平和教育校内研究会(石田講師)の概要(19701120)
資料所蔵:ピカ研 |
骨子 |
平和教育のあゆみ |
現代の世相と平和 |
平和教育の位置づけ |
平和教育の定義 |
学校と家庭 |
平和教育校内研究会(石田講師)の概要(19701120)
資料所蔵:ピカ研 |
骨子 |
平和教育のあゆみ |
現代の世相と平和 |
平和教育の位置づけ |
平和教育の定義 |
学校と家庭 |
『『ヒロシマ原爆の記録』でどう教えるか―ひろしまをすべての子らに―(試案)』
(広島県原爆被爆教師の会、197106) 所蔵:ピカ研
内容
章節 | タイトル | 備考 |
ヒロシマ 原爆の記録 | ||
01 | 指導のねらい | |
02 | 指導にあたっての留意点 | |
指導展開例(中学校) | ||
あとがき(この指導を機に発展させたいもの) | ||
図書の紹介 | ||
この映画は、1970年7月広島市民の参加と支持のもとに、広島市および地元報道機関の協力により制作された。 | ||
企画・監修・広島原爆映画製作委員会 | ||
制作:株式会社日本映画新社 | ||
共同構成・小笠原基生、松川八州雄 | ||
語り手:宇野重吉 | ||
ドキュメンタリー映画、16ミリ白黒(一部カラー)上映時間29分 | ||
<ナレーション台本>ヒロシマ原爆の記録 |
『加害基地宇品-新しいヒロシマ学習』
空辰男著 汐文社 1994 /07/10
目次
章 | 見出し | 備考 |
はじめに | ||
1 | 原爆につながっていた軍港宇品 | |
金輪島で見た火の玉 似島で叫ぶ母の呼び声 凱旋湯の子、日出子さんはまだ 若き海上特攻隊の被爆者救出 「軍港・宇品」の終結とヒロシマ |
||
2 | 「臨戦地宇品」とはなんだったのか | |
日清戦争と軍港のはじまり その頃の世界勢力と富国強兵 臨時首都(帝都)広島と神話 木口小平と正岡子規 軍港と陸軍検疫所似島のあゆみ 凱旋碑が平和碑になり得るか |
||
3 | 宇品築港の本当の目的はなんだったのか | |
千田貞暁と願いと苦難 漁場を失う地元漁民の反対運動 人造石と服部長七と功労 「呉鎮」と「海兵」と「字品」 無用の長物と士族授産の行彼 西方をみつめる千田銅像 |
||
4 | “うじな”にそろっていた自然条件 | |
仁保姫神社の伝説と港 宇品島観音寺伝説と港 三代十郎兵衛物語りと大河のり “うじな”の名の由来と港 |
||
5 | 軍港と陸軍墓地と歴史的責任 | |
離散家族・三百万人の責任 平頂山事件と撫順戦犯管理所の教え 陸軍墓地の兵士の骨と被爆者の骨 「港」唱歌とヒロシマの心 |
||
6 | 古代から年表が語る「港・宇品」 | |
広島県被爆教師の会 1969年3月26日発足
出典:「広島教育時報」第613号広島県教職員組合 全分会版 昭和44年4月5日発行
広島県被爆教師の会発足 平和教育の推進に新たな飛躍
三月二六日午後一時、教育会館で”被爆教師の会”の結成式がおこなわれた。この会の結成については、早くから問題提起がされていたが、ようやく、六八年度広教組定期大会で結成への助成が決められて軌道に乗ったもので、被爆教師にとって待たれていたものである。会員約一千名(小中学九四九名、高校・○Bは集約中)で、この日集まったのは二三支部代表である。
集会は、この運動を推進してきた石田明先生の司会ですすめられた。会結成にいたる経過報告や『原爆被爆教師実態調査』の結果が発表され、また平和教育の問題についても、教科書から次第に原爆のことが消されようとしており、教師自身の被爆体験も埋没されつつあり、小中学生が原爆のことについてあまりにも知らない‐-などの問題が出された。参会者からもさまざまな問題点や考えが出される中で、『広島県原爆被爆教師の会結成にいたる経過』、『広島県原爆被爆教師の会規約』、『四十四年度活動方針』等が承認、決定され、当面の取り組みをお互いに確認し次の役員を選出して集会を終えた。
会長石田明(広教組副委員長)、副会長空辰男(広島支部)、同大畠泰造(佐伯支部)、事務局広教組教文部。
活動方針会規約当面の取組みなどについては次のとおり。
会結成にいたる経過
昭和四三年六月、広教組定期大会で「被爆教師の会」結成を決定。七月広教組要求で、県人事委が被爆教師の定期検診を「特別休暇」とする。十月市内、周辺の被爆教師有志により、第一回準備会、市内、安芸郡内の中学校数枚で、生徒の「原爆意識調査」を行なう。十一月第18次県教研で平和教育特別分科会が設けられ、そこで「平和教育教材編集委員会」を設置するなど「被爆教師の会」の組織化の促進をきめる。四十四年一月、被爆教師の実態調査をはじめる。日教組第18次全国教研(熊本)で”原水爆問題をすべての教室で”とアピール。
広島県原爆被爆教師の会規約〔略〕
昭和四四年度活動方針
原爆で被爆した県内小・中学校の教師は、県教委の調査によると九四九名をかぞえ、(被爆手帳所持者のみ、特別手帳八四二名、一般手帳一○七名、教育事務所別では、広島五○五名、海田一八一名、可部一二九名、三原七四名、福山二九名、三次五八名)被爆しながら原爆手帳を持たない人がなお多数いると推測される。「被爆教師調査」をみても、疲れやすく、被爆による持病に悩み、更にいつ発病するかわからない原爆症におびえるなど、強い日常的要求があります。
十年前までは、子供たちは肉親や近所から原爆について聞いていましたか、今はそれも少なく学校でさえもほとんど話されていない状態です。昨年十一月の第18次教研集会では「平和教育特別分科会」が設けられ、そこで①子供たちが原爆についてほとんど知らないという傾向は、何時頃から、なぜそうなったか。②戦争の原因や原爆が投下された理由。⑥戦争や原爆は過去のもので、今は平和で幸せだといううけとめ方。④戦争をなくし、核兵器の完全禁止、平和を守る力は何で、どうしてつくるかなどについて討議し、「広島平和教育教材編集委員会」をつくることをきめた。当面、次の活動にとりくみます。
1、「被爆教師の調査」を早急に完了し、原則として地区支部ごとに支部組織を確立します。
2、これと平行して、被爆当時を語る”連絡会”を開き、体験記や、すでに使われている平和教育教材、実践記録などの資料の収集や日常的な権利要求を集約します。
3、児童生徒の意識調査を引き続き実施し、全国的にも描出調査を実施します。
4、映画「ひろしま」のプリントを再録画し、この上映運動をすすめます。