19550530 | 広島平和記念館(落成式) |
19550806 | 広島平和記念資料館(完工) |
19550530 | 広島平和記念館(落成式) |
19550806 | 広島平和記念資料館(完工) |
内容 | 資料概要 | 備考 | 年月日 | |
『広島市復興青年運動史料目録』(広島市公文書館) | 1990.3.31 | |||
三菱重工広島診療所(安佐郡祇園町)での被爆者救護活動の模様 | 広島県立文書館だより(No.41、2017.3)8頁 | 垰坂道子氏所蔵文書(寄贈) | 2017.3 | |
小特集「被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-」 シンポジウムの記録 被爆60年と史・資料保存-現状と課題を考える-文献資料の観点から |
『芸備地方史研究』NO.250・251pp11-20
20060425 |
「文献資料の観点から」宇吹 暁
広島女学院大学に勤めております宇吹といいます。四年半前までの二十五年間、広島大学の原爆放射能医学研究所に勤めておりました。広島市は、一九九一年に広島市被爆建物等継承方策検討委員会を立ち上げて、被爆建物の保存を検討していました。石丸先生も私も委員でしたが、先生は、気迫を漲らせて、保存についての主張をされておりました。見識のない私は、いつも小さくなっていたので、先生をうらやましがっていました。
私は長い間、職場である霞キャンパスの戦前の建物が壊されていくことで、次第に自分たちの環境がよくなると考えていましたが、最後の一棟となった時に、初めて、ちょっとおかしいのではないかと感じるようになりました。さきほど、石丸先生の講演の中に、広島大学医学部十一号館が壊される話がありました。この情報を知ったのは、大学からではなく、広島市の被爆建物等継承方策検討委員会の担当者からでした。「おたくの建物が壊されるということを知っているか、どうするのか」と言われて非常に恥ずかしく、情けない思いをしました。内部で、保存を訴えたのですが、全く聞く耳を持ってもらえませんでした。私の原医研での二十五年間の発言というのは、この例のように、天に唾して自分にみな戻ってくるというものでした。しかし、自分のことを棚上げして言わないと行動・発言できませんので、これからの報告もそういうものとして聞いて頂ければと思います。
文献資料への関心
まず文献資料への関心の歴史に沿ってみていきたいと思います。だいたい十年間ごとに大きな変化があったように思います。占領下で広島市自身が原爆関係資料を保存することに意義を見出した一番初めはいつかということで見てみますと、一九四九年一月二十九日付で広島市が出した「原爆関係資料の提供依頼」が、私の確認した限りでは一番古いものでした。それまで市政要覧に載せているのだけれども、それ以上の情報を国内外から求められるということが契機であったようです。これの流れだと思いますが、翌年八月六日には『原爆体験記』が出されます。この年というのは、全国的にも非常に重要な年だと思います。この前年くらいからある一部の人達が、原爆関係の事実というのを我々がきっちりと認識すべきではないかという声を起こし始めています。一例をあげますと『原爆の図』の赤松俊子さんの証言ですが、原爆で建物がやられただけではなく自分たちの精神状態も呆けていた、体験したものとして何かをやらなければいけないと思ったのが一九四八年で、それまでは空白状態であったと書いています。
戦前教員をやっていた山崎与三郎という方が、戦後、御幸橋のたもとのところで古本屋をやっておられました。私が大学卒業後広島のことを知りたいと思った際に初めて名前を知った人です。ぜひご本人に会いたいと思い伺いました。その後、山崎さんが一九四九年に自筆で書かれた「平和記念都市建設法案」を、たまたま広島大学図書館の片隅で見つけました。これは、未整理だったので今どうなっているのかちょっと心配です。「原爆に倒れん人も安らかに、平和の光受けて眠らん」。こういうように自分で書かれており、原爆資料を収集する必要性も主張しておられます(表1参照)。非常に大きな構想ですが、その中へ原爆資料の保存・調査・収集というのが入っており、山崎さんは一生かけてこの仕事を自分自身でやられたように思います。
被爆十周年を迎えた年に、広島平和記念資料館が開館します。立派な建物が出来ましたが、中身は原爆資料保存会が提供するという形で出発しているようです。資料そのものは、行政の中にも、或いは市民運動としてもあまり大きなものはなかったのです。例外的な動きはあるものの、これ以後広島市は、建物を建てることには一生懸命になりますが、中身のことはあまり本気で取り組まずにきていると思います。原水禁運動も、被爆十周年から非常に大きな盛り上がりを見せますが、資料への関心は薄かった時代と言えます。
それでは、原爆資料、被爆資料に社会的に関心が持たれるようになったのはいつからだといえば、被爆二十周年からだと思います。それの先導役を務めたのが、談和会という団体で、中四国の大学教員を中心に大学人の会というのができていたのですが、そのメンバーの一部の人たちが立ち上げています。それは、一九六四年のことで、政府にきっちりと何か動いてもらおうという被爆二十周年へ向けての新たな動きが起こりました。私はこれに直接関わっておりませんが後でこの動きを知りました。後で紹介するように、非常に大きな仕事をしています。
マスコミも、被爆二十周年の報道で、早くから本格的に準備を行ない、企画ものなど様々な形で原爆被害を取り上げました。たまたま、地元の報道機関で最も多量の報道をした中国新聞社が、これで新聞協会賞というのをもらいます。これは、日本の報道で非常に優れたものに毎年与えられているものです。原爆関連の報道が、この対象として認められたことは、他の新聞社なり中国新聞社自身のその後の報道姿勢に大きな影響を与えたと思います。平岡敬さん、大牟田稔さんなど、その後の広島市政に大きな影響力をもつ人たちが育っていったのも、二十周年の原爆報道の中であったと思います。
私は、それまでも原爆報道というのはあるのですが、八月を迎えるにあたって原爆を報道しなければいけないという恐怖観念がマスコミに生まれたのは被爆二十周年だと思います。翌年、NHKが「爆心半径五百メートル」という番組を放映して、これがきっかけで原爆爆心地復元運動というものが起こりました。これは、今日まで引き継がれている動きです。同じ年、原爆ドームの保存運動も起こっています。
原爆爆心地復元運動というのは、行政なり或いはNHKの企画を引き継いだ広島大学の原医研或いは広島市原対課などが主体であって、個人や市民のエネルギーをそういう場所へ吸収するという構造でした。市民自身が、資料についてきちんと整備をしていこうという動きとして一九六八年の二月に原爆被災資料広島研究会というのが発足します。私自身はこの研究会で最も多くのことを学びました。
談和会の動きに戻りますが、一九六四年に談和会が発足して、翌年には原水爆被災白書についての佐藤総理大臣への要望書を提出しています。佐藤栄作さんの弟さんは広島で原爆に遭い亡くなったそうで、今堀誠二先生がこの要請に行かれた折に、その話をされながら、この要望について正面から取り上げられたそうです。佐藤さんは、閣議でこの要請を検討するように指示したのですが、何をやったらいいのか分からず、受け止める省庁がなくウヤムヤになったとのことでした。今堀先生のご存命中にもう少し詳しく聞いておきたかったのですが、先生などからそのように伺っております。
談話会の動きなどがきっかけとなって原爆被災白書推進委員会が作られます。委員長は茅誠司、委員には、内閣官房長官愛知揆一など錚々たる人々が名を連ねております。占領期の山崎与三郎さんの想いを、今度は日本全国の学者が具体化しようとしたものと考えることもできます。この会が、翌年、政府に要望書を出しているのですが、その中では、日本の政府は世界に原爆被害についてどういうことを発信しなければいけないかということを非常に体系的に述べられています。ここでは、医学的調査とともに被爆者の心理的影響と社会的変動、富の損失についても研究するというテーマがあります。今日では、大きな災害、校内での殺人事件などがあるとPTSDのケアが必要だということになっていますが、こうした心理的影響への対応の認識は、日本では阪神大震災以後のことです。原爆という非常に大きな災害がありながら、これまで何等の配慮がなく今もないということは、被爆者対策の恐るべき空白ではないかと思っています。
原爆被災資料広島研究会ですが、私はこれに関わるととともに、この成果を随分利用させていただきました。慰霊碑めぐりなど色々なものをやる際に手がかりになりました。この会の中心人物の一人である田原伯さんは、非常に貴重な資料を沢山収集しておられ、詳細なデータを整理しておられました。今、それらの資料がどうなっているか分からないのですが、一九九九年には、JRから払い下げを受けたコンテナの中へ保存されていました。占領期の資料で非常に貴重なものをお持ちです。
一九七〇年代の前半というのは、全国的に原爆被害だけではなく戦争被害に対する関心が高まり、資料収集の重要性が様々な場所、行政や平和教育現場、市民運動の中でも認識をされた時期です。その主な動きをまとめております。
先ほど全国組織の要望書を紹介しましたが、地元の広島でも取り組む会が必要だということで原水爆被災資料センター設置推進に関する準備懇談会というのが、一九七二年の二月一日に広島大学原爆放射能医学研究所で開かれました。広島県の中からも担当者を出してほしいということで、県史編さん室員であった私が出席しました。私は、原水爆被災資料センターを国立で作ろうという運動に、最初の時点で関わっていたことになります。その翌年に平和教育シンポジウムというのも、第一回が開かれております。一九七四年には、呉空襲を記録する会というのが生まれました。私は呉に住んでおりますので、この運動の始めだけ関わっておりました。中国新聞社呉支局が、これを取材して独自に本にしました。早くから、会として体験記集を作ろうという声もあったのですが、「こういう運動というのは本を作ってしまったら終わりになるので作るのを遅らせよう」という意見があり、長い間実現していませんでしたが、今年にやっと出版されました(呉戦災を記録する会『呉戦災 あれから六〇年』)。
広島市は、一九七五年にアメリカにある被爆資料の調査を行いました。広島市が自分のところの資料だけではなく、海外に目を向けた恐らく最初の動きだと思います。この年は、被爆三十周年に当たり、日本学術会議が政府へ国立の原水爆被災資料センターを作れという勧告を出しました。日本学術会議は、こういう勧告が出たからか原爆問題に非常に熱心で、事務局長が変わるごとに広大の原爆放射能医学研究所に様子を見に来られました。ただ、広島大学の教員の中には、日本学術会議は、政府に立てつく組織であり、これが言うから実現しないのだという声もありました。
政府としては国立の原水爆被災資料センターは作りませんでしたが、一九七四年に広島大学原医研内に原爆被災学術資料センターを設置します。それまで医学標本だけを集める医学標本センターがあったのですが、それに医学関係資料だけではなくもっと広く資料を収集しようということで予算と人員をつけました。私は、この措置により、そこに就職することができました。国立の原水爆被災資料センター設立運動に関わった人たちからは、この措置に対する強い批判がありました。なぜかといえば、自分たちの運動がこれでごまかされたというものです。先ほど、運動というのはまとめが出ると終わりになるという意見を紹介しましたが、もう一つ組織ができるとだめになるところがあります。原医研に資料センターができたことで、一般的に資料への関心が薄まったように感じています。この運動に関わった人たちの中には、自分の仕事を片方で持ちながら今日に至るまでずっと原爆被災の基本に関わる運動・仕事を続けている人が少なからずいます。彼らに比べ私は非常に恵まれた立場にあったのですが、私もこの運動に関わっていたので、非常に肩身が狭いというか、つらい思いを、原医研へ勤めている間しばしば感じていました。
被爆四十周年前後から新たな動きが起こります。一つは、被爆者団体による原爆手記の出版、証言活動が非常に活発になりました。被爆者自身が、自分たちの声をみんなに伝えようという運動です。これは、四十周年に際立って高まります。もう一つは、広島市、広島県、厚生省といった行政機関が被爆資料に対する取り組みを始めます。まず、原爆手記集を見ていきます。一九八五年が被爆四十周年ですが、この一年間だけで二百冊を超える原爆手記を載せた本が出版されました。その多くは自費出版です。被爆四十年当時には、この事実を分かっていたわけではないのですが、次第に明らかになったので、どの程度の規模なのか、なぜこれほど手記が出されるのか、ちゃんと確認しておきたいと思い調べ始めました。手記集を編んだ意図として、自分たちに被爆五十周年はないのだから、この四十年を機に作っておこうという思いが随分入っております。そこで、五十年まで続かないのであれば、この傾向ががどう消えていくのか確認しておこうと考えました。しかし、消えるどころか持続し、被爆五十年には再び非常に多くの手記集がでるという現象がありました。結局、被爆四十周年から五十周年までずっと原爆手記の収集と分析を自分の仕事中心に据えることとなりました。その結果、一九九五年までの五〇年間に三万七七九三件の手記を掲載する三五四二点の刊行物を確認しました。
もう一つの行政などの取り組みは、先ほどの石丸先生が紹介されたものと重なる部分もありますが、単に建造物だけではなくてもっと様々な形で被爆の資料に対する関心が見られました。私が関わったもので一番早かったのは、平和文化センターが一九八四年に設置した原爆被災資料調査研究委員会です。今堀先生が座長だったと思いますが、今堀先生から依頼を受けて入りました。一九八八年の中国地域データベース推進協議会は、この当時通産省がデータベースというのは今後日本の商業戦略上非常に重要だということで色々な機関に委託研究をさせたものの一環です。中国新聞社が、新聞記事データベースの総合利用に関する調査研究というテーマで引き受け、広島でデータベース化するとすればまずなによりも原爆資料ということで私が関わりました。当時、データベースの中でわが国独自のものは四分の一に過ぎず、日本は外国のものを利用するだけで発信するものが何もないほど少ないという現状がありました。取り組みは早かったのですが、しばらくは進展しませんでした。しかし、森喜朗首相の折に、インパク(インターネット博覧会)というのがあり、それ以降さまざまな機関が、資料のデータベースの作製やホームページによる紹介に取り組んでいます。
厚生省が、被爆五十年の目玉として原爆死没者の追悼施設を作るということを計画しました。色々ややこしい経緯があったのですが、被爆者対策で弔慰金を認めないかわりに、つまり被爆者手帳を持たずに亡くなった人たちに対する対策をしないかわりにこのような追悼施設を作るという形が出てきました。これに対する反対が強く中々実現しませんでした。結局、十一年かかって国立の死没者追悼平和祈念館ができることになります。広島市は、一九九四年に広島平和記念館東館を開館します。被爆五十年を過ぎた一九九八年には原爆資料館の外部委託を打ち出しました。当時、「屋上屋を重ねる」、つまり原爆資料関連施設の機能重複論が国や広島市行政の中でまかり通っていました。私自身は、外部委託でどうなるのか見当もつきませんでしたし、その問題に意見・見解を述べるつもりはなかったのですが、この「屋上屋」論を認めてしまえば歴史的な研究や資料面に対する関心が失われてしまうという危機感を個人的に持ち、自分なりに意見を述べました。たとえば、日銀を原爆文学館として活用してほしいという市民の要望に対して、市立中央図書館や広島平和文化センターと役割が重なるとの声が市の中にありました。私に言わせれば、それでは、市立中央図書館や広島平和文化センターにどれだけ原爆文学が収められているのかと問いたいということです。小泉首相(当時厚生大臣)も、原爆死没者追悼平和祈念館をどのような中身にするかという議論の中で、広島には原爆資料館があり屋上屋を重ねるようなことはないと発言しました。それでは、原爆資料館がどれだけのものなのかと問いたいということです。一九九八年二月十五日に原爆資料館の外部委託を考えるというシンポジウムが中国新聞社の会議室で開かれました。誰が主催なのかよく分からない怪しい会議であったかと思います。そこで、様々な角度からの意見が出されたのですが、私は、行政資料や個人資料などに対する配慮が市の行政にはないということ、広島・長崎両県以外の資料は広島市の手にあまるのではないかということ、それから広島市は、自らが今抱えているもの、あるいは広島市内に存在するものについては資料の収集整理保存利用体制を整える必要があるわけで、それが外部委託で可能なのかという発言をしていました。
公共機関(厚生省・広島市)への期待
被爆六十年になった現状ですが、被爆二十周年以降原爆資料についての関心が非常に高まり、その高まりが四十年間続いた結果、我々が何かを調べようとすれば様々な形で簡単に知ることができるようになっています。国立公文書館で原爆を検索すると、国の公文書など様々なものを検索することができます。中には、要審査という簡単には見せないものも含めて公開されているというはすごいことだと思います。四十年前では考えられなかったことだろうと思います。たとえば、京都大学の行政文書ファイル管理システムがインターネットで確認できます。広島で調査を行っている最中に、台風で亡くなった人の慰霊祭関係の行政文書が残っているということが分かります。
原爆資料館の委託には、先ほど述べたように、当初、抵抗感、違和感があったのですが、人的な充実がなされた結果、非常によい仕事をされていると思います。その中身は、後で高野さんの方から報告があると思います。やはり、施設があり、そこに人がつくということは、非常に大きな変化を生むのだと感じています。それに対して、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、国の施設でありながら、一体何をしているのだというのが、開館以来の私の気持ちです。国立というには、あまりにも恥ずかしいのではないかという気がしています。
今年、マスコミは被爆問題について非常に関心が高いように見受けられるのですが、その中の資料をめぐる内容は非常に少ないと思います。やはり被爆五十年で終わったのだという感を強くしています。マスコミに関する限り、報道のあり方が五十年と比較することによって一変しています。先ほど言った原爆被災実態や原爆資料への関心の低下は、マスコミだけではなくて全体にいえることだと思います。それから平和教育面ですが、ここに先生方が居られたら是非お話を伺いたいのですが小中高では非常に力が弱まっているように思います。その代わりといってはなんですが、幾つかの大学では活発になっており、広島市では「広島・長崎講座」というのを企画しています。現在の職場である女学院を例に見ても、年間を通じて何らかの形で原爆問題を取り上げています。また、被爆手記の出版活動は一体どうなっているのかということを昨年確認してみました。一九九六年以降、私の確認できた限りですので、もっと多くのものが出版されているはずですが、四百七点の書誌が出版されています。
最後に、新しい動きあるいは今後こういうものが色々な形で起こってくればいいということで幾つかの動きを紹介したいと思います。一つは、昨年出た本ですが『原爆と寺院―ある真宗寺院の社会史』(法藏館、二〇〇四年)という本です。新田光子さんという方は、関西方面の大学教員ですが、自分の実家が寺院ということで、或るお寺がどういう風に原爆に遭遇したのかというのを調べ始めたようです。中身は広島原爆戦災誌をベースにして、それに自分の個人的な関わりを加えているという本です。私自身は、広島原爆戦災誌を新たな形で作る必要があると思っています。この本は、そういう作業の一つだと思っています。次に、一昨日出版されました元大正屋呉服店を保存する会・原爆遺跡保存運動懇談会の『爆心地中島―あの日、あのとき―』も、爆心地域の事実というものを広島原爆戦災誌だけではなく、それ以後出版された手記集、あるいは今日生存している方々の証言を合わせてまとめられたものです。色々な地域を対象にこういう作業がやられる必要があると思っています。三つめは直野章子さんの『「原爆の絵」と出会う』(岩波書店、二〇〇四年)です。原爆の絵を全て見られたそうですが、見ている最中に、夜眠れないと言っていました。絵の情景が寝ても出てくるとも言っていました。この人は若い研究者ですが、広島市など様々な公共機関が集めている資料を、全部を見てみるというチャレンジは素晴らしいことだと思っています。この方は、この四月から九州大学大学院に就職が決まり、幸い今後も原爆問題をテーマとした研究を続けていきたいと言っておられました。
最後は、数野文明さんが、非常にマイナーで我々に見えない雑誌(『国文学研究資料館紀要 アーカイブス研究編』第一号、二〇〇五年)に執筆された「原爆とアーカイブ」という論文です。私は原爆被災で県庁の文書がすべて無くなったと教えられてきましたが、否そんなことはないということに途中で気がついていました。それを真っ向から取り上げ、一体原爆で失った行政資料はどれなのか、戦後行政の怠慢・責任で無くなった資料はどれなのかという事実関係を明らかにしています。非常に面白く読ませて頂きました。原爆問題全体について私が感じていたことですが、広島市や県の行政責任や市民自身の責任まで原爆の責任にするという広島の言説が、まま見られます。例えば占領期の問題では、アメリカ軍をみな悪者にしておけばいいというわけで、アメリカが悪かったからできなかった、占領軍が悪かったから原爆関係のこれこれができなかったという言説です。
原爆問題に関する課題は、文献資料だけを取り上げても、多くが残されています。私は、原爆問題に関心のある学生がいれば一緒に、『広島原爆戦災誌』のテキストをパソコンに取り込んで、活用していこうと思っていましたが、最近、広島市のホームページ上に掲載されているのを見つけました。広島市の当面やるべきことの一つとして、この本の改訂版の作成があると思っています。これは、何も本にする必要は毛頭なく、インターネット上でちゃんと見られるようにすればいいと思います。広島市へ全部これをきちんとやれと言っても、広島市もやることが多いし何も全部やってもらわなくてもいい。それぞれの団体、あるいは関わりのある人々がその改訂版を作っていけばいいと思います。私の場合は、今広島女学院にいますので『戦災誌』の広島女学院部分の改訂作業が、同窓会関係者や学生とともに行えればと考えています。また、折鶴の会の世話をしておられ、広島女学院中高に勤めておられた河本一郎さんの資料を原爆資料館が引き取って下さり整理されています。これらも女学院の関係者で活用させていただければと思っています。
五~六年前元の職場にいた折に、主に政府関係者に対し資料は無限にあるのだということを主張する根拠として、原爆被害関連組織の一覧表を作りました。一九四五年だけでも、三つがあります。これをずっと見ていくと、膨大な団体が生まれております。例えば、一九五七年九月十五日には原爆被害者大分県協議会というのが作られており、五七年三月二十九日には岡山県原爆被害者協議会というのが作られています。毎年、多くの被爆に関わる組織が作られてきています。これらは、資料を生んでいるはずです。そうした資料は、組織が消滅した後にどうなるのだろうか、それぞれの行動記録は残されていくのだろうかと考えると、はなはだ心もとない限りです。これは、広島、長崎あるいは関係者がやれば一番いいのですが、そういうことができないまま消えてしまうものも多くあったと思います。これらへの配慮を、国だけでは無理ですが、少なくとも全国的な運動にならなければならないといけないと思います。『広島県史』を作る折に、広島県予防課と広島市原爆被爆者対策課の資料調査をさせて頂いたことがありますが、原爆手帳交付申請書というのが保管されていました。これは、全国の各県庁にあるはずですが、恐らく広島県や長崎県を除く他県では、こういう資料の重要性を認識してもらうのは非常に難しいのではないかと思います。これら、他県にある資料を一体どうするのかということです。秋田県は、被爆者が全国で一番少ない県で、何年か前にすでに百人を切っていますが、そういった資料は今後どうなるのかということです。時間を四十分使ってしまいましたが、以上で終わります。
新修広島市史(第1~4巻)広島市役所編・刊
新修広島市史 第1巻-総説編 | 1961/02/28 | |
新修広島市史 第2巻-政治史編 | 1958/03/01 | |
新修広島市史 第3巻-社会経済史編 | 1959/08/31 | |
新修広島市史 第4巻-文化風俗史編 | 1958/12/27 | |
ローマ法王平和アピール碑 1983年2月25日 場所:広島市(広島平和記念公園・広島平和記念館)
資料
「ライオンズを探せ!@広島県・広島 村上薫元国際会長のテーマを伝えるピープル・アット・ピースの碑」(『LION 日本語版 2015年10月号』https://www.thelion-mag.jp/emag/201510/index_h5.html) | |
文献
月 | 日 | 記事 |
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02 | 28? | 広島市、西独・ハノーバーで開催予定(7月から約1月)のドイツ復興博に原爆被害写真や復興状況の統計を送ることを決める。 |
03 | 28 | 西独ハノーバー市で開催予定(5月)の都市計画博覧会に出品される東京・広島・長崎のパノラマ、東京日本橋・三越で展示。 |
05 | 01 | 京都大学で春季文化祭「わだつみの声にこたえる全学文化祭」を開催。-20日。この中で同学会主催の原爆展が開催される。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
05 | 19 | 京都大学で「原爆に関する講演会」(木村毅一・天野重安・大田洋子の講演)。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
06 | この月初め、京都大学文学部学友会の呼びかけにより「原爆体験記編集委員会」を作り、宮川裕行を中心に編集にとりかかることを決定。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) | |
06 | 09 | 京都大学の学生、丸木夫妻から総合原爆展への「原爆の図」出展の了解を得て東京から帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
06 | 10 | 京都大学の学生、広島より総合原爆展用の大量の原爆資料を持って京都に帰任。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
06 | 13 | 同志社大学「平和に生きる会」、原爆展を開催。-18日。3500人が参観。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録の「都新聞」) |
06 | 13B | 京大=原爆展を中心に全京都的な青年文化祭を行う。(「連盟通信」第101号) |
06 | 15 | 京都大学同学会、ビラ「京大原爆展を成功させるために」を発行。(「資料戦後学生運動3」) |
06 | 15 | 東京大学五月祭で展示された原爆資料が京都に到着。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
06 | 上 | 京都大学の学生、「原爆展」の準備のため広島で吉川清を訪問。吉川、上洛の意向を学生に表明。(京大同学会「京大原爆展を成功させるために」) |
07 | 10 | 京都大学同学会、原爆展を丸物百貨店で開催。10日間。 |
07 | 14 | 京都大学同学会、丸物で総合原爆展を開催。-24日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号収録「都新聞」7月21日付) |
07 | 22? | 宮川裕行(京都大学文学部学生)、広島で原爆体験の手記募集活動を行う。県庁職組、市庁職組・千田書房などを回る。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
08 | 06 | 丸木・赤松夫妻の「原爆の図」第4部「虹」、第5部「少年少女」が完成し、東京・日本橋丸善画廊で展覧会。-11日。(「連盟通信」第105号) |
08 | 17 | 高槻市・京都大学同学会、市会会議室で原爆展を開催。-19日。(「原爆展」掘り起こしニュース第2号) |
08 | 20 | 「東京平和会議ニュース」第4号、広告「原爆写真展を御利用下さい!!」を掲載。写真内容=原爆の図(16枚)、広島被害写真(5枚)、赤松丸木絵ピカドン(台紙4枚張17枚)の計38枚。 |
08 | 23 | 川崎駅前の百貨店で赤松俊子の「原爆三部作展」開催(長崎民友)。 |
08 | 23 | 赤松俊子・丸木位理共同製作「広島原爆図展」、川崎駅前・小美屋で開催。-30日。(「進む車両」1951年8月20日) |
08 | 25 | 民主主義科学者協会・新日本建築家集団・新日本医師協会・京都大学同学会、「戦争・平和をめぐる科学技術展」開催準備のため展示物の一部を占める京都大学同学会の「原爆展」を東京都港区の全銀連会館で関係者に公開。-27日。(大原社研資料) |
08 | 30? | 民科・新日本建築集団・新日本医師協会・東大職員組合、9月10日-20日の間、浅草の松屋、渋谷の東横で「戦争と平和の科学技術展」の開催を計画。(「連盟通信」第106号) |
09 | 01 | 横浜市従業員労働組合、神奈川体育館で「第1回市従平和文化祭」を開催。-5日。行事の一つに原爆絵画展(赤松・丸木協作原爆の図第1部-第5部)。(大原社研資料) |
09 | 22 | 第38回日本エスペランチスト大会。京都大学エスペランチスト会、名古屋市の区役所廊下で原爆スチールを展示。(「原爆展」掘り起こしニュース) |
11 | 01 | 大阪大学の体育文化祭で「原子力展」を開催。(「原爆の子に応えよう」520227) |
11 | 08 | 岐阜大学農学部で文化祭。-11日。自治会主催の原爆展が開催される。(「連盟通信」第116号) |
11 | 20 | 北海道・札幌市の丸井デパートで「原爆の図展」を開催。-21日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号、「女絵かきの誕生」) |
11 | 22 | 静岡大学の文化祭で「原爆展」を開催。-25日。(「原爆展」掘り起こしニュース第5号) |
11 | 24 | 札幌市警、北海道大学の原爆展会場に展示されていたパネル3枚(広島・長崎に落ちた原爆についての市民の声)を占領目的阻害行為処罰令被疑として押収。(「連盟通信」第117号、「女絵かき誕生」) |
11 | 33 | 「原爆の図」展、1950年2月から51年11月までの期間に、日本全国51か所で延べ223日間開催され、約65万人が入場。(「原爆の図」19520410) |
年 | 月 | 日 | 記事 |
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48 | 08 | ? | 夏、丸木位里・赤松俊子、「原爆の図」の製作に着手。 |
48 | 08 | 05 | 長崎市、市立博物館で原子爆弾史料展示会、開催。(~11日) |
48 | 08 | 06 | アトム・ヒロシマ写真・画展、広島市内の茶房で開催(~8日)。中国新聞社写真部松重ら5氏の写真や福井芳郎のスケッチを出品。 |
49 | 04 | 21 | 広島県観光と物産展、東京日本橋・三越本店で開幕。-28日。「平和の鐘」を展示。 |
49 | 08 | 03 | 広島市平和協会主催「浮世絵展」、福屋百貨店で開幕。-14日。 |
49 | 10 | 14 | 広島市中央公民館、全国民生・児童委員大会の協賛行事として原爆写真展を開催(~18日)。 |
50 | 02 | 08 | 日本美術協会主催第3回アンデパンダン展(東京上野・美術館)。11日間。丸木位里・赤松俊子、「八月六日」(「原爆の図」第1部幽霊)を出品。(「原爆の図」19520410、「三田文学」1950年6月、「女絵かきの誕生」19770820) |
50 | 02 | 11 | 広島市中央公民館で、原爆と平和展(広島平和協会主催)、開催(3月12日まで)。原爆関係資料展示。3月8日までの入場者数大人4273人、小人1611人。入場者収入32万2290円。 |
50 | 02 | 21 | 長崎市、日本産業博覧会(3月15日から、於神戸市)に長崎館を設置し、原爆資料など展示することを決定。 |
50 | 03 | 末 | 桃李会主催「原爆の図」展、丸善で開催。(「三田文学」1950年6月) |
50 | 06 | 01 | 共産党東京都委員会、池袋駅前で「原子爆弾写真展」を開催し、平和投票を集める。 |
50 | 06 | 21 | アカハタ、東京で戦争反対、原子爆弾の使用禁止の宣伝のため原爆による被害を示した数枚のポスターを紙上で紹介。 |
50 | 08 | 月刊誌「働く婦人」、グラビアで赤松俊子夫妻の「原爆の図」を紹介。峠三吉の詩「呼びかけ」、記者常見一の広島ルポ「原子沙漠に草萌えて」を掲載。 | |
50 | 08 | ? | 全商工本省支部が省内で開催した原爆写真展の写真が巡視により没収される。(千代田区平和を守る会「平和ニュース」第2号、1950年8月12日) |
50 | 08 | 07 | 丸木・赤松の「原爆3部作展」東京・日本橋の丸善画廊で開催。-12日。15-20日には銀座・三越で開催。合わせて9万人が参観。(「連盟通信」第68号、「日本評論」1950年10月) |
50 | 08 | 18A | 日本美術会・婦人民主クラブ・女子勤労連盟・平和を守る会、東京有楽町交通協会で、原爆3部作完成記念の懇談会を開催。本郷新(司会)、八田元夫(丸山定夫の思い出話)、淡徳三郎、武谷三男、大田洋子の話に続き、赤松・丸木夫妻の挨拶。 |
50 | 10 | ? | 民科米子支部、「原爆の図」展を開催。3500人が観覧、2500票のSアピールを集める。(「歴史評論」1951年9月) |
50 | 10 | 05 | 広島市内五流荘で原爆の図三部作展覧会始まる。5日間でストックホルムアピール署名186票。(「民族の星」1950年10月16日、10月21日) |
50 | 10 | 07 | 「われらの詩の会」、峠三吉のアパートで壷井繁治・丸木位里・赤松俊子を囲む集まりをもつ(「われらの詩」1950年12月15日) |
50 | 10 | 08 | 広島市・五流荘で「壷井・丸木・赤松諸氏を囲む座談会」が開かれる。(「われらの詩」1950年12月15日) |
50 | 10 | 20 | 広島県・上下高校の記念祭で「平和展」.会場で原爆写真などを紹介(25日まで)。 |
原爆後障害研究会で取り上げられた海外のヒバクシャ
年 | 回 | 報告者 | タイトル |
---|---|---|---|
64 | 6 | 熊取敏之 | ロンゲラップ島被曝住民の調査報告(特別報告) |
78 | 19 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第1報)-韓国被爆者検診報告 |
鄭基璋ほか | 韓国陜川郡における被爆者の実態(基礎的調査の報告) | ||
79 | 20 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第2報)-陜川郡在住被爆者の急性障害 |
80 | 21 | 石田定ほか | 韓国在住被爆者の健康状況(第3報)-陜川郡在住被爆者の疾病傾向 |
82 | 23 | 伊藤千賀子ほか | 在米被爆者の実態 |
84 | 25 | 伊藤千賀子ほか | 在米被爆者の実態(第2報)-第4回在米被爆者検診成績 |
86 | 27 | 鎌田定夫 | 在韓被爆者の現状と渡日治療問題 |
87 | 28 | 蔵本淳 | チェルノブイリ原発事故における医療の実態 |
89 | 30 | 蔵本淳 | チェルノブイリ原発事故における医療の実態(第2報)-骨髄移植の適応と再評価 |
91 | 32 | 佐々木英夫ほか | IAEA国際チェルノブイリ計画検診報告 |
パネルディスカッション:放射線被曝者医療の国際協力 | |||
平田克己 | 放射線被曝者医療の国際協力:広島県医師会の立場から | ||
迎英明 | 過去の経験をふまえての被曝者への海外協力の問題点 | ||
石野誠 | 放射線被曝者医療の国際協力:長崎における国際協力 | ||
蔵本淳 | 放射線被曝者医療の国際協力:チェルノブイリの場合(医療サイドから) | ||
河合護郎 | 医療推進事業への願いと提言 | ||
矢野周作 | 放射線被曝者医療の国際協力:行政としての立場から | ||
本間泉 | 放射線被曝と国際協力 | ||
寺崎昌幸ほか | 腫瘍登録による国際協力-長崎市医師会腫瘍統計・組織登録 | ||
93 | 34 | 竹岡清二ほか | ヒューマンカウンターによるチェルノブイリ周辺地域から来日した子供の137Cs体内放射能測定 |
難波裕幸ほか | チェルノブイリ周辺地域住民の尿中ヨード測定 | ||
武市宣雄ほか | チェルノブイリ原発事故と小児甲状腺癌-広島の原爆被爆者例と比べて | ||
武市宣雄ほか | 広島の胎内原爆被爆者にみられた甲状腺癌の経験、チェルノブイリ原発事故の胎内被爆症例も含めて | ||
佐藤幸男ほか | WHOのInternational Program on the Health Effects of the Chernobyl Accident (IPHECA) のプロジェクト “Brain Damage in Utero” 紹介 | ||
94 | 35 | 久住静代ほか | チェルノブイリ原発事故による広域放射能被曝の心理的影響(国際シンポジウム報告) |
島崎達也ほか | チェルノブイリ原発周辺住民の内部被曝線量の測定 | ||
伊東正博ほか | チェルノブイリ原発周辺地域における小児甲状腺疾患の形態学的検討 | ||
瀬山敏雄ほか | チェルノブイリ事故汚染地域における小児甲状腺癌の遺伝子変化 | ||
高木昌彦 | セミパラチンスク医科大学における第1回国際会議(環境・放射線・健康)の報告 | ||
95 | 36 | Raphail Rozensonほか | セミパラチンスク住民における電離放射線被曝の発癌におよぼす影響 |
伊東正博ほか | チェルノブイリ周辺地域における小児甲状腺疾患の組織学的検討 | ||
武市宣雄ほか | セミパラチンスク核実験と甲状腺癌、1994年の調査結果 | ||
芹沢潔人ほか | チェルノブイリ原発事故後の周辺地区における小児甲状腺疾患と137Cs体内被曝線量 | ||
高木静子ほか | HIBAKUSHAの医療と福祉 | ||
96 | 37 | 伊東正博ほか | 穿刺吸引細胞診からみたチェルノブイリ原発周辺地域での小児甲状腺疾患の特徴 |
芹沢潔人ほか | 小児甲状腺癌:チェルノブイリ原発周辺地区と本邦症例との比較 | ||
97 | 38 | 藤田委由ほか | National Death Index (NDI) による在米被爆者の追跡調査 |
伊藤千賀子ほか | 在米被爆者検診内容に関する検討-原死因・死亡時年齢の分析 | ||
芹沢潔人ほか | チェルノブイリ周辺地区における小児甲状腺疾患:スクリーニング5年間のまとめ |
原子爆弾後障害研究会(第1回)
1959年6月13日-14日 於広島市平和記念館
挨拶
広島市長 浜井 信三
主催者を代表致しまして一言御挨拶申上げます。
本日茲に広島県・市並に広島原爆障害対策協議会共催のもとに原子爆弾後障害研究会を開催致しましたところ,御多忙中にも拘らず厚生省尾村局長,塩田先生をはじめ医学界の各先生方並に来賓各位多数の御臨席を頂きましたことは誠に感謝に堪えないところでございます。一昨年四月,原爆医療法制定以来多数の被害者の方々が健康診断及び治療等の恩典に浴し,原爆障害の将来に明かるい見透しを持つことが出来るようになりましたことは誠に喜びに堪えないところでございますが,被爆後十年を経ました今日尚原爆後障害に悩んで居る人々が多いのでありまして,原爆の惨禍は今尚存して居るのでございまして,現在原爆障害対策に就きまして二つの問題があると考えるのでございます。その一つは原爆障害者の生活援護の問題でありましてその点につきましては今後皆様方の御理解と御援助によりまして何とか解決の道を見出すべく努力を続けて参りたいと存じます。今一つの問題は原爆障害についての医療的研究と治療の問題でございます。その意味に於きまして被爆者は勿論,行政の衝に当ります県・市といたしましても本研究会に期待するところ極めて大であると思うのでございます。幸い,関 係者の皆様方の絶大な御支援と御協力とによりまして,本日此の研究会を開催する運びに到りましたことは誠に喜びにたえません。私達関係者は此の研究会が今後の原爆障害者の医療に新生面を拓き,今尚この障害に悩んで居る人々に明かるい希望を与えるきっかかけとなりますように念願致してやみません。最後に,本研究会開催に当りまして厚生省をはじめ各方面から寄せられました特別の御好意に対して厚く感謝致しますと共に今後一層の御指導,御鞭撻を腸りますよう重ねてお願い致しまして御挨拶と致します。
挨拶
厚生省公衆衛生局長 尾村 偉久
本日は県・市・原対協三者の主催で我々厚生省はじめ長崎関係等後援申上げまして,本研究会が会の大きさこそささやかでございますが,非常に斯界でも質的に貴重な意義のある研究会が本日発足致しまして非常におめでたいことでございます。心より主催者に対しまして敬意を表する次第でございます。14年前に多数の原爆による死没の犠牲者を出し,更に二十数万,約三十万に及ぶ負傷原爆被爆者の生存者が居られるわけで,その蔭には10年以上,公の点では国の政策に於ても必ずしもうまく行っておらず,地元のそれぞれの団体の御協力によりまして細々とこれらの救済が続けられておったのでございます。非常な熱誠ある御努力によりまして,32年から原爆医療法が施行されまして,国費を以ての或る程度の医療の道が開かれて更に原爆医療に対する審議会が設けられまして,斯界の権威者を網羅してこの医療を全うするための御協議や審議が続けられて軌道にのせるべく進んでいるのでありますが,しかし何といたしましても之等の被爆生存者の方々に対する国なり国民の願いは最もよい,適切な治療を速かに施して早くなおして頂き,立派な一般の社会人として100%の生活を続けて頂き たいというところにあるのであります。ただ何といたしましてもこの病気が或はこの負傷が世界でも初めてのことでございまして,それ以前にすでに我が国はもとより世界各国で確立された治療法なり医学的のまとまった意見というものが必しもなかった。むしろ過去十四年間にそれぞれ地元の関係の方々或いは市全体のこれに関係をもたれた方々が経験によりましてつみ重ねられて来られたことが現在においてもそれが一つの治療に対する最も高ろ意見であろうと,かように思われるのであります。むしろまだ治っておらない,これらの多数の被爆者の方々の適切な医療をやるには過去の個々に積まれた意見をこのさいにお互に示し合ってその綜合の中からまた新たな点をみいだす。或いは今後もお互いに研究しながら生じて行く方向につきまして相互に認識し合って速かな進歩を来すということはこれからは国内の被爆者にとって一番必要なことであると同時に,これが将来の原子力の平和利用に基きましての色んな障害が予想されるのでありますが,それらに対しましてもこのような会に於けるまとまった意見というものは斯界にも非常に貢献することは疑いないと信ずるわけであります。さような意味で, お集まりの方々は恐らく2~300人の関係の学者の方々であろうと思うのでありますが,此の学会の結果如何によっては学会それ自身を権威し,或いは協議会というようなところが,大いにお世話をされてそれぞれの学者の発表を充分うまく利用されて非常な力をいたされておる。さらにもう一つは一番被害をうけられた市の土地,地元のしかも爆心地に近い地でこの研究会が行われるということは恐らくやはりこの会場の下でも相当の犠牲者の方々がここで死なれておられる。かようなことも非常な特徴でございまして,更に全国にわたりまして家族を含めて数十万以上の直接のこの治療がどうなるかということについて関心をもたれている方々が,この二日間の小さい乍らも学会を非常に注目しておられる,とこう信ずるのであります。これは従来の一般の学会とは非常な性質も違い,その大きさは小さくとも質的に非常な重要性をもち又,今後もますます発展すべき含みをもっている学会であろうしさような意味で本日,スムースに発会出来ましたことを大いにお祝い申上げると同時に我々と致しましても国が今後原爆被災者に対する医療行政をやるのに,この発会の成果は直ちに,利用出来,利用という と具合が悪いですが,反映して適切な行政に裏付をするということがあとに続いているのであります。さような意味でも厚生省といたしましても,大いにこれは関心をもつと同時に御協力申上げなければいかんわけであります。さような意味でお祝いを申上げると同時にみなさま方の熱心なノーリツ的な御検討を心からお願い致します。よい成果を被害者のためにお出し下さるようにお願い致しましてお祝いの言葉と致します。
挨拶
原爆後障害研究会名誉会長 塩田 広重
(略)
祝辞
広島医学会々頭 田坂 三友
(略)
経過報告
準備委員会副委員長・原対協副会長 松坂 義正
ここに本日及ぴ明日にわたり、原子爆弾後障害研究会の開催に至りました経過の概要を御報告申上げます。
御承知の如く,我が広島市におきましては,昭和28年1月県・市当局,医科大学,在広官公立病院,県・市医師会,及び本市各層有識者によって,広島原爆障害対策協議会を設立し,爾来原爆症に関する治療研究,及び障害者に対する治療の国費支弁獲得に努力致して参りました。ついで原爆症研究に対する公的の会日,昭和28年11月,国立予防衛生研究所に原爆症調査研究協議会を,広島・長崎に於ける関係者及び中央の諸家により構成設置され,29年5月,第五福龍丸ビキニ問題発生により同年10月,前の協議会を発展的に解消されて厚生省に原爆被害対策調査研究連絡協議会の第5部会として,広島・長崎部会となり,其の間数回現地でシンポジウム又は学術報告などを開催され,昨年広島県医師会特別委員会に於てもシンポジウムを開催いたされていたのであります。
一方被爆地としての県・市当局,原対協は,障害者医療費等の国費支弁につきしばしば政府や国会に陳情しておりましたところ,政府は昭和32年3月原爆医療法として国会に提案し,その可決により同年4月より被爆者の健康管理及び治療は,国の施策により行なわれることに相なり,爾来医療法の施行2年余に及びましたが障害者がその恩恵に浴するところ少なしとしないのであります。
他面,被爆者の健康管理の向上,治療法の究明j,援護などの諸問題,等々の研究は一日も怠り得ざる重要なる基礎であり,これらについて諸家の研究にまつ所尠からずと信ずるものがあります。被爆地広島・長崎においてもその研究の学会を開催して解明に努力してはおりましたが,かつて原爆医療法を推進して頂いた参議院議員在任中山下義信氏が、厚生省当局に対しこの研究治療等は学会のゆるがせにすぺからざる事を以てその開催の緊要なることを強く献言いたされ,厚生省当局に於かれても,かねての宿願でもあったので,原爆医療審議会に其の議を諮問し,その賛同を得られ,且つ諸般の協力を約束されよって広島県・市に其の開催を要望されたのであります。
茲に県・市は多額の予算を計上し原対協と共に本会開催の運びとなり地元に於ては本年3月関係者が一丸となり準備委員会を組織して諸般の用意をいたし,本日より開催することと相成った次第であります。
本会開催にあたりまして諸先生方が遠路のところ多数御参加,御講演いただくことは準備委員会として光栄とするところであります。以上,概要を御報告申上げます。
尚準備委員会に於きましては,本研究会の会長を,広島大学医学部長渡辺漸教授をお願いしているところであります。皆様の拍手を以て御賛成を願います。
更に今回の研究会に厚生省原爆医療審議会々長塩田先生を名誉会長に御堆載致したいと存じます。満場の拍手を以て御賛成を願います。
挨拶
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
本研究会の開会に当りまして一言御あいさつ申上げたいと思います。こういうふうな原爆の被爆による障害についての研究会は従来も開会されたことがないわけではございません,例えば日本血液学会或いは広島医学会などにおいてそれぞれ相当の時間をさいてこのことを論じたことはございますけれども,二日間にわたってそのことのみに専心して研究のデータを発表する,そして永くつづけて原爆被爆者の福祉に貢献しよう,というようなことはなかったのであります。その意味において唯原爆に起因するところの障害者そういうことの医学的の調査研究,それだけを目的とする学会としての意義は非常に深いのであります。大体原爆の投下にみられる医学的の調査研究のデータを発表致しまして,且、それについて,討議を交わして被爆者の福祉によき貢献をなすということが,この研究会の目的であることは申すまでもございません。しかしながら私は医療を必要とするという程度に至るまでにはっきりと臨床的の症候をそなえてきた,そういう医学的の障害或いは医学的の障害を蒙った人,それのみが我々の調査研究の対象ではないことを特に強調いたしたいのであります。即ち,被爆者の病理のみ ならず,その健康管理についても我々は重要に努力しなければならないのでございます。かくして被爆者の健康管理は完全に行われるのでございまして,被爆者の健康の擁護ということが最も大切な命題であって,ひいてはこのことが後障害の発現の防止にも寄与するものと信じております。被爆者にすでに発現している後障害の治療をすることが大体,医療法制定の主旨でございますが,単に治療のみでなく健康の保持乃至は発病の阻止という点までずっと一貫した措置がとられなければならないのでございまして,こういうような,はなればなれにその措置がとられるということでは,不充分でございます。従ってそのためには原爆被爆者に見られるいかなる自覚的障害も,又生理的にさえみえるその因習に対する反応の態度も一々刻明に記載され、且つ提示される必要があるのでございます。今日我々の知識では原爆被爆者にみられる障害のあるものを,被爆と関連のないもの或いは少ないものとして見逃しておるかも知れませんが,我々はこうしたことをはっきり記憶しておく必要があると思います。そしてその集積されたものの解析と総合によってはじめてかかる障害が如何なる理由で原爆の放射能との 因果関係があるかをはっきりと認識して行けるのであります。どうかここにお集まりの皆様方も,そうした態度でこの問題にとりくんでいただき,原爆被爆者の健康が之以上に障害されないように適切な対策が樹立されることを望んでやみません。そして本研究会が被爆者自身の幸福のために医学的に役立つことを第一に且最も重要な目標としてテーマを掲げられんことを切に望むものであります。終りに遠路はるばるおいで下さいました講師の方々,多忙な時間を割いて参加下さいました参会者の各位に,厚く御礼を申上げ本研究会の今日の成立までに尽力された方,準備委員の方々に深い敬意を表する次第でございます。プログラムの時間が非常にぎっしりつまっておりますので,どうか講演なさる方々だけでなく,更に御参加の方々も御意見をお聞かせねがうことも非常に重要な問題でございますので,そういう討論の時間を犯さないように尊重してやって下さるように演者の方々にも御願い致すとともに,皆様方の隔意ない御討議,御意見をおきかせ下さるようお願いする次第でございます。
閉会の辞
原爆後障害研究会長 渡辺 漸
一言閉会に当って御あいさつ申上げたいと思います。只今,主催者である県知事或いは広島市長も居られませんので,私から代りまして御あいさつ申上げたいと存じます。昨日及び本日の二日間に皆様方に色々と御話をねがいましたが,此の学会の成果と致しましては,やはりこの二日間に皆様方が原爆の後遺障害というものの全ぼうを略把握された,そういうことが最も有益なる収穫であったのではないかと考えます。但し只今も或いは二日間のその間にも皆様方,色々と御話しになったのでありますが,原爆被爆者においては,やはり,一見何でもないようにみえておっても,その予備力というものは非常に低下しておるのでその取扱いには慎重な注意を要するということが,最も大切なことでありまして,殊に今日治療の方面に於きましても,ここにシンポジウムに参加された方々が,ていねいに色々な治療法についてお示しになりましたけれども私はこういう治療法の施行に当っては,やはり薄氷をふむ思いでやって頂きたいということを痛感するものでございます。あまり治療にねっしんの余りに,そういう治療法を乱用されるということは被爆者にとってはむしろ有害でこそあれ決して益のないこ とでありまして,どうかそういう治療に当っては,いやが上にも慎重になすって頂きたいということを私も臨床医家ではございませんけれども特に,ここに御参集の指定医の皆々様,並びに他の方々におねがい致しておく次第でございます。この会は非常に予期以上の成果を挙げ得ましたが,これはわざわざ遠路参加して頂きました講師の方々,又昨日今日に此の会に参加するためにおいで頂きました,一般の参加者の方々の御協力によるもので,深く感謝する次第でございます。こういう成果はやはりこのままにしておいてはいけないので,これを記録に致しまして,出来るだけ早い機会に皆様のお手元に届くように,又,必要に応じましてはそういうものを実費頒布か何かの形式で頒布いたしまして,少なくとも今日いらっしゃる方々の御目にとまるように,又利用出来るような形にいたしたい所存でございます。それから,この学会は,やはり中々そういうデータが集まるのが難しいとは申しますものの,やはりたえず我々勉強して行かなければならないのでございまして,ひきつづき来年も,こういう研究会を催したいのでございますが,それは御迷惑でございましょうけども広島と肩を並ベ,或いはうれ いを共にしているところの長崎において開催していただくように我々はおねがい致したく存ずる次第でございまして,又ほかの方々の御意見でも,そうしたらいいだろう,ということでございますし,長崎の方々には,これには多分の負担を感じられるかしれませんけれども,どうかそういう負担を原爆被爆者に免じてお担い下さいますよう,重ねて私から御願い申上げる次第でございます。これを以て閉会の御あいさつとさせて頂きます。