「05 原爆被災資料」カテゴリーアーカイブ

年表:原爆展(1953年)

年表:原爆展(1953年)

記事
01 ? 丸木・赤松夫妻の「原爆の図」、国際平和賞を受賞。
01 02 秩父農業高校、原爆展を開催(アカハタ)。
01 15 長崎市教委ほか21団体、赤松俊子・丸木位里「原爆の図展」を長崎市労働会館で開催(~18日)。15日、3000名が入場。18日までに1万名を突破。会期を19日まで延期(長崎日々)。
03 18 長崎原爆の図展実行委員会、赤松俊子・丸木位里を招き、労働会館で長崎平和を守る会の結成大会を開催。(長崎日々3.13)
04 10 YMCA奉仕グループの河本一郎らの努力により釧路市労働会館で原爆展。以後、北海道各地に巡回(1953.7.4朝日新聞)。
07 10 山口大学講堂で原爆図展。3日間。
07 10 山口大学講堂で原爆図展開催(3日間)。(アカハタ)。
08 07 中国新聞社、「ノー・モア・ヒロシマズ原爆画展」を東京日本橋白木屋で開催(-12日)。福井芳郎の記録画を展示。
08 09 広島市・朝日ホールで丸木・赤松「原爆の図」展を開催(-13日)。(朝日新聞)
08 15 呉市公民館で「原爆の図」展覧会(17日まで).市民の10%約2万人が観覧

 

年表:原爆展(1952年)

年表:原爆展(1952年)

記事
01 19 長崎県など、大阪市近鉄阿倍野百貨店で「長崎県観光と物産博覧会」を開催(-2月2日)。
02 09 長崎県など、京都駅前丸物百貨店で長崎観光物産展を開幕。
02 25 長崎市立山里小学校、自主教育研究会に合わせて「永井博士と浦上の子ら」遺品展を開催。
05 23? 外務・文部両省、6月26日からニューヨークで開催される国際児童図書展覧会に「原爆の子」(岩波書店)など18点を出品することを決める。
07 30 東京都平和会議・世界政府協会・キリスト者平和の会、「大原爆展」を渋谷公会堂で開催。-8月2日。
07 30 東京都平和会議・世界政府協会・キリスト者平和の会、東京都渋谷公会堂で大原爆展を開催(-8月2日)。(アカハタ)
08 06 武蔵野市平和懇談会、井の頭公園で「大原爆展」を開催。-10日。
08 15 立川平和懇談会、赤松・丸木「原爆の図」5部作と東京都立大学の学生有志が集めた写真資料をもとに原爆展を開催。3日間。入場者総数は9907名(子供を加えると1万2000名以上)。(「平和のために-原爆展感想文より」52090901)
09 28 アカハタ、S・Yの詩「ピカドンを許さない-ある原爆展の会場にて」を掲載。
10 07 アカハタ、映画「原爆の図」(今井正作品・新星映画社)を紹介。
11 16 原爆画展、佐世保市公会堂で開幕(4日間)。
12 28 三菱造船労組長崎支部など、原爆図展実行委員会を開催。1958年1月15日から開催予定。

 

 

ヒロシマ 21世紀へのメッセージ

『ヒロシマ 21世紀へのメッセージ』(朝日新聞社文化企画局大阪企画部(編・刊、199409)

目次

口絵写真
020 19940927-1030 熊本県立美術館
19950551-0612 大丸ミュージアム・梅田
19950812-0924 郡山市立美術館
19951007-1203 広島市現代美術館
021 ごあいさつ 主催者
024 霊魂よ眠れ 新藤兼人
033 コレクションテーマ[ヒロシマ]
087 ヒロシマ―半世紀への黙示
114 コレクション、テーマ「ヒロシマ」について 竹澤雄三(広島市現代美術館学芸課長)
120 21世紀への黙示―ヒロシマ 小泉晋弥(郡山市立美術館主任学芸員)
127 原爆写真とは何か―次代の人類のヴィジョンのために 平木収(写真論)
133 戦争を風化させないために―フォトCD[ヒロシマ・1945] 後藤和雄(朝日新聞写真データベース委員会幹事)
135 市民が描いた原爆の絵 小泉晋弥
136 作家略歴
140 出品目録

 

母と子でみる 原爆を撮った男たち

『母と子でみる 原爆を撮った男たち』(反核・写真運動、草の根出版会、19870806)

目次

1 原爆の実相を伝える
はじめに-真の平和をめざして
広島・長崎の原爆
原爆カメラマン
日照計
アトミック・フィールド
2 原爆を撮った男たち(上)
尾糠政美
尾木正己
鴉田藤太郎
川原四儀
川本俊雄
岸田貢宜
岸本吉太
北勲
木村権一
黒石勝
空博行
斎藤誠二
林寿麿
深田敏夫
松重三男
松重美人
森本太一
山田精三
川端庸介<長崎>
3 原爆を撮った男たち(下)
松本栄一<長崎・広島>
菊池俊吉<広島>
林重男<広島・長崎>
4 原爆カメラマンの証言
どうして原爆写真を撮ったか
林重男・松重美人・松本栄一・相原秀次・菊池俊吉
広島原爆被災写真撮影者が語る被爆の実態
(河村盛明・三宅利明)、松重美人・松重三男・深田敏夫・林重男・黒石勝・岸田貢宣・尾糠政美・尾木正己
戦中・戦後のカメラマン
写真家をめざしたころ  菊池俊吉
幻のグラフ雑誌  多川精一
軍隊を終えカメラマンに  林重男
敗戦とアメリカ  林重男
「国際医師の会」で被爆体験を訴える  松重美人
平和へのかけ橋  「反核・写真運動」事務局
フィルムの話  林重男
「反核・写真運動」-あとがきにかえて   「反核・写真運動」事務局

世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書

『世界写真家平和シンポジウム・写真展報告書 核の半世紀―目撃者は語る』(広島平和文化センター、19941216)

目次

発刊に当たって 平岡敬(広島市長、財団法人広島平和文化センター会長)
001 出席者のプロフィール
003 全体スケジュール
004 写真展の概要
005 原爆被害概況説明の概要
007 宇吹暁 原爆の社会的影響
011 練石和男 医学的影響「原爆放射線の健康影響」
013 山岡ミチコ 被爆者の証言「米国で27回の手術を受ける」
018 高橋昭博 被爆者の証言「私の被爆体験とヒロシマの心」
022 世界写真家平和シンポジウムの概要
1 日時
2 会場
3 テーマ
4 内容
5 主催
6 協力
7 後援
8 参考
023 平岡敬 開会あいさつ
024 シンポジウムの発言内容
勝部領樹
025 ジョー・オダネル
028 ユーリ・イワノビッチ・クイディン
30 勝部
30 キャロル・ギャラガー
32 勝部
33 ロバート・デルトレダシー
35 勝部
35 アンドレアス・ロベ
37 勝部
37 大石芳野
53 プロフィール
098 写真展における展示写真
109 新聞記事[原文]

たたかう映画-ドキュメンタリストの昭和史

『たたかう映画-ドキュメンタリストの昭和史』(亀井文夫著 谷川義雄編、岩波書店、19890821 )

目次

ドキュメンタリーをめざして 001
わんぱく時代/ソビエト留学/上海事変の記録/戦う兵隊/記録映画を考える/記録映画と真実と/
わが戦争と平和 073
信濃風土記 /シナリオ小林一茶/コミンテルンと雑魚一匹/日本の悲劇/来なかったのは軍艦だけ/
戦後を記録する 137
軍事基地日本 138
原爆への視線 146
世界は恐怖する 155
部落差別は生きている 176
生物みなトモダチ 185
ギャラリー東洋人にて 186
みんな生きなければならない 197
編者あとがき(谷川義雄) 215
亀井文夫監督作品目録 225

 

 

ヒロシマ二十年 原爆記録映画製作者の証言

『ヒロシマ二十年 原爆記録映画製作者の証言』(加納竜一・水野肇、 弘文堂、19650805 )

目次

口絵
まえがき
はじめに-つめたい試写室 一
1 ヒロシマ・八月六日
1 歴史の流れの中で
2 八月六日のヒロシマ
3 科学者第一陣
2 原爆記録映画の企画
1 ニュース・カメラマンの記録
2 先発隊長崎へ
3 記録映画班の編成
4 あわただしい調査活動
3 撮影隊、広島へ
1 クラン開始
2 海田市の合宿寮
3 広島上空五五〇メートル
4 原爆ドームをめぐって
5 被爆者の島・似島
6 物資不足をのりこえて
4 科学測定を追って
1 キノコ雲の正体
2 爆心と黒い雨
3 熱と影をさぐる
5 死の街を行く
1 医者をさがす人々
2 ヒロシマの医師たち
3 人体への影響
4 ある被爆者の二〇年
6 広島から長崎へ
1 ナガサキ・八月九日
2 撮影隊、長崎へ入る
3 捕らわれたカメラマン
7 米軍の干渉と没収
1 撮影禁止命令
2 軟禁下の編集
3 再び長崎へ
4 奪われた原爆記録映画
8 それから二〇年
1 はばまれる真実の声
2 公開された惨禍
3 研究体制はこれでよいか
4 「幻のフィルム」の復元を

 

爆心地ヒロシマに入る

『爆心地ヒロシマに入る カメラマンは何を見たか
』(林重男 、岩波ジュニア新書208 、19920619)

目次

1 パノラマ写真
原爆災害調査団
パノラマを撮る
パノラマ写真を見る
技術上の問題点
2 広島を撮る
志願してヒロシマへ
第一日目
護国神社
島病院の伝言板
西向寺
産業奨励館
広島瓦斯本社
広島城址
相生橋
庶民金庫(商工中金)
中国新聞社屋上からのパノラマ
植物への放射能障害
枕崎台風
日照計の記録
3 裏側から見た戦争
東方社に入る
大艦隊や大戦車隊を”つくりあげる”
新鋭機発表
”空中遊泳”
東京に戦火せまる
松戸上空の死闘
撃墜記録が敗戦記録に
敗戦
4 長崎を撮る
ある兵士を護送する
パノラマを撮る
城山国民学校
市電大橋終点
ガスタンク
山王神社
山里国民学校
浦上天主堂
長崎医科大学付属病院
三菱重工長崎兵器製作所大橋工場
最上少年の被爆
鎮西学院からのパノラマ
アトミックーフィールド
春木町丘陵からのパノラマ
新興善国民学校からのパノラマ
長崎を離れる
5 原爆カメラマンたち
接収されたフィルム
原爆災害を記録した人たち
原子爆弾を最初に撮った人―山田精三さん
ファインダーが涙でくもった―松重美人さん
縮景園の感動を呼びおこした写真―松本栄一さん
6 写真が生んだ感動
返還されたフィルム
城山国民学校との再会
ニューヨークに展示された写真
「反核・写真運動」
孫の一言
あとがき

 

 

年表:原爆記録映画

年表:原爆記録映画

事項
45 12 17 日本映画社にGHQより原爆映画のフィルム提出命令が届く(相原秀次「広島日誌」)
45 12 17 GHQ,日映に被爆地撮影のフィルムの提出を命令.
45 12 19 GHQ軍医部長室で原爆映画の試写(リーボー日記「それは期待していたとおり、驚くべき記録であった。宣伝目的に使用される可能性も容易に考えられた」)
46 03 27 マッカーサー司令部直属映画班ダイアー大佐一行、広島市で、原爆死没者の遺骨引き取り場面を撮影。
52 08 25? アサヒ・ニュース原爆特集(363号)、公開される。被爆直後のフィルムの一部(アカハタ)。
60 11 15 広島市、日本映画社より16ミリの原爆フィルムを預かる。
60 広島ライオンズクラブ(原田東岷会長)、占領解除後、朝日ニュース社が制作した日本映画社撮影の被爆直後の広島の原爆被害状況を含む20分のニュース映画を広島原爆資料館に寄贈。(1967年6月11日不明紙)
67 05 17 アメリカ当局筋,没収した原爆記録映画の保管を初めて、認める(ワシントン17日発=AP電).
67 05 22 仁科記念財団、緊急運営委員会で原爆記録映画の返還をアメリカに求めることを決める.
67 05 26 [掲載紙不明]「文化:帰ってくるか原爆映画-完全な原型のままで全人類に見せたい」(岩崎昶)
67 06 10 原爆被災白書広島推進委員会、広島大学で会合。国勢調査で原爆による死者数を明らかにすること,米当局が保管を認めた被爆映画の返還交渉の2点を政府に求めることを決定.
67 06 11? 日本映画社が被爆直後の広島を撮影したフィルムを含むニュース映画が、広島原爆資料館で見つかる。1960年暮れに広島ライオンズクラブが寄贈したもの。
67 06 14 釼木文相、衆院文教委で「外務省を通じ米国と「幻の原爆フィルム」の返還交渉に入る」と言明。
67 06 14 大原亨、衆議院文教委員会で原爆被爆記録映画について質問.
67 06 27 原爆被災白書推進委員会(茅誠司委員長)、被災白書審議会設置など政府への要望決める①45年国勢調査に合わせた原爆被災調査実施②米保管の原爆記録映画早期返還③白書作成の審議会設置の3項目が重点。
67 08 03? 米空軍、被爆直後の広島を撮影した「幻の原爆映画」のコピーを作製中。1組は日本に返還、1組はワシントンの国立記録保存所で一般公開の予定。
67 11 アメリカ国立記録保存所、原爆映画を整理中に戦略爆撃調査団がインタビューして収録した日本人の戦争体験の録音テープを発見.
67 11 09 米国務省から日本大使館に返還された「幻の原爆記録映画」(16ミリフィルム)、文部省に届く。宮地文部省大学学術局長、映画公開について「あまり残酷なシーンがあれば一般には公開しにくい」と語る。
67 11 10 山田広島市長、米国から日本に返還された原爆フィルムのプリントを貰い、保管・利用したいと、記者会見で語る。
67 11 11 [掲載紙不明]「私は見た幻の原爆映画[ワシントン9日佐々木共同特派員]」
67 11 16 山田広島市長、剱木文相と宮地大学学術局長を訪ね、原爆記録映画について要望。
67 12 02 文部省、アメリカから返還された原爆被災記録映画の試写会を映画製作関係者を招いて開催.
67 12 03 文部省、返還された原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」の試写会を省内で開く。土木建築、物理、生物、医学分野から被災状況を全5巻に収録したフィルム。同映画製作に関係した日映関係者や学者約30人が招かれる。
67 12 04 文部省、原爆映画のスチール写真12枚を公表。
67 12 04 文部省、原爆映画の試写会を山田広島市長・志水清広島大学原医研所長ら、一般学識経験者31人を招いて開催.
67 12 04 岩崎昶・加納竜一・藤波次郎、文部省で記者会見し、幻の原爆映画と同じ内容の未編集プリントが、日映新社に死蔵されている、と語る。
67 12 05 中国新聞「風紋:なまの記録」[原爆映画]
67 12 09 山口県の被爆者センター建設委員会、代表者会議を開催。返還された原爆記録映画の公開を要求することを決める。
67 12 14 中国新聞「風紋:原爆記録映画の公開」
67 12 16 文部省、原爆映画保管・利用に関する会議(22人で構成)の初会合を開催.学識経験者16人が参加。被爆者が病気で治療を受けている部分など人体部分をカットし一般公開するという原則がほぼまとまる。
68 01 10 文部省、原爆記録映画試写会を開く。重藤文夫広島原爆病院長、治療のシーンを残すべきと発言。
68 01 10 [掲載紙不明・投書欄]「この方法で原爆映画を公開せよ」(岡正治・原水爆被災白書をすすめる長崎市民の会代表委員)
68 01 18 行宗一日本被団協副理事長ら、文部省を訪ね、原爆映画の公開を要望。
68 01 25 文部省、米国から返還された原爆記録映画の保管と利用の具体的方針を決める。「被爆者の人権尊重」を理由に人体編は力ット、貸し出しは公共団体と教育目的に限定。
68 02 09 婦人民主クラブ広島支部、原爆記録映画のノーカットを文部省に要請。要請書を灘尾文部大臣に郵送
68 03 23? 広島市、文部省に原爆記録映画の借用申請書を提出。
68 04 12? 文部省、アメリカから返還された原爆記録映画のマスターネガから5本の複製を作成。うち2本は、広島・長崎両市に半永久的に貸出、残り3本を20日以降、NHK・日本教育テレビ・日本テレビ・渡橋12チャンネル・中国放送・広島テレビ・長崎放送各局の放映要に貸し出す予定。
68 04 13 文部省、米国から返還された「原爆記録映画の保管と利用に関する会議」を開催。
68 04 18 映画「広島・長崎における原爆の影響」、文部省から広島市に届く。同日、市役所内で試写会。
68 04 20 広島市、見真講堂で原爆記録映画の特別試写会。被爆者団体や町内会などから約1000人を招待。
68 04 20 吉川清広島県被団協理事「失望した。これでは”原爆なんて大したことはない”との誤った印象を与えかねない。核兵器の残虐性こそ示す必要があるのだから、ノーカットフィルムを公開すべきだ」
68 04 20 原爆記録映画「広島・長崎における原爆の影響」、人体編の一部を力ットして公開。NHK教育テレビ・中国放送・広島テレビが時間帯ををずらして放映。
68 04 22 原爆映画製作者の集い(岩崎旭・加納竜一ら、元日本映画社スタッフら)、文部省にノーカットで公開を中し入れ。「原爆の悲惨さを訴える重要な部分がカットされているため、原爆のこわさが薄められ、平和のために役立てる意図が損なわれた」
68 04 23 朝日新聞「顔のない原爆映画-被爆者の訴え、どこへ-カットされた「人間の被災」」(岩崎昶)
68 04 25 原爆被災白書を進める長崎市民の会、原爆映画ノーカット公開の意見書を提出.
68 04 25 中国新聞、社説「被爆者援護と記録映画」
68 04 25 [掲載紙不明]「文化:”人間不在”の原爆映画-欠けている主役-被爆者自身で完成を」(文沢隆一)
68 05 11 土屋斉・元日本映画社製作部長、広島に原爆が投下された翌日、大阪支社に取材を指示したことを明らかにする。柏田敏雄カメラマンが8日、広島を取材し、9日夜、大阪に持ち帰る。
68 05 15 原爆映画製作者のつどいの代表加納竜一・水野肇、広島で原爆映画の登場者の追跡調査を行う意向を明らかにする。
68 05 25 朝日新聞「文化:原点へ復帰せよ-原爆映画の全面公開運動-被爆者の了解とろう-「顔」こそ核兵器の告発」(水野肇)
68 06 06 原爆記録映画全面公開推進会議、広島で結成.
68 06 22? 東京在住の柾木四平、日本映画社のニュースカメラマンとして被爆直後の8日夕方、広島市入りし、約10日間取材活動を行ったと証言。
68 06 25 原爆記録映画全面公開推進会議、人体編に登場の被爆者を捜し出すための呼びかけ状を公表.26日,2000部の発送を開始.
68 07 11 原爆記録映画全面公開推進会議、原爆映画に出てくる女性の一人が、広島県尾道市在住の主婦であることを確認。7月11日、広島原爆資料館に寄贈。
68 07 12 長崎市、原爆被災記録映画管理委員会を開催。原爆映画を8月7日と9日に同市で公開することを決める。
68 07 16 原爆記録映画全面公開推進会議、カットされた部分に登場する21人のうち8人の身元を確認。
68 07 18 広島大学原医研、管理換えされた原爆被災記録映画の試写会を開催.原田東岷,映画を撮影しフィルムを志水清に没収される.
68 07 23 原水爆禁止日本協議会専門委員会、文部省に原爆映画の貸出を申請.27日,文部省拒否回答.
68 07 26 原爆記録映画全面公開推進会議、広島YMCAで会合.原水禁3団体代表,各大会で全面公開を訴えると意志表明.
68 07 26 文部省、日本原水協に原爆映画を貸し出さないとの意向を伝える。
68 07 27 朝日新聞「文化:原点を追跡する-原爆記録映画のノーカット上映運動」(水野肇)
68 07 28 毎日新聞「幻の映画-復元上映の使命を痛感」(?画家・新協美術会委員)[原爆映画]
68 07 28? 文部省が、原爆映画の公開にあたり、人体への影響だけでなく、「長崎西山地区の異常放射能の測定値」部分もカットしていたことが判明。
68 07 29 中国新聞?「地道の続くノーカット運動-記録映画「原爆の影響」の行くえ」
68 07 30 原爆映画全面公開推進会議、文部省斉藤事務次官・宮地大学局長と会見.カット部分の公開を申し入れる.
68 08 06 [掲載紙不明]「原爆映画-第1号は米に-追跡調査でつきとめる」
68 08 06 朝日新聞「原爆映画ノーカット公開-平行線たどる主張-被爆者の声生かせ・賛成側-文部省・状況はこれで十分」
68 09 12 原爆記録映画全面公開推進会議、広島YMCAで呼びかけ人会を開催.文部省の保管と利用に関する会議の参加者23人にノーカット上映を強く働きかけることを決定.
68 10 24 原爆記録映画全面公開推進会議呼びかけ人、原爆被災記録映画の全面公開に関する要望を保管利用に関する審議委員23名と灘尾文部大臣に発送.
68 12 13 原爆記録映画全面公開推進会議、人体編カットの再検討を求めた要望書を坂田文部大臣と宮地文部省大学学術局長に発送.
68 12 24 中国新聞「68ニュースその後(12)原爆映画初めて公開-完全復元へ猛運動-登場する半数からも同意得る」
69 02 02 広島、長崎の原爆記録映画スチール写真700枚公開。被爆直後に映画を製作した日本映画社の加納竜一元プロデューサー保存していた
69 07 19 原爆原爆記録映画全面公開推進会議、坂田文部大臣に要望書を送付.
69 07 30 原爆映画のプロデューサーだった加納竜一、袋町国民学校の伝言板の写真を持参し、伝言を書き残した広島市内在住の三好茂と対面。
69 08 01 核禁広島県民会議代表者会議、広島市内のホテルで開催。席上、原爆映画の人体場面を中心にしたカット部分のスライド67枚が全国で初めて公開される。
69 08 06 中国放送(RCC)、公開された原爆映画でカットされた部分のスチール写真(加納竜一所蔵)で、登場人物の了解の取れたものを放映。
69 08 06 婦人団体「平和のために手をつなぐ会」のメンバー約10人、東京都内・有楽町で、原爆記録映画の全面公開を求める署名運動を実施。
69 08 08 原爆映画に登場する広島市在住の主婦、原爆映画全面公開推進会議の庄野直美広島女学院大学教授にシーンの公開を申し出る。
70 02 19 コロンビア大学、原爆記録映画「広島・長崎-1945年8月」をニューヨークの現代美術博物館で初公開.
70 03 17 中国放送、コロンビア大学マスコミセンター編集「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」(原爆ノーカット記録映画)を広島市で試写。庄野直美・森滝市郎・志水清広島大学原医研署長・重藤文夫らを招く。
70 03 18 原爆記録映画「広島・長崎一九四五年八月」をTBS系ネット(広島ではRCC)で全国放映。「広島・長崎における原爆の影響」を米・コロンビア大学が16分間に編集したもの。
70 03 29 中国新聞「RCCだより:「原爆映画」のテレビ公開まで-いち早く情報キャッチ」(豊島彰)
70 04 08 山田広島市長、来日中のハリー・B・ホリンズ世界法基金協会理事長と東京で会い、コロンビア大学とともに世界に配る計画をすすめている「広島・長崎-1945年8月」のフィルムの覆製提供と一部使用の了解を求める。
70 04 09 中国新聞社説「市民の手で原爆映画を」
70 04 28 広島市、平和文化推進審議会を開催。被爆25周年記念事業で原爆記録映画製作を決定。16ミリ、30分程度。中国新聞社、中国放送、広島テレビの報道3社と共同で製作委員会設置。6月21日に撮影を開始
70 04 29 広島市平和文化推進審議会[平和文化センター]、原爆記録映画の製作を了承.
70 05 02 原爆映画全面公開推進会議、呼びかけ人会を広島YMCAで開催.新しい原爆映画製作に全面協力することを決める.
70 05 11 原爆映画全面公開推進会議の代表・森滝市郎・相原和光と元日映のカメラマン加納竜一、坂田文部大臣と会見。原爆映画の全面公開を陳情(4回目).
70 05 16? 長崎市、コロンビア大学マスコミセンター編集「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」(原爆ノーカット記録映画)を買い取ることを決める。
70 05 16? 原水禁国民会議、コロンビア大学マスコミセンター編集「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」のフィルム5本を購入。全国での上映活動を計画。
70 05 19 広島市原爆映画製作委員会、初会合.
70 05 20 原水禁国民会議にバーナウ米コロンビア大学マスコミ・センター教授から、8月の大会に参加するとの手紙が届く。
70 05 20 中国軍管区の委嘱報道員だった広島市在住の岸田貢宣、被爆直後の7日-10日に撮影した原爆被災写真11枚を、市の原爆映画のために広島原爆資料館に寄贈。
70 05 21 広島市の原爆映画の制作スタッフ(加納竜一・豊島彰・薄田純一郎・平岡敬ら)、広島平和記念館で打ち合わせ。
70 05 21 中国新聞社説「市民参加の原爆映画を」
70 05 26 原水禁国民会議が原爆映画「広島・長崎一九四五年八月」の公開試写会。東京・全日通会館(定員二百人)の会場に七百人が押しかけ、三回上映
70 05 26 原水爆禁止国民会議、コロンビア大学から購入した原爆記録映画の公開試写会を東京で開催.
70 06 01 広島市の原爆映画制作委員会とスタッフとの第3回合同会議、広島市平和記念館で開催。
70 06 12 広島市、原爆映画製作委員会と製作スタッフの合同会議を開く。一応まとまったシナリオ原案を検討。
70 06 17 広島県原水禁、国民会議が購入したコロンビア大学マスコミセンター編集の原爆映画「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」を広島市内で上映。
70 06 19 朝日新聞「再現された”惨状の色”-原爆カラー映画-25年前の記憶たどる証人」[三村明・重藤文夫・相原秀次・井上寿美男・三保芳登]
70 06 20 毎日新聞「映像で”原爆”訴える-広島で盛上がる映画製作」
70 06 20 広島市、原爆映画製作委員会と製作スタッフの合同会議を開く。シナリオがほぼ固まる。
70 06 21 広島市の原爆映画の撮影開始。
70 06 21 朝日新聞(日曜版)、原爆被害を撮影したカラー映画を紹介。
70 06 23 朝日新聞「オレは地獄から生返った-ケロイド背に叫ぶ反戦-カラー映画の被爆少年」[谷口稜曄]
70 06 25 朝日新聞、入手したアメリカ戦略爆撃調査団撮影の原爆カラー映画を東京の朝日講堂で初公開。
70 06 26 広島市、原爆映画製作委員会と製作スタッフの合同会議を開く。完成後の活用方法などを検討。
70 06 26 朝日新聞「1945年夏に「明日」を見る-「カラー原爆映画」を見て」(大江健三郎)
70 06 28 中国放送、カラー映画「原爆記録-カラーは訴える」(アメリカ戦略爆撃調査団撮影)を放映。
70 07 03 広島市の「原爆映画」の撮影終了。
70 07 05 中国放送、NET制作の「ドキュメンタリー現代:その写真は私だ!-原爆映画の生存者たち」(カラー)を放映。内容はカラー映画に登場する生存者8人の記録。
70 07 13 広島市、原爆映画製作委員会と製作スタッフの合同会議を開く。出来上がったフィルムを試写。
70 07 25 主婦の平和グループ「平和のために手をつなぐ会」、原爆記録映画が8月6日・9日に見られるようにテレビ局に呼びかける運動を、東京・有楽町で実施。
70 07 27 中国新聞、連載「原爆フィルム」(~8月3日,8回).
70 08 01 広島テレビ、「HTVレポート:被爆の継承~原爆特集(3)」を放映。この中で映画「ヒロシマ・原爆の記録」の一部を公開。
70 08 01 原爆映画「ヒロシマ・原爆の記録」が完成し、日本映画新社から山田広島市長に渡される。(「平和の推進」)。
70 08 02 朝日新聞社[?]、原爆映画の上映と講演会を広島市の見真講堂で開催。映画評論家岩崎昶の講演「25年目の解禁」。
70 08 03 広島市、映画「ヒロシマ・原爆の記録」の招待試写会を平和記念館講堂で開催.
70 08 03 広島原爆映画製作委員会と同管理運営委員会、緊急合同委員会を広島平和記念館で開き、9月中旬完成を目標に英語版を作ることを決める。
70 08 03 中国新聞「映画「ヒロシマ・原爆の記録」-人間的悲惨さえぐり出す-市民の手で初めて製作」
70 08 04 日本記者クラブ主催の映画「ヒロシマ・原爆の記録」の試写会、東京で開催。
70 08 06 広島市と報道三社製作の映画「ヒロシマ・原爆の記録」(29分)、一般公開。広島市公会堂で6回上映。テレビ放映も。
70 08 06 原爆記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」、広島市公会堂で一般公開。中国放送・広島テレビでも放映。
70 08 10 毎日新聞「怒り・悲惨・ショック-映画「ヒロシマ・ナガサキ1945年8月」-若人の間に”大きな反響”-”精神的な原爆体験”アンケート」
70 10 15 映画「ヒロシマ・原爆の記録」が第14回日本紹介映画コンクールの銀賞受賞が決定。
71 01 26 広島市製作の原爆記録映画「ヒロシマの記録」、英語版の試写会、東京の日本記者クラブで開催。
71 02 13? 広島市、記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」をウ・タント国連事務総長に寄贈することになる。
71 02 19 広島市、ウ・タント国連事務総長からの記録映画「ヒロシマ・原爆の記録」寄贈への礼状を受け取る。
71 06 06 中国新聞「映画「ヒロシマ-原爆の記録」-原点で持ち腐れ-利用、わずかに3校-広島市教委担当者教材とは知らず」
71 06 25 広島原爆映画管理委員会、「ヒロシマ・原爆の記録」のプリント販売業務を7月1日から日映新社に委託することを決める。
71 10 09 埼玉県浦和市立高校、文化祭を開催。-11日。映画「ヒロシマ・ナガサキ-1945年8月」の上映や被爆資料の展示をおこなう。
72 05 05? 中国新聞社、原爆記録映画「ヒロシマ-原爆の記録」英語版を、世界13か国の主要14新聞社に贈呈。創刊80周年記念事業の一つ。
72 08 06 広島市平和記念館講堂で、原爆記録映画「ヒロシマ-原爆の記録」を一般上映。

 

 

 

論文:原爆記録映画

論文:原爆記録映画

掲載誌 タイトル 著者 所蔵
52 11 15 改造増刊 奪われたスペクタクル-原爆映画始末記 岩崎昶 5
67 08 23 週刊言論 紙上初公開:”幻の原爆映画”の中身 25 3
67 10 01 国際写真情報第41巻第10号 異色対談:つくった・とられた-幻の原爆映画-アメリカからかえってくる 岩崎昶・山中真男 5
67 12 17 サンデー毎日 帰ってきた”原爆映画” 3
67 12 20 週刊言論 ”幻の原爆映画”公開はどうなる? 3
68 02 現代 緊急特集!これが問題の原爆映画全シーンの惨状だ 岩崎昶[責任監修] 5
68 02 現代 これが問題の原爆映画全シーンの惨状だ 岩崎昶・加納竜一・相原秀二 5
68 02 現代 これが原爆映画の残虐シーンだ-23年前の惨状を撮した驚愕の記録 岩崎昶(監修) 35
68 02 自然 科学映画としての原爆映画 田島英三 5
68 04 世界 「原爆映画」の全巻を見る権利について 加納竜一 15
68 05 12 朝日ジャーナル 原爆映画―影の部分 岩崎昶 1
68 05 12 朝日ジャーナル (グラビア)切捨てられた原爆フィルム 1
68 05 12 朝日ジャーナル (読者から)原爆記録映画を見て 田中博文 1
68 06 マスコミ市民 (資料)原爆投下からフィルムの返還・公開まで 1
68 06 マスコミ市民 核時代の戦争報道写真-原爆記録映画から受けつぐべきもの 岡村昭彦 1
68 06 マスコミ市民 特集・原爆映画-いま、よみがえれ“幻のフィルム”! 15
68 07 マスコミ市民 「原爆記録映画全面公開運動」広島でスタート 1
68 08 マスコミ市民 私は「原爆記録映画の完全公開運動」を支持します 1
68 08 マスコミ市民 「原爆記録映画」のたずね人運動進む-全面公開推進会議からの呼びかけ 1
68 08 02 週刊朝日 現地ルポ・生きぬいた23年-原爆記録映画に登場する6人の被爆者たち 5
68 08 09 アサヒグラフ 続「原爆映画」生残った人たち 3
68 09 マスコミ市民 私が作った「世紀の判決」と「原爆映画」 藤波次郎 3
68 10 マスコミ市民10・11月号 原爆記録映画完全公開のために 原爆記録映画全面公開推進会議事務局 3
69 04 広島通信14 原爆記録映画全面公開運動のいきさつ 庄野直美 5
70 03 15 原爆日記・第Ⅰ集 幻の原爆映画 広幡 亨
73 07 20 あさ第9号 返ってきたフィルム 橋本 幸子 15
74 06 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(1) 岩崎昶 15
74 11 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(6) 岩崎昶 15
74 12 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(7) 岩崎昶 15
75 01 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(8) 岩崎昶 15
75 02 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(9) 岩崎昶 15
75 03 文化評論 私の戦後史-占領下の映画政策(10) 岩崎昶 15
84 05 文芸春秋 「幻の原爆フィルム」の旅 工藤美代子 15
84 05 01 文芸春秋 1984年5月特別号:「幻の原爆フィルム」への旅()P426-436:「ザ・デイ 工藤美代子 1
92 02 専修法学論集55.56 占領と諜報-「原爆映画」ファイルと記録映画のゆくえ 古川純 5
93 08 31 証言-ヒロシマ・ナガサキの声1993(第7集) 記録映画「広島及び長崎に於ける原子爆弾の効果」について 井上寿恵男 5