原爆症の調査・研究・治療の再開

原爆症の調査・研究・治療の再開 -原爆医療法前史への覚書-

目次
はじめに
占領下の原爆被害者調査
文部省研究班の発足
文部省研究班の活動
組織的原爆症治療の再開
陳情・募金活動の展開
おわりに

はじめに
原爆被害者対策の歩みについては,すでに『広島原爆医療史』・『被爆者とともに-続原爆医療史』といった業績がある.これらは,広島市原爆障害者治療対策協議会(略称:原対協,のち広島原爆障害対策協議会に改組)の動きを広島市当局および市医師会の動向を交えながら克明に叙述したものである.また,『原爆被爆者対策の歩み-関係者による座談会』は,広島市と市議会の政府・国会にたいする陳情活動を関係者の貴重な証言によって明らかにしている.しかし,これらの業績では,多くの場合前述の動きの紹介にとどまり,こうした動きの相互関連,あるいは医療法制定以後の対策を規定する要因としてのそれぞれの位置づけについて明らかになっていない.
政府により原爆被害者対策が本格的に展開されるようになったのは,被爆から12年後の原子爆弾被爆者の医療等に関する法律(以下,医療法と略称)施行(1957年4月1日)以後のことである.しかし,それ以前にもABCCの開設・戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定・原爆症の調査研究の再開・原対協の設立・原水爆禁止運動の中で展開された原爆被害者救援運動など原爆被害者対策に関連した動きが存在した.こうした動きは,医療法制定の原動力として,大きな役割を演じるとともに,法制定以後の政府の原爆被爆者対策に大きな影響を及ぼした.
小論の目的は,医療法施行以前の動向の中から,原爆症の調査・研究・治療の再開状況について取り上げ,その意義を明らかにすることにある.なお,筆者は,自らのテーマの一つである原爆被害者対策史について,対策の実行者の動向のみの整理では,その片面が明らかにされただけで十分とはいえないと考え,その対象者の動向についても関心を払ってきた.具体的な作業としては,これまで日本原水爆被害者団体協議会初代事務局長藤居平一氏の聞き取り作業および同協議会の資料(広島平和会館資料)の整理をおこなった.その成果の一部は,『資料調査通信』(当資料センタ-資料調査室発行)所収の「まどうてくれ」・「原爆被爆者対策史」などの形で,あるいは『広島新史歴史編』の中で公表してきた.しかし,本格的な整理はまだ十分でなく,小論でもこの点に触れ得なかった.

占領下の原爆被害者調査
1945(昭和20)年9月19日,GHQ(連合軍最高司令部)は「新聞準則」(プレス・コード)を指令した.この指令は,日本におけるアメリカ政府の原爆情報秘匿政策遂行に大きな役割を演じ,日本における原爆症調査・研究・治療の進展ひいては原爆被害実態の普及に大きな制約をもたらした.このことは,これまで様々な形で明らかにされている.
しかし,占領下でも,原爆被害への社会的関心が皆無となったわけではない.たとえば,原爆体験者による詳細な記録が,1948年以降,『絶後の記録』・『長崎の鐘』などの形で公表されている.また,原爆被害者に焦点づけた調査も実施された.1948年6月,諌早市社会課は,「具体的に救済方法を講じるため」「長崎の原子爆弾による被害者の中で,全快はしているが不具者となり,就業も結婚も出来ぬ諌早市在住者の調査」を実施した.また,労働婦人少年局の広島と長崎の出張所も,1948年7月に,原爆による「傷害の程度が特に人目につくものおよび外傷はなくとも内部機能に傷害ある婦女子」の調査を実施した.広島側の結果は不明であるが,長崎側の結果は,つぎのように公表されている.
労働省婦人少年局長崎職員室では去る七月初旬から原爆による婦人傷害者の現状を調査中であったが,このほど調査を完了,次のように発表した.すなわち原爆婦人傷害者百七十八名を対象に調査を進めた結果いまだに全治せず不自由な生活を続ける婦人がこのうち六十八パーセントを占め,これら未治療者達は辛うじて生活を維持出来る程度で,治療費を出して病院通いの出来る患者はほとんど見受けられない実情にあり,「一日も早く無料診療所を作って下さい」とは病床にふす彼女達の切実な願いである.
また一応治ったと紙をつけられた婦人達も労働に堪えられる身体を持っている者は少く,特に顔面その他に火傷を受けた人の中には就職も結婚も断念しているような不幸な婦人も混っており彼女達を救えとの声も高い.
占領下の行政施策の中では,原爆被害は一般的な福祉対策として扱われていた.そうした対策の基礎資料を得るために実施された調査の広島・長崎分の結果も,原爆被害者の占領下における実態を間接的に現している.1948年2月1日には,児童福祉法施行に向け全国一斉孤児調査がおこなわれ,3,725名の孤児が広島県内で確認された.うち,3,269名は未収容の浮浪児であり,地域別では,広島市776名,安佐郡586名,呉市419名,福山地区377名であった.また,長崎県内の結果は,孤児総数2,313名,うち戦災孤児の数は長崎市211名,西彼岐郡76名,大村市72名,佐世保市43名となっている.
1951年以降,広島市は原爆被害者の独自の調査に乗り出した.同年5月には,8月に完成する平和記念公園内の原爆慰霊碑に「七回忌を期して全死没者氏名の名簿を作成し,これを合祀することを目的」とした死没者調査を実施した.これは,県内はもちろん,各都道府県にも協力を呼びかけた全国規模の調査であった.調査の対象者には,原爆により直接死亡した者のみでなく,「その後原爆の影響で死没した」者をも含まれている.また,広島市は,翌1952年1月20日から2月5日にかけて,民間調査員693名(国勢調査員など)を動員した個々面接調査によって,市内の原爆障害者を調査した.この調査により,外科的障害者3,736人,内科的障害者152人,眼科的障害(失明又は視力障害)者132人,耳鼻科的障害(聴力障害)者18人,計4,038人の原爆障害者の存在が明らかになった.
プレスコードによって生じたいわゆる「原爆タブー」が,第一義的には,GHQによる原爆検閲の問題であることには異論はない.しかし,前述のような原爆被害実態調査の存在は,「原爆タブー」が,日本側の原爆実態解明の意志の有無の問題としても明らかにされる必要性を示している.

文部省研究班の発足
広島・長崎両市に投下された原子爆弾によって発生した被害については,1945(昭和20)年9月に組織された文部省学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会が,日本の学会の総力を挙げた調査・研究を実施した.しかし,この体制は,約3年間で終息し,以後日本の科学者による組織的研究は途絶えていた. 一方,アメリカは,医学的立場から長期にわたる調査研究を計画し,1946年11月26日のトルーマン大統領指令にもとづいてABCC(Atomic Bomb Casuality Commission)を組織した.日本におけるABCCの本格的調査活動は,1948年2月の遺伝学的調査から着手され,広島・長崎両市の全妊産婦の登録が試みられた.当時,妊婦には政府による食糧の特別配給が認められていたので,その増配申請がおこなわれる機会に,職員による面接調査を実施し,1953年12月までに77,000名(全妊婦の93%)の登録を完了している.また,1949-50年には,48年の広島市米穀配給台帳に被爆者として記入されている全員の家庭訪問を実施し,181,000名の被爆歴を入手した.さらに,1950年10月1日に実施された国勢調査に際し,ABCCは,その付帯調査として,被爆者の所在調査を全国的規模でおこない,284,000名の被爆者を把握した.
一方,日本側でも,1951年暮頃から,病理学会・血液学会・放射線医学会などでは,各々の立場から放射線傷害対策委員会を設けて総合研究に着手する動きがあり.「有志の間で,この際再び原子爆弾災害調査研究の統合機関を設けてはとの話合が進められていた」.こうした動きに呼応して1952年4月19日,日本学術会議は,原爆被害調査の再開を決定し,研究班の結成を企画した.この企画の内容を,当時の新聞は,「原爆障害と取組む日本医学 ナゾの解明,引受けた 米医学団からバトン渡る」との見出しで,つぎのように報じている.
この研究は約十五万と推定される原爆傷害者をはじめその配偶者および子を対象として行い,特に原爆の父・母から生れた子供の体質を綿密に調査,禍根の根絶を期する.このため全国の調査網は京大・九大・長崎・広島・鹿児島・熊本の各医大によって張られ,発足と同時に原爆患者の無料診察を開始,また病死者の解剖を要請,二十八年一ぱいまでに第一次調査を完了,この資料から”原爆体験者は早死にし易い”といわれる原爆病の究明に乗出す.
(中略)
一方原爆傷害者は表面は健康体に見えても発作的に疲労状態に陥って執務不能になるもの,睡魔に襲われるものなど異常症状から脱し切れず,原爆のしぶとさは七年後の今日も衰えず日本医学が解決せねばならぬ課題となった.
この記事は,講和条約発効(1952年4月28日)を目前に控えた日本の学会に存在した原爆被害に対する強い関心を生き生きと伝えている.また,この記事は,「この研究は世界人類のため役立つものであり,またアメリカがこれまで尽力した研究を引継ぐわけなので当然助成されると思う」との中西文部省研究助成課長の談話を掲載しており,研究班の設置が,ABCCの研究に替わるものとして企画されていたことを示している.
しかし,日本側の研究再開の契機には,こうした日本側の事情とともにABCCの働きかけもあった.この企画の中心にあった都築正男は,草稿「科学研究費交付金総合研究計画調書丙(昭27)」の中で,その事情を,つぎのように述べている.
最近広島ABCC Tailer所長より学術会議亀山会長宛に本研究への協力申入れもあり,日本側としても中絶していた原子爆弾災害調査研究に関する総合研究再開の必要性が痛感されている.
ABCCは,1951年から講和条約発効後の研究継続のためのさまざまな方策を講じていた.2月にABCCの所長(Field Director)を武官(Lt.col.Darl F.Tessmer)から文官(Dr.Graut Taylor)に変更したのは,その手始めといえるものであろう.同年末には,GHQ外交局を通じ,条約発効後のABCCの日本における地位について外務省との折衝を開始,同時に日本人医師・研究者との接触にも乗り出した.12月9日,広島医師会館でABCCの原爆影響研究発表会(主催は広島医学会)を開催,引続き1952年1月26日には,東京大学医学部でABCC調査事業報告会(主催は日本学術会議)をおこなっている.前掲都築の「調書」にある学術会議への研究協力の申し入れは,この前後になされたものである.
日本学術会議は,「原子爆弾災害調査研究」という課題名で文部省に対し科学研究費の申請をおこなった.都築正男の手書きの計画草稿によれば,この研究班は,塩田広重(代表者,日本医科大学学長)のほか中泉正徳(東京大学医学部放射線科)など19名の班員で構成されていた.しかし,実際にはつぎの28名の班員で発足した.
(東京大学医学部)中泉正徳・三宅仁・羽田野茂・中尾久・   筧弘毅・[都築正男]
(京都大学医学部)菊池武彦・天野重安
(九州大学医学部)操坦道・小野與作・入江英雄
(広島医科大学)渡辺漸・[河石九二夫・浦城二郎]
(広島官公立病院)[蜂谷道彦(広島逓信病院)・黒川巌 (広島県立病院)・重藤文夫(日赤広島支部病院)]
(長崎大学医学部)和泉成之・調来助・広瀬金之助・林一郎
(熊本大学医学部)河北靖夫・亀田魁輔
(鹿児島大学医学部)桝屋富一
(名大医学部)日比野進
(厚生省)[小谷新太郎(厚生省公衆衛生局)・槙弘・永井勇(予防衛生研究所)]
このうち,[]内は,計画草稿には見られなかった班員である.発足にあたり,広島と厚生省の関係者が補強されたことを示している.これは,都築によれば,ABCCの研究の世話係をしている予防衛生研究所および「従来からの関係で引続いて研究している」「赤十字社広島支部病院,広島県立病院,広島逓信病院」に対する「特別の考慮」の結果であった.
また,都築は,文部省研究班の運営について,つぎのような方針を明らかにしている.ここには,1947年7月,GHQの指令により原爆症研究の中断を余儀なくされた都築の研究再開に当たっての心意気・矜持を読み取ることができる.
1)本研究班は今後我邦学会独自の立場で運営せられるべきこと.
2)本研究班は今後我邦に於ける原子爆弾災害調査研究の権威ある機関として存在し,既存研究団体間の統合連絡機関として活動するように運営せらるべきこと.
3)本研究班は予防衛生研究所を通じ,アメリカABCC研究所とは常に密接な連絡をとり,相互に協力し得るように運営せらるべきこと.

文部省研究班の活動
広島医科大学では,この研究班への参加が,原爆症研究出発の呼び水になった.1952(昭和27)年8月から大竹市に居住する被爆者の健康診断を実施するとともに,同年9月には,つぎのような同大学の研究構想を作成した.
1)(大谷・小沼・田中教授)被爆者に於ける原爆被爆就学児童の肉体的並びに精神的発育異常に関する研究
2)(柳原・田淵・玉川・渡辺・田中教授)被爆者に於ける生殖能力に関する調査並びに研究
3)(田淵・大谷・玉川・渡辺教授)被爆者を父母として生まれたる新生児及び流産児に関する研究
4)(塚本・百々教授)被爆者に於ける感覚器の病変の研究
5)(小沼・鈴木・玉川教授)被爆者に於ける中枢神経の障碍に関する研究
6)(玉川・河石・上村・柳原教授)被爆者に於けるケロイドに就ての研究
7)(浦城・和田・大谷・渡辺教授)被爆者に於ける白血病に関する研究
8)(河石・上村・玉川・渡辺教授)被爆者に於ける腫瘍に就いての研究
9)(河石・上村・浦城・和田・大谷・玉川・渡辺教授)被爆者に於ける恒久的病変に関する研究
10)(西丸教授)原爆被爆による白血球数の動揺に 関する研究
「従来の関係から引続いて研究をしている」長崎大学医学部でも,「昭和28年8月より長崎ABCCと協同して爆心地から2粁以内で被爆者8,000名を対象として血液像の検査を開始」し,54年には7,200名の検査を完了した(影浦尚視の1953・54年度報告).
広島・長崎両大学以外では,1953年に,京都・名古屋・鹿児島の各大学が,被爆者の調査・研究を開始し,つぎのような活動をおこなった.
京都大学「広島ABCC保管の被爆者名簿から,京都および大阪府,三重,奈良,岐阜,福井,島  根,香川,高知,愛知県に居住する被爆者約12,000名の氏名と現住所を調べ,その中,健康相談を希望するもの約1,800名を対象として,教室ならびに地方の関係大学および病院と協力して臨床的検査を実施し」,1954年までに577名の検査を完了(菊地武彦の1953・54年度報告)
名古屋大学「広島ABCCの被爆者名簿により,知り得た東海5県(愛知,岐阜,三重,静岡,長野)の被爆者2,352名中健康診断希望者451名あり,その中210名に就いて調査」(日比野進の1954年度報告)
鹿児島大学「ラジオ,新聞により鹿,宮両県民に訴え両県下3,028名の被爆者に受診を要望したが28年度は57名を検査」,「29年度は戸別訪問的調査を計画したが果たさず,自発的受診のみで僅かに9名」(桝屋富一の1954年度報告)
このように,研究班の発足は,特定の地域での悉皆的な調査の契機になった.その際,ABCCの資料が利用されていることも注目される.しかし,その財政的裏付けは,ABCCのそれに比較して微々たるものであった.交付金は,初年度の1952年が140万円,53年が216万円,54年が144万円で,3カ年分を合計しても500万円に過ぎなかった.「金額として500万円(1人当り25000-3000円)が外科方面の治療にはかかる」との班員の発言(1953年6月に長崎大学で開催された班会議での同大調来助の発言)に対する都築正男の回答は「予算が少なすぎる.同情を除いて本当に必要なだけ充分」と答えざるを得ない有様であった(都築メモによる).大学によっては研究活動が,研究班の枠を超えて,独自に展開されたものと推測される.
研究班は,自らの成果を,初年度において,血液疾患(特に白血病)および熱傷・外傷後遺症(ケロイド)に関し大凡の知見を得,2年度には,調査を軌道に乗せ,全体の2カ年半の期間に,「原子爆弾被爆者後遺症の様相はほぼ明らかにすることが出来,その成績はそれぞれ,治療指針におりこんで,傷害者の治療対策実施に貢献している」と総括している.
この研究班の活動は,当初,4カ年の期間で計画されていた(前出の都築「計画草稿」).しかし,3カ年で一応終了し,1955年度からは,広島の官公立病院関係者と厚生省関係者を除き,大学関係者のみで継続されることになった.

組織的原爆症治療の再開
1951(昭和26)年12月9日,広島医学会は,広島医師会館でABCCの原爆影響発表会を開催した.国内初のABCCの業績発表会は,広島医学会が,前年の50年10月以降,準備を整えたといわれる.1947年以後の組織的原爆症研究の空白の中で,手探りの治療・研究を続けていた医師・医学者にとっては,待望の会であったことであろう.この会合には,全国から来広した諸学者を交え広島医師会館の講堂の空席なきまでの参加者があった.この会の開催で学界における「原爆タブー」を打ち破った広島医学会は,翌1952年2月の第4回総会を,日本人による原爆研究発表会の第1回たらしめようと企画し,国内へ広く招待状を発送した.原子爆弾に関する会員の研究発表会は,総会第2日目の2月17日におこなわれた.ここでは,被爆直後の調査結果の5年ぶりの報告,当時の被爆者に多発していた白血病の症例紹介など15人の発表がなされた.こうした広島の動きは,文部省研究班の発足に先行するものであった.
1952年には,広島市当局が,原爆障害者に被爆直後から接し続けていた広島の医師たちの協力を得て,組織的な対応を開始した.その直接の契機となったのは,「原爆乙女」の上京治療であった.同年6月10日,9名の「原爆乙女」のケロイドの診断が東京大学附属病院小石川分院で実施されるや,「在京有識者の間に異常な衝動と同情をまき起こした」.さらに,12月9日には,13人の「原爆乙女」が上阪,大阪大学と大阪市立大学の附属病院で受診した.こうした広島での動きは,翌年には長崎に飛火し,1月20日,長崎の「原爆乙女」3名が上京した.
広島市当局や市内の医師たちのこうした動向への対応は,すばやいものであった.広島市社会課が,2週間後に,同年1月の原爆障害者調査で把握した障害者約4,000名の治療費の全国募金運動を発表,また,7月1日から15日にかけ,市内45カ所の外科医院と診療所において,約4,000名を対象とした無料診療を実施した.この調査により,1,405名の治療による回復の可否状況と必要な治療費が明らかになった.それによれば,治療による完全回復可能な者214名,ある程度まで回復可能な者467人で,その治療に要する費用は304,100円であった.
文部省の研究班に参加していた長崎大学と広島医大でも,無料診療を開始した.長崎大学の調来助は,同研究班の活動として,8月20日から800名の被爆者に対する障害調査を開始,9月18日には,長崎市長および市議会議長と被爆者の援助体制について協議した.広島医大も,同年12月27日に,「治療だけならわざわざ大阪や東京などに沢山の費用をかけてゆかなくても大阪東京でできることはもちろん広島でもできる」(附属病院長柳原英談)と広島市に原爆症患者の無料治療を申し入れている.
以上のような動向を背景として,広島市は,医師会・市議会などとの連絡協議の結果,1953年1月13日,広島市原爆障害者治療対策協議会(略称:原対協)を発足させた.原対協は,18日,初の具体的事業として,市民病院で診察をおこなった.診察には,前年末無料診察を申し入れた広島医大の15名を中心に市民病院の医師6名が従事した.対象者は,前年7月に広島市が医師会の協力のもとに実施した一斉診察のカルテの中から選定した139名であったが,このうち75名が受診した.広島医大は,8月10-12日にも,文部省の研究班の活動の一環として前年同様,大竹市において240名(前年は278名)の全科検診を実施した.なお,長崎では,5月14日に原対協が発足した.
厚生省は,予防衛生研究所(略称:予研)を通じて,1947年6月以降,ABCCの研究に協力していたが,独自の取り組み調査はおこなっていなかった.しかし,1952年に入ると,被爆者に関心を示し始めた.文部省研究班の第1回会合(1952年9月29日)において,予研の永井勇は,1950年の国勢調査に付帯して実施されたABCC調査の結果に触れ,「この資料を如何に整理して健康管理を実施すべきか,近く実施案作製の予定である」と述べている.この動きは,厚生省による1953年度予算への原爆調査研究費100万円の計上に結実した.さらに,厚生省は,10月には,原爆症調査研究協議会(略称:原調協)を設置することと身体障害者福祉法を改正して,傷痍軍人・軍属に適用されている厚生医療保護の対象に原爆傷害者を加える方針を明らかにした.後者のその後は不明であるが,前者は,11月17日に実現した.同日に予研で開催された第1回協議会では,治療基準の作成を目標として,とりあえず治療指針を起草することなどが決定された.第2回会合は,1954年2月17-18日の両日,広島医師会館で「原爆症の治療に関するシンポジウム」とともに開催された.
1953年は,広島・長崎両市においては,原対協という原爆症の治療組織が,また,厚生省では,原調協という治療方法研究組織が生まれた画期的な年であった.前年に組織された文部省研究班とあわせて,三つの原爆症の調査・研究・治療体制が出現したわけである.
ところで,これら3者の主な構成陣容と目的は,文部省研究班が,学術会議による原爆の影響調査,原対協が,広島長崎両市と医師会による原爆障害の研究治療対策の推進,原調協が,厚生省による原爆後遺症の治療方法の究明となっている.また,当初の構想における対象者の設定もそれぞれ異なるものであった.文部省研究班の場合,発足前の構想では,前述のように約15万の原爆傷害者とその配偶者・子供までも調査の対象とする大規模なものであり,原対協は,治療の必要な原爆障害者を,広島市関係6,000名,長崎市関係2,900名と推定,厚生省の場合,広島・長崎両県237,810人の被爆生存者のうち3,000人以内を調査対象としている.
しかし,各構成陣容は,交互に重なっており,実施に当たっては,相互の協力関係が配慮された.1953年12月14日付の予研の「昭和28年度原爆症治療方法に関する研究実施要領」では,「国立予防研究所広島,長崎両支所を中核として,広島,長崎所在の医療機関の協力を得て」おこなうことが,実施方法に明記されている.また,予研の永井勇は,文部省研究班の第2回会議で,「国としては原爆患者のみを特別に治療すること」はできないとの理由から原爆調査研究費の治療費としての使用を否定していたが,1953年度予算100万円の24万円余が広島市原対協に割り当てられた.

陳情・募金活動の展開
広島・長崎両市当局および議会関係者の間で,原爆被害者に対する関心が高まってくるのは,1951(昭和26)年末以降のことである.両市の関係者は,1949年の広島平和記念都市建設法・長崎国際文化都市建設法の両法制定以後,都市建設促進を目的として交流を重ねていた.そうした会合の一つである1951年11月9日の広島長崎両原爆都市協議会(広島市で両市議会関係者が会合)では,「戦没者家族援護費国庫補償に関連しとくに原爆両都市戦災者の援護強化促進」などが審議されている.この会合で設置が決定された広島長崎特別都市建設期成委員会は,第5回会合(1952年7月2日-3日,広島で開催)で,つぎのような特別都市建設促進案をまとめた.
[両市建設事業促進の財政措置](略)
[建設事業促進のための政府の措置](略)
[原爆犠牲者に対する援護救済]
▽原爆遺家族援護の対象範囲の拡大および援護措置の強化
▽犠牲者の救済施設(孤児,老幼,未亡人らを収容救護するための諸養護厚生施設)設立の ため国の内外にたいする共同募金の様式による募金事業の実現
▽原爆による預貯金,公債などの焼失者にたいする国庫ならびに銀行などの債務の弁済
▽外国資金による被爆者の治療機関の設立(ケロイド患者の治療,ABCCとの併置)
また,1952年8月4日に,長崎で開催された同委員会では,任都栗委員長(広島市議会議員)が,「アメリカはケロイド症状に悩む原子病患者をネズミかモルモットぐらいにしか考えていない,単なる研究資料として取扱っているが治療機関を設置すべきでアメリカはその責任がある」と発言,中村長崎特別委員長も会議後の談話でつぎのように述べた.
惨殺行為が国際法で禁止されていたにかかわらず,アメリカは一しゅんにして幾万の非戦闘員の生命を奪ったのだから,このつぐないは当然負うべきである,われわれはこのむねの申入れを広島とともに講和締結前,米極東軍司令部の民事部たいし行ったが,講和前であり公にされなかった,原爆による損害の請求をアメリカのよろんに訴えるのはわれわれの権利である
これらの発言の中には,ABCCの調査のやり方への批判とともに,アメリカの原爆投下は国際法違反との立場からアメリカによる原爆障害者の治療責任を問うという,二つの要素が見られる.いづれも占領下では表面化しなかった点である.このうち後者は,治療の必要性の主張に新たな根拠を提供するものであった.この点は,1953年には,原爆損害賠償請求訴訟の動きとして,広島・長崎両市議会関係者とは別に独自の展開を始めた.一方,前者は,1955年に「原爆乙女」の渡米治療という意外な展開を遂げる.
この外,1953年7月には,広島・長崎両市長および議長が連署で,「原子爆弾による障害者に対する治療援助に関する請願」を国会におこない,衆議院では8月3日,参議院では8月6日に採択された.これは,原爆障害者についての被爆地からの初めての請願であった.また,同年8月には,中央共同募金会が,広島・長崎両市の原対協会長(各市長)の申請に応え,8月1日から10日間,「原爆障害者NHKたすけあい旬間」を実施した.それまでにも,「原爆孤児」・「原爆乙女」という特定の原爆被害者に対する募金は,国内外を対象に呼びかけられてはいるが,原爆障害者を対象としたものは,これが初めてあった.全国から5,088,000円の募金が寄せられた.

おわりに
以上見たように,講和条約が締結された1951(昭和26)年9月からビキニ水爆被災事件が発生した54年3月までの期間に,その後の原爆被害者対策に大きな役割を果たすさまざまな団体・組織あるいは運動・活動が生まれた.たとえば,文部省の研究班は,1958年からは「原水爆被害に関する総括的研究」班として60年まで継続し,その総括として「現在の組織を何等かの形で残存させ,ますます相互の連絡を密にして日本独自の調査研究を進める必要性がある」と述べた.広島大学原爆放射能医学研究所(1961年4月)・長崎大学医学部附属原爆後障害医療研究施設(62年4月)は,この必要性に応える機関として発足したものである.また,厚生省の原調協は,原爆医療法の制定にともない,原爆医療審議会に形を代え,その役割を継続している.この期間に見られる広島・長崎両市と議会関係者の陳情活動は,組織的に直接の継続性はないものの,1967年11月に設置された広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会(通称:八者協)の源流ということができよう.また,1953年8月の「原爆障害者NHKたすけあい旬間」は,60年代後半から活性化する原爆報道の先駆と位置づけることができる.
一方,ビキニ水爆被災事件以後原爆医療法の成立に大きな役割を果たした団体・組織で,この時期にまだその姿を明瞭に現していないものも,いくらか存在する.原爆被害者対策の受け手である被害者団体は,その一例である.この時期までに,広島市連合未亡人会(1949年9月20日)・原爆乙女の会(51年8月27日)・原爆の子友の会(52年1月17日)・原爆被害者の会(52年8月10日)・広島子供を守る会(53年2月22日)などの団体が誕生しているが,いづれも大きな広がりを得ることができなかった.原爆被害者団体が,大規模に組織され,単に対策の受け手としての存在としてではなく,自立した独自の存在として社会的な影響力を持つようになるのは,ビキニ被災事件以後のことである.
この期間の一般社会の原爆被害者への共鳴状況も,ビキニ以後とは大きく異なっている.たとえば,1956年の原爆の子の像建設募金では,「原爆障害者NHKたすけあい旬間」の募金額(509万円)を越える額(607万円)が,全国的なマスメディアによってではなく,広島の子どもたちの手で集められている.この募金の目的は,原爆症によって死亡した級友の死を慰めようということにあったが,両者の募金額の差は,目的の違いというよりも,社会の原爆被害者に対する共鳴の成熟度の違いとして理解すべきものと思われる.
政府が,原爆被爆者対策を自らの責任として開始するまでには,ビキニ水爆被災事件以後の原水爆禁止運動を中心とする新たな展開が必要であった.

典拠・参考文献
1)財団法人広島原爆障害対策協議会編・刊『広島原爆医療史』(1961年8月)
2)財団法人広島原爆障害対策協議会編・刊『被爆者とともに-続広島原爆医療史』(1969年8月)
3)広島市衛生局原爆被害対策部調査課『原爆被爆者対策の歩み-関係者による座談会』(1988年8月)
4)広島大学原爆放射能医学研究所附属原爆被災学術資料センタ-資料調査室『資料調査通信』第5号(1981年12月)~第29号(84年1月)に10回にわたり紹介した.
5)『資料調査通信』第55号(1986年7月)~第78号(89年4月)に11回にわたり紹介した.
6)広島市編・刊『広島新史 歴史編』(1984年11月)
7)最近の業績としては,モニカ・ブラウ『検閲1945-1949 禁じられた原爆報道』(時事通信社,198  8年2月),『ヒロシマの「史点」-占領下の原爆文献考』(「中国新聞」1986年6月30日~8月12日  30回連載)があるが,なお,解明の必要な分野である.
8)『資料調査通信』第82号(1989年9・10月号)所収の「原爆手記掲載書・誌目録」
9)「長崎民友」1948年6月24日
10)「中国新聞」1948年7月24日
11)「長崎民友」1948年9月23日
12)「中国新聞」1948年2月28日
13)「長崎日日新聞」1948年3月3日
14)広島市役所「広島市原爆による死没者調査についての趣意書」
15)「中国新聞」1952年1月19日.なお,この記事によれば,この調査は,戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952年4月30日公布)の対象者に軍命令により出動した動員学徒・徴用工員・女子挺身隊員・国民義勇隊員などを加える運動の基礎資料を得るための調査に,補足的に実施されたものであった.
16)広島市原爆障害者治療対策協議会「原爆障害者治療対策の概要」
17)広島市編・刊『広島新史資料編Ⅰ都築資料』(1981年3月)
18)『ABCC年報1961年7月1日-1962年6月30日』
19)ABCC業績報告集1-60『原子爆弾被爆生存者に見られる放射線照射の遅発的影響』
20)ABCC業績報告集12-68『ABCCの主要調査標本』
21)都築正男「原子爆弾災害調査研究班に就て」
22)「毎日新聞」1952年4月20日
23)当時は県立で呉市に所在した.1953年8月国立移管され,57年9月広島市の現在地に移転を完了した.
24)広島大学原爆死歿者慰霊行事委員会『原爆と広島大学-「生死の火」学術篇』(1957年9月)
25)「広島医科大学の原爆調査研究課題 昭和27.9.29受」(都築資料)
26)「原子爆弾災害調査」(『昭和27年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収).以下この項は,これと『昭和28年度』・『昭和29年度』・『昭和30年度』の各版による.
27)「広島医学」第5巻第5・6号
28)1952年4月にも日本血液学会総会で「放射線並に原爆障碍に関するシンポジウム」が開催されている.
29)「中国新聞」1952年6月26日
30)「中国新聞」・「長崎日日新聞」など各紙の報道 による.
31)「中国新聞」1952年6月26日
32)「中国新聞(夕刊)」1952年7月21日
33)「長崎日日新聞」1952年8月27日
34)「長崎民友」1952年9月19日
35)「中国新聞」1952年12月28日
36)「原子爆弾災害調査」(『昭和28年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収)
37)「原子爆弾災害調査」(『昭和27年度文部省総合研究報告集(医学薬学編)』所収)
38)「東京新聞」1953年1月22日
39)「中国新聞」1953年10月14日,11月7日
40)『予防衛生研究所年報』1953年度版
41)広島長崎両市原対協会長が中央共同募金会会長に提出した申請書(1953年6月2日)による.
42)「原子爆弾災害調査研究班第2回会議記事」(都築資料)
43)「中国新聞」1951年11月10日
44)「長崎日日新聞」1952年7月8日
45)「長崎日日新聞」1952年8月6日
46)松井康浩『原爆裁判』(新日本出版社,1986年8月)
47)中条一雄『原爆乙女』(朝日新聞社,1984年3月)
48)「原水爆被害に関する総括的研究」(『昭和35年度文部省総合研究報告集)』所収)

歴史資料管理委員会(放影研)

歴史資料管理委員会(放射線影響研究所)(歴史懇話会を含む)

開催年月日 備考
1 20110704
2 20111219
3 20130418
歴史懇話会(第1回) 講師:岡本義夫元長崎研究所事務部長https://www.rerf.or.jp/uploads/2017/09/historyforum01j.pdf
4
5
6
7
8
9
10 20170713
歴史懇話会(第8回) 話し手:土手盛人元疫学部次長
11 20171227

 

放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」

財団法人放射線影響研究所年報に見る放影研の「国際化」

号(年度) 内容
75-78 山下久雄理事長「緒言」「研究所の名称で、放射線影響学会及び日本学術会議よりクレームが出されていました」

「吸血鬼とか、禿鷹のような異名まで付けられ、比治山で睥睨[へいげい=周囲をにらみすえて威勢を示すこと]しているのはけしからん、早く山より下りて、もっと被爆者の福祉につながる仕事をしろというような声が高くて、それを打ち消すのにもかなりの期間と隠忍自重と努力とを要しました。」

85-86 第13回放影研専門評議員会議事録(昭和61年3月18日-20日)非公開会議

「その第1は、調査対象となり得る被爆者の数が徐々に減少しているという自明の事実であった。この事実により、放影研の将来を検討しなければならない問題が生じてくる。放影研は、その使命が次第に終結に近づくにつれて、厚生省が支援する他の団体に吸収合併されれば理想的である。言及されたように、加齢研究所が設立されれば、放影研はそこに同質の棲家を見いだすかもしれない。日米双方の専門評議員がこの問題の対策をたてられるように真剣に取り組む必要があるという点で意見が一致した。」

86-87 重松逸造理事長「緒言」「昭和61年度における重要ニュースの一つは、4月に突如起こったソ連Chernobyl原子力発電所の爆発事故である。これに関連して、昭和62年1月11日から21日まで5名のソ連視察団が日本に派遣され、その一行は1月13日と14日の両日放影研の調査研究を見聞するために来訪した。広島・長崎の長年にわたる協力によって得られた当所の経験とデータは、原発事故被害者の保健福祉に役立つものと確信しているが、これはまた被爆者各位の御意向に沿うものと考えている。」
87-88 重松逸造理事長「緒言」「現在、放影研で進行中の研究課題は67件あり、そのうち29件(43%)が実験研究である。20年前に実験室研究が占める割合は10%に過ぎなかった。」
88-89 J.W.Thissen副理事長「緒言」
「本年報で報告の対象となっている昨年度は、放影研の学術活動が極めて盛んに行われた記念すべき年であった。[中略] 世界の舞台において増大しつつある放影研の役割の一つに「国際化」がある。外国からの来訪者が増加しているばかりでなく、放影研の科学者に対し、世界保健機関、国際放射線防護委員会(ICRP)、欧州共同体委員会などの国際的機関が主催する活動への参加依頼が増加している。この原因の一端は、1986年のソ連Chernobylの原子炉事故と、ソ連における医学的追跡調査研究計画を作成するにあたり放影研をモデルにしていることにあるが、より大きな原因は、ICRPや国連科学委員会(UNSCEAR)等の機関の報告書や勧告に繰り込まれている人体に対する放射線リスクの測定に関する当研究所の所見の重要性が認められていることではなかろうか。」
90-91 重松逸造理事長「緒言」「最近では、当研究所で調査・研究してまいりました後影響の問題が重要視され、WHO(世界保健機関)、IAEA(国際原子力機関)などの国際機関のほか、日ソ政府間協力事業を通して協力が要請されております。」

「国際協力」の項「放影研は、1979年に世界保健機関(WHO)の「放射線の人体影響に関する研究協力センター」に指定されている・・・」

「ソ連政府は、Chernobyl事故の健康影響についての科学的調査を国際原子力機関(IAEA)に依頼し、これを受けてIAEAは各国の専門家で構成された諮問委員会を組織し、重松逸造理事長がその委員長に任ぜられた。」
「日ソ両政府の間で1990年9月にChernobyl原発事故被害対策で協力することに合意し、それに基づく日ソ専門家会議が1990年12月に東京で、続いて1991年3月4-5日の両日、Moscowで開催された。重松逸造理事長は日本政府派遣専門家(9人)の団長としてこの会議に出席し、長期的な健康被害疫学調査に関する日本政府の協力内容の細部についてソ連専門家と協議した。」
「広島県が中心となって、人類初の原爆被爆地の使命として、世界各地の放射線被爆者の医療援助に資するため、県、市、医療・研究機関が参加して「放射線被曝者医療に関する国際協力検討委員会」を設立することになり、重松逸造理事長がその会長に選任された。原爆後40数年の経験について世界各国から情報提供、助言、医療面での援助などの要請が数多く寄せられており、関係各機関や行政が連係をとりながら、窓口を統一してより効率的に対応するための協力体制を検討することが目的であり、放影研も大きな役割を果たすことが期待されている。」

1991年4月、被曝者医療国際協力推進協議会(HICARE)発足。

ひろしま復興・平和構築研究会

ひろしま復興・平和構築研究会 2012年8月3日(第1回編集委員会)

主催:国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会
事務局:広島県地域政策局平和推進プロジェクト内

編集委員:石田雅春、石丸紀興、宇吹暁、川野徳幸、小池聖一、永井均、西本雅実、平岡敬、水本和実

報告書『広島の復興経験をいかすために―廃墟からの再生―』(国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会<広島県・広島市> 2014年3月刊)

 

「ひろしま復興・平和構築研究事業成果発表会」
日時:2014年10月11日 13:30~16:40
主催:国際平和拠点ひろしま構想推進連携事業実行委員会

発表講師
安藤福平、石丸紀興、伊藤敏安、千田武志、宇吹暁、卜部匡司、川野徳幸、水本和実

 

 

原子放射能基礎医学研究施設設立について

原子放射能基礎医学研究施設設立について
『広島大学原子放射能基礎医学研究施設年報 第1号 昭和35年』
原子放射能基礎医学研究施設設立について
広大医学部長 渡辺 漸
広島大学医学部原子放射能基礎医学研究施設が正式に成立したのは昭和33年4月1日であり,その実際的の発足は同年秋となったが,その成立に至るまでの経過の概略に就て述べたい.
我々の医学部の前身であった県立広島医科大学では放射線医学の重要性を河石学長が強調されアイソトープ委員会もすでに昭和28年には構成され、アイソトープ研究室も広の附属病院構内に同じ頃に新築されたのであって,我が原基研の前身はすでにこの頃出来たと言ってもよかろう.しかし具体的に放射能医学生物学研究所の構想が出来たのは昭和29年の春,我々の医学部が国立に移管した翌年の事であった.この年の3月にビキニ水爆実験に伴う福龍丸の放射l能灰の被曝があって放射能の人体に及ぼす影響に就てにわかに世人の関心が高くなって来た時期である.
昭和30年度の概算要求に広大放射能生物学研究所の設立案を提出しようではないかとの考えが医学部内で強〈なり,それは理学部の協力が必要であるとの理由で、昭和29年6月3日の午後3時30分から阿賀の医学部会議室で当時の藤原理学部長,川村智治郎教授,品川睦明教授の3名を招き,当方からは河石学部長,浦城教授,沖野事務長と私の4名が出席して会合を開いたのがそもそもの初めてある.その時には研究所の設立だけでなく,広大放射能研究委員会の創設の案も席上の話題となった.この時に出来上って30年度の概算要求として提出された案は総経費479,000,000円(初年度151,000,000円)3ケ年完成の計画であって,基礎的研究,生物学的研究及び医学的研究の3部が更に13の部門に分れており,その各々に教授1,助教授1,助手3,その他66名、合計131名の職員があると言うので,当分は現在の霞町の医学部の建物の中に一棟を当てるが、将来は大学隣接地に鉄筋4層1900坪の建物を約2億円で新営するとの規模宏大な案であったが、文部省の省議も通過し得なかった.
その翌年即ち昭和30年には昭和31年度の新規概算要求として広大放射線基礎医学研究所としての案を提出したがこれは前年度に比べて可成規模が大きくなり,総予算733,700,000円(初年度148,000,000円)であって,物理,化学,生物,遺伝,診断,治療,障害の7研究部があり,これが更に17室に分れておるので,多くの研究部は2~3の研究室から構成されている.職員mp前年度要求よりは増えて165名となっているが,助教授を各研究室に置いたので17名とし,雇員、傭人の数を増しているのがその主なものである.建物は初めから新営として2590坪の鉄筋となっておるが,初年度の人員の要求を前年の73人に比して25人と縮少したのが目立つ点であった。然しこの案も結局は日の目を,見ずに終わった.
当時文部省はそれ自体として放射能生物学医学研究所を設立したい希望があり,その構想は大体我々が立案したものに近かいようであるとの情報があったが.厚生省もまた類似の構想を持ち他の省にも似たような希望があつたのだが各省で各々こうした同じような研究所を持つ事はよくないと言うので結局は科学技術庁直属の現在の放医研の誕生を見るに至ったと言う風に伝えられている.現在の放医研の物理,化学,生物,生理病理,障害基礎,環境衛生,臨床の7研究部23研究室の機構が我々の当初の案に甚だ似ておる点を見ても我々の構想が決して単なる空想でなかった事はよく分ると思う.こうした経緯で放射線の生物学医学研究所は恐らくは放医研だけに絞ぽられて行くであろうと言う見通しが強くなったので,当初の研究所と言う構想を我々は捨てて昭和32年度の概算要求には医学部原子放射能基礎医学研究施設として,予算61,700,000円、教授5,助教授5,助手12,その他10,合計32人で,生理学,病理学,生化学,薬理学及び細菌学の5部門に分れ,霞町の現在の校舎の一棟260坪を補修して使用する計画を樹てたが,完成は3年である点は以前と変りない.この案 は可成り本省でも注目されたが結局は翌年に持ち越さざるを得なかった.
斯くして昭和33年度の新規概算要求として総経費51,700,000円,2部門計17名の職員から成る計画が出来て,それが昭和33年度に1部門だけ認められ,更に昭和34年度に更に他の1部門が承認されて,一応計画の完成となったのである.この間大学院設置の要求などがあり,本研究施設の要求を第一義的に考えて行く事が出来ず,絶えず大きな困難に直面していたのであったが,本省側のたえざる好意と森戸学長以下大学当局の絶大の援助と,また他学部からの熱烈な支持があったからこそ今日の成果を収め得たのであり,また顧みて,歴代学部長以下我が医学部の関係職員の多年に亘る労苦を忘れることは出来ないのである.この機会に河石,西丸,鈴木の元学部長,及び田淵昭教授及び小山豪教授の名を特に挙げてその多年の尽力に対して感謝の意を表したい.
しかし我々多年の要望は本研究施設の成立によって充たされたわけではないので,一昨年春以来,理学部,工学部及び水畜産学部の関係の方々とも数回に亘り会合して意見の交換を行った結果,広島大学に原子核放射能研究所の実現を計ると言う点で一致した結論に到達した.それが為にはすでに発足した本施設を育成しつつこれを発展拡張せしめ次第に所期の目的に到達するのが適当であるとの意見が多かった.従って我々は今後たゆまざる努力と熱情とを以って一歩一歩所期の目的に近づいて行きたいのであって,かくてこそ本研究施設の成立の意義も充分にあるものと考えられる.

原爆資料館への加害展示問題

原爆資料館をめぐる情勢

年月日 事項
890701 広島国際会議場、開館。
910801 広島市の平和記念資料館(原爆資料館)、新装開館。
9210 長崎市、長崎国際文化会館(原爆資料センター)の建て替え基本設計を公表。
9303 広島市、平和記念館の展示物の検討を開始。94年6月新装開館。
940401 広島市、平和行政組織を改組。平和記念館の平和記念資料館への吸収。
940601 広島市平和記念資料館の東館、開館。
9408 広島市教育委員会、アジア13カ国・地域の歴史教科書の収集・翻訳事業の報告書「アジア諸国・地域の教科書(抜粋)」をまとめる。
941003 -16日、広島アジア大会。
940913 広島市の呼びかけによる「平和博物館会議」、原爆資料館東館で開催。埼玉県平和資料館、川崎市平和館、立命館大学国際平和ミュージアム、大阪国際平和センター、長崎国際文化会館、沖縄県立平和祈念資料館から参加。
960401 長崎原爆資料館、開館。

 

加害展示

Y M D NEWS1
87 05 18 「ストップ・ザ戦争への道!ひろしま講座」など、広島が軍都だったことを示す資料を原爆資料館に展示するよう広島市に申し入れ。
87 11 27 「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」など、広島市に、原爆資料館に「加害者コーナー」を設置することを要望。
88 05 24 大阪市立中島中学校生徒、修学旅行で来広し、西宮市の朝鮮人資料を原爆資料館に寄贈。同館長、被爆資料ではないと展示を断る。
88 08 17 旧陸軍歩兵十一連帯(広島県出身者を中心に編成)による住民虐殺のなかを生き延びた中国系マレーシア人ら(6人)、来広し原爆資料館など見学。
91 10 23 国際交流基金招請の東南アジアの新聞記者ら(9人)、来広し、原爆資料館などを視察。記者ら、原爆資料の巡回や原爆資料館への加害の歴史を展示などを提言。
94 07 04 原爆資料館東館の「前史展示連絡会」(松江澄代表世話人)のメンバー7人、東館の展示の侵略性表現は不十分と市に検討を申し入れ。
95 07 28 バーンステイン米スタンフォード大学教授、原田広島原爆資料館館長に残虐行為など説明不足を指摘。
95 12 18 長崎日の丸会、来年4月開館予定の長崎原爆資料館の展示内容について、加害展示を避けて欲しいなどを長崎市長あてに要望。
96 01 01? 長崎市、4月開館の長崎原爆資料館に日本の加害行為を説明する展示を常設することを決める。
96 02 08 長崎日の丸会、今年4月に開館する長崎原爆資料館の展示に関し、従軍慰安婦問題や南京大虐殺の常設展示を行わないように求めた要望書を長崎市に提出。昨年12月以来の申し入れ。
96 02 25 長崎市、原爆資料館の戦争加害行為を示す展示予定の資料を削除した問題で、自民党市議団の抗議で変更したのではないとの見解を、市議会教育厚生委員会で示す。
96 03 07 伊藤長崎市長、長崎原爆資料館に日本の加害責任について独立したコーナーを設けない考えを市議会で表明。
96 03 22 長崎市が原爆資料館の展示資料で、自民党市議団が内容変更を申し入れた後に、南京大虐殺などの写真の展示をしないことを決めていたことが判明。
96 03 25 「長崎の原爆資料展示を考える市民連絡協議会」と長崎県被爆者手帳友の会、長崎原爆資料館の加害行為を指摘する展示予定資料の一部が自民党市議団の抗議で削除された問題で、抗議の申し入れを市に行う。
96 03 26 長崎県平和労働センター・県原水禁、長崎原爆資料館の展示資料について、自民党市議団の要求で削除した加害責任を示す資料を元に戻すよう長崎市に申し入れる。
96 03 26 中国の有力紙など、長崎市が長崎原爆資料館に展示予定の「南京大虐殺」の写真などを自民党市議団の抗議で削除した問題を取り上げ批判。
96 03 27 長崎日の丸会、長崎原爆資料館の「日中戦争と太平洋戦争コーナー」の展示を取りやめるよう長崎市に申し入れ。29日、再度、申し入れ。
96 03 28 長崎市、原爆資料館に展示予定の南京大虐殺の写真を南京入城の写真に変更したことについて、この日在長崎中国領事館を訪問し説明する予定であったが、延期。
96 03 28 伊藤長崎市長、原爆資料館の展示をめぐり最終案としていた「南京入城」の写真を再び変更する考えを示唆。
96 03 30 伊藤長崎市長、原爆資料館の展示写真について、ビデオコーナーの日中戦争に関する映像から一コマを接写した写真に再変更する方針を明らかにする。
96 03 31 長崎市、長崎原爆資料館の開館記念式典を開催し、全展示資料を初めて公開。招待の被爆者ら約500人が見学。「日中戦争と太平洋戦争」のコーナーのビデオで強制連行などを紹介。
96 03 31 長崎県被爆二世教職員の会など、「長崎の原爆資料館の展示を問う市民集会」を爆心地公園で開催。約40人が参加。
96 03 31 長崎市、原爆資料館の開館記念式典に本島等元市長を招待せず。
96 04 05 日本中国友好協会長崎県連合会、長崎原爆資料館に対し、加害行為展示の充実を求める要望書を提出。
96 04 08 長崎市の西淳、長崎原爆資料館の展示を中国側の要求で写真を変更したことに抗議し、市政功労者の表彰状を破棄する考えを伊藤市長に伝える。
96 04 13 長崎平和推進協会、「ながさき平和講座」を長崎原爆資料館で開催。伊藤市長が「核兵器は国際法違反」と題して講演。約70人が参加。
96 04 24 長崎市の市民団体「原爆展示をただす会」、長崎原爆資料館に展示してある虐殺直前の写真は、米国の反日映画「ザ・バトル・オブ・チャイナ」の複写の一場面であることを確認したことを明らかにする。
96 04 25 中部以西の右翼団体約65団体300人、長崎原爆資料館の加害写真に対する抗議行動を長崎市内で実施。メンバー23人が同資料館を見学し抗議。-27日。
96 05 14 長崎市、原爆資料館で上映している南京大虐殺のビデオ上映をめぐる問題で「長崎原爆資料館運営協議会」を設置し、判断をゆだねる方針を明らかにする。
96 05 31 長崎市、長崎原爆資料館の「やらせ」との指摘のあった南京大虐殺のビデオ映像の調査結果を公表。「やらせ」の確証は得られなかったとの結論。
96 06 24 村上正邦参議院自民党幹事長、長崎原爆資料館の展示内容について、政府・与党連絡会議で批判。橋本首相、外務省と文部省に調査を指示。村上幹事長、25日の記者会見でも同様の考えを明らかにする。
96 06 25 長崎市、第2回原爆資料館運営協議会を開催。同市、南京大虐殺とされた映像を差し替える方針を明らかにする。26日、差し替えを実施、「疑惑映像」のビデオも展示を中止。
96 07 05 車貞述韓国原爆被害者協会釜山支部長・平野伸人韓国の原爆被害者を救援する市民の会長崎支部長、長崎原爆資料館の加害展示の充実などを、長崎市に要望。
96 07 11 長崎市、長崎原爆資料館の展示問題で、先月下旬自民党本部から転じ内容について問い合わせがあったことを明らかにする。
96 07 11 長崎の原爆資料の展示を考える会(長崎の証言の会・長崎被災協など8団体)、長崎原爆資料館の加害展示充実について長崎市に要望。
96 07 11 伊藤長崎市長、長崎原爆資料館で真偽不明の資料展示が発覚した問題で、行政と展示企画業者がそれぞれ責任を取る方向で検討していることを明らかにする。
96 07 16 長崎市、長崎原爆資料館運営協議会を開催。真偽不明の映像を使用したビデオの改訂版を上映し、来月1日からこの映像に変更することなどを決める。
96 07 24 伊藤長崎市長、長崎原爆資料館の展示をめぐる一連の混乱に伴い、江口圭一助役と田中洋一原爆被爆対策部長を口頭での厳重注意とする処分を行う。
96 08 01 長崎市、原爆資料館の「日中戦争と太平洋戦争」のコーナーで南京大虐殺関連の部分を差し替えたビデオの一般公開を開始。
96 08 19 長崎の原爆展示をただす市民の会、長崎原爆資料館に展示されている「日中戦争と太平洋戦争」コーナーの展示に替えて原爆投下そのものを批判する資料を展示するよう求める署名活動を実施。
96 09 02 「長崎の原爆展示を正す会」のメンバーら、長崎原爆資料館のビデオ問題で大失態を招いた責任は監修者が負うべきであるとして、謝礼金350万円の返還を求める住民監査を市監査委員に請求。
96 10 27 おりづる国体出席のため広島滞在中の皇太子夫妻、原爆資料館を見学。
96 10 30 長崎の原爆展示をただす市民の会(西淳代表)、長崎原爆資料館に投下不要論の展示などを求める要望書を提出。
96 11 29 「長崎の原爆展示をただす市民の会」、伊藤市長を相手取り、原爆資料館の監修者らに損害賠償を請求するよう求めた訴訟を長崎地裁に提訴。
96 12 06 長崎の原爆展示をただす市民の会、原爆資料館の展示の全面改善を求める請願を市議会に提出。
96 12 10 朱成山・南京大虐殺資料館館長(中国・南京市)ら、広島の原爆資料館を見学。「被爆原因の追究が必要」と指摘。
96 12 10 長崎市議会議院運営委員会、長崎の原爆展示をただす市民の会の提出した長崎原爆資料館「核兵器のない世界をめざして」コーナーの全面的な改善を求める請願を議長預かりとし、委員会付託を保留することを決める。
97 02 21 長崎市監査委員、長崎の原爆展示をただす市民の会が提出していた原爆資料館の展示業務を行った丹青社に損害賠償すべきとの監査請求を却下。
97 03 21 長崎市、原爆資料館の展示に「原爆不要論」に関する資料を増設する方針を明らかにする。
97 10 23 長崎市、長崎原爆資料館の常設展示に、米軍人や科学者らの「原爆不要(違法)論」などを新たに加えることを明らかにする。
98 03 24 長崎地裁、西淳「長崎の原爆展示をただす市民の会」代表らが長崎原爆資料館の展示に関連して長崎市長に違法確認を求めた訴訟の第7回口頭弁論を開廷。
98 03 24 田崎昇長崎市平和推進室長、長崎地裁での「長崎の原爆展示をただす市民の会」から起こされた訴訟の第7回口頭弁論で、長崎原爆資料館開館直前に「南京大虐殺」の写真を差し替えたことについて、自民党市議団の抗議の申し入れがきっかけ、と証言。
98 03 25 長崎の原爆展示をただす市民の会、長崎原爆資料館に対し、原爆不要論などの展示が追加されたされたことを評価する一方で、一層の充実や加害展示の撤去などを要望。
98 09 16 長崎地裁、「長崎の原爆展示をただす会」会員が、原爆資料館の展示変更に関連し、監修者2人に損害賠償をしなかったには違法として長崎市長を訴えた裁判の第10回口頭弁論を開廷。京都地裁とテレビ会議システムで結び安斉育郎の証人尋問を実施。

 

原爆傷害調査委員会年表:1945-68

CHRONOLOGY OF EVENTS. 1945-68

年月日 事項
194508-10 広島および長崎で、原爆投下直後の影響を調べる日本側医学調査班とDr.A.W.OughtersonおよびDr.Shields Wrrenを長とする米国からの科学者が合流して、日本政府より、日米合同調査団の編成が認められた。東京大学の都築正男博士の尽力により、同調査団の偉大な事業を援助するすぐれた日本人科学者90人が集まった。その調査結果は、日本および外国の学術文献に発表されている。
<未入力>
196806

出典:『1968-69年度ABCC年報』

文部省原子爆弾災害調査研究報告(1952年~)

文部省原子爆弾災害調査研究報告(1952年~)

 タイトル  収録報告集  発行者、発行年月
 原子爆弾災害調査研究  昭和27年度文部文部省科学研究費による総合研究報告収録(昭和27年12月現在)―医学および薬学編―  日本学術振興会(昭和28年2月)
 原子爆弾災害調査研究  昭和28年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原子爆弾災害調査研究   昭和29年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
  原子爆弾災害調査研究    昭和30年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原子爆弾災害調査研究   昭和31年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
  原子爆弾災害調査研究   昭和32年度総合研究報告収録―医学および薬学編―
 原水爆被害に関する総括的研究 原水爆被害に関する総括研究 [33年度報告]
  原水爆被害に関する総括的研究  原水爆被害に関する総括研究 [34年度報告]
 原水爆被害に関する総括的研究   原水爆被害に関する総括研究 [35年度報告]
放射線の影響に関する研究