『ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録 』(佐々木雄一郎写真、毎日新聞広島支局編 、毎日新聞広島支局、19770701 )
内容
| 撮影年月日 | 備考 | |
| 荒木武 | ||
| 194509 | 爆心 | |
| 1948 | 原爆ドーム | |
| <以下要入力> | ||
| ヒロシマの歩み<年表> | ||
| ヒロシマと生きて | 佐々木雄一郎 | |
| ヒロシマに思う | 山本皓三 | |
| 編集後記 | 河野通宏 | |
| 編集委員 |
『ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録 』(佐々木雄一郎写真、毎日新聞広島支局編 、毎日新聞広島支局、19770701 )
内容
| 撮影年月日 | 備考 | |
| 荒木武 | ||
| 194509 | 爆心 | |
| 1948 | 原爆ドーム | |
| <以下要入力> | ||
| ヒロシマの歩み<年表> | ||
| ヒロシマと生きて | 佐々木雄一郎 | |
| ヒロシマに思う | 山本皓三 | |
| 編集後記 | 河野通宏 | |
| 編集委員 |
『原爆死の真実―きのこ雲の下で起きていたこと』(NHKスペシャル取材班、岩波書店、20170725 )
目次
| 章 | ||
| 1 | きのこ雲の下の二枚の写真 | |
| 原爆投下三時間後の写真 | ||
| 「涙でファインダーがくもった」 | ||
| 御幸橋は壊滅地帯の出口だった | ||
| コラム① 「地獄の再現」は、証言者がいたからこそ実現した | ||
| 2 | 橋の上には凄惨な光景が広がっていた | |
| 少女は動かなくなった赤ちゃんを抱いていた | ||
| 「どこに逃げればいいのか」それだけを考えていた | ||
| 瀕死の重傷を負って | ||
| あれは「死の前の光景」だった | ||
| コラム② 私たちは八月六日、御幸橋を通った | ||
| 3 | 写真にはどのような”痛み”が写し出されているか | |
| 「科学の力」で原爆の実相を浮かび上がらせる | ||
| 人間が感じる最大の痛み、”フラッシュ・バーン” | ||
| 写真は”原爆の非人道性”を物語る | ||
| 放射線による影響は出ていたか | ||
| コラム③ 対談 熱傷の専門家×原子核物理学者 | ||
| 4 | 橋の上は、命を救う最前線だった | |
| 御幸橋は、救護の拠点となっていた | ||
| 広島に入った特攻兵を皮肉な運命が待っていた | ||
| 命の選別が行われた | ||
| 似島に運ばれて | ||
| コラム④ 水をあげるか、あげないか。それは究極の選択だった | ||
| 5 | 私は友を置いて橋へと逃げた | |
| がれきの下で校歌の合唱が始まった | ||
| 橋の上にいたのは、一〇代の少年少女たち | ||
| 最大の犠牲者は中学生だった | ||
| 悔いを抱えて | ||
| コラム⑤ 写真が写し出す”悲しき物語” | ||
| 終章 | 原爆は市民の上に落とされた | |
| 公表になぜ七年もかかったのか | ||
| 世界で唯一の写真は、訴え続ける | ||
| 「被爆の真実」は伝わっているか | ||
| コラム⑥ 差別を超えて | ||
| あとがき | ||
『NHKスペシャル 長崎 よみがえる原爆写真』(NHK取材班編、日本放送出版協会、19950830)
目次
| 章 | ||
| 序文 | ||
| 序章 | アメリカでよみがえる長崎 | |
| 写真修復計画「長崎・ジャーニー」 | ||
| 1945年8月10日、川端庸介の「長崎・ジャーニー」 | ||
| 山端写真と最新技術との出会い/クリスとジュディ | ||
| 第1章 | 長崎を記録した男 | |
| ヒロシマとナガサキ | ||
| 原爆を記録したカメラマンたち | ||
| 写真家・山端庸介の戦争 | ||
| 西部軍報道部と火野葦平 | ||
| 新たに発見された山端写真 | ||
| PHOTOGRAPHS 8・10 長崎・ジャーニー | ||
| 第2章 | 長崎・ジャーニー1 ラッキーガール、おにぎりを持った親子 | |
| 偶然の「浦上工場」/八月十日「悲劇の谷」到着/早朝の憲兵隊本部 | ||
| 少女の微笑み/「ラッキーガール」の悲劇/「さまよう兄弟」との出会い | ||
| 炊き出しのおにぎり/「おにぎりを持った親子」/優しかった母の面影 | ||
| 第3章 | 長崎・ジャーニー2 爆心地・傷つき焼かれた人々 | |
| モンペの柄から/トラックの上の炎熱地獄/爆心地の悲惨/立ちすくむ少女 平和を祈る龍さんの五十年/路面電車、生と死のドラマ 謎の「浦上天主堂」写真 |
||
| 第4章 | 長崎・ジャーニー3 救援・逃げ延びた人々 | |
| 爆心地から北へ/市役所職員奮闘す/「これは私の家だ」 道ノ尾駅の幻の看護婦/日赤第七一三救護班/胸に滲むチンク油の匂い 語ってくれた[お乳をあげる母]/二人の子を失って/写真が説明している |
||
| 〇〇 | PHOTOGRAPHS 8・10 長崎・ジャーニー | |
| 終章 | 長崎の映像は語る | |
| クリスとジュディの長崎再訪/アメリカ・原爆写真展の衝撃 | ||
| あとがき | ||
ヒロシマの記録(西本雅実・中国新聞記者)
(抄)
| 頁 | 見出し1 | 見出し2 | 備考(掲載日など) |
| 001 | ヒロシマガールズ | ||
| 017 | ドームの街 猿楽町 | ||
| 031 | 体験記53年後の訴え | ||
| 041 | ヒロシマの記録―遺影は語る | ||
| 053 | ヒロシマの記録―平和都市法50年 | ||
| 058 | ヒロシマの記録―遺影は語る | ||
| 132 | 写真家・林重男 | ||
| 135 | ヒロシマの記録 | ||
| 平和記念式典の歩み | |||
| 136 | ヒロシマ打電第1号 レスリー・ナカシマの軌跡 | ||
| 144 | ヒロシマの記録 | ||
| 平和大通り | |||
| 被災写真をみる | |||
| 147 | 原爆被災写真 1945~2003年 | ||
| 156 | ヒロシマの記録―原爆・平和写真データベース化 | 20040322 | |
| 資料館と本社共同 参加や式典2802枚 1次分を保存 | |||
| 157 | 松重美人さんが撮影 45.8.6全5カット 貴重な「記憶」次代へ | ||
| 158 | 広島平和ミッション 歴史を見つめて 中国編 | ||
| 167 | 広島平和ミッション 過去、今、未来 韓国編 | ||
| 174 | ヒロシマの記録 | ||
| 182 | ヒロシマの記録 原爆被災写真 | 20050802 | |
| 被爆の惨状 鮮明267枚 被災撮影者の会台帳の原本 中国新聞社に保存 | |||
| 183 | 被爆直後の市民 惨禍伝える「証言者」 | ||
| 原子雲 市内外から9カット | |||
| 193 | 被爆者運動50年 | ||
| 206 | ヒロシマの記録 | ||
| 224 | 被爆1カ付き 廃墟の映像が現存 | ||
| 226 | 原爆写真を追う 1945―2007年 | ||
| 230 | 原爆写真を追う 1945―2007年⑤ | 20070814 | |
| 御幸橋の惨状 | |||
| 231 | ヒロシマの記録―原爆写真の撮影者たち | 20070814 | |
| 原爆写真57人が2571枚 1945年8月6日―年末に撮影 資料館、1819枚保存 全体像が判明 | |||
| 232~233 | 広島原爆の写真撮影者(1945年8月6日~12月末) | ||
| 234 | 広島県女一年六組 1945-2008年 | ||
| 243 | ヒロシマの記録 | ||
新研ニュース(中国新聞労組新研部発行)
| 号 | 発行年月日 | 備考 |
| 01 | ||
| 02 | 19840113 | |
| 03 | 19840117 | |
| 04 | 19840204 | |
| 05 | 19840209 | 自治体報道への提言①兼井亨「一貫性欠ける特落ち対策」 |
| 11 | 19840321 | 原爆・平和報道への提言①秦野裕子「『なぜ』に答えぬ連載 多い常とう句深まらぬ認識」 |
『世紀を超えて-爆心復元運動とヒロシマの思想』(児玉克哉編 、中国新聞社、19950801)
目次
| 章節 | ||
| 序に代えて-爆心地復元運動の今日的意義-(芝田進午) | ||
| Ⅰ | 人間の復権を目指して(湯崎稔) | |
| Ⅰ-1 | 原爆被災復元調査の意味 (湯崎稔) | |
| Ⅰ-2 | 原爆被災復元の論理の構想(志水清編、金沢寛太郎・長屋龍人・湯崎稔) | |
| Ⅰ-3 | 広島における被爆の実相 | |
| 『歴史評論 NO.336』(197804) | ||
| Ⅱ | 爆心復元運動の誕生と展開(長屋龍人) | |
| はじめに | ||
| Ⅱ-1 | 被爆原点の空白 | |
| Ⅱ-2 | 「爆心半径五〇〇メートル」の衝撃 | |
| Ⅱ-3 | 「爆心復元」アイデアの源泉 | |
| Ⅱ-4 | 爆心復元の論理と構想 | |
| Ⅱ-5 | キャンペーン始動 | |
| Ⅱ-6 | 爆心復元運動の展開 | |
| Ⅲ | 爆心復元運動からヒロシマ理論へ(児玉克哉) | |
| はじめに | ||
| Ⅲ-1 | 日本現代史の縮図としての広島 | |
| Ⅲ-2 | ヒロシマの視点 | |
| Ⅲ-3 | ヒロシマと現代 | |
| Ⅲ-4 | 爆心地復元運動からヒロシマ理論へ | |
| Ⅳ | 座談会「爆心調査」からヒロシマを考える | |
| 出席者 | ||
| 青木豊子(爆心地復元調査協力者) | ||
| 鎌田七男(原爆放射能医学研究所研究員) | ||
| 高橋昭博(爆心地復元調査参加被爆者) | ||
| 長屋龍人(爆心地復元運動企画提案者、当時NHK番組ディレクター) | ||
| 渡辺正治(元原爆放射能医学研究所研究員) | ||
| 児玉克哉(三重大学人文学部助教授) | ||
| 太田武男([中国新聞]編集部) | ||
| あとがき(児玉克哉) | ||
生きて(中国新聞連載)
| 氏名 | 回 | 見出し | 掲載日・担当記者 | |
| 葉佐井博巳 | 核物理学者 | 西本雅実 | ||
| 1 | 原爆 放射線測定で実態追う | |||
| 15 | 顧みて 戦争なき世界つくろう | |||
| 石丸紀興 | 都市・建築研究者 | 林淳一郎 | ||
| 1 | 復興史研究 被爆地広島の軌跡追う | 20161206 | ||
| 15 | 提案 地域見つめて研究継続 | 20161227 | ||
| 鎌田七男 | <医師・広島大名誉教授(1937年~)> | 西本雅実 | ||
| 1 | 顧みて 被爆者に教えられ歩む | 20170725 | ||
| 15止 | 継承 広島だからこその務め | 20170815 | ||
| サーロー節子 | <被爆者(1932年~)> | 金崎由美 | ||
| 1 | 新たな決意 廃絶へ仕事はこれから | 20180803 | ||
| 20止 | 核兵器 終わりの始まり | 20180901 | ||
広島国際文化財団
1977年、中国新聞社と中国放送が広島の文化振興を目的に設立した財団法人
主な事業
| 年月日 | |
| 197807 | 街づくりシンポジウム(丹下健三、平山郁夫など) |
| 197811 | デザイン会議1978広島 |
| 197904 | ガウディ展 |
| 198008 | 増田勉ヒロシマシリーズ作品展 |
| 米国記者招請計画(アキバ・プロジェクト) | |
中国新聞
| 本 | |||
| 『山本正房追悼録』(中国新聞社、19710815) | |||
| 論文 | |||
| 小池聖一「中国新聞・中国新聞社の戦前と戦後」 | |||
| https://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/mitsubishi/mitsubishi01.pdf#search=%27%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E6%88%BF%27 | |||
閃光を背負って―原爆第一号の足跡(毎日新聞(広島版)連載1989年8月16日~9月6日
| 回 | 掲載月日 | 見出し1 | 見出し2 |
| 1 | 0816 | 署名運動 | 救済求め手を組もう |
| 2 | 0817 | 請願書 | 最初は”外注”友人に依頼 |
| 3 | 0818 | 被爆者の叫び1 | 「このケロイドを見よ」 |
| 4 | 0819 | 被爆者の叫び2 | 東京でも体験語る |
| 5 | 0822 | 被爆者の叫び3 | 被害者の会を脱退 |
| 6 | 0823 | 八・六友の会 | すべてと仲良く |
| 7 | 0824 | 抗議 | 広島の人間として |
| 8 | 0826 | あがき | 自分が手がけたのに |
| 9 | 0830 | 吉川清の思い | この”肩書”ずしりと |
| 10 | 0831 | 歩み・上 | 権利の主体へと |
| 11 | 0902 | 歩み・中 | 土産物店など経営 |
| 12 | 0902 | 歩み・下 | ぐち口にせず往生 |