「原爆遺跡・遺物」カテゴリーアーカイブ

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」

広島平和記念資料館平和データベースの中の「原爆ドーム」  検索年月日:2020年1月7日http://www.pcf.city.hiroshima.jp/database

分類 件数
被爆資料 403件
写真 60件
原爆の絵 86件
美術品 17件
本【単行本】 551件
本【雑誌】 125件
音楽・音声 1件
動画 17件
被爆者証言ビデオ 4件

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

広島県産業奨励館(原爆ドーム)

現在*  原爆ドーム
竣工時 広島県物産陳列館
*出典『ヒロシマの被爆建造物は語る』
爆心地からの距離 0.16キロメートル
所在地 中区大手町11丁目10(猿楽町)
竣工時期 1915(大正4)年4月
構造/階数  レンガ造/3階建
設計者/施工者 ヤン・レツル/椋田組

 

 

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(目次)

被爆建物等の保存・継承方法についての報告書(被爆建物等継承方策検討委員会、平成4年[1992年]8月)目次

平成4年8月20日 委員長 庄野直美 ➡ 広島市長 平岡敬
まえがき
本委員会の審議経過と意見
参考 被爆建物等継承方策検討委員会
1 被爆建物等継承方策検討委員会開催状況
2 被爆建物等継承方策検討委員会設置要綱
3 被爆建物等継承方策検討委員会委員名簿

 

 

被爆建物等継承方策検討委員会

被爆建物等継承方策検討委員会  設置:1991年7月24日

Y M D 事項
91 06 19 浜井広島市長室長、市議会総務委員会で、「被爆建物等継承方策検討委員会」(仮称)を7月中旬に設置することを発表。
91 07 24 広島市「被爆建物等継承方策検討委員会」を設置。委員=石丸紀興・宇吹暁・小原誠・河合護郎・庄野直美・空辰男・田中茂・葉佐井博巳・平川浩子・平松スエノ・松重美人・横田工・浜井澄人・佐伯邦昭・鍋岡聖剛。
91 08 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の初会合を開催。庄野直美を委員長に選ぶ。
91 10 04 「被爆建物等継承方策検討委員会」、第2回会合を広島市役所で開催。「キリンフォーラム」の被爆外壁タイルの保存を要請することを申し合わせ、マツダ宇品工場内の被爆建造物などを、調査対象リストに追加。
91 10 29 広島市の「被爆建物等継承方策検討委員会」の第3回委員会、市役所で開催。原爆遺跡保存運動懇談会の意見を聴取。
91 12 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、第4回の会合を開催。広島赤十字・原爆病院の一部を現地保存するよう市が病院と協議するよう求める。
92 02 04 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の委員8人、市内の被爆建物9か所を視察。視察した被爆建物=広島市役所、広島大学理学部、広島赤十字・原爆病院、広電変電所、旧陸軍被服支廠、広島銀行銀山支店、旧陸軍司令部通信室、本川小学校、レストハウス(予定)。
92 02 14 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、5回目の会合を開催。公有の被爆建物の保存策を検討。
92 04 21 広島市、被爆建物等継承方策検討委員会の6回目の会合を開催。広島逓信病院、文理科大学、広島高等学校、日銀、兵器支廠、兵器学校、などの継承方策について検討。
92 05 26 広島市、第7回被爆建物等継承方策検討委員会を開催。民有の被爆建物の継承方策の検討など。
92 07 15 広島市、第8回(最終)被爆建物等継承方策検討委員会を開催。取りまとめ案の検討。
92 07 16 広島市の被爆建物等継承方策検討委員会、最終会合を開催。平岡市長に提出する答申案を固める。
92 08 20 庄野直美広島市被爆建物継承方策検討委員会委員長、平岡市長に被爆建物の保存・継承方法についての報告書を提出。

 

 

 

 

被爆建造物を考える会

被爆建造物を考える会

設立:1989(平成元)年7月16日

目的:「本会は、広島の街から次第に姿を消そうとしている被爆建造物をとおして、歴史的な意味を持つ広島の体験をどう次代に伝えていくか多面的に検討し、市民に被爆体験の継承について考える機会を提供することを目的とする。」(会則第2条)

事業(会則第3条)
本会は、前条の目的を達成するために以下の事業を行う。
①被爆建造物の存在を広く市民に認識してもらうために、フィールドワークやスケッチ大会、シンポジウムなどを開催する。
②他都市における歴史的建造物保存の試みなどについて調査する。
③広島に残る被爆建造物について、専門家による多角的な調査・研究活動を行う。
④調査・研究活動の成果をまとめ、報告書として出版する。また、市民、子ども向けの被爆建造物マップ、解説書などの出版活動を行う。
⑤その他、会報発行など目的達成に必要な事業を行う。

動向

年月日 事項
1989
07 16 「原爆遺跡を考える会」、広島市で発足。呼びかけ人に飯島宗一・新藤兼人・庄野直美ら。原爆遺跡への関心を高め、被爆建造物の調査などを計画。事務局を広島平和教育研究所に設置。
07 25 「被爆建造物を考える会」主催原爆遺跡をめぐるフィールドワーク、広島市で実施(約60人参加)。広島赤十字・原爆病院・広大理学部などを見学。
07 30 「被爆建造物を考える会」、広島市内各所で、被爆建造物を描くスケッチ大会を開催(約30人参加)。
0925 「被爆建造物を考える会」。於教育会館<宇吹メモ>
12 24? 「被爆建造物を考える会」による本格的な調査活動、開始。同会社会部会、原医研資料センターの資料で被爆建造物について調査。
1990
08 02 「被爆建造物を考える会」、広島信用金庫横川支店で現地調査。その他の建造物についても調査中。
11 25? 「被爆建造物を考える会」の葉佐井博巳広大教授ら、広島市内の被爆建造物の残留放射能を測定し、各地点の中性子量を算出。それによると、日米合同委員会による被曝線量推定方式DS86とは大差。
12 03 「被爆建造物を考える会」、調査結果をまとめた「広島の被爆建造物-被爆45周年調査報告書」(監修者:庄野直美、発行者:被爆建造物を考える会、発行所:朝日新聞広島支局、発行日:1990年12月1日)を作成。
12 08 「被爆建造物を考える会」、広島市で、記念シンポジウムを開催(約300人参加)。大江健三郎による講演「壊れものとしての人間と文化」など。

 

広島市庁舎被爆石等譲与(1985年~)

広島市庁舎被爆石等譲与

★旧庁舎解体時期  1985年10月~1986年2月
旧庁舎の敷石等の譲与譲与状況(1988.01.01)

区分 譲与
団体数
譲与物件
敷石 側壁石 その他
地方公共団体 32 83 27 35
被爆者団体 4 4 1 7
学校関係 8 5 1 22
市公共施設 4 188 1 13
姉妹都市等 1 1
その他 5 8 2 2
54 289 32 79

【被爆石残数調】(1988.01現在)
*敷石   60枚
*側壁石  50枚
*その他 200個(小片を含む)

☆依頼の一番早い都市
北海道深川市(1985年5月1日)
☆譲渡のの一番早い都市
鳥取県西伯郡名和町(1985年11月15日)
☆最北端の都市
北海道深川市
☆最南端の都市
大分県北海部郡佐賀関町
☆外国の都市
ソ連邦ボルゴグラード市

原爆遺跡一覧(広島市内)

原爆遺跡一覧(広島市内)

名称(被爆時) 距離(km) 所在地(旧町名) no.
広島県産業奨励館
(原爆ドーム)
0.16 中区大手町11丁目10
(猿楽町)
006
燃料会館
(レストハウス)
0.17 中区中島町1-1
(中島本町)
007
帝国銀行広島支店
(アンデルセン)
0.36 中区本通7-1
(革屋町)
022
日本銀行広島支店 0.38 中区袋町5-16
(袋町)
023
頼山陽史跡資料館 中区袋町5-15
本川国民学校校舎 0.41 中区本川町1丁目5-39
(鍛治屋町)
026
袋町国民学校 0.46 中区袋町6-36
(袋町)
029
大林組広島支店 0.49 中区本通3-10
(平田屋町)
032
福屋百貨店 0.71 中区胡町6-26
(胡町)
043
中国軍管区司令部防空作戦室 0.79 中区基町21
(基町)
049
広島城跡 0.98 中区基町21-1
(基町)
広島市役所
(旧庁舎資料展示室)
1.02 中区国泰寺町1丁目6-34(国泰寺町) 062
広島中央電話局西分局(NTT広島西営業所) 1.08 中区西十日市町10-15
(北榎町)
063
縮景園 1.20 中区上幟町2-11
広島陸軍幼年学校
炊事室
1.34 中区白島町19-8
(基町)
077
広島逓信病院 1.37 中区東白島町19-16(基町) 079
広島文理科大学本館 中区東千田町1丁目1-89(東千田町)
広島赤十字病院 中区千田町1丁目9-6
千田国民学校講堂 中区東千田町2丁目1-34(千田町2丁目)
多聞院 南区比治山町7-10
電気試験所
広島出張所
西区三篠町1丁目15-3(三篠本町1丁目)
山陽文徳殿 南区比治山町7-1
(段原町)
住友銀行
東松原支店
南区猿猴橋町3-7
(猿猴橋町)
広島電鉄千田町変電所 中区東千田町2丁目9-29(千田町3丁目)
東照宮 東区二葉の里2丁目1-18
久永金紙押紙工場 西区三篠町3丁目20-4(三篠本町2丁目)
己斐調整場
送水ポンプ室
西区己斐東1丁目9-2(己斐町)
桐原容器工業所 中区舟入南4丁目1-11(舟入川口町)
第一国民学校 南区段原山崎町4-42(段原山崎町)
広島陸軍被服支廠 南区出汐2丁目4-60
(出汐町)
光徳寺・納骨堂 南区皆実町6丁目15-21(皆実町3丁目)
広島高等学校講堂 南区翠1丁目1-1
(皆実町3丁目)
広島陸軍兵器補給廠
第11兵器庫
南区霞1丁目2-3
(霞町)
牛田水源地濾過池
濾過調整機上屋
東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
牛田水源地送水ポンプ室(広島市水道資料館) 東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
牛田水源地量水室 東区牛田新町1丁目8-1(牛田町)
日本麻紡績給水塔 西区己斐本町3丁目12(己斐町)
陸軍兵器学校
広島分教所
中区舟入南6丁目7-11(江波町)
日本特殊グリース倉庫 南区大洲1丁目9
(大洲町)
広島陸軍糧秣支廠
食肉処理場
南区宇品御幸1丁目
12-23
(宇品町)
広島陸軍糧秣支廠
缶詰工場(広島市郷土資料館)
南区宇品御幸2丁目6-20(宇品町)
不動院 東区牛田新町3-4-9
広島地方気象台(広島市江波山気象館) 中区江波南1丁目40-1(江波町)
中国配電南部変電所 南区宇品御幸3丁目17-1(宇品町)
麒麟麦酒広島工場 安芸郡府中町大須2丁目1
(安芸郡府中町)
官立広島師範学校
講堂・職員室
南区東雲3丁目1-33
(東雲町)
陸軍船舶練習部 南区宇品東5丁目3
(宇品町)
広島鉄道局
広島工機部
東区矢賀5丁目1
(矢賀町)
広島陸軍糧秣支廠
倉庫
南区宇品海岸3丁目11
(宇品町)

慈仙寺境内の墓石平和公園内

出典:広島市『ヒロシマの被爆建造物は語る』(1996年3月)

原爆ドーム(世界遺産)

原爆ドーム(世界遺産)Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)

The Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome) was the only structure left standing in the area where the first atomic bomb exploded on 6 August 1945. Through the efforts of many people, including those of the city of Hiroshima, it has been preserved in the same state as immediately after the bombing. Not only is it a stark and powerful symbol of the most destructive force ever created by humankind; it also expresses the hope for world peace and the ultimate elimination of all nuclear weapons.

Date of Inscription: 1996  Criteria: (vi)

原爆遺跡の保存を求める決議(1990年3月27日)

広島市議会「原爆遺跡の保存を求める決議」
1990年3月27日
世界最初の原子爆弾投下による広島市の惨禍は、人類の未来に対して大きな警鐘を打ち鳴らすものであり、この惨禍を二度と繰り返させてはならない。
そのために、原子爆弾の被災による実相を世界の多くの人びとに伝えることは、広島の責務であると考える。
しかしながら、近年、原子爆弾の被災を受けた建物が、老朽化等の名のもとに次々と取り壊されている。
今後、被爆の実相を広く伝えるためにも、これらの被爆建物に対する対応の仕方については、慎重かつ十分な調査研究の上にたって、その歴史的財産を後世の広島市民に伝承すべきである。
以上、決議する。
1990年3月27日
広島市議会

旧陸軍被服倉庫(広島市基町)消滅過程に見る原爆遺跡存廃論議

問題の発端

『中国新聞(夕刊)』1970年6月11日

広島市教委は、同市基町地区の再開発事業によって破壊される恐れがある旧陸軍輜重(しちょう)隊倉庫などいわゆる〃原爆遺跡〃を保存するよう、このほど市に文書で要請した。史跡として保存するとなれば、再開発計画を一部手直ししなければならず、保存か取りこわしかをめぐって論議は〃原爆遺跡〃にまで及んできた。

市教委が保存を要請したのは、輜重隊倉庫(第二基町バス停前)、陸軍病院門柱(第五基町バス停前)、陸軍病院の由来を記した石碑(県営アパートわきの不法住宅地内)の三件。(中略)

三つの〃遺跡〃のうち、門柱と石碑は場所を移すなどすれば保存も可能だが倉庫は延べ二百六十二平方メートルもあって移転は困難。しかも被爆後二十五年もたって荒れ方がひどく、ブロックもくずれ落ちている。この付近は、市の基町再開発計画で中央公園の芝生広場に予定され、近くに市立図書館や野外音楽堂を建てることになっている。

計画通り工事が進められるとなると、倉庫は取りこわしの運命にある。このため市教委は、先に開かれた市文化財審議会にはかり「補修して現位置に保存するのが望ましい」との結論を得た。

市教委の要請に、対して基町再開発事業を進めている都市計画局では、門柱と石碑の保存には問題ないとしながらも、倉庫については公園計画との関連で慎重な態度をとっている。公園計画を担当する市建設公園緑地課の浅地課長は「史実を後世に伝える意味で保存は必要だと思う。しかし史実を伝える場合、建て物跡を表示する方法もある」と言っている。(後略)

 

存廃論議

年表:1976~78(昭和51~53)年の動向

 動向
76 01 24 中国新聞「30年ぶりに全容-旧陸軍”被爆倉庫”-広島市が周辺取り壊し-惨状伝える壁・ガレキ-”第2のドーム”-関係者ら保存訴える」
76 02 04 中国新聞(夕刊)「水曜グラフ:姿消す”戦争と被爆の遺跡群”-再開発進む広島市基町地区-旧軍の施設が次々」
76 04 30 広島市基町の住民有志で作る「基町明治会」の代表5人、基町公園内の旧第5師団経理部倉庫と県立体育館裏の柳の木3本(樹齢60年以上)を保存するよう求めた要望書を広島市に提出。
76 06 23 広島市、基町の被爆倉庫の保存の検討作業を始める。
76 06 24 広島ユネスコ協会、例会と理事会を開催。基町の陸軍被服倉庫の保存について協議。運動を始めた「基町明治会」を支援する方針を決定。
76 06 29? 広島県被団協(森滝市郎理事長)、広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動に乗り出すことを決める。
76 07 04 広島県被団協(森滝市郎理事長)、日本被団協総会で広島市基町の旧陸軍被服倉庫跡の保存運動を全国的に広げるよう提案。
76 07 07 広島市基町の旧陸軍被服倉庫の保存運動を進める「基町明治会」、写真家佐々木雄一郎が昭和26年当時に同倉庫を撮影した写真を入手。
76 07 07 フリーの映画監督楠木徳男、広島市基町の旧陸軍被服倉庫をテーマにした映画のロケを開始。
76 07 07 広島県被団協(森滝市郎理事長)、旧陸軍被服倉庫の保存を広島市に要望。
76 07 13 読売新聞「保存に賛否両論-広島の旧陸軍被服倉庫-「被爆のあかし」地元老人らが運動-意義に疑問も「ドームだけで十分」
77 01 13 広島市、基町の旧軍被服倉庫を撤去することを決定。
77 01 17 中国新聞「記者ノート:原爆遺跡の保護対策を」
77 07 13 中国新聞(夕刊)「消え行く原爆遺跡<広島>-実態つかめず風化-問われる市の保存行政」
78 05 10 広島市、庁内関係課長等12人で構成する原爆遺跡選定調査会議を設置(広島市資料)。原爆に関係のある155件の建物・橋梁などが候補にのぼるが、そのうち重要なものとして41件を選ぶ。
78 06 01 広島市基町の旧軍被服倉庫の取り壊し開始。

 

『中国新聞』1976年1月24日

原爆資料保存会などの関係者=都心部でこれだけの施設がいまだに残っているのはまれだ。都市化で原爆資料が年々姿を消しており、被爆を伝える生きた証言として残すべきだ。

この建物の隣に住む高野千都子=被爆直後の広島の面影です。このガレキの上で下で、たくさんの人が死んだのだろう、とここを見ると手を合わせたくなる思いです。

原爆資料保存会の横田工会長=外国の平和運動家からもなぜもっと原爆の惨状を残さなかったのかと言われる。原爆の継承の意味からも保存するよう市に働きかけたい。

『読売新聞』1976年5月1日

基町明治会が広島市に提出した要望書=レンガ造りの被服倉庫は崩れ落ち、柳も被爆したため幹の半分近くが枯れているが、いずれも原爆を知らない戦後生まれの若い人たちのために残すべき資料。

『毎日新聞』1976年6月18日

片島薫(元同盟通信記者で基町明治会の会員)=被爆の事実が忘れられてゆくなかで、被爆したままの姿で出てきた倉庫は、どうしても残しておくべきだ。撤去せず公園の一部に、歴史の資料としてとどめておくのが、ヒロシマの願いでもあり、義務だと思う。

『毎日新聞』1976年6月19日

いぬいとみこ(東京在住の児童文学者)=ドームは、現在、単なる観光の象徴となってきている。ヒロシマをとどめておく意味でも被服倉庫跡を保存することは重要な意味を持つ。

田中千禾夫(作家)=原爆ドームにしろ被爆の痛ましい残がいは、すべて残しておくべきだ。残がいは生きている。現実に平和を訴える”証”として現代に息づいている。半永久的にドームを保護した広島市は、ぜひ残しておくべきだ。

栗原貞子(地元の詩人)=ヒロシマのありのままの歴史を伝える建築物がどんどん姿を消している。原爆ドームは今や観光のトレードマーク。原爆のツメ跡がくっきり残った残がいはきちんと保存しておくべきだ。

竹内武広島県被団協事務局員=私有地で見つかった残がいならば買い取るといった問題があると思う。しかし、今回のケースはそれと違い国有地の中。ぜひとも保存してとどめておくべきだろう。

広島市建設局公園緑地部=あの残がいは、公園予定地(5ヘクタール)のちょうど真ん中にあたる。あれが残っていると支障があることは事実。また、建設省の最初の指導指針でも、一切の建物を建てず、広場だけの公園を作るようにといっている。しかし、爆心地にあれほど近く、原爆の惨状を生々しく伝える貴重な残がいであるということは十分認識している。

『毎日新聞』1976年6月24日

野村哲夫基町明治会会長=この倉庫が当時どうなったのかを、こうした証人の人の話を集めれば、原爆で空白になった部分を解明できる。この倉庫は軍隊の施設だったから残すという考えではなく、原爆の悲惨さを訴え、平和のために残したい。

広島ユネスコ協会=被爆体験の継承に役立つ貴重な被爆建築物。

『毎日新聞』1976年6月24日