪の塔がある。

不動院は、現に古義真言宗仁和寺の末寺、金堂は天文年間の建立、天井画龍の落款に「天文庚子冬十月日僧永怡筆」とあり純乎たる唐様禅宗建築堂層入母屋造で、一見鎌倉円覚寺舎利殿を大きくした様なもので、室町時代禅宗建築の傑作の一に数えられている。尚当院には豊臣時代の古文書多数所蔵されて居り、豊太閤と縁故の深い事を物語っている。

頼家の墓(比治山本町)

頼家一門の門主たる人々の墓は、比治山公園多聞院付近にある。春水、梅颶、聿庵、杏坪等20数基に上るが、山陽三樹三郎の墓はここにない。春水は竹原(賀茂郡)の人、山陽の父で山陽3歳の時招かれて藩儒となり、大阪より移って7代重晟、8代斎賢藩主に仕へた朱子学者である。

杏坪は山陽の叔父、春水と同じく朱子学者で、始め広島藩に仕へ後自ら願出で三次奉行となって令名高く、芸藩通誌の著者として著名である。

梅颶は山陽を生み、山陽を育しみ、山陽を大成せしめた賢夫人、人の子の真の母親として亀鑑又立派な学者であった。聿庵は山陽の長子で春水の跡を継ぎ、広島藩に仕へた。

1948(昭和23)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし、西に岩国、北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは、芸備線で更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園瀬戸内海の島々及び四国の道後、松山次いで遠く九州の泉都別府とは定期船で広島港に継がっている。

本市は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から吾々の新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、元安橋、産業奨励館、相生橋、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、芸備銀行、大阪銀行、山陽記念館、国泰寺の石塔、県庁跡、御幸橋ガスタンクがそれである。今後日本に来遊する国際観光客の殆ど全部は、広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールの主要部分とするであろう。

観光ホテル

本市には外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられていたが、昭和23年11月2日観光審議会に於ては本市に近代施設を完備した国営の観光ホテルを建設することに決定した。

右は国庫支出に係る5カ年計画事業で床敷100床を設備するものである。その場所は全市を俯瞰する比治山か或は瀬戸内海を眺望する向宇品かの何れかに選定する可く考究中である。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して、8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室や平和塔を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺50分の1の模型13景を作成することとなり、その数個は既に出来上っている。

史蹟、名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが、何も戦災により壊滅したが、戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮

市内尾長町の中腹に在り天保年間藩主浅野光行の創建に係り徳川家康の霊を祀っている、境域5300平方米、社殿は南面し石階51殿である。往時は社殿壮麗を極め祭礼儀頗る盛大であったとゆわれている。

不動院[略]

頼山陽文徳殿

比治山公園の山腹に在り、頼山陽の百年祭を記念するために広島市単独の事業として計画し山陽文徳殿建設翼賛会の努力により完成、昭和9年10月15日の竣工である。

頼家の墓 頼山陽の父春水を初め頼家一門の墓は比治山公園多聞院付近にある。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1949(昭和24)年版

観光

本市は中国地方及び瀬戸内海の海陸通運の中心基地であって本市を囲繞する主要観光地への連結路線の基点である。
即ち海上15粁を距てる宮島と表裏一体をなし西に岩国北に仙境三段峡、帝釈峡及び桜と鵜飼の名勝である三次とは芸備線で、更に山陰の出雲、松江とは「広浜急行バス」で直結し東に新生呉港、南に国立公園、瀬戸内海の島々及び四国の道後松山、次いで遠く九州の泉都別府とは1000噸級優秀定期船で広島港に継がっている。

市内は原爆のため観光資源も観光施設も壊滅したのであるが廃墟の中から新しい観光資源が取り上げられた。即ち原爆記念保存物である。爆心地、産業奨励館、商工会議所、護国神社跡、大本営跡、大阪銀行、国泰寺の石塔、御幸橋、ガスタンク等がそれである。日本に来遊する国際観光客の殆んどが広島市の原爆遺跡探訪をその観光スケジュールに組入れて居る。そして更に今後建設されてゆく広島平和記念都市そのものが人々のこよなき観光対象となってゆくであろう。

観光ホテル

本市は外人客の宿泊設備が無いために外客専用の観光ホテルの設置が強く要望せられているが、泉邸を利用して総工費4500万円で和洋折衷の高級ホテルが計画され第一期工事は昭和25年3月15日に着手することとなっている。

又洋式ホテル並にレストランを目的として児童文化会館付近に建坪210坪総工費1億1千万円を以て広島国際観光文化会館が計画されている。

平和記念館

原子爆弾による本市災害の一切の資料を一堂に蒐集して8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念するため陳列室、平和塔等を有する記念館を建設して平和広島の「シンボル」とする計画である。

この資金は全世界に呼びかけて広く平和愛好者の浄財を募る計画である。これが第一着手として戦災直後の状景を有りのままに現出した縮尺1/50の模型13景を作成することとなりその数個は既に出来上っている。

史蹟名勝

本市には大本営跡、広島城跡、旧比治山旧御便殿、御即位大典記念館、縮景園、饒津神社、国泰寺等由緒深い史蹟があったが何も戦災により壊滅したが戦禍を免れその面影を残しているものは次の通りである。

東照宮[略]

不動院[略]

頼山陽文徳殿[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

1950(昭和25)年版

観光

広島市は今日に於ては世界隈なくその名を知られ、全世界の人々から異常か関心を以て注目せられて居る都市であり、当市に杖を曳く世界の人々は夥しい数に上っている。古来山紫水明、温和な気候風土の地として観光面に優秀な素質を有していた広島市は戦災で殆ど凡ゆるものを失ったけれども新たに世界著名観光地の序列の中に加って、その保有する素晴しい観光資源の力を大いに発揮せしめると共に海外一流観光都市の夫々の部面が持つエッセンスを巧みに取入れて一大観光理想郷たらしめようとしている。

勿論広島は360年の歴史の上に立って落ち着きのある風格を有する都市であり、広島市の新しさはこの性格の上に立つものである。そしてこの新しい広島平和記念都市が今後保有するであろう観光資源は次のようなものであろう。

1.都市自体が有する平和の雰囲気、(精神的面の資源で今後の完成に期待される。)

2.模範的に建設された都市形態美、(人工的面の資源で着々建設されつつある。)

3.市内並びに周辺の天然の美、(自然的面の資源で今後一層磨きをかけられてゆくのもである。)

山容、河川、海沿いの美しさ

4.その他一般的観光資源

原爆の遺跡、教養、文化、歓楽施設、市に近接する著名観光地

現存する観光対象物として次のものが挙げられる。

原爆資料館

市内基町中央公民館傍にあり、原子爆弾による本市災害に関する種々の資料を一堂に蒐集して一般の縦覧に供している。世界各地からの参観者は本館を見て8月6日を想起し、人類の恒久平和を祈念する。

東照宮[略]

不動院[略]

三滝観音道場

市内三滝町の山林中にあり1000年の昔、弘法大師唐国より帰朝の砌当地に巡錫、聖観音菩薩の種字を天然石に刻し岩窟に安置した。爾来其の霊験の著しいことと四季山水の風致幽邃雅趣の深さにより一般信徒の杖引く者絶えず、現在は水害、原爆の被害により道場の荒廃甚だしくこれが修築工事中である。

千田廟と千田男爵銅像[略]

1951(昭和26)年版

観光

 『ひろしま』・・・・・

本市は、古来山紫水明温和な気候風土に恵まれ、観光面には幾多の優秀な素質を有していた。

特に市街を流れる七つの川は、山容を影し家々を写して、その壮麗さは水都の代表的存在であった。しかるに、原爆の一せんは市内の由緒ある社寺仏閣、伝統を誇った名勝旧蹟を壊滅し去ったのである。そして、これに代って新たに原子力時代を告げるには、余りにも痛ましい犠牲を宿す原爆遺跡と、10数万犠牲者の無言の警告が残された。

この遺跡と、警告により世界の恒久平和を念願して立上がった市民の真剣な復興意欲は、理想的都市の建設を早めている。最近、躍進するその後の本市をわざわざ視察するため訪問する内外人は、おびただしい数に上っている。特に、訪日観光団等は必ずそのスケジュールに本市訪問を組み、母国への土産話としている。なお、本市近郊には東に旧軍港呉市、西には日本三景の一つである厳島、その他湯来温泉等があり、南は瀬戸内海に面し海陸交通の便は極めてよく、別府及び道後温泉への快適な船旅が出来る。更に、北には桜と、う飼の三次、つつじとスキーの道後山、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡等がある。

次に本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し、市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

主なる市内の観光対象物を挙げると・・・・・

平和記念館

本館は、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設の一部である。

平和大通り(幅員100米)に近く、横に長い壮麗な建物で、完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の左側に2500人を収容出来る大集会場を、右側に平和文化運動の事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。目下建築中の陳列館の階下は平和大通りの公園に入る玄関として通り抜け出来るように、柱ばかりの廊下になっている。なお南側には米国の有名な彫刻家イサム・野口氏の設計による平和大橋及び西平和大橋が、美麗な姿を清流に映している。

原爆資料館

基町、中央公民館の傍にあり、原爆に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょは当時の惨禍を如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側大阪銀行支店の玄関敷石の上には、あのピカの瞬間、開店をまっていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられている。原爆10景の一つである。

商工会議所

旧産業奨励館と電車道を隔てた所にあり、鉄筋コンクリート建築物で、強烈な爆風によりゆがめられた壁やバルコニー等が、原爆の威力を表示している。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でザラザラに焼けただれている。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

似島

宇品港より約30分、市の南端瀬戸内海国立公園内にあり、安芸の小富士と呼ばれ、戦時中は東洋一の陸軍検疫所があった。現在戦災孤児収容所の似島学園がある。

広島城跡

西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模制をこの地に移し、2年の歳月を経て築城した広島城(在間城、鯉城、当磨城、石黒城の別名あり)5層の天主閣は、原爆により焼失した。

明治27年日清戦争の時大本営が設置され、続いて終戦まで師団司令部がここにあった。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は、爆風の方向に或いは反対の方向に倒れたが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、レンガの破片を食わえ込んだ塔石の珍しい風景である。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めをほしいままにした昔の面影は留めないが、市内の展望には絶好の場所で市民散策の好適地である。南側にはABCCがあり、西側山腹には山陽文徳殿及び多聞院がある。

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園

市の北端、太田川の清流に沿う約300米の堤で、桜樹多く市民の散策地として有名である。

1952(昭和27)年版

観光

概要

本市は、清流太田川の河口三角州に位置し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれており、広島につえ引くものの遊覧コースには必ず広島城跡、大本営跡、旧北治山御便殿、浅野泉邸等々が組まれ観光遊覧地として好適であった。しかしこれらの名所、旧跡のほとんどは、戦禍に消えうせ、終戦後の数年間は本市を訪れる観光客の観光対象となったものは原爆による荒廃であった。従って一時は顕著な原爆被害記録物とそれに伴う記念物の羅列になっていた。しかし本来の観光資源も年とともに整備され、真に楽しめるものが復活して来ており、また世界的に注視を集めている平和記念都市が着々と建設されているので、都市自体が観光の意義をもつようになり、世界平和のメッカとして平和を愛好する内外の人々の来訪が著増しつつあるのも本市観光の特色である。特に訪日観光団はそのほとんどが本市訪問をそのスケジュールに組んで母国への土産話にしている。

市街を貫く七つの川は、その水清く山海を映し河畔の民家を写し夜のネオンを流して市街を一層麗しくし、相生橋をはじめ30有余の橋りょうとともに水都広島の美観一入である。この水の注ぐ波静かな瀬戸内海国立公園は大小様々な島々を浮べその風光の美をたたえられている。東に進めば平清盛が開いた音戸の瀬戸があり、旧軍港呉市、野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに日本三景の一つ安芸の宮島がある。更に北方には桜と、う飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、帝釈峡及び芸北の幽境三段峡がある。これらはいずれも本市からの交通も至便であるので、四季の移り変りに遊ぶ人歩多く、本市の観光を中心とする広範囲な観光ルート圏を形成している。

本市の観光行政に協力するため、昭和22年4月広島市観光協会が発足し市内観光ルート、ミス広島の選定及び観光客の案内等を行っている。

市内の観光対象物の主なるものは次のようなものである。

観光施設

平和記念館

幅員100米の平和大通りと爆心地との中間に建設中の本館は、東西に長い壮麗な鉄筋コンクリート建造物で、平和運動を推進する中枢機能となるにふさわしい施設である。完成後は全長250米、最高20米、幅40米となる。現在建築されているのは原爆資料陳列館で、将来はこの建物の西側に2500人を収容出来る大集会場を、東側に平和文化運動事務室、研究討論会用の小会議室、美術展覧会場等に使用できる会館が建築される。これをつなぐ陳列館の階下は平和大通りから公園に入る玄関として巨大な柱の間を通り抜けられるようになっている。

原爆資料館

基町、中央公民館の北隣にあり、原爆被害に関する種々の資料を一堂に集め、一般の観覧に供している。本館の資料は、将来平和記念館内に移される予定である。

産業奨励館

爆心地にあり、アトム広島の代表的記念物として、内外人の訪れは数知れず、その廃きょと化した容姿は当時の恐るべき破壊力と惨禍を今日も如実に物語っている。

死の影像

紙屋町電停の南側住友銀行広島支店の玄関敷石の上には、あの原爆さく裂の瞬間、開店をまって石段に腰かけていたであろう人の姿が、強烈な光線で焼きつけられた石面に残っている。原爆10景の一つである。

元護国神社跡

商工会議所裏にあり、鳥居、唐しし、その他散在する御影石の表面が、数千度の原爆熱でざらざらに焼けただれている。

似島

宇品港より船で約30分、瀬戸内海国立公園内にある市内南端の島で、その山容美しく安芸の小富士と呼ばれている。戦時中は東洋一の陸軍検疫所があったが、現在戦災孤児育成所の似島学園がある。

国泰寺墓地

国泰寺墓地の墓標は爆風の方向にあるいは反対の方向に倒れたものが多かったが、電車道に面した墓標で、爆風にあふれた瞬間、飛散してきたレンガの破片をくわえ込んだ塔石の珍しい風景がある。

不動院[略]

東照宮[略]

三滝観音道場[略]

千田廟と千田男爵銅像[略]

向宇品[略]

広島城跡

広島城は西国の雄毛利輝元が、京都聚楽第の模してこの地に天正19年2カ年の歳月を費して築造したもので鯉城、在間城、当磨城、石黒城等の別称があった。明治27年日清戦争の時大本営が城内に設置され、続いて師団司令部があったが、5層の天主閣をはじめすべての建物は原爆により焼失して、今では壕と築石が昔をしのばせている。

比治山公園

市の東部にあり、山容が虎のふした形に似ているので臥虎山の別称がある。面積16町余四季の眺めを楽しめる丘陵公園であり、山頂より南面すれば広島湾の風光を、西面すれば市街の8割を展望出来る絶好の場所で市民散策の好適地である。

西側山腹には山陽文徳殿、頼家の墓及び多聞院があり、南側山頂にはABCC(原爆傷害調査委員会)がある。

山陽文徳殿[略]

頼家の墓[略]

縮景園[略]

長寿園[略]

広島遊園地

仁保町本浦にあり、つつじ、藤の名所として有名である。

慰霊碑

爆心地に近い中島の平和記念公園内にあり、昭和27年8月6日の式典において除幕式を行い昭和20年8月6日の原子爆弾にたおれた死没者の氏名を全国にわたって調査して謹記された過去帳がこの慰霊碑内の石函の中に安置奉納された。この石函の正面には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と刻み込まれている。毎年8月6日にはこの地点で盛大な平和式典がとり行われる。

平和大橋

百米道路が貫く中島の東側の元安川にかかる平和大橋と、西側の本川にかかる西平和大橋の欄干はともにイサム野口氏の設計によるもので、その新たなる感覚によるデザインは平和都市にふさわしい逸作である。

来広観光客数及び推定消費金額

(昭和27年中、推定総数)(国鉄、汽船、郊外電車、バス調)

 

外来客区分 人 員 1人平均
消費金額(円)
金額(円)
総数 1157420 1243821640
県内客 866757 1000 866757000
県外客 289013 1280 369936640
ハワイ等観光客(39団体) 672 4000 2688000
国外観光団(4団体) 450 4000 1800000
国外個人観光団 528 5000 2640000

 

広島名産

縫針 ミシン針 ゴム製品 かん詰 除虫菊製品 製線 和かさ 仏壇木製品 機械工具 かき羊かん 桜羊かん くり羊かん 味付のり のしかき 川魚料理 生かき 広島菜 かきめし かき船料理 清酒

1953(昭和28)年版

観光

概要

本市は清流太田川の河口三角州に発展し、古来より山紫水明、温和な気候に恵まれ、優美な風景の土地として知られてきた。かつて天正17年毛利輝元がこの地に移り広島と命名してから、すでに364年を経過したが、この間封建時代の城下町としてあるいは諸戦役・事変の軍事基地として幾多の変遷をとげ、多くの遺跡を残し広島に遊ぶ人の目を楽しませてきた。しかし、これら多くの遺跡は戦禍によりほとんど消え失せ、代って原爆の戦火を経た新しい国際的観光都市となり、観光対象物は原爆の破壊力を示す若干の被害記録物とこれを乗り超えて進む生存者の建設譜であり、徹底的な破壊に打ち勝って建設されつつある平和記念都市の姿である。本市は高度の技術を結集した平和記念施設たる中島の平和記念公園をはじめ大小の公園緑地、川を生かした河岸緑地、交通量に留意した街路網等を有する理想的平和記念都市建設を推進しているので、将来はこの近代的都市自体が観光対象となり、広島を世界恒久平和の発祥地たらしめること望む平和愛好者及び諸団体の来訪が予想され、すでに世界連邦アジア会議や世界連邦アジア会議が進んで広島の地で開催されている。このように内外を問わず来訪客 の著しいのも本市の平和都市の性格に立脚した観光都市の特色である。

市街を合流する七つの川は、その水清く山緑を影し民家を写し夜のネオンを浮べて市街の美観を一入増し、相生矯をはじめ30有余の橋りようを縫ってゆるやかに瀬戸内海に注いでいる。おだやかな瀬戸内海は市の前面に大小様々な島を浮ベ、その風光の美は遊覧客を陶酔させるに充分である。夏は至る所にキャンプ村や海水浴場が設けられ、レクリエーションを楽しむ人々でにぎわう。東方には呉港や、瀬戸内海の風光を一望できる野呂山高原がある。西に下れば手の届くところに子供の別天地楽々園、日本三景の一つ安芸の宮島、再建された岩国の錦帯橋、湯来温泉がある。さら北方背後地には桜と鵜飼の三次、つつじとスキーでにぎわう道後山公園、冠山高原、芸北の幽境三段峡及び帝釈峡、西日本の軽井沢と言われる八幡高原等将来性のある県立公園がある。別府温泉や道後温泉は海路至便の距離にあつて広島市の観光lこ気軽く接続できる。これらはいずれも本市観光とタイアップされた広範囲な観光ルート圏を形成しており、四季を通じてこれら各地を巡遊する人がすこぶる多い。

本市の観光行政に協力するため、広島市観光協会が設けられ、観光誘致宣伝、市内観光ルート・ミス広島の選定及び観光客の案内等活発に活動している。

なお、本年4月より中国観光バス(株)が誕生して観光客の遊覧案内の業務を開始した。

観光施設

[平和記念館、旧産業奨励館、慰霊碑、原爆資料館、似島、不動院、東照宮、三滝観音道場、向宇品、千田廟と千田男爵銅像、広島城跡、比治山公園、山陽文徳殿、頼家の墓、縮景園、広島遊園地、長寿園、東亜殉道無名士女之碑、平和大橋の写真入り紹介-略]

東亜殉道無名士女之碑

本市新川場町の本照寺境内に満蒙同胞援護会広島県支部(支部長 本照寺住職 筧義章氏)によって昭和28年3月31日建立・除幕式を行い、同時に碑の内部に大東亜戦争並びに原爆による行方不明者の氏名を謹記した小石を納入、入魂式を挙行。その碑には極東軍事裁判にインド代表として出席し、唯一人日本無罪論を主張したダバビノール・パール博士によってベンガル語碑文が刻み込まれている。

1954(昭和29)年版は発行せず

1955(昭和30)年版~1958(昭和34)年版

[市内観光地の簡単な紹介]

1959(昭和34)年版

平和記念施設

1960(昭和35)年版

世界最初の原爆罹災都市として、本市の観光は大きく姿を変えた。戦後の主な観光対象は、大なり小なり原爆に関係又は起因するものによって占められている。然し都市の復興に連れて、名勝・旧蹟も復旧され、古い行事等も往昔の繁盛を偲ばせる迄に回復した。

市内観光

[平和記念公園、原爆ドーム、慰霊碑、平和記念資料館、花時計、原爆の子の像、平和大橋、西平和大橋、広島城、三滝寺と多宝塔、長寿園、縮景園、比治山公園、元宇品公園、黄金山、不動院、竜泉寺の滝、広島遊園地、広島ユースホステルの簡単な紹介]