『月刊中国』(中国新聞社刊)
創刊号 1946年5月1日 |
原子爆弾記念号 1946年5月1日 |
止
『月刊中国』(中国新聞社刊)
創刊号 1946年5月1日 |
原子爆弾記念号 1946年5月1日 |
止
『もう一つのヒロシマ』(御田重宝著、中国新聞社、19850706)
内容
章 | |||
はじめに(山本朗<中国新聞社社長>)1985年7月 | |||
1 | 長い一日 1 | ||
7時9分B29接近/朝は静かになったが/疎開作業へ社員出動/3ヵ所へ天候観測機/B29、福山湾へ向かう/運命分けた朝の行動/警報発令に参謀迷う/落下傘目撃後に閃光/ニジとともに原子雲/瞬間、1万度の高熱が/信じられぬ現象続々/飛散物を伴い“黒い雨”/火球、中国新聞を襲う/惨状にわが目を疑う/郊外へ続く半裸の列/義勇隊員の大半即死/古材の下敷きで焼死/炎の中で同僚と握手/一瞬周囲が暗やみに/ぼう然と火災見送る/わが子は家の下敷き/社員の連絡所へ急ぐ/火炎くぐり 社目指す/社はすでに火だるま/3人、肩抱き合い避難/自宅は被爆者で満員/荷車に二人乗せ歩く/警報の度に軍指令部へ/写真を…報道班員直感/撮影に20分ためらう/3枚目は涙で撮れず/マッチ爆弾かと疑う/世界初の”原爆写真”/高熱…社内に入れず/「音のない世界」体験/京橋川船上で黒い雨/一挙に社員113人失う/市内に入り直後に大雨/単身 炎の街突っ切る/やけど押し 社へ走る/1枚の布団で命拾い/中央放送局も犠牲に/勤務交代前、警報ベル/警報を放送中に爆風 | |||
2 | 原爆第一報 63 | ||
現在も なおあいまい/焼却された軍機課類/「8時30分」には疑問/呉鎖守府から調査隊/特殊爆弾の疑念わく/全滅・・・指揮能力失う/暗号打電 翻訳遅れる/新聞発表は7日午後/四国・九州・福山に連絡/9時過ぎ「全滅」の連絡/自転車で広島へ急ぐ/入市やめ原放送所へ/岡山の局と連絡つく/「死者およそ17万人/「大げさでは」疑う軍部/船を雇い広島市入り/両岸、救援叫ぶ被爆者/日発「搬送電話」を利用/出張で被爆、惨状報告/軍管区指令部も壊滅/縮景園に火勢広がる/8時20分過ぎに発信/7日未明に新聞発表 | |||
3 | 再建への鼓動 95 | ||
「社員と家族を救え」/トップの苦しさ自覚/代行印刷依頼に奔走/総監府通じ代行依頼/船舶司令部通じ連絡/印刷機能壊滅を確認/軍通じ代行印刷打電/臨時県庁で情報収集/人材喪失、印刷に痛手/応召の編集局長 不明/カギを握る朝礼時刻/つかめぬ中尉の行動/緊張の作戦室で徹夜/当直済ませて自室へ?/庁舎で仮眠中、被爆か/夫人先頭に市中捜索/悲壮感漂う“再建本部”/社員の容体を案じる/幹部、相次ぎ被爆死/支社局から次々応援/尾道港で「壊滅」聞く/救援トラックに便乗/尾道に戻り救援活動/トラック“徴発”救援へ/被爆者に乾パン配る/被爆者乗せ救護所へ/「知事布告を報道せよ」/「布告」が報道第1号に/焼け残った部屋発見/民心の安定へ口伝隊/道路わきに死体の山/被爆米兵捕虜を目撃/避難阻まれ被爆死も/即死まぬがれたが…/切れた新聞社専用線/電話線ほとんど壊滅/陸軍主導で原爆隠し/「ピカドン」呼称広まる/軍部に「硫酸爆弾」説も/「爆心は護国神社上空」/ラジオ・ゾンデ発見/陸軍・大本営も調査隊/「ト声明」に仁科氏衝撃/「原爆」と正式に認める | |||
4 | 原爆の投下責任 151 | ||
ポツダム宣言を“黙殺”/ソ連参戦の報届かず/アイクは使用に反対/ソ連参戦防止を狙う?/「東西冷戦」絡み?作戦/宣言受諾条件で紛糾/海相、外相は降伏主張/閣議に長崎被爆の報/ポ宣言の受諾決まる/スイスなど通じ公電/軍主戦派と押し問答/10日夜に「受諾」放送/海外へは受諾流れる/陸相布告 掲載を強要/和平派殺害の計画も/「国体護持」を米が論議/米回答文、12日に通達/米回答の翻訳で粉糾/米ソ対立が引き金/終戦引き延ばしが致命/御前会議で終戦決定/天皇自ら詔書ご加筆/14日、全国へ「内密電」/録音盤から天皇の声/使節団、マ司令部へ/米側、厚木入りを通告/マ元帥迎える星条旗/占領軍批判はタブー | |||
5 | 輪転機を回せ 189 | ||
9日、代行印刷紙届く/疎開機器の整備急ぐ/川手牧場と疎開交渉/「一県一紙」で重い責任/増加部数印刷に苦慮/温品移転やっと軌道/社員自ら組み立ても/新聞資材も分散疎開/20日ごろ工場へ送電?/20~30人集まり再出発/突貫工事、工場建てる/9月3日付から印刷/壁新聞用紙は軍提供/地下ごうの紙 役立つ/温品ではテント生活/代行紙、2駅で仕分け/「新聞復興に死力注ぐ」/「あの日」胸に社員連帯/各紙に「70年不毛説」/不毛説を医学者否定/悪戦苦闘…損紙の山/新聞見て社員“出社”/調子上がらぬ試運転/苦労した「紙型」取り/太陽光線で写真製版/活字は捨てず再使用/社報でも原爆の特集/再建へ意欲みなぎる/復員姿で社屋に直行/復員の日、温品印刷成功/分担超え紙面に情熱/米人記者と一問一答/原爆症に医学界混乱/医学論文の公表禁止/社の動き「日誌」に克明/10月26日に採用試験/「米兵の犯罪」を報道/「同盟」に業務停止命令/「同盟」が自主解散通告/検閲受け送信再開へ/声高に「平等」を否定/厳しい事前検閲開始/客観報道促す一面も/GHQ、混乱する路線/23年12月に検閲全廃 | |||
6 | またも試練が 251 | ||
枕崎台風が広島直撃/「不毛説」弱めた台風/“温品版”最後の報道に/輪転機は被害免れる/温品工場の機能マヒ/流川での再建を決意/代行印刷、朝日へ依頼/自力再生を迫られる/全社一丸で題字守る/代行印刷、西部毎日も/京大の調査班も被災/訃報、3日後に京都へ/被爆調査資料も失う/100人が本社ビル清掃/温品の輪転機を解体/東洋工業菜が技術協力/「復興資材部」を設置/資材払い下げに奔走/移転の前日に慰霊祭/撤回された発禁処分/天皇会見で特報発行/「戦争責任」で陛下回答/本社員214人でスタート/ガス会社に鋳造機搬入/バタンコで活字運ぶ/復興財団に資材依頼/「特報中国新聞」に改題/巻き取り紙捨てられる/米軍駐留のとばっちり/社員総出で搬入作業/巻き取り紙に無情の雨/進駐軍用に慰安施設/用紙収容に米軍脇力/マツタケ狩りで一息/「共販制」16年末に発足/連盟に情報局が圧力/一県一紙体制を強行/「相互援助」で発行継続/25年まで共販制存続 | |||
7 | うなる輪転機 303 | ||
東洋工の技師が視察/社長同士で移設契約/社長が訪れ運搬依頼/人使いのよさ見込まれ/運搬方法に知恵絞る/馬車使い本社へ運搬/難題だった定盤輸送/まくら木で道直し運搬/悪路のうえ雨までも/横転防止へ24人“伴走”/午前4時に本社到着/組み立て班、泊まり込み/11月5日「流川第1号」/東洋工業に1200円謝札/本社体制作りも着々/11月1日、新体制発足/進駐軍検閲係が来社/進駐軍の検閲を報道/板張り編集局に熱気/自力発行に緊張・興奮/裸電球の下鉛版セット/労苦報われ社員歓声/復興ぶり克明に報告/衣食住の補給訴える/建設目標は1日100戸/苦難超え原爆報道貫く | |||
[年表]新開・言論関係/原子爆弾関係/国内、戦争関係 339 | |||
[人名索引] 346 | |||
あとがき (尾形幸雄<編集局長>)1985年7月 | |||
(カット絵:金崎是) | |||
注: 中国新聞社被爆40周年企画「もう一つのヒロシマ」(連載259回、期間:1984年7月1日~85年3月23日) |
止
『ドキュメント中国百年第3部-重い軌跡』(中国新聞社(編)、浪速社、1968年5月27日)
内容
章 | 見出し |
1 | 空行かば |
山本長官の戦死/元師につづけ/色あせたノート/魂の記録/土浦/海軍航空隊/玉砕の悲報/悪化する戦況/感激の初飛行/死生観/硫黄島/血戦/夢まくら/戦死公報/悪魔のつめ跡/看病日記/英霊/防人の歌/ | |
2 | 学徒出陣 |
/冷たい秋雨/死の影/精神の軌跡/国家と青春と死と/高速戦艦/「榛名」/海の城井沈没/生き残った者の怒り/ | |
3 | 必死必中 |
/「回天」誕生/訓練開始/初の殉職者/和田稔の日記/菊水隊の戦果/死との対決/生還者/死と生と/読経の日々 遺族めぐり/望郷の丘/全軍特攻/連続と断絶/ | |
4 | 民族のどうこく |
/霧の島//敗戦の日/正義を信じて/暗い不安/モロタイ島/重労働と虐待/東京裁判/原爆投下問題/報復/残虐の証言/暴行/死の行軍/屈辱の体罰/涙雨 /近づく最期 /絞首台の祈り/良心と真実/巣鴨入り/獄中からの手紙/マヌス送り/四年間の落差/裏切り/有罪判決/見捨てられた戦犯/いけにえ/命令と責任/ | |
5 | 原爆裁判 |
/戦勝国の不正義/歌集『人類』/「原爆民訴或問」/原爆損害求償同盟発足/失望/ビキニ事件/火の玉/未知への挑戦/原告たち/ゆがんだ社会/訴状/賠償請求の権利/食い足りぬ答弁書/政府の議声明/二つの論理/後継者/国際法違反で一致/三鑑定人の解釈/裁判官の怒り/あふれた真情/回想と反省/戦後は終わらない/ | |
6 | 民族と国家 |
あとがき(森脇幸次 中国新聞編集局長) | |
<昭和42年9月1日から同年12月31日まで、121回にわたって中国新聞朝刊に連載した「日本の血・第3部―重い軌跡」をまとめたもの> | |
<取材・執筆には特別取材班の平岡敬・阿部洋が当たった。> |
止
『消えたペン-新聞労働者の8月6日』(中国新聞労働組合編 、汐文社、19880718)
目次
頁 | 項目 | 備考 |
003 | はじめに | 中国新聞労働組合不戦の碑実行委員会 |
009 | 炎熱のもとで取材したこと | 大佐古一郎 |
019 | <記録>新聞労働者の1945・8・6 | |
相川愛子さん(21) 相原利夫さん(23) 有馬軍治さん(25) 井川勝雄さん(28) 伊藤音三郎さん(29) 石井道子さん(32) 石井諒一さん(36) 出雲初一さん(39) 今田レツさん(42) 今出良秋さん(44) 上田照子さん(46) 後チサ子さん(50) 小野一明さん(53) 落窪ミカさん(55) 神田留次郎さん(57) 本原フサヨさん(59) 北山一男さん(63) 串本誉さん(65) 桑原玉江さん(67) 小迫周蔵さん・美律枝さん(68) 小谷増夫さん(70) 河野秀三さん(72) 佐伯カメさん(84) 佐上美代子さん(77) 佐々木猪勢治さん(80) 佐瀬実さん(84) 坂本定造さん(86) 下本キクエさん(88) 下江達重さん(91) 新城朝子さん(96) 杉野勝吉さん(97) 高田久子さん(100) 竹前省三さん(102) 千葉恭子さん(105) 寺尾政之さん(107) 寺本簫三さん(108) 戸田正記さん(111) 伴谷ヤスヨさん(112) 中井ヨシヱさん(114) 中野勝正さん(115) 仲伏一之さん(118) 中村正男さん(121) 難波くみ子さん(124) 西村静一さん(126) 馬場謙一郎さん(128) 橋本令一さん(130) 桧山八重子さん(132) 平本ウメ子さん(134) 深川庄三郎さん(136) 福井ミツヱさん(137) 藤勇哲さん(140) 法安雅次さん(143) 細川儀一さん(146) 前田英子さん(148) 三木芳郎さん(150) 三田久ニさん(152) 三好友太郎さん(155) 水原智識さん(157) 宮武松三郎さん(161) 宮本軍一さん(163) 宮本澄香さん(165) 宮本藤吉さん(166) 望月慶三さん(168) 矢田茂さん(170) 保田博さん(173) 山井治吉さん(176) 山根喜美子さん(179) 山本利さん(181) 横田怐治さん(185) 横山隆ニさん(186) 吉田芳夫さん(189) 若林ツネヨさん(190) | ||
192 | 藤間侃治(合同新聞=現山陽新聞) | |
196 | <座談会>「不戦の碑」運動と犠牲者遺族取材を通して | |
204 | 戦時編集局の八月六日 | ト部清隆 |
209 | 逝ってしまった先輩たち | 兼井亨 |
214 | 原爆と私 | 下住忠 |
218 | 涙でうるんだファインダー | 松重美人 |
224 | おわりに | 浅井幹夫(中国新聞労働組合執行委員長) |
ヒロシマの記録(西本雅実・中国新聞記者)
(抄)
頁 | 見出し1 | 見出し2 | 備考(掲載日など) |
001 | ヒロシマガールズ | ||
017 | ドームの街 猿楽町 | ||
031 | 体験記53年後の訴え | ||
041 | ヒロシマの記録―遺影は語る | ||
053 | ヒロシマの記録―平和都市法50年 | ||
058 | ヒロシマの記録―遺影は語る | ||
132 | 写真家・林重男 | ||
135 | ヒロシマの記録 | ||
平和記念式典の歩み | |||
136 | ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 | ||
144 | ヒロシマの記録 | ||
平和大通り | |||
被災写真をみる | |||
147 | 原爆被災写真 1945~2003年 | ||
156 | ヒロシマの記録―原爆・平和写真データベース化 | 20040322 | |
資料館と本社共同 参加や式典2802枚 1次分を保存 | |||
157 | 松重美人さんが撮影 45.8.6全5カット 貴重な「記憶」次代へ | ||
158 | 広島平和ミッション 歴史を見つめて 中国編 | ||
167 | 広島平和ミッション 過去、今、未来 韓国編 | ||
174 | ヒロシマの記録 | ||
182 | ヒロシマの記録 原爆被災写真 | 20050802 | |
被爆の惨状 鮮明267枚 被災撮影者の会台帳の原本 中国新聞社に保存 | |||
183 | 被爆直後の市民 惨禍伝える「証言者」 | ||
原子雲 市内外から9カット | |||
193 | 被爆者運動50年 | ||
206 | ヒロシマの記録 | ||
224 | 被爆1カ付き 廃墟の映像が現存 | ||
226 | 原爆写真を追う 1945―2007年 | ||
230 | 原爆写真を追う 1945―2007年⑤ | 20070814 | |
御幸橋の惨状 | |||
231 | ヒロシマの記録―原爆写真の撮影者たち | 20070814 | |
原爆写真57人が2571枚 1945年8月6日―年末に撮影 資料館、1819枚保存 全体像が判明 | |||
232~233 | 広島原爆の写真撮影者(1945年8月6日~12月末) | ||
234 | 広島県女一年六組 1945-2008年 | ||
243 | ヒロシマの記録 | ||
新研ニュース(中国新聞労組新研部発行)
号 | 発行年月日 | 備考 |
01 | ||
02 | 19840113 | |
03 | 19840117 | |
04 | 19840204 | |
05 | 19840209 | 自治体報道への提言①兼井亨「一貫性欠ける特落ち対策」 |
11 | 19840321 | 原爆・平和報道への提言①秦野裕子「『なぜ』に答えぬ連載 多い常とう句深まらぬ認識」 |
生きて(中国新聞連載)
氏名 | 回 | 見出し | 掲載日・担当記者 | |
葉佐井博巳 | 核物理学者 | 西本雅実 | ||
1 | 原爆 放射線測定で実態追う | |||
15 | 顧みて 戦争なき世界つくろう | |||
石丸紀興 | 都市・建築研究者 | 林淳一郎 | ||
1 | 復興史研究 被爆地広島の軌跡追う | 20161206 | ||
15 | 提案 地域見つめて研究継続 | 20161227 | ||
鎌田七男 | <医師・広島大名誉教授(1937年~)> | 西本雅実 | ||
1 | 顧みて 被爆者に教えられ歩む | 20170725 | ||
15止 | 継承 広島だからこその務め | 20170815 | ||
サーロー節子 | <被爆者(1932年~)> | 金崎由美 | ||
1 | 新たな決意 廃絶へ仕事はこれから | 20180803 | ||
20止 | 核兵器 終わりの始まり | 20180901 |
中国新聞
本 | |||
『山本正房追悼録』(中国新聞社、19710815) | |||
論文 | |||
小池聖一「中国新聞・中国新聞社の戦前と戦後」 | |||
https://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/mitsubishi/mitsubishi01.pdf#search=%27%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E6%88%BF%27 | |||
単行本となった新聞連載(中国新聞)
『フェニックス広島号の冒険』(アール・レイノルズ著、三上仁
一・松元寛共訳)「中国新聞」連載(1961年10月10日~)。
「この連載記事は、今年アメリカで出版した”The Forbidden Voyage”=禁じられた航海=を、翻訳者に人を得て、日本の読者に向くよう一部改定したものです」(「中国新聞」1961.10.10)
No. | 月日 | 見出し | 備考 |
1-9 | 1010-1018 | 不吉な静けさ 1~9 | 19580409ハワイ島ヒロ港
|
10-17 | 1019-1026 | 海に立つ壁1-8 | |
18-25 | 1027-1103 | 放射能図書室1-8 | |
26-33 | 1104-1111 | 日本時間の中で1-8 | |
34-39 | 1112-1117 | 長い一日1-6 | |
40-46 | 1118-1124 | 保釈中の推理1-7 | |
47-52 | 1125-1130 | ヒロシマの日前後1-6 | |
53-60 | 1201-1208 | 試練のういしお1-8 | |
61-65 | 1209-1214 | 名弁護士きたる1-5 | |
66-69 | 1215-1218 | 科学も告発する1-4 | |
70-72 | 1219-1221 | 打ちひしがれた時に1-3 | |
73-77 | 1222-1226 | ここもゆれ動く世界1-5 | 12月12日つづき―1958年12月25日(第1部おわり) |
フェニックス広島号の冒険 第2部
No. | 月日 | 見出し | 備考 |
1-5 | 19620108- | ”地球会社”の経営陣 | 19590108 |
6-15 | 19620113- | 行為と無為 | |
16-20 | 19620124- | 広島大会は”赤”か1-5 | 、19590721、19590814 |
21- | 19620201- | けわしい再審の道 | 19590821 |
26- | 19620206 | 故意と善意1- | 19590828- |
35- | 19620216- | 青年に期待- | 19590920- |
39- | 19620220- | 国策批判の声 | 19591104- |
47- | 19620304- | 平和都市の内情 | 19600201- |
52- | 19620316- | アメリカの自由 | 19600301- |
56-57 | 19620324-0327 | エピローグ | 19610220-。―おわり― |
「広島こそ”平和”のリーダーに アール・レイノルズ氏-対談-森滝市郎氏」(『中国新聞』1962年2月14日)